極限闘争死線 コロッセウム / 傍伝・兎狩りと死霊についての記録 5/5
最終更新：ID:LfES8Ldd0A 2018年11月24日(土) 20:02:05履歴
■第五回 強者どもが理想の跡 
エピローグ1:メギドラ・エイハブ・サレナ
異聞帯崩壊から数日が経った。
敵対勢力に与したことで、O-13共々に拘束されたメギドラは独房で退屈に喘いでいた。
「名前が売れとるのも困りものじゃの……はーあ、念入りに封印しおってからに」
メギドラの独房は特別製だった。
アクシア聖団、聖堂教会の流れを汲む彼らの協力を受け設置された封印機構はメギドラのようなヤクザものには覿面だ。
水入りペットボトルに怯える猫のごとく、彼女は結界に近づきすぎて浄化されないように縮こまっていることになった。
捕虜の扱いとしては乱暴すぎやしないかと思ったりもしたが、
──お尋ね者じゃしの儂。直に封印されるか浄化されんかっただけマシじゃろうなー。
協会からは封印指定を喰らい、教会からはDead or Dieな指名手配をされているメギドラにしてみれば、最悪の事態からは程遠い。
むしろ、悪名の高さと異聞帯でやらかしたことを天秤の片側にかければ、有情とも言える扱いだろう。
そうとわかってはいても、満足に足も伸ばせないこの環境に覚える不満は仕方のないことだろうが。
「のーのー、見張り番の若いの。もうちょっと広い部屋は無かったのかの？」
声を張り上げ、独房の外で番をしている青年へと扉越しに声を掛けるが、返事はない。
少しして独房の中に取り付けられたカメラが僅かに動き、メギドラの姿を捉えた。
が、異常がないことを確認したのか、すぐにカメラは元の方向へ首を向けた。
「……これじゃよ」
飽き飽きしたようにメギドラは呟いた。
彼女の話術を警戒してか、メギドラの封印に関わった人物は皆耳栓を着用していた。
独房も防音対策が施され、会話は室内のスピーカー越しに行われるほどの力の入れよう。
応急処置にしては余りに厳重すぎる各設備には一流魔術師達の涙ぐましい努力の跡が見えていた。
評価されていることを喜びべきか、会話すら儘ならぬ今を悲観すべきか。如何ともし難い。
「ぬあー……暇じゃー……」
浄化結界に振れない程度に身体を伸ばし、退屈そうに欠伸する。
閉鎖空間に数日閉じ込められた程度で狂うほど、今更ヤワな精神はしていないはずだが、退屈は不死者さえも容易に殺す。
下手に怨念で自足自給が可能なせいで、虜囚の最大の楽しみである食事の機会すらメギドラには無く、出来ることは天井を眺めることのみ。
悪霊故に眠る必要が無いのも平常は便利だが、捕縛された今は無聊をかこつのに拍車をかける一方であった。
「…………む？」
と、その時。メギドラは違和感を感じて耳をそばだてた。
すっかりルーチンとなった静寂と手持ちぶたさの中に異物が混ぜ込まれた気がしたのだ。
微かな駆動音を目で辿ると、メギドラは何もしていないのにカメラが首を振っていた。
「なんじゃあいったい？」
壁から背中を離し、少しでも顔を近づけようと立ち上がる。
メギドラの背では独房の天井からはまだまだ距離があったが、夜目の効く彼女にはここからでもカメラレンズの動きが見て取れた。
『メギドラ・エイハブ・サレナ、面会客だ。出ろ』
独房の中に光が漏れた。重々しく開いた電子錠扉の向こうには完全武装した聖団の騎士数名が一挙一動に目を光らせている。
抵抗の意志はないことを示すように、メギドラは手錠のついた両手を頭上に挙げた。
◆
通されたのは対霊結界に覆われた一室だった。
部屋は証明の明かりをよく反射する真っ白な内装で、真ん中にはポツンと寂しくテーブルが置かれている。
メギドラが入ってきた扉とは別に、反対側に扉がもう一つ。二色のランプがその上にあって、今は赤いランプが灯っている。
小さくもないが大きくもないテーブル越しに、向かい合わせになった二つのパイプ椅子の片方には鎖が結ばれていた。
この部屋に連行されている間に言われていた通り、鎖の先についたカラビナ錠を手錠の鎖に噛ませる。
すると、電子音のようなものが聞こえてきて、赤いランプが消えると同時に緑色のランプが点灯した。
圧縮空気が漏出し、扉が開く。
そこにいた小さな影を認めた時、メギドラは以前感じた嫌な予感が的中したのを知った。
「やっほ、メギドラ。元気にしてた？」
「戯け。死体に元気も何もあるか」
「それもそうだね」
軽口を叩きながらザイシャ=アンディライリーは扉を締める。再びランプが赤に切り替わる。
久々に見た白い少女は例の襤褸ではなく、小さなスーツを纏っていた。
それが七五三か何かを祝う子供のように見えてメギドラは思わず吹き出した。
使い込まれ、草臥れたスーツは、ボサボサ髪のザイシャが着ると妙に様になっていたが、似合っているからこそ余計に笑いを誘った。
メギドラが急に笑いだしたのを気味悪そうに見ていた彼女は、ややあって視線が自分の衣装に向けられているのに気がついた。
「もしかして、これ？」
「そうそう。く、くっふっふふふ……似合っておるぞザイシャ」
「そりゃ、オーダーメイドだからね。成長しないし身体にピッタリ合うのを作ってもらった」
「オーダッ……！ くっはっははふはっ！ いや、似合っておるぞ？ それは本当じゃぞ？
でも、スーツ、スーツと、しかもオーダーメイ……あっはっはっはっは！」
爆笑するメギドラ。ザイシャは呆れたように呟く。
「……退屈すぎて笑いのツボがおかしくなってない？」
「そうかもっ、そうかもしれん、くふっ、ふふふっ……」
ザイシャは曖昧に笑い返すと、カメラに向かってひらひらと手を振った。
メギドラの奇行が異常事態ではないことを示しているのだろう。
そして、メギドラの笑いがまだ続くと踏んだのか、気にせず持参した鞄から何か小さな機器や書類、筆記用具などを取り出していく。
ザイシャがテーブルに細々とした道具を並べ終えた時、ようやくメギドラの横隔膜が落ち着いた。
「ふっふふふ……はぁ……はぁ……。やっと収まって、きたぞ……ふくっ……」
「落ち着いたようで何より」
「うむ。ふぅあー……苦しかった……」
呼吸を落ち着ける少女を横目に、ザイシャはペットボトルの飲み口を傾け、唇を濡らす。
思い出したようにテーブル越しに「飲む？」と尋ねたが、メギドラが首を振るのを見てキャップを締めた。
「それでザイシャ。儂になんの用じゃ？ これだけ厳重な整えが用意されとると言うことは知人の顔を見たかったわけでもあるまい」
改まったように、先程のころころと笑う少女の顔を打ち捨てて、メギドラは老練な魔術師としてザイシャに尋ねる。
ザイシャはメギドラの雰囲気の変化を頃合いと見て、ゆっくりと頷いた。
「ええ。理解が早くてこちらも助かります。メギドラ・エイハブ・サレナ」
敬語。
つまり、これから始まるのは虜囚のメギドラへの要求ではない。メギドラを対等な立場に置く取引だ。
僅かにメギドラが身を乗り出し、手錠に繋がれた鎖がジャラ、と音を立てた。
「単刀直入に言いましょう。メギドラ・エイハブ・サレナ。司法取引に興味はありませんか？」
「司法取引、じゃと……？」
訝しむようなオウム返しにザイシャが頷く。
「はい。我々は悪霊及び呪いの専門家のアナタに、対霊・対呪装備のアドバイザーとして協力をお願いしたいと考えています」
「…………ほう」
「ファルス・カルデアとウィルマース財団は些か清廉潔白が過ぎます。蛇の道は蛇というように、邪法に造詣の深い協力者は必要です。
ただでさえ、我々の所有する人員は上から下まで引っくるめて四百余人。希少な専門知識を持つアナタを独房で腐らせておくのは惜しい」
なるほど、確かに筋は通っている。メギドラは思案する。
しかし、真に清廉潔白な組織であったとしても、メギドラを開放するメリットとデメリットは天秤が釣り合わない。
まだ、何かがあるはずだと瞼の裏に視線を残して口を開く。
「それだけではなかろうて。あるんじゃろ？ 他にも理由が」
「はい」
躊躇なくザイシャが肯定した。
「第一に、政治的な理由です。現ファルス・カルデアは一つのまとまりのようで、実際は複数組織の集合です。
内部での力関係は混沌としながらも、核となるファルス・カルデア及びウィルマース財団を上位とする関係を築いています。
しかし、各組織の思惑までは統一できていません。誰もが心を一つに、なんてわけにもいかず水面下では小さな小競り合いなども度々。
アナタは非常に強力な呪術師です。開放するにしても事件後に対立するだろう組織に関係を持たせるのは好ましくない。
無関係な立場を与えなければパワーバランスを脅かしかねないでしょう。余計な波風を立てたくない、というのがカルデアの本音です」
メギドラが納得するように首肯する。
「ふむ。つまり、アドバイザーという立ち位置に置くことで、儂を組織共の力比べから排せるということじゃな。
……にしても、思っとった以上にギスギスしとるのうここ。人が集まれば派閥ができるのも仕方ないことではあろうが」
「誰もが善人というわけではありませんから」
ザイシャはそう嘯く。
「第二に、コストの問題です。現在、このファルス・カルデアでアナタを捕縛するために何人の人員を費やしているかご存知ですか？」
「ふむ、そうじゃな。儂クラスにもなれば……四百人、なんてどうじゃ？」
戯けたようにメギドラが言う。
ザイシャはそれに取り合わず静かに否定した。
「その四十分の一です」
「なんじゃ外れたか。……が、四百人のうちの十人とな。大相警戒しておるようじゃな」
「内訳は、まず見張りとして聖団のセイント・ナイトが六人、三交代制で稼働しています。
次にアナタ専門の監視役が三人。こちらも三交代制でカメラの操作と映像監視、及び連絡を行います。
そして、脱走を予期して常に一人の悪魔祓いが待機するようにしています。……正直、これでもギリギリです。
アナタという魔術師への対策には甘すぎるでしょう。が、これが我々がアナタの捕縛続行に許される猶予。
彼らは快諾してくれましたが、日々の憔悴と不満の蓄積を鑑みれば、いずれ監視体制は崩壊するでしょう」
「……ぶっちゃけるのう」
「事実ですので」
ザイシャはメギドラへ数枚綴りの資料を滑らせる。
「これは？」
「人類史の白紙化収束までのファルス・カルデア内の人員が受けるストレス予測量と、それが与える混乱を図式化したものです。
ファルス・カルデアの人々の多くはアナタを警戒しています。現状、即ち監視体制の継続は引き伸ばしでしかありません。
ゆくゆくは宙に浮いたアナタの処遇を元として分裂する可能性も高い。今ここで白黒を決めるべき、ウィルマース財団の長の意向です」
「処遇……つまり、処刑か、協力という名の隷属か。ということじゃな？」
「隷属とは語弊があります。事件後には開放されるのでご安心ください。形式的にはアナタと、当ファルス・カルデアは対等な立場にあります」
「欺瞞じゃな」
ザイシャが頷いた。
パチリとテーブルの上の機器のスイッチを入れる。
「オフレコですが。ウィルマース財団最高責任者、アーサー・マイヤーはアナタを、いえ、当事件の被疑者を誰も殺したくないようです。
私がこの事件に矢衾警備保障の契約社員として関わったのも、元はと言えば彼からの個人的な依頼を受けてのことでした」
「……なんじゃと？」
「既にお気づきでしょうが、私の本職は殺し屋ではなく交渉人です。契約内容は捕縛したO-13メンバーの無力化と生命の保障。
対外的には、偶然居合わせた契約魔術の上手に捕虜との交渉を任せたことになっていますが、全て彼の指示に従ってのものです。
さっきも言いましたが、現ファルス・カルデアの人々は善人ではありません。アナタやO-13を殺してしまうほうが早いと考える者も多いです。
故に、O-13、ウィルマース共に関わりのない第三者として介入し、捕虜の人権保障と同時に周囲の軋轢を軽減することを依頼されました」
もちろん個人的な目的からも利害が一致したので承諾しましたが、とザイシャは呟く。
「事実、O-13幹部の月光氏は、命を代価とする限定的なギアス五枚への署名並びに自己強制証明への記名。
収縮型SH.ME.EL.装着による魔力の制限を以て無力化されたとして、幾ばくかの自由を得ています。
実際にはスクロールを文法で誤魔化して生命に関わる契約は結ばれてはいませんが、そういうことになっています」
悪事を働くならまず法律家を抱き込め、ということらしい。
メギドラはニヤニヤと笑う。
「くっふっふ。悪じゃのう、お主」
「正義を名乗った覚えはありませんから」
それに、とザイシャは続ける。
「本来はSH.ME.EL.だけでも無力化には十分なんです。……ですが、不安を削ぐには過剰な説得力が必要となります。
自己強制証明は有名ですし、命を奪うというのもインパクトがあります。疑いを晴らす虚仮威しにはぴったりでしょう。
が、ことアナタだけには生命を担保にすることはできない。もう死んでいますから。……それが第三の理由です」
ザイシャが小さな機械のスイッチに再び手を掛ける
彼女はメギドラに向かって"静かに"のジェスチャーをする。
先程の話には触れるな、と言いたいのだろう。
「ジャミング装置です。この部屋、盗聴されていますから」
スイッチを切るとザイシャは素知らぬ顔で佇まいを正した。
そして、一枚のスクロールと共にペンを滑らせる。
「さて、無駄話にそれましたが、これらがアナタをアドバイザーとして迎えたい理由です。納得していただけたでしょうか？」
◆
「はい、メギドラ。手錠の鍵外したよ」
「おお！ やっと外れたか！ ん〜、自由に身体を伸ばせるのは良いもんじゃの！」
翌日。司法取引が受理され、メギドラは晴れて自由の身となった。
見張りは既に引き払われたようで、独房には鍵束を持参したザイシャだけがやって来た。
どうやら、矢衾に所属していても契約社員の彼女はフットワークが軽いらしい。
関係の薄さを見込まれてか、メギドラの身元引受人としての役割も引き受けていた。
手続き上、両日中はザイシャの部屋でしか枷を取れないが、明日にはそれらの拘束も解けるということだ。
望めば私室も与えられるということで、メギドラへの縛りはかなり緩まっているようだった。
「なんにせよ、メギドラの部屋が用意されるまではルームメイトだから。また、よろしく」
「うむうむ。しばらく世話になる。……まさか、こちらでも同室になるとは思わんかったがの」
「同感。聖団と対立したならもう浄化されてるかと」
「……こやつ、いっそ清々しいくらい薄情じゃな」
ぶつくさ言いながらメギドラはマットレスのないベッドに腰掛ける。
殺風景な部屋だ。室内を見渡しながらメギドラはそう思った。
飾り気を求める気が部屋主にないのは予想ができていたが、余りにも最低限すぎる。
白い少女の心を反映しているようでもあった。
ふん、と鼻で笑ってメギドラはザイシャに向き直った。
「さて、ザイシャよ。そろそろ本題に移ろうではないか？」
「……本題？ なんのこと？」
「とぼけるでない。司法取引までは道理が通っておった。が、どう考えてもおかしいじゃろ。
"申請から受理されるまでが早すぎる"。となれば既に誰かが手を回していたと考えるのが自然。
大方、儂に課せられた最低二日の室内待機も、本来は独房で消費するものの補填じゃろうて。
儂の知る限りでは、そういった摺合せやらの誤魔化しが得意なのはお主しかおらんわザイシャ」
鼻白んで彼女がそう言うと観念したようにザイシャが肩を竦めた。
備え付けの机の引き出しを開け、ザイシャが一枚の羊皮紙を取り出す。
そして、椅子をベッド横まで引き摺ってくると、ちょこんと座って羊皮紙をメギドラに差し出した。
「本当は何日か置いてからにしようと思ってんだけどな」
独りごつザイシャの前でメギドラは羊皮紙をチラと窺う。
癖のある筆記体のキリル文字でびっしりと書き連ねられた文章は、如何なメギドラであっても読み解くのは困難極まりない。
素直に匙を投げてしまうとザイシャの説明を促す。
「読めない契約書とはアンフェアではないかのう？」
「アナタが急かすから。清書前の物しか用意してないのに」
じとりとザイシャが半眼でメギドラを見た。
「仕方ないから口頭で。本当はやりたくないけど。
……端的に言う。メギドラ、私を強くして欲しい」
ザイシャの眼差しは真剣そのものだった。
強くして欲しい、なんとも要領を得ない話だ。
メギドラは茶化すように嫣然と笑う。
「強くする、とな。儂の助力など必要ないじゃろうに。お主は十分に強かじゃ。
専門は交渉なんじゃろう？ 交渉人としてのお主は申し分ない。年齢を加味せずともな。
なら、そのままで良いじゃろ。儂が心配性なだけでお主は十分この世界で生きていける」
「それだけじゃダメ。私はアナタのように強くなりたいの」
聞き分けのない子供のように食い下がるザイシャ。
メギドラはゆっくりと首を振る。
「ハン。ちと欲張り過ぎはせんかの？ 人は万能ではない。万能を目指せば破滅する。
ザイシャ。お主の天分はこちら側ではない。お主が学ぶべきは戦闘ではなく遁走。
後は危険を嗅ぎ分ける勘、戦場に関わらずに稼ぐ術。それだけじゃ。儂が教えることはない」
「それでも。私は強くならないといけない」
「……話を聞かんやつじゃな」
メギドラの目が気怠げに歪み、その刹那、ザイシャの腕が動かなくなった。
彼女がメギドラに腕を掴まれたのだと気づいた時には、既に目の前が回り、ベッドに身体を叩きつけられていた。
明滅する視界に覆いかぶさる影が垣間見える。
「儂はお主に借りがある」
鼻先が触れるほどの距離からメギドラの声が届いた。
「一応はな。感謝しておるんじゃよ。お主が何を目的にしておったかはともかくだ。
あの退屈で窮屈な部屋から出してくれたお主は恩人じゃ。故に恩に報いて今は殺さん」
じゃが、とメギドラが言葉を切る。
紫の瞳がザイシャの目を覗き込んで爛々と、酷薄に、凄惨に、星光を瞬かせていた。
ザイシャの顔に青褐色の手が添えられ、クイと顎を引かれる。
吐息が唇を撫でた。
「儂はお主を殺すぞ。いや、訂正する。儂はお主を"殺したい"。殺して堕とし怨念の一部としたい。
今はそれを自制しておるだけじゃ。いつかは柵など捨てて殺すじゃろうて。抵抗すらさせんでのう。
"強くして欲しい"？ 戯けが。リスクも考えずに進んで虎口に入る馬鹿者に強さも何もあるものか」
あの"圧"が再びメギドラから発せられる。
怨念は凝固し宝石となり、煌めくオニキスの反射光は生者への嘲笑を描き出す。
撓垂れ掛かる死の直感は纏わりつくようにザイシャの身体との接地面を広げ、紫の眼光は寄り添う額の感触から逃げ場を失ったことを告げる。
リュートのように艶やかに震える扇情的な息遣いは、確かな殺意と、突き放す壁のような拒絶を彩っていた。
「もう一度言おう。ザイシャ。必要なのは"それ"ではない。お主が身に付けるべきは危機感、そして身の程じゃ」
吐き捨てて、ザイシャを押し倒す死が徐々に身体を持ち上げる。
重圧のあまりに忘却された息が数秒ぶりに呼吸を再開した。
けほけほと咳き込み白い少女を鼻で笑うと、メギドラは机の天板に腰掛けた。
これで弁えることを知らない小娘も懲りただろう。
そう判断して、メギドラは余暇を消費するためにザイシャの羊皮紙の解読に着手し始めた。
「んむ……？ ……ほうほう。こりゃ面白いのう」
随分、古い契約だった。
今ほど魔術が洗練されていなかった頃の産物。元から読ませることを目的としていない一方的に相手を縛るための契約書だ。
恐らくはメギドラが"生きていた"時代でも、尚、失伝していておかしくないものの筈。彼女自身、目にするのは初めてだ。
構造解析を行う。魔術式に滞りはなく、完璧な書式で製作されていた。
内心、舌を巻く。メギドラは交渉人としてのザイシャへの評価を僅かに上昇させた。
どうしてザイシャがこんな魔術を知っていたのかはわからない。が、物珍しいことに変わりはなく、意図せずして目を奪われる。
彼女を突き動かす衝動は"飽き"。見たこともない魔術式は魅力的なパズルゲームに等しい。
クリスマスツリーの下の小包を見つけた子供がいそいそと包装紙に手をかけるかのように、メギドラは、つい、羊皮紙に描き出された紋様に気を取られてしまった。
……空隙が、出来た。その隙間を艶消された切先が抉じ開けた。
疾風が駆け抜ける。
「……メギドラなら、夢中になると思ってたよ」
喉笛から死者の血が迸り羊皮紙を叩く。
首元を抑えるメギドラの手から、小さな白い手が羊皮紙を奪い去った。
「ザイ、シャ……？」
怯えも震えも嘘だったように、鉄仮面のような無表情を浮かべるザイシャがいた。
ワスプナイフで指先を掻き切った彼女は溢れる血で羊皮紙の裏側に自身の本当の名前を書きつける。
そう。────"ジピィズィア=アンケル・バジュロンステ"と。
「契約成立。これはね、とても不平等な契約書なんだ。昔の人が悪魔と契約するために考えた束縛魔術。
成立には意志も同意も必要なく、被契約者の肉の一部、この場合は血だね、それを以て締結させる。
人には効き辛いんだけど……怨念と悪霊の塊のアナタには効果覿面だったでしょう？ ねぇ、メギドラ？」
「契約書が偽物というのは！」
「ごめん。それは嘘。アナタを引っ掛けるために嘘をついた」
メギドラの身体に重圧が伸し掛かる。
ありとあらゆる敵意を縛り上げるように契約はメギドラ・エイハブ・サレナという悪霊を定められた約条に封じ込めていた。
──謀られたか！
立ち上がれないほどの枯渇の中で殺されつつある自由を振り絞るようにメギドラが尋ねる。
「……ザイシャ=アンディライリーが、……本当の名前じゃった、のではない、のか……？」
ザイシャがバツが悪そうに頬を掻いた。
「私としてはそのつもり。……なんだけど、不本意ながらザイシャは仮の名前だから。
グロース=アンディライリーの作品、『呪歌六節』の私に与えられた真名は"星辰鋲『第三呪詛・逆流』"。
変な名前でしょ？ ヘイヤ=ヘイ・ハムサンドウィッチよりも、つけた人のセンス疑っちゃうよね、これ」
「それが、お主の……切り札と言うわけかっ……！」
契約魔術は歴史を内包していると言われる。
猜疑と不忠に満ちた魔術師たちは遥か古しえより裏切り、裏切られ、互いに信を置けない生物であった。
そんな彼らの間を円滑に保っていたのが、ギアスを初めとした契約魔術である。
時に行動を、時に心を、時に魂を縛り、強制によって務めを遵守させる背信殺しの魔術。
それさえも騙し合いの手立てとした彼らが織りなした不実の紋様は何時如何なる時代も発展を続けた。
例えば、それは名前。
かつては真名のみが通用した署名は、やがて意志の名の下に通り名さえも拘束するようになり、契約の均衡はより正確に進んだ。
ザイシャが嘘の名前で契約を滞りなく進めることが可能であるのも、偏に契約に必要なのは真名ではなく意志の介在ゆえのこと。
ある魔術師曰く、現代契約魔術の根幹を為すものは自認である。
自認を種子とするために契約魔術の使い手は、書式を取り決め、他者の理解を早め、納得に基づいた記名を持って之を結実させる。
しかし、正の発展があれば負の発展も有り。
技術の系統樹の脇道の中には、より不確かな記名を許し、血判によって契約を押し付ける呪詛じみたものも多く産まれた。
その一つがザイシャの用いた悪魔契約術。通称、『レメゲトン』。
悪魔概念に沿った存在の肉の一部と術者の真名によって対象を楔する、契約魔術の最果ての一枝である。
「真名は隠すに越したことはない。契約魔術の上手には常識だよ。私たちは現代魔術を知りながら古い契約も解してる。
アナタのように神敵と承認されているうえに封印指定なんて食らってる呼び名ならギリギリ悪魔認定通ったみたいだね。
そんなわけでメギドラを生かすも殺すも私次第。心や思考までは操れないけど、魂は補足済み。拘束力も私次第、ほら」
ザイシャが宙を法則的に撫でるとメギドラの身体が嘘のように軽くなった。
閉じられた回路がようやく開放を許可され、メギドラはザイシャとの間にパスが結ばれていることがわかった。
どうやら羊皮紙はあくまでも術式に留まっているようだ。
メギドラを縛るのは"悪魔との契約"という概念に近い。絆を保証しているのは血塗れの契約書ではなく世界そのものであった。
ちょうどそれは、異聞帯でメギドラが用いたサーヴァントシステムによく似ていた。
違うところと言えば、メギドラを抑え込む令呪に強制力が薄く、代わりに回数が無限に近いことであろうか。
俗な言い方をすれば、今この瞬間においてメギドラはザイシャのものにされていた。
「……そうかそうか。くっふっふっふ……お主は初めから儂の身体が目的だったわけか」
「まあ、当たらずといえども遠からず、……ではある」
「熱烈なプロポーズじゃなー。まったく、儂を伴侶に迎えたいのであれば二つ返事で頷くというに。
もしや幼い顔に似合わず海千山千の儂も裸足で逃げだすようなあられもないプレイを好むのかのう？
くくく……毎晩どれだけ乱暴に饗されるのやら。ああ、今夜が怖くて怖くて実に楽しみじゃなっ！」
「メギドラ、色々と卑猥」
冷淡に嗜められメギドラは肩を竦める。
「冗談じゃよ。で、この契約の理由は？」
「アーサー・マイヤーの出した条件の一つ。彼は甘ったるいくらいに慈悲深いけど愚かなわけじゃない。
アナタのことを提案した時、外道を繰り返したアナタを司法取引だけで開放することは出来ないと言われた。
だから、取り決めたことがこれ。私がアナタに半永久的な枷を嵌めること。事件が終わったら破棄するけどね」
「お主も十分甘い気がするがの」
「うっさい」
身元引受人とザイシャは自称した。
なるほど、確かにこれはそのものだとメギドラは苦笑する。
複雑な内心を知ってか知らずかザイシャは続ける。
「出来なければ独房に戻すか、あるいは浄化するかの二択だった。そういうことだから少しだけ我慢して欲しい」
「……それを儂に話せば協力したじゃろうに」
それができるならそうしている、とザイシャが自嘲するように言った。
「『レメゲトン』は相手の同意があると成立しない。私はその枷を外せるほど熟達してなかったから。
アナタに話さずに、私の実力で血を奪うことが必要だった」
「……面倒じゃなそれ」
「うん。面倒くさかったよ。とっても」
疲れ切ったザイシャが深く溜息をついた。
メギドラ・エイハブ・サレナの強さはザイシャ自身、身に沁みていた。戦闘力だけでなく権謀術数に長けた彼女を煙に巻くのは困難だ。
司法取引を求めた時からずっと気を張って鉄面皮を浮かべていたのだから、その疲労の程も当然のことであろう。
緊張の糸が切れたのかワスプナイフを放り投げて床にぺたんと座り込む。
そんな彼女をメギドラは嬉々として見下ろしていた。
「それにしても、じゃな」
メギドラはニヤニヤとしながら机から飛び降りるとへたり込んだザイシャの顔を覗き込む。
「儂を助けるために随分と骨を折っていたようではないか？ ん？ いやはや、嬉しいことじゃのう。
再会した時には薄情に見せかけとった癖に、実は湖面の下では駆けずり回っておったとは可愛い奴め」
「……別にそんなつもりじゃ」
「愛い奴。愛い奴。うりうり。素直じゃないのー、このこのー」
憮然としてそっぽを向くザイシャの頭をグリグリと撫で回す。
鬱陶しそうにザイシャが舌打ちして手を払い除けた。
「私は、アナタに借りを返したかっただけ。後は強くなるためにアナタの助力が必要だと思った。
それだけ。他意はないし、素直も何も、私は最初からアナタを利用するつもりしかない。わかる？」
吐き捨てるようにザイシャが言うがメギドラは相変わらず、いや、一層ニヤつきを浮かべていた。
またザイシャが溜息を、今度は疲れ以外の感情をふんだんに込めて、長く息づいた。
「返し過ぎだと思うなら、アナタが私に戦い方を教えることで借りを返して。これが私の望み。
私は、私が生きる目的を成就させるために今すぐにでも強くなりたい。だから、メギドラ。お願い」
……思えば、これまでザイシャはメギドラに常に真摯であった。
あの異聞帯の戦いの中、こちらの手の内はファルス・カルデアの者たちには一切知られていなかった。
それはメギドラが敢えて隠していたこともあるが、欠片たりと漏れ伝わっていないのはザイシャなりに誠意を示したからに違いない。
今もそうだ。従わせることができるなら強制すればよいのに、こうして絡繰りも何もぶちまけてメギドラの意志を尊重している。
──ま、見とって退屈せんしの！
よって真摯な態度に免じて、彼女の一途な眼差しに根負けすることにした。
「くふっ。良いじゃろう。自由の代価とは言え、今の儂はお主の下僕。主の望みを叶えんわけにもいかんじゃろうて」
「……それじゃあ」
「うむ！ こんなに可愛い弟子なら大歓迎じゃよ。伝授してやろうとも、不死者の戦い方、小兵の戦い方をの。
ただし、覚悟しておくことじゃな。儂は教えるのが下手でのう。故、やり方はとってもスパルタじゃぞ？」
くつくつと笑いながら、ウィンクするように片目を閉じてザイシャに右手を差し出す。
間、髪入れずに白い手が勢いよく掴んだ。
「知ってる。コロッセウムで十分味わってたから」
「それは重畳」
立ち上がる笑顔は恐れ知らずに浮かべられ、メギドラもまた破顔する。
嗚呼、なんという愚か者。
古来より囚われた悪魔の甘言は聞かぬことこそ道理である。
術者を殺せば軛は外れる。そのくらいはメギドラにもわかっていた。
隙を狙い彼女を殺せば一石二鳥。自由と魂を得られるだろうに。
愚かで、幼くて、底が浅く、人を信じすぎる。
……だからこそ。
メギドラは思う。人は、愚者とは、これほどまでに愛おしいのだと。
「あっ、そうじゃ！ 味わいついでに儂の身体も味わうかの？ 実を言えば最近ご無沙汰でのぅ」
「……メギドラ」
「くっふっふ。冗談じゃよ。お主にそっちのケがあるようには見えんしな。……でもなぁ、儂は上手いぞー？
性別など儂は気にせぬし、なにより肌を重ねるのは心地よいし人恋しさも埋める。お主もきっと気に入──」
「メーギードーラー！」
「あっはっはっ」
目前にあるのは寂寥に狂った三月兎。
されど茶会に他の客はなく、狂気の雫は真っ赤な紅茶を盛んに注がせるのみ。
あるいはメギドラが取り込むことこそが彼女にとっての救いであろうと、本気で考えている。
が、約束した手前だ。ランプの魔人を気取って、今だけは彼女の良き隣人であろう。良き友人であろう。
自分らしく面白半分にザイシャ=アンディライリーを見守ってみようと、そう、メギドラは気紛れながらに思うのだ。
エピローグ2:ザイシャ=アンディライリー
異聞帯収束後、部屋に戻ると旧式のストーブには既に火が入っていた。
上部に乗せられた湯沸かしからはシュンシュンと蒸気が漏れ出し、灼けるような部屋の空気の中に滑らかさを与えていた。
ザイシャは戦闘用の人革服を脱ぎ去るとハンガーを探す。
「そら、ハンガーだ」
横から差し出された捜し物。
ザイシャはその手の主に視線を向けないままにハンガーを受け取る。
「ありがと。ジョン」
襤褸切れの袖に鉄製のハンガーを通し、クローゼット代わりの空っぽの棚に押し込む。
ザイシャはマットレスの敷かれていないベッドに寝転んだ。硬い反発が背に触れていた。
「それで。お兄さんには会えたのか、ザイシャ？」
「外れ。"
……それと、ジョン。会いに行ったつもりはないよ。私に家族なんていないもの。
後継機としてはプロトタイプの死に水くらい取ったほうがいいかなって気が迷っただけ」
「……相変わらず素直じゃないな。お前は」
ザイシャは拗ねたように側面に寝返りを打つ。
「うっさい。別にいいでしょ。私は私。改善する意欲も予定もない」
「メギドラ・エイハブ・サレナに弟子入りするのか？」
「弟子になるつもりはこれっぽっちもない。あっちも私を弟子にして受け継がせたいものはないだろうし。
そんなウェットなものじゃなくて、単に謝礼を条件に専門家に知識を提供して貰うようなものだよ」
「そうか。……しかし、学校にも行ったことのないお前が自ら教えを請うとは驚きだな」
少女は身体を起こし、ベッドの隅に腰掛ける。
細く小さな足がベッドの横にブラブラと揺れていた。
「……今回のことで自分の限界がわかった。知識不足も。"あいつ"が作った身体に頼ってるようじゃ論外。
電脳なら私はたぶん、誰にも負けない。でも現実の私はあまりにも弱い。無力が過ぎる。
だから自分で戦う力が欲しい。広い現実で通用する力を手に入れなきゃダメだ。……私が、私として生きるためにも」
「変わったなぁ、お前」
ザイシャは不敵に笑う。
「タフになったでしょ？」
「うむ。俺も次に逢った時が楽しみだ」
拳を握り込む。
誓うように。あるいは別れを惜しむように。
この手に掴むのは空想ではなく理想でなくてはならない。
だからこそ、ここで一度さよならだ。
「もっと、もっと強くなってみせるよ。空想なんかじゃない、本当のアナタに出会うその日まで。絶対に」
微笑みが届いたような気がして、室内の暖気が冷え込んでいく。
ストーブも、紅茶も、暖かな声も、全ては望んで没入した脳の誤認。幻覚。
感情は操作できる。が、度が過ぎれば現実との境を失う。
その先にあるのは感情の劣化。狂気の崩壊。精神の死。
故に腹側皮質視覚路と聴覚系を弄って意図的に誤情報を目と耳で認識させていた。
空想とは言え、実体として感じられるものなら感情のトリガーには間違いない。
電気信号の中に見る夢も、嘘とまやかしの白昼夢も、煩雑さの違いを除けば空想であることには変わりない。
しかし、煩雑だからこそ感情は動かされ、今日も劣化せぬまま心をアベレージまで押し上げる。
共感覚幻想の申し子は、空っぽの部屋で満たされたように笑みを浮かべた。
狂っている。
そう、狂っているとも。
少女は寂寥の中で溺れ、狂気を覚えた。
しかして狂人ならば彼女は人のままであるのだろう。
──なら、それでいい。
自意識に手を入れ、思考を奪い、強制的に眠りに落ちる。
夢は見ない。されど、父殺しを為すその日を夢に見て。
僅かにメギドラ・エイハブ・サレナを思い出す。
嗚呼、私はこの狂気のままに誰よりも強くあろうとも。
壊れた白兎は数時間後の目覚めまで僅かな死の裡に揺蕩った。
◆
「これ、起きんかザイシャ」
クッションに埋もれるように眠るザイシャを誰かが揺り起こした。
薄く目を開くと一月のうちにすっかり馴染みとなったメギドラ・エイハブ・サレナの紫の瞳と目があった。
「…………眠い」
「馬鹿者。お主の眠りは単に電源切っとるだけじゃろうが。ほれ、動けば元通りになる」
「………………二度寝、するぅ」
「別に良いが、寝るなら今日の稽古は無しじゃな」
飛び起きた。
「起きる」
「最初からそうせい。と、今日の分の魔力を貰うが良いな？」
「ん」
ザイシャが右手を差し出すとメギドラが指を絡めた。
怨念を基に存在する彼女だが、新たに悪霊を取り込めない現環境で暴れるのは少し辛いらしい。
以前、『レメゲトン』で結ばれたパスを利用し、こうして日頃から少量の魔力をザイシャから得ていた。
魔力を供給しながらザイシャが大欠伸をする。
「お腹減った」
「うむ。ならば食堂に行くぞ。お主はただでさえ魔力を馬鹿食いするのじゃから朝くらいしっかり食べんか」
「えぇ……朝は飲み物だけでいいんだけど……」
「好き嫌いを言うでない。食べ物から得られる魔力なんぞ極微量じゃというに」
「おかーさん、身体食べさせて」
「だからお主を産んだ覚えなど無いわ！ というか食わせるわけがなかろうが」
ベシベシとメギドラはザイシャの額を叩き、無理矢理に身体を引き摺っていく。
背後から「ぅ゛ぇぇぇぇ……」と妙な鳴き声が聞こえたが無視。
ファルス・カルデアの住人たちは、すっかり朝の風物詩となった姿をすれ違う度に微笑ましそうに見送っていた。
メギドラも既に慣れていて、寝起きにべったりと甘える癖のある友人の口に、食事を放り込むことを兎に角考えていた。
恥じ入るは今やザイシャのみ。目が覚めきってしまえば気不味そうに目を背けることだろう。
◆
「…………忘れて」
予想通り、朝食を半分ほど押し込まれたザイシャは悔いに満ちた切歯と共にそう言った。
メギドラは呆れたように返す。
「忘れるも何も見飽きたわ。嫌ならもう少し早く起きれば良かろうが」
「食事なしだと完全起動に二時間はかかる。早起きは無意味」
「なんで得意げなんじゃよそこで……」
食堂には小さな電光掲示板が取り付けられ、今日も連絡事項を表示している。
朝食を掻き込むザイシャの前で、手持ちぶたさなメギドラはそれを眺めた。
「バイアクヘー�教�還、か。第二異聞帯も収束したようじゃな。そろそろ仕事じゃぞ、ザイシャ」
「え゛」
ザイシャが嫌そうに顔を顰める。
「えー……面倒くさい……」
「仕事じゃろうが。お主の他に契約魔術の上手はおらん。ほれ」
「メギドラは私の下僕だし、代わりに打ち合わせ行ってきてくれない？」
「儂は契約には詳しくないのは知っとるじゃろうが戯け。観念せい」
その時、ザイシャに与えられた通信端末にショートメッセージが届いた。
文面を確認したザイシャは、不服さを隠さずに朝食のトレイをメギドラの方に寄せる。
「ウィルマースに呼ばれたから準備してくる。メギドラ、片付けお願い」
「はいはい。下僕めにお任せあれ御主人様、なーんての」
戯れながらメギドラも立ち上がる。
ふと、急ぎなのかチラと時計を見て席を立ったザイシャを呼び止める。
「ん？ なに？」
「いってらっしゃい。頑張るんじゃぞ？」
「……。行ってきます」
くつくつと笑うメギドラへ、僅かな逡巡の後にザイシャは返事し食堂を出ていく。
ほんのりと、少しだけ胸の中に柔らかなものを感じた。
──馬鹿馬鹿しい。
電気信号で代替可能な情動をそっと仕舞い込んで、ザイシャは自室へと急いだ。
伴うはフラットなアベレージ。永久凍土のような冷徹と狂気で心を閉じる。
甘い誘惑は狂気を薄める。もっと、もっと、心を奥深くへと。
狂"人"でなくなる日を恐れるように、ただ、己を消し去る。
しかし、雪解けは近いのかもしれない。
日に日に、恐れは暖かさを求めて不器用に手を伸ばしていた。友人と呼べる存在、メギドラ・エイハブ・サレナに向けて。
メギドラを嫌いなわけではない。されど、これは道理ではない。道理ではないのだ。
自身を狂気によって人と定義づけるのであれば、寂しさの根治は死へ至る道でしか無い。
ザイシャにとっては理に適わない感情、自身の続行を優先するなら今すぐ記憶を改竄するべきであろう。
主の意志をわかっていて、心は目を逸らした。
"それもいいんじゃない？"
他愛のないことを呟くように。
心の謀反に気づかぬままに寂寥と自分を同一視した石頭計算機はただ、歩く。
どんな結果を及ぼすか、それは彼女にも、もとい、この世の誰一人にもわからないことであるが、どうやら無自覚ながら寂寥はほんの少しだけ晴れてきたようだった。
兎狩りでの死霊との出会い。未来は吉と出るか凶と出るか。
今は、霧中を歩んでいく。
【極限闘争死線 コロッセウム / 傍伝・兎狩りと死霊についての記録 了】
nevadakagemiya
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