最終更新: nevadakagemiya 2017年11月10日(金) 07:50:04履歴
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嫉妬の話
気がつけば彼女はベアトリーチェ・ポルティナーリによって組み敷かれていた。
前斎宮は彼女に欲情している。彼女に恋している。その宝具を以って彼女を情欲の炎で焼き尽くし自分を襲わせてみようと
企んだこともあった。即ち、この状況は、自分が攻め側でないこと以外については前斎宮が臨んだ光景だったはずなのである。
だが、そこにいるのは念願が叶い喜ぶ前齋宮でもなく彼女の宝具に情欲を励起させられたベアトでもない。あるのはただ、
咄嗟の出来ごとに目を眩ませ混迷の波に飲まれる少女と、ベッドの上の彼女に馬乗りになってどこか剣呑な──情欲から起こ
るそれとはまるで似つかない、攻撃的な──眼差しを前齋宮の瞳に写す金髪の少女の姿だけだった。
────身体が、動かない。
頬に添えられ輪郭をなぞる右手はゾッとするほど冷たい。右肩に添えられた左手と股座に押し込まれた右足は、前齋宮を逃
しはしないと述べているかのように布越しの重みを伝えていた。
蛇に睨まれた蛙、という言葉があるが今の前齋宮はまさにその蛙だった。天敵に出逢った恐怖でも今際の時を慰める人生の
影絵を眺めるのでもない。天変地異に襲われた人間がポッカリと口を開け立ち止まるように、予想だにしなかった非日常に襲
われたからこそ足は根を張り金縛りになる。そして、前齋宮を押し倒すお姉様──ベアトリーチェという想定外(へび)に睨ま
れている前齋宮(かえる)もまた。
ふわりと、ベアトリーチェの身体から甘い香りがする。前齋宮が磔になったベッドからも同じ香りがするから彼女の体臭な
のかもしれない。嗅覚だけが妙に研ぎ澄まされ、前も、後ろも、彼女に包まれて。なんだか酔ってしまいそうだと、マーブル
模様の思考の底で他人事のように。そんなことを考えていた。
「さて、貴女に言っておきたいことは幾つかありますが……」
どこか陶然とするように目を回す前齋宮の頬から右手を引き戻すと、ベアトは人差し指の腹を犬歯で噛み切った。ぽたり、
ぽたりと滴り落ちる雫がベッドを彼女の瞳と同じ色に汚して行く。が、ベアトはそれに構わず前齋宮の口元に指先を当てよう
として────ふと、サディスティックな笑みを浮かべると前齋宮の目先まで伸ばして呆けたままの瞳を赤く陵辱し始めた。
ぽたり。ぽたり。ベアトの瞳と同じ色になった前齋宮の左目が血涙を涙腺に溜め、こぼれ落ちる。つう、と耳まで伸びた涙
の跡が傷口のように残っていた。ベアトは前齋宮の横顔に接吻するかのように身体ごと傷痕を追うと、血涙を流す少女に覆い
かぶさりその耳元に口元をつけた。微かな息遣いが前齋宮の内耳を擽り甘い痺れのような感覚が広がる。
「貴女の宝具は厄介です。それに、今は動転しているようですが直に正気を取り戻すでしょう。故、縛らせていただきますわ。
……身体が痺れてきたでしょう? もう、瞳から私の血が染み渡りましたから逃げられるとは思わないことですね。さて、命
令は二つ。宝具を使ってはいけません。そして、貴女の身体は私がいいと言うまで動きませんからそのおつもりで」
囁かれれば囁かれるほど。ゾクゾクとした快感が脳神経を這い回り服従してしまいたくなってくる。膝先で踏まれた股座が
心地良い。伸し掛かかられている重さも、ベアトの胸で潰され息苦しさを訴える胸も痺れを巡らせるスパイスと化していた。
未だに赤くぼやけたままの視界はまだまだ血を吸い続けており、希釈されていない原液を飲み干してしまった前齋宮は夢でも
見ているかのように恍惚としていた。今、ベアトに一言囁かれればどんな屈辱的なことでも首肯してしまうだろう程に彼女の
心は赤血に塗りつぶされていたのだ。
────これが、精神操作系サーヴァントの戦いであり、同時に彼らの恐ろしさである。
前齋宮──もしくはドロレス・ヘイズ──とベアトリーチェは共に精神に干渉する能力を持つがその特質は少々ズレている。
例えば前者の宝具・スキルは観念的な精神に作用し、かつて少女たちへ向けられてきた欲望の視線を再現し積み重ねて共有さ
せることで、視認をトリガーに対象の精神障壁や人格を一時的に吹き飛ばし自分の肢体への欲情で埋め尽くす。いわば起源覚
醒者に近いものだ。例えば後者の宝具は洗脳概念を元として精神の源である人体に作用するもので、都合の悪い記憶を無意識
の底に沈め、神経伝達物質を操作し自分の目的を至上命令としてプログラミングする。記憶野と神経系を改竄することで心自
体を書き換えるものだ。両者共に、一度浸透してしまえばどんな大英雄でも逃れることはできず、故に勇猛スキルなどが持つ
精神耐性を過信せずに神経を研ぎ澄ますことが彼らへの対抗策になり得るのである。
さて、この二者が相対した場合だ。彼女らの帰結とは即ち詰将棋である。
前者の自動的な欲望喚起を後者自らが己の脳を刻み続けることでレジストし、前進と後退を繰り返しながら宝具以外の手段
を以てして自分が二歩動けるだけの隙を生じさせるというのが典型となる。精神への干渉能力という駒を一度捨て去り、あり
とあらゆるカードを切って鬼札を場に出す瞬間を稼ぐのである。
つまり、一旦ジョーカーを切ればあとは手遅れになった相手を支配するだけで────
「はい、洗脳解除。……ほら、何をぼうっとしているんですか前齋宮。確かに命令はそのままですが返事くらいできるでしょ
う? 早く正気にお戻りなさいな」
「………………………………………………えー」
サービスタイムも終了であった。
話そうにもこの体勢では落ち着かないと抗議した前齋宮とベアトの協議の結果、ベッドの上に座ったベアトが前齋宮を背中
側から抱きしめベアトに体重を預けるという形に落ち着いた。俗に言うあすなろ抱きである。
一瞬浮かんだ役得感は、この体勢ならいつでも絞殺できそうですからと笑顔で言い放ったベアトの目がマジだったので霧散
した。仮に洗脳が解けても自分を視界に入れずに対処するための位置取りだろうとは予想がついていたが、まあそれはそうと
背中に当たる柔らかさはやはり格別であった。
「さて、と」
本日三回目の"さて"を告げたベアトは前齋宮のつむじをぐしぐしと弄りながら詰問を始めた。
「どうしてこうなったのか、身に覚えはありますか?」
「いえ、まったく」
即答だった。
「そうでしょう。ええ。そうですとも」
ベアトの軽い口調と共に髪をいじっていない方の腕が前齋宮の首に回された。心なしか少しづつ間隔が狭まっている気がした。
「あの、お姉様……首が絞まって……」
「知っていますよ?」
さも当然のことだと言うような白々しい声が余計に殺意を際立たせている。やばい、マジで殺す気だこの人。
首の筋肉も動かせないため絞殺に対抗する反射も起こらない。こうともなれば耐久Cもハリボテ。ギリギリと万力どころか
ギロチンめいて来た喉の圧迫感に慌てて前齋宮は声を紡いだ。
「え、えーっと……あ、そうだ。この前寝てる間にこっそり胸を揉んだことですか?」
「…………そんなことやってたんですか貴女」
あ、墓穴掘った。と、そう思う間にもまた首枷が締まってきた。肉付きの薄い腕がダイレクトに骨で気道を圧迫してかなり苦しい。
二酸化炭素を排出できないと直訴する脳味噌をなだめながら、上手い言い訳とベアトの逆鱗に触れたエピソードを掘り起こそ
うと頭を巡らせていると、そんな前齋宮を見ておもむろにベアトは深いため息をついた。
「思い当たることが多すぎてわからない、ということですか?」
「そ、そんな感じ、です……」
藁にも縋る思いで肯定すると、ベアトがまた呆れたようなため息をつきながら首から腕を離す。数十秒ぶりに自由になった
肺が喘ぐように酸素を取り込んだ。
酸欠だった血流がこの世の春を謳歌していると、俄に頭の上に重みが増した。どうやら前齋宮はベアトの顎掛けにされたよ
うだった。減算式どころか指数関数的に人権が失われていくのを感じる。グリグリと。二、三度頭頂部を圧迫して座りのいい
ポイントに落ち着くと、前齋宮の頭蓋に寄り添ったベアトの喉が静かに動き始めた。
「貴女、あの子に……永遠の淑女のベアトリーチェに手を出そうとしましたね?」
思い出した。数日前に目の前のベアトとはまた別の天使ベアトリーチェをナンパしてみたのだった。結局、ダンテに操を立て
ていることを懇切丁寧に説明され、「では、さらばです!」と爽やかに自主トレに向かう彼女の背中を見送る結果となったのだが。
……が、前齋宮の率直な反応はといえば、
「……え……それ?」
困惑だった。確かにあわよくばとは思っていたが誘い止まり。宝具を使ったわけでもあるまいしここまでベアトが不機嫌に
なる理由がわからなかった。しかし、この返答は彼女を満足させるものとはかけ離れていたようで途端に声色が神経を逆撫で
られたように感情的なものへと変わった。
「はぁ? それとはなんですかそれとは」
「いや、だって」
首に腕が回された。
「なんでもないです……」
「よろしい」
離れた。
「貴女の行いは彼女から全て聞きました。一字一句。全てです。いいですか前斎宮。あの子にはダンテ・アリギエーリという
相手がいるんです。彼女の恋路を妨げると言うなら私への宣戦布告と見なしますよ?」
「わかりました……けど。お姉様はどうしてそこまで?」
「可愛い妹のようなものだから、それ以外に理由がありますか?」
なにか、他にも理由があるような。そんな気がした。
しかし、今の前斎宮にはその答えがわからなくて沈黙した。
数十秒の時が無為に過ぎる。そして、沈黙を破るようにベアトがふわりと欠伸をした。
「さて、私はもう寝ます」
「…………え」
四度目のさてを眠そうに呟いたベアトはカチカチとリモコンを弄り空調と照明を操作する。平然としているベアトとは対象
的に狼狽しているのは前斎宮である。
「あのぅ、お姉様? その、ですね。……私の身体は?」
「…………?」
「いえ、ですから。ね? ほら、私の身体の自由を返してもらわないと」
「ああ。なんだ、それですか。可愛い妹分をナンパした罰です。今夜はそのままで朝を迎えなさいな」
「ええーっ?!」
反論の言葉を浮かべようとする前斎宮。が、脳が正常に回転を始める前に視界が傾き衝撃が訪れた。
ベアトが前斎宮ごとベッドに横になったのだ。
「冗談ですよね! いくらなんでも冗談ですよね?! 冗談と言ってくださいお姉様ぁ!」
「おやすみなさい」
取り付く島もなく。
耳栓とアイマスクを装備したベアトは寝息を立て始めた。
────どうすればいいんだろうこれ。
すやすやと眠る吐息をBGMにして、今日はずっと困惑してたなぁとそんなことを考えながら前斎宮の夜は更けていったのだった。
××
「と、言う事がありまして」
「自慢したいだけなら帰れ小娘」
一蹴を受けた。
今日もまた不機嫌そうなダンテ・アリギエーリ──永遠の淑女の想い人であるダンテではなく彼女を生み出した詩人の方の
ダンテ──は急な客人を自室の外に叩き出そうとする。
「ベアトリーチェはお前がもう一人のベアトリーチェにナンパしたことに嫉妬してヤキモチを焼きました。これで解決でいいだろ。
お前は嫉妬されて嬉しい。俺も客を追い返せて嬉しい」
どうやら彼は原稿を仕上げている最中だったようで、結構容赦なく邪魔者を蹴り出す。
が、前斎宮も目的があってここに来たわけで。ダンテの足癖に必死になって食い下がった。
「真面目な話でここに来たんです! あれから口聞いてくれなくて。貴方ならお姉様のことをよく知っているから、きっと、
昨日の夜に何があったかわかると思ったから訊きたいんです!」
「………………。はぁぁぁ……」
詩人は如何にも面倒臭さを押し出すように──どこか少しだけベアトを彷彿とさせるような──ため息をつくと、
「入れ。お前を持て成すつもりは微塵も無いが……あんたも不味いコーヒーを飲みに来たわけじゃないだろう。俺の執筆を邪
魔しないのなら椅子の一つくらいは貸してやるさ」
「さて、小娘」
インクと安コーヒーの臭いが充満した薄暗い書斎の奥で、真新しい原稿をバサバサと束ねて端の方に追いやったダンテは愛
用の机に腰掛けながらコーヒー入りの紙コップで口を湿らせる。そして、最初の"さて"を言いながら、客人用の丸椅子にちょ
こんと座った前斎宮へ向き直った。
「あんたは俺たち英霊が、いや、人間がどうして自分を認識できると思う?」
「哲学の話ですか? 私はそんな話をしたいわけでは」
「いいから言ってみろ。自分なりの答えでいい」
しばらく誰とも話してなかったのかダンテの声は少ししゃがれ(・・・・)ていた。
不味そうにコーヒーを喉奥へと押し込みながら前斎宮の答えを催促するように顎をしゃくる。
「……私は私だから、ではいけませんか?」
「ああ。それでいい正解だ」
コップの中身を飲み干し前斎宮の答えを力強く肯定する。
「あんたは幻霊ドロレス・ヘイズの霊基を陵辱し、同じく前斎宮という幻霊の身でありながら主導権を握ってここに立ってい
る。普通ならそれはおかしい。なぜなら、あんたという人物は空想の産物だ。元になった人物がいるわけでもなし、あんたと
いう人格は書物に書かれた以上のリアリティと人生を得てここにいる。俺の作品の主人公も似たようなもんだけどな。まあ、
あんたと違って十分な信仰を得ているがね? なんせ俺の書いた作品だからな」
「……自慢したいだけですか?」
「そうでもある」
前斎宮は不服そうにダンテを睨む。すると、ふっと鼻を鳴らしたダンテはやれやれと大仰に手を振ってみせた。そしてカツ
カツと音を立てて前斎宮の後ろに移動し、予定表らしきプリントに埋もれたホワイトボードをひっくり返しマーカーを手にした。
「が、本題はここからだ。あんたはそんなフワフワとした存在でありながら、自らの実在性を『私は私』という言葉だけで証
明した。それはなぜか。簡単なことだ。あんたは世界によって連続性を自覚するようにセットされているからだ。例えばそう
だな……」
ホワイトボードに向かってなにやら書き始める。しかし、一分も経たぬうちからピタリと筆運びを止めてしまうと、がしが
しと頭を掻き毟り忌々しげにホワイトボードを追いやった。
「下手なんですね。絵を描くの」
「……やかましい。俺は詩人だ。絵が書けずとも言葉を繰るのが本業だしそれで十分だとも」
今度は苛立ったように鼻を鳴らしたダンテは机にマーカーを投げ捨てる。
「ともかく。あんたは世界によって人格の連続性を保証されている。それがどれだけあやふやなものであっても、あんたがあ
んたを認識している限り前斎宮として認識されるということだ。ここまではいいな? もしわからんと言われても再度説明す
る気など俺にはさらさら無いぞ。では、話を続ける。これはあんただけではなく俺もまた同じだ。俺は一度死んだ人間であっ
てフィレンツェに生きたダンテ・アリギエーリそのものではない。だが、俺は俺を俺だと認めている。もちろん、こいつは俺
の素晴らしい文才がダンテ・アリギエーリそのものだと肯定しているから、ということもあるが、最も重要な部分では、なに
、あんたと何も変わらない。英霊であるからこそ俺の自認は世界に補強されている。……のだが、困ったことにこいつは英霊
として召し上げられる前の、つまり生前のダンテ・アリギエーリには及ばない。だから人間の頃と同じように不安になるわけ
だ。俺は果たして本当にダンテ・アリギエーリなのか、とかね」
霊長は自我の存在と存続を無意識に証明したがるんだ。そう付け足して腕組みする。
「さて、およそ英霊には二種類ある。史実から生まれた俺のようなタイプと、あんたのように書物や伝説の登場人物が信仰を
得た結果英霊となったタイプだ。後者は時に、史実の人物が後世の信仰によって形を歪められたようなものも含んでいる。こ
れはパカル王のような英霊だな。さて、焦点をこの無辜の怪物に置こう。このスキルを持つ英霊も二つのパターンに別れる。
無辜に違和感を持っている者。そして違和感を持たず受け入れてしまっている者だ。では、この二者を分けるものは何だと思
う? 俺の予想だが、こいつを左右するのは信仰だ。信仰が多いほうが真実かどうかには全く関わりなく事実として優先され、
その進行度が本人の意識に現れるんだ。それではなぜ姿が歪むのかといえば記録と物語の差だ。前者は断片でも機能するが後
者は人生を描かねばならない。そして前者には介入の余地が多く後者には少ない。ならば、英雄を元に作られた物語は断片を
上書きしてを勝ち取るだろう。……信仰なんてものは非常に曖昧だ。事実というものは実に薄っぺらく弱いのさ。それこそ、
あんたのような幻霊よりもね。逆説的に言えば物語というのは信仰の対象として完成しているんだよ。架空型英霊。実在型英
霊。実在型から派生した無辜型を自覚無自覚で甲乙の二種に分ければ四パターンの英霊たち。この中で最も安定しているのは
創作物を元にしている架空型英霊だ。彼らは信仰を向けられる対象が物語であり、副次的に登場人物が信仰対象となる。物語
を崩してしまえば成立しないからこそ、無辜型英霊たちのような変質を免れている、というのが俺の仮説だ」
流言風説噂ゴシップ創作後付エトセトラエトセトラ。
語り手に悪意がなくとも口伝のデッドコピーが連鎖していけば簡単に嘘は裏返り真実は遠ざかる。歪み歪んだ果てのその極地
となれば史実だったはずの人物が単なる伝承の主人公に塗り替えられてしまうだろう。それが歴史であり信仰というものだ。
だが、これが前斎宮や神曲の登場人物であるダンテ・アリギエーリならどうだろう。彼らは架空型英霊である。その原点には
元となった作品が残されており、絶対不変の定礎が残されているが故に彼らの姿があやふやなに歪むことは無い。架空が幻霊
を越え英霊という実像を結ぶには相応の信仰が集約されていることに他ならず、単独でそれほどの信仰を集められるものが大
多数に歪んだ姿を真実として認知されているわけが無い。
これに対する反証として神話・伝承が上げられるかもしれない。確かに様々な矛盾を抱える神話群は、あらゆる物語とは年月
と共に劣化し変遷する情報であるという事実を指し示す反証になっただろう。
もしも、神話が架空である世界だったとすれば(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。
神話は歴然とした事実であり第二のシュリーマンが現れずとも英雄の実在は世界に証明されている。伝承に現れるブレとは実
在型英霊の有する特徴の典型的なそれでしかない。
「さて、少し脱線したが話を仕切り直そう。俺はさっき生前を例に上げたな? この不安により強く襲われるのは人間だ。英
霊と違い自分を自分だと定義してくれる信仰などない。基準がないからそれを外部に求める。誰かに触れて、触れ返されて、
ここにいる自分を再認識する。精神的なスキンシップだよ。例えば家族や友人などの人間関係。例えば国や組織から与えられ
る役柄。例えば金。例えば成功。そして、例えば作品に対する評価。人は承認されたがっている。自分が、紛れもないたった
一人の自分が確かにここにいると言う確証を得たがっている。地に足をつけるどころか重りでベッドに足を縛り付けなきゃ夜
も眠れない。それが人間なんだ」
故に、と詩人は言葉を区切った。
「ベアトリーチェ・ポルティナーリの話をしよう。泥濘の新宿で、ダンテ・アリギエーリへの恩讐を叫び続けた女の話をしよ
う。彼女は先例に従って分類すれば無辜型乙種英霊の最終段階、つまりは伝承に飲み込まれた英霊と定義できる。だが、あん
たの知る彼女は自分を永遠の淑女とは思っていないはずだ。それにはロストクラスの霊基を得たことも関わるが、多くを占め
るのはやはり洗脳という幻霊を取り込んだことだな……。彼女は朧げな記憶を頼りに無辜の影響を排除し、無辜に侵される前
の状態に自分を洗脳し続けることで生前のベアトリーチェという存在を保とうとしていた。……だが、その連続性というもの
は誰に保証されている?」
新宿にいた少女は確かにサーヴァントだった。しかし、彼女の霊基は永遠の淑女によって埋め尽くされていて、無辜の怪物
を切り離してしまった後には、かつての面影は欠片ほどの復讐心しか残っていない。結局、そこにいたのは自分が誰だかわか
らない英霊未満の少女だった。
人ですら自己確認の最終ラインに他ならぬ自分の記憶が存在している。が、復讐心以外の全てが欠けているベアトリーチェ
にはそれすらも残ってはいない。彼女にできることは、唯一覚えていた憎悪を無限増幅させ、藁にもすがるようにダンテとの
繋がりを保つことだけだ。
人は誰かに触れなければ生きていけない。昨日の自分と今の自分が同一人物であると、自分が何者で本当にこの肉体で呼吸
をしているかを再認できなければ狂ってしまう。ならば、自分との触れあい方も忘れてしまった彼女は生きるために憎まざる
を得なかったのだから。
「ついでに言えばシモーネの野郎──失敬、夫への操を守っていることもだ。顔も知らない男のために貞操を貫くのは信仰心
の表れなんかじゃない。そうすることで自分はベアトリーチェだという確信を持ちたかったんだ。あんたのスキル、たしか…
…堕落の姫君? も、彼女には効果が薄いんじゃないか? それもそのはず。ベアトリーチェは存在意義を手に入れるために
信仰を利用した、むしろ俗な人間だと言ってもいい。不安なのだよ。原型を失って、意味を失って、繋がりを失って、たった
ひとりの彼女は不安で不安でたまらなかったんだ」
本に埋もれた生活をしていたのもその典型だった。
物とは所有者の表象だ。私物を増やし外付けの自分を増やすことでベアトリーチェは自分という個を再確認しようとしてい
たのだろう。商売にならない貸本屋を営んでいたのも同じことで、地に足がつかない不安を解消するためにわかりやすい役柄
に自分を填め込んだのだ。
「つまるところだ。新宿にいた少女はありのままの自分を、ベアトリーチェ・ポルティナーリだとか永遠の淑女だとか、そう
いうややこしいアレコレ以前に、彼女という人間がここに存在しているという事実を認めて欲しかったんだよ。マズローのピ
ラピッドでいえば成長欲求が満たされようと欠乏欲求が充足しなければ乾きを潤せないようにね。あんたが『私は私』だと言
ったように『貴方は貴方』だと真正面から肯定すれば、彼女はそれだけで救われるのさ」
ご静聴どうも。と、男は空になった紙コップを洗い場に投げ入れた。
「お姉さまのことはわかりました。ですがそれが昨日の様子と何か関係がありますか?」
「ああ。もちろん。なんせ彼女を救ったのはあんただからな」
「わたし?」
「そうとも」
鷹揚に頷いたダンテは、部屋を跨いで食器棚を漁ると新しいカップをコーヒーメーカーにセットする。彼が今どんな表情をし
ているのかは前斎宮の位置からは窺い知れない。コポコポとコーヒーの落ちる音が少しだけ寂しげに思えた。
「まあ、詳しいことは面倒だから省略するが、ベアトリーチェはあんたを憎み始めたおかげで視野狭窄から立ち直り、他人と
接する機会が増えていったことで自己の連続性を認識した。が、考えてみろ。彼女は憎悪を燃やすことしか他人との触れ方を
知らなかった、というより依存していた。こういうものはそう簡単に矯正できるものでもないから今でも癖(、)が残っている
わけだ。つまり、執着が強いんだよ彼女は。今生で初めてできた友人かつ恩人を独占したがっている」
「いや、ですからそれがいったい──」
少女が首を捻ると信じられない物を見る目つきでダンテが振り返った。
彼の眼差しは、これだけ噛み砕いて話してなおもこの小娘はわからないのか、という驚きを言外に述べている。完全に文化圏
の違う人間を見るものだった。
あー、と非常に面倒くさそうに顔を覆い口を開く。
「だから最初に言っただろう! 嫉妬だ嫉妬! 浄罪山の第二冠。七つの罪で蛇が表す一だ!彼女の憎しみの性質は相手がこ
ちらを向いていることが前提となる臆病な恩讐。そして、彼女の根底には永遠の淑女へ侵食されることへの怯えがある。要す
るにコンプレックス。大方、あんたは永遠の淑女と彼女が似ているとでも言ったんじゃないか? すると彼女は自分が奪われ
るというトラウマと、友人が取られた事への未発達な妬みが程よく刺激され、無意識にあんたの気を引こうと行動に出たわけ
だ。妹に親を取られた姉という図式にも置き換えられる。OK?」
「……へ?」
あまりにも予想外な答えに彼女は思わず間の抜けた声を出した。
そんな前斎宮を白々と見ていたダンテはコーヒーを混ぜながらため息を付いた。
「なんだその間抜け面は」
「いや、えーと、いつも私に冷たいばかりのお姉様がそんな感情を浮かべるのが意外すぎて。……嫉妬、嫉妬かー、へー、ふーん」
嬉しそうに百面相している前斎宮を気持ち悪そうに見ていたダンテは、先程までコーヒーを混ぜていたマドラーで彼女を指
し示すと、皮肉たっぷりに口の端を挙げた。
「舞い上がっているところ悪いが彼女のそれは憎悪の対象には等しく注がれるぞ。押して駄目なら引いてみろとは言うが、突
然手を引っ込められたらつい指先を目で追ってしまうものだ。……まあ、憎しみに比例するからお前への嫉妬は俺へ向けられ
るものよりも小さいがな!」
冷水をかけられたような気がした前斎宮はじっとりとダンテを睨んだ。
「……自慢したいだけですか?」
「そうでもある! ハーハッハッハッ!」
「〜〜〜〜〜ッ! ありがとうございました! 謎も解けたので私は失礼します!」
「ふん、まあ、そう怒るなよ。彼女があんたを特別視しているという話は嘘ではないのだから。人間は誰かに触れていないと
生きられないと言っただろう? だが、素肌に触れることを許すのは家族や友人なんかの身近な者たちだけ。少なくとも彼女
はあんたに触れたいと思っていたし、触れてもいいくらいに身近な人間の枠に入っているのも確かだ。案外、添い寝くらいな
ら了承してくれるかもしれんぞ?」
「アドバイスどうもありがとうございます」
出入り口の前に移動していた前斎宮がわざと平坦な声で返すとダンテは愉快そうに笑った。
「なんにせよ。あんたを追い回している時の彼女は生き生きとしている。時々は、彼女の部屋を訪ねてくれれば俺も嬉しい」
そう告げてじゃあな(、、、、)と去ろうとする彼の背中に、ふと少女は尋ねた。
「そこまでわかっていらしたならどうして貴方がお姉さまを救おうとしなかったんですか?」
…………足が、止まった。
「どうして、とは?」
「そのままです。貴方がしていたお姉様の解析は、新宿にいた頃には、……いいえ、お姉様に新宿で出会ってすぐに終わって
いたんじゃないですか? 私、少し怒ってます。私がお姉様を救えたというなら確かに嬉しいです。でも、どうしてお姉様の
ことを誰よりもわかっていて、私みたくお姉様を追い回さずとも救うことができた貴方が、どうして助けなかったんですか!」
────記憶の中のベアトリーチェは、いつも苦しんでいた。
復讐者になることも出来ないくせに恩讐の彼方へと血を吐きながら疾走し、いるのかさえもわからないダンテ・アリギエー
リの名を叫ぶ。本を手に空想する以外は楽しみもなく、空虚な毎日をたった一人で。彼女を追い回していた前斎宮だからこそ
わかる。あの頃のベアトは、かつてのダンテが作り出した檻に閉じ込められ、必死に泣くのを堪えていたただの(、、、)少女だ。
だから、ほんの少し頭に来ている。
他でもないベアトを苦しめる原因となったダンテが、彼女を救えるたった一人の彼が、自分のような者に彼女を任せて逃げ去っていたのだから。
キッとダンテを睨みつける少女の耳に、何かが掠れるような音が聞こえた。
いや、すぐに気がついた。これは目の前の男の、小刻みに身体を震わせる男の笑い声だと。
「なにが……!」
おかしいと続けようとした前斎宮をダンテの手が遮った。
「……なぁ、小娘。俺の本を読んだことはあるか? 神曲の中でダンテは死後己が傲慢さ故に地獄に落ちることを予言した。
詩人とは紙面に浮かべる夢の中では全知全能の神と自惚れ、過去を、未来を、世界を、斯様に歪めて作品にしてやったとほざ
く背信者。信じる聖書は著作のみ、それ以外は友人も偉人も師も敵も味方も愛した人でさえも等しく次作のネタに過ぎないと
コキュートスの底でふんぞり返るのが詩人だ。ああ、なんと傲慢であるのだろうか詩人とは! 森羅万象は己を中心に回ると
断じ、時には神の子に接吻する代わりに唾を吐きかける! 俺は詩人なんだよ小娘。ベアトリーチェを歪めたのは俺の傲慢だ。
物語を原典とするあんたのカタチが変わらないように俺の罪のカタチは神曲という題名で現世に変わらず残り続ける。だが、
それを後悔してはならない。間違っていたと認めてはならない。それを認めてしまえば、俺は詩人ではなくなってしまう。な
ぜなら俺は詩人ダンテだ! 俺が信仰されるに足る功績が神曲だというのならそれを否定すれば俺は詩人の資格を失う! 全
く、その通りだよ小娘。俺には彼女を救えた。もしも彼女に手を差し伸べるものがいないまま新宿の特異点が終幕を迎えたと
したらきっと救っていただろう。でもそれはイフだ! 俺は詩人としてのプライドに固執して彼女を捨てたんだ。そう、現実
を陵辱し嘲笑し好き勝手に改ざんするのが詩人であるがゆえに! ああ、正直に言えばお前に嫉妬しているかもしれない。
俺だけが独占していた憎悪に割り込んで颯爽と彼女を救ったあんたに。なんたる身勝手! これは地獄に落ちるのも致し方ない!」
かつて森で彼を囲んだのは豹と獅子と牝狼だったか。彼は今また森に迷い獅子と対峙しているのだろう。此度は天使の導きも
なく言葉の大河の源流は影さえも見当たらない。あるいは彼が獅子だったのだろうか。咆哮は自嘲的に響き、猛々しきはずの
それはひどく弱々しい。傲慢の報いは過日の灯火を奪い、太陽の黙する方へ彼を追いやっていた。力無く、答える。
「──返答しよう前斎宮。救わなかったんじゃない。俺には既に救う資格なんてなかったんだ。後悔はしない。謝る気もない。
それさえもが図々しい。今更、彼女に合わせる顔もあるものか」
自らを嘲るように笑って詩人は彼の城へと引っ込んでいく。
傲慢の裏に隠した、あまりに弱々しい姿が少女の知る誰かと一瞬だけ被った。
「もう行け小娘。休憩は終わりだ。四日後の締め切りまでは眠る暇さえ惜しい」
原稿を広げながら右手でシッシと前斎宮を追い払う。既に筆を走らせ始めた背中は先程まで彼の話を聞いていた少女のこと
をすっかり頭の中から追い出そうとし始めていた。
だから、ダンテの部屋を出て行く直前──言えば後悔するとわかっていたけれど──前斎宮は振り返って口を開いた。
「……私は、そうは思いませんよ詩人さん。貴方が詩人たらんとしたことをお姉様が誇ることはあれども咎めるわけがありま
せん。だって、────お姉様は貴方の作品が大好きですから」
虚を突かれたように、一瞬だけ彼は筆を止めて。
そして、慰めとして受け止めておこうと詩人は後ろ手を振った。
××
コンコンと扉を叩くと用心深く扉が開かれた。
「おっねえっさまー! 添い寝に来ました!」
「不埒なことをしに来たのでしたら帰りなさい小娘」
一蹴された。
今夜もどこか不機嫌そうなベアトリーチェは邪魔者を叩き出そうとするが、湯上がり髪からほこほこと湯気を立て、まだ身
体に熱が残って暑いのだろうか薄着がちな彼女の姿を見ると、
非常に面倒くさそうに──どこか誰かを思い出すような──溜息をついた。
「入りなさい。歓迎するつもりは欠片もありませんが湯冷めして風邪でも引かれたらこちらも寝覚めが悪いです。私の眠りを
妨げないのなら暖の一つくらいは取らせてあげますわよ」
さて、紅茶はどこでしたかと戸棚を漁り始める彼女は流石に前斎宮を追い出す気は無いようだ。むしろ、少しだけ楽しげな
ようにも見えて。あわよくば添い寝いけるかもなーなんて思いながら、ふと余計なことを口にしたくなった。
「ねえ、お姉様。貴方はダンテ・アリギエーリのことをどう思っていますか?」
漠然とした、脈絡もない一言。……ああ、やってしまった。心象を悪くしたかもしれない。嫌がらせと思われてしまえば紅
茶を出す前に自分が廊下に出されてしまう可能性すらある。と、内心で冷や汗を流しながら前斎宮は身構えていたが、不思議
にベアトは静かで、ゆったりとティーポットを傾けている。そして、
「貴女には三人の恋人がいたそうですね。アレを愛することなど黙示録の日を迎えたとしてもありえませんが、私にとってあ
る意味では似たようなものでしょう。そういうことです」
貴女にならわかるでしょう? と小首をかしげていた。
「……お姉様ってダンテさんと少し似てますね。ツンデレなところとか」
「はっ倒しますわよ小娘」
軽口を叩きながら彼女に抱きついてみると頬をグニグニと伸ばされる。
ふざけて胸に手を伸ばせばはたき落とされた。ついでにデコピンまで貰った。
おどけたようにくるくると回ってベッドに倒れ込めばベアトの匂いがした。
……参った。胸がチクチクと痛む。それは彼女が昨日から一度も前斎宮と目を合わせようとしてくれないのもあるが、なに
より彼女と彼がどこかよく似ていることが少女を苛んでいた。
彼らの間には愛も恋も結ばれることは無い。しかし、ダンテの言う通りベアトの精神的スキンシップの方法が憎悪だったとし
たら彼らは誰よりも近くにあり続けている。ずっと互いを見つめているのだからよく似ているのも頷ける。でもそれは、前斎
宮にとっては急に彼我の間に広がる距離を教えられたようで。……友達を取られた気分になっていたのは自分もだ。
なんというか、好きな人が自分と同じ要素を持つ誰かに振り向かれるのって意外にしんどい。
────でも、これと同じ寂寥を私が彼女に与えたのだとしたら。
────貴女を救った他でもない私に裏切られたように思わせてしまったなら。
ベッドに突っ伏したまま、前斎宮はベアトの姿を盗み見た。
白いシュミーズドヌイに身を包んだ彼女はやはりこちらを見ようともしない。
「お姉様」
「なんですか?」
「ごめんなさい」
ベアトは一口だけ紅茶を啜り、コツンと軽く音を立ててソーサーに戻す。
そして、ベッドまで歩いてくると前斎宮の隣に座って彼女の髪を掻き撫でる。前斎宮が仰向けのままベアトの腰に手を回す
と、拒まずにポンポンとあやすように少女の背中を叩いた。
「何を謝ったかは知りませんが紅茶が冷めてしまいますよ。貴方に風邪を引かせるのは忍びないから招いたのです。テーブル
に付きなさい。……それと、私も大人気なかったです」
「……許してあげます」
顔を上げる。困ったように笑う朱瞳には同じくらい困った顔をした前斎宮の顔が写っていた。
ふいとそのどちらもが綻ぶように歪曲した。
────その日は同じベッドで眠った。以前されたように自由を縛られることもなく。私も珍しく欲情が削がれていて、豊
かな膨らみにピッタリくっついているというのになんの感慨も浮かびはしなかった。ただ、お互いがそこにいると確かめるよ
うに固く強く抱きしめ合って。
これが、気難しい友人との初めての喧嘩と仲直りの顛末だった。
××
「で、その報告をなぜ俺に?」
「一応、貴方のお陰で仲直りできたので。報連相は大切でしょう」
「いまいち間違っているような気もするが……まあ、関係を修復できたのならいいことだろう。俺も、鉄火場を乗り越えて暇
をしていたところだったしな」
読んでいた新聞を畳んで投げ置くと、ダンテは机に載せていた足を下ろして伸びをする。
前斎宮は話を始めた時にダンテに渡されたコーヒーを啜って顔をしかめた。
「……本当に美味しくないのねこれ」
「当然。美味かったら眠気覚ましにはならないからな。カフェインの興奮作用など二徹からはなんの用も為さん。まともなコ
ーヒーを飲みたいなら作家の部屋では飲まないことだ」
「そんなに起きていたいならお姉様に頼んで一晩中叩いてもらったらどう? 貴方を合法的に殴れるのだったらお姉様も喜ん
で付き合いそうなものだけど」
「魅力的だが……詩人に旨いコーヒーは毒だぞ。そんな日が来てみろ。今度こそ俺は昇天だ」
皮肉げに肩をすくめたダンテはコキコキと首を鳴らすとソファに倒れ込む。にわかにホコリが舞い上がって前斎宮の襦袢に
降り掛かった。「あー!」と飛び退った前斎宮は襦袢を叩きながらダンテを睨む。
「眼精疲労がひどくてね。そろそろ俺は寝ることにする。あんたも、そろそろじゃないか」
「ええ。言われなくても出ていきますよ。ひとり寂しく夜を過ごす貴方と違って私はお姉様と二人、愛の巣で獣のようにぬる
ぬると絡まりあって今夜は熱い一晩を過ごしますから!」
「そうだな。彼女は空調の設定温度を高くしすぎるからな。真夏のような部屋の中で抱き枕にされて一晩過ごせば汗に塗れて
ずぶ濡れになるのも明白だろう。文字通り、熱い夜だ」
う……、と前斎宮は痛いところを突かれたように目を伏せた。
前斎宮が彼女と眠るのはかれこれ四回となるが必ずと言っていいくらい抱き枕にされていた。いや、抱き枕にされるのはい
い。合法的に胸を触らせてくれるのだからそれはいいのだ。問題は室温だ。ベアトは寝る前に空調を手動で設定し直す。が、
機械音痴故に加減ができていない。結果室温は上がる。ガンガン上がる。ベアトの体温も高めなので布団の中はサウナ状態に
なる。しかも、妙に熱に強くちょっと多めに寝汗をかくだけで朝目覚めたらケロッとしている。して、抱き枕にされている側
の、正常な感性を持った前斎宮にしてみればたまったものではない。
身動ぎ一つできないくらいがっしり掴んでくることもあって気分はファラリスの雄牛である。
「……意外と力が強いんですあの人。筋力は同じはずなのに……。でも! お姉様の香水ではなくお姉様本来のお姉様スメル
に包まれてこれはこれでいけるというかなんというか……!」
「……あんたは地獄に堕ちてもなんとかやっていけそうだな。羨ましい」
「全然羨ましくなさそうに言いますね……。……私もそろそろ行きます。が、最後にひとつ」
コホンと咳払いした前斎宮は腰に手を当てビシリとダンテを指差した。
「いいですか詩人! 余裕ぶっていられるのも今のうち。毎晩逢瀬を重ねてお姉様を落としてみせますからね! その暁には
貴方のことなんて全部私の舌と指で忘れさせちゃいますから!」
「落とせれば、の話だがな……。おやすみ小娘。扉は閉めろよ。眩しくてかなわん」
「おやすみなさい詩人。そうして吠える声が負け犬の遠吠えになる日が楽しみです」
ダンテに突きつけていた指をそのまま目の下に添えあっかんべーと舌を出すと、捨て台詞を残して少女は去っていく。
詩人はアイマスク代わりの帽子の隙間から見送りながらシニカルに笑った。
「そうだな。もし、もしも彼女が誰かを愛せる日が来るとしたら。俺は悔しがるのだろうか、はたまた喜ぶのだろうか。今は
わからないが、その日は幸せという名前をしているに違いない」
無論、相手があんたとは限らないが。と、独り言を呟く帽子の奥から程なく寝息が漏れる。
カルデアの中で一足早く、夜の帳が詩人の部屋を覆っていた。
<終>
ネタ元
ベアトリーチェ(拳):ほぼ同性同名の別人であることは理解しているが、その本質部分(ぽんこつ)におねーさま味を感じている。
私はこっちのおねーさまでも全然ウェルカムです!マジ天使!
SSのテーマはこのコメントを受けたベアトの反応。
××
おまけ・その後の前斎宮in ベアトの部屋
「…………あの、お姉様。それはいったい」
「? 見ての通りストーブですよ。エミヤさんがジャンクから修理したものを幾つか借りてきたんです。『手慰みで直した
ものだから好きなだけどうぞ』とのことでしたので言葉に甘えて」
「四つも?! 四つも借りる必要はあったんですかお姉様?! あれですよね? 壊れていたから出力が弱いとかそういう
やつですよね?! そうだと言ってください!」
「いえ、『ふっ、手前味噌のようだが最高だ! 正にパーフェクッ!』と仰られていましたよ。
さてさて、今日の夜はかなり冷え込むそうですから全部つけちゃってもいいですよね。ええ、いいでしょう。それがいいです。
……おや、どうしたのですか。そんなに虚ろな目をして」
「あー…………。その、お姉様はお姉様だなー……と」
「よく、わかりませんが、ええ、きっと眠いからでしょう。さ、おいでなさい前斎宮。今夜は羽毛布団も三枚ほど用意してき
ました。春のように暖かな部屋で快適な睡眠に浸りましょう!」
地獄を見た。
翌朝。
「…………生きているか小娘。干上がって死んでいたら寝覚めが悪いと思い来てみたが……
本当に死んでいないよな? 俺の声は聞こえるか? 水は飲めるか?」
「ありがとう、ございます……けほっ、けほっ……なんで、あんなに、暑さに強いんですか」
「知らん。ただ、夏にウロボロスの設定温度がマイナス度になっていたから寒さにも強いぞ。ついでに言えば、今朝彼女がス
トーブを追加で三つ部屋に運んでいたのを俺は見た」
「あの、私、添い寝、今晩も」
「…………『裏切りよ、嘆きとなれ(フェアラート・コキュートス)』貸してやろうか?」
「お願いします……!」
こうして、二人の仲が少し縮まった。
おまけ2・『私は備品を私物化しました』
「寒くないのかな」
防寒ガウンを着込んだ藤丸は雪の中で型の稽古をしている永遠の淑女の方のベアトリーチェを見て何気なく呟いた。ベアト
リーチェの服はそう厚いものではなく、少なくとも雪山の頂上にふさわしい格好とは思えない。現世の影響を受けない彼らで
も実体化すれば寒いものは寒い。だから、本当についぽろっと言ったことだったので、
「はい! 寒くないですよ!」
「うわぁ?!」
かれこれ三十メートルは先にいたはずの彼女に背後から話しかけられ尻もちをついた。
「えーと、私のせいでしょうか?」
「いや、こっちも悪いから大丈夫。ところで寒くないっていうのは?」
「はい! 私達ニンジェルはコキュートスの底から太陽天まで幅広く職務に励んでいるわけですが、環境によって勤務先が狭
まるのは組織として不都合です。『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん』ともいいますし我々天使は労働組
合の門を叩き安息日に通勤デモを決行。見事断熱ケプラー障壁と寒冷地仕様皮膜を祝福扱いで誰もが等しく主より賜ったのです」
「うん。相変わらず何を言ってるのかは全くさっぱりわからなかったけど、ベアトがちょっとした寒暖ならへっちゃらという
ことはわかったよ」
「ちなみに備品なので三界以外への持ち出しは不許可とされていますが慣習的に個人の所有物という見方が強いので結構無視
されてますね。ソウルへと忍術圧縮されているので、いちいち外すのも面倒だという意見もよく聞きます。天使が憑依した際
に暑さ寒さを感じなくなるパターンは備品つけっぱなし組ですから憑依されたときは確かめてみるのも面白いかもしれません」
「そっかー……。……ところでさっき寒くないって言ってたし、ベアトも持ち出しているんじゃない? 私物化して神様に怒
られたりしないのかな。天の使いが着服ってどうかと思うな」
途端に彼女はダラダラと冷や汗をかき始める。
「え、えーと。違いますよ? 別に私物化なんて、あははは、ほら、根性とかですよ根性!
……主(しゅ)よ、違うんです! わざとじゃないんです! 偶然忘れてただけなんです!」
「ホントかなー……。そういえば、気になったんだけどソウル憑依でも有効になるんだよね?」
「え? あ、はい。冷気はコキュートスまで熱は六千度まで耐えられるようになりますよ!」
「…………もう一人のベアトリーチェも熱と冷気に強かったよね?」
「……あっ」
「やっぱり私物化してたんだ……やっぱり偶然じゃなかったんだ……」
「うう……だって便利なんだもん……」
その日から数日、首から看板を下げたベアトリーチェの姿が見られた。
おまけ3・抱き枕
「ところでお姉様」
パリッと音を立ててお茶請けの煎餅がベアトの口元で割れる。湯呑みに注がれた緑茶の茶柱が微かに揺れた。今日は添い寝
しないため昼に集まったのだ。テーブルには大小様々な本が積まれて、対面で積み本を崩していたベアトがその間を縫うよう
に前斎宮へと視線をやった。
「なんですか前斎宮。このお菓子なら気に入っていますよ。ありがとうございます」
「それならよかったです! ……じゃなくて、前々から思ってたんですがどうして私を抱き枕にするんですか……? いや、
まあ気持ちいいから私は構いませんけど……」
「ああ、それですか」
二枚目の煎餅に手を伸ばし文章を追うのを再開しながらこともなげにベアトは返答する。
「眠るときは無性に怖くなるんですよ私は。ふわふわ身体が浮いてしまうのが気持ち悪くて、だから寝る前には必ず何かに掴
まっておくことにしたんです。新宿だと鞄を抱いていました。……が、レイシフト先からカルデアへとは物品を持ち込むこと
などできませんから」
「あ……私、鞄の代わりなんだ……」
「Esattamente(正解です). ちょうど貴女くらいの大きさでしたよ」
「……ちなみに、鞄と私どっちが抱き心地が良いですか」
「鞄。ある程度硬いほうが好きなんです」
「物に負けたー?!」
うぁぁ……と力が抜けるような声を出して前斎宮はテーブルに突っ伏した。
ポリ、と口中の菓子を砕いたベアトはチラと前斎宮を窺い口を開く。
「でも、貴女の前に使っていたクッションやスタンドライトよりは好きですよ。程よい硬さと抱きやすさが共存していますし、
パラメーターの合計は捨てたものでは無いと思うのです」
慰めているつもりか力強くグーサインを出しているベアトの姿に完全に脱力した。
「……もういいです。そのうち、抱き枕が私じゃないと眠れなくなるようにしてあげますから。パブロスの犬のようにお姉様
を調教してあげましょう」
「あらあら、それは怖いですね。ライナスの毛布を作ってしまわないように気をつけないと」
あやすような口調で返したベアトにむうと少女がむくれていた。
「……で、なにか物足りなくて眠れないんですがまさかこれは逆に私が調教されて──!」
「まだ日中だからに決まっているだろう……。そして、なぜ、俺の部屋に来る」
「暇だから。本でも読もうと思ったけど図書館ではコーヒーが出ないのでこちらに」
「…………はぁ。まあいいさ、俺の作業を邪魔しないなら本もコーヒーも好きにしろ」
定位置となった客人用の椅子に座る。不味いコーヒーにも慣れてきた頃の話だった。
嫉妬の話
気がつけば彼女はベアトリーチェ・ポルティナーリによって組み敷かれていた。
前斎宮は彼女に欲情している。彼女に恋している。その宝具を以って彼女を情欲の炎で焼き尽くし自分を襲わせてみようと
企んだこともあった。即ち、この状況は、自分が攻め側でないこと以外については前斎宮が臨んだ光景だったはずなのである。
だが、そこにいるのは念願が叶い喜ぶ前齋宮でもなく彼女の宝具に情欲を励起させられたベアトでもない。あるのはただ、
咄嗟の出来ごとに目を眩ませ混迷の波に飲まれる少女と、ベッドの上の彼女に馬乗りになってどこか剣呑な──情欲から起こ
るそれとはまるで似つかない、攻撃的な──眼差しを前齋宮の瞳に写す金髪の少女の姿だけだった。
────身体が、動かない。
頬に添えられ輪郭をなぞる右手はゾッとするほど冷たい。右肩に添えられた左手と股座に押し込まれた右足は、前齋宮を逃
しはしないと述べているかのように布越しの重みを伝えていた。
蛇に睨まれた蛙、という言葉があるが今の前齋宮はまさにその蛙だった。天敵に出逢った恐怖でも今際の時を慰める人生の
影絵を眺めるのでもない。天変地異に襲われた人間がポッカリと口を開け立ち止まるように、予想だにしなかった非日常に襲
われたからこそ足は根を張り金縛りになる。そして、前齋宮を押し倒すお姉様──ベアトリーチェという想定外(へび)に睨ま
れている前齋宮(かえる)もまた。
ふわりと、ベアトリーチェの身体から甘い香りがする。前齋宮が磔になったベッドからも同じ香りがするから彼女の体臭な
のかもしれない。嗅覚だけが妙に研ぎ澄まされ、前も、後ろも、彼女に包まれて。なんだか酔ってしまいそうだと、マーブル
模様の思考の底で他人事のように。そんなことを考えていた。
「さて、貴女に言っておきたいことは幾つかありますが……」
どこか陶然とするように目を回す前齋宮の頬から右手を引き戻すと、ベアトは人差し指の腹を犬歯で噛み切った。ぽたり、
ぽたりと滴り落ちる雫がベッドを彼女の瞳と同じ色に汚して行く。が、ベアトはそれに構わず前齋宮の口元に指先を当てよう
として────ふと、サディスティックな笑みを浮かべると前齋宮の目先まで伸ばして呆けたままの瞳を赤く陵辱し始めた。
ぽたり。ぽたり。ベアトの瞳と同じ色になった前齋宮の左目が血涙を涙腺に溜め、こぼれ落ちる。つう、と耳まで伸びた涙
の跡が傷口のように残っていた。ベアトは前齋宮の横顔に接吻するかのように身体ごと傷痕を追うと、血涙を流す少女に覆い
かぶさりその耳元に口元をつけた。微かな息遣いが前齋宮の内耳を擽り甘い痺れのような感覚が広がる。
「貴女の宝具は厄介です。それに、今は動転しているようですが直に正気を取り戻すでしょう。故、縛らせていただきますわ。
……身体が痺れてきたでしょう? もう、瞳から私の血が染み渡りましたから逃げられるとは思わないことですね。さて、命
令は二つ。宝具を使ってはいけません。そして、貴女の身体は私がいいと言うまで動きませんからそのおつもりで」
囁かれれば囁かれるほど。ゾクゾクとした快感が脳神経を這い回り服従してしまいたくなってくる。膝先で踏まれた股座が
心地良い。伸し掛かかられている重さも、ベアトの胸で潰され息苦しさを訴える胸も痺れを巡らせるスパイスと化していた。
未だに赤くぼやけたままの視界はまだまだ血を吸い続けており、希釈されていない原液を飲み干してしまった前齋宮は夢でも
見ているかのように恍惚としていた。今、ベアトに一言囁かれればどんな屈辱的なことでも首肯してしまうだろう程に彼女の
心は赤血に塗りつぶされていたのだ。
────これが、精神操作系サーヴァントの戦いであり、同時に彼らの恐ろしさである。
前齋宮──もしくはドロレス・ヘイズ──とベアトリーチェは共に精神に干渉する能力を持つがその特質は少々ズレている。
例えば前者の宝具・スキルは観念的な精神に作用し、かつて少女たちへ向けられてきた欲望の視線を再現し積み重ねて共有さ
せることで、視認をトリガーに対象の精神障壁や人格を一時的に吹き飛ばし自分の肢体への欲情で埋め尽くす。いわば起源覚
醒者に近いものだ。例えば後者の宝具は洗脳概念を元として精神の源である人体に作用するもので、都合の悪い記憶を無意識
の底に沈め、神経伝達物質を操作し自分の目的を至上命令としてプログラミングする。記憶野と神経系を改竄することで心自
体を書き換えるものだ。両者共に、一度浸透してしまえばどんな大英雄でも逃れることはできず、故に勇猛スキルなどが持つ
精神耐性を過信せずに神経を研ぎ澄ますことが彼らへの対抗策になり得るのである。
さて、この二者が相対した場合だ。彼女らの帰結とは即ち詰将棋である。
前者の自動的な欲望喚起を後者自らが己の脳を刻み続けることでレジストし、前進と後退を繰り返しながら宝具以外の手段
を以てして自分が二歩動けるだけの隙を生じさせるというのが典型となる。精神への干渉能力という駒を一度捨て去り、あり
とあらゆるカードを切って鬼札を場に出す瞬間を稼ぐのである。
つまり、一旦ジョーカーを切ればあとは手遅れになった相手を支配するだけで────
「はい、洗脳解除。……ほら、何をぼうっとしているんですか前齋宮。確かに命令はそのままですが返事くらいできるでしょ
う? 早く正気にお戻りなさいな」
「………………………………………………えー」
サービスタイムも終了であった。
話そうにもこの体勢では落ち着かないと抗議した前齋宮とベアトの協議の結果、ベッドの上に座ったベアトが前齋宮を背中
側から抱きしめベアトに体重を預けるという形に落ち着いた。俗に言うあすなろ抱きである。
一瞬浮かんだ役得感は、この体勢ならいつでも絞殺できそうですからと笑顔で言い放ったベアトの目がマジだったので霧散
した。仮に洗脳が解けても自分を視界に入れずに対処するための位置取りだろうとは予想がついていたが、まあそれはそうと
背中に当たる柔らかさはやはり格別であった。
「さて、と」
本日三回目の"さて"を告げたベアトは前齋宮のつむじをぐしぐしと弄りながら詰問を始めた。
「どうしてこうなったのか、身に覚えはありますか?」
「いえ、まったく」
即答だった。
「そうでしょう。ええ。そうですとも」
ベアトの軽い口調と共に髪をいじっていない方の腕が前齋宮の首に回された。心なしか少しづつ間隔が狭まっている気がした。
「あの、お姉様……首が絞まって……」
「知っていますよ?」
さも当然のことだと言うような白々しい声が余計に殺意を際立たせている。やばい、マジで殺す気だこの人。
首の筋肉も動かせないため絞殺に対抗する反射も起こらない。こうともなれば耐久Cもハリボテ。ギリギリと万力どころか
ギロチンめいて来た喉の圧迫感に慌てて前齋宮は声を紡いだ。
「え、えーっと……あ、そうだ。この前寝てる間にこっそり胸を揉んだことですか?」
「…………そんなことやってたんですか貴女」
あ、墓穴掘った。と、そう思う間にもまた首枷が締まってきた。肉付きの薄い腕がダイレクトに骨で気道を圧迫してかなり苦しい。
二酸化炭素を排出できないと直訴する脳味噌をなだめながら、上手い言い訳とベアトの逆鱗に触れたエピソードを掘り起こそ
うと頭を巡らせていると、そんな前齋宮を見ておもむろにベアトは深いため息をついた。
「思い当たることが多すぎてわからない、ということですか?」
「そ、そんな感じ、です……」
藁にも縋る思いで肯定すると、ベアトがまた呆れたようなため息をつきながら首から腕を離す。数十秒ぶりに自由になった
肺が喘ぐように酸素を取り込んだ。
酸欠だった血流がこの世の春を謳歌していると、俄に頭の上に重みが増した。どうやら前齋宮はベアトの顎掛けにされたよ
うだった。減算式どころか指数関数的に人権が失われていくのを感じる。グリグリと。二、三度頭頂部を圧迫して座りのいい
ポイントに落ち着くと、前齋宮の頭蓋に寄り添ったベアトの喉が静かに動き始めた。
「貴女、あの子に……永遠の淑女のベアトリーチェに手を出そうとしましたね?」
思い出した。数日前に目の前のベアトとはまた別の天使ベアトリーチェをナンパしてみたのだった。結局、ダンテに操を立て
ていることを懇切丁寧に説明され、「では、さらばです!」と爽やかに自主トレに向かう彼女の背中を見送る結果となったのだが。
……が、前齋宮の率直な反応はといえば、
「……え……それ?」
困惑だった。確かにあわよくばとは思っていたが誘い止まり。宝具を使ったわけでもあるまいしここまでベアトが不機嫌に
なる理由がわからなかった。しかし、この返答は彼女を満足させるものとはかけ離れていたようで途端に声色が神経を逆撫で
られたように感情的なものへと変わった。
「はぁ? それとはなんですかそれとは」
「いや、だって」
首に腕が回された。
「なんでもないです……」
「よろしい」
離れた。
「貴女の行いは彼女から全て聞きました。一字一句。全てです。いいですか前斎宮。あの子にはダンテ・アリギエーリという
相手がいるんです。彼女の恋路を妨げると言うなら私への宣戦布告と見なしますよ?」
「わかりました……けど。お姉様はどうしてそこまで?」
「可愛い妹のようなものだから、それ以外に理由がありますか?」
なにか、他にも理由があるような。そんな気がした。
しかし、今の前斎宮にはその答えがわからなくて沈黙した。
数十秒の時が無為に過ぎる。そして、沈黙を破るようにベアトがふわりと欠伸をした。
「さて、私はもう寝ます」
「…………え」
四度目のさてを眠そうに呟いたベアトはカチカチとリモコンを弄り空調と照明を操作する。平然としているベアトとは対象
的に狼狽しているのは前斎宮である。
「あのぅ、お姉様? その、ですね。……私の身体は?」
「…………?」
「いえ、ですから。ね? ほら、私の身体の自由を返してもらわないと」
「ああ。なんだ、それですか。可愛い妹分をナンパした罰です。今夜はそのままで朝を迎えなさいな」
「ええーっ?!」
反論の言葉を浮かべようとする前斎宮。が、脳が正常に回転を始める前に視界が傾き衝撃が訪れた。
ベアトが前斎宮ごとベッドに横になったのだ。
「冗談ですよね! いくらなんでも冗談ですよね?! 冗談と言ってくださいお姉様ぁ!」
「おやすみなさい」
取り付く島もなく。
耳栓とアイマスクを装備したベアトは寝息を立て始めた。
────どうすればいいんだろうこれ。
すやすやと眠る吐息をBGMにして、今日はずっと困惑してたなぁとそんなことを考えながら前斎宮の夜は更けていったのだった。
××
「と、言う事がありまして」
「自慢したいだけなら帰れ小娘」
一蹴を受けた。
今日もまた不機嫌そうなダンテ・アリギエーリ──永遠の淑女の想い人であるダンテではなく彼女を生み出した詩人の方の
ダンテ──は急な客人を自室の外に叩き出そうとする。
「ベアトリーチェはお前がもう一人のベアトリーチェにナンパしたことに嫉妬してヤキモチを焼きました。これで解決でいいだろ。
お前は嫉妬されて嬉しい。俺も客を追い返せて嬉しい」
どうやら彼は原稿を仕上げている最中だったようで、結構容赦なく邪魔者を蹴り出す。
が、前斎宮も目的があってここに来たわけで。ダンテの足癖に必死になって食い下がった。
「真面目な話でここに来たんです! あれから口聞いてくれなくて。貴方ならお姉様のことをよく知っているから、きっと、
昨日の夜に何があったかわかると思ったから訊きたいんです!」
「………………。はぁぁぁ……」
詩人は如何にも面倒臭さを押し出すように──どこか少しだけベアトを彷彿とさせるような──ため息をつくと、
「入れ。お前を持て成すつもりは微塵も無いが……あんたも不味いコーヒーを飲みに来たわけじゃないだろう。俺の執筆を邪
魔しないのなら椅子の一つくらいは貸してやるさ」
「さて、小娘」
インクと安コーヒーの臭いが充満した薄暗い書斎の奥で、真新しい原稿をバサバサと束ねて端の方に追いやったダンテは愛
用の机に腰掛けながらコーヒー入りの紙コップで口を湿らせる。そして、最初の"さて"を言いながら、客人用の丸椅子にちょ
こんと座った前斎宮へ向き直った。
「あんたは俺たち英霊が、いや、人間がどうして自分を認識できると思う?」
「哲学の話ですか? 私はそんな話をしたいわけでは」
「いいから言ってみろ。自分なりの答えでいい」
しばらく誰とも話してなかったのかダンテの声は少ししゃがれ(・・・・)ていた。
不味そうにコーヒーを喉奥へと押し込みながら前斎宮の答えを催促するように顎をしゃくる。
「……私は私だから、ではいけませんか?」
「ああ。それでいい正解だ」
コップの中身を飲み干し前斎宮の答えを力強く肯定する。
「あんたは幻霊ドロレス・ヘイズの霊基を陵辱し、同じく前斎宮という幻霊の身でありながら主導権を握ってここに立ってい
る。普通ならそれはおかしい。なぜなら、あんたという人物は空想の産物だ。元になった人物がいるわけでもなし、あんたと
いう人格は書物に書かれた以上のリアリティと人生を得てここにいる。俺の作品の主人公も似たようなもんだけどな。まあ、
あんたと違って十分な信仰を得ているがね? なんせ俺の書いた作品だからな」
「……自慢したいだけですか?」
「そうでもある」
前斎宮は不服そうにダンテを睨む。すると、ふっと鼻を鳴らしたダンテはやれやれと大仰に手を振ってみせた。そしてカツ
カツと音を立てて前斎宮の後ろに移動し、予定表らしきプリントに埋もれたホワイトボードをひっくり返しマーカーを手にした。
「が、本題はここからだ。あんたはそんなフワフワとした存在でありながら、自らの実在性を『私は私』という言葉だけで証
明した。それはなぜか。簡単なことだ。あんたは世界によって連続性を自覚するようにセットされているからだ。例えばそう
だな……」
ホワイトボードに向かってなにやら書き始める。しかし、一分も経たぬうちからピタリと筆運びを止めてしまうと、がしが
しと頭を掻き毟り忌々しげにホワイトボードを追いやった。
「下手なんですね。絵を描くの」
「……やかましい。俺は詩人だ。絵が書けずとも言葉を繰るのが本業だしそれで十分だとも」
今度は苛立ったように鼻を鳴らしたダンテは机にマーカーを投げ捨てる。
「ともかく。あんたは世界によって人格の連続性を保証されている。それがどれだけあやふやなものであっても、あんたがあ
んたを認識している限り前斎宮として認識されるということだ。ここまではいいな? もしわからんと言われても再度説明す
る気など俺にはさらさら無いぞ。では、話を続ける。これはあんただけではなく俺もまた同じだ。俺は一度死んだ人間であっ
てフィレンツェに生きたダンテ・アリギエーリそのものではない。だが、俺は俺を俺だと認めている。もちろん、こいつは俺
の素晴らしい文才がダンテ・アリギエーリそのものだと肯定しているから、ということもあるが、最も重要な部分では、なに
、あんたと何も変わらない。英霊であるからこそ俺の自認は世界に補強されている。……のだが、困ったことにこいつは英霊
として召し上げられる前の、つまり生前のダンテ・アリギエーリには及ばない。だから人間の頃と同じように不安になるわけ
だ。俺は果たして本当にダンテ・アリギエーリなのか、とかね」
霊長は自我の存在と存続を無意識に証明したがるんだ。そう付け足して腕組みする。
「さて、およそ英霊には二種類ある。史実から生まれた俺のようなタイプと、あんたのように書物や伝説の登場人物が信仰を
得た結果英霊となったタイプだ。後者は時に、史実の人物が後世の信仰によって形を歪められたようなものも含んでいる。こ
れはパカル王のような英霊だな。さて、焦点をこの無辜の怪物に置こう。このスキルを持つ英霊も二つのパターンに別れる。
無辜に違和感を持っている者。そして違和感を持たず受け入れてしまっている者だ。では、この二者を分けるものは何だと思
う? 俺の予想だが、こいつを左右するのは信仰だ。信仰が多いほうが真実かどうかには全く関わりなく事実として優先され、
その進行度が本人の意識に現れるんだ。それではなぜ姿が歪むのかといえば記録と物語の差だ。前者は断片でも機能するが後
者は人生を描かねばならない。そして前者には介入の余地が多く後者には少ない。ならば、英雄を元に作られた物語は断片を
上書きしてを勝ち取るだろう。……信仰なんてものは非常に曖昧だ。事実というものは実に薄っぺらく弱いのさ。それこそ、
あんたのような幻霊よりもね。逆説的に言えば物語というのは信仰の対象として完成しているんだよ。架空型英霊。実在型英
霊。実在型から派生した無辜型を自覚無自覚で甲乙の二種に分ければ四パターンの英霊たち。この中で最も安定しているのは
創作物を元にしている架空型英霊だ。彼らは信仰を向けられる対象が物語であり、副次的に登場人物が信仰対象となる。物語
を崩してしまえば成立しないからこそ、無辜型英霊たちのような変質を免れている、というのが俺の仮説だ」
流言風説噂ゴシップ創作後付エトセトラエトセトラ。
語り手に悪意がなくとも口伝のデッドコピーが連鎖していけば簡単に嘘は裏返り真実は遠ざかる。歪み歪んだ果てのその極地
となれば史実だったはずの人物が単なる伝承の主人公に塗り替えられてしまうだろう。それが歴史であり信仰というものだ。
だが、これが前斎宮や神曲の登場人物であるダンテ・アリギエーリならどうだろう。彼らは架空型英霊である。その原点には
元となった作品が残されており、絶対不変の定礎が残されているが故に彼らの姿があやふやなに歪むことは無い。架空が幻霊
を越え英霊という実像を結ぶには相応の信仰が集約されていることに他ならず、単独でそれほどの信仰を集められるものが大
多数に歪んだ姿を真実として認知されているわけが無い。
これに対する反証として神話・伝承が上げられるかもしれない。確かに様々な矛盾を抱える神話群は、あらゆる物語とは年月
と共に劣化し変遷する情報であるという事実を指し示す反証になっただろう。
もしも、神話が架空である世界だったとすれば(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。
神話は歴然とした事実であり第二のシュリーマンが現れずとも英雄の実在は世界に証明されている。伝承に現れるブレとは実
在型英霊の有する特徴の典型的なそれでしかない。
「さて、少し脱線したが話を仕切り直そう。俺はさっき生前を例に上げたな? この不安により強く襲われるのは人間だ。英
霊と違い自分を自分だと定義してくれる信仰などない。基準がないからそれを外部に求める。誰かに触れて、触れ返されて、
ここにいる自分を再認識する。精神的なスキンシップだよ。例えば家族や友人などの人間関係。例えば国や組織から与えられ
る役柄。例えば金。例えば成功。そして、例えば作品に対する評価。人は承認されたがっている。自分が、紛れもないたった
一人の自分が確かにここにいると言う確証を得たがっている。地に足をつけるどころか重りでベッドに足を縛り付けなきゃ夜
も眠れない。それが人間なんだ」
故に、と詩人は言葉を区切った。
「ベアトリーチェ・ポルティナーリの話をしよう。泥濘の新宿で、ダンテ・アリギエーリへの恩讐を叫び続けた女の話をしよ
う。彼女は先例に従って分類すれば無辜型乙種英霊の最終段階、つまりは伝承に飲み込まれた英霊と定義できる。だが、あん
たの知る彼女は自分を永遠の淑女とは思っていないはずだ。それにはロストクラスの霊基を得たことも関わるが、多くを占め
るのはやはり洗脳という幻霊を取り込んだことだな……。彼女は朧げな記憶を頼りに無辜の影響を排除し、無辜に侵される前
の状態に自分を洗脳し続けることで生前のベアトリーチェという存在を保とうとしていた。……だが、その連続性というもの
は誰に保証されている?」
新宿にいた少女は確かにサーヴァントだった。しかし、彼女の霊基は永遠の淑女によって埋め尽くされていて、無辜の怪物
を切り離してしまった後には、かつての面影は欠片ほどの復讐心しか残っていない。結局、そこにいたのは自分が誰だかわか
らない英霊未満の少女だった。
人ですら自己確認の最終ラインに他ならぬ自分の記憶が存在している。が、復讐心以外の全てが欠けているベアトリーチェ
にはそれすらも残ってはいない。彼女にできることは、唯一覚えていた憎悪を無限増幅させ、藁にもすがるようにダンテとの
繋がりを保つことだけだ。
人は誰かに触れなければ生きていけない。昨日の自分と今の自分が同一人物であると、自分が何者で本当にこの肉体で呼吸
をしているかを再認できなければ狂ってしまう。ならば、自分との触れあい方も忘れてしまった彼女は生きるために憎まざる
を得なかったのだから。
「ついでに言えばシモーネの野郎──失敬、夫への操を守っていることもだ。顔も知らない男のために貞操を貫くのは信仰心
の表れなんかじゃない。そうすることで自分はベアトリーチェだという確信を持ちたかったんだ。あんたのスキル、たしか…
…堕落の姫君? も、彼女には効果が薄いんじゃないか? それもそのはず。ベアトリーチェは存在意義を手に入れるために
信仰を利用した、むしろ俗な人間だと言ってもいい。不安なのだよ。原型を失って、意味を失って、繋がりを失って、たった
ひとりの彼女は不安で不安でたまらなかったんだ」
本に埋もれた生活をしていたのもその典型だった。
物とは所有者の表象だ。私物を増やし外付けの自分を増やすことでベアトリーチェは自分という個を再確認しようとしてい
たのだろう。商売にならない貸本屋を営んでいたのも同じことで、地に足がつかない不安を解消するためにわかりやすい役柄
に自分を填め込んだのだ。
「つまるところだ。新宿にいた少女はありのままの自分を、ベアトリーチェ・ポルティナーリだとか永遠の淑女だとか、そう
いうややこしいアレコレ以前に、彼女という人間がここに存在しているという事実を認めて欲しかったんだよ。マズローのピ
ラピッドでいえば成長欲求が満たされようと欠乏欲求が充足しなければ乾きを潤せないようにね。あんたが『私は私』だと言
ったように『貴方は貴方』だと真正面から肯定すれば、彼女はそれだけで救われるのさ」
ご静聴どうも。と、男は空になった紙コップを洗い場に投げ入れた。
「お姉さまのことはわかりました。ですがそれが昨日の様子と何か関係がありますか?」
「ああ。もちろん。なんせ彼女を救ったのはあんただからな」
「わたし?」
「そうとも」
鷹揚に頷いたダンテは、部屋を跨いで食器棚を漁ると新しいカップをコーヒーメーカーにセットする。彼が今どんな表情をし
ているのかは前斎宮の位置からは窺い知れない。コポコポとコーヒーの落ちる音が少しだけ寂しげに思えた。
「まあ、詳しいことは面倒だから省略するが、ベアトリーチェはあんたを憎み始めたおかげで視野狭窄から立ち直り、他人と
接する機会が増えていったことで自己の連続性を認識した。が、考えてみろ。彼女は憎悪を燃やすことしか他人との触れ方を
知らなかった、というより依存していた。こういうものはそう簡単に矯正できるものでもないから今でも癖(、)が残っている
わけだ。つまり、執着が強いんだよ彼女は。今生で初めてできた友人かつ恩人を独占したがっている」
「いや、ですからそれがいったい──」
少女が首を捻ると信じられない物を見る目つきでダンテが振り返った。
彼の眼差しは、これだけ噛み砕いて話してなおもこの小娘はわからないのか、という驚きを言外に述べている。完全に文化圏
の違う人間を見るものだった。
あー、と非常に面倒くさそうに顔を覆い口を開く。
「だから最初に言っただろう! 嫉妬だ嫉妬! 浄罪山の第二冠。七つの罪で蛇が表す一だ!彼女の憎しみの性質は相手がこ
ちらを向いていることが前提となる臆病な恩讐。そして、彼女の根底には永遠の淑女へ侵食されることへの怯えがある。要す
るにコンプレックス。大方、あんたは永遠の淑女と彼女が似ているとでも言ったんじゃないか? すると彼女は自分が奪われ
るというトラウマと、友人が取られた事への未発達な妬みが程よく刺激され、無意識にあんたの気を引こうと行動に出たわけ
だ。妹に親を取られた姉という図式にも置き換えられる。OK?」
「……へ?」
あまりにも予想外な答えに彼女は思わず間の抜けた声を出した。
そんな前斎宮を白々と見ていたダンテはコーヒーを混ぜながらため息を付いた。
「なんだその間抜け面は」
「いや、えーと、いつも私に冷たいばかりのお姉様がそんな感情を浮かべるのが意外すぎて。……嫉妬、嫉妬かー、へー、ふーん」
嬉しそうに百面相している前斎宮を気持ち悪そうに見ていたダンテは、先程までコーヒーを混ぜていたマドラーで彼女を指
し示すと、皮肉たっぷりに口の端を挙げた。
「舞い上がっているところ悪いが彼女のそれは憎悪の対象には等しく注がれるぞ。押して駄目なら引いてみろとは言うが、突
然手を引っ込められたらつい指先を目で追ってしまうものだ。……まあ、憎しみに比例するからお前への嫉妬は俺へ向けられ
るものよりも小さいがな!」
冷水をかけられたような気がした前斎宮はじっとりとダンテを睨んだ。
「……自慢したいだけですか?」
「そうでもある! ハーハッハッハッ!」
「〜〜〜〜〜ッ! ありがとうございました! 謎も解けたので私は失礼します!」
「ふん、まあ、そう怒るなよ。彼女があんたを特別視しているという話は嘘ではないのだから。人間は誰かに触れていないと
生きられないと言っただろう? だが、素肌に触れることを許すのは家族や友人なんかの身近な者たちだけ。少なくとも彼女
はあんたに触れたいと思っていたし、触れてもいいくらいに身近な人間の枠に入っているのも確かだ。案外、添い寝くらいな
ら了承してくれるかもしれんぞ?」
「アドバイスどうもありがとうございます」
出入り口の前に移動していた前斎宮がわざと平坦な声で返すとダンテは愉快そうに笑った。
「なんにせよ。あんたを追い回している時の彼女は生き生きとしている。時々は、彼女の部屋を訪ねてくれれば俺も嬉しい」
そう告げてじゃあな(、、、、)と去ろうとする彼の背中に、ふと少女は尋ねた。
「そこまでわかっていらしたならどうして貴方がお姉さまを救おうとしなかったんですか?」
…………足が、止まった。
「どうして、とは?」
「そのままです。貴方がしていたお姉様の解析は、新宿にいた頃には、……いいえ、お姉様に新宿で出会ってすぐに終わって
いたんじゃないですか? 私、少し怒ってます。私がお姉様を救えたというなら確かに嬉しいです。でも、どうしてお姉様の
ことを誰よりもわかっていて、私みたくお姉様を追い回さずとも救うことができた貴方が、どうして助けなかったんですか!」
────記憶の中のベアトリーチェは、いつも苦しんでいた。
復讐者になることも出来ないくせに恩讐の彼方へと血を吐きながら疾走し、いるのかさえもわからないダンテ・アリギエー
リの名を叫ぶ。本を手に空想する以外は楽しみもなく、空虚な毎日をたった一人で。彼女を追い回していた前斎宮だからこそ
わかる。あの頃のベアトは、かつてのダンテが作り出した檻に閉じ込められ、必死に泣くのを堪えていたただの(、、、)少女だ。
だから、ほんの少し頭に来ている。
他でもないベアトを苦しめる原因となったダンテが、彼女を救えるたった一人の彼が、自分のような者に彼女を任せて逃げ去っていたのだから。
キッとダンテを睨みつける少女の耳に、何かが掠れるような音が聞こえた。
いや、すぐに気がついた。これは目の前の男の、小刻みに身体を震わせる男の笑い声だと。
「なにが……!」
おかしいと続けようとした前斎宮をダンテの手が遮った。
「……なぁ、小娘。俺の本を読んだことはあるか? 神曲の中でダンテは死後己が傲慢さ故に地獄に落ちることを予言した。
詩人とは紙面に浮かべる夢の中では全知全能の神と自惚れ、過去を、未来を、世界を、斯様に歪めて作品にしてやったとほざ
く背信者。信じる聖書は著作のみ、それ以外は友人も偉人も師も敵も味方も愛した人でさえも等しく次作のネタに過ぎないと
コキュートスの底でふんぞり返るのが詩人だ。ああ、なんと傲慢であるのだろうか詩人とは! 森羅万象は己を中心に回ると
断じ、時には神の子に接吻する代わりに唾を吐きかける! 俺は詩人なんだよ小娘。ベアトリーチェを歪めたのは俺の傲慢だ。
物語を原典とするあんたのカタチが変わらないように俺の罪のカタチは神曲という題名で現世に変わらず残り続ける。だが、
それを後悔してはならない。間違っていたと認めてはならない。それを認めてしまえば、俺は詩人ではなくなってしまう。な
ぜなら俺は詩人ダンテだ! 俺が信仰されるに足る功績が神曲だというのならそれを否定すれば俺は詩人の資格を失う! 全
く、その通りだよ小娘。俺には彼女を救えた。もしも彼女に手を差し伸べるものがいないまま新宿の特異点が終幕を迎えたと
したらきっと救っていただろう。でもそれはイフだ! 俺は詩人としてのプライドに固執して彼女を捨てたんだ。そう、現実
を陵辱し嘲笑し好き勝手に改ざんするのが詩人であるがゆえに! ああ、正直に言えばお前に嫉妬しているかもしれない。
俺だけが独占していた憎悪に割り込んで颯爽と彼女を救ったあんたに。なんたる身勝手! これは地獄に落ちるのも致し方ない!」
かつて森で彼を囲んだのは豹と獅子と牝狼だったか。彼は今また森に迷い獅子と対峙しているのだろう。此度は天使の導きも
なく言葉の大河の源流は影さえも見当たらない。あるいは彼が獅子だったのだろうか。咆哮は自嘲的に響き、猛々しきはずの
それはひどく弱々しい。傲慢の報いは過日の灯火を奪い、太陽の黙する方へ彼を追いやっていた。力無く、答える。
「──返答しよう前斎宮。救わなかったんじゃない。俺には既に救う資格なんてなかったんだ。後悔はしない。謝る気もない。
それさえもが図々しい。今更、彼女に合わせる顔もあるものか」
自らを嘲るように笑って詩人は彼の城へと引っ込んでいく。
傲慢の裏に隠した、あまりに弱々しい姿が少女の知る誰かと一瞬だけ被った。
「もう行け小娘。休憩は終わりだ。四日後の締め切りまでは眠る暇さえ惜しい」
原稿を広げながら右手でシッシと前斎宮を追い払う。既に筆を走らせ始めた背中は先程まで彼の話を聞いていた少女のこと
をすっかり頭の中から追い出そうとし始めていた。
だから、ダンテの部屋を出て行く直前──言えば後悔するとわかっていたけれど──前斎宮は振り返って口を開いた。
「……私は、そうは思いませんよ詩人さん。貴方が詩人たらんとしたことをお姉様が誇ることはあれども咎めるわけがありま
せん。だって、────お姉様は貴方の作品が大好きですから」
虚を突かれたように、一瞬だけ彼は筆を止めて。
そして、慰めとして受け止めておこうと詩人は後ろ手を振った。
××
コンコンと扉を叩くと用心深く扉が開かれた。
「おっねえっさまー! 添い寝に来ました!」
「不埒なことをしに来たのでしたら帰りなさい小娘」
一蹴された。
今夜もどこか不機嫌そうなベアトリーチェは邪魔者を叩き出そうとするが、湯上がり髪からほこほこと湯気を立て、まだ身
体に熱が残って暑いのだろうか薄着がちな彼女の姿を見ると、
非常に面倒くさそうに──どこか誰かを思い出すような──溜息をついた。
「入りなさい。歓迎するつもりは欠片もありませんが湯冷めして風邪でも引かれたらこちらも寝覚めが悪いです。私の眠りを
妨げないのなら暖の一つくらいは取らせてあげますわよ」
さて、紅茶はどこでしたかと戸棚を漁り始める彼女は流石に前斎宮を追い出す気は無いようだ。むしろ、少しだけ楽しげな
ようにも見えて。あわよくば添い寝いけるかもなーなんて思いながら、ふと余計なことを口にしたくなった。
「ねえ、お姉様。貴方はダンテ・アリギエーリのことをどう思っていますか?」
漠然とした、脈絡もない一言。……ああ、やってしまった。心象を悪くしたかもしれない。嫌がらせと思われてしまえば紅
茶を出す前に自分が廊下に出されてしまう可能性すらある。と、内心で冷や汗を流しながら前斎宮は身構えていたが、不思議
にベアトは静かで、ゆったりとティーポットを傾けている。そして、
「貴女には三人の恋人がいたそうですね。アレを愛することなど黙示録の日を迎えたとしてもありえませんが、私にとってあ
る意味では似たようなものでしょう。そういうことです」
貴女にならわかるでしょう? と小首をかしげていた。
「……お姉様ってダンテさんと少し似てますね。ツンデレなところとか」
「はっ倒しますわよ小娘」
軽口を叩きながら彼女に抱きついてみると頬をグニグニと伸ばされる。
ふざけて胸に手を伸ばせばはたき落とされた。ついでにデコピンまで貰った。
おどけたようにくるくると回ってベッドに倒れ込めばベアトの匂いがした。
……参った。胸がチクチクと痛む。それは彼女が昨日から一度も前斎宮と目を合わせようとしてくれないのもあるが、なに
より彼女と彼がどこかよく似ていることが少女を苛んでいた。
彼らの間には愛も恋も結ばれることは無い。しかし、ダンテの言う通りベアトの精神的スキンシップの方法が憎悪だったとし
たら彼らは誰よりも近くにあり続けている。ずっと互いを見つめているのだからよく似ているのも頷ける。でもそれは、前斎
宮にとっては急に彼我の間に広がる距離を教えられたようで。……友達を取られた気分になっていたのは自分もだ。
なんというか、好きな人が自分と同じ要素を持つ誰かに振り向かれるのって意外にしんどい。
────でも、これと同じ寂寥を私が彼女に与えたのだとしたら。
────貴女を救った他でもない私に裏切られたように思わせてしまったなら。
ベッドに突っ伏したまま、前斎宮はベアトの姿を盗み見た。
白いシュミーズドヌイに身を包んだ彼女はやはりこちらを見ようともしない。
「お姉様」
「なんですか?」
「ごめんなさい」
ベアトは一口だけ紅茶を啜り、コツンと軽く音を立ててソーサーに戻す。
そして、ベッドまで歩いてくると前斎宮の隣に座って彼女の髪を掻き撫でる。前斎宮が仰向けのままベアトの腰に手を回す
と、拒まずにポンポンとあやすように少女の背中を叩いた。
「何を謝ったかは知りませんが紅茶が冷めてしまいますよ。貴方に風邪を引かせるのは忍びないから招いたのです。テーブル
に付きなさい。……それと、私も大人気なかったです」
「……許してあげます」
顔を上げる。困ったように笑う朱瞳には同じくらい困った顔をした前斎宮の顔が写っていた。
ふいとそのどちらもが綻ぶように歪曲した。
────その日は同じベッドで眠った。以前されたように自由を縛られることもなく。私も珍しく欲情が削がれていて、豊
かな膨らみにピッタリくっついているというのになんの感慨も浮かびはしなかった。ただ、お互いがそこにいると確かめるよ
うに固く強く抱きしめ合って。
これが、気難しい友人との初めての喧嘩と仲直りの顛末だった。
××
「で、その報告をなぜ俺に?」
「一応、貴方のお陰で仲直りできたので。報連相は大切でしょう」
「いまいち間違っているような気もするが……まあ、関係を修復できたのならいいことだろう。俺も、鉄火場を乗り越えて暇
をしていたところだったしな」
読んでいた新聞を畳んで投げ置くと、ダンテは机に載せていた足を下ろして伸びをする。
前斎宮は話を始めた時にダンテに渡されたコーヒーを啜って顔をしかめた。
「……本当に美味しくないのねこれ」
「当然。美味かったら眠気覚ましにはならないからな。カフェインの興奮作用など二徹からはなんの用も為さん。まともなコ
ーヒーを飲みたいなら作家の部屋では飲まないことだ」
「そんなに起きていたいならお姉様に頼んで一晩中叩いてもらったらどう? 貴方を合法的に殴れるのだったらお姉様も喜ん
で付き合いそうなものだけど」
「魅力的だが……詩人に旨いコーヒーは毒だぞ。そんな日が来てみろ。今度こそ俺は昇天だ」
皮肉げに肩をすくめたダンテはコキコキと首を鳴らすとソファに倒れ込む。にわかにホコリが舞い上がって前斎宮の襦袢に
降り掛かった。「あー!」と飛び退った前斎宮は襦袢を叩きながらダンテを睨む。
「眼精疲労がひどくてね。そろそろ俺は寝ることにする。あんたも、そろそろじゃないか」
「ええ。言われなくても出ていきますよ。ひとり寂しく夜を過ごす貴方と違って私はお姉様と二人、愛の巣で獣のようにぬる
ぬると絡まりあって今夜は熱い一晩を過ごしますから!」
「そうだな。彼女は空調の設定温度を高くしすぎるからな。真夏のような部屋の中で抱き枕にされて一晩過ごせば汗に塗れて
ずぶ濡れになるのも明白だろう。文字通り、熱い夜だ」
う……、と前斎宮は痛いところを突かれたように目を伏せた。
前斎宮が彼女と眠るのはかれこれ四回となるが必ずと言っていいくらい抱き枕にされていた。いや、抱き枕にされるのはい
い。合法的に胸を触らせてくれるのだからそれはいいのだ。問題は室温だ。ベアトは寝る前に空調を手動で設定し直す。が、
機械音痴故に加減ができていない。結果室温は上がる。ガンガン上がる。ベアトの体温も高めなので布団の中はサウナ状態に
なる。しかも、妙に熱に強くちょっと多めに寝汗をかくだけで朝目覚めたらケロッとしている。して、抱き枕にされている側
の、正常な感性を持った前斎宮にしてみればたまったものではない。
身動ぎ一つできないくらいがっしり掴んでくることもあって気分はファラリスの雄牛である。
「……意外と力が強いんですあの人。筋力は同じはずなのに……。でも! お姉様の香水ではなくお姉様本来のお姉様スメル
に包まれてこれはこれでいけるというかなんというか……!」
「……あんたは地獄に堕ちてもなんとかやっていけそうだな。羨ましい」
「全然羨ましくなさそうに言いますね……。……私もそろそろ行きます。が、最後にひとつ」
コホンと咳払いした前斎宮は腰に手を当てビシリとダンテを指差した。
「いいですか詩人! 余裕ぶっていられるのも今のうち。毎晩逢瀬を重ねてお姉様を落としてみせますからね! その暁には
貴方のことなんて全部私の舌と指で忘れさせちゃいますから!」
「落とせれば、の話だがな……。おやすみ小娘。扉は閉めろよ。眩しくてかなわん」
「おやすみなさい詩人。そうして吠える声が負け犬の遠吠えになる日が楽しみです」
ダンテに突きつけていた指をそのまま目の下に添えあっかんべーと舌を出すと、捨て台詞を残して少女は去っていく。
詩人はアイマスク代わりの帽子の隙間から見送りながらシニカルに笑った。
「そうだな。もし、もしも彼女が誰かを愛せる日が来るとしたら。俺は悔しがるのだろうか、はたまた喜ぶのだろうか。今は
わからないが、その日は幸せという名前をしているに違いない」
無論、相手があんたとは限らないが。と、独り言を呟く帽子の奥から程なく寝息が漏れる。
カルデアの中で一足早く、夜の帳が詩人の部屋を覆っていた。
<終>
ネタ元
ベアトリーチェ(拳):ほぼ同性同名の別人であることは理解しているが、その本質部分(ぽんこつ)におねーさま味を感じている。
私はこっちのおねーさまでも全然ウェルカムです!マジ天使!
SSのテーマはこのコメントを受けたベアトの反応。
××
おまけ・その後の前斎宮in ベアトの部屋
「…………あの、お姉様。それはいったい」
「? 見ての通りストーブですよ。エミヤさんがジャンクから修理したものを幾つか借りてきたんです。『手慰みで直した
ものだから好きなだけどうぞ』とのことでしたので言葉に甘えて」
「四つも?! 四つも借りる必要はあったんですかお姉様?! あれですよね? 壊れていたから出力が弱いとかそういう
やつですよね?! そうだと言ってください!」
「いえ、『ふっ、手前味噌のようだが最高だ! 正にパーフェクッ!』と仰られていましたよ。
さてさて、今日の夜はかなり冷え込むそうですから全部つけちゃってもいいですよね。ええ、いいでしょう。それがいいです。
……おや、どうしたのですか。そんなに虚ろな目をして」
「あー…………。その、お姉様はお姉様だなー……と」
「よく、わかりませんが、ええ、きっと眠いからでしょう。さ、おいでなさい前斎宮。今夜は羽毛布団も三枚ほど用意してき
ました。春のように暖かな部屋で快適な睡眠に浸りましょう!」
地獄を見た。
翌朝。
「…………生きているか小娘。干上がって死んでいたら寝覚めが悪いと思い来てみたが……
本当に死んでいないよな? 俺の声は聞こえるか? 水は飲めるか?」
「ありがとう、ございます……けほっ、けほっ……なんで、あんなに、暑さに強いんですか」
「知らん。ただ、夏にウロボロスの設定温度がマイナス度になっていたから寒さにも強いぞ。ついでに言えば、今朝彼女がス
トーブを追加で三つ部屋に運んでいたのを俺は見た」
「あの、私、添い寝、今晩も」
「…………『裏切りよ、嘆きとなれ(フェアラート・コキュートス)』貸してやろうか?」
「お願いします……!」
こうして、二人の仲が少し縮まった。
おまけ2・『私は備品を私物化しました』
「寒くないのかな」
防寒ガウンを着込んだ藤丸は雪の中で型の稽古をしている永遠の淑女の方のベアトリーチェを見て何気なく呟いた。ベアト
リーチェの服はそう厚いものではなく、少なくとも雪山の頂上にふさわしい格好とは思えない。現世の影響を受けない彼らで
も実体化すれば寒いものは寒い。だから、本当についぽろっと言ったことだったので、
「はい! 寒くないですよ!」
「うわぁ?!」
かれこれ三十メートルは先にいたはずの彼女に背後から話しかけられ尻もちをついた。
「えーと、私のせいでしょうか?」
「いや、こっちも悪いから大丈夫。ところで寒くないっていうのは?」
「はい! 私達ニンジェルはコキュートスの底から太陽天まで幅広く職務に励んでいるわけですが、環境によって勤務先が狭
まるのは組織として不都合です。『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん』ともいいますし我々天使は労働組
合の門を叩き安息日に通勤デモを決行。見事断熱ケプラー障壁と寒冷地仕様皮膜を祝福扱いで誰もが等しく主より賜ったのです」
「うん。相変わらず何を言ってるのかは全くさっぱりわからなかったけど、ベアトがちょっとした寒暖ならへっちゃらという
ことはわかったよ」
「ちなみに備品なので三界以外への持ち出しは不許可とされていますが慣習的に個人の所有物という見方が強いので結構無視
されてますね。ソウルへと忍術圧縮されているので、いちいち外すのも面倒だという意見もよく聞きます。天使が憑依した際
に暑さ寒さを感じなくなるパターンは備品つけっぱなし組ですから憑依されたときは確かめてみるのも面白いかもしれません」
「そっかー……。……ところでさっき寒くないって言ってたし、ベアトも持ち出しているんじゃない? 私物化して神様に怒
られたりしないのかな。天の使いが着服ってどうかと思うな」
途端に彼女はダラダラと冷や汗をかき始める。
「え、えーと。違いますよ? 別に私物化なんて、あははは、ほら、根性とかですよ根性!
……主(しゅ)よ、違うんです! わざとじゃないんです! 偶然忘れてただけなんです!」
「ホントかなー……。そういえば、気になったんだけどソウル憑依でも有効になるんだよね?」
「え? あ、はい。冷気はコキュートスまで熱は六千度まで耐えられるようになりますよ!」
「…………もう一人のベアトリーチェも熱と冷気に強かったよね?」
「……あっ」
「やっぱり私物化してたんだ……やっぱり偶然じゃなかったんだ……」
「うう……だって便利なんだもん……」
その日から数日、首から看板を下げたベアトリーチェの姿が見られた。
おまけ3・抱き枕
「ところでお姉様」
パリッと音を立ててお茶請けの煎餅がベアトの口元で割れる。湯呑みに注がれた緑茶の茶柱が微かに揺れた。今日は添い寝
しないため昼に集まったのだ。テーブルには大小様々な本が積まれて、対面で積み本を崩していたベアトがその間を縫うよう
に前斎宮へと視線をやった。
「なんですか前斎宮。このお菓子なら気に入っていますよ。ありがとうございます」
「それならよかったです! ……じゃなくて、前々から思ってたんですがどうして私を抱き枕にするんですか……? いや、
まあ気持ちいいから私は構いませんけど……」
「ああ、それですか」
二枚目の煎餅に手を伸ばし文章を追うのを再開しながらこともなげにベアトは返答する。
「眠るときは無性に怖くなるんですよ私は。ふわふわ身体が浮いてしまうのが気持ち悪くて、だから寝る前には必ず何かに掴
まっておくことにしたんです。新宿だと鞄を抱いていました。……が、レイシフト先からカルデアへとは物品を持ち込むこと
などできませんから」
「あ……私、鞄の代わりなんだ……」
「Esattamente(正解です). ちょうど貴女くらいの大きさでしたよ」
「……ちなみに、鞄と私どっちが抱き心地が良いですか」
「鞄。ある程度硬いほうが好きなんです」
「物に負けたー?!」
うぁぁ……と力が抜けるような声を出して前斎宮はテーブルに突っ伏した。
ポリ、と口中の菓子を砕いたベアトはチラと前斎宮を窺い口を開く。
「でも、貴女の前に使っていたクッションやスタンドライトよりは好きですよ。程よい硬さと抱きやすさが共存していますし、
パラメーターの合計は捨てたものでは無いと思うのです」
慰めているつもりか力強くグーサインを出しているベアトの姿に完全に脱力した。
「……もういいです。そのうち、抱き枕が私じゃないと眠れなくなるようにしてあげますから。パブロスの犬のようにお姉様
を調教してあげましょう」
「あらあら、それは怖いですね。ライナスの毛布を作ってしまわないように気をつけないと」
あやすような口調で返したベアトにむうと少女がむくれていた。
「……で、なにか物足りなくて眠れないんですがまさかこれは逆に私が調教されて──!」
「まだ日中だからに決まっているだろう……。そして、なぜ、俺の部屋に来る」
「暇だから。本でも読もうと思ったけど図書館ではコーヒーが出ないのでこちらに」
「…………はぁ。まあいいさ、俺の作業を邪魔しないなら本もコーヒーも好きにしろ」
定位置となった客人用の椅子に座る。不味いコーヒーにも慣れてきた頃の話だった。
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