最終更新:ID:VYd3iQxtAw 2020年11月10日(火) 05:25:32履歴
薔薇のような女 だと思っていた。
綺麗な花の下に棘を秘めていて、不用意に触れればこちらが傷を負う。
それどころか、葉の下に潜む毒虫に殺されてしまうまであり得るような。
シュルトラインという女は、仮に命と好奇心と天秤にかけるなら、躊躇いなく命を選ぶほどに見え透いた罠だった。
にも関わらず。その日、私は彼女に声を掛けた。
言葉自体は、「とても、いい曲ですね」なんてありふれた台詞だったけれど。
それだけでも、こちらの思惑は十分に伝わったようだった。
────薄く、刃のように開かれた深いオリーブの瞳の深さが、それを物語っていた。
「最初は、藪蛇を突くつもりなんてなかったんですよ」
「でも。まさか、あんな目をする方だなんて思っていなくて、つい」
切欠は、数日前の昼食時だった。
同伴を誘ってきた相手に、件の女が弾いているピアノの付近へと連れられた。
……奪われていないことを感じられる手段の一つだから、耳でものを聞くのは嫌いではない。
それでも、落ち着くからこの音を聞いていたい、などと自分からそれに耳を傾ける無邪気さは私にはなかった。
あれが単なるピアノの演奏でないことなど、生徒の大半は理解している。
どう考えても皮肉から来る選曲だろうティンクル・ティンクル・リトル・スターの変奏曲もまた、紛れもない呪曲だった。
音が耳に入る度に、否応なしに心の形が歪むような感覚を、私は癒しだと思った事はない。
だから、実際に近くでその演奏を見たのも、聞いたのも初めてだった。
一応、美しいものだ、とは思った。
鍵盤の上を滑る細長い指の運びが、必死に自らの身体を這う様を想像すれば、それなりに興奮もした。
だが、得体の知れなさで言えば、この女は例の小柄な妖精にも並ぶほどだ。
遠ざけるように、踏み込まれないように。
そうやってひた隠しにしているものが純粋な愛かなにかであれば、暴いて、穢してやりたいと思うところだが。
そのために取る手段の小賢しさが、裏に隠したものが安易な綺麗事ではないことを証明していた。
だから、私はその花に手を伸ばそうなどと思ってはいなかったのだ。
「きゃ……っ」
そんな時、突然の閃光で、ピアノの音が途切れた。
中庭の方角から、光と爆音が襲う。……これは、花火だ。
そうすれば下手人の顔はすぐに思い浮かぶ。馴れ馴れしくて腹が立つ方の不良生徒だった。
心中で舌打ちをしながら、一先ずは眼前に居る今の相手へと心配の言葉を掛ける。
次いで、ふと気になったのでピアノの方を見やった。
好きが高じてではないにしても、ルーティン化している演奏を邪魔されたあの女は、どのような顔をするのだろう、と。
予想では、ほんの時折透けて見える、あの虫を見るような冷たい瞳を向けているのではないか、と考えていたが。
「────」
違っていた。
そこにあったのは、底が見えないほどの憎しみを、カップの縁まで注ぎ尽くしたような眼だった。
気に入らない、などという次元ではない。
今、そこまでのことをされたのか、と、思わず疑問が浮かぶほどに。
純然たる殺意に近いほどの激情が、瞳の中でだけ煮え滾っていた。
……閃光が収まると、何事もなかったかのように、瞳は閉じられて。
一音たりとて違えず、その指が先程の続きを奏でだした。
そこで、どくん、と、悪魔の心臓が拍動する音が聞こえた。
それは紛れもなく警告だった。
今、あの激情を、もし自分に向けられたらどうなるのだろう、と思ってしまった事への。
────という経緯で、演奏中の彼女に雑に感想を投げかけるという方法で、わざと不興を買ったのが冒頭。
そして、いやに首尾よく部屋に連れ込む事に成功して、今の状況に至る。
「……何?」
座ってくださいと言ったら無防備にベッドに腰掛けるものだから、つい押し倒してしまった。
細い腕から伝わってくる些細な抵抗の力は、悪魔の手を使うまでもなく抑え込めるようなもので。
ピアノがなければさしたる魔術師ではない、と、先程、歓談の演技の中で言っていた言葉は嘘ではないようだった。
「最初は、藪蛇を突くつもりなんてなかったんですよ」
「でも。まさか、あんな目をする方だなんて思っていなくて、つい」
一言目の声色からへばりついた敬語を剥がせたことを実感しつつ、種明かしをする。
いや、理由は伝わらなくとも、それでいい。こう言われれば、この女はきっと。
「……はぁ。……私、踏み込まれるのは嫌いなのだけど」
「、っ」
その瞳を見せてくれる。
ただ昏く。夜闇とは違う、厭な明度の低さがある憎悪の眼を。
「知っているわよ。…浅葱白菊。毎夜毎夜、別の女を褥に誘ってお盛んな事ね」
「……私を狙ったのは、まぁ、腕力で見れば正解かもしれないけれど。愉しませてあげられるような反応はできないわよ」
「私、素直でも純粋でも無垢でも、まして馬鹿でもないもの。分かるでしょう?」
それはある種、望外の言葉だった。
つらつらと、こちらの事を知っているかのような発言が飛び出してくる。
想定していた以上の表裏の差と、見透かされたような感覚に軽い眩暈を起こしながらも、言葉の応酬を試みる。
「……なぜ、そんなに、私のことを?」
「別に。調べたわけでも、好んで聞いたわけでもないわよ。ただ、聞こえてくるの。噂も睦言も何もかも」
「あぁ、私の目が気になったんですって?それならあなたもこの耳を持ってみればいいわ。森羅万象を、臓腑が煮えくり返るほど嫌えるから」
……身体機能にハンデのある年下に部屋に誘い込まれ、まんまと両腕を抑えられながら、どうしてこの女はこうまで毅然と自分を語れるのだろう。
シーツの上に拡がったブロンドの髪も、ほんのりと色づいた頬も、まるで気にしていないように。
まるで、何をされても心は穢されない、と宣言する騎士か何かのように、堂々と。
疑念は尽きず、却ってその図太い精神に羨望じみた苛立ちを覚えながらも、理解だけは進んでいく。
「……」
「……ちょっと、黙らないで頂戴。自分が攻め手に回るのは苦手なのかしら。そんなことはないでしょう?」
「ふふ。お姉様が、珍しい反応をされるものですから。少し、面白くて」
ペースをこちらに戻す。戻そうと努力する。
本人が言っていたように、普段こういうことをしている相手とは訳が違っていた。
こちらに興味がないのではなく。自分を律することに異常に長けているのだ、この女は。
するりと、どさくさに紛れて服の裾をずらしても。なんてことはないように、一瞥で流される。
「まぁ、そうでしょうね。……でも、別に。あなたのことが嫌いという訳じゃないのよ?」
「……そうとは、思えませんが」
「いいえ。内面にさえ目を当てなければ、私みたいな年増に比べれば数倍可愛らしいじゃない」
うまく掴めない。軸が分からない。
「褒めて、ません、よね?」
「いいえ?私は外見に必死に気を遣って生きているのに、綺麗なあなたは随分勿体ない使い方をするのね、なんて思ってないわ」
「あの」
「でも好きじゃないわ。もちろん。だって五月蝿いもの。私以外だから五月蝿いから不快。でも理由はそれだけ」
「……」
ついていけなかった。
自虐でこちらを上げてきてから突然やたら広範囲に十把一絡げに嫌い認定されても、どう反応しろというのだ。
こちらが沈黙した隙に、次いでまた言葉が放たれ────。
「あぁ、でも」
────突然、腕に力が籠められる。
想定外の事態に拘束が緩み、その手のひらが私の左胸に添えられた。
一瞬、魔術を警戒する。だが、回路の隆起も詠唱もなかった。
そして、
「あなたの心臓の音、とても不愉快ね」
ぐん、と押される。
抵抗を忘れ、身体が傾く。感覚のない手指と喪った両脚では、そこから体勢を立て直せなかった。
「不協和音なのよ。というかなんで心音が二重に聞こえるの。見た目通り、まともな魔術師じゃないのかしら」
後ろにひっくり返るようにベッドに倒された私を余所に、女は立ち上がる。
そして軽く髪を整えると、こちらを見下して。
「興が冷めたでしょう?そういう顔をしているわ。……私はなかなか楽しめたけど」
「あぁ、でももし、本当に私とそういうことをしたいのならまた別の日にして頂戴。……一応、身体の気を遣う部分を増やすから」
そんなことを言い残して、てきぱきと部屋から出て行ってしまった。
幽かに血の混じった花のような残り香が、嘲笑うように鼻をくすぐる。
「……」
心音なんてものを真っ向から否定されるのは、新鮮な体験だった。
だからといって、それが心地いいなどということは毛頭なく。
少しだけ、傷つけられたような気分は思ったよりも重傷で。
暫くの間、私はそこから動けなかった。
綺麗な花の下に棘を秘めていて、不用意に触れればこちらが傷を負う。
それどころか、葉の下に潜む毒虫に殺されてしまうまであり得るような。
シュルトラインという女は、仮に命と好奇心と天秤にかけるなら、躊躇いなく命を選ぶほどに見え透いた罠だった。
にも関わらず。その日、私は彼女に声を掛けた。
言葉自体は、「とても、いい曲ですね」なんてありふれた台詞だったけれど。
それだけでも、こちらの思惑は十分に伝わったようだった。
────薄く、刃のように開かれた深いオリーブの瞳の深さが、それを物語っていた。
「最初は、藪蛇を突くつもりなんてなかったんですよ」
「でも。まさか、あんな目をする方だなんて思っていなくて、つい」
切欠は、数日前の昼食時だった。
同伴を誘ってきた相手に、件の女が弾いているピアノの付近へと連れられた。
……奪われていないことを感じられる手段の一つだから、耳でものを聞くのは嫌いではない。
それでも、落ち着くからこの音を聞いていたい、などと自分からそれに耳を傾ける無邪気さは私にはなかった。
あれが単なるピアノの演奏でないことなど、生徒の大半は理解している。
どう考えても皮肉から来る選曲だろうティンクル・ティンクル・リトル・スターの変奏曲もまた、紛れもない呪曲だった。
音が耳に入る度に、否応なしに心の形が歪むような感覚を、私は癒しだと思った事はない。
だから、実際に近くでその演奏を見たのも、聞いたのも初めてだった。
一応、美しいものだ、とは思った。
鍵盤の上を滑る細長い指の運びが、必死に自らの身体を這う様を想像すれば、それなりに興奮もした。
だが、得体の知れなさで言えば、この女は例の小柄な妖精にも並ぶほどだ。
遠ざけるように、踏み込まれないように。
そうやってひた隠しにしているものが純粋な愛かなにかであれば、暴いて、穢してやりたいと思うところだが。
そのために取る手段の小賢しさが、裏に隠したものが安易な綺麗事ではないことを証明していた。
だから、私はその花に手を伸ばそうなどと思ってはいなかったのだ。
「きゃ……っ」
そんな時、突然の閃光で、ピアノの音が途切れた。
中庭の方角から、光と爆音が襲う。……これは、花火だ。
そうすれば下手人の顔はすぐに思い浮かぶ。馴れ馴れしくて腹が立つ方の不良生徒だった。
心中で舌打ちをしながら、一先ずは眼前に居る今の相手へと心配の言葉を掛ける。
次いで、ふと気になったのでピアノの方を見やった。
好きが高じてではないにしても、ルーティン化している演奏を邪魔されたあの女は、どのような顔をするのだろう、と。
予想では、ほんの時折透けて見える、あの虫を見るような冷たい瞳を向けているのではないか、と考えていたが。
「────」
違っていた。
そこにあったのは、底が見えないほどの憎しみを、カップの縁まで注ぎ尽くしたような眼だった。
気に入らない、などという次元ではない。
今、そこまでのことをされたのか、と、思わず疑問が浮かぶほどに。
純然たる殺意に近いほどの激情が、瞳の中でだけ煮え滾っていた。
……閃光が収まると、何事もなかったかのように、瞳は閉じられて。
一音たりとて違えず、その指が先程の続きを奏でだした。
そこで、どくん、と、悪魔の心臓が拍動する音が聞こえた。
それは紛れもなく警告だった。
今、あの激情を、もし自分に向けられたらどうなるのだろう、と思ってしまった事への。
────という経緯で、演奏中の彼女に雑に感想を投げかけるという方法で、わざと不興を買ったのが冒頭。
そして、いやに首尾よく部屋に連れ込む事に成功して、今の状況に至る。
「……何?」
座ってくださいと言ったら無防備にベッドに腰掛けるものだから、つい押し倒してしまった。
細い腕から伝わってくる些細な抵抗の力は、悪魔の手を使うまでもなく抑え込めるようなもので。
ピアノがなければさしたる魔術師ではない、と、先程、歓談の演技の中で言っていた言葉は嘘ではないようだった。
「最初は、藪蛇を突くつもりなんてなかったんですよ」
「でも。まさか、あんな目をする方だなんて思っていなくて、つい」
一言目の声色からへばりついた敬語を剥がせたことを実感しつつ、種明かしをする。
いや、理由は伝わらなくとも、それでいい。こう言われれば、この女はきっと。
「……はぁ。……私、踏み込まれるのは嫌いなのだけど」
「、っ」
その瞳を見せてくれる。
ただ昏く。夜闇とは違う、厭な明度の低さがある憎悪の眼を。
「知っているわよ。…浅葱白菊。毎夜毎夜、別の女を褥に誘ってお盛んな事ね」
「……私を狙ったのは、まぁ、腕力で見れば正解かもしれないけれど。愉しませてあげられるような反応はできないわよ」
「私、素直でも純粋でも無垢でも、まして馬鹿でもないもの。分かるでしょう?」
それはある種、望外の言葉だった。
つらつらと、こちらの事を知っているかのような発言が飛び出してくる。
想定していた以上の表裏の差と、見透かされたような感覚に軽い眩暈を起こしながらも、言葉の応酬を試みる。
「……なぜ、そんなに、私のことを?」
「別に。調べたわけでも、好んで聞いたわけでもないわよ。ただ、聞こえてくるの。噂も睦言も何もかも」
「あぁ、私の目が気になったんですって?それならあなたもこの耳を持ってみればいいわ。森羅万象を、臓腑が煮えくり返るほど嫌えるから」
……身体機能にハンデのある年下に部屋に誘い込まれ、まんまと両腕を抑えられながら、どうしてこの女はこうまで毅然と自分を語れるのだろう。
シーツの上に拡がったブロンドの髪も、ほんのりと色づいた頬も、まるで気にしていないように。
まるで、何をされても心は穢されない、と宣言する騎士か何かのように、堂々と。
疑念は尽きず、却ってその図太い精神に羨望じみた苛立ちを覚えながらも、理解だけは進んでいく。
「……」
「……ちょっと、黙らないで頂戴。自分が攻め手に回るのは苦手なのかしら。そんなことはないでしょう?」
「ふふ。お姉様が、珍しい反応をされるものですから。少し、面白くて」
ペースをこちらに戻す。戻そうと努力する。
本人が言っていたように、普段こういうことをしている相手とは訳が違っていた。
こちらに興味がないのではなく。自分を律することに異常に長けているのだ、この女は。
するりと、どさくさに紛れて服の裾をずらしても。なんてことはないように、一瞥で流される。
「まぁ、そうでしょうね。……でも、別に。あなたのことが嫌いという訳じゃないのよ?」
「……そうとは、思えませんが」
「いいえ。内面にさえ目を当てなければ、私みたいな年増に比べれば数倍可愛らしいじゃない」
うまく掴めない。軸が分からない。
「褒めて、ません、よね?」
「いいえ?私は外見に必死に気を遣って生きているのに、綺麗なあなたは随分勿体ない使い方をするのね、なんて思ってないわ」
「あの」
「でも好きじゃないわ。もちろん。だって五月蝿いもの。私以外だから五月蝿いから不快。でも理由はそれだけ」
「……」
ついていけなかった。
自虐でこちらを上げてきてから突然やたら広範囲に十把一絡げに嫌い認定されても、どう反応しろというのだ。
こちらが沈黙した隙に、次いでまた言葉が放たれ────。
「あぁ、でも」
────突然、腕に力が籠められる。
想定外の事態に拘束が緩み、その手のひらが私の左胸に添えられた。
一瞬、魔術を警戒する。だが、回路の隆起も詠唱もなかった。
そして、
「あなたの心臓の音、とても不愉快ね」
ぐん、と押される。
抵抗を忘れ、身体が傾く。感覚のない手指と喪った両脚では、そこから体勢を立て直せなかった。
「不協和音なのよ。というかなんで心音が二重に聞こえるの。見た目通り、まともな魔術師じゃないのかしら」
後ろにひっくり返るようにベッドに倒された私を余所に、女は立ち上がる。
そして軽く髪を整えると、こちらを見下して。
「興が冷めたでしょう?そういう顔をしているわ。……私はなかなか楽しめたけど」
「あぁ、でももし、本当に私とそういうことをしたいのならまた別の日にして頂戴。……一応、身体の気を遣う部分を増やすから」
そんなことを言い残して、てきぱきと部屋から出て行ってしまった。
幽かに血の混じった花のような残り香が、嘲笑うように鼻をくすぐる。
「……」
心音なんてものを真っ向から否定されるのは、新鮮な体験だった。
だからといって、それが心地いいなどということは毛頭なく。
少しだけ、傷つけられたような気分は思ったよりも重傷で。
暫くの間、私はそこから動けなかった。
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