最終更新: nevadakagemiya 2021年01月02日(土) 11:06:14履歴
それは平穏たるモラトリアムの一幕であり、特に何かが起こるわけでもなく。
そう、乙女たちのパライソにして桎梏は、変わらぬ日常の象徴でもあり。
「ぷわぷわマカロ〜ン♥ はろはろー、リンカ。今日も生きてる?」
「やぁ、おはようシオネ。今日は特に元気そうだけど何かいい事でもあったのかい?」
ベランダ越しに学友同士が他愛のない会話を交わすのも、また他愛のない日常である。
……例え、片方が自室のベランダの縁に足を掛け、ゴルゴダの磔の様に背中から遙か六階下に天地真っ逆さまになろうとも。
そしてもう片方がそんな様子を止める事もなく、校則で禁止されている煙草を燻らせていようとも。
そう、これは如何様に狂っていようと日常、死人たちに許されたモラトリアムの一幕だ。
◆
〜赤々煉恋〜
◆
ああ、無為無聊。
この講義の時間は私…リンカ・アザミノにとっては至極退屈な時間だ。
かといって、受講しないのは単位云々ではなく負けた気がする。
別に勝ち負けではないとジゼル辺りから突っ込みは入るだろうけど、私自身としては別に教師に負かされたっていい。
どうせ単位は取れる。斜め聞きでも意外と覚えているものだし、何なら半分しか出席しなくても8割は理解できる。
けれど、不良などとレッテルを貼られるのはそれはそれでシャクである。
問題児しかいないこの綺羅星の園に今更不良の1人や2人増えたって大して変わりはしないだろうけど、
もう7年もすればそれなりの居場所というものも確立できている。
もう私に許された猶予も片手の指で足りてしまうくらいだろうけど、それまでは居心地良く居たい──それが私のこの学舎への思い入れだ。
などと、そう思うのは我ながら女々しいなと自嘲する。
すると、こつんと私の後頭部に何かがぶつかる。何かと思い床を見遣れば、ビー玉大に丸めた紙玉だ。
ここではスマートフォンの使用は禁止されており、もっぱら雑談したい時はこうしてメモを回すことで雑談する。
差出人の予想も付くし、私はやれやれと消しゴムを落としたフリをしてそのメモを拾い上げ、周りから見えないようにこっそりと広げた。
『リンカ、最近何か面白いホラー映画とかあった〜?』
ぷ、と吹き出す。
唐突にメモを回されて書き出しからそれだったというのもあるが、ホラーは怖いからホラーなのだ。
それを面白い、というのはちょっと一般感覚からするとネジが外れているのではないか、と私は独りごちる。
そしてノートの端っこを丁寧に四角く切り出すと、シャーペンをカリカリと走らせて同じように下手人に投げ返してやった。
『そうだね。シオネが好みそうなのだと、貞子vs伽椰子なんてのはどうかな?』
爆笑が聞こえてきた。
これはいけない、教師に睨まれやしないだろうか。
周囲のクラスメイトも困惑した顔で、それでも必死で板書の写し書きをしている素振りを続けている。
幸いにも声の主は一瞥されはしたものの教師からのお咎めはなく、豪胆にも続けてメモ書きが飛んできた。
『ぁっはははははははは。何そのB級ホラー丸出し。名前だけで笑い死にしそう!あははははははは!』
こちらの心配を他所に、実に豪胆なものである。
けれど、やはりそれでこそ差出人であるシオネ…及川汐音である、と私も安堵するというものだ。
どうせ退屈な時間である。それならば少しはこの談義に意義を見出そうと、私は続けて返信をしたためる。
恐らくはシオネが本当に聞きたかった事からは脱線しつつあるのだろうけど、なに。それもまた一興だ。
『まったく。笑い声が大きすぎてこちらも肝が冷えたよシオネ。
……あとは高速ばぁばとかね。よくあるB級ホラーと思ったら結構馬鹿にならないくらい怖い。一回見てみたら?』
『あー、そこまで怖いなら遠慮しとく。あんまだとトイレ行けなくなっちゃう。
というかジャパニーズホラー多くない? 洋モノもいいと思うよ〜?
……たとえばさ、死霊のはらわた/The Evil Deadとかどう?』
シャープペンシルの尻で頬をとんとんと叩き、ふむ、と頷く。
なるほど、死霊のはらわたときたか。スプラッタホラーの先駆けであり、勿論私も見たことはある。
メジャーもメジャーなところだが、いいところを突く。結構いい趣味をしている。
少しホラー映画談義文通も楽しくなってきたので、さらっとシャーペンを走らせた。
『リメイク版?』
『サム・ライミ版。監督に釣られちゃったよ』
ああ、と納得する。
死霊のはらわたはホラー映画好きならまず押さえる映画なので素で知ってて欲しかったが、それならば仕方ない。
『フフ。洋モノであればジェーン・ドゥの解剖やドント・ブリーズ、キャビン辺りも私としてはオススメかな。
ギミック系ならキューブ、コメディホラーならショーン・オブ・ザ・デッド。ああ、ミストもラストが個人的には好きだね』
『待ってくれたまえ、ことばの洪水をワッといっきにあびせかけるのは!』
いけないいけない。
つい楽しくなって早口気味に書いてしまった。
さて、シオネからそろそろ本音を聞き出さないと。
そうでもないと、文通なんて面倒な手段を彼女が取るはずもないからね。
『ごめんね、で、本題があるんだろう。何か言いたいことでもあったのかい?』
『さすがリンカ、ご明察。実は面白いホラー映画を手に入れてねー、是非教えたかったんだ−。
ここまでで名前が出ないかヒヤヒヤしてたけど、出てこなくて安心してた』
『ふうん。それは俄然興味が出てきたね。どんなタイトルなんだい?』
私もまだ見たことがなくて、面白いホラー映画。一体どんなものだろうか。
少しわくわくしつつ投げ返して暫く待つと、私の机の上にころんと正確に紙玉が載ってくる。
これだけ玉入れに興じていて教師にはバレていないなんて事はないだろうが、体裁として私は密かに、そしていそいそとその紙玉を開く。
……そこには、私が待ち望んだそのホラー映画のタイトルが載っていた。
『タイトルはー、【赤々煉恋】ってやつ。
貸してあげるから、後で私の部屋をノックしてね〜』
◆
シオネの部屋は私の部屋の隣、606号室となっている。
おおよそ教師にバレたらヤバそうな薬やら蝋燭やら香油やらをを売り捌く部屋となっており、
おかげで不吉な数字のせいか入居者が割合少なめなこの6階にも時折人影が見える理由となっている。
私も同じように扉越しからその映画のDVDの入った紙袋を受けとっていると、唐突に横から声をかけられた。
「リンパイ、へいよーぐっつすっす、っす! あれ、何持ってるっすか?」
太陽のような金髪に、いつもぴょこぴょこと跳ねるように歩いているのが可愛らしい子だ。
名前は────ステフだ。そう、確か、ステフだった。
もふもふとしていて、抱くと猫のように丸まって可愛い子なのだ。そうだったはず。私は手を挙げて挨拶し返す。
「やぁ、いつも元気そうでかわいいねステフ。これはシオネに借りたホラー映画なんだけどね」
「ホラー映画っすかー? へー、シオパイと映画を貸し借りする仲だったっすかー?」
「いつもは自前なんだけどね。今日はシオネが貸してくれるって話だから、それに甘えようかなって」
ぴこん、とステフのアホ毛が跳ねてハートマークのようになる。
「じゃあステフも見せてほしいっす!」
「ああ、なら次シオネに貸してもらえるよう言っておくよ」
「えー! そういうことじゃなくて、またリンパイの部屋で見たいっすー!」
「ん。私の部屋……か。……まぁ、別にいいけどね」
「やったー! じゃあいくっすよ、突撃お隣の食卓っすー! 実際お隣っすね!」
ぴょこぴょこと、ステフは私の部屋の前に向かったので私もその後を追う。
ステフのこういう積極性は目を瞠るもので、どんな相手とも仲立ちできる彼女の美点と言える部分なのだろう。
ところで、この時、私は気付いていなかったのだ。
なぜステフがタイミング良く、わざわざ自分の部屋のない6階を通りすがっていたのか。
そして、ステフがこの綺羅星の園ではどこから持ち込めるのかすら分からぬ、禁止されているであろう。
【最新型のビデオカメラ】を、携えていたのを。
◆
「うわ相変わらず煙草のダンボール箱だらけっす。でも結構綺麗だし煙草臭くないっすよね、というか煙草以外の物があんまりないっす」
「一応はここを出る時に返す部屋だからね、うん。ヤニモクはできるだけ染み付かないようにしているし、いつでも返せるようにはしてるよ」
「なるほどリンパイ律儀っすねー。ステフは宝物の箒のほかはお菓子とか漫画でいっぱいっす。
あ、煙草の箱の中に映画発見っす。あ、ベランダに灰皿があるっす」
ぴょこぴょこと私の部屋の中を物珍しげに歩き回るステフ。
そういえば私の部屋に誰かを上げるのは、ここ最近ではステフくらいか。
別に友人を上げたくない訳ではないが、ここは私の終の住処という訳でもない。
……いつか卒業して帰ることになるのだ。部屋に物を置く必要性もないし、そんな部屋に誘うのも少し気恥ずかしくある。
「で、見る映画ってどんなんっすかー? 殺人鬼みたいなものっすかー?
こう、ホッケーマスクにチェーンソーでどどどって!」
「それはジェイソン・ボーヒーズだね、十三日の金曜日の。エルム街の悪夢のフレディと並んで有名な殺人鬼かな」
「そう、それっす! さすがリンパイ!」
「残念だけど違うね。私、シリアルキラーものってあまり好きじゃないんだ。うん、この「赤々煉恋」っていう映画らしいけど」
「赤々煉恋? どんな映画っすか?」
そのステフの言葉に私はふむ、と口を噤む。
私もよく知る映画ではない。名前からして、邦画のようではあるけどあまり名前を聞かないタイトルだ。
紙袋から映画のパッケージを取り出すと翻し、裏面に記載されている説明文にざっと目を通し、それを要約する。
「んー。主人公は……幽霊のヒロインだってね。飛び降りて死んだみたいだ」
「飛び降りて、死んだ……」
ステフもその言葉に、神妙な表情になる。
以前、ステフの身の上を聞かせてもらった事があるので、彼女が浮遊霊という言葉に多少敏感になっているのは既知である。
彼女がこの主人公の幽霊に共感を見せるのもむべなるかなという話だろう。
けど、彼女はあっけらかんと。
「やー、飛び降りなんかで死ねるなんて楽っすねー。それならシオパイは今頃天国っす!」
「はは。シオネには冗談でもあまり聞かせたくないかな、それ」
「あっ! ステフ失言っす。ごめんなさいっす…」
しゅんと凹むステフ。私はそんな彼女を胸に抱いてやって、頭をぽふぽふと撫でる。
そして私はステフをソファクッションに座らせてやると、厚手の生地でできているカーテンを幕引く。
私の部屋はそれだけで白熱灯のみで照らされる薄闇に染まり、静謐なるシアタールームがここに構築された。
◆
すっすっすー、ステフっすー。ここからはステフのパートっす!
さすがシオパイの作戦。ここまですんなり行くとは思わなかったっす。
実はステフにはシオパイからシークレットミッションが下されていたっす。それは、リンパイの日常動画を撮影すること!
フェイたんにも聞いたっすが、リンパイの似顔絵とか諸々は割と高値で売れるっす。
当のフェイたんは売り物ではないと憤ってたっすけど。
そもそも「まともに描けない 」ものを売るどころか見せる気もないって言ってた気もするっす。
そして、ステフは今お財布が寂しいっす。
この間の買い物で買ったカメラとかお洋服とかパフェとかジェラートとかタピオカミルクティーとか。
不思議っすね。そんなに高くないのに気付いたら全然消えてるっす。きっと妖精か何かがステフの財布から盗んでるっす。そうに決まってるっす。
そんなわけで、ステフはとぼとぼとお腹ぐーぐーで歩いてたらシオパイに話しかけられたっす───お腹が減ってるのなら、美味しい話があるよ…と。
ふっふっふっす。
前払いとしてビデオカメラ!
成功したら後払いでたっぷりのバイト代!
すっすっすー、こんな美味しい話、一度も乗らぬ馬鹿二度も乗る馬鹿っすよ!
言葉の意味はわからないっすけど、きっと前払いと後払いで二度美味しいってことっすね!
そしてステフは狙い通りリンパイのお部屋に潜入成功っす!
いやまぁ、失言で疑念を抱かれた時はバレないか少し焦ったっす。ステフ隠し事は苦手っす。
あとは映画を見るリンパイの横顔をこっそり撮影!「………」
ただそれだけの任務っす。「……かい」ふっふっふ、ステフ「……だね」自分の才能が「…おおーい」はっ!?
横を見ると、リンパイの顔が近くてステフのハートが跳ねたっす。リンパイそういうとこっす。
「………ねぇ、ステフ。何か私に隠していることないかな?」
「の゛じ゛ゃ゛っ゛す゛!?゛ そ、そんなことは別にないっすよ、ステフ嘘つかないっす、ひゅー、ひゅー」
「口笛吹けてないよ。……フフ。まぁ、それならいいんだけどね。
じゃあ、映画を流すから部屋を暗くするよ。躓いたりしないようにね、ステフ」
「りょーかいっす!」
そしてリンパイが背中を向けた隙に、ステフはカメラをスタンバイ完了! っす!
リンパイは他人をあまり見ない悪癖があるっすけど、物事に対しては案外鋭いっす。シャンプーを変えた時も意外と気付いてくれるっす。
だからファンが多いっすけど、自分がそういう揉め事の原因になってるのは理解してないフシがあるっすからね。リンパイそういうとこっす。
そういうとこはちょっと迷惑っすけど、今回はステフの飯の種になってくれるのでリンパイ様々っす。あややややー。
……そして、映画が始まったっす。
アタシを殺したのは、アタシ…。それから、アタシはひとりぼっち。
「赤々煉恋」という映画のキャッチコピーはそんな不穏な書き出しで、内容も概ねそんなところだったっす。
主人公の少女はマンションから飛び降りて浮遊霊になったっす。
誰にも見られることなく、路傍の石のように、現世を彷徨っていたっす。
そして主人公は虫男と遭遇するっす。こわいっす。
虫男は生きている人間には見えず、心が弱った人間に取り憑き……自殺させるっす。
物語も既にクライマックスっす。
主人公は自分が見える幼女と出会い、笑顔を取り戻してきたっす。
けれど、その幼女の母親に虫男が取り憑いていたことが判明するっす。
このままでは幼女とその母親は飛び降り自殺してしまうっす。主人公はどうするのか…、っす!
……特に、スプラッタな訳ではなく。
総合的にはビジュアルではなく、精神的に圧迫させるタイプのホラー映画っす。
ただ、主人公は「既に死んだ」存在であるため、母親に向けての想いは感じられるものの、
…………透明感のある世界観、主人公の諦念感と否応なく進む世界。
それは、ステフにとっても何処か印象深いような世界で。
ステフが死ぬと、この映画と同じ様に過ごすことになるんすかね……。
っと、ステフの役目を忘れてはいけないっす。隠し持っていたカメラをリンパイに向けるっす。
リンパイの怖がる顔が撮れれば御の字っすけど、いつもクールなリンパイがホラー映画で怯えるには少し予想できないっす。
………結果的に言えば、リンパイは恐怖に染まっていたっす。
瞳孔が赤色から転じて淦色 に染まり。
奥歯をかちかちと鳴らして。
身体を抱えて縮こまらせ、がたがたと震えて。
本当に、今、恐ろしいんだってわかるっす。
………でも。
ああ、これは映画の恐怖ではない。
それは。
恐ろしいものが恐ろしい、というタイプの恐怖っす。
……そのままステフは、恐怖に震えるリンパイをしっかりカメラに収めつつ。
でも、それがうまく撮れているかを確認する気は、ステフには起きなかったっす。
目の前のこんなリンパイ、ほっておくなんてステフにはとてもできないっす。
ステフはそっと、テープが回っているビデオカメラを置いてリンパイの傍に行くっす。
そっと、リンパイに寄り添って。
いつもリンパイにされているように。
むぎゅうと、リンパイを抱きしめて。
少しでも怖くないように。
ステフのうたでも歌うっす。
すっすっす、ステフっすー。
ステフのスーはー ……………。
◆
後日談。
いつものように、ベランダで星空を眺めながら私は煙草を吹かしている。
口の中を焼くような熱い熱煙を口から吹くと、星空に溶けていくのがまた風情がある。
「リンカ……やったね?」
恨みがましい声で話しかけてきたのは、隣室のベランダにて、手すりにもたれ掛かりイナバウアーしているシオネだ。
私はベランダに常備している灰皿に煙草を押し付けると、口腔内に残った燻煙を吐き出し、シオネの元に身を乗り出す。
たゆんと、私の豊かな胸がベランダの手摺りの縁に乗るような形になってぷるんと震えた。
「偶然さ、シオネ。
……ねぇ、カメラはどうして撮影する時にレンズを絞ったり、使わない時はレンズキャップをするんだと思うんだい?」
私はシオネに問いかける、が。シオネは識るかそんな事、と言わんばかりにぐいと胸筋を更に伸ばしこちらから目線を外す。
仕方ないので、私は独り言の体で「答え合わせ」を始める。
「光量が多すぎてフィルムが上手く撮れないから? キャップをしないとレンズに傷や埃が付くから?
違うね────光が眩しすぎて撮像素子が焼き付くからなんだ 」
撮像素子、即ち「イメージセンサー」。
デジタルスチルカメラのみならず、デジタルビデオカメラには欠かせない機構である。
これが焼き付いてしまえばそのカメラでは使い物にならなくなるが、太陽光がレンズで収束するとあっさり焼き付いてしまうものである。
「撮像素子が焼き付いてレンズフレアが映り込む、なんて事はミラーレスカメラでよくある失敗談だ。
もちろんステフも知らない訳じゃない。太陽が照りつける下であれば、彼女も慎重になったはずさ」
そして私は、言葉を続ける。
若干、ステフへの申し訳なささを込めて。
「けど私の部屋は映画を見るために暗かった 。
だから、ビデオカメラのレンズの絞りが全開になっていた 」
ぽやぁ、と闇夜に私の魔眼の光が浮かび上がる。
金色に輝く私の魔眼は、きっと地上に輝く星のように眩しいことだろう。
「そこに、まぁ、意図していた訳ではないけど───私の魔眼が発動した。炎焼の魔眼 がね。
それを撮ってしまったから、レンズが使い物にならなくなったのさ。
……まぁ、ステフには悪いことをしちゃったから、弁償はしないとね」
私のその言葉にシオネは「ぷ」と吹き出す。
そして爆笑だ。
ひとしきり笑い尽くすと、袖でぐしと顔を拭くと私の方に向き直り、明るい笑顔を見せる。
「ぁはは、なにその魔眼。チート過ぎ!…あーあ。別に修理費は自分で払うけどさ。」
「いいのかな、シオネ。撮像素子の焼き付きの場合、基盤はほぼ全損だ。結構高く付くよ?」
「まあ? 先にバカみたいなこと考えたのはこっちだし? 文字通り「焼き」が回ったんじゃ仕方ないよね〜。
…あ〜あ〜あ〜。これはふて寝ですわ。……じゃ、またね。ぷわマカ〜」
その口調は完全にいつものシオネのもので、彼女の曲がった臍はすっかり戻ったのだと密かに安堵した。
…………ほんとうに! よかった!
あまりにも安堵した私は、壁に背もたれるとずるりとへたり込んだ。
◆
そしてシオネは部屋に戻り、そして、私は一人取り残された。
結局のところ。
あの映画はステフと一緒の部屋にするというシオネの口実ではあった訳だが。
映画の内容に関しては、多少なりとも彼女の思惑が絡まなかった訳ではないだろう。
つまるところ、シオネはこの映画を通して私に伝えたい言葉があったのだ。
赤々煉恋。
これはオリジナルの題字ではなく、原作となる短編の収録されている同名の小説本の題字から取ったものだ。
そしてその短編集として出版されている小説本には短編が4篇収録されており、そのうち映画化した短編の原題はこうなっている。
───「アタシの、いちばん、ほしいもの」。
それはきっとシオネからのラブコールでもあり、このモラトリアムを一緒に過ごす同輩に向けるメッセージなのだろう。
シオネとは現状は友達未満であり、ベランダでこうして毎朝、そして毎晩、密会を交わすだけの間柄である。
無論私としてもシオネとは友達でありたいとは思う。このモラトリアムを退屈せずに過ごすには、彼女は欠かせないだろう。
けれど。
私は。
煙草の二本目を取り出し、魔眼で着火するとそれを口に運んで燻らせる。
もくもくと煙立つ中に紅く燃ゆる、その火種の微かな明かりが網膜に焼き付く。
実のところ。
眩しいものを見ると焼き付くという現象は、同じ魔眼にも起こりうる。
魔術的に言うならば同調、共鳴といったようなものだが、もっと根源的な恐怖に根付いた。
……私の眼窩には未だに、あの恐怖が、あの"瞳"が烙印として灼き付いている。
あの眼が、狂炎が、たまらなく、怖い。
「じぃ」と、ただこちらを視ているだけのものが、甚だに、怖い。
…………私の、赫い魔眼を。
「淦色 」に染め変えたあの瞳が、怖、い。
だから、その恐怖を忘れないように。
私は、恐気しい画を見るのだ。
私は、狂熱い煙草を吸うのだ。
ベランダにて。
私は一人、煙草を今日も燻らせている。
それは平穏たるモラトリアムの一幕であり、特に何かが起こるわけでもなく。
そう、乙女たちのパライソにして桎梏は、変わらぬ日常の象徴だ────今までも、これからも。
〜赤々煉恋〜 Fin
【桎梏】しっ‐こく
《「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意》
人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。
「因襲の桎梏から逃れられない」
そう、乙女たちのパライソにして桎梏は、変わらぬ日常の象徴でもあり。
「ぷわぷわマカロ〜ン♥ はろはろー、リンカ。今日も生きてる?」
「やぁ、おはようシオネ。今日は特に元気そうだけど何かいい事でもあったのかい?」
ベランダ越しに学友同士が他愛のない会話を交わすのも、また他愛のない日常である。
……例え、片方が自室のベランダの縁に足を掛け、ゴルゴダの磔の様に背中から遙か六階下に天地真っ逆さまになろうとも。
そしてもう片方がそんな様子を止める事もなく、校則で禁止されている煙草を燻らせていようとも。
そう、これは如何様に狂っていようと日常、死人たちに許されたモラトリアムの一幕だ。
◆
〜赤々煉恋〜
◆
ああ、無為無聊。
この講義の時間は私…リンカ・アザミノにとっては至極退屈な時間だ。
かといって、受講しないのは単位云々ではなく負けた気がする。
別に勝ち負けではないとジゼル辺りから突っ込みは入るだろうけど、私自身としては別に教師に負かされたっていい。
どうせ単位は取れる。斜め聞きでも意外と覚えているものだし、何なら半分しか出席しなくても8割は理解できる。
けれど、不良などとレッテルを貼られるのはそれはそれでシャクである。
問題児しかいないこの綺羅星の園に今更不良の1人や2人増えたって大して変わりはしないだろうけど、
もう7年もすればそれなりの居場所というものも確立できている。
もう私に許された猶予も片手の指で足りてしまうくらいだろうけど、それまでは居心地良く居たい──それが私のこの学舎への思い入れだ。
などと、そう思うのは我ながら女々しいなと自嘲する。
すると、こつんと私の後頭部に何かがぶつかる。何かと思い床を見遣れば、ビー玉大に丸めた紙玉だ。
ここではスマートフォンの使用は禁止されており、もっぱら雑談したい時はこうしてメモを回すことで雑談する。
差出人の予想も付くし、私はやれやれと消しゴムを落としたフリをしてそのメモを拾い上げ、周りから見えないようにこっそりと広げた。
『リンカ、最近何か面白いホラー映画とかあった〜?』
ぷ、と吹き出す。
唐突にメモを回されて書き出しからそれだったというのもあるが、ホラーは怖いからホラーなのだ。
それを面白い、というのはちょっと一般感覚からするとネジが外れているのではないか、と私は独りごちる。
そしてノートの端っこを丁寧に四角く切り出すと、シャーペンをカリカリと走らせて同じように下手人に投げ返してやった。
『そうだね。シオネが好みそうなのだと、貞子vs伽椰子なんてのはどうかな?』
爆笑が聞こえてきた。
これはいけない、教師に睨まれやしないだろうか。
周囲のクラスメイトも困惑した顔で、それでも必死で板書の写し書きをしている素振りを続けている。
幸いにも声の主は一瞥されはしたものの教師からのお咎めはなく、豪胆にも続けてメモ書きが飛んできた。
『ぁっはははははははは。何そのB級ホラー丸出し。名前だけで笑い死にしそう!あははははははは!』
こちらの心配を他所に、実に豪胆なものである。
けれど、やはりそれでこそ差出人であるシオネ…及川汐音である、と私も安堵するというものだ。
どうせ退屈な時間である。それならば少しはこの談義に意義を見出そうと、私は続けて返信をしたためる。
恐らくはシオネが本当に聞きたかった事からは脱線しつつあるのだろうけど、なに。それもまた一興だ。
『まったく。笑い声が大きすぎてこちらも肝が冷えたよシオネ。
……あとは高速ばぁばとかね。よくあるB級ホラーと思ったら結構馬鹿にならないくらい怖い。一回見てみたら?』
『あー、そこまで怖いなら遠慮しとく。あんまだとトイレ行けなくなっちゃう。
というかジャパニーズホラー多くない? 洋モノもいいと思うよ〜?
……たとえばさ、死霊のはらわた/The Evil Deadとかどう?』
シャープペンシルの尻で頬をとんとんと叩き、ふむ、と頷く。
なるほど、死霊のはらわたときたか。スプラッタホラーの先駆けであり、勿論私も見たことはある。
メジャーもメジャーなところだが、いいところを突く。結構いい趣味をしている。
少しホラー映画談義文通も楽しくなってきたので、さらっとシャーペンを走らせた。
『リメイク版?』
『サム・ライミ版。監督に釣られちゃったよ』
ああ、と納得する。
死霊のはらわたはホラー映画好きならまず押さえる映画なので素で知ってて欲しかったが、それならば仕方ない。
『フフ。洋モノであればジェーン・ドゥの解剖やドント・ブリーズ、キャビン辺りも私としてはオススメかな。
ギミック系ならキューブ、コメディホラーならショーン・オブ・ザ・デッド。ああ、ミストもラストが個人的には好きだね』
『待ってくれたまえ、ことばの洪水をワッといっきにあびせかけるのは!』
いけないいけない。
つい楽しくなって早口気味に書いてしまった。
さて、シオネからそろそろ本音を聞き出さないと。
そうでもないと、文通なんて面倒な手段を彼女が取るはずもないからね。
『ごめんね、で、本題があるんだろう。何か言いたいことでもあったのかい?』
『さすがリンカ、ご明察。実は面白いホラー映画を手に入れてねー、是非教えたかったんだ−。
ここまでで名前が出ないかヒヤヒヤしてたけど、出てこなくて安心してた』
『ふうん。それは俄然興味が出てきたね。どんなタイトルなんだい?』
私もまだ見たことがなくて、面白いホラー映画。一体どんなものだろうか。
少しわくわくしつつ投げ返して暫く待つと、私の机の上にころんと正確に紙玉が載ってくる。
これだけ玉入れに興じていて教師にはバレていないなんて事はないだろうが、体裁として私は密かに、そしていそいそとその紙玉を開く。
……そこには、私が待ち望んだそのホラー映画のタイトルが載っていた。
『タイトルはー、【赤々煉恋】ってやつ。
貸してあげるから、後で私の部屋をノックしてね〜』
◆
シオネの部屋は私の部屋の隣、606号室となっている。
おおよそ教師にバレたらヤバそうな薬やら蝋燭やら香油やらをを売り捌く部屋となっており、
おかげで不吉な数字のせいか入居者が割合少なめなこの6階にも時折人影が見える理由となっている。
私も同じように扉越しからその映画のDVDの入った紙袋を受けとっていると、唐突に横から声をかけられた。
「リンパイ、へいよーぐっつすっす、っす! あれ、何持ってるっすか?」
太陽のような金髪に、いつもぴょこぴょこと跳ねるように歩いているのが可愛らしい子だ。
名前は────ステフだ。そう、確か、ステフだった。
もふもふとしていて、抱くと猫のように丸まって可愛い子なのだ。そうだったはず。私は手を挙げて挨拶し返す。
「やぁ、いつも元気そうでかわいいねステフ。これはシオネに借りたホラー映画なんだけどね」
「ホラー映画っすかー? へー、シオパイと映画を貸し借りする仲だったっすかー?」
「いつもは自前なんだけどね。今日はシオネが貸してくれるって話だから、それに甘えようかなって」
ぴこん、とステフのアホ毛が跳ねてハートマークのようになる。
「じゃあステフも見せてほしいっす!」
「ああ、なら次シオネに貸してもらえるよう言っておくよ」
「えー! そういうことじゃなくて、またリンパイの部屋で見たいっすー!」
「ん。私の部屋……か。……まぁ、別にいいけどね」
「やったー! じゃあいくっすよ、突撃お隣の食卓っすー! 実際お隣っすね!」
ぴょこぴょこと、ステフは私の部屋の前に向かったので私もその後を追う。
ステフのこういう積極性は目を瞠るもので、どんな相手とも仲立ちできる彼女の美点と言える部分なのだろう。
ところで、この時、私は気付いていなかったのだ。
なぜステフがタイミング良く、わざわざ自分の部屋のない6階を通りすがっていたのか。
そして、ステフがこの綺羅星の園ではどこから持ち込めるのかすら分からぬ、禁止されているであろう。
【最新型のビデオカメラ】を、携えていたのを。
◆
「うわ相変わらず煙草のダンボール箱だらけっす。でも結構綺麗だし煙草臭くないっすよね、というか煙草以外の物があんまりないっす」
「一応はここを出る時に返す部屋だからね、うん。ヤニモクはできるだけ染み付かないようにしているし、いつでも返せるようにはしてるよ」
「なるほどリンパイ律儀っすねー。ステフは宝物の箒のほかはお菓子とか漫画でいっぱいっす。
あ、煙草の箱の中に映画発見っす。あ、ベランダに灰皿があるっす」
ぴょこぴょこと私の部屋の中を物珍しげに歩き回るステフ。
そういえば私の部屋に誰かを上げるのは、ここ最近ではステフくらいか。
別に友人を上げたくない訳ではないが、ここは私の終の住処という訳でもない。
……いつか卒業して帰ることになるのだ。部屋に物を置く必要性もないし、そんな部屋に誘うのも少し気恥ずかしくある。
「で、見る映画ってどんなんっすかー? 殺人鬼みたいなものっすかー?
こう、ホッケーマスクにチェーンソーでどどどって!」
「それはジェイソン・ボーヒーズだね、十三日の金曜日の。エルム街の悪夢のフレディと並んで有名な殺人鬼かな」
「そう、それっす! さすがリンパイ!」
「残念だけど違うね。私、シリアルキラーものってあまり好きじゃないんだ。うん、この「赤々煉恋」っていう映画らしいけど」
「赤々煉恋? どんな映画っすか?」
そのステフの言葉に私はふむ、と口を噤む。
私もよく知る映画ではない。名前からして、邦画のようではあるけどあまり名前を聞かないタイトルだ。
紙袋から映画のパッケージを取り出すと翻し、裏面に記載されている説明文にざっと目を通し、それを要約する。
「んー。主人公は……幽霊のヒロインだってね。飛び降りて死んだみたいだ」
「飛び降りて、死んだ……」
ステフもその言葉に、神妙な表情になる。
以前、ステフの身の上を聞かせてもらった事があるので、彼女が浮遊霊という言葉に多少敏感になっているのは既知である。
彼女がこの主人公の幽霊に共感を見せるのもむべなるかなという話だろう。
けど、彼女はあっけらかんと。
「やー、飛び降りなんかで死ねるなんて楽っすねー。それならシオパイは今頃天国っす!」
「はは。シオネには冗談でもあまり聞かせたくないかな、それ」
「あっ! ステフ失言っす。ごめんなさいっす…」
しゅんと凹むステフ。私はそんな彼女を胸に抱いてやって、頭をぽふぽふと撫でる。
そして私はステフをソファクッションに座らせてやると、厚手の生地でできているカーテンを幕引く。
私の部屋はそれだけで白熱灯のみで照らされる薄闇に染まり、静謐なるシアタールームがここに構築された。
◆
すっすっすー、ステフっすー。ここからはステフのパートっす!
さすがシオパイの作戦。ここまですんなり行くとは思わなかったっす。
実はステフにはシオパイからシークレットミッションが下されていたっす。それは、リンパイの日常動画を撮影すること!
フェイたんにも聞いたっすが、リンパイの似顔絵とか諸々は割と高値で売れるっす。
当のフェイたんは売り物ではないと憤ってたっすけど。
そもそも「
そして、ステフは今お財布が寂しいっす。
この間の買い物で買ったカメラとかお洋服とかパフェとかジェラートとかタピオカミルクティーとか。
不思議っすね。そんなに高くないのに気付いたら全然消えてるっす。きっと妖精か何かがステフの財布から盗んでるっす。そうに決まってるっす。
そんなわけで、ステフはとぼとぼとお腹ぐーぐーで歩いてたらシオパイに話しかけられたっす───お腹が減ってるのなら、美味しい話があるよ…と。
ふっふっふっす。
前払いとしてビデオカメラ!
成功したら後払いでたっぷりのバイト代!
すっすっすー、こんな美味しい話、一度も乗らぬ馬鹿二度も乗る馬鹿っすよ!
言葉の意味はわからないっすけど、きっと前払いと後払いで二度美味しいってことっすね!
そしてステフは狙い通りリンパイのお部屋に潜入成功っす!
いやまぁ、失言で疑念を抱かれた時はバレないか少し焦ったっす。ステフ隠し事は苦手っす。
あとは映画を見るリンパイの横顔をこっそり撮影!「………」
ただそれだけの任務っす。「……かい」ふっふっふ、ステフ「……だね」自分の才能が「…おおーい」はっ!?
横を見ると、リンパイの顔が近くてステフのハートが跳ねたっす。リンパイそういうとこっす。
「………ねぇ、ステフ。何か私に隠していることないかな?」
「の゛じ゛ゃ゛っ゛す゛!?゛ そ、そんなことは別にないっすよ、ステフ嘘つかないっす、ひゅー、ひゅー」
「口笛吹けてないよ。……フフ。まぁ、それならいいんだけどね。
じゃあ、映画を流すから部屋を暗くするよ。躓いたりしないようにね、ステフ」
「りょーかいっす!」
そしてリンパイが背中を向けた隙に、ステフはカメラをスタンバイ完了! っす!
リンパイは他人をあまり見ない悪癖があるっすけど、物事に対しては案外鋭いっす。シャンプーを変えた時も意外と気付いてくれるっす。
だからファンが多いっすけど、自分がそういう揉め事の原因になってるのは理解してないフシがあるっすからね。リンパイそういうとこっす。
そういうとこはちょっと迷惑っすけど、今回はステフの飯の種になってくれるのでリンパイ様々っす。あややややー。
……そして、映画が始まったっす。
アタシを殺したのは、アタシ…。それから、アタシはひとりぼっち。
「赤々煉恋」という映画のキャッチコピーはそんな不穏な書き出しで、内容も概ねそんなところだったっす。
主人公の少女はマンションから飛び降りて浮遊霊になったっす。
誰にも見られることなく、路傍の石のように、現世を彷徨っていたっす。
そして主人公は虫男と遭遇するっす。こわいっす。
虫男は生きている人間には見えず、心が弱った人間に取り憑き……自殺させるっす。
物語も既にクライマックスっす。
主人公は自分が見える幼女と出会い、笑顔を取り戻してきたっす。
けれど、その幼女の母親に虫男が取り憑いていたことが判明するっす。
このままでは幼女とその母親は飛び降り自殺してしまうっす。主人公はどうするのか…、っす!
……特に、スプラッタな訳ではなく。
総合的にはビジュアルではなく、精神的に圧迫させるタイプのホラー映画っす。
ただ、主人公は「既に死んだ」存在であるため、母親に向けての想いは感じられるものの、
…………透明感のある世界観、主人公の諦念感と否応なく進む世界。
それは、ステフにとっても何処か印象深いような世界で。
ステフが死ぬと、この映画と同じ様に過ごすことになるんすかね……。
っと、ステフの役目を忘れてはいけないっす。隠し持っていたカメラをリンパイに向けるっす。
リンパイの怖がる顔が撮れれば御の字っすけど、いつもクールなリンパイがホラー映画で怯えるには少し予想できないっす。
………結果的に言えば、リンパイは恐怖に染まっていたっす。
瞳孔が赤色から転じて
奥歯をかちかちと鳴らして。
身体を抱えて縮こまらせ、がたがたと震えて。
本当に、今、恐ろしいんだってわかるっす。
………でも。
ああ、これは映画の恐怖ではない。
それは。
恐ろしいものが恐ろしい、というタイプの恐怖っす。
……そのままステフは、恐怖に震えるリンパイをしっかりカメラに収めつつ。
でも、それがうまく撮れているかを確認する気は、ステフには起きなかったっす。
目の前のこんなリンパイ、ほっておくなんてステフにはとてもできないっす。
ステフはそっと、テープが回っているビデオカメラを置いてリンパイの傍に行くっす。
そっと、リンパイに寄り添って。
いつもリンパイにされているように。
むぎゅうと、リンパイを抱きしめて。
少しでも怖くないように。
ステフのうたでも歌うっす。
すっすっす、ステフっすー。
ステフのスーはー ……………。
◆
後日談。
いつものように、ベランダで星空を眺めながら私は煙草を吹かしている。
口の中を焼くような熱い熱煙を口から吹くと、星空に溶けていくのがまた風情がある。
「リンカ……やったね?」
恨みがましい声で話しかけてきたのは、隣室のベランダにて、手すりにもたれ掛かりイナバウアーしているシオネだ。
私はベランダに常備している灰皿に煙草を押し付けると、口腔内に残った燻煙を吐き出し、シオネの元に身を乗り出す。
たゆんと、私の豊かな胸がベランダの手摺りの縁に乗るような形になってぷるんと震えた。
「偶然さ、シオネ。
……ねぇ、カメラはどうして撮影する時にレンズを絞ったり、使わない時はレンズキャップをするんだと思うんだい?」
私はシオネに問いかける、が。シオネは識るかそんな事、と言わんばかりにぐいと胸筋を更に伸ばしこちらから目線を外す。
仕方ないので、私は独り言の体で「答え合わせ」を始める。
「光量が多すぎてフィルムが上手く撮れないから? キャップをしないとレンズに傷や埃が付くから?
違うね────
撮像素子、即ち「イメージセンサー」。
デジタルスチルカメラのみならず、デジタルビデオカメラには欠かせない機構である。
これが焼き付いてしまえばそのカメラでは使い物にならなくなるが、太陽光がレンズで収束するとあっさり焼き付いてしまうものである。
「撮像素子が焼き付いてレンズフレアが映り込む、なんて事はミラーレスカメラでよくある失敗談だ。
もちろんステフも知らない訳じゃない。太陽が照りつける下であれば、彼女も慎重になったはずさ」
そして私は、言葉を続ける。
若干、ステフへの申し訳なささを込めて。
「けど私の部屋は
だから、
ぽやぁ、と闇夜に私の魔眼の光が浮かび上がる。
金色に輝く私の魔眼は、きっと地上に輝く星のように眩しいことだろう。
「そこに、まぁ、意図していた訳ではないけど───私の魔眼が発動した。
それを撮ってしまったから、レンズが使い物にならなくなったのさ。
……まぁ、ステフには悪いことをしちゃったから、弁償はしないとね」
私のその言葉にシオネは「ぷ」と吹き出す。
そして爆笑だ。
ひとしきり笑い尽くすと、袖でぐしと顔を拭くと私の方に向き直り、明るい笑顔を見せる。
「ぁはは、なにその魔眼。チート過ぎ!…あーあ。別に修理費は自分で払うけどさ。」
「いいのかな、シオネ。撮像素子の焼き付きの場合、基盤はほぼ全損だ。結構高く付くよ?」
「まあ? 先にバカみたいなこと考えたのはこっちだし? 文字通り「焼き」が回ったんじゃ仕方ないよね〜。
…あ〜あ〜あ〜。これはふて寝ですわ。……じゃ、またね。ぷわマカ〜」
その口調は完全にいつものシオネのもので、彼女の曲がった臍はすっかり戻ったのだと密かに安堵した。
…………ほんとうに! よかった!
あまりにも安堵した私は、壁に背もたれるとずるりとへたり込んだ。
◆
そしてシオネは部屋に戻り、そして、私は一人取り残された。
結局のところ。
あの映画はステフと一緒の部屋にするというシオネの口実ではあった訳だが。
映画の内容に関しては、多少なりとも彼女の思惑が絡まなかった訳ではないだろう。
つまるところ、シオネはこの映画を通して私に伝えたい言葉があったのだ。
赤々煉恋。
これはオリジナルの題字ではなく、原作となる短編の収録されている同名の小説本の題字から取ったものだ。
そしてその短編集として出版されている小説本には短編が4篇収録されており、そのうち映画化した短編の原題はこうなっている。
───「アタシの、いちばん、ほしいもの」。
それはきっとシオネからのラブコールでもあり、このモラトリアムを一緒に過ごす同輩に向けるメッセージなのだろう。
シオネとは現状は友達未満であり、ベランダでこうして毎朝、そして毎晩、密会を交わすだけの間柄である。
無論私としてもシオネとは友達でありたいとは思う。このモラトリアムを退屈せずに過ごすには、彼女は欠かせないだろう。
けれど。
私は。
煙草の二本目を取り出し、魔眼で着火するとそれを口に運んで燻らせる。
もくもくと煙立つ中に紅く燃ゆる、その火種の微かな明かりが網膜に焼き付く。
実のところ。
眩しいものを見ると焼き付くという現象は、同じ魔眼にも起こりうる。
魔術的に言うならば同調、共鳴といったようなものだが、もっと根源的な恐怖に根付いた。
……私の眼窩には未だに、あの恐怖が、あの"瞳"が烙印として灼き付いている。
あの眼が、狂炎が、たまらなく、怖い。
「じぃ」と、ただこちらを視ているだけのものが、甚だに、怖い。
…………私の、赫い魔眼を。
「
だから、その恐怖を忘れないように。
私は、恐気しい画を見るのだ。
私は、狂熱い煙草を吸うのだ。
ベランダにて。
私は一人、煙草を今日も燻らせている。
それは平穏たるモラトリアムの一幕であり、特に何かが起こるわけでもなく。
そう、乙女たちのパライソにして桎梏は、変わらぬ日常の象徴だ────今までも、これからも。
〜赤々煉恋〜 Fin
【桎梏】しっ‐こく
《「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意》
人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。
「因襲の桎梏から逃れられない」
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