最終更新: nevadakagemiya 2018年03月06日(火) 14:32:34履歴
「やっほー親友! 遊びに来たぜぇ」
紋章院の当主たるグロース=アンディライリーの研究室の扉が勢いよく蹴り開けられた。
チグハグな和服を着込み胡散臭い雰囲気を纏う友人、帚木輝日宮 のダイナミックエントリである。
一瞬、頭が痛むような表情を見せたグロースはやかましい客人にボソボソと告げる。
「輝日宮か……確かアポイントメントは取っていなかったはずだが?」
「バカ言うなよ親友。こうして突然押しかけなかったら君 いつも用事ばかりじゃないか!
いっつもいっつも誘い断ってさぁ! だから僕 もこうして強硬手段を取らせてもらうわけだ!」
「……そうか。どうでもいいが輝日宮、足元に気をつけろ」
「足元? ──うわぁ?!」
勢い余ったのか床に落ちていた紙切れを思い切り踏みつけた輝日宮は、そのままごろごろと転がり部屋の隅に積まれた紙くずの山に激突した。
"ボツ"や"済"と書きつけられた紙くずが部屋中に舞い散る。
「あいったたたたた……」
「だから言っただろう……足元に気をつけろと……」
「遅いよ! 言うのが若干もといかなり遅いよ親友!」
「聞かれなかったからな」
「確信犯だこの人!?」
ガーン、と書かれた擬音でも背負っているような構図で輝日宮が叫ぶ。
が、長い付き合いで彼女の扱いに慣れているのだろうか。全く動じていないグロースは、「部屋を片付けておけよ」とだけ付け加え再び机に向かった。
「……えー、何この反応。いくらなんでもひどいだろ親友。塩対応すぎて泣いちゃいそう」
ぺたんと座り込んだまま輝日宮がうるうると涙腺に涙を溜める。
外見だけなら年若い輝日宮である。いつもの胡散臭さも霧散し童女のように泣き出しそうになっていると言うなら常人なら何かしら罪悪感が湧きそうなもの。
五分ほど、スンスンと鼻を鳴らす音が部屋に響く。輝日宮はちらっとグロースを盗み見た。無視されていた。
「……このやろっ」
無視も無視。全面的無視。まるで障壁でもあるかのようだ。微塵も興味を示していなかった。
「ほら、泣くよ僕ぁ? 年甲斐もなく泣いちゃうよぉ? いいのかい千歳もとうに過ぎた女がビービー泣いちゃうみっともない姿晒しててもぉ?」
無視。
「ここは君の研究室とは言え扉は開きっぱなし! 外まで声が聞えるんだぜ?
当主グロース=アンディライリーの知人が恥ずかしい人間だと思われてもいいってのかい?
だとすれば君は血も涙もないね! AIとかいう以前に人としてどうかと思うよ僕は!」
無視。
「…………だから僕以外に友達できないんだよ」
ボソリ。白々とした表情で輝日宮が呟く。ぴくりとグロースのこめかみが僅かに動いた。
──かかった。
内心で輝日宮はにやりと笑った。
「……何が言いたい輝日宮。はっきりと言ってみろ」
「べっつにぃ? 僕はちょっと売り言葉に買い言葉ってやつを実行しただけさぁ? なに? それとも友達いないの気にしてるの君ぁ?」
「そも、私に友など必要ない。作る必要性がどこにある」
「でもぉ、それ君に友達ができないことに関係あるぅ? ないよねぇ?」
ぶちり、と何かが切れる音がした。
パキリポキリと指の関節を鳴らしながらグロースは乱雑に立ち上がり帚木を凍るような目つきで見下ろす。
「そうかわかった。ああ、いいだろう。わかったよ。そこまで私と雌雄を決したいなら乗ってやろう。
表に出ろ帚木。ちょうどフリーメイソンの堕天使に投げつけようと思っていた『偽典・第六呪詛 』が完成している。実験台にしてやろう」
「あー待った待った! それ全然フェアじゃないぜぇ親友? 君の身体はクロニクちゃんからの借り物だろう?
比べて僕はこの入れ物ひとつっきりだ。確かに喧嘩を売ったのは僕だが失うものが釣り合わないにも程が有るよ」
「じゃあどうすればいいんだ帚木。代案を出せ」
苛立ったように(実際苛立っているのだろうが)グロースが吐き捨てる。
輝日宮はにんまりと、まるでチシャ猫のように笑っていた。
人類史を語るにあたって外せない要素は幾つかあるがその中でも人々の暮らしに密接するのが遊戯である。
肉体を鍛え狩猟者としての力を競う遊戯もあれば、技術を学び知恵持つ霊長としての力を競う遊戯もあった。
古代ギリシャでオリンピック開催期間の前後7日間は停戦する決まりがあったように、時に遊戯とは争いや利益を越えた原始的な部分で人間の心を惹きつける。
つまり戦争<<<<<遊戯。
ゲームは剣より強し。
戦争は変わったのである。
近年では競い合いではなく殺し合いを行うゲームが増えているように既に戦争は遊戯に包括されている! 戦争⊂遊戯なのだ!
殺し合えば互いに損失が発生するだけだがゲームなら失うものは雀の涙のような電力と時々投擲されるコントローラのみ!
ビバゲーム! 最高だぜゲーム!
……というわけで輝日宮とグロースの争いがNintendoSwitchによる対戦プレイにすり替わるのもごく自然なことであった。
「いや待ておかしいだろ?!」
「はっはー! 承諾したからには、やり遂げてもらうぜぇ! いやぁ品薄のハードやっと買えたから君と遊びたかったんだよね!」
「輝日宮貴様ァ! さては『胡乱』を使ったな!」
──帚木輝日宮の『胡乱』は周囲の全てを胡乱に変える。
そして、それは馬鹿げた文言がつらつら書きされたギアススクロールへと安い煽りに乗ってサインしたグロースの思考能力も例外ではなかった。
「気がついてももう遅いぜ親友ぅ? ギアスに従って今日は決着つくまでオールナイト対戦祭りだ!」
「おのれぇ……! ……いいだろう。やるからには全力を出す。私の持てる力の全てで貴様を下すぞ帚木!」
「僕、君のそういうところ結構好きだぜぇ」
「黙っていろ……!」
全クロニクを並行接続し思考領域を拡大、計算処理速度を数千倍に引き上げる。
これよりありとあらゆる未来を予測し、動きを記録し、必ずや輝日宮に吠え面をかかせると決心して。
「さぁ、勝負だ帚木ィ!」
コントローラーに手を添えた。
××××
同時刻、ロンドン。
久々の休日を迎えていたジョン王はたっぷりと砂糖を入れたコーヒーを啜りながらザリガニのパイのレシピをメモしていた。
しばらく前から彼のマスターであるザイシャ=アンディライリーの代わりに炊事洗濯をこなすことが多くなっていたのだが、
元々公務以外には偶の狩りや馬上試合以外に楽しみもない王の身である。趣味も少ない彼はいつしか家事を楽しむようになっていた。
そもそもからしてザイシャは身だしなみにも食べ物にも気を使わないうえに仕事で家を空けることも少なくなかったため、
荒れ放題で廃屋のようになっていた部屋で留守を預かるようになった彼にしてみれば当然の帰結だったのかもしれないが。
さて、彼がコーヒーを飲み干してポットからおかわりを注ごうとしていたときである。
ビー! ビー!とリビングに取り残されるように安置してあった謎の機械がけたたましくサイレンを鳴らしランプを点灯させた。
「おおぅ」
一瞬、ビクッとしたジョン王はすぐさま平静を取り戻すと機械の裏にある三番目のスイッチを操作し警報を止める。
これでよし、とひとりごちるとそのまま寝室に向かった。
「ザイシャー、起きろザイシャー」
クッションと同化するように眠っていた真っ白な少女の名前を呼びながら優しく揺さぶった。
んんぅ……と不満げな息を漏らしながら寝ぼけ眼の少女はゆっくりと上半身を持ち上げた。
「……おはよ、ジョン。なにかあったの……?」
「おはようザイシャ。例の機械が反応したぞ。急いだほうがいいんじゃないのか?」
「そだねー……」
ふわぁ、とあくびを漏らしたザイシャはずるずると髪を引きずりながら千鳥足でリビングに向かっていった。
転ばないかとジョンが見守る中なんとか機械にたどり着いたザイシャはコンソールに併設された椅子にぽすりと座った。
おぼつかない手つきで皮膚電極 を貼り付けるザイシャを心配そうにジョンは見つめる。
「大丈夫かザイシャ? 眠いなら今日くらい休んでもいいんじゃないのか?」
「んー……だめ。明日からアメリカ飛んで二週間は帰ってこれないからしばらく潜れないし……。
それに久々に姉さんのメモリ稼働率がレベル6を越えてるからさー……。何ヶ月ぶりだろ。滅多にないチャンスだしね」
ザイシャが接続している機械は彼女の体内に混ざり込んだ月雫箱を経由してクロニク=ネットワークにアクセスするハッキングツールだ。
彼女手ずから作ったこの"作品"は常にネットワークを監視しておりセキュリティが手薄になったのを感知してサイレンを鳴らす。
計算速度を外付で補助することも可能で、紋章院からザイシャが様々なデータを抜き出す際に常用していたのもこの特殊な礼装であった。
名付けて「氷砕き 」。
彼女が最も得意とする分野で紋章院と戦うために給料をつぎ込んで作成したMEiGui(メイジ:魔術的電子情報網共感覚幻想化装置)である。
「よし、目が覚めた」
ジョンのコーヒー(加糖前)を飲み干したザイシャは顔を叩くとぱっちりと目を開く。
コンソールを叩きながら頭上のヘッドセットを掴もう……としたが手が届かずにジョンに目線を送ると、
薄く微笑んだ彼がいかにも仕方無いと言いたげな様子でヘッドセットを下ろしザイシャの頭部に装着した。
「ザイシャ、今日の夕飯はパイでも焼こうかと思っている。無論焼き立てが一番だろうが多少冷めても問題ない。好きにやってこい」
「うん。ありがとジョン。楽しみにしとくね」
ジョンに右手でグッドサインを作って返答するとザイシャはコンソールのエンターキーを叩いた。
──潜行
無機質な合成音声がザイシャに囁いた。
(読み飛ばしていいです)
通常、ネットワークを五感で捉えることはできない。
当たり前だ。ネットワークとは究極的に言えば0と1の集合体。もちろん訓練すれば言語化できるかもしれないが飽くまで情報だ。
マトリックスとは電脳空間に"作られる"共感覚幻想である。つまり元からあるものではない。
誰かが構造体をプログラミングしネットワーク内に入力・保存しなければ生まれることはないのだ。
クロニクの形作るネットワークも同様である。
彼女らはネットワークを精神的な繋がりと捉えておらず自己に付随する副次的な産物と見ているため、
電脳空間にアクセスする者が足がかりにする第六の五感というものが存在していないため疑験 を用いることがもできない。
例えるならばこのネットワークは巨大な脳髄でありその中に宿った意識がクロニクたちである。
人間が自分の中でシナプスが働いているのを感知しないように彼女らもネットワークを情報網として見ていないのだ。
おそらくは彼女らの製作者であるグロース=アンディライリーも同様だろう。
彼はクロニクたちのシリアルナンバーによって各個体を識別しており個体番号の座標にアクセスすることで間接的にネットワークを移動している。
彼がネットワークを利用する際に彼の娘へと上位権限を用いて命令を出すのも同じことだ。
グロースとクロニクはクロニク=ネットワークを感覚野で捉えられないが、クロニク自身は意識に従って機能を使うことは出来るのだ。
それは、例えるなら人間がシナプスの系統樹を理解せずとも手足を動かせるそれと同じ原理である。五感には感じずとも感覚で動かせるのだ。
長々と書き連ねたが結論としては二つ。
クロニク=ネットワークを利用するにはクロニク自身か、クロニクを動かせる者でないと不可能であること。
クロニク=ネットワークの機能を自由に行使するためには上位権限が必須であるということ。
つまり、だ。クロニク=ネットワークとはグロースの意志によってのみアクセス可能な鉄壁の城塞なのである。
が、しかし。万物は絶対はない。
アスラ族のヒラニヤカシプが持つ無敵の肉体が、たったひとつの例外を以て打ち破られたように森羅万象には"隙"が残るのが常だ。
そう、ここに例外が存在したのだ。
ザイシャ=アンディライリー。グロース=アンディライリーの第二子にして本来は次代の紋章院を継ぐはずだった少女。
『第三呪詛』として作られた彼女は生まれ落ちたときからなぜか世界を電子的に捉えることができたのだ。
……人は、普通ならマトリックスの中でしか電子情報網を閲覧することはできない。
なぜならマトリックスとは人類種が感覚的に情報網にアクセスするための道具であり、
マトリックスなしでの操作とは1m離れた場所にあるスプーンを目視だけで曲げようとする行いに等しい。
スプーンに触れて曲げるという行為を1m離れた誰かの代わりに代替し円滑に接続させるための道具がマトリックス構造体なのだから。
だが、ザイシャにはそれができた。周辺の情報を書き換えマトリックスを作り上げるのではなく自分自身を小型マトリックスの核にすることができた。
人間が歩くには道が必要であるが彼女には必要ない。なぜなら足を進めれば勝手に道ができるのだから。
人が理解するには翻訳が必要だが彼女には必要ない。なぜなら目を通せばそれは彼女の解する言葉となるのだから。
発狂しないために物理法則が必要だが彼女には必要ない。なぜなら彼女の下に常に電脳空間の重力は働くのだから。
即ち、────ザイシャ=アンディライリーは電子の申し子であったのだ。
(ここまで)
「さて、と」
シナプスが燃える感覚がスパークし自分の脳波が一度平坦になりまた戻ったのを確認しながらザイシャはいつも通り電脳空間に降り立つ。
右手に破城槌型の『氷破り 』を視覚化するのを皮切りにお馴染みの点検を始め、異常がないことを見定める。
どうやら"MEiGui"によって拡張された計算処理能力等にも問題はないようだ。
「それじゃあ、お仕事始めましょうか」
そうひとりごちて、少女は電脳空間を飛ぶように歩き始めた。
××××
同時刻、O-13本部。
クロニク=アンディライリーはもじもじと身体を蠢かせていた。
仮面を付けていない彼女はO-13幹部序列第九位モーチセン・デュヒータの紋章官を務める個体であった。
そんな彼女がなぜこうやって擽ったそうにしているかと言えば……
「(要請に従ったのはいいけどお父様はいったいなにに私を使ってるんだろう……)」
ゲームである。
が、知らぬが仏のファザコン娘は何か素晴らしい実験をしているんだろうなぁと思考領域の隅で考えながら計算処理能力をぶん回していた。
身体をもぞもぞとしているのは全個体を完全同調しているせいで感覚野(センサー)が過敏になっているためだ。
通常のクロニクたちは各個体の感覚野を全く同じ数値に調整しているがそもそも感覚野の精度というのは個体によって違う。
故にそちらに処理を回せなければ鈍化するか過敏になるかの二択となる。
彼女の場合は特に敏感な個体であったためこうして普段より感度がいい体を持て余しているのである。
と、その時。
『大丈夫ですか、クロニクさん』
「うひゃぁ!?」
極端に向上した聴力と耳の穴の敏感な触覚を声が刺激し、クロニクは思わず飛び上がりそうになった。
直後に、自分が頓狂な声を挙げてしまったことに赤面し、擽ったさのあまり涙腺を刺激されながらクロニクは声の主を見上げた。
そこにいたのは全身を礼装で覆い、およそ人間らしからぬシルエットの人物。彼女が担当するモーチセン・デュヒータだった。
『ああ……すいません。驚かせてしまいましたか?』
「ひっ、ひえっ、らいじょう……大丈夫、で、す……」
心配そうにモーチセンが声をかけるがそれすらも過敏になった肉体には刺激が強すぎた。
プルプルと生まれたての子鹿のようになったクロニクはろれつの回らない舌でなんとか返事する。
『強がらないでくださいクロニクさん。到底大丈夫には見えませんよ。具合が悪いのでしたら正直に言ってください』
「かひゅっ──!?」
追撃で(しかも先程より声量が大きく長台詞で)腰が砕けた。
舌も回らなくなってきたのでフルフルと首を振ってなんとかクロニクは否定の意を表象しようとした。
が、しかしモーチセンはまるで納得していないようで「今日は珍しく強情を張るなぁ」とでも言いたげであった。
クロニクとしても正直に話したかったが流石に心配してくれてる相手に「アナタのせいでこうなってます」とは言えなかったので、
あっちに行ってください、私のことは放って置いてくださいと念じながらモーチセンを上目遣いに見つめた。
モーチセンと見つめ合いになってから五分ほど経ったころ。念願かなってか彼は少し離れたところからクロニクの様子を伺うだけになっていた。
「(た、助かったぁ……)」
クロニクは内心でほっと息をついた。
モーチセンの声はよく響く。即ちクロニクの身体も同様である。
十倍、とは言わないが数倍に膨れ上がった触覚は彼の声を全身で感じて揺れていたのだ。
「もう少しで腰が抜けるところだった……」
正確に言えば抜ける寸前だった。
紋章官は紋章院の代表であり顔である。そんな彼女がこのようなところで醜態を見せるなどクロニクのプライドが許さなかった。
「(ありがとうございます! ありがとうございますモーチセンさん! あとで必ずお礼をします!
ところでお父様は何をしてるんですか! まだ終わらないんですか?! できれば早く終わってほしいんですが?!)」
××××
同時刻、グロースの私室。
「バカな! あのタイミングではドリフトが間に合わないはずだ! 少なくともプレイして数時間の君に出来るわけがない!」
「見くびるなよ輝日宮! これが私の、いや私達の力だ!」
「くぅっ……まだだぁ! まだレースは3コース目だ! 幾らでも巻き返せる!」
「やってみろ輝日宮! 私を舐めても私の作品を侮るなよ!」
××××
ゲームであった。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅ……まだですかぁお父様ぁぁぁぁぁ……」
現在時刻は夕方五時。
夜明けまでは、まだ遠い。
××××
同時刻、電脳空間。
「よっ、と」
振り抜いた腕に合わせて0と1の螺旋が豆腐のように脆く崩れた。
ザイシャは構造体を"物理的に"破壊しながらカザンを目指していた。
「(確か、あそこには魔術式の発電炉があったはず……あれを暴走させれば事実上の本部であるカザン支部は壊滅ですね)」
ザイシャの目的、それは地上から紋章院を消却することである。一切の機能を解体し殲滅することである。
が、強大な組織である紋章院に一個人であるザイシャがまともに戦えるわけがない。
従って、彼女が取った手段とはテロリズム的な色が強くなっていた。というかテロリストそのものである。
もちろん、ザイシャは紋章院の魔術師たちに恨みがあるわけではない。彼らにとってはいい迷惑だろう。
だが、無益に命を奪うなんてことはフリーランスの魔術師であるザイシャには至極当然だ。
ザイシャは善人などではない。自分のエゴイズムのために他人を喰らい犠牲にしてのうのうと生き延びる殺人者だ。
彼女は"悪い子"なのだ。
ザイシャに比べればむしろ姉であるクロニクや父親のグロースのほうがまともな人間と断言できる。
彼女は限りなく魔術師的な人間であり、故に自分の同類であるだろう魔術師を殺すことになんら躊躇は無いのだから。
目的を達成するための最短ルートならどれだけ犠牲があっても気に留めない。それがザイシャ=アンディライリーという人間だった。
「んっ、結構進んだな」
種子状に視覚化した"ワーム"をばら撒いていたザイシャは、うんと身体を伸ばす。
腕を上げると同時につま先立ちになった自分の像が幻想の空気を肺いっぱいに詰め込んだ。
立ち止まって周囲を見回せば電脳空間を構成する0と1の羅列が視線に沿って意味を象り視線を外すと同時に消えていく。
ざっと読み取った情報からはじき出された現在座標はカザン支部の統制端末まで感覚的距離で数百メートルに迫っていた。
ここからが本番だ。ザイシャは小休憩を取って脳を休めながら──一度脳死すると復帰に数分かかるためだ──構造体を見下ろす。
と、その目線が一点で止まった。
「ううん……?」
ザイシャの視線の先にあるのは構造体の中でも現実世界の防衛機構を制御するシステムがあった場所だ。
無論、電脳世界から侵攻しているザイシャには関係のない話であるしワームの目標にも設定していない。
そこが丸ごとネットワークから分断されていたのである。破壊ではなく分断。ネットワークから離脱した状態。
ザイシャや、よしんば同じことが出来るものが他にいたとしてもこうはならない。
やるならもっとスマートに、こちらの構造体だけが破壊されて現実世界での機能を差し止めるさせる形になるはずだ。
つまり、この事実が指し示すこととは……
「まさか、……私以外の誰かがカザンに攻め込んでいる?」
××××
同時刻、O-13本部。
「……嘘。カザンに侵入者が。でも、あの防壁を破れる者なんてそれこそ」
まさか。
最悪の予感がクロニクの脳裏に去来する。
「モーチセンさん! ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
『ああ、良かった……体調が良くなったみたいですね。クロニクさんがどうなってしまうかと私は』
「私のことはいいんです! 第七位は、ガフ・V・K・ボネリ はどうしてますか!」
『はい? ……ああ、彼なら今日は休養を取っていましたね。確か何か用事があるとだけ言っていたそうです』
「…………やられた!」
すぐさまクロニクはネットワーク上のカザン防衛機構にアクセスする。
被害状況を確認……第一層の防衛システム破壊。
侵入者は全障害を破壊しながらまっすぐにエレベーターへ向かっている。
想定される彼、もしくは彼女の武装は……『SH.ME.EL. 』!
「あなたなのね──『金朱孔 』!!」
××××
同時刻、カザン支部。
ザクリ。
ガフ・V・K・ボネリはナイフで自分の右掌を穿った。
すると、彼の身体を構成するSH.ME.EL.が反応し肉体を復元するために目前の扉を"補食"した。
魔術的装甲を無視され固定具を失った扉はただの鉄板となりガフの繰り出した蹴りによってあえなく吹き飛ばされる。
「ふん……こんなものか紋章院」
地上に隣接するカザン支部の第一層の主要部分は改良型SH.ME.EL.によって作られているため、
普段通りなら攻撃や魔術を今ガフがしたように補食し修復し続ける鉄壁の壁であるはずだった。
感情を吸収し意思を得ることを危惧してクロニク=ネットワークに繋がれ制御された完璧な防壁は、しかし、自動的でないことが仇となった。
先程、防壁の制御機能の核となる機構をガフに破壊されたため、防壁はもはや役目を果たさずにバターのように砕けてしまうだけだ。
ガフの背後では壁からマシンガンを乱射していたロボットアームや隔壁だったものがぶすぶすと煙を上げ無残な姿を晒していた。
今回の侵攻はガフ単独のものである。
最高大総監であるアズ=アズィンも同行を希望し、何度も食い下がったが危険であるため置いてきた。
こと紋章院での戦いでは圧倒的多数の敵を相手取るため同士討ちや仲間の死を避けるためにも単騎攻めを選択したのだ。
「反応装甲か……無駄だ」
爆発反応装甲 が仕込まれた壁を蹴り飛ばし、爆発で破壊された足でその爆炎ごと扉を補食する。
僅かに残った硝煙の香り。その向こうにはエレベーターが鎮座しておりガフはまた躊躇なく扉を蹴りぬく。
吹き抜けになって底の見えない穴に向かってトラクション式エレベーターのワイヤーロープが飲み込まれていた。
暗闇を覗き込むガフに気がついたかのように風が吹き、深淵の伸ばす舌がガフの顔を舐めた。
「……この下に、『第四呪詛』の基部がある」
ガフの攻撃目標はグロース=アンディライリーの有する『呪歌六節』。
その四番目である『第四呪詛』だった。
このエレベーターは当該礼装が保管されている可能性が高いグロースの秘密倉庫に繋がる地下通路への唯一のアクセス手段。
エレベーターはグロースのIDがなければ稼働させることはできないが不死身である彼には関係のないこと。
ゴンドラを動かせずとも、底に繋がっているのだから降りてしまえばいいのだ。
「さぁ、チェックを掛けましたよ創造主。アナタの手番が来る前に……ボクが、全てを終わらせましょう」
恐れの欠片も見せずに床を蹴り大穴の中に飛び込む。
ガフはワイヤーロープを右手で掴むと火花を散らしながら闇の中に落ちていった。
(『紋章院防衛戦』に続く……続くの?)
××××
その頃のグロース。
「ん? どうしたんだい親友? 妙に挙動不審だけど」
「……いや、少し気になることがあってな」
「へぇ、なんだい? カザンでも攻め込まれたかい」
「……………………」
「え、なに。本当に攻め込まれてるの?! だったらこんなことしてる場合じゃ──」
「────ここだ!」
グロースがキーを操作すると画面内のキャラクターが壁に吸い込まれ……そして大幅なショートカットを成し遂げた。
「え?! なにそれ?! え、え?! どうやって見つけたの君?!」
「ふ、私の計算にかかればこの通りだ」
「すっっげぇ!! ねぇねぇ、僕にもできるかなそれ?」
「ああ。出来るとも。いいか、やり方は簡単だ。まずキノコでダッシュして約42.8度の角度からこの部分に……」
ゲームであった。
[→to be continued]
紋章院の当主たるグロース=アンディライリーの研究室の扉が勢いよく蹴り開けられた。
チグハグな和服を着込み胡散臭い雰囲気を纏う友人、帚木
一瞬、頭が痛むような表情を見せたグロースはやかましい客人にボソボソと告げる。
「輝日宮か……確かアポイントメントは取っていなかったはずだが?」
「バカ言うなよ親友。こうして突然押しかけなかったら
いっつもいっつも誘い断ってさぁ! だから
「……そうか。どうでもいいが輝日宮、足元に気をつけろ」
「足元? ──うわぁ?!」
勢い余ったのか床に落ちていた紙切れを思い切り踏みつけた輝日宮は、そのままごろごろと転がり部屋の隅に積まれた紙くずの山に激突した。
"ボツ"や"済"と書きつけられた紙くずが部屋中に舞い散る。
「あいったたたたた……」
「だから言っただろう……足元に気をつけろと……」
「遅いよ! 言うのが若干もといかなり遅いよ親友!」
「聞かれなかったからな」
「確信犯だこの人!?」
ガーン、と書かれた擬音でも背負っているような構図で輝日宮が叫ぶ。
が、長い付き合いで彼女の扱いに慣れているのだろうか。全く動じていないグロースは、「部屋を片付けておけよ」とだけ付け加え再び机に向かった。
「……えー、何この反応。いくらなんでもひどいだろ親友。塩対応すぎて泣いちゃいそう」
ぺたんと座り込んだまま輝日宮がうるうると涙腺に涙を溜める。
外見だけなら年若い輝日宮である。いつもの胡散臭さも霧散し童女のように泣き出しそうになっていると言うなら常人なら何かしら罪悪感が湧きそうなもの。
五分ほど、スンスンと鼻を鳴らす音が部屋に響く。輝日宮はちらっとグロースを盗み見た。無視されていた。
「……このやろっ」
無視も無視。全面的無視。まるで障壁でもあるかのようだ。微塵も興味を示していなかった。
「ほら、泣くよ僕ぁ? 年甲斐もなく泣いちゃうよぉ? いいのかい千歳もとうに過ぎた女がビービー泣いちゃうみっともない姿晒しててもぉ?」
無視。
「ここは君の研究室とは言え扉は開きっぱなし! 外まで声が聞えるんだぜ?
当主グロース=アンディライリーの知人が恥ずかしい人間だと思われてもいいってのかい?
だとすれば君は血も涙もないね! AIとかいう以前に人としてどうかと思うよ僕は!」
無視。
「…………だから僕以外に友達できないんだよ」
ボソリ。白々とした表情で輝日宮が呟く。ぴくりとグロースのこめかみが僅かに動いた。
──かかった。
内心で輝日宮はにやりと笑った。
「……何が言いたい輝日宮。はっきりと言ってみろ」
「べっつにぃ? 僕はちょっと売り言葉に買い言葉ってやつを実行しただけさぁ? なに? それとも友達いないの気にしてるの君ぁ?」
「そも、私に友など必要ない。作る必要性がどこにある」
「でもぉ、それ君に友達ができないことに関係あるぅ? ないよねぇ?」
ぶちり、と何かが切れる音がした。
パキリポキリと指の関節を鳴らしながらグロースは乱雑に立ち上がり帚木を凍るような目つきで見下ろす。
「そうかわかった。ああ、いいだろう。わかったよ。そこまで私と雌雄を決したいなら乗ってやろう。
表に出ろ帚木。ちょうどフリーメイソンの堕天使に投げつけようと思っていた『
「あー待った待った! それ全然フェアじゃないぜぇ親友? 君の身体はクロニクちゃんからの借り物だろう?
比べて僕はこの入れ物ひとつっきりだ。確かに喧嘩を売ったのは僕だが失うものが釣り合わないにも程が有るよ」
「じゃあどうすればいいんだ帚木。代案を出せ」
苛立ったように(実際苛立っているのだろうが)グロースが吐き捨てる。
輝日宮はにんまりと、まるでチシャ猫のように笑っていた。
人類史を語るにあたって外せない要素は幾つかあるがその中でも人々の暮らしに密接するのが遊戯である。
肉体を鍛え狩猟者としての力を競う遊戯もあれば、技術を学び知恵持つ霊長としての力を競う遊戯もあった。
古代ギリシャでオリンピック開催期間の前後7日間は停戦する決まりがあったように、時に遊戯とは争いや利益を越えた原始的な部分で人間の心を惹きつける。
つまり戦争<<<<<遊戯。
ゲームは剣より強し。
戦争は変わったのである。
近年では競い合いではなく殺し合いを行うゲームが増えているように既に戦争は遊戯に包括されている! 戦争⊂遊戯なのだ!
殺し合えば互いに損失が発生するだけだがゲームなら失うものは雀の涙のような電力と時々投擲されるコントローラのみ!
ビバゲーム! 最高だぜゲーム!
……というわけで輝日宮とグロースの争いがNintendoSwitchによる対戦プレイにすり替わるのもごく自然なことであった。
「いや待ておかしいだろ?!」
「はっはー! 承諾したからには、やり遂げてもらうぜぇ! いやぁ品薄のハードやっと買えたから君と遊びたかったんだよね!」
「輝日宮貴様ァ! さては『胡乱』を使ったな!」
──帚木輝日宮の『胡乱』は周囲の全てを胡乱に変える。
そして、それは馬鹿げた文言がつらつら書きされたギアススクロールへと安い煽りに乗ってサインしたグロースの思考能力も例外ではなかった。
「気がついてももう遅いぜ親友ぅ? ギアスに従って今日は決着つくまでオールナイト対戦祭りだ!」
「おのれぇ……! ……いいだろう。やるからには全力を出す。私の持てる力の全てで貴様を下すぞ帚木!」
「僕、君のそういうところ結構好きだぜぇ」
「黙っていろ……!」
全クロニクを並行接続し思考領域を拡大、計算処理速度を数千倍に引き上げる。
これよりありとあらゆる未来を予測し、動きを記録し、必ずや輝日宮に吠え面をかかせると決心して。
「さぁ、勝負だ帚木ィ!」
コントローラーに手を添えた。
××××
同時刻、ロンドン。
久々の休日を迎えていたジョン王はたっぷりと砂糖を入れたコーヒーを啜りながらザリガニのパイのレシピをメモしていた。
しばらく前から彼のマスターであるザイシャ=アンディライリーの代わりに炊事洗濯をこなすことが多くなっていたのだが、
元々公務以外には偶の狩りや馬上試合以外に楽しみもない王の身である。趣味も少ない彼はいつしか家事を楽しむようになっていた。
そもそもからしてザイシャは身だしなみにも食べ物にも気を使わないうえに仕事で家を空けることも少なくなかったため、
荒れ放題で廃屋のようになっていた部屋で留守を預かるようになった彼にしてみれば当然の帰結だったのかもしれないが。
さて、彼がコーヒーを飲み干してポットからおかわりを注ごうとしていたときである。
ビー! ビー!とリビングに取り残されるように安置してあった謎の機械がけたたましくサイレンを鳴らしランプを点灯させた。
「おおぅ」
一瞬、ビクッとしたジョン王はすぐさま平静を取り戻すと機械の裏にある三番目のスイッチを操作し警報を止める。
これでよし、とひとりごちるとそのまま寝室に向かった。
「ザイシャー、起きろザイシャー」
クッションと同化するように眠っていた真っ白な少女の名前を呼びながら優しく揺さぶった。
んんぅ……と不満げな息を漏らしながら寝ぼけ眼の少女はゆっくりと上半身を持ち上げた。
「……おはよ、ジョン。なにかあったの……?」
「おはようザイシャ。例の機械が反応したぞ。急いだほうがいいんじゃないのか?」
「そだねー……」
ふわぁ、とあくびを漏らしたザイシャはずるずると髪を引きずりながら千鳥足でリビングに向かっていった。
転ばないかとジョンが見守る中なんとか機械にたどり着いたザイシャはコンソールに併設された椅子にぽすりと座った。
おぼつかない手つきで
「大丈夫かザイシャ? 眠いなら今日くらい休んでもいいんじゃないのか?」
「んー……だめ。明日からアメリカ飛んで二週間は帰ってこれないからしばらく潜れないし……。
それに久々に姉さんのメモリ稼働率がレベル6を越えてるからさー……。何ヶ月ぶりだろ。滅多にないチャンスだしね」
ザイシャが接続している機械は彼女の体内に混ざり込んだ月雫箱を経由してクロニク=ネットワークにアクセスするハッキングツールだ。
彼女手ずから作ったこの"作品"は常にネットワークを監視しておりセキュリティが手薄になったのを感知してサイレンを鳴らす。
計算速度を外付で補助することも可能で、紋章院からザイシャが様々なデータを抜き出す際に常用していたのもこの特殊な礼装であった。
名付けて「
彼女が最も得意とする分野で紋章院と戦うために給料をつぎ込んで作成したMEiGui(メイジ:魔術的電子情報網共感覚幻想化装置)である。
「よし、目が覚めた」
ジョンのコーヒー(加糖前)を飲み干したザイシャは顔を叩くとぱっちりと目を開く。
コンソールを叩きながら頭上のヘッドセットを掴もう……としたが手が届かずにジョンに目線を送ると、
薄く微笑んだ彼がいかにも仕方無いと言いたげな様子でヘッドセットを下ろしザイシャの頭部に装着した。
「ザイシャ、今日の夕飯はパイでも焼こうかと思っている。無論焼き立てが一番だろうが多少冷めても問題ない。好きにやってこい」
「うん。ありがとジョン。楽しみにしとくね」
ジョンに右手でグッドサインを作って返答するとザイシャはコンソールのエンターキーを叩いた。
──
無機質な合成音声がザイシャに囁いた。
(読み飛ばしていいです)
通常、ネットワークを五感で捉えることはできない。
当たり前だ。ネットワークとは究極的に言えば0と1の集合体。もちろん訓練すれば言語化できるかもしれないが飽くまで情報だ。
マトリックスとは電脳空間に"作られる"共感覚幻想である。つまり元からあるものではない。
誰かが構造体をプログラミングしネットワーク内に入力・保存しなければ生まれることはないのだ。
クロニクの形作るネットワークも同様である。
彼女らはネットワークを精神的な繋がりと捉えておらず自己に付随する副次的な産物と見ているため、
電脳空間にアクセスする者が足がかりにする第六の五感というものが存在していないため
例えるならばこのネットワークは巨大な脳髄でありその中に宿った意識がクロニクたちである。
人間が自分の中でシナプスが働いているのを感知しないように彼女らもネットワークを情報網として見ていないのだ。
おそらくは彼女らの製作者であるグロース=アンディライリーも同様だろう。
彼はクロニクたちのシリアルナンバーによって各個体を識別しており個体番号の座標にアクセスすることで間接的にネットワークを移動している。
彼がネットワークを利用する際に彼の娘へと上位権限を用いて命令を出すのも同じことだ。
グロースとクロニクはクロニク=ネットワークを感覚野で捉えられないが、クロニク自身は意識に従って機能を使うことは出来るのだ。
それは、例えるなら人間がシナプスの系統樹を理解せずとも手足を動かせるそれと同じ原理である。五感には感じずとも感覚で動かせるのだ。
長々と書き連ねたが結論としては二つ。
クロニク=ネットワークを利用するにはクロニク自身か、クロニクを動かせる者でないと不可能であること。
クロニク=ネットワークの機能を自由に行使するためには上位権限が必須であるということ。
つまり、だ。クロニク=ネットワークとはグロースの意志によってのみアクセス可能な鉄壁の城塞なのである。
が、しかし。万物は絶対はない。
アスラ族のヒラニヤカシプが持つ無敵の肉体が、たったひとつの例外を以て打ち破られたように森羅万象には"隙"が残るのが常だ。
そう、ここに例外が存在したのだ。
ザイシャ=アンディライリー。グロース=アンディライリーの第二子にして本来は次代の紋章院を継ぐはずだった少女。
『第三呪詛』として作られた彼女は生まれ落ちたときからなぜか世界を電子的に捉えることができたのだ。
……人は、普通ならマトリックスの中でしか電子情報網を閲覧することはできない。
なぜならマトリックスとは人類種が感覚的に情報網にアクセスするための道具であり、
マトリックスなしでの操作とは1m離れた場所にあるスプーンを目視だけで曲げようとする行いに等しい。
スプーンに触れて曲げるという行為を1m離れた誰かの代わりに代替し円滑に接続させるための道具がマトリックス構造体なのだから。
だが、ザイシャにはそれができた。周辺の情報を書き換えマトリックスを作り上げるのではなく自分自身を小型マトリックスの核にすることができた。
人間が歩くには道が必要であるが彼女には必要ない。なぜなら足を進めれば勝手に道ができるのだから。
人が理解するには翻訳が必要だが彼女には必要ない。なぜなら目を通せばそれは彼女の解する言葉となるのだから。
発狂しないために物理法則が必要だが彼女には必要ない。なぜなら彼女の下に常に電脳空間の重力は働くのだから。
即ち、────ザイシャ=アンディライリーは電子の申し子であったのだ。
(ここまで)
「さて、と」
シナプスが燃える感覚がスパークし自分の脳波が一度平坦になりまた戻ったのを確認しながらザイシャはいつも通り電脳空間に降り立つ。
右手に破城槌型の『
どうやら"MEiGui"によって拡張された計算処理能力等にも問題はないようだ。
「それじゃあ、お仕事始めましょうか」
そうひとりごちて、少女は電脳空間を飛ぶように歩き始めた。
××××
同時刻、O-13本部。
クロニク=アンディライリーはもじもじと身体を蠢かせていた。
仮面を付けていない彼女はO-13幹部序列第九位モーチセン・デュヒータの紋章官を務める個体であった。
そんな彼女がなぜこうやって擽ったそうにしているかと言えば……
「(要請に従ったのはいいけどお父様はいったいなにに私を使ってるんだろう……)」
ゲームである。
が、知らぬが仏のファザコン娘は何か素晴らしい実験をしているんだろうなぁと思考領域の隅で考えながら計算処理能力をぶん回していた。
身体をもぞもぞとしているのは全個体を完全同調しているせいで感覚野(センサー)が過敏になっているためだ。
通常のクロニクたちは各個体の感覚野を全く同じ数値に調整しているがそもそも感覚野の精度というのは個体によって違う。
故にそちらに処理を回せなければ鈍化するか過敏になるかの二択となる。
彼女の場合は特に敏感な個体であったためこうして普段より感度がいい体を持て余しているのである。
と、その時。
『大丈夫ですか、クロニクさん』
「うひゃぁ!?」
極端に向上した聴力と耳の穴の敏感な触覚を声が刺激し、クロニクは思わず飛び上がりそうになった。
直後に、自分が頓狂な声を挙げてしまったことに赤面し、擽ったさのあまり涙腺を刺激されながらクロニクは声の主を見上げた。
そこにいたのは全身を礼装で覆い、およそ人間らしからぬシルエットの人物。彼女が担当するモーチセン・デュヒータだった。
『ああ……すいません。驚かせてしまいましたか?』
「ひっ、ひえっ、らいじょう……大丈夫、で、す……」
心配そうにモーチセンが声をかけるがそれすらも過敏になった肉体には刺激が強すぎた。
プルプルと生まれたての子鹿のようになったクロニクはろれつの回らない舌でなんとか返事する。
『強がらないでくださいクロニクさん。到底大丈夫には見えませんよ。具合が悪いのでしたら正直に言ってください』
「かひゅっ──!?」
追撃で(しかも先程より声量が大きく長台詞で)腰が砕けた。
舌も回らなくなってきたのでフルフルと首を振ってなんとかクロニクは否定の意を表象しようとした。
が、しかしモーチセンはまるで納得していないようで「今日は珍しく強情を張るなぁ」とでも言いたげであった。
クロニクとしても正直に話したかったが流石に心配してくれてる相手に「アナタのせいでこうなってます」とは言えなかったので、
あっちに行ってください、私のことは放って置いてくださいと念じながらモーチセンを上目遣いに見つめた。
モーチセンと見つめ合いになってから五分ほど経ったころ。念願かなってか彼は少し離れたところからクロニクの様子を伺うだけになっていた。
「(た、助かったぁ……)」
クロニクは内心でほっと息をついた。
モーチセンの声はよく響く。即ちクロニクの身体も同様である。
十倍、とは言わないが数倍に膨れ上がった触覚は彼の声を全身で感じて揺れていたのだ。
「もう少しで腰が抜けるところだった……」
正確に言えば抜ける寸前だった。
紋章官は紋章院の代表であり顔である。そんな彼女がこのようなところで醜態を見せるなどクロニクのプライドが許さなかった。
「(ありがとうございます! ありがとうございますモーチセンさん! あとで必ずお礼をします!
ところでお父様は何をしてるんですか! まだ終わらないんですか?! できれば早く終わってほしいんですが?!)」
××××
同時刻、グロースの私室。
「バカな! あのタイミングではドリフトが間に合わないはずだ! 少なくともプレイして数時間の君に出来るわけがない!」
「見くびるなよ輝日宮! これが私の、いや私達の力だ!」
「くぅっ……まだだぁ! まだレースは3コース目だ! 幾らでも巻き返せる!」
「やってみろ輝日宮! 私を舐めても私の作品を侮るなよ!」
××××
ゲームであった。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅ……まだですかぁお父様ぁぁぁぁぁ……」
現在時刻は夕方五時。
夜明けまでは、まだ遠い。
××××
同時刻、電脳空間。
「よっ、と」
振り抜いた腕に合わせて0と1の螺旋が豆腐のように脆く崩れた。
ザイシャは構造体を"物理的に"破壊しながらカザンを目指していた。
「(確か、あそこには魔術式の発電炉があったはず……あれを暴走させれば事実上の本部であるカザン支部は壊滅ですね)」
ザイシャの目的、それは地上から紋章院を消却することである。一切の機能を解体し殲滅することである。
が、強大な組織である紋章院に一個人であるザイシャがまともに戦えるわけがない。
従って、彼女が取った手段とはテロリズム的な色が強くなっていた。というかテロリストそのものである。
もちろん、ザイシャは紋章院の魔術師たちに恨みがあるわけではない。彼らにとってはいい迷惑だろう。
だが、無益に命を奪うなんてことはフリーランスの魔術師であるザイシャには至極当然だ。
ザイシャは善人などではない。自分のエゴイズムのために他人を喰らい犠牲にしてのうのうと生き延びる殺人者だ。
彼女は"悪い子"なのだ。
ザイシャに比べればむしろ姉であるクロニクや父親のグロースのほうがまともな人間と断言できる。
彼女は限りなく魔術師的な人間であり、故に自分の同類であるだろう魔術師を殺すことになんら躊躇は無いのだから。
目的を達成するための最短ルートならどれだけ犠牲があっても気に留めない。それがザイシャ=アンディライリーという人間だった。
「んっ、結構進んだな」
種子状に視覚化した"ワーム"をばら撒いていたザイシャは、うんと身体を伸ばす。
腕を上げると同時につま先立ちになった自分の像が幻想の空気を肺いっぱいに詰め込んだ。
立ち止まって周囲を見回せば電脳空間を構成する0と1の羅列が視線に沿って意味を象り視線を外すと同時に消えていく。
ざっと読み取った情報からはじき出された現在座標はカザン支部の統制端末まで感覚的距離で数百メートルに迫っていた。
ここからが本番だ。ザイシャは小休憩を取って脳を休めながら──一度脳死すると復帰に数分かかるためだ──構造体を見下ろす。
と、その目線が一点で止まった。
「ううん……?」
ザイシャの視線の先にあるのは構造体の中でも現実世界の防衛機構を制御するシステムがあった場所だ。
無論、電脳世界から侵攻しているザイシャには関係のない話であるしワームの目標にも設定していない。
そこが丸ごとネットワークから分断されていたのである。破壊ではなく分断。ネットワークから離脱した状態。
ザイシャや、よしんば同じことが出来るものが他にいたとしてもこうはならない。
やるならもっとスマートに、こちらの構造体だけが破壊されて現実世界での機能を差し止めるさせる形になるはずだ。
つまり、この事実が指し示すこととは……
「まさか、……私以外の誰かがカザンに攻め込んでいる?」
××××
同時刻、O-13本部。
「……嘘。カザンに侵入者が。でも、あの防壁を破れる者なんてそれこそ」
まさか。
最悪の予感がクロニクの脳裏に去来する。
「モーチセンさん! ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
『ああ、良かった……体調が良くなったみたいですね。クロニクさんがどうなってしまうかと私は』
「私のことはいいんです! 第七位は、
『はい? ……ああ、彼なら今日は休養を取っていましたね。確か何か用事があるとだけ言っていたそうです』
「…………やられた!」
すぐさまクロニクはネットワーク上のカザン防衛機構にアクセスする。
被害状況を確認……第一層の防衛システム破壊。
侵入者は全障害を破壊しながらまっすぐにエレベーターへ向かっている。
想定される彼、もしくは彼女の武装は……『
「あなたなのね──『
××××
同時刻、カザン支部。
ザクリ。
ガフ・V・K・ボネリはナイフで自分の右掌を穿った。
すると、彼の身体を構成するSH.ME.EL.が反応し肉体を復元するために目前の扉を"補食"した。
魔術的装甲を無視され固定具を失った扉はただの鉄板となりガフの繰り出した蹴りによってあえなく吹き飛ばされる。
「ふん……こんなものか紋章院」
地上に隣接するカザン支部の第一層の主要部分は改良型SH.ME.EL.によって作られているため、
普段通りなら攻撃や魔術を今ガフがしたように補食し修復し続ける鉄壁の壁であるはずだった。
感情を吸収し意思を得ることを危惧してクロニク=ネットワークに繋がれ制御された完璧な防壁は、しかし、自動的でないことが仇となった。
先程、防壁の制御機能の核となる機構をガフに破壊されたため、防壁はもはや役目を果たさずにバターのように砕けてしまうだけだ。
ガフの背後では壁からマシンガンを乱射していたロボットアームや隔壁だったものがぶすぶすと煙を上げ無残な姿を晒していた。
今回の侵攻はガフ単独のものである。
最高大総監であるアズ=アズィンも同行を希望し、何度も食い下がったが危険であるため置いてきた。
こと紋章院での戦いでは圧倒的多数の敵を相手取るため同士討ちや仲間の死を避けるためにも単騎攻めを選択したのだ。
「反応装甲か……無駄だ」
僅かに残った硝煙の香り。その向こうにはエレベーターが鎮座しておりガフはまた躊躇なく扉を蹴りぬく。
吹き抜けになって底の見えない穴に向かってトラクション式エレベーターのワイヤーロープが飲み込まれていた。
暗闇を覗き込むガフに気がついたかのように風が吹き、深淵の伸ばす舌がガフの顔を舐めた。
「……この下に、『第四呪詛』の基部がある」
ガフの攻撃目標はグロース=アンディライリーの有する『呪歌六節』。
その四番目である『第四呪詛』だった。
このエレベーターは当該礼装が保管されている可能性が高いグロースの秘密倉庫に繋がる地下通路への唯一のアクセス手段。
エレベーターはグロースのIDがなければ稼働させることはできないが不死身である彼には関係のないこと。
ゴンドラを動かせずとも、底に繋がっているのだから降りてしまえばいいのだ。
「さぁ、チェックを掛けましたよ創造主。アナタの手番が来る前に……ボクが、全てを終わらせましょう」
恐れの欠片も見せずに床を蹴り大穴の中に飛び込む。
ガフはワイヤーロープを右手で掴むと火花を散らしながら闇の中に落ちていった。
(『紋章院防衛戦』に続く……続くの?)
××××
その頃のグロース。
「ん? どうしたんだい親友? 妙に挙動不審だけど」
「……いや、少し気になることがあってな」
「へぇ、なんだい? カザンでも攻め込まれたかい」
「……………………」
「え、なに。本当に攻め込まれてるの?! だったらこんなことしてる場合じゃ──」
「────ここだ!」
グロースがキーを操作すると画面内のキャラクターが壁に吸い込まれ……そして大幅なショートカットを成し遂げた。
「え?! なにそれ?! え、え?! どうやって見つけたの君?!」
「ふ、私の計算にかかればこの通りだ」
「すっっげぇ!! ねぇねぇ、僕にもできるかなそれ?」
「ああ。出来るとも。いいか、やり方は簡単だ。まずキノコでダッシュして約42.8度の角度からこの部分に……」
ゲームであった。
[→to be continued]
作中に出てきたサイバーパンク描写はものすごく適当です。なんてったって見直してない。
要領を得なかったり矛盾がある可能性があるので「ニューロマンサーだこれ!」「マトリックスだこれ!」で済ませましょう。
要領を得なかったり矛盾がある可能性があるので「ニューロマンサーだこれ!」「マトリックスだこれ!」で済ませましょう。
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