最終更新:ID:NtGkRvwDjQ 2020年11月13日(金) 01:36:34履歴
「んっ……」
彼女 が小さく声を漏らす。
白肌に這わせた舌には、味は感じずとも微かに帯びた熱と滲んだ汗の感触が伝わってくる。
胸から鎖骨、首筋まで上って、そこで歯を立てる。
「やっ……ぁ…」
苦悶の声、では無い。そこに混じる甘い響きは、容易に感じられる。
歯の奥でまた小さく舌を動かして、舐るようにすると、微かな弾力が心地良い。身を寄せるほど身体と身体は触れ合って、柔らかい感触を全体に感じる。
ずっとそうしていたい気持ちもあったけれど、彼女の顔が見たくなって、首元から口を離す。粘度のある唾液が、少しだけ糸を引いた。
「―――――」
彼女が、私の名前を呼ぶ。少しだけ、不満か不安の色。
大丈夫、またすぐに虐めてあげますよ、とだけ口にして、覆い被さったまま彼女の顔を見下ろす。
左右違いの瞳が潤んで頬が上気した、いつもとはまるで違う表情。きっと他の誰にも見せない顔。首元には、赤い痕。
嗜虐心と支配欲が満たされて、身体の内からゾクゾクとした快感が拡がる。
我慢ができない。抑制が効かない。
「―――っ」
また何事か口にしようと開いた彼女の唇を、顔を寄せて強引に塞いで―――
そして、目を覚ました。
「…………はっ」
乾いた笑いが漏れる。
なんだこれは。
悪夢なんてものはいい加減見慣れているが、今回のは一入だろう。
まるで恋する乙女、いや、盛りのついた犬か。こんなのはまるで私らしくない。浅葱白菊のキャラクターじゃない。
まるで私が、どこかの誰かに執着しているような。特別に、想っているような。
「くだらない……」
くだらない。くだらない。口にすれば、それが本当のことになってくれる気がして。私はひとりの部屋で小さく呟いた。
不快な気分のまま身体を起こすと、頭の中身がぐらぐらと揺れて、鈍い痛みに襲われる。
カーテンの隙間からは、光が差し込んでいる。小鳥のさえずりが耳に障る。朝の陽気に急かされるように、私は支度を始める。
朝の支度、と言うと簡単なものだが、こと私の場合、それなりの困難を伴う。いい加減慣れたものではあるが、ブラウスのボタン一つ留めるにも、感覚を失った指先では繊細な作業を要求される。
それでも、朝の講義に向かうにはそれなりの時間を残して身だしなみは整う。
昔から、時間に追われる、と言う状態が嫌いなのだ。だから、いつも朝は余裕を持って起床する。今朝の目覚めは最悪の部類だったとはいえ、そこに狂いはなかった。
軽い朝食を終えて、少しだけ早めに部屋を出る、その前に。姿見の前で、自分の姿を確かめる。
それは紛れもなく完璧な姿だ。一分の隙だって有りはしない。
例え中身がどんなにぐちゃぐちゃだとしても、外側だけを取り繕うことに掛けてはそれなりの自負があった。
いや、違う。自負?自信?そんなもの、ただの一度だって抱けた事はない。だったら。私を支えるものは一体何なのだろう。
気がつけば、目の前の女は自嘲が滲んだような酷薄な笑みを浮かべていた。
ああ、駄目だ。もっと穏やかに。もっと優しく。大丈夫。いつだって上手くやってきた筈だ。
そうして漸く浅葱白菊は完成する。
せっかく留めたブラウスのボタンをひとつだけ外す。甘い毒を忍ばせる。
きっと大丈夫。何ひとつ変わりなく、私は私のままだ。
「ご機嫌よう、白菊」
涼やかな声は、漸く持ち直した気分を再び地の底まで沈めるには十分だった。
「……ご機嫌よう、シュルトライン様」
漆黒のドレスに、ブロンドの長髪。何処か浮世離れした雰囲気まで感じさせる美女。
エイヴィ・シュルトライン。今最も顔を合わせたくない人間の一人だった。
それはまあ、寮の中でも同じ階に暮らしているのだし。顔を合わせることだって偶にはあるだろう。しかし、よりにもよってこんな気分の日に。
もっと他の誰か。例えば、隣室の住人なんかに出会えなら、気分も少しは晴れただろうに。
「今朝は、少し顔色が悪いですね」
エイヴィはそう言いながら、此方に歩み寄ってくる。そして、何も口にしないまま淀みない動作で私の胸元に手を伸ばし、ボタンをひとつ留める。
そのまま、耳元まで口を寄せると、
「昨夜は部屋にひとりだったようですし。身体を冷やしたのかも知れませんね」
小さく囁いて、身を離した。
「身体には気をつけるように。真面目に勉学に励むのは良いことですが、あまり無理をしてはいけませんよ」
淑やかな微笑みが、まるで冷笑のように見えたのは、とある 一件以来私が彼女に抱く、苦手意識のせいだろうか。
その先は彼女は何も言わずに、此方に背を向けて去っていく。その所作にも一切の淀みは無く、後ろ姿は美しい。
向かう方向は同じ筈なのに、彼女の背中が見えなくなるまで私は動けずにいた。
講義が始まるまで、もうあまり時間が無い。
午前の講義は、殊の外平穏に終わった。
などと言うと、私が何かに気を揉んでいただとか、講義中も誰かの姿を探していただとか、その姿が結局見つからなかっただとか、そんな風に聞こえるかもしれないが、そんなものはただの気のせいだ。
とにかくつつがなく、問題なくルーティンをこなして、私はいつもの調子を取り戻していた。
そうして昼食の時間を迎えて、何人かの生徒からの誘いを丁重にお断りして、私は食堂に向かう。
気分は持ち直したとは言え、まだ誰かと食事を共にするような気にはなれなかった。
食堂は、それなりに賑わっていた。とは言え席に困るほどでは無く、元々の広さもあって、車椅子での移動もそれほど周りの邪魔にはなっていないようだった。
仄かに湯気の立つ食事の乗ったトレイを受け取って、さてどの席につくかと見渡して。
そこで、その姿を見つけた。
「……んむ?」
静かに近付いて向かいの席につくと、その少女はスプーンを咥えたままの間抜けな顔でこちらを見た。
「ご機嫌よう、ステフさん」
「ご機嫌ようっす、白菊ちゃん!」
無駄に元気よく挨拶を返して、余計な会話を交わすこともなくステファニー・レンフィールドはまた食事に戻る。
やたらに急いでがっつくようで、しかし不思議と品の無い印象は受けない。そんな食事姿だった。
思えばこの少女は、何事に際してもこんな調子だ。隙があるようで隙がない。何も考えていないようで、思わぬ事を口にする。
「食べないっすか、白菊ちゃん?」
「……いえ、食べますよ」
声をかけられて、思考が中断される。視線を目の前の少女から外す。
スプーンを動かして、味のない食事を口に運ぶ。
私にとって、長らく食事と言うものは必要な栄養を摂るための事務的な作業に等しい。
それは誰かと共に食卓を囲う時にも変わりなく、むしろ取り繕うと言う手順を伴う分より煩雑に感じられる。
だから、今日はひとりで食事を摂るつもりだったのだ。だったのに。
スプーンを動かす手は止めずにらまた視線を上げて目の前の少女を見る。
相変わらず何かに急かされた様子で、何か喋ることもない。
「ごちそうさまっす!」
程なくして、皿をすっかり綺麗に浚って、少女は席を立った。
「白菊ちゃん!白菊ちゃんともお喋りしたいっすけど今日のステフはすっごく忙しいっすよ!だからもう行くっす!またねっす!」
早口に一気に捲し立てて、こちらの返答を待つこともなく自分のトレイを持って駆けていく。
「……なんなんですか、本当に」
講義をサボタージュして、ロクに人とも話さず急ぐような用事が果たしてなんなのか。興味なんてまるで無いけれど、無性に苛立っている自分に気付いて、それにまた腹が立つ。
トレイに向き直って、事務作業をまた再開する。
食堂の賑わいは喧騒と言うほどに騒がしくは無かったが、それでも私の神経を逆撫でするには十分だった。
昼食を終えて、午後の講義までには暫くの猶予があった。
中庭に出ると、陽射しがやたらに眩しくて、目眩がするような感覚に襲われた。遠くから、ピアノの音色が聞こえる。
あてもなく車椅子を走らせる。
時間を無為に使っていると思う。
それでも、無軌道な思索は少しくらいは血の上った頭を冷やしてくれるだろう。
今日と言う日はままならない事ばかりが募って、どうしようもない気持ちだけが膨らんでいく。
こんなふうでは無かった筈なのに。私はもっと冷徹で、冷血な人間だった筈。くだらない悪夢に心をかき乱されるような、そんなヤワな人間ではなかった。
その、筈なのに。
「――――――」
また、その姿を見つけてしまう。
遠目でもわかってしまう。その、後ろ姿。
中庭の片隅の、小さな花壇の脇。しゃがみ込むようにして、背中を丸めている。
よせばいいのに。私は、車椅子をそちらに走らせる。
「…………」
すぐ近くに寄っても、彼女がこちらを振り返る素振りはない。時折むー、とかんー、とか小さく唸りながら花壇の中を覗き込んでいる。
こちらも何も声をかけないまま、しゃがみ込む頭越しに花壇の中を覗く。
「……蛹?」
蝶の蛹、だろう、恐らくは。花壇に植えられた草の一つに貼りついている。
「もうすぐ孵るんすよねー多分」
振り返らず、姿勢を変えず、少女はポツリと漏らした。此方に教えているのかも知れなかったし、独り言のようでもあった。
ああ。なんて、馬鹿馬鹿しい。
講義にも出ず、一日中ずっと。こんなものを、見ていたのか。だから、忙しかったと。
私は何も言わなかった。彼女も、口を閉じたまま蛹を見ている。
時間はゆっくりと流れて、それでもお互いに言葉を交わすことはない。
他の何もかもが遠く、世界に二人きりで取り残されているように錯覚する。
長い長い時間が経った気がした。講義の始まる時間はとっくに過ぎているだろう。けれど、ここから動く気にはなれなかった。
「あっ」
不意に、ステフが声を漏らした。
その声の意味は、すぐに分かった。蛹から、蝶が羽化していく。
蝶はすぐに飛び立って、青い羽が空に輝く。
ステフは立ち上がって、その姿を追いかけるように駆けていく。私は、その背中をただその場で眺めていた。
程なくして立ち止まって、彼女は空に手を伸ばす。きっと空高くまで上って、蝶の姿はもう見えなくなってしまったのだろう。
それでも、彼女は伸ばした手を下ろさなかった。
何故だかまるでわからないけれど、私はそんなステフの姿を見て、彼女が何処か遠くに消えてしまうのではないかと錯覚した。
―――いかないで。
言葉は空気に溶けて、きっと誰の耳にも届かない。
けれど、彼女は振り返った。振り返って、笑った。
「暗くなる前に帰るっすよ、白菊ちゃん!」
夕焼けの道を進む。
足音はひとつ。続く車輪に音はなく。
こちらの事なんてまるで気にかけないような早い歩調で、彼女は進んでいく。その癖、たまに思い出したように立ち止まって、こちらに振り向いて楽しそうに笑う。
オレンジ色に染まったその笑顔を見て、私は。
今夜もまた、悪夢を見そうだなと思った。
白肌に這わせた舌には、味は感じずとも微かに帯びた熱と滲んだ汗の感触が伝わってくる。
胸から鎖骨、首筋まで上って、そこで歯を立てる。
「やっ……ぁ…」
苦悶の声、では無い。そこに混じる甘い響きは、容易に感じられる。
歯の奥でまた小さく舌を動かして、舐るようにすると、微かな弾力が心地良い。身を寄せるほど身体と身体は触れ合って、柔らかい感触を全体に感じる。
ずっとそうしていたい気持ちもあったけれど、彼女の顔が見たくなって、首元から口を離す。粘度のある唾液が、少しだけ糸を引いた。
「―――――」
彼女が、私の名前を呼ぶ。少しだけ、不満か不安の色。
大丈夫、またすぐに虐めてあげますよ、とだけ口にして、覆い被さったまま彼女の顔を見下ろす。
左右違いの瞳が潤んで頬が上気した、いつもとはまるで違う表情。きっと他の誰にも見せない顔。首元には、赤い痕。
嗜虐心と支配欲が満たされて、身体の内からゾクゾクとした快感が拡がる。
我慢ができない。抑制が効かない。
「―――っ」
また何事か口にしようと開いた彼女の唇を、顔を寄せて強引に塞いで―――
そして、目を覚ました。
「…………はっ」
乾いた笑いが漏れる。
なんだこれは。
悪夢なんてものはいい加減見慣れているが、今回のは一入だろう。
まるで恋する乙女、いや、盛りのついた犬か。こんなのはまるで私らしくない。浅葱白菊のキャラクターじゃない。
まるで私が、どこかの誰かに執着しているような。特別に、想っているような。
「くだらない……」
くだらない。くだらない。口にすれば、それが本当のことになってくれる気がして。私はひとりの部屋で小さく呟いた。
不快な気分のまま身体を起こすと、頭の中身がぐらぐらと揺れて、鈍い痛みに襲われる。
カーテンの隙間からは、光が差し込んでいる。小鳥のさえずりが耳に障る。朝の陽気に急かされるように、私は支度を始める。
朝の支度、と言うと簡単なものだが、こと私の場合、それなりの困難を伴う。いい加減慣れたものではあるが、ブラウスのボタン一つ留めるにも、感覚を失った指先では繊細な作業を要求される。
それでも、朝の講義に向かうにはそれなりの時間を残して身だしなみは整う。
昔から、時間に追われる、と言う状態が嫌いなのだ。だから、いつも朝は余裕を持って起床する。今朝の目覚めは最悪の部類だったとはいえ、そこに狂いはなかった。
軽い朝食を終えて、少しだけ早めに部屋を出る、その前に。姿見の前で、自分の姿を確かめる。
それは紛れもなく完璧な姿だ。一分の隙だって有りはしない。
例え中身がどんなにぐちゃぐちゃだとしても、外側だけを取り繕うことに掛けてはそれなりの自負があった。
いや、違う。自負?自信?そんなもの、ただの一度だって抱けた事はない。だったら。私を支えるものは一体何なのだろう。
気がつけば、目の前の女は自嘲が滲んだような酷薄な笑みを浮かべていた。
ああ、駄目だ。もっと穏やかに。もっと優しく。大丈夫。いつだって上手くやってきた筈だ。
そうして漸く浅葱白菊は完成する。
せっかく留めたブラウスのボタンをひとつだけ外す。甘い毒を忍ばせる。
きっと大丈夫。何ひとつ変わりなく、私は私のままだ。
「ご機嫌よう、白菊」
涼やかな声は、漸く持ち直した気分を再び地の底まで沈めるには十分だった。
「……ご機嫌よう、シュルトライン様」
漆黒のドレスに、ブロンドの長髪。何処か浮世離れした雰囲気まで感じさせる美女。
エイヴィ・シュルトライン。今最も顔を合わせたくない人間の一人だった。
それはまあ、寮の中でも同じ階に暮らしているのだし。顔を合わせることだって偶にはあるだろう。しかし、よりにもよってこんな気分の日に。
もっと他の誰か。例えば、隣室の住人なんかに出会えなら、気分も少しは晴れただろうに。
「今朝は、少し顔色が悪いですね」
エイヴィはそう言いながら、此方に歩み寄ってくる。そして、何も口にしないまま淀みない動作で私の胸元に手を伸ばし、ボタンをひとつ留める。
そのまま、耳元まで口を寄せると、
「昨夜は部屋にひとりだったようですし。身体を冷やしたのかも知れませんね」
小さく囁いて、身を離した。
「身体には気をつけるように。真面目に勉学に励むのは良いことですが、あまり無理をしてはいけませんよ」
淑やかな微笑みが、まるで冷笑のように見えたのは、
その先は彼女は何も言わずに、此方に背を向けて去っていく。その所作にも一切の淀みは無く、後ろ姿は美しい。
向かう方向は同じ筈なのに、彼女の背中が見えなくなるまで私は動けずにいた。
講義が始まるまで、もうあまり時間が無い。
午前の講義は、殊の外平穏に終わった。
などと言うと、私が何かに気を揉んでいただとか、講義中も誰かの姿を探していただとか、その姿が結局見つからなかっただとか、そんな風に聞こえるかもしれないが、そんなものはただの気のせいだ。
とにかくつつがなく、問題なくルーティンをこなして、私はいつもの調子を取り戻していた。
そうして昼食の時間を迎えて、何人かの生徒からの誘いを丁重にお断りして、私は食堂に向かう。
気分は持ち直したとは言え、まだ誰かと食事を共にするような気にはなれなかった。
食堂は、それなりに賑わっていた。とは言え席に困るほどでは無く、元々の広さもあって、車椅子での移動もそれほど周りの邪魔にはなっていないようだった。
仄かに湯気の立つ食事の乗ったトレイを受け取って、さてどの席につくかと見渡して。
そこで、その姿を見つけた。
「……んむ?」
静かに近付いて向かいの席につくと、その少女はスプーンを咥えたままの間抜けな顔でこちらを見た。
「ご機嫌よう、ステフさん」
「ご機嫌ようっす、白菊ちゃん!」
無駄に元気よく挨拶を返して、余計な会話を交わすこともなくステファニー・レンフィールドはまた食事に戻る。
やたらに急いでがっつくようで、しかし不思議と品の無い印象は受けない。そんな食事姿だった。
思えばこの少女は、何事に際してもこんな調子だ。隙があるようで隙がない。何も考えていないようで、思わぬ事を口にする。
「食べないっすか、白菊ちゃん?」
「……いえ、食べますよ」
声をかけられて、思考が中断される。視線を目の前の少女から外す。
スプーンを動かして、味のない食事を口に運ぶ。
私にとって、長らく食事と言うものは必要な栄養を摂るための事務的な作業に等しい。
それは誰かと共に食卓を囲う時にも変わりなく、むしろ取り繕うと言う手順を伴う分より煩雑に感じられる。
だから、今日はひとりで食事を摂るつもりだったのだ。だったのに。
スプーンを動かす手は止めずにらまた視線を上げて目の前の少女を見る。
相変わらず何かに急かされた様子で、何か喋ることもない。
「ごちそうさまっす!」
程なくして、皿をすっかり綺麗に浚って、少女は席を立った。
「白菊ちゃん!白菊ちゃんともお喋りしたいっすけど今日のステフはすっごく忙しいっすよ!だからもう行くっす!またねっす!」
早口に一気に捲し立てて、こちらの返答を待つこともなく自分のトレイを持って駆けていく。
「……なんなんですか、本当に」
講義をサボタージュして、ロクに人とも話さず急ぐような用事が果たしてなんなのか。興味なんてまるで無いけれど、無性に苛立っている自分に気付いて、それにまた腹が立つ。
トレイに向き直って、事務作業をまた再開する。
食堂の賑わいは喧騒と言うほどに騒がしくは無かったが、それでも私の神経を逆撫でするには十分だった。
昼食を終えて、午後の講義までには暫くの猶予があった。
中庭に出ると、陽射しがやたらに眩しくて、目眩がするような感覚に襲われた。遠くから、ピアノの音色が聞こえる。
あてもなく車椅子を走らせる。
時間を無為に使っていると思う。
それでも、無軌道な思索は少しくらいは血の上った頭を冷やしてくれるだろう。
今日と言う日はままならない事ばかりが募って、どうしようもない気持ちだけが膨らんでいく。
こんなふうでは無かった筈なのに。私はもっと冷徹で、冷血な人間だった筈。くだらない悪夢に心をかき乱されるような、そんなヤワな人間ではなかった。
その、筈なのに。
「――――――」
また、その姿を見つけてしまう。
遠目でもわかってしまう。その、後ろ姿。
中庭の片隅の、小さな花壇の脇。しゃがみ込むようにして、背中を丸めている。
よせばいいのに。私は、車椅子をそちらに走らせる。
「…………」
すぐ近くに寄っても、彼女がこちらを振り返る素振りはない。時折むー、とかんー、とか小さく唸りながら花壇の中を覗き込んでいる。
こちらも何も声をかけないまま、しゃがみ込む頭越しに花壇の中を覗く。
「……蛹?」
蝶の蛹、だろう、恐らくは。花壇に植えられた草の一つに貼りついている。
「もうすぐ孵るんすよねー多分」
振り返らず、姿勢を変えず、少女はポツリと漏らした。此方に教えているのかも知れなかったし、独り言のようでもあった。
ああ。なんて、馬鹿馬鹿しい。
講義にも出ず、一日中ずっと。こんなものを、見ていたのか。だから、忙しかったと。
私は何も言わなかった。彼女も、口を閉じたまま蛹を見ている。
時間はゆっくりと流れて、それでもお互いに言葉を交わすことはない。
他の何もかもが遠く、世界に二人きりで取り残されているように錯覚する。
長い長い時間が経った気がした。講義の始まる時間はとっくに過ぎているだろう。けれど、ここから動く気にはなれなかった。
「あっ」
不意に、ステフが声を漏らした。
その声の意味は、すぐに分かった。蛹から、蝶が羽化していく。
蝶はすぐに飛び立って、青い羽が空に輝く。
ステフは立ち上がって、その姿を追いかけるように駆けていく。私は、その背中をただその場で眺めていた。
程なくして立ち止まって、彼女は空に手を伸ばす。きっと空高くまで上って、蝶の姿はもう見えなくなってしまったのだろう。
それでも、彼女は伸ばした手を下ろさなかった。
何故だかまるでわからないけれど、私はそんなステフの姿を見て、彼女が何処か遠くに消えてしまうのではないかと錯覚した。
―――いかないで。
言葉は空気に溶けて、きっと誰の耳にも届かない。
けれど、彼女は振り返った。振り返って、笑った。
「暗くなる前に帰るっすよ、白菊ちゃん!」
夕焼けの道を進む。
足音はひとつ。続く車輪に音はなく。
こちらの事なんてまるで気にかけないような早い歩調で、彼女は進んでいく。その癖、たまに思い出したように立ち止まって、こちらに振り向いて楽しそうに笑う。
オレンジ色に染まったその笑顔を見て、私は。
今夜もまた、悪夢を見そうだなと思った。
コメントをかく