最終更新:ID:juCKYzNXDw 2019年05月01日(水) 01:30:33履歴
率直に言えば。驚いて何の言葉も浮かばない、というのが第一だった。
一体何が現在進行系で起こっているのかまるで飲み込めない。ただ瞼を瞬かせるのが精一杯だ。
時計の短針の目盛りをひとつ巻き戻したあたりまでは、いつもどおりのナミネの帰宅風景だったのだ。ここ最近の自分のサーヴァント、ガレスはいやに口数が少なかったが。
マンションの自室の鍵を物理的にも魔術的にも解錠して入り、食事も外で済ませているので後は風呂に入って、それから………などと。
特に何かが起こるという予感もなく、私的な夜の時間の計画を曖昧に考えていた。
一緒に風呂に入るかとガレスを誘ったところ、今日はいいと素っ気ない返事が帰ってきたのには首を傾げた。
怒っているという風ではない。今日のガレスは何故かずっとこんな調子で、その理由を聞いても空返事。
そもそもこの頃のガレスは妙にナミネと距離を開ける節があり、以前ならばガレスの方からよく行ってきていたスキンシップもまるでしてこない。
まぁ、ガレスにだってたまにはそういう日もあるか……と。ひとまずは深く捉えず、放っておいた。異変といえば、それくらいだった。
なのでひとりでのんびりと風呂に浸かり、湯上がりのふわふわした気分で廊下を歩きながら、では密かに大事にしているナイフでも磨くか、と。
そう思っていた矢先、後ろからガレスに手首を掴まれて――――。
今、そのガレスの顔が視界の至近距離にある。
ベッドへ少々乱暴に寝かされ、馬乗りの体勢で両手首を両手でそれぞれ握られ、組み伏せられた状態で。
握りしめる力は加減されてあるのを感じるが、同時にまるで引きはがせる気がしない。手錠でもかけられたようだ。
キャミソールとショートパンツという就寝姿で試しに脚を少し動かしてみたが、こちらもガレスの膝でがっちりと押さえられていた。
身動きが一切取れない。ナミネは突然の出来事に目を白黒させる他になかった。
「………?この…匂い…」
混乱の中で、ふとナミネは異臭を嗅ぎつけた。
それなりに馴染みのある匂いだ。ナミネは口にし、ガレスは忌避するもの。アルコールの香り。要するに、酒臭い。
発生源は辿るまでも無かった。なんせ、目の前にある薄く開いた唇から漏れてきているのだから。
「え……ガレス、お酒を口にしたん!?滅茶苦茶弱かったやろ!?」
「……………」
返事がない。据わった瞳でじっとナミネを見下ろしている。灯りはついていないが、廊下側から差し込む光で完全に真っ暗ではない。
薄闇の中ではあったが、ナミネは夜目が効く。ガレスの糖蜜色の肌が紅潮しているのがはっきりと見て取れた。
ガレスはとにかくお酒が駄目だった。一口だけでぐでんぐでんに酔い潰れるのだ。菓子に含まれている程度のアルコールでもふらふらするくらい。
おまけに酒癖もとことん悪く、酔っ払うと女の子に絡みだす。執拗なスキンシップだとか、甘ったるい台詞を囁いたりだとか。
大抵その被害者はナミネであったが以前都市戦のスタッフ限定打ち上げ会で別の女性スタッフに言い寄っていたこともあった。ともあれ、そんな調子なものだからガレス自身も避けていたはずだ。
意図が探れぬまま首だけ横に倒して周囲を伺う―――あった。ナミネがナイトキャップでたまに引っ掛けるリキュールが1本、ベッドサイドに置いてある。
いや、放ってあるというのが正しいか。蓋が開いたまま横倒しになっている。溢れた形跡は無く、どうやら空になっているようだった。
………それなりの度数はあったはずだ。それなりの量、八割くらいは残っていたはずだ。
中身の行方は何処だ。ガレスが流しに捨てた?別の容器に移した?駄目だ、理由がない。そもそも、ガレスから漂ってくる酒精の香りで明白だった。
恐る恐る、ナミネは沈黙を続けるガレスに問いかける。
「………まさか………全部飲んだの………?」
「……………」
沈黙は肯定も同然だった。
とろんと蕩けた視線がナミネの双眸を捉えて話さない。バターが溶け出すくらいのじんわりとした微熱を感じた。
ガレスとは長い付き合いだったけれども、全く彼女の思うところが分からない。何故こんなことをしたのか。何故こんなことをしているのか。
不安はあったが、それでも恐怖はない。それだけナミネのガレスに対する信頼は全幅のものだった。仮にガレスがナミネを騙そうとしても、ナミネは騙されたことにも気づかないだろう。
だからこそ、ナミネに覆いかぶさったまま動いたり喋ったりしないガレスへおずおずと問いかけた。
「ガレス……どないしたの……?」
「……………」
帰ってくるのは沈黙。そう思われた次の瞬間、微動だにしていなかったガレスの唇が静かに動いた。
「君が悪いんだ。君が……………悪いんだ」
「…………え?」
酒臭い息で、ぼんやりとした喋り口。呂律も少し回っていない。
だからだろうか。ガレスはゆっくりと一言ずつ、噛みしめるように喋りだした。まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
「君は近頃、みんなの前で笑うだろう?
確かに屈託ないわけじゃない。ぎこちないにも程がある。人によっては笑ったようにすら見えないだろう。
でもぼくには分かる。君は自分のためだとか誰かのためだとか、そういう理由で懸命に笑おうとするんじゃなくて、ごく自然に笑えている」
みんな―――この街を覆おうとしている巨悪に立ち向かうと集う人々。ナミネが知ってはならない秘密を知り、暗殺されかけてからの縁だ。
なし崩し的に彼らに協力せざるを得ない立場になってから、いろいろあった―――「天王寺」の市議会ビルに潜入したり、「梅田」最下層に存在する未明領域、“梅田迷宮”を駆け抜けたり。
死線も共に潜った。ひた隠しにしていたナミネの弱い部分も露呈した。それぞれの反応があって、それぞれの関係が生まれた。
来るX-デイへ向けて密かに準備や調査が進む中、ナミネとガレスもまたその歯車のひとつとして回っていた。
25歳のナミネは彼らの中では年長組だ。若者たちに囲まれて多くの遣り取りを繰り返す。口調は相変わらず堅い。愛想もいいとは言えない。態度もそれほど変わっていない。
だが、確かにそこには徐々に熱が生まれていた。彼らの何気ない会話の中で深雪が溶けるようにたどたどしくナミネは微笑んでいた。
萎れていた花が水を得て頭を上げるように。ひび割れた地に慈愛の雨が染み込むように。新しい関係を得て、少しずつだけれども急速にナミネは変わりつつあった。
「なんて喜ばしいことだ。ぼくはずっと、君がありのままの自分をさらけ出せるようになる日を待ち望んでいた。
君は君が思うよりもずっと素敵な人だ。君はとても美しくて、愛らしくて、誰かに大切にされるに値する女だ。
最近の君は日を追うごとにどんどん魅力が増していく。笑うようになって、柔らかくなっていく。近くでずっと見てきたぼくが言うんだ。間違いなんかないよ」
ガレスの言葉は言葉面だけなら賞賛だったろう。持ち上げ過ぎなくらい。
だが、それらにナミネの成長を純粋に称える色合いはなかった。単に事実を述べるような無機質さがあった。ガレスが唇を歪めて微笑む。どこか、空虚に。
「でも、何故かな。ぼくはずっとそれを心の底から喜べると思っていたんだ。実際、それは間違いじゃないんだ。
こんな大変な事態に陥ってはいるけれども、君の成長自体は本当に嬉しく思ってる。
だけど不思議とそうじゃない自分も心のどこかにいるんだ。君が誰かに微笑んでいる様を見ていると………心がね、痛いんだよ。ちくりとするんだ。
きっと君がぼくの手の内から空へと羽ばたいていくのが、ぼくは寂しかったのだと思う。ずっと同じ関係じゃいられないなんて分かってたはずなのに。
居心地良かったんだ、ぼくは。君が弱い人間のままで、ぼくに頼りきりでいることが。なんて――――酷い話」
そう、どこか―――罪の告白に似ていた。
「君の騎士として、これは恥ずべきことだ。あってはいけない不純だ。主君の幸福を素直に喜べないなんて、君にも、そしてかつての我が王にも顔向けできない。
だけど、それはちょうどよくもあったんだ。君と距離を置くタイミングを知る切っ掛けとしては。君にとってぼくの庇護はもう不必要なものだ。邪魔ですらある。
君は君で、新しい関係へ向けて歩いていくのが最善だと。ぼくは今後その良き従者であるのが適切なんだと、そう思えたんだ。そう振る舞ったし、そう思えたはずだった。
最近ようやく………それに納得できるようになったつもりでいたんだ」
こころなしかナミネの両手首を掴む力が強くなった気がする。
酒臭い息を吐き出す顔だって、もう額と額がぶつかりそうなくらい間近だ。ナミネは垂れ流される告白を受け止めながら、じっとガレスの瞳を見つめた。
いつもの快活な色合いではなく、どんよりと澱んだその視線を。
それを悲しくは――――思わなかった。むしろ―――――。
「でも今日、君は言っていたろう」
『それじゃ、ナミネさんは好きな人いるんですか?』
ガレスはその時、部屋から漏れ聞こえてきたそういった主旨の言葉を耳にした。
「梅田」側都市間対抗擬似聖杯戦争 インフォメーションセンターに存在するとある一室である。
ガレスはまさにその声が発せられている一室に向かっている途中だった。中ではナミネと彼女が呼び込んだ『仲間』がいるはずだった。
紆余曲折あってその一室は半ば彼らの拠点になっていた。表向きにはシャッターが降りて無人となったはずのインフォメーションセンターだったが、限られた通路を通ることで辿り着ける部屋がある。
例えば。それはエレベーターのコンソールへ特殊な操作をしなければつけない。例えば。それはセンター地下の秘匿された区画から外界に繋がっている。
曰く。本来は緊急時においてカレンシリーズが司令塔となり使うはずのオペレーションルームなのだという。
彼女ら無き今、都市戦争スタッフとしてたまたまその部屋の存在を知り得たナミネによって開放され、来るべき日へ向けて多くの備えが進められる場所となっていた。
………その割には、来訪者たちによる全く関係のない私物が着々と増えていることはともかくとして。
地下の侵入口を伝って部屋に入ろうとしていたガレスは扉の前で耳をそばだてる。気にせず入れば良かったのだ。何も問題はない。
だが、次に聞こえてきたナミネの返答がガレスの足の運びを止まらせた。
『はい。いますよ』
『えっ!?』
えっ、と声を裏返したいのはこっちだ。そうガレスは言いたい。
初耳だった。全くそういう素振りを見たことは無かったし、そういう相手がいるとも思っていなかった。
まさか“あの”ナミネにそういう相手がいるなんて!他人と接するのも精一杯という女だったはずなのに、いつの間に!
無性に動揺したし、動揺した自分自身に動揺した。こんな喜ぶべき事へ心を千々に乱すほど揺れているのか、ぼくは。
『ち、ちなみに、誰か聞いても……?』
『さすがにそれは言いたくありません。内緒です』
『わ、わ〜……乙女だ〜……可愛いやつだこれ〜……』
『いけませんか。このくらい普通ですよ』
かつてのナミネには似つかわしくなかった会話が室内で交わされる中、ガレスは知らず知らずのうちに通路の壁に背を預けていた。
ずるずると滑落し、尻餅をついたような様子になる。
おかしい。異常だ。目の前が暗い。貧血に似た症状がサーヴァントであるはずのガレスを襲う。首だけで支えていられなくなって、たまらず頭を抱えた。
そうか。あのナミネにも愛を告げたい人がいるのか。それは気づかなかった。祝福しなければ。
頭はそう鈍く考える。だが、心がついてこない。その理由を探るが、認めたくない事実しか吐き出されない。
―――ナミネはもう自分のものではない。それが嫌で嫌で、たまらない。そんな、昏くて醜い感情しか湧いてこない。
いつの間にこんなに入れ込んでいたのだろう?いつの間にこの感情はそこまでではないと勘違いをしていたのだろう?
無条件にこちらを頼ってくるナミネに、依存してくれる相手に、自分はそれよりも深く思い切り依存していたのだ。
毎日生きているだけで倒れ込みそうな相手に頼られる信頼へ、いい気になって引き返せなくなるところまでたっぷりと浸っていた愚か者こそ自分だったのだ。
相手は主君だぞ。仕えるべきマスターなのだぞ。そう心に鞭を振るっても、ただひび割れるばかりで気力は延々と萎えていく。
そうか。自分で思っていたよりも数段、自分はナミネのことが好きだったのか。まるで失恋した生娘みたいではないか。自分で例えておいて自分で自嘲する。
そうだとも。好きだ。身体が好きだ。薄い胸も、程よく括れた腰も、大きな尻も好きだ。深夜の闇に似た黒髪も、透き通るような白い肌も、透度の高い宝石のような瞳も、うっすらと赤い唇も。
後ろ向きで何もかも悲嘆するくせに、決して自分を諦めきれない意地汚さが好きだ。どうしようもなく駄目な人間なのにどうしようもなく切実に生きているのが好きだ。
堪えきれなくなると自分にくっついてくる弱さが好きだ。自分ひとりではすぐに崩れ落ちてしまうことを知っていて、誰かに頼ることの尊さを知っている心が好きだ。
そんなふうに、無条件で甘えてきてくれるナミネに、自分はそれ以上に甘えていた。
強くなったつもりだった。生前の多くの経験が自分を鍛え上げたつもりでいた。
でも、ちょっと蓋を開ければ自分は遠い昔の自分と変わらぬ、末っ子気質の甘えん坊で――――。
………駄目だ。手放しにそこには帰れない。そうしてしまえば、自分の中の何かが歪んでしまう。
ガレスが座り込んだまま伏していた視線を上げる。瞳の奥底には真っ黒いコールタールに似た、どす黒いものが波打っていた。
ひとつ、手はある。否応なしに、ただの主とそのサーヴァントという立場に戻れる手段はある。
自害を命じられても仕方ないかもしれないが、それはむしろマシですらある。問題は、それを自分が実行できるかどうかだ。
正直な話、無理だろう。とてもではないが畏れ多くて、それよりももっと怖くて、まともな自分では手段を選ぶことすら出来そうにない。
まともな自分なら 。
冷えて凍えていく自分の心の中で、ガレスは思い出していた。ナミネが時折口にしている酒瓶の在り処を―――。
「だから、ぼくは今から君を犯そうと思う。
気が狂ったと思ってくれて構わない。でも、ぼくは君がどうしようもなく好きみたいで、君が欲しいんだ。誰かに渡したくない」
熱に浮かされたように言って、ガレスは拘束していたナミネの両腕のうち片方を放した。
それはもちろん手心とかではなく、単に自分の片腕を自由にするためだ。おもむろにナミネのキャミソールの襟に手をかけると、そのまま。
「………………っ!?」
強引に下へ降ろした。サーヴァントの膂力で引きちぎるように動かしたのだ。肩紐などの干渉によってキャミソールは脱げることなく、布割く音と共に胸側は真っ二つになる。
臍のあたりまで顕になる。闇の中でも白い肌はむしろよく映えて輝いて見えた。胸元も隠されることはなく、薄い膨らみの上に控えめに主張する乳首の桃色が視界に映る。
ああ、綺麗だ。と心底から思った。驚くくらい美しく育った。風呂場で裸身を見て胸を弾ませたことなど一度や二度ではきかない。
この子は知らないのだ。自分が獣欲に身を任せ、ナミネが泣き叫び喘ぐ姿を見てみたいと幾度も思ったことを。それを理性で殺してきたことを。
かつてこの子は知人他人問わず、多くの人々から虐待を受けた。その中には性的な干渉もあった。ナミネにとっては最も忌むべき記憶のひとつだろう。それに踏み込むなどナミネの地雷を踏むと同義だ。
でも、いい。それでいいのだ。
もう片方の腕の拘束は既に緩くしている。どうか、抵抗してくれ。振り払ってくれ。
ぼくを、嫌ってくれ。
自分勝手な振る舞いにひどく吐き気がするが、それでもそうしてくれればガレスは本来あるべき立場に戻れる。
主に仕えるただの従者に戻れるし、ナミネはただの主になる。後腐れなく君は想い人に思いを告げることが出来る。
何なら契約を解除してくれたっていい。邪なサーヴァントにはそれでも足りないくらいだ。
ひどく無茶苦茶で自分本意で浅ましい考えであったが、ガレスにはもうそれ以外に自己規定の手がなかった。追い詰められていた。
ナミネを指して弱い人間などと笑わせる。それを言うなら、己はとても弱いサーヴァントだったのだ。何が英霊だ。ああ、情けなさに芯から凍える。
素面ならこんな行いは絶対に無理だ。だからまともに飲めもしない強い酒を思い切り煽ってやった。
酒とは大したものであり、恐ろしいものだ。普段なら絶対できないような、このような行動に今走れているのだから。
たっぷりと自己嫌悪に濡れたまま、ナミネの腹から胸部、首、そして顔へと視線を睨め上げていく。きっとその終点には冷ややかなものがあると知りながら。
そうした視線の行き着いた先で………ガレスはつい口を半開きにして呆けた。
そこにあったのは恐怖でも、怒りでも、嘆きでもない。
まるでガレスの拘束を振りほどく素振りも見せず、ただ羞恥に頬を染めてどぎまぎとする、愛らしい乙女の姿があったのだ。
「嫌やわ、そんな………いきなりそないなこと言われても、ウチどないな顔したらええか……」
「え」
待ってくれ。どういうわけだか分からないのはこっちだ。
表情や仕草に対する理解が追いつかず、ただきょとんとするガレスをナミネの青い瞳がじっといじらしく睨みつける。
「その、悪いんだけど……ナミネ。それがどういう意味だかぼくは分からなくて……説明してもらえる?」
「いや、だって、その………」
そこからのナミネの表情は、あくまで他人事とすれば可愛らしいものだった。
困った。憤ったように頬を膨らませた。何を告白すべきか悩んだ。ガレスに組み伏せられた下で、言うべき言葉を選定して唸りながら代わる代わる表情を変えた。
最後に定まったのは、首を横に倒したままの姿勢だ。頬を紅潮させながら、潤んだ目で戸惑うガレスを見遣る。
「なんや、ウチもわけわからへんけど………。
………好きな人に好きやって言われて、おまけにウチが欲しいとか、犯すとか、どないしたらええかなんてウチにも分からへんわ……いけず」
耳まで真っ赤にしながら、言い終わるなり視線を反らしてナミネは横顔をそっぽに向けた。
「……………………」
ガレスの中で思考が追いつかない。
何を勘違いしていたのか。何を思い込んでいたのか。
滝のように凄まじい勢いでガレスの顔から血の気が引いていく。酔いも一気に吹っ飛んだ。そもそもナミネの好きな相手とは誰のことだったのだ。
さすがにナミネにこんな反応をされて察することができないほどガレスも鈍感ではなかった。
そうか。ぼくか。なるほど。
つまりぼくは勘違いで暴走して酔い潰れ、マスターを押し倒した挙げ句不埒な行いに及ぼうとしたとんでもなく頭の悪いサーヴァントか。
いやサーヴァントとして以前に、騎士としてはもっと以前に、人としてどうなのだ。
さすがに即座に自害して果てることを選びたくなるようなその事実をそのまま受け止められるほどガレスも器が大きくなかった。
凍りつき、システムダウンした。心が追いつけなかった。非常に情けない理由で。
それはきっと極めつけに間抜けな時間だっただろう。勘違い女に押し倒されて服まで破かれた女と、押し倒してからようやく齟齬に気づいた酔っぱらい。
互いに動き出すのにしばらく時間を有する必要があったのは論を俟たない。
やがて、固まって動かないガレスを不審に感じたナミネがちらりと視線を頭上のガレスに向けた時だった。
ナミネは頬に熱い温度を感じた。ぽたり、ぽたりと、断続的にそれは落ちてくる。その源を確かめたナミネは思わず息を呑んだ。
「ガレス……なんで泣いてるん……?」
「え………あ…………」
指摘に対し、ガレスはナミネを拘束していた事も忘れて自分の目元を押さえる。信じられないという面持ちで。
「そうだね……どうして泣いてるんだろう。分からない、分からないな……。
こんなはずじゃなかったんだ。本当だ。本当にこういうつもりじゃなかったのに……こんな顔を君に見せるべきじゃないのに……」
それはガレスがナミネに対して初めて見せる顔だった。包容力に満ちていて騎士らしく高潔で、優しく強い姉。それがナミネにとってのガレスだったはずだ。
こんなのはナミネに見せていいガレスの側面ではない。惨めで、情けなくて、甘ったれで、ナミネに負けず劣らず劣等感に満ちている。それは拭い去った姿だったはずだ。
そのはずだと、ガレスは思っていた。ガレスは 。
「……………そっかぁ」
「………、……っ!?ナミネ…?」
次から次へと溢れる涙を拭っていたガレスは、ここまでされるがままだったナミネの突然の動きに油断した。
下から手を伸ばされ、首を抱きかかえられたガレスはついバランスを崩して………いや、ナミネによって抱き寄せられた。
乱れたシーツの上。ふたりで折り重なるようにして倒れるような格好になる。鼻先と鼻先が当たるくらい、互いの吐息がまざまざと感じられるくらい、顔が間近にあった。
きらきらと涙の膜で光るナミネの碧い瞳がただただ美しいとガレスはこんな状況でありながら強く感動した。
「ええんや。ウチ、ガレスのそないなところも知っとる。
ほんまは傷つきやすいとこも、甘えん坊なとこも。10年以上一緒におるんやさかい当たり前や。
でもウチ、そないなガレスが好きや」
びっくりするくらいまっすぐ双眸を見つめられ、はっきりと口にされた。耳まで真っ赤だったけれども、ずっとナミネは柔らかく微笑んでいた。
「――――――――――。」
ああ――――なんて、滑稽な話。
かつての弱い自分を認めてしまえば自分の中の何かが歪むだなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
単に認めてしまうのが恐ろしかったのだ。たったそれだけなのだ。いつまでも守るべき相手だと思っていたナミネには全て看破されていて、ずっと守られてすらいたのだ。
思わずガレスは腕を伸ばして横たわっているナミネを抱きしめ返した。少しひんやりとしていて、でも確かな生命の体温を感じる。それだけで信じられないほど心が充足した。
混乱通り越して恐慌状態ですらあった精神が一気に落ち着いていく。収まるべきところへ速やかに収まっていく。
綺麗に整理整頓されていって、最後に残ったのはとても澄みきった感情だった。泥だらけで手垢にも塗れていたけれど、きらきらと光って見えた。
普段、いいや生前ですらはっきりとは口にし難いそれさえ、何のつっかかりもなく自然と喉から解き放たれた。
「………ただの勘違いで、こんな乱暴をしてごめん。ナミネ。
ぼくもナミネのことが好きです。うん………………愛している。ぼく、女だから……こんなことを君に言っていいのか分からないけれど」
「今更やん。ウチが先に言ったことや。その………おおきに」
なんだかおかしくなってふたりして抱き合いながらはにかむように笑う。春風のような笑い声がころころと暗い寝室の空気を揺らす。
そうしたくなって、ガレスはナミネの胸元に顔を埋めた。いつもとは反対の立場。
ナミネが優しくガレスの頭を抱くのも普段とはあべこべの役割だった。自分の髪が子供をあやすように撫で付けられるのに安心感を覚える。
こうしてしまえばとても簡単なことだった。ぼくは君が好きで、君はぼくが好き。君がぼくに甘えるように、ぼくも君に甘えていいのだ。
ぼくは一枚皮を剥がせば甘えん坊で流されやすい末っ子気質だけれども、ナミネの騎士でいていいのだ。
退崎ナミネ。君をサーヴァントとして、騎士として、ひとりの女として、心から敬服しお慕い申し上げる。
ナミネの肌触りを頬でガレスが感じていると、妙に甘ったるくてナミネの声が頭の上から降ってきた。
「なぁ、それならひとつお願いがあるんやけど」
「ん。なんだい?」
「仲直り…いや、ウチはガレスと仲悪なった認識はあらへんのやけど。兼ねて、キス、してくれへん?」
「いいよ」
戸惑うことはなかった。ごく自然、当たり前のことだと思えた。
ナミネの胸元から顔を離して再び見つめ合う。高揚して白い頬は赤く染まっていたけれども、ナミネの表情はどことなく期待感で濡れている。
合わせて瞳を閉じたナミネの桜貝の唇へ、ガレスはそっと自分の唇を這わせた。
率直に言って、脳天まで痺れた。陽極と陰極が重なって通電したみたいだ。軽く唇を触れ合わせただけだったのに霊核が弾け飛ぶかとすら感じた。
エーテルで出来た仮初の心臓が痛いほど鳴っているのに不思議と頭の中だけは落ち着いていてクリアだ。得られる一切の感触を逃さないためだったのかもしれない。
ぷは、と小さく呼吸を漏らしながら一旦離れた。まだすぐ目の前にナミネの唇はある。てらてらとふたりの唾液に塗れて光っている。
ぞくりと背筋に強烈で仄暗い感情が走る。全然物足りない――――――。
……ナミネの目に同じような情欲の色合いが映っていたのを見て取った途端、今度は思い切り唇を奪った。がっつくように舌を潜り込ませ、ナミネを蹂躙する。
口の中がやけに熱い。火の中にでも舌を突っ込んでいるよう。おずおずとした動きだったが、ナミネも自分の舌を絡ませてくれるのにたまらなく嬉しくなる。
本当はずっとこうしたかった。ナミネのことを滅茶苦茶にしてしまいたかった。それはあり得ないことで―――今は現実になっている。
そのギャップにくらくらする。正直、この状況自体がどうにかなりそうなくらいそそる 。
どろどろに甘く溶け切った気分のまま、唇と唇が離れた。互いに荒い息で空気を貪る。
視線の交錯で一致したのは、隠しきれない欲望の意思。
今だけは、相手が何を言うか、それに相手がどう答えるか、未来予知の精度で感じ取れた。
「ほな、次は…………さっきの続き、して?」
「うん。いいよ」
返事を聞いたガレスの視界に超至近距離で映るナミネの顔が艶冶に微笑む。
それは今まで見たこともない表情で――彼女の身体に流れる血のせいか――凄烈なまでによく似合っていた。ガレスが、一切我慢できなくなるくらいに。
もう無闇に否定したり、目を背けたりしない。ガレスはナミネの破れかかった服に、手をかけた。
一体何が現在進行系で起こっているのかまるで飲み込めない。ただ瞼を瞬かせるのが精一杯だ。
時計の短針の目盛りをひとつ巻き戻したあたりまでは、いつもどおりのナミネの帰宅風景だったのだ。ここ最近の自分のサーヴァント、ガレスはいやに口数が少なかったが。
マンションの自室の鍵を物理的にも魔術的にも解錠して入り、食事も外で済ませているので後は風呂に入って、それから………などと。
特に何かが起こるという予感もなく、私的な夜の時間の計画を曖昧に考えていた。
一緒に風呂に入るかとガレスを誘ったところ、今日はいいと素っ気ない返事が帰ってきたのには首を傾げた。
怒っているという風ではない。今日のガレスは何故かずっとこんな調子で、その理由を聞いても空返事。
そもそもこの頃のガレスは妙にナミネと距離を開ける節があり、以前ならばガレスの方からよく行ってきていたスキンシップもまるでしてこない。
まぁ、ガレスにだってたまにはそういう日もあるか……と。ひとまずは深く捉えず、放っておいた。異変といえば、それくらいだった。
なのでひとりでのんびりと風呂に浸かり、湯上がりのふわふわした気分で廊下を歩きながら、では密かに大事にしているナイフでも磨くか、と。
そう思っていた矢先、後ろからガレスに手首を掴まれて――――。
今、そのガレスの顔が視界の至近距離にある。
ベッドへ少々乱暴に寝かされ、馬乗りの体勢で両手首を両手でそれぞれ握られ、組み伏せられた状態で。
握りしめる力は加減されてあるのを感じるが、同時にまるで引きはがせる気がしない。手錠でもかけられたようだ。
キャミソールとショートパンツという就寝姿で試しに脚を少し動かしてみたが、こちらもガレスの膝でがっちりと押さえられていた。
身動きが一切取れない。ナミネは突然の出来事に目を白黒させる他になかった。
「………?この…匂い…」
混乱の中で、ふとナミネは異臭を嗅ぎつけた。
それなりに馴染みのある匂いだ。ナミネは口にし、ガレスは忌避するもの。アルコールの香り。要するに、酒臭い。
発生源は辿るまでも無かった。なんせ、目の前にある薄く開いた唇から漏れてきているのだから。
「え……ガレス、お酒を口にしたん!?滅茶苦茶弱かったやろ!?」
「……………」
返事がない。据わった瞳でじっとナミネを見下ろしている。灯りはついていないが、廊下側から差し込む光で完全に真っ暗ではない。
薄闇の中ではあったが、ナミネは夜目が効く。ガレスの糖蜜色の肌が紅潮しているのがはっきりと見て取れた。
ガレスはとにかくお酒が駄目だった。一口だけでぐでんぐでんに酔い潰れるのだ。菓子に含まれている程度のアルコールでもふらふらするくらい。
おまけに酒癖もとことん悪く、酔っ払うと女の子に絡みだす。執拗なスキンシップだとか、甘ったるい台詞を囁いたりだとか。
大抵その被害者はナミネであったが以前都市戦のスタッフ限定打ち上げ会で別の女性スタッフに言い寄っていたこともあった。ともあれ、そんな調子なものだからガレス自身も避けていたはずだ。
意図が探れぬまま首だけ横に倒して周囲を伺う―――あった。ナミネがナイトキャップでたまに引っ掛けるリキュールが1本、ベッドサイドに置いてある。
いや、放ってあるというのが正しいか。蓋が開いたまま横倒しになっている。溢れた形跡は無く、どうやら空になっているようだった。
………それなりの度数はあったはずだ。それなりの量、八割くらいは残っていたはずだ。
中身の行方は何処だ。ガレスが流しに捨てた?別の容器に移した?駄目だ、理由がない。そもそも、ガレスから漂ってくる酒精の香りで明白だった。
恐る恐る、ナミネは沈黙を続けるガレスに問いかける。
「………まさか………全部飲んだの………?」
「……………」
沈黙は肯定も同然だった。
とろんと蕩けた視線がナミネの双眸を捉えて話さない。バターが溶け出すくらいのじんわりとした微熱を感じた。
ガレスとは長い付き合いだったけれども、全く彼女の思うところが分からない。何故こんなことをしたのか。何故こんなことをしているのか。
不安はあったが、それでも恐怖はない。それだけナミネのガレスに対する信頼は全幅のものだった。仮にガレスがナミネを騙そうとしても、ナミネは騙されたことにも気づかないだろう。
だからこそ、ナミネに覆いかぶさったまま動いたり喋ったりしないガレスへおずおずと問いかけた。
「ガレス……どないしたの……?」
「……………」
帰ってくるのは沈黙。そう思われた次の瞬間、微動だにしていなかったガレスの唇が静かに動いた。
「君が悪いんだ。君が……………悪いんだ」
「…………え?」
酒臭い息で、ぼんやりとした喋り口。呂律も少し回っていない。
だからだろうか。ガレスはゆっくりと一言ずつ、噛みしめるように喋りだした。まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
「君は近頃、みんなの前で笑うだろう?
確かに屈託ないわけじゃない。ぎこちないにも程がある。人によっては笑ったようにすら見えないだろう。
でもぼくには分かる。君は自分のためだとか誰かのためだとか、そういう理由で懸命に笑おうとするんじゃなくて、ごく自然に笑えている」
みんな―――この街を覆おうとしている巨悪に立ち向かうと集う人々。ナミネが知ってはならない秘密を知り、暗殺されかけてからの縁だ。
なし崩し的に彼らに協力せざるを得ない立場になってから、いろいろあった―――「天王寺」の市議会ビルに潜入したり、「梅田」最下層に存在する未明領域、“梅田迷宮”を駆け抜けたり。
死線も共に潜った。ひた隠しにしていたナミネの弱い部分も露呈した。それぞれの反応があって、それぞれの関係が生まれた。
来るX-デイへ向けて密かに準備や調査が進む中、ナミネとガレスもまたその歯車のひとつとして回っていた。
25歳のナミネは彼らの中では年長組だ。若者たちに囲まれて多くの遣り取りを繰り返す。口調は相変わらず堅い。愛想もいいとは言えない。態度もそれほど変わっていない。
だが、確かにそこには徐々に熱が生まれていた。彼らの何気ない会話の中で深雪が溶けるようにたどたどしくナミネは微笑んでいた。
萎れていた花が水を得て頭を上げるように。ひび割れた地に慈愛の雨が染み込むように。新しい関係を得て、少しずつだけれども急速にナミネは変わりつつあった。
「なんて喜ばしいことだ。ぼくはずっと、君がありのままの自分をさらけ出せるようになる日を待ち望んでいた。
君は君が思うよりもずっと素敵な人だ。君はとても美しくて、愛らしくて、誰かに大切にされるに値する女だ。
最近の君は日を追うごとにどんどん魅力が増していく。笑うようになって、柔らかくなっていく。近くでずっと見てきたぼくが言うんだ。間違いなんかないよ」
ガレスの言葉は言葉面だけなら賞賛だったろう。持ち上げ過ぎなくらい。
だが、それらにナミネの成長を純粋に称える色合いはなかった。単に事実を述べるような無機質さがあった。ガレスが唇を歪めて微笑む。どこか、空虚に。
「でも、何故かな。ぼくはずっとそれを心の底から喜べると思っていたんだ。実際、それは間違いじゃないんだ。
こんな大変な事態に陥ってはいるけれども、君の成長自体は本当に嬉しく思ってる。
だけど不思議とそうじゃない自分も心のどこかにいるんだ。君が誰かに微笑んでいる様を見ていると………心がね、痛いんだよ。ちくりとするんだ。
きっと君がぼくの手の内から空へと羽ばたいていくのが、ぼくは寂しかったのだと思う。ずっと同じ関係じゃいられないなんて分かってたはずなのに。
居心地良かったんだ、ぼくは。君が弱い人間のままで、ぼくに頼りきりでいることが。なんて――――酷い話」
そう、どこか―――罪の告白に似ていた。
「君の騎士として、これは恥ずべきことだ。あってはいけない不純だ。主君の幸福を素直に喜べないなんて、君にも、そしてかつての我が王にも顔向けできない。
だけど、それはちょうどよくもあったんだ。君と距離を置くタイミングを知る切っ掛けとしては。君にとってぼくの庇護はもう不必要なものだ。邪魔ですらある。
君は君で、新しい関係へ向けて歩いていくのが最善だと。ぼくは今後その良き従者であるのが適切なんだと、そう思えたんだ。そう振る舞ったし、そう思えたはずだった。
最近ようやく………それに納得できるようになったつもりでいたんだ」
こころなしかナミネの両手首を掴む力が強くなった気がする。
酒臭い息を吐き出す顔だって、もう額と額がぶつかりそうなくらい間近だ。ナミネは垂れ流される告白を受け止めながら、じっとガレスの瞳を見つめた。
いつもの快活な色合いではなく、どんよりと澱んだその視線を。
それを悲しくは――――思わなかった。むしろ―――――。
「でも今日、君は言っていたろう」
『それじゃ、ナミネさんは好きな人いるんですか?』
ガレスはその時、部屋から漏れ聞こえてきたそういった主旨の言葉を耳にした。
「梅田」側
ガレスはまさにその声が発せられている一室に向かっている途中だった。中ではナミネと彼女が呼び込んだ『仲間』がいるはずだった。
紆余曲折あってその一室は半ば彼らの拠点になっていた。表向きにはシャッターが降りて無人となったはずのインフォメーションセンターだったが、限られた通路を通ることで辿り着ける部屋がある。
例えば。それはエレベーターのコンソールへ特殊な操作をしなければつけない。例えば。それはセンター地下の秘匿された区画から外界に繋がっている。
曰く。本来は緊急時においてカレンシリーズが司令塔となり使うはずのオペレーションルームなのだという。
彼女ら無き今、都市戦争スタッフとしてたまたまその部屋の存在を知り得たナミネによって開放され、来るべき日へ向けて多くの備えが進められる場所となっていた。
………その割には、来訪者たちによる全く関係のない私物が着々と増えていることはともかくとして。
地下の侵入口を伝って部屋に入ろうとしていたガレスは扉の前で耳をそばだてる。気にせず入れば良かったのだ。何も問題はない。
だが、次に聞こえてきたナミネの返答がガレスの足の運びを止まらせた。
『はい。いますよ』
『えっ!?』
えっ、と声を裏返したいのはこっちだ。そうガレスは言いたい。
初耳だった。全くそういう素振りを見たことは無かったし、そういう相手がいるとも思っていなかった。
まさか“あの”ナミネにそういう相手がいるなんて!他人と接するのも精一杯という女だったはずなのに、いつの間に!
無性に動揺したし、動揺した自分自身に動揺した。こんな喜ぶべき事へ心を千々に乱すほど揺れているのか、ぼくは。
『ち、ちなみに、誰か聞いても……?』
『さすがにそれは言いたくありません。内緒です』
『わ、わ〜……乙女だ〜……可愛いやつだこれ〜……』
『いけませんか。このくらい普通ですよ』
かつてのナミネには似つかわしくなかった会話が室内で交わされる中、ガレスは知らず知らずのうちに通路の壁に背を預けていた。
ずるずると滑落し、尻餅をついたような様子になる。
おかしい。異常だ。目の前が暗い。貧血に似た症状がサーヴァントであるはずのガレスを襲う。首だけで支えていられなくなって、たまらず頭を抱えた。
そうか。あのナミネにも愛を告げたい人がいるのか。それは気づかなかった。祝福しなければ。
頭はそう鈍く考える。だが、心がついてこない。その理由を探るが、認めたくない事実しか吐き出されない。
―――ナミネはもう自分のものではない。それが嫌で嫌で、たまらない。そんな、昏くて醜い感情しか湧いてこない。
いつの間にこんなに入れ込んでいたのだろう?いつの間にこの感情はそこまでではないと勘違いをしていたのだろう?
無条件にこちらを頼ってくるナミネに、依存してくれる相手に、自分はそれよりも深く思い切り依存していたのだ。
毎日生きているだけで倒れ込みそうな相手に頼られる信頼へ、いい気になって引き返せなくなるところまでたっぷりと浸っていた愚か者こそ自分だったのだ。
相手は主君だぞ。仕えるべきマスターなのだぞ。そう心に鞭を振るっても、ただひび割れるばかりで気力は延々と萎えていく。
そうか。自分で思っていたよりも数段、自分はナミネのことが好きだったのか。まるで失恋した生娘みたいではないか。自分で例えておいて自分で自嘲する。
そうだとも。好きだ。身体が好きだ。薄い胸も、程よく括れた腰も、大きな尻も好きだ。深夜の闇に似た黒髪も、透き通るような白い肌も、透度の高い宝石のような瞳も、うっすらと赤い唇も。
後ろ向きで何もかも悲嘆するくせに、決して自分を諦めきれない意地汚さが好きだ。どうしようもなく駄目な人間なのにどうしようもなく切実に生きているのが好きだ。
堪えきれなくなると自分にくっついてくる弱さが好きだ。自分ひとりではすぐに崩れ落ちてしまうことを知っていて、誰かに頼ることの尊さを知っている心が好きだ。
そんなふうに、無条件で甘えてきてくれるナミネに、自分はそれ以上に甘えていた。
強くなったつもりだった。生前の多くの経験が自分を鍛え上げたつもりでいた。
でも、ちょっと蓋を開ければ自分は遠い昔の自分と変わらぬ、末っ子気質の甘えん坊で――――。
………駄目だ。手放しにそこには帰れない。そうしてしまえば、自分の中の何かが歪んでしまう。
ガレスが座り込んだまま伏していた視線を上げる。瞳の奥底には真っ黒いコールタールに似た、どす黒いものが波打っていた。
ひとつ、手はある。否応なしに、ただの主とそのサーヴァントという立場に戻れる手段はある。
自害を命じられても仕方ないかもしれないが、それはむしろマシですらある。問題は、それを自分が実行できるかどうかだ。
正直な話、無理だろう。とてもではないが畏れ多くて、それよりももっと怖くて、まともな自分では手段を選ぶことすら出来そうにない。
冷えて凍えていく自分の心の中で、ガレスは思い出していた。ナミネが時折口にしている酒瓶の在り処を―――。
「だから、ぼくは今から君を犯そうと思う。
気が狂ったと思ってくれて構わない。でも、ぼくは君がどうしようもなく好きみたいで、君が欲しいんだ。誰かに渡したくない」
熱に浮かされたように言って、ガレスは拘束していたナミネの両腕のうち片方を放した。
それはもちろん手心とかではなく、単に自分の片腕を自由にするためだ。おもむろにナミネのキャミソールの襟に手をかけると、そのまま。
「………………っ!?」
強引に下へ降ろした。サーヴァントの膂力で引きちぎるように動かしたのだ。肩紐などの干渉によってキャミソールは脱げることなく、布割く音と共に胸側は真っ二つになる。
臍のあたりまで顕になる。闇の中でも白い肌はむしろよく映えて輝いて見えた。胸元も隠されることはなく、薄い膨らみの上に控えめに主張する乳首の桃色が視界に映る。
ああ、綺麗だ。と心底から思った。驚くくらい美しく育った。風呂場で裸身を見て胸を弾ませたことなど一度や二度ではきかない。
この子は知らないのだ。自分が獣欲に身を任せ、ナミネが泣き叫び喘ぐ姿を見てみたいと幾度も思ったことを。それを理性で殺してきたことを。
かつてこの子は知人他人問わず、多くの人々から虐待を受けた。その中には性的な干渉もあった。ナミネにとっては最も忌むべき記憶のひとつだろう。それに踏み込むなどナミネの地雷を踏むと同義だ。
でも、いい。それでいいのだ。
もう片方の腕の拘束は既に緩くしている。どうか、抵抗してくれ。振り払ってくれ。
ぼくを、嫌ってくれ。
自分勝手な振る舞いにひどく吐き気がするが、それでもそうしてくれればガレスは本来あるべき立場に戻れる。
主に仕えるただの従者に戻れるし、ナミネはただの主になる。後腐れなく君は想い人に思いを告げることが出来る。
何なら契約を解除してくれたっていい。邪なサーヴァントにはそれでも足りないくらいだ。
ひどく無茶苦茶で自分本意で浅ましい考えであったが、ガレスにはもうそれ以外に自己規定の手がなかった。追い詰められていた。
ナミネを指して弱い人間などと笑わせる。それを言うなら、己はとても弱いサーヴァントだったのだ。何が英霊だ。ああ、情けなさに芯から凍える。
素面ならこんな行いは絶対に無理だ。だからまともに飲めもしない強い酒を思い切り煽ってやった。
酒とは大したものであり、恐ろしいものだ。普段なら絶対できないような、このような行動に今走れているのだから。
たっぷりと自己嫌悪に濡れたまま、ナミネの腹から胸部、首、そして顔へと視線を睨め上げていく。きっとその終点には冷ややかなものがあると知りながら。
そうした視線の行き着いた先で………ガレスはつい口を半開きにして呆けた。
そこにあったのは恐怖でも、怒りでも、嘆きでもない。
まるでガレスの拘束を振りほどく素振りも見せず、ただ羞恥に頬を染めてどぎまぎとする、愛らしい乙女の姿があったのだ。
「嫌やわ、そんな………いきなりそないなこと言われても、ウチどないな顔したらええか……」
「え」
待ってくれ。どういうわけだか分からないのはこっちだ。
表情や仕草に対する理解が追いつかず、ただきょとんとするガレスをナミネの青い瞳がじっといじらしく睨みつける。
「その、悪いんだけど……ナミネ。それがどういう意味だかぼくは分からなくて……説明してもらえる?」
「いや、だって、その………」
そこからのナミネの表情は、あくまで他人事とすれば可愛らしいものだった。
困った。憤ったように頬を膨らませた。何を告白すべきか悩んだ。ガレスに組み伏せられた下で、言うべき言葉を選定して唸りながら代わる代わる表情を変えた。
最後に定まったのは、首を横に倒したままの姿勢だ。頬を紅潮させながら、潤んだ目で戸惑うガレスを見遣る。
「なんや、ウチもわけわからへんけど………。
………好きな人に好きやって言われて、おまけにウチが欲しいとか、犯すとか、どないしたらええかなんてウチにも分からへんわ……いけず」
耳まで真っ赤にしながら、言い終わるなり視線を反らしてナミネは横顔をそっぽに向けた。
「……………………」
ガレスの中で思考が追いつかない。
何を勘違いしていたのか。何を思い込んでいたのか。
滝のように凄まじい勢いでガレスの顔から血の気が引いていく。酔いも一気に吹っ飛んだ。そもそもナミネの好きな相手とは誰のことだったのだ。
さすがにナミネにこんな反応をされて察することができないほどガレスも鈍感ではなかった。
そうか。ぼくか。なるほど。
つまりぼくは勘違いで暴走して酔い潰れ、マスターを押し倒した挙げ句不埒な行いに及ぼうとしたとんでもなく頭の悪いサーヴァントか。
いやサーヴァントとして以前に、騎士としてはもっと以前に、人としてどうなのだ。
さすがに即座に自害して果てることを選びたくなるようなその事実をそのまま受け止められるほどガレスも器が大きくなかった。
凍りつき、システムダウンした。心が追いつけなかった。非常に情けない理由で。
それはきっと極めつけに間抜けな時間だっただろう。勘違い女に押し倒されて服まで破かれた女と、押し倒してからようやく齟齬に気づいた酔っぱらい。
互いに動き出すのにしばらく時間を有する必要があったのは論を俟たない。
やがて、固まって動かないガレスを不審に感じたナミネがちらりと視線を頭上のガレスに向けた時だった。
ナミネは頬に熱い温度を感じた。ぽたり、ぽたりと、断続的にそれは落ちてくる。その源を確かめたナミネは思わず息を呑んだ。
「ガレス……なんで泣いてるん……?」
「え………あ…………」
指摘に対し、ガレスはナミネを拘束していた事も忘れて自分の目元を押さえる。信じられないという面持ちで。
「そうだね……どうして泣いてるんだろう。分からない、分からないな……。
こんなはずじゃなかったんだ。本当だ。本当にこういうつもりじゃなかったのに……こんな顔を君に見せるべきじゃないのに……」
それはガレスがナミネに対して初めて見せる顔だった。包容力に満ちていて騎士らしく高潔で、優しく強い姉。それがナミネにとってのガレスだったはずだ。
こんなのはナミネに見せていいガレスの側面ではない。惨めで、情けなくて、甘ったれで、ナミネに負けず劣らず劣等感に満ちている。それは拭い去った姿だったはずだ。
そのはずだと、ガレスは思っていた。
「……………そっかぁ」
「………、……っ!?ナミネ…?」
次から次へと溢れる涙を拭っていたガレスは、ここまでされるがままだったナミネの突然の動きに油断した。
下から手を伸ばされ、首を抱きかかえられたガレスはついバランスを崩して………いや、ナミネによって抱き寄せられた。
乱れたシーツの上。ふたりで折り重なるようにして倒れるような格好になる。鼻先と鼻先が当たるくらい、互いの吐息がまざまざと感じられるくらい、顔が間近にあった。
きらきらと涙の膜で光るナミネの碧い瞳がただただ美しいとガレスはこんな状況でありながら強く感動した。
「ええんや。ウチ、ガレスのそないなところも知っとる。
ほんまは傷つきやすいとこも、甘えん坊なとこも。10年以上一緒におるんやさかい当たり前や。
でもウチ、そないなガレスが好きや」
びっくりするくらいまっすぐ双眸を見つめられ、はっきりと口にされた。耳まで真っ赤だったけれども、ずっとナミネは柔らかく微笑んでいた。
「――――――――――。」
ああ――――なんて、滑稽な話。
かつての弱い自分を認めてしまえば自分の中の何かが歪むだなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
単に認めてしまうのが恐ろしかったのだ。たったそれだけなのだ。いつまでも守るべき相手だと思っていたナミネには全て看破されていて、ずっと守られてすらいたのだ。
思わずガレスは腕を伸ばして横たわっているナミネを抱きしめ返した。少しひんやりとしていて、でも確かな生命の体温を感じる。それだけで信じられないほど心が充足した。
混乱通り越して恐慌状態ですらあった精神が一気に落ち着いていく。収まるべきところへ速やかに収まっていく。
綺麗に整理整頓されていって、最後に残ったのはとても澄みきった感情だった。泥だらけで手垢にも塗れていたけれど、きらきらと光って見えた。
普段、いいや生前ですらはっきりとは口にし難いそれさえ、何のつっかかりもなく自然と喉から解き放たれた。
「………ただの勘違いで、こんな乱暴をしてごめん。ナミネ。
ぼくもナミネのことが好きです。うん………………愛している。ぼく、女だから……こんなことを君に言っていいのか分からないけれど」
「今更やん。ウチが先に言ったことや。その………おおきに」
なんだかおかしくなってふたりして抱き合いながらはにかむように笑う。春風のような笑い声がころころと暗い寝室の空気を揺らす。
そうしたくなって、ガレスはナミネの胸元に顔を埋めた。いつもとは反対の立場。
ナミネが優しくガレスの頭を抱くのも普段とはあべこべの役割だった。自分の髪が子供をあやすように撫で付けられるのに安心感を覚える。
こうしてしまえばとても簡単なことだった。ぼくは君が好きで、君はぼくが好き。君がぼくに甘えるように、ぼくも君に甘えていいのだ。
ぼくは一枚皮を剥がせば甘えん坊で流されやすい末っ子気質だけれども、ナミネの騎士でいていいのだ。
退崎ナミネ。君をサーヴァントとして、騎士として、ひとりの女として、心から敬服しお慕い申し上げる。
ナミネの肌触りを頬でガレスが感じていると、妙に甘ったるくてナミネの声が頭の上から降ってきた。
「なぁ、それならひとつお願いがあるんやけど」
「ん。なんだい?」
「仲直り…いや、ウチはガレスと仲悪なった認識はあらへんのやけど。兼ねて、キス、してくれへん?」
「いいよ」
戸惑うことはなかった。ごく自然、当たり前のことだと思えた。
ナミネの胸元から顔を離して再び見つめ合う。高揚して白い頬は赤く染まっていたけれども、ナミネの表情はどことなく期待感で濡れている。
合わせて瞳を閉じたナミネの桜貝の唇へ、ガレスはそっと自分の唇を這わせた。
率直に言って、脳天まで痺れた。陽極と陰極が重なって通電したみたいだ。軽く唇を触れ合わせただけだったのに霊核が弾け飛ぶかとすら感じた。
エーテルで出来た仮初の心臓が痛いほど鳴っているのに不思議と頭の中だけは落ち着いていてクリアだ。得られる一切の感触を逃さないためだったのかもしれない。
ぷは、と小さく呼吸を漏らしながら一旦離れた。まだすぐ目の前にナミネの唇はある。てらてらとふたりの唾液に塗れて光っている。
ぞくりと背筋に強烈で仄暗い感情が走る。全然物足りない――――――。
……ナミネの目に同じような情欲の色合いが映っていたのを見て取った途端、今度は思い切り唇を奪った。がっつくように舌を潜り込ませ、ナミネを蹂躙する。
口の中がやけに熱い。火の中にでも舌を突っ込んでいるよう。おずおずとした動きだったが、ナミネも自分の舌を絡ませてくれるのにたまらなく嬉しくなる。
本当はずっとこうしたかった。ナミネのことを滅茶苦茶にしてしまいたかった。それはあり得ないことで―――今は現実になっている。
そのギャップにくらくらする。正直、この状況自体がどうにかなりそうなくらい
どろどろに甘く溶け切った気分のまま、唇と唇が離れた。互いに荒い息で空気を貪る。
視線の交錯で一致したのは、隠しきれない欲望の意思。
今だけは、相手が何を言うか、それに相手がどう答えるか、未来予知の精度で感じ取れた。
「ほな、次は…………さっきの続き、して?」
「うん。いいよ」
返事を聞いたガレスの視界に超至近距離で映るナミネの顔が艶冶に微笑む。
それは今まで見たこともない表情で――彼女の身体に流れる血のせいか――凄烈なまでによく似合っていた。ガレスが、一切我慢できなくなるくらいに。
もう無闇に否定したり、目を背けたりしない。ガレスはナミネの破れかかった服に、手をかけた。
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