最終更新:ID:A+TaJfOe/g 2018年03月04日(日) 19:54:06履歴
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「へぇ、それでちょっと遅れたわけだ。まったく、僕(こなた)はすっぽかされたかと思ったぜぇ親友?」
グロースがレストランに到着し、遅刻の非礼を詫びた頃には既に友人は出来上がっていた。床に転がる錚々たるワイン瓶の数々が尋常ではない酒量が消費されたことを物語っている。
およそ一世紀来の旧友は、ほんのりと酔いを見せた顔へにやにやと胡散臭いチシャ猫のような笑みを浮かべながら彼を迎えた。
「私はビジネスマンではなく魔術師だ。少しくらいの遅れは許してはくれないか」
「そりゃあないだろ親友。確かに君(そなた)は魔術師だけど僕(こなた)たちは親友だぜぇ。親しき仲にも礼儀ありってやつさぁ。親友だからこそ時間は守らないと。それにぃ、僕は君に捨てられたんじゃないかって思うだけでも胸が張り裂けそうで辛かったんだよぉ? この痛みは一晩くらい君が付き合ってくれないと癒えないかもなぁ……」
「その程度ならば仔細ない。……時間は五分前だったはずだがどのくらい待っていたんだ?」
「三時間と五分」
「…………」
「君と会えると思うだけでわくわくして三時間過ぎるのはあっという間だったなぁ……。でもさぁ……その後の五分は一秒一秒が身を切られるように思えてきもう泣きそうだったよぉ……」
「……………………そうか」
友人の奇行には慣れていたつもりだったが時々こうして予想もつかないことをしてくるから驚かされる。グロースがこれまで聞かなかっただけでいつもこのくらいは待っていたのかもしれない。度し難いものだと溜息をついたグロースは帚木輝日宮の隣に座ると辺りを見回した。
待ち合わせ場所となっていたレストランは自分たち以外に人影がない。おそらく友人がこのホテルごと貸し切ったのだろう。
「大丈夫だよぉ。今日一晩は誰も入らせないように言ってあるからさぁ。ついでに『无名』で魔術的な干渉も物理的な干渉もシャットアウトしたから密談には最適さぁ。…………でさ! 話ってなんだい? コイバナ? 卒業旅行? それとも親友にしかできない秘密の相談とか?」
「似たようなものだ」
「デジマ!?」
「……そこまで喜ぶことか?」
「当たり前だろ! いいかい親友! 親友ってのは秘密を打ち明けることで更にワンランク上の親友になれるんだぜ! ああ、嬉しいなぁ。こんな日がぁ、君から僕に秘密を話してくれる日が来るとは思わなかったよぉ!」
急にテンションが高くなった輝日宮はグロースに詰め寄ると若干食い気味にまくし立てる。グイグイとトリガラのような身体が押し付けられてとても痛いし顔が近くて居心地が悪い。
「離れろ」
「ひゃん!」
胸元を殴ると奇声を上げた輝日宮は身を翻して床に座り込む。
そして両手で胸をかばうとなぜか頬を染め目を潤わせてグロースを上目遣いで見上げた。
「だ、だめだよぉ親友……確かにそういう仲に進むのもいいかもしれないけど僕らにはまだ早いっていうかぁ……。それに初めてが外っていうのはマニアックすぎないかなって……も、もちろん君が望むなら僕は受け入れるんだけど……!」
「………………」
グロースは友人のこういうところが苦手だった。
■■
「ところで、お前は私の本名がグロース=アンディライリーではないことは知っていたな?」
「ああ。それは前に聞いたねぇ。その本名ってのは教えてもらってないけどさぁ」
数分後、馬鹿笑いとともに正気を取り戻した友人と向かい合ってグロースは本題に入った。
先程までの様子はやはり悪ふざけだったようで、仕切り直してからはおくびにも出していない。むしろ、五本目のワインをラッパ飲みしている姿には既にいつもの胡散臭さを纏っていた。
「で、それがどうしたんだぁい? 別に君がどこかに追われてようが非干渉地帯の紋章院なら問題ないしねぇ。地域によっては魔術師としての新たな名前をつけてそちらを名乗るようにする風習もあるさぁ。だけど、たぶん君が本名を隠す理由ってそういうことじゃないんだろぅ? なにより僕に言う理由もないよねぇ」
バリボリと齧っていた煎餅をワインで流し込んでしまうとグロースに向けニマリと流し目を送り背後に空の瓶を放り投げた。そしていつの間にか手にしていた新たなワインボトルを掲げるとガラスが砕ける音に重なって瓶の首が切断される。
「まぁ、そっちは別として僕に急いで会いに来た理由はわかってるよ。君、バレちゃったんだねぇ。秘密。たぶん次女のぉ……ああ! ザイシャちゃんだっけ! 確か君の記憶を納めた『月零箱』が溶け込んでたはずだ。僕の想像のつく限りではあの子お得意の契約魔術でも応用されて『月零箱』にハッキング受けたってところかなぁ? ……くふふ、くふふふふふふ。君の娘らしくなかなか強かじゃないか」
「本題とは関係ない話だがな。最上位権限が必要なものは無事だったが、偽装IDで他の機密はあらかた抜き去っていったよ。『第三呪詛』に適合する以上の才は無いと侮っていたが…… いやはや、人の可能性とはわからないものらしい」
「いいねぇ。ザイシャちゃんかぁ……うちにスカウトしちゃおうかなぁ……?」
「あの子はフリーランスの魔術師だ。誘いたいならお前の好きにしろ」
グロースがそっけなく言うと輝日宮はつまらなさそうに頬杖をつく。
「いいのかい? ザイシャちゃんがスコーパリアに来たら逃さないつもりだけどぉ?」
「挑発には乗らん。お前に雇われてもあの子なりにやっていくのはわかっている。お前がそうさせることもだ」
「へぇん。君もつれない男だねぇ……。まぁ、そういうところが好きなんだけどねぇ僕も」
鼻を鳴らし、ワインボトルを咥えて喉を鳴らすとまた背後に向けて空になった瓶を放り投げた。今度は手元は空のままだった。酔っているのか少しふらつきながらテーブルの向かいのグロースのところへ近づいていく。
「それでぇ? だいたい依頼内容は想像つくけどぉ何を頼みたいんだぁい?」
「想像がつくのに言う必要が?」
「僕は君のことならなんでも知ってるよぉ? なんでもわかる。親友だからねぇ。君だけしか知らないことだって、千年くらい君のことを思い続けてる僕なら思いあたるさぁ。ほらぁ、長年一緒に暮らした夫婦は言葉一つで意思疎通できるって話あるだろ? あれと一緒だよ。僕は君を愛してる! 君が僕をどう思っていたとしても、僕にとっては世界で一番の親友だよ! だからわかる。今日、君が僕に会いに来た理由も。これから何を託そうとしてるのかも。全部、ぜぇんぶねぇ。……でも、それじゃあ寂しいじゃないかぁ親友。僕がコソコソと探った秘密と君が打ち明けてくれるそれは別物だ。万年筆で書き連ねたのが僕でも君でも、言葉の裏にある事実は全く一緒だってことは十分にわかっている。でも、わかっているからこそ」
危なっかしく近づいてくる友人を横目で追っていると輝日宮はグロースの隣の椅子に勢い良く座り込んで来る。そして、視線に気がついたのか、にへらとしてグロースにしなだれかかり、濡布をかぶせたように輝日宮の肢体がぴったりと吸着した。
一センチ先まで近づいた幼い頬は朝焼けのように紅潮し、目は爛々として、唇は紅も入れていないのに血のように赤い。かすかな膨らみがグロースの腕を包み、心なしか耳にかかる寂しげな息までがどこか熱を帯びているように思えた。
「君の口から聞きたいのさぁ」
今日くらいさ、と。泣き出しそうに潤んだ輝日宮の瞳がまっすぐグロースを見ていた。
掴まれた腕は万力のように引き絞られていて逃がす気は欠片もないらしい。
「…………はぁ。いいだろう」
グロースは溜息をついて肘を曲げると友人の胸元を突き上げた。
すると、「ひゃん!」という聞き覚えのある奇声に続いて、足元で先程の茶番を焼き増ししたような姿の輝日宮が彼を見ていた。やはりまた悪ふざけを始めたのだろう。そう判断してチシャ猫のように笑っている輝日宮に構わずに話を始めた。
「それでは依頼の前にひとつ、希望通り昔話をしよう。あれは、アンディライリーという姓がただひとりのものであったころ。老魔術師ボルチェイブ=ロォストとその礼装クロニクの話だ」
とある、冬に閉ざされた大地。
煙突から黒雲を吐き出し続ける、村外れの森の粗末な小屋にて。
□□
朦朧とした意識の中に誰かの声が木霊した。
『…………様、…………様。起きて……様……』
聞き慣れた幼い声がパスを通じて、靄がかった思考の中へ響く。
声変わり前の少年にも似た色の声は先程から絶え間なくその言葉を繰り返していた。
眠いから起こさないでくれ、との意味を込めて二、三度唸ってみたが声は止むどころかますます間隔を狭めていく。
ようやく、安楽椅子でうたた寝をしていたボルチェイブ=ロォストはゆったりと目を開けた。
いつの間にか暖炉の火はまだ消えていないが熾火というにも小さすぎるくらいになっているがパチパチ爆ぜる心地よい音はいまだに残っていて、彼も釣られてウトウトと船を漕ぎかけた。『お父様、お父様。……お父様! 起きてください! お父様!』
「……ああ、私は起きているよクロニク。そう目覚め越しに怒鳴らないでくれ」
『それならば最初から返事してください。そうでないと私にはわかりません』
「すまないなぁ。もう私もずいぶん年だから、鈍くなってしまったんだよ」
森に降り積もる雪のように深く、ネコヤナギの新芽のように張りのある、それでいて枯れ落ちた白樺のように老いに満ちたバスヴォイスが狭い部屋の中に響いた。どう見積もっても三十代くらいにしか見えないこの男の口から発せられたとは思えない奇妙な声だった。……当たり前だ。彼の見かけは若々しくても、近くの村で一番の長老よりも長く生きているのだから。
おとぎ話に現れる化物。吸血鬼やドラキュラ、ノスフェラトゥとも呼ばれる幻想の王たち。つかの間の夜と、死を忘れた身体に永遠の春と快楽を謳歌する霊長の超越種。ボルチェイブもその末席に在る者であり、かれこれ数百年前に魔術で死徒になってから先はこの姿のままだ。
が、死徒と言ってもボルチェイブは他の死徒たちのように徒に人を殺めたり、ましてや死都を作ろうとはしない。人の幸福を歌う妖精コリャダの血を半分継いだ彼にとって利己のために他人を害することなど基本的にはもっての他。身体を保つために不可欠な人間の血も、村の病人を診たときに瀉血したものを大事に使っているくらいだ。時たま血を盗むこともあったが、傷は念入りに治すし、代わりに豊穣の呪歌で村を祝福しているのだから駄賃のようなものだ。
なぜそこまでして生きていたのかと言えば、達成するべき命題があるからに他ならない。
ボルチェイブの挑む命題、それは『第六魔法への到達』だ。
いや、どちらかといえば『人類全てが幸福になること』といったほうが正しいかもしれない。
絵に描いたような話だが、しかし彼にはそこに到達し得るだろう才能もあった、受け継いだ知識も技術もあった。安易な言葉だが彼は天才だったのだ。その天才が生涯を捧げ書き上げた譜面は完璧で、非の打ち所もないもので。……それでも、手を届かせることは叶わないまま、気づけば劣化をなんとか留めていた魂もゆったりと腐り落ちてきた。
結論から言えば時間が足りなかったのだ。
あと数百年も時間があれば命題は達成されていただろう。あるいは、彼の意志を継いでくれる後継者が一人でもあれば芽は残っていた。問題はその両方を持ち合わせなかったことだった。
伴侶を得なかったことを後悔する日が来る、などと昔の彼が聞けば鼻で笑っただろう。
ボルチェイブ=ロォストは誰もが認める天才中の天才で、それは若き日の彼も例外ではない。彼自身、自分の後のロォストに己以上の才を持った者が現れるなど毛ほども信じていなかった。
傲慢で、慢心と過信に満ちていた。だが、その若さが許されるほどの才が備わっていたのもまた事実。仮に、ロォストの血を百代重ねようと彼一人に及ばなかっただろう。
しかし、若き未熟は熟れる日が来るからこそ許されるもの。未熟の時間が長ければ長いほど
痛烈なしっぺ返しがやってくる。その理のうちにあるのは彼も例外ではなかった。
"己以外の誰にそれが成し遂げられよう"
そう才に溺れて後継者を育て未来に託すという魔術師の当前さえ失念し、人並みの幸せさえ必要ない、人ならざる身の己が長き生を注ぎ込めば時間は足りる、そう思いながらはや七百年。
計算の果て、己の寿命と命題の結実までの時間がどうやっても釣り合わないことを理解した。
そうして、永き熱狂から冷めた先には、死徒化で生殖能力を失って、他に後継者の宛もない偏屈な老人が、歌う者の永劫現れることのない譜面の山に見窄らしく埋もれているだけだった。
残された時間はせいぜい保って二十余年。
十分な魔術回路と、彼の後継に足る才覚と適正を持つ人間を見つけ、ロォストの魔術師へと育て上げるまでにかかるだろう年月に比べれば流れ星の煌めきが空に弧を残すほどしかない。
では、魂が腐敗しきった後も延命して自分でもやり遂げるか。それもダメだ。完全に腐ってしまえば想定していたようにはいかないだろうとはボルチェイブもよくわかっていた。
ボルチェイブが人類の敵対者である死徒になった後も人を救おうと思えるのは、人であった頃の魂が残るからこそ。故、朽ちれば願いが歪む。それでは、譜面の中にノイズが混じる。
だから決めたのだ。もう何もしないということを。
熟すること無く腐り落ちた生涯を受け入れ、空虚な生の終わりを待ち続けると。
平たく言ってしまえば、彼は隠居することにしたのだ。
彼をお父様と呼ぶクロニク──数百年かけた研究の中で唯一完成した彼の命題への解答要素、『月雫箱』に宿った人格──と共に。
それでも、未だに生涯の成果が奏でられる日を夢に見てしまうのは未練だろうか。
人類救済の『はじまりの歌』へ至る譜面は焼き捨てたが、それらを全て記憶させた『月雫箱』が残っていれば同じこと。
それが無意味だとわかってはいるのだ。わかっていても、文字通り全てを費やして後一歩に肉薄したはずの未来を、もう届かないからと割り切れるほどボルチェイブは強くなかった。
「ああ、本当に。なんと無様だ」
『どうかされましたかお父様?』
「いや、気にしないでくれ。ちょっと独り言を言っていたんだ」
『……あまり、そう思いつめないでください。お父様が朽ちても命なき私は残り続けます。ならばいつかお父様を継ぐ方が……』
(────その日を、夢見てしまうからこそ無様なんだろうね私は)
昨日より摩耗していることを知りながらも未練を捨てきれない自分を恥じて、もう後一歩を踏み出せたイフを夢に見る毎日。枯死しかけた思考は耄碌してしまった老人のように何時間も安楽椅子から暖炉の火が燃えるのを見て過ごしていたし、血を摂取する頻度も研究に励んだ頃より格段に減って、今や外に出るのは、歌を歌うか、村人に薬を作ってやるかくらいのもの。
最近は起きているのか寝ているのかも自分ではわからなくなってきて、来客のたびにクロニクに起こされるようになってきた。今日もまたクロニクに呆れられ、年を取ったと実感しながら、ボルチェイブが積み重ね無駄にした物の一端を来客に披露する。
そんな、いつもの一日のはずだった。
□□
「それで、クロニク。もしかして私は来客を待たせてやしないだろうか? 一昨日のようにずっと待たせてしまっていたなら悪いことをしてしまった」
ふわりと欠伸をしながら立ち上がったボルチェイブは暖炉の薪を足し入れながら尋ねた。「外で凍えていないといいんだが……」暖かな日にやってきた幸運な来客を思い出していたのだ。
すると、クロニク──つまり安楽椅子の隣の黒い正方形、礼装『月雫箱』──が彼を起こした時のように念話で応える。
『いいえ。今日のお父様は不思議なくらい素直に目覚めました。普段の待ち時間に慣れされた村人なら自分が妖精に悪戯されていることを疑うほどに』
「それは良かった。私だけなら、年寄りだからゆっくりでいいのだけど。この季節は早ければ早いほどいいのだからね」
『そういうものですか?』
「ああ。そうだ。吹雪が終わるのも、暖かい家に帰るのも、春が来るのも、どれも早いほどいいものなのだよ。さ、クロニク。ドアを開けてお客様を家に入れておやりなさい。きっと、暖炉に当たるのも早い方がいい」
『わかりました』
クロニクの返事に続いてドアに回路のような模様がフッと浮かび上がる。
すると、実に不可思議なことに何の力も加わっていないドアがひとりでに動いて軋みを立てながら開く。ボルチェイブはそれを気に留めず膝にかける毛布を畳み、鍋を火にかけて客に出す湯の容易をするとまた安楽椅子に戻る。そして手を組んで一度瞠目すると、椅子を揺らしながらドアの向こうから入ってくる彼もしくは彼女に目をやった。
来客は雪除けらしきボロボロのマントを羽織った子供のように小さな人影で、腰に届くような長髪のせいもあってひと目見ただけでは性別不詳であった。それでは、精嚢と毛髪のどちらに魔力が溜まっているかで見分けようか、とまで思った時にようやく気がついた。どうやら、客人はボルチェイブと同じく魔術師のようだ。
「……貴殿は、魔術師のボルチェイブ=ロォスト殿で、よろしいか?」
魔術師は間口に立ちん坊のまま、掠れた声でそう言った。
一瞬、寒さにやられて声を枯らしているのかと思ったが、腐りかけの魂から湧き上がる食欲に気がついたボルチェイブは、少し鼻をひくつかせると途端に表情を固くして枯れ木のような身体を安楽椅子から飛び上がらせた。父の異変を受けて『月雫箱』から声が響く。
『お父様?』
「クロニク、扉を閉めて結界を発動させなさい。人払いと『炎囲』、それと『呪檻』もだ」
『了解しました。お父様は?』
「歌って来る。……ああ、そうだ。忘れていた。結界の立ち上がりを確認できたら彼に治癒の魔術を施してやってくれ。腹の空く匂いでわかったが、どうやらひどい怪我をしているようだ」
『了解しました』
クロニクに指示をしながら戸棚を漁っていたボルチェイブは、なにやら黄色っぽくドロリとした液体で満ちた木壺の中から赤く染まった白樺の皮を取り出すと思い切り噛み千切った。
瞬間、身に纏った温厚な雰囲気は霧散し、充血した眼が血のように朱く染まると共に老人は突然肉食獣にでもなってしまったように獰猛な気配を漂わせ始めた。
……いや、なってしまったのでは無い。これが本来の彼だ。傲慢と慢心に満ち、人の救済を願いながら博愛を忘れたロォストの鬼子。人を傷つけることを厭うコリャダの血を引いていたがために抑えられていた死徒としての本能が血の薫香によって目覚めたのだ。
白樺の皮に染み込んだ血に酔うボルチェイブは、眼をギラつかせて黒曜石のナイフを乱暴に引き抜くと指の腹を浅く切り裂いた。微かに痛みに顔をしかめるとゆっくりと深呼吸して我を取り戻す。全力で歌うには血が必要だったがこのままでは怪我人を襲いかねなかったからだ。
「……はあ、こればかりは一生慣れなかったな。仕方のないことだが」
自嘲するように笑ってナイフの血を払うと、『月雫箱』から念話が飛んできた。
『お父様。『炎囲』『呪檻』ともに起動準備完了しました。戸を閉めると同時に起動します』
「ありがとうクロニク。それでは、行ってくる」
『お気をつけて』
「うん」
歌うだけのことで気をつけても何もないだろうに。なんて考えながら後ろ手に扉を閉めると指示していた通りの結界が小屋の周りに張り巡らされる。
ひとつは人払い。村人が巻き込まれないように他より先に展開されていた。ひとつは『炎囲』。迎撃用の結界。そして、最後のひとつ『呪檻』。小屋周辺と森全体をそれぞれ覆うように二重に張り巡らされた大小の呪い除けの結界は防御に使うものではなく……。
「さて、これを歌うのは久しぶりだが……上手く歌えるだろうかねえ。でも、呼ばれもせずに勝手にやってきたのはそっちなんだから多少下手でも我慢してくれよ」
トントンと足で拍子を取りながら二、三度呼吸を整えると冬の森の空気の乾いた匂いの中で自己主張する悪意と敵意の鼓動に向けて老魔術師ははにかみ(・・・・)ながらお辞儀をした。
「それではご清聴いただこう。攻性呪歌第八番『落葉』より『鳥兜』」
二つの呪い除けの結界の狭間に、呪歌が響いた。
□□
吐血して倒れる死体ら全て鼻を頼りに探し、小屋まで運び終わった頃にはすっかり日が暮れていた。息を忘れた血袋たちの首をナイフで掻き切り、白樺の皮を詰めた水瓶へと流し込んでいつも通り保存の魔術を掛けたボルチェイブは戸を開けて小屋に入ると、粗末なベッドに寝かせていた怪我人が横になったまま彼を見ていた。
「君の追手のことなら安心しなさい。皆、もう君を追ってこれないところに行ってしまったよ」
「……すまない、ロォスト殿。貴殿を巻き込んでしまった」
「気にしないでくれ。こう見えて私もかなりの年寄りだ。失って惜しい命はとうに忘れたさ」
たぶんね、と付け加えると薬草をベタベタと貼られた若き魔術師に向かって笑ってみせた。
「どうにも君の追手も魔術師のようだったから構わず始末してしまったが、何か訳でもあるのかい?」
「……すごいな。そんなことまでわかるのか。父に聞いていた話は本当だったようだ」
「まあ、死徒だからね。それにこの一帯は私の工房のようなものだ。森に誰かが入れば魔術師かそうでないかくらいの区別はつく。ところで、父と言ったね。お父さんから私のことを?」
「レグゼ様──父が貴殿についてはよく話していました。なんでも、この辺りの森には未来を見通すこともできる素晴らしく腕の立つ魔術師が数百年も昔から工房を構えていると」
「そして、その才能を未来の人々を救うだのとよくわからない妄想に費やしていると?」
「…………はい」
「ははは。これは手厳しい」
七百年も昔にロォストの者たちに同じことを言われたのを思い出して老魔術師は笑った。
当然だ。今はまだ根源が近い。誰ひとりとして滅びの未来など予期しない。
……いや、そもそも人類などという括り自体がこの時代には存在しない。アンディライリー氏がボルチェイブの考えを理解出来なくて然るべきなのだ。少なくともこの地でそれを解せるのは限定的な未来視を持つボルチェイブと、あとは助手代わりのクロニクくらいのものだろう。
ボルチェイブが後継者作りを諦めた理由のひとつがそれだ。この時代では早すぎる。だから誰もボルチェイブの命題の重要性を理解できないし受け継がれたそれが実行されるはずがない。彼が自分ひとりで成し遂げることに固執していたのも同様である。
「さて、巻き込まれたには理由を聞きたいな。君がなぜ追われていたのはわかっているが私のところにやってきた理由がいまいち掴めないのだよ」
「私が追われていた理由はわかるのですか?」
「うん。手当をしたときに君の腕に刻印があった。で、追手の彼らにはなかった。そして血の味が似通ってたからね。たぶん、後継者争いで君が選ばれたことを不満に思い襲ってきたとかそのへんだろう? 違うかい?」
「………………」
ポカーンと若者は口を開けて尊敬の眼差しをボルチェイブに向けていた。
ふふんと得意げにボルチェイブが鼻を鳴らすと、
『一つだけ訂正するとすればその仮説はお父様でなく私が算出したということですね』
「うぐっ」
冷ややかなクロニクの声がボルチェイブを刺した。
「だ、誰だ?!」
一方で若者は上半身を持ち上げて壁にもたれかかりながら、警戒するようにキョロキョロと小屋の中を見回した。反撃の用意を始めているようで魔術回路が淡く光っている。
『落ち着いてください。私はクロニク・ナビ・ナバ。そちらの老人の使い魔のようなものです。お父様があなたを害する気がないのなら敵に回るつもりはありません。少なくとも、今は』
「使い魔……? それにしては姿が見えないが……」
『すぐ近くにいますよ。具体的に言えばあなたの隣に』
「隣……?」
若者はボルチェイブに向けて胡乱な表情を向ける。
ボルチェイブがフルフルと首を振ると目をパチクリさせて首を傾げた。
「あの、もしや貴殿が私をからかっているのか?」
「私はからかってなんかいないさ。私の下だよ」
『お父様が座っているものが見えませんか?』
ハテナマークを浮かべながらベッドから身体を伸ばす若者の前でボルチェイブが立ち上がる。すると、そこには老魔術師が椅子代わりにしていた箱のようなもの。幾何学模様が入った大きな直方体状の鉱石、『月雫箱』が鎮座していた。
「…………ロォスト殿は変わった使い魔を使うのだな。いや、貴殿には驚かされるばかりだ」
『正確には使い魔ではなく礼装です。が、あなたの認識なら使い魔が近いかと思いまして』
「もう、なんだか、すごいなぁ……ロォスト殿の手にかかれば礼装も喋るのか……」
既に驚きも品切れになっているのだろうか。若者はしみじみとそんなことを言うと、何やら自分を納得させるようにコクコクと頷いた。
『驚かせるつもりは毛頭なかったのですが』
「楽しんでくれるならいいじゃないかクロニク。それと、これだけ動けるようなら食事も喉を通るだろう。傷を治すには食事が一番だ。話の続きはそれからだ」
『間違って人肉や血を出さないでくださいね』
「出すわけ無いだろう! 私もそこまでボケちゃいないぞ!」
『どうですかね。現に大事なことを聞き忘れておられませんか?』
「えっ、なにかあったかな?」
首を裂いたナイフはもう洗ったし、などとボルチェイブが指折り数えているとクロニクは呆れはてたように溜息をついた。
『お客人。食事の前にひとつ質問しても良いですか?』
「あ、ああ。構わないぞクロニク殿」
『あなたの名前は?』
あっ、とボルチェイブと若者が同時に声を漏らした。
「ああっ、ごめん! 聞こうと思っていたのにすっかり忘れていたよ!」
「い、いや! ロォスト殿は悪くない! 押しかけておいて名乗りもしない私の責だ!」
そんなことはない、とボルチェイブが言い返そうとしたちょうどその時、クロニクの非常に白々とした思考がパスを通してボルチェイブに伝わり、老人は口を閉ざした。
が、わたわたと慌てる若者は老人の様子に気づかないのか、なおも食い下がろうとする。
『堂々巡りで話が進みません。いいから名乗ってください』
……ところをクロニクに切り捨てられた。
「そ、それもそうだな。うん。悪かった」
冷ややかなクロニクの声に促された若者は腰まで届かんばかりの美しい白髪をたなびかせ、その髪と同じく真っ白な肌の中で燃え上がるように赤く煌く瞳をボルチェイブに向けると、
「私はレグゼ=アンディライリーの子、ザイシャ。ザイシャ=アンディライリーだ」
そう、誇らしげに名乗りを上げた。
雪仔(ザイシャ)という言葉がある。
それが後の世にアルビノと呼ばれるものであることはボルチェイブしか知らないことだが、少なくともこの時代のこの周辺地域においてはそう呼ばれ、信じられていた。
彼らは雪の精の取替子(チェンジリング)であり、雪のように白く美しいが雪のように脆く、常人より死に近い。故に人の子ではなく雪の仔として、人らしい扱いを受けないことも度々どころではなくあった。
ザイシャもまた雪仔だ。で、あるからには家督の継承が適う対象からは外れてしまっている。だというのにザイシャが次代の当主へ選ばれたことが彼らの諍いの元となったのだろうと老人は推測していたが、食後に訊ねてみれば果たしてその通りであった。
老人の三食分の食事をぺろりと平らげたザイシャが言うにはアンディライリーの家には他に数人の子供がいたらしい。ザイシャは彼らと血が繋がっておらず、先代当主のレグゼが拾った捨て子であったという。
先ほど、雪仔の話が出たが、雪仔に纏わる風習として雪送りというものがある。雪の降る日に雪の精に仔を返すと、本当の子供がお腹の中に帰ってくるというまじない(・・・・)だ。おそらくは、ザイシャも雪送りで捨てられていた雪仔だったのだろう。
……道理で嬉しそうに名乗ったわけだ。
名前も雪仔そのままの子だ。アンディライリーの家で育てられていたのだろうが、育てられただけ。名前らしい名前を付けて貰っていないことからもアンディライリー家でのザイシャの扱いは見て取れる。そんなザイシャがレグゼに子と認められ、それどころか正答な後継として選ばれ、父が背負った物の次の担い手を任された。その喜びは推して知るべしというものだ。
『しかし、そのレグゼという男は愚かですね。雪仔に家督を渡すことが周囲にどれほどの波紋を生み出すか程度、容易に算出できるでしょうに』
話を終えた時にクロニクが冷ややかな声で呟いた。
すると、ザイシャは雪のように白い顔をサッと紅潮させた。
「レグゼ様を悪く言うな! 確かに、レグゼさ──父もそれを心配していた。だが、きっと皆納得してくれると信じておられたんだ。悪いのは私だ。父が亡くなったときに刻印がないこと皆に知られ、うまく弁明できなかった。私さえしっかりしていれば父の遺志は叶えられたはずなんだ!」
『そんなわけがないでしょう。やはりレグゼとやらは愚か者です。雪仔に継がせることが既に間違いだと言うのにそれすら気づかないとは』
「礼装のくせに! 命なき貴殿に父の何がわかる!」
『少なくとも家督を継がせることが雪仔の命を更に脆くするのも知らぬ愚鈍だとは』
「────言わせておけばァ!」
「はいはいストップストップ! じゃない止まって! 一旦落ち着いてくれ!」
ボルチェイブはヒートアップする二人の間に慌てて割って入る。
「し、しかしロォスト殿」
「レグゼへの非礼は私がクロニクの分まで謝ろう。悪かった。君の父は立派な人物だ。君のことも、そして親族のことも心の底から信頼していたのだろう。もしも、不幸が訪れなければ、きっと彼の言うようにみんなが納得できた道があったに違いないだろう」
「う、うう……」
深々と頭を下げるボルチェイブの姿にザイシャは勢いを削がれ言葉を失う。
『まったく、お父様に助けられたくせに頭まで下げさせるとは良いご身分ですね』
「君もだクロニク。君の強情は知っているから謝れとは言わないがこれ以上波立たせるんじゃない。私の小屋は君の『月雫箱』と違って狭いんだ。穴でも空いたら修繕は老骨に堪えるよ」
『……………………』
頭を下げたままのボルチェイブが『月雫箱』に向かって非難の目線を飛ばすと、クロニクはふっつりと黙り込んだ。
「君の気が済むまで頭を下げよう。どうか、クロニクのことを許してやってくれ」
「わ、わかった! わかったから頭をあげてくれロォスト殿! 私も貴殿に助けられた身分。そんな私が貴殿に頭を下げさせるなど耐えられない!」
やっと頭を持ち上げたグロースは、しかし、苦々しげに口を開く。
「……こんな卑怯なことをしてすまないねザイシャ」
「いや。いいんだ。それに礼装程度の言うことに目くじらを立てた私も悪いんだ。ああ、そうだとも。礼装の妄言など気にするだけ無駄だと言うのに」
『…………感情の変数に算出結果を混乱させられている雪仔の言えたことですか?』
あ、と声が出る間すらもなくザイシャの煽りにクロニクが買って出る。
ボルチェイブは一瞬、ザイシャと姿すら見えないクロニクとの間にバチバチとスパークするものを幻視した。
「………………礼装風情が」
『………………雪仔の分際で』
「ふんっ!」
『……ハッ』
互いに吐き捨てるように言葉を投げたその裏で、ボルチェイブは明日の朝食はどうしようかなどと諦め混じりの現実逃避を始めていた。
□□
「これで全員かな?」
翌朝、太陽が登るとともにクロニクに起こされたボルチェイブは、昨日血を抜き取った死体をザイシャに見せた。追手に放った呪歌は、例え魔術師であろうとも確実に滅ぼすほどのものだったが呪い除けの結界を越えて退避していたのなら関係ない。故に、始末できたかの確認をザイシャにさせることが必要だったのだ。
「…………ああ。父の弟のクルガ様に、長兄のレアヌ様と、弟のグキロア様、ソルゾ様。そして、クルガ様の妻のコワリ様。これで追手は全てだ」
意外なことにザイシャは死体を見てもさほどショックを受けてはいなかった。かといって、恨んでいた相手が死んだことへの喜びの表情も無い。それを不思議に思っているボルチェイブに気がついたのか、ザイシャは曖昧に笑った。
「ロォスト殿の森に魔術師が入れば殺されると父に教わっていたので。私も死に体だったし、せめて道連れにして皆で父の顔を見に行こうという思いからここに逃げて来たのだよ。彼らが死んだことはわかりきっていた。むしろ、逆に何故私が生きているかわからないくらいさ」
「心外だなあ。私がまるで見境のない怪物のように言われているとはね」
傷ついたような顔をボルチェイブがしてみせると冷ややかな声がパスから流れる。
『事実、二百年ほど前は害意と魔術師という条件が揃えば端から呪殺していたのでは?』
「いやあ、それはさあ。一応ここも工房だしね。魔術師なら覚悟はできてるだろうって……。それに、流れ者の魔術師なんてろくなもんじゃないんだから……」
『徹夜明けの魔術師の血は最高だ! もう一杯! と、お父様が口にした際の記録は私の中に音声データごと残っていますよ。再生しますか?』
「ごめん。昔の私が見境なかった。だからやめてくれ」
『了解しました。それと、そろそろ朝食が出来ます。別に雪仔に伝える必要はありませんが』
ぷつりと念話が切れる。ボルチェイブはやれやれと肩をすくめた。
「どうされたのだロォスト殿?」
「朝食が出来たってさ。……あー、死体を見た後だけど食べられそうかい?」
「私も魔術師の端くれだから平気だ。ご相伴に預かる。……だが、」
ザイシャは、アンディライリーの人々だったものをじっと見つめて、
「ロォスト殿、朝食の後に手伝って貰ってもいいだろうか? せめて彼らを埋めてやりたい」
「わかった。でも老人だから力仕事にはあまり期待しないでくれ」
「恩に着る」
短い返事。その裏からほんの少しの憂いが漏れる。
ボルチェイブはザイシャを残して、先に朝食の香り漂う小屋へと戻っていく。
老人が扉を閉めた後も、しばらくザイシャは彼らを見つめていた。
本当の家族になりたかった、そんな呟きが聞こえたような気がした。
□□
「さて、それではこれからの話をしようか」
アンディライリー家の面々を獣の掘り出さないように魔術的に処理し埋葬した頃には夜闇がその帳を下ろそうとしていた。くたくたになったザイシャは夕食を平らげてしまうと、やっとひと心地ついたのか食後の薬湯を飲みながら微睡みかけていた。
起こすのは可哀想な気もしたが、このことを告げるのは早ければ早いほどいい。
その肩を何度か叩くと、ザイシャはハッとしたように飛び上がって恥ずかしそうに俯いた。
「そ、それで、これからの話というのは?」
「そのままの意味だよ。これから君が何をどうするか決めようということだ」
「なるほど」
ザイシャはコクコクと頷くとその赤い瞳でボルチェイブを見上げた。
「確かに、いつまでもロォスト殿に世話になるわけにも行かないだろう。怪我も治ってきたがあと数日だけ大事を取って滞在させて欲しい。どうも、さっき穴を掘ったときに無理をしすぎたようで傷が少し開いてしまった。その後は村に戻って父の仕事を引き継ぐつもりだ」
途端、あっちゃーとボルチェイブは顔を覆う。
「あー……やっぱりかー……」
『予測が当たりましたね』
そんな二人の様子にザイシャは、自分がなにか間違えているだろうかと首を傾げる。
「…………? ああ、もちろん謝礼はする。貰ってばかりで終わらせるつもりはない。だが、あと数年だけ待ってくれ。私がアンディライリーとして職務を全うするまで父の遺した財産を使う権利はないと思うのだ」
「いや、謝礼とかそういう問題ではなくてね」
どう言えばザイシャを傷つけないだろうと老魔術師が頭のなかで思索を組み替え続けていると、面倒そうなクロニクの声がそれを遮った。
『……まどろっこしい。単刀直入に言いましょう雪仔。あなたは村に帰れません』
「……………………へ?」
ザイシャはクロニクの言葉の意味がわからないようでコテリと首を倒したまま固まっている。
そんなザイシャの様子に呆れ果てたように嘆息したクロニクは、冷たい声で滔々と事実を並べ始めた。
『いいですか? 第一にれっきとした事実としてあなたの村は滅びます』
「ふぇっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、ザイシャが立ち上がった。
「な、なぜだ!?」
『決まっています。あなたの父、レグゼが死んだからです。魔術師のいる村は栄えます、しかし、それは魔術師がいるからこその繁栄。彼を失った今、次の冬は越せないでしょう』
「だが、私がその後を──」
『愚問ですよ雪仔。では、こちらから問いますがあなたは何度の春を過ごしましたか?』
「……十回だ。それがどうかしたのか?」
『安心しました。その矮躯で十八の春を越えたなどと冗談のようなことを言われたらどうしようかと思っていましたので』
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
顔を真赤にしてテーブルを叩くザイシャ。
クロニクは鼻で笑うような声でそれに答えた。
『続けます。十の春ということは生まれた頃から魔術師として育てられていたとしても未熟。確かに、あなたには素晴らしい才能があるのでしょう。レグゼが後継に選んだのも魔術師として大成するとわかったからでしょう。ですが、それはレグゼが生きてあなたを育て上げた時の話。今のあなた一人の力では到底村を支えることなど出来ません。せいぜい揃って餓死するか、その前に村人の恨みを買って八つ裂きにされるのがオチです』
「……ロ、ロォスト殿! この礼装の言っていることは」
今度は顔を真っ青にしたザイシャがボルチェイブの名を呼ぶ。ぶるぶると震える身体は例え暖炉に当たっていても凍えているだろう。否定してほしかったのはわかっていた、が、それでもボルチェイブは非情に徹しゆっくりと首を振った。
「────私が、私がアンディライリーを継いだからなのか? そうでなければ村の皆は」
『安心しなさい雪仔。断りも無く魔術師の領域に踏み入れ、対策もなしにお父様の呪歌を受けた時点でどのアンディライリーも愚劣です。他の兄弟を選んだのではなく幼いあなたを後継としたのがその証左の一つ。例えあなた以外がアンディライリーを継いでも遠からず村は滅びていたことでしょう。簡潔に言えば、あなたの村はレグゼが死んだ時点で終わっていたのです』
「そん……な……」
へなへなとザイシャは床に座り込む。
『責務とは選択することが出来る者だけに付随します。あなたは滅びを招く以外には選択肢が与えられていなかった。ならば、無力なあなたに責を負う義務も資格もありません』
「クロニク」
『おや、これでも慰めているつもりだったのですが?』
ボルチェイブが咎めると、クロニクは白々しく返した。
力なく落ちたザイシャの肩にボルチェイブはそっと手を置く。
「……帰るところが見つからないのならしばらくここで暮らすといい。君が望むならレグゼの代わりに私が魔術を教えてあげよう。一人前になるまでね。私は歌で君らアンディライリーは契約を基とするが、幸いにも基礎魔術の範疇でその辺りはカバーできる。ここを出て行くにしても、一人で生きていくのに十分な力を備えてでもいいんじゃないかな? 私だって君くらいの子供を見捨てるほど人の心を忘れちゃあいないし君の食い扶持くらいならなんとかなる。なんだったら私の後を継いでこの村の魔術師に──」
「────少し、考えさせてください」
フラフラと立ち上がったザイシャはベッドへ向かっておぼつかない足取りで向かっていく。
ゴソゴソとベッドに潜り込む音に続き、いくらかの啜り泣きのような声が漏れていたが、埋葬の疲れもあったのだろう、さほどもしないうちに寝息に変わった。
「急ぎすぎた、かな?」
ポリポリと老魔術師は頬を掻いた。
と、その時、
『あなたは卑怯者ですね。お父様』
パスを通じて『月雫箱』から念話が届いた。ボルチェイブもまた念話を送る。
「卑怯、とは?」
『私にとぼける必要があるのですか? 視えていたのでしょう? あの雪仔に会った時から、あなたの、その未来視の魔眼で』
────終点の未来視。
それはボルチェイブ=ロォストが生まれ持っていた限定的な未来視の魔眼。
物事の終点、つまり破滅・終焉だけを知覚する異形の未来視である。
ボルチェイブが森で追手の性質を識っていたのもザイシャの数通りの破滅を視て、追手の正体を識ったことによるもの。そして、その中には勿論ザイシャを助けることで破滅することになった村の未来も例外ではない。
そう。ボルチェイブが追手を皆殺しにしたのはザイシャを助けるためではない。ザイシャの帰る場所をなくし、選択肢を奪い、確実にこの老魔術師の元に留まらせるための行いだった。
「怒っているのかいクロニク?」
『いいえ。あなたの悲願と苦しみを知っている以上私から言えることはありません。なにより、冷たく当たってあなたの言を聞きやすいよう誘導した時点で私も同罪です』
ですが、と続ける。
『余りにもあの雪仔が哀れです。あなたの願う未来を叶えるために欲しかった未来へと繋がる要素を全て叩き潰されたのですから』
"本当の家族になりたかった"
ザイシャの願った未来は老人の手で手折られた。
至る可能性はとてつもなく低かっただろう。それでも、まだ可能性はゼロでは無かったのだ。人ならざる雪仔であったとしても、アンディライリーの面々と、村の人々と共に笑い、同じ目線で慎ましくも平和に暮らす、そんな未来もあったはずだった。
その道を閉ざしたのは紛れもなく、ボルチェイブとクロニクだ。
『雪仔はあなたの弟子になると言うでしょう。あなたの目論見どおりに。十の春しか迎えたことのない小娘が七百をゆうに超える老獪な化物に敵うはずもありません。自分が既に選べなくなっていることにすら気が付かずに、自らの意思でここに残ることになる。そして、最後には喜んであなたの夢の後継(いしずえ)となるに違いありません。それで満足ですか』
「…………これは業だよクロニク。私の罪だ。それでも、私にとっては最後のチャンスなんだ。私は、この魔眼で子供の頃から人類の破滅を視続けてきた。そして、それを跳ね除ける手段を確立した。後は時間だけ。未来に繋げるだけなんだ」
『だから雪仔には犠牲になって貰うと?』
「そうとも。傲慢だろうねえ。身勝手だろうねえ。────でも、それが私たち魔術師だ」
ランプを消す。暖炉に新たな薪を投げ入れ、安楽椅子にボルチェイブは腰を下ろす。
ギィ、ギィ、と椅子を漕ぐたびに響く軋みが夜の中に溶けていった。
「…………どうしようかねえ、クロニク」
『どう、しましょうかね。お父様』
無機質なクロニクの声さえも今はどこか呆然としたように。
父子揃って頭を抱える彼らの目線の先には、先日弟子入りした雪仔──ザイシャ=アンディライリーの小さな体躯があった。
浅く息をするザイシャの周りには血痕が飛び散り、暴走した魔力の迸りが片腕とともに地面を吹き飛ばしてクレーター状に地面を抉っている。
────リバウンド。
魔術式の制御に失敗した場合に発生する魔力回路の暴発。正しく歪められるはずの世界が変化を拒み、その代償として行き場の無くなったエネルギーが回路を遡る。そして、針を刺した風船のように脆弱な部分から圧力は抜け出ようとする。
破裂。
ザイシャのそれはリバウンドによって生じる結末の典型であった。
勿論、こんなことは見習いにとっては初歩の初歩。ロォストの神童と呼ばれたボルチェイブでさえもリバウンドの経験は何度かあったし、腕が吹き飛ぶなど日常茶飯事。怪我したばかりなら治すのも仔細ない。
老人らの反応はザイシャの怪我に向けられたものではない。
問題は、このリバウンド現象を引き起こしたのが基礎中の基礎と断言しても良いだろう強化魔術だったことである。リバウンドは見習いにとっては初歩の初歩といったが、逆説的に基礎魔術でのリバウンドというのは見習いどころか素人一歩半くらいで卒業するものなのだ。
『とりあえず、腕を縫合して地面に埋めてみますか?』
「そうしてみようか……」
要するにである。
ザイシャは魔術師にも関わらず魔力制御がド下手くそだった。
それはもう、本当に。
□□
話は、その日の朝まで遡る。
老魔術師の元に弟子入りするとザイシャが決断してから実に二週間後のことだった。
ささやかな朝食を終えたボルチェイブは、まだ眠気の残る顔でナメクジのようにゆっくりと咀嚼を繰り返すザイシャに話しかけた。
「さて、ザイシャ。君が私に弟子入りして七つの夜が明けた。どうだい? そろそろ傷も完治してきたんじゃないかね?」
「ん……? もむ……もむ……こくり」
やや遅れて、ザイシャは相変わらず眠そうな目で口の中の物を飲み下す。
「……そう、だな。一番深い傷はもう開きそうにないし、他の傷もあらかた治ってしまった。うん。これなら動き回っても問題はなさそうだ」
二日ほど前から血が滲まなくなってきた包帯を見ながらザイシャは嬉しそうに頷く。
本来は身体を動かしているのが性分なようで、老人のベッドで安静にしていた頃、特に傷の痛みがなくなってきた頃には大変つまらなさそうにしていたのは老人の記憶にも新しい。
数日前からはクロニクの操る人形の目を掻い潜り、こっそり軽い家事をしようとするもののクロニクに見つかってお小言を言われている風景が常になっていた。
と、そんな確執があったせいだろうか。
『月雫箱』に光が灯り、念話ではなくスピーカーモードで聞きなれた無機質な、それでいてどこか皮肉気な声が漏れ出す。
『そうでしょうか? 普通の人間なら問題はないでしょうがあなたは雪仔。雪のように脆いのですから。あと七つの夜が明けるまでは、寝ていたほうがいいと思いますよ。ほら、考えても見てください。折角、お父様が弟子に取ったあなたが基礎すら叩き込まない間に斃れるなどと笑い話にもなりませんよ。どうです? あなたもそう思いませんか、雪仔?』
「む……!」
その声を聞いた途端にザイシャは渋面になって『月雫箱』をキッと睨んだ。
「うるさいぞ礼装! そういう君こそ人の身体を持っていないではないか! 雪仔雪仔と莫迦にするな! 私だって、アンディライリーでは雑事の一切を預かっていたのだぞ! 君の言うほど私の身体は脆くはない!」
『はん。拾われ子の雪仔が仕事を押し付けられていただけでしょうに』
「なんだと……!」
また始まった、と老魔術師は眉間の皺を指で摘む。
ザイシャを助けた日。その思考を誘導するために冷たく当たっていたクロニクだったが、そのように雪仔を扱った一因には単純に馬が合わないという理由もあったようで、何かにつけて言い争っていることはこの二週間の内でも頻繁に見られた。
ボルチェイブも寂しい老人。多少賑やかになるのは嬉しいくらいだが、厄介なことに二人の喧嘩はボルチェイブが仲裁に入るまで終わった試しがまるで無い。一度もない。
説得の言葉のストックが切れたわけではない。七百歳オーバーの老獪な智慧はまだまだ天井知らずに在庫を残しているのだが、それでも、このやり取りが生涯、自分が生きている限りは続くのだろうと思うと少し気が遠くなるのが老魔術師の正直な感想であった。
いつの間にか貴殿という二人称がクロニクに対してのみ君に変わっているのは、ザイシャがクロニクに敬意を払いたくもないことの表れなのか、はたまた喧嘩するほど仲が良いとの言葉通りに少しは互いに打ち解けているだけなのか。
「礼装!」
『雪仔』
「礼装!!」
『雪仔』
きっと後者だろう。
終わらない礼装と雪仔の押収をバックコーラスにしながら、そう思うことにした。
思いたかった。
「はい! ストップ! ストッープ!」
手のひらから零れ落ちそうな希望から目を逸らした老人は二人の喧嘩を止めに入る。
すると、彼の言葉を待っていたかのように二人の言い争いはピタリと止まった。
ストップ、という言葉は本来この時代には存在していないためボルチェイブの写し身であるクロニク以外には通じないはずのだが、喧嘩を止めに来る老魔術師が毎度のようにその言葉を口にしていただろうか。ザイシャも、『喧嘩を止めろ』という意味の言葉として解していた。
老魔術師が犬の躾のようだと面白がっていられたのは最初のうち。日に日に、それこそ現在進行系で静止の命令は必死な物へとなって行っていたのだが、それはまあ、別の話である。
「とりあえず、話を戻して、いいかね?」
吸血なし、かつ全力で声を張り上げたせいかゼイゼイと息切れを起こしている老体。
やっとのこと紡ぎ出した言葉にも息切れの影響が残っている。
そんな、必死の形相の声に『月雫箱』は黙り込み、ザイシャは気まずそうに頷いた。
「よし……。ああ、すまない。ちょっと息を整える。すぅ……ふぅ……。これでよし、と」
なんとか平静を取り戻したボルチェイブは瞠目していた目を開いて本題に移ろうとする。
「二度目だが。さて、身体が治った、ということで私もやっと師匠らしいことが出来るようになったというわけだ。簡潔に言えば今日から君に魔術師としての鍛錬をしてもらおうと思う。だが、その前に確認したいことがあってね」
「確認?」
「ああ。テスト……じゃない。力試しだね。君が魔術師としてどれほどの力を持っているのか知りたい。それによって教える起点も変われば速度も変わる。つまるところを言えば、師匠として弟子の実力は把握しておきたいというわけさ」
「なるほど。それでは、私は何をすれば良いのだロォスト殿?」
「そうだねえ……。じゃあ、まずは基礎の強化魔術から見せてもらえるかい? クロニク、裏から薪を持ってきておいてくれ。この子の魔術を試させる」
老魔術師がそう命じると、『月雫箱』がその幾何学模様を輝かせ、小屋の隅に崩れるように置かれていた木偶人形の一体がガチャガチャと起き上がった。
『承りました。お父様』
冷たい声が一言。許諾と共に関節をガチャガチャと賑やかに鳴らしながら木偶人形は小屋の裏にある薪置き場へと向かっていった。
「準備が終わり次第、と言っても持ってくるだけだからすぐに始めることになるだろう。心の準備をしておきなさい」
老人がにこやかに言うと、ザイシャはなにやら言いにくそうな顔で、
「あの、ボルチェイブ殿。少しよろしいか?」
「ん? ああ、心の準備というのはあくまで言葉の綾だ。魔術師たるもの冷静であるべきだからね。私も君が失敗するなんてこと思っちゃいないさ」
「いや、そうではない。そうではないのだ」
目を泳がせながらザイシャは続ける。
「その……力試しは外でやりたいんだ。ええと、ほら。木くずを落とせば礼装がまた神経質に掃除を始めるだろう? なんというか、そういう気遣いは大事だと思うのだ。うん」
「……? まあ、別に構わないが」
そして、その数分後。
意を決した表情で強化魔術を使おうと試みたザイシャに続いた三景。
リバウンドによる爆発。
吹き飛ぶ腕。
血染めのクレーター。
それらを前にして、老人はやっとザイシャの真意を知ったのであった。
□□
『まさか、本当に七夜も延長になるとは思いませんでしたよ。雪仔』
翌日、魔術刻印による再生能力と霊地に埋められたことによる魔力の増幅により、なんとか片腕を繋いだザイシャが目を覚ますなりクロニクの皮肉が突き刺さった。
クロニクの言うとおり、運動厳禁絶対安静を固く言いつけられたザイシャは二週間寝ていたベッドに逆戻り。傷が治り、腕のリハビリが終わるまでの一週間は修行もお預けとなった。
「……今度こそは、出来ると思ったんだ」
『出来てないじゃないですか』
「うぐっ……」
拗ねたようなザイシャの呟きを即座にクロニクは切り捨てた。
無感情ながらどこか呆れたような声でクロニクは続ける。
『それで、あなたの師、もとい父である先代アンディライリー当主のレグゼがあなたに魔術を殆ど使わせなかったというのは事実ですか?』
「……本当だ」
『月雫箱』のそっぽを向くように、ベッドの上から壁側を見つめるザイシャはやはり拗ねたように呟いた。
「だが、それは父のせいじゃない。私は昔からこういうのが苦手で……。父が言うには、私の保有魔力が多すぎるせいだと。だから簡単に制御が途切れてリバウンドを起こしてしまう。故に、父のいないところでは魔術を使わないように言いつけられていたんだ」
『……なるほど』
納得したような色が無機質な声を染める。
『道理で十年……失礼。十の春を越した魔術師のあなたが、ここまで未熟だったわけですね。元より家督を受け継ぐ権利のない雪仔。レグゼがあなたに魔術を教えること自体が褒められたことではありません。彼があなたを指導できたのは道楽のように短い時だけだったでしょう。更に言えばあなたも雑事を押し付けられていたのですから、おそらく、あなたの魔術師としての経験は一つ春を越した魔術師のそれにも届いていない』
「………………」
『沈黙、ということは私の算出結果は正しかったようですね』
クロニクの淡々とした言葉を最後に静寂が二人の間に立ち込める。重苦しい沈黙に覆われたザイシャはその重みに耐えきれないように、抱えていた膝の間に顔を伏せた。
「…………失望、したか?」
ぽつりと、ザイシャの声が静けさを破った。
「あれだけ偉そうなことを言って、結局私は一人では強化の一つ使えない。君の言う通りさ。私は責任を背負う資格もない無力な雪仔だ。皆が私はアンディライリーを継ぐに相応しくないと言ったのも当然のことだよ。…………そうだ。何を、夢を見ていたんだ。私が雪仔ということに代わりは無い。皆に受け入れてもらう? 家族になれる? 出来るわけがないだろう! 最初からわかっていたじゃないか! ああ、本当に。……なんて、無様だ。滑稽極まりない。いつの間にか信じたふりをして、……父上だって、レグゼ様だってどうせ────」
『失望、ですか』
割り込むように。クロニクが鼻で笑うような音を立てる。
『思い上がらないでくれませんか。初めからあなたに期待などしていません。私にしてみれば雪仔、あなたはお父様が老いの暇を晴らすために迎え入れた手慰みのひとつに過ぎない。失望どころか、むしろ安心さえ覚えましたよ。お父様の背負い目指した崇高な命題を受け継ぐなど何人にも適わぬことだとわかりました。感謝しましょう、雪仔。やっと諦めがつきました』
吐き捨てるように『月雫箱』の灯りが消える。
一人、無音に取り残されたザイシャは、村の滅びを知ったあの日のように小さくその身体を震わせ続けていた。
□□
『と、いうのが雪仔の現状です』
村外れに位置する老人の小屋から更に万歩ほど踏み入った森の中にその荒屋は建っていた。
これはかつてボルチェイブの吸血衝動が今よりも激しかったころに住んでいた最初の家だ。今の小屋は晩年に作った第二のものである。若い頃の彼は隙間風や人の出入りなどについては特に気にしていなかったため新居よりも随分と雑な作りだが、死徒である老人一人が暮らすには十分だった。
さて、そんな旧い住処には人影が二つ。老魔術師ボルチェイブ=ロォストとクロニクが送り込んだ木偶人形の姿がひび割れた雨戸の隙間から見えていた。
木偶人形は簡素な作りの椅子に倒れ込むように寄りかかっており、『月雫箱』の中にあるクロニクが離れたボルチェイブに念話を通すハブ、つまり触媒として機能している。
そして、木偶人形を通してクロニクからザイシャの置かれていた状況を伝達された老人は、偏頭痛でも痛むかのように頭を抱えて悩んでいた。
「そこからかぁ……。あー、ちょっとその辺は私には難しいかもなあ」
『左様ですか?』
「うん。私は魔力量自体は並の方だったからね。制御も感覚で覚えてしまったし、覚えたのも随分昔のことだから教導するのも難しいと思うよ? 十歳と言えば身体が出来上がる途中段階だから一歩間違えれば成長や寿命を歪める可能性だってある。死ぬかもしれない」
『雪仔を魔術師に育てるのは不可能だと?』
「そうとまでは言わない。だが、終点の魔眼で軽く覗いただけで実に十万もの滅びが視えた。それもほんの一部だ。あんまり滅びが飽和しているからここまで逃げて来たことからもわかるだろう? 私が手を加えてザイシャが一年以上保つ可能性は億分の一にも満たない。リスクが高すぎるのだよ。そう。私が妖精コリャダの血を受け継ぐ以上は看過出来ないほどに、ね」
『では、諦めるのですか?』
「いや、そのつもりはない。せっかくやる気を取り戻したんだ。計画は続行する。……まあ、なんだね。今回は運が悪かった、ということだ。きっと次はある。アンディライリーのように後継者からあぶれる魔術師だって他にいるだろうし、それでもダメならお前がいる。私の研究が無駄に終わることは無い。そう、信じることにするよ」
『…………それでは、その場合ザイシャはどうされるのですか?』
「…………そうだな。いっそ、お前の身体に使ってみるかね? 肉の器を手に入れれば何かとインスピレーションも湧いてくるかもしれない。うん。それがいい。そうしよう」
『……………………ハァ』
無感情な声が、深く、深く、溜息をついた。
『却下します。雪仔の身体を纏うなど考えるだけでも虫唾が走ります』
「おや、それではどうしようか。無為に殺してしまうのは私の血が許さない。せめて、形だけでも有意義に整えたいのだけどねえ」
『却下、と。否定を述べたのはザイシャの死体の使い道についてではありません』
「……ほう」
老魔術師は興味深そうな声を漏らした。
『私が思うに、お父様。ザイシャ以上に優れた個体が現れるとは考えられません。また、その出自と孤独を嫌う性格に由来するコントロールの容易さも優秀。二点を兼ね備えることを必要性として代入すれば、あれを手放すのは極めて非効率と言わざるを得ません。他選択の帯びた将来性・確実性とザイシャを大成させる難度を天秤にかければ後者が圧倒的に容易いかと』
「では、クロニク。私の愛し子にして我が写し身よ。君はどんな提案をしたいのかね?」
『提案しましょう。私にお任せくださいお父様。必ず、ザイシャを魔術師にしてみせます』
「その言葉を違えたならお前はどうする?」
『お望みのままに、ザイシャの身体でもなんでも纏って差し上げましょう』
「────よろしい! お前に任せようクロニク」
喜色に満ちた父の声を受け、ガチャガチャと音を立てる木偶人形。
ぎこちなく、それでいて恭しく老魔術師に向けて一礼する。
『承りました。お父様』
そして、クロニクの声が途切れると共に木偶人形は崩れ落ちた。
荒屋に残る人影はただ一つ。
爛々と、その瞳孔を光らせて。
「…………そう。私が手を加えれば滅びの空隙は億分の一にも満たぬ。ああ。そうだとも……私が手を加えれば、ね」
滅びを見通し、時に人心さえ自在とする老獪な死徒は旧き住処でくつくつと笑う。
くぐもった笑い声を漏らしながら、『月雫箱』の魔力が通っていた木偶人形を見下ろした。
「ところで、クロニク。いつの間にかアレを雪仔と呼んでいなかった事に気がついたかね? 良い傾向だ愛し子よ。私の写し身でありながら、お前に私を父と呼ばせることで別個の人格として分化させ移植した魂を宿しこむことに成功した。だが、この私がどれだけ手を尽くそうと心や感情は獲得しなかった。そんなお前がやっと、それを手に入れたのだ。──素晴らしい。この上なく素晴らしいじゃないか! くっくくくくくっ……ああ、人生とは本当に、面白い」
歓喜か、狂気か。その笑声は夜を徹して森の底に谺する。
「ああ、素晴らしきかな。────これで、最後の駒も盤上に揃う」
そんな、誰かの声が、
□□
深夜、夢さえ見ない眠りに落ちていたザイシャの身体を何者かが乱暴に揺さぶる。
「誰……だ……?」
半分眠ったままに閉じられた瞼を薄く開けながら短い問いを投げつける。
その問いかけに、ガチャガチャとやかましく耳慣れた喧騒が答えた。
『起きなさい雪仔。あなたの魔術回路を調整しますよ』
「クロニク……?」
ザイシャを起こしたのはクロニクの操る木偶人形であった。
寝ぼけ眼と頭のままザイシャが疑問符のついた名前を呼ぶと木偶人形の動きが止まる。
「どうしたんだこんな時間に、それに調整って」
『言葉通りです。私が、あなたの、回路を調整してリバウンドの防止策とします』
「そんな、急に言われたって……それにロォスト殿からは魔術を使うなと!」
『お父様の許可は取っています。お早く』
「えっ……えぇ……?」
寝起きと唐突なクロニクの豹変のせいだろうか、ザイシャは目を回して混乱しているようでクロニクの促すままにベッドから立ち上がり木偶人形の後をついてくる。
『ここに手を置いてください』
木偶人形が指し示しているのはザイシャも見慣れた幾何学模様の箱。
クロニクの本体である礼装、『月雫箱』であった。
「……これは『月雫箱』じゃないか? 回路を調整するのではなかったのか?」
『いいですから。早く』
「いや、だって」
『早く』
「わ、わかった……」
何時になく語気鋭いクロニクに戸惑いつつもザイシャはそっと右手──魔術刻印が刻まれたほうの手──を『月雫箱』に触れさせる。
瞬間、同調開始という感情の薄い声と共にザイシャの意識が吸い込まれた。
気がつけば、真っ白な空間にザイシャは立っていた。
「ここ、は?」
「『月雫箱』の頭脳。内在の海。フォトニック純結晶体。記憶。記録。覗き窓。呼び名の候補は様々ですが、私は単に『内側』と呼称しています」
聞き覚えのある無感情な声。
しかし、その音に距離と方向があるという事実がザイシャに酷く違和感を覚えさせる。
「ようこそ雪仔。『内側』へ」
「クロニク……? いや違う、君は……私……?」
声のする方へザイシャが振り向くと、そこにはザイシャと全く同じ姿の雪仔が立っていた。
自分と瓜二つの人間が、ただ一つ声だけはクロニクのそれだということがアンバランスで、船酔いでもしたかのようにグラグラとした違和感が、どこか気持ち悪く思えた。
「私には決まった姿はありません。あなたが見ているのはあなたのセルフイメージ……失礼、あなたが思い描いている自己像を投影し視覚機能の不全を補完しているだけです。あまり気になさらずともよろしいかと」
「よくわからないが……とりあえず、君の本当の姿はそれではない、ということか?」
「間違いではありません」
さて、と鏡写しの雪仔が口火を切った。
「本題に移りましょう。あなたは現在、右手の魔術回路を通じて『内側』に接続しています。この状態を長く保つことは推奨しません。故に、あなたと接続を保てるリミットは約一時間。より正確に言えば説明終了予定時刻である三十秒後に五十五分十四・三秒の猶予を残します。私の算出したリバウンドの要因として最も可能性が高いものは魔術刻印が機能不全を発生させ適合者とのリンクを拒絶することによる魔術式の崩壊です。第二に魔力過多による制御不能については魔術回路の編成に異常が発生していることが予測されました。スキャン完了。以上の予測が正答であることが確定。対処プランを提示します。要因A、魔術刻印の不全。あなたの回路を経由し、身体保全機能にリソースを割かれ対侵入防壁が脆くなった刻印にハッキング、アクセスし先ほどスキャンしたあなたの身体データに合わせアンディライリーの刻印を書換えます。要因B、魔術回路編成の異常。この異常は後天的なものと診断されたため逆説的に本来の編成に回復し得る可能性を提示。二次スキャン終了。閉塞したままの回路が数本残ることが経脈に影響し異常をもたらしていると判断。強制的に回路を開き魔力の循環を正常化。以上。対処プラン提示終了。質問、または当処置を拒絶する場合は────」
「待て! 待ってくれ!」
「なんでしょうか?」
「早すぎるし何を言っているのかさっぱりわからない! ……が、クロニク。おそらく君は、私を治そうとしているのだろう?」
「はい」
「何故だ?」
ザイシャの言葉に、ザイシャの影がコテリと首を傾げた。
「何故とは?」
「何故って……君が言ったことではないか! 私には最初から期待していなかったと! それに君は私を嫌っていたはずじゃないか! そんな君がどうして私を治そうと言うんだ!」
「あなたも、その答えはわかっているのではないですか?」
瞠目しながらザイシャの影が答えると、ザイシャは顔を伏せて──まるで、何かの甘い期待を噛み殺してしまうかのように──声を絞り出した。
「…………ロォスト殿の、ためなのか?」
「あなたを助けたかったから、あなたのためだと、そう言って欲しかったですか?」
「…………ッ!」
見え透いていたと、暗にそう言われてザイシャは言葉を無くす。
ギリッ。『内側』に噛み砕かんばかりの切歯の音が響いた。
「礼装、私はやはり君のことが嫌いだ」
「意見が合うとは珍しいですね、雪仔」
ザイシャの目に憎悪が燃え盛る。
「……何かとつけてお父様お父様と! 主体性が無いくせに知ったような口を聞いて!」
「主体性がないのはあなたもでしょう。同族嫌悪。違いますか、雪仔?」
「話を逸らすな! だから私は、君のその口ぶりが嫌いなんだ!」
「また意見が合いましたね。私もあなたの感情的なノイズに侵された思考回路が嫌いです」
烈火の如く、あるいは氷雪の如く。二者は沈黙をぶつけ合う。
が、すぐさま影が馬鹿馬鹿しいとばかりに溜息をついた。
「やめましょう。堂々巡りです。さて、先ほど話したようにこれはお父様の意思です。つまりあなたにこの処置を受けない、という権利は存在していない。信用できない相手に受け継いだ刻印と自身の肉体を弄ばれたくないのはわかりますがここは大人しく────」
「……それは違う。逆だ。私は、今の君をこの上なく信じている」
影の言葉に割り込んでザイシャが妙なことを言った。
「…………? 別に、そんな嘘をつかずとも私はあなたを治しますが」
「違う!」
再び力強く否定し、ザイシャは影をまっすぐに見据えた。
「私は君が嫌いだ。判断を他人任せにしているくせに白々しく力不足を揶揄する君が嫌いだ。主体性が無いのは私もだと? 馬鹿馬鹿しい! 一緒にするな! 少なくとも私は選択した!本当は選ぶのを怖がっているくせに、さもそれが賢いような顔をして! なにが、お父様だ!お父様お父様お父様お父様……! もう、うんざりだ! 少しは己に責任のある言葉を話せ!私は、君のそういうところが、心の底から大嫌いだ!」
だが、と言葉を区切り、無表情の影を睨みつけながらザイシャは右手を伸ばす。
「だからこそ主体性をロォスト殿に押し付けた今の君を信用する。甘く見るなよ礼装。私は、アンディライリー家当主だ。例え魔術が使えなくとも、そうあろうと私自身が選択したんだ。人の好き嫌いに信頼の有無を依存するなど以ての外。冷徹に、平等に、我を捨て最善を選ぶ。それが、契約魔術をその身に宿す当主の振る舞いだと、他ならぬ私が選んだが故に」
まっすぐと伸びた右腕は、ザイシャがまた一つ自ら選択したことを意味していた。
今の今まで憤怒に満ちていたように見えた赤い瞳はエゴを乖離させ、理性に澄んでいる。
影への否定はアンディライリー当主としての誇りのために。
そこに立っていたのは、齢十の幼い雪仔などではなく一人の魔術師であった。
「……なるほど。影、ですか」
やれやれとザイシャの影は頭を振る。
「完敗ですね。此度は負けを認めましょう。雪仔、あなたは正しく魔術師です」
「そして、魔術師にならなければならない。────礼装、私を魔術師にしてくれ」
迷いのない、心底から信頼するまっすぐな瞳。
「承りました」
ザイシャと対照的に、ザイシャの影は静かにその手を取った。
同時に、ザイシャがその右手から0と1に還元されていき、その影もまた姿を投影する視点を失ったことで解けていく。
「目覚めた時にはあなたは魔術師。お父様の教えは生易しいものではありません。ですから。おやすみなさい、雪仔。今のうちに、甘く、楽しい夢を味わっていなさい」
「望むところだ、礼装。そしてアンディライリーの名に誓おう。いつか、この恩は必ず返す」
強い意志を宿した瞳が最後に数式に変換され、観測者を失った『内側』は光を失い虚とも闇とも取れぬ場所へと姿を変えていく。難攻不落かつ繊細至極な魔術刻印へのハッキングに向け、クロニクの自我もまた計算領域の一部として『内側』の中に溶けていった。
……そして、残った苛立ちはやはり自分の感情で。
わかっていた。この怒りが内向きであることも、発端が雪仔への罪悪感ということも。
クロニクはザイシャの身体を治すことで初めて覚えた罪悪感を解消しようとしていたのだ。
怒りは思うようにならないザイシャへのもどかしさと、同時に、こんな方法で一方的に禊を晴らそうとしていた自身への憎悪から湧き出たもの。
なんて、勝手で卑怯なのだろう。笑ってしまうほど滑稽な独りよがり。
奪った未来と与えた未来が等価でないことは、とっくに知っていただろうに。
それでも、と。
────これで、あなたから奪ってしまったものを少しは返せたのだろうか?
語る先を持たぬ問いは、計算領域に飲まれて消えた。
□□
乾いた軋みが早朝の森に響いた。
音の源はザイシャが両手で抱えた一本の薪。それが、太い木の枝をへし折った音だった。
「やった、やったぞ! 見ろクロニク! 私もちゃんと使えた! 魔術師になれたんだ!」
感涙寸前の喜び様のザイシャ。が、クロニクの冷ややかな声がそれに水をかける。
『強化魔術程度で何を喜んでいるのですか。確かに物体、人体ともにリバウンドの兆候すらも無く発動できていましたがあくまで基礎の入り口に過ぎないとわかっていないのですか雪仔。全く、これだから雪仔には困ったものです』
「な、なんだとっ! ……いいだろ喜んだって。初めてまともに魔術を使えたんだぞ!」
ほら! とザイシャはもう一度刻印を励起させ薪を強化してみせる。
二度目の軋み。先ほどより重いそれはより太い枝を折ったと教えている。
が、クロニクはそれを無視して、
『しかし魔術師、ですか。お父様の領域に達せねばその呼称を当てるのは気が引けますね』
「待て礼装! この前、私のことを魔術師と認めてくれたのは嘘だったのか!?」
『ああ、そうですね。魔術師は魔術師でもへっぽこが頭につきますが』
「君はまたそんな屁理屈を……!」
礼装! 雪仔! 礼装! 雪仔! と、いつもの騒がしさが寂しい村外れの小屋に響く。
だが、気のせいだろうか。
その喧騒は少しだけ、以前よりも楽しげに聞こえた。
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「へぇ、それでちょっと遅れたわけだ。まったく、僕(こなた)はすっぽかされたかと思ったぜぇ親友?」
グロースがレストランに到着し、遅刻の非礼を詫びた頃には既に友人は出来上がっていた。床に転がる錚々たるワイン瓶の数々が尋常ではない酒量が消費されたことを物語っている。
およそ一世紀来の旧友は、ほんのりと酔いを見せた顔へにやにやと胡散臭いチシャ猫のような笑みを浮かべながら彼を迎えた。
「私はビジネスマンではなく魔術師だ。少しくらいの遅れは許してはくれないか」
「そりゃあないだろ親友。確かに君(そなた)は魔術師だけど僕(こなた)たちは親友だぜぇ。親しき仲にも礼儀ありってやつさぁ。親友だからこそ時間は守らないと。それにぃ、僕は君に捨てられたんじゃないかって思うだけでも胸が張り裂けそうで辛かったんだよぉ? この痛みは一晩くらい君が付き合ってくれないと癒えないかもなぁ……」
「その程度ならば仔細ない。……時間は五分前だったはずだがどのくらい待っていたんだ?」
「三時間と五分」
「…………」
「君と会えると思うだけでわくわくして三時間過ぎるのはあっという間だったなぁ……。でもさぁ……その後の五分は一秒一秒が身を切られるように思えてきもう泣きそうだったよぉ……」
「……………………そうか」
友人の奇行には慣れていたつもりだったが時々こうして予想もつかないことをしてくるから驚かされる。グロースがこれまで聞かなかっただけでいつもこのくらいは待っていたのかもしれない。度し難いものだと溜息をついたグロースは帚木輝日宮の隣に座ると辺りを見回した。
待ち合わせ場所となっていたレストランは自分たち以外に人影がない。おそらく友人がこのホテルごと貸し切ったのだろう。
「大丈夫だよぉ。今日一晩は誰も入らせないように言ってあるからさぁ。ついでに『无名』で魔術的な干渉も物理的な干渉もシャットアウトしたから密談には最適さぁ。…………でさ! 話ってなんだい? コイバナ? 卒業旅行? それとも親友にしかできない秘密の相談とか?」
「似たようなものだ」
「デジマ!?」
「……そこまで喜ぶことか?」
「当たり前だろ! いいかい親友! 親友ってのは秘密を打ち明けることで更にワンランク上の親友になれるんだぜ! ああ、嬉しいなぁ。こんな日がぁ、君から僕に秘密を話してくれる日が来るとは思わなかったよぉ!」
急にテンションが高くなった輝日宮はグロースに詰め寄ると若干食い気味にまくし立てる。グイグイとトリガラのような身体が押し付けられてとても痛いし顔が近くて居心地が悪い。
「離れろ」
「ひゃん!」
胸元を殴ると奇声を上げた輝日宮は身を翻して床に座り込む。
そして両手で胸をかばうとなぜか頬を染め目を潤わせてグロースを上目遣いで見上げた。
「だ、だめだよぉ親友……確かにそういう仲に進むのもいいかもしれないけど僕らにはまだ早いっていうかぁ……。それに初めてが外っていうのはマニアックすぎないかなって……も、もちろん君が望むなら僕は受け入れるんだけど……!」
「………………」
グロースは友人のこういうところが苦手だった。
■■
「ところで、お前は私の本名がグロース=アンディライリーではないことは知っていたな?」
「ああ。それは前に聞いたねぇ。その本名ってのは教えてもらってないけどさぁ」
数分後、馬鹿笑いとともに正気を取り戻した友人と向かい合ってグロースは本題に入った。
先程までの様子はやはり悪ふざけだったようで、仕切り直してからはおくびにも出していない。むしろ、五本目のワインをラッパ飲みしている姿には既にいつもの胡散臭さを纏っていた。
「で、それがどうしたんだぁい? 別に君がどこかに追われてようが非干渉地帯の紋章院なら問題ないしねぇ。地域によっては魔術師としての新たな名前をつけてそちらを名乗るようにする風習もあるさぁ。だけど、たぶん君が本名を隠す理由ってそういうことじゃないんだろぅ? なにより僕に言う理由もないよねぇ」
バリボリと齧っていた煎餅をワインで流し込んでしまうとグロースに向けニマリと流し目を送り背後に空の瓶を放り投げた。そしていつの間にか手にしていた新たなワインボトルを掲げるとガラスが砕ける音に重なって瓶の首が切断される。
「まぁ、そっちは別として僕に急いで会いに来た理由はわかってるよ。君、バレちゃったんだねぇ。秘密。たぶん次女のぉ……ああ! ザイシャちゃんだっけ! 確か君の記憶を納めた『月零箱』が溶け込んでたはずだ。僕の想像のつく限りではあの子お得意の契約魔術でも応用されて『月零箱』にハッキング受けたってところかなぁ? ……くふふ、くふふふふふふ。君の娘らしくなかなか強かじゃないか」
「本題とは関係ない話だがな。最上位権限が必要なものは無事だったが、偽装IDで他の機密はあらかた抜き去っていったよ。『第三呪詛』に適合する以上の才は無いと侮っていたが…… いやはや、人の可能性とはわからないものらしい」
「いいねぇ。ザイシャちゃんかぁ……うちにスカウトしちゃおうかなぁ……?」
「あの子はフリーランスの魔術師だ。誘いたいならお前の好きにしろ」
グロースがそっけなく言うと輝日宮はつまらなさそうに頬杖をつく。
「いいのかい? ザイシャちゃんがスコーパリアに来たら逃さないつもりだけどぉ?」
「挑発には乗らん。お前に雇われてもあの子なりにやっていくのはわかっている。お前がそうさせることもだ」
「へぇん。君もつれない男だねぇ……。まぁ、そういうところが好きなんだけどねぇ僕も」
鼻を鳴らし、ワインボトルを咥えて喉を鳴らすとまた背後に向けて空になった瓶を放り投げた。今度は手元は空のままだった。酔っているのか少しふらつきながらテーブルの向かいのグロースのところへ近づいていく。
「それでぇ? だいたい依頼内容は想像つくけどぉ何を頼みたいんだぁい?」
「想像がつくのに言う必要が?」
「僕は君のことならなんでも知ってるよぉ? なんでもわかる。親友だからねぇ。君だけしか知らないことだって、千年くらい君のことを思い続けてる僕なら思いあたるさぁ。ほらぁ、長年一緒に暮らした夫婦は言葉一つで意思疎通できるって話あるだろ? あれと一緒だよ。僕は君を愛してる! 君が僕をどう思っていたとしても、僕にとっては世界で一番の親友だよ! だからわかる。今日、君が僕に会いに来た理由も。これから何を託そうとしてるのかも。全部、ぜぇんぶねぇ。……でも、それじゃあ寂しいじゃないかぁ親友。僕がコソコソと探った秘密と君が打ち明けてくれるそれは別物だ。万年筆で書き連ねたのが僕でも君でも、言葉の裏にある事実は全く一緒だってことは十分にわかっている。でも、わかっているからこそ」
危なっかしく近づいてくる友人を横目で追っていると輝日宮はグロースの隣の椅子に勢い良く座り込んで来る。そして、視線に気がついたのか、にへらとしてグロースにしなだれかかり、濡布をかぶせたように輝日宮の肢体がぴったりと吸着した。
一センチ先まで近づいた幼い頬は朝焼けのように紅潮し、目は爛々として、唇は紅も入れていないのに血のように赤い。かすかな膨らみがグロースの腕を包み、心なしか耳にかかる寂しげな息までがどこか熱を帯びているように思えた。
「君の口から聞きたいのさぁ」
今日くらいさ、と。泣き出しそうに潤んだ輝日宮の瞳がまっすぐグロースを見ていた。
掴まれた腕は万力のように引き絞られていて逃がす気は欠片もないらしい。
「…………はぁ。いいだろう」
グロースは溜息をついて肘を曲げると友人の胸元を突き上げた。
すると、「ひゃん!」という聞き覚えのある奇声に続いて、足元で先程の茶番を焼き増ししたような姿の輝日宮が彼を見ていた。やはりまた悪ふざけを始めたのだろう。そう判断してチシャ猫のように笑っている輝日宮に構わずに話を始めた。
「それでは依頼の前にひとつ、希望通り昔話をしよう。あれは、アンディライリーという姓がただひとりのものであったころ。老魔術師ボルチェイブ=ロォストとその礼装クロニクの話だ」
とある、冬に閉ざされた大地。
煙突から黒雲を吐き出し続ける、村外れの森の粗末な小屋にて。
□□
朦朧とした意識の中に誰かの声が木霊した。
『…………様、…………様。起きて……様……』
聞き慣れた幼い声がパスを通じて、靄がかった思考の中へ響く。
声変わり前の少年にも似た色の声は先程から絶え間なくその言葉を繰り返していた。
眠いから起こさないでくれ、との意味を込めて二、三度唸ってみたが声は止むどころかますます間隔を狭めていく。
ようやく、安楽椅子でうたた寝をしていたボルチェイブ=ロォストはゆったりと目を開けた。
いつの間にか暖炉の火はまだ消えていないが熾火というにも小さすぎるくらいになっているがパチパチ爆ぜる心地よい音はいまだに残っていて、彼も釣られてウトウトと船を漕ぎかけた。『お父様、お父様。……お父様! 起きてください! お父様!』
「……ああ、私は起きているよクロニク。そう目覚め越しに怒鳴らないでくれ」
『それならば最初から返事してください。そうでないと私にはわかりません』
「すまないなぁ。もう私もずいぶん年だから、鈍くなってしまったんだよ」
森に降り積もる雪のように深く、ネコヤナギの新芽のように張りのある、それでいて枯れ落ちた白樺のように老いに満ちたバスヴォイスが狭い部屋の中に響いた。どう見積もっても三十代くらいにしか見えないこの男の口から発せられたとは思えない奇妙な声だった。……当たり前だ。彼の見かけは若々しくても、近くの村で一番の長老よりも長く生きているのだから。
おとぎ話に現れる化物。吸血鬼やドラキュラ、ノスフェラトゥとも呼ばれる幻想の王たち。つかの間の夜と、死を忘れた身体に永遠の春と快楽を謳歌する霊長の超越種。ボルチェイブもその末席に在る者であり、かれこれ数百年前に魔術で死徒になってから先はこの姿のままだ。
が、死徒と言ってもボルチェイブは他の死徒たちのように徒に人を殺めたり、ましてや死都を作ろうとはしない。人の幸福を歌う妖精コリャダの血を半分継いだ彼にとって利己のために他人を害することなど基本的にはもっての他。身体を保つために不可欠な人間の血も、村の病人を診たときに瀉血したものを大事に使っているくらいだ。時たま血を盗むこともあったが、傷は念入りに治すし、代わりに豊穣の呪歌で村を祝福しているのだから駄賃のようなものだ。
なぜそこまでして生きていたのかと言えば、達成するべき命題があるからに他ならない。
ボルチェイブの挑む命題、それは『第六魔法への到達』だ。
いや、どちらかといえば『人類全てが幸福になること』といったほうが正しいかもしれない。
絵に描いたような話だが、しかし彼にはそこに到達し得るだろう才能もあった、受け継いだ知識も技術もあった。安易な言葉だが彼は天才だったのだ。その天才が生涯を捧げ書き上げた譜面は完璧で、非の打ち所もないもので。……それでも、手を届かせることは叶わないまま、気づけば劣化をなんとか留めていた魂もゆったりと腐り落ちてきた。
結論から言えば時間が足りなかったのだ。
あと数百年も時間があれば命題は達成されていただろう。あるいは、彼の意志を継いでくれる後継者が一人でもあれば芽は残っていた。問題はその両方を持ち合わせなかったことだった。
伴侶を得なかったことを後悔する日が来る、などと昔の彼が聞けば鼻で笑っただろう。
ボルチェイブ=ロォストは誰もが認める天才中の天才で、それは若き日の彼も例外ではない。彼自身、自分の後のロォストに己以上の才を持った者が現れるなど毛ほども信じていなかった。
傲慢で、慢心と過信に満ちていた。だが、その若さが許されるほどの才が備わっていたのもまた事実。仮に、ロォストの血を百代重ねようと彼一人に及ばなかっただろう。
しかし、若き未熟は熟れる日が来るからこそ許されるもの。未熟の時間が長ければ長いほど
痛烈なしっぺ返しがやってくる。その理のうちにあるのは彼も例外ではなかった。
"己以外の誰にそれが成し遂げられよう"
そう才に溺れて後継者を育て未来に託すという魔術師の当前さえ失念し、人並みの幸せさえ必要ない、人ならざる身の己が長き生を注ぎ込めば時間は足りる、そう思いながらはや七百年。
計算の果て、己の寿命と命題の結実までの時間がどうやっても釣り合わないことを理解した。
そうして、永き熱狂から冷めた先には、死徒化で生殖能力を失って、他に後継者の宛もない偏屈な老人が、歌う者の永劫現れることのない譜面の山に見窄らしく埋もれているだけだった。
残された時間はせいぜい保って二十余年。
十分な魔術回路と、彼の後継に足る才覚と適正を持つ人間を見つけ、ロォストの魔術師へと育て上げるまでにかかるだろう年月に比べれば流れ星の煌めきが空に弧を残すほどしかない。
では、魂が腐敗しきった後も延命して自分でもやり遂げるか。それもダメだ。完全に腐ってしまえば想定していたようにはいかないだろうとはボルチェイブもよくわかっていた。
ボルチェイブが人類の敵対者である死徒になった後も人を救おうと思えるのは、人であった頃の魂が残るからこそ。故、朽ちれば願いが歪む。それでは、譜面の中にノイズが混じる。
だから決めたのだ。もう何もしないということを。
熟すること無く腐り落ちた生涯を受け入れ、空虚な生の終わりを待ち続けると。
平たく言ってしまえば、彼は隠居することにしたのだ。
彼をお父様と呼ぶクロニク──数百年かけた研究の中で唯一完成した彼の命題への解答要素、『月雫箱』に宿った人格──と共に。
それでも、未だに生涯の成果が奏でられる日を夢に見てしまうのは未練だろうか。
人類救済の『はじまりの歌』へ至る譜面は焼き捨てたが、それらを全て記憶させた『月雫箱』が残っていれば同じこと。
それが無意味だとわかってはいるのだ。わかっていても、文字通り全てを費やして後一歩に肉薄したはずの未来を、もう届かないからと割り切れるほどボルチェイブは強くなかった。
「ああ、本当に。なんと無様だ」
『どうかされましたかお父様?』
「いや、気にしないでくれ。ちょっと独り言を言っていたんだ」
『……あまり、そう思いつめないでください。お父様が朽ちても命なき私は残り続けます。ならばいつかお父様を継ぐ方が……』
(────その日を、夢見てしまうからこそ無様なんだろうね私は)
昨日より摩耗していることを知りながらも未練を捨てきれない自分を恥じて、もう後一歩を踏み出せたイフを夢に見る毎日。枯死しかけた思考は耄碌してしまった老人のように何時間も安楽椅子から暖炉の火が燃えるのを見て過ごしていたし、血を摂取する頻度も研究に励んだ頃より格段に減って、今や外に出るのは、歌を歌うか、村人に薬を作ってやるかくらいのもの。
最近は起きているのか寝ているのかも自分ではわからなくなってきて、来客のたびにクロニクに起こされるようになってきた。今日もまたクロニクに呆れられ、年を取ったと実感しながら、ボルチェイブが積み重ね無駄にした物の一端を来客に披露する。
そんな、いつもの一日のはずだった。
□□
「それで、クロニク。もしかして私は来客を待たせてやしないだろうか? 一昨日のようにずっと待たせてしまっていたなら悪いことをしてしまった」
ふわりと欠伸をしながら立ち上がったボルチェイブは暖炉の薪を足し入れながら尋ねた。「外で凍えていないといいんだが……」暖かな日にやってきた幸運な来客を思い出していたのだ。
すると、クロニク──つまり安楽椅子の隣の黒い正方形、礼装『月雫箱』──が彼を起こした時のように念話で応える。
『いいえ。今日のお父様は不思議なくらい素直に目覚めました。普段の待ち時間に慣れされた村人なら自分が妖精に悪戯されていることを疑うほどに』
「それは良かった。私だけなら、年寄りだからゆっくりでいいのだけど。この季節は早ければ早いほどいいのだからね」
『そういうものですか?』
「ああ。そうだ。吹雪が終わるのも、暖かい家に帰るのも、春が来るのも、どれも早いほどいいものなのだよ。さ、クロニク。ドアを開けてお客様を家に入れておやりなさい。きっと、暖炉に当たるのも早い方がいい」
『わかりました』
クロニクの返事に続いてドアに回路のような模様がフッと浮かび上がる。
すると、実に不可思議なことに何の力も加わっていないドアがひとりでに動いて軋みを立てながら開く。ボルチェイブはそれを気に留めず膝にかける毛布を畳み、鍋を火にかけて客に出す湯の容易をするとまた安楽椅子に戻る。そして手を組んで一度瞠目すると、椅子を揺らしながらドアの向こうから入ってくる彼もしくは彼女に目をやった。
来客は雪除けらしきボロボロのマントを羽織った子供のように小さな人影で、腰に届くような長髪のせいもあってひと目見ただけでは性別不詳であった。それでは、精嚢と毛髪のどちらに魔力が溜まっているかで見分けようか、とまで思った時にようやく気がついた。どうやら、客人はボルチェイブと同じく魔術師のようだ。
「……貴殿は、魔術師のボルチェイブ=ロォスト殿で、よろしいか?」
魔術師は間口に立ちん坊のまま、掠れた声でそう言った。
一瞬、寒さにやられて声を枯らしているのかと思ったが、腐りかけの魂から湧き上がる食欲に気がついたボルチェイブは、少し鼻をひくつかせると途端に表情を固くして枯れ木のような身体を安楽椅子から飛び上がらせた。父の異変を受けて『月雫箱』から声が響く。
『お父様?』
「クロニク、扉を閉めて結界を発動させなさい。人払いと『炎囲』、それと『呪檻』もだ」
『了解しました。お父様は?』
「歌って来る。……ああ、そうだ。忘れていた。結界の立ち上がりを確認できたら彼に治癒の魔術を施してやってくれ。腹の空く匂いでわかったが、どうやらひどい怪我をしているようだ」
『了解しました』
クロニクに指示をしながら戸棚を漁っていたボルチェイブは、なにやら黄色っぽくドロリとした液体で満ちた木壺の中から赤く染まった白樺の皮を取り出すと思い切り噛み千切った。
瞬間、身に纏った温厚な雰囲気は霧散し、充血した眼が血のように朱く染まると共に老人は突然肉食獣にでもなってしまったように獰猛な気配を漂わせ始めた。
……いや、なってしまったのでは無い。これが本来の彼だ。傲慢と慢心に満ち、人の救済を願いながら博愛を忘れたロォストの鬼子。人を傷つけることを厭うコリャダの血を引いていたがために抑えられていた死徒としての本能が血の薫香によって目覚めたのだ。
白樺の皮に染み込んだ血に酔うボルチェイブは、眼をギラつかせて黒曜石のナイフを乱暴に引き抜くと指の腹を浅く切り裂いた。微かに痛みに顔をしかめるとゆっくりと深呼吸して我を取り戻す。全力で歌うには血が必要だったがこのままでは怪我人を襲いかねなかったからだ。
「……はあ、こればかりは一生慣れなかったな。仕方のないことだが」
自嘲するように笑ってナイフの血を払うと、『月雫箱』から念話が飛んできた。
『お父様。『炎囲』『呪檻』ともに起動準備完了しました。戸を閉めると同時に起動します』
「ありがとうクロニク。それでは、行ってくる」
『お気をつけて』
「うん」
歌うだけのことで気をつけても何もないだろうに。なんて考えながら後ろ手に扉を閉めると指示していた通りの結界が小屋の周りに張り巡らされる。
ひとつは人払い。村人が巻き込まれないように他より先に展開されていた。ひとつは『炎囲』。迎撃用の結界。そして、最後のひとつ『呪檻』。小屋周辺と森全体をそれぞれ覆うように二重に張り巡らされた大小の呪い除けの結界は防御に使うものではなく……。
「さて、これを歌うのは久しぶりだが……上手く歌えるだろうかねえ。でも、呼ばれもせずに勝手にやってきたのはそっちなんだから多少下手でも我慢してくれよ」
トントンと足で拍子を取りながら二、三度呼吸を整えると冬の森の空気の乾いた匂いの中で自己主張する悪意と敵意の鼓動に向けて老魔術師ははにかみ(・・・・)ながらお辞儀をした。
「それではご清聴いただこう。攻性呪歌第八番『落葉』より『鳥兜』」
二つの呪い除けの結界の狭間に、呪歌が響いた。
□□
吐血して倒れる死体ら全て鼻を頼りに探し、小屋まで運び終わった頃にはすっかり日が暮れていた。息を忘れた血袋たちの首をナイフで掻き切り、白樺の皮を詰めた水瓶へと流し込んでいつも通り保存の魔術を掛けたボルチェイブは戸を開けて小屋に入ると、粗末なベッドに寝かせていた怪我人が横になったまま彼を見ていた。
「君の追手のことなら安心しなさい。皆、もう君を追ってこれないところに行ってしまったよ」
「……すまない、ロォスト殿。貴殿を巻き込んでしまった」
「気にしないでくれ。こう見えて私もかなりの年寄りだ。失って惜しい命はとうに忘れたさ」
たぶんね、と付け加えると薬草をベタベタと貼られた若き魔術師に向かって笑ってみせた。
「どうにも君の追手も魔術師のようだったから構わず始末してしまったが、何か訳でもあるのかい?」
「……すごいな。そんなことまでわかるのか。父に聞いていた話は本当だったようだ」
「まあ、死徒だからね。それにこの一帯は私の工房のようなものだ。森に誰かが入れば魔術師かそうでないかくらいの区別はつく。ところで、父と言ったね。お父さんから私のことを?」
「レグゼ様──父が貴殿についてはよく話していました。なんでも、この辺りの森には未来を見通すこともできる素晴らしく腕の立つ魔術師が数百年も昔から工房を構えていると」
「そして、その才能を未来の人々を救うだのとよくわからない妄想に費やしていると?」
「…………はい」
「ははは。これは手厳しい」
七百年も昔にロォストの者たちに同じことを言われたのを思い出して老魔術師は笑った。
当然だ。今はまだ根源が近い。誰ひとりとして滅びの未来など予期しない。
……いや、そもそも人類などという括り自体がこの時代には存在しない。アンディライリー氏がボルチェイブの考えを理解出来なくて然るべきなのだ。少なくともこの地でそれを解せるのは限定的な未来視を持つボルチェイブと、あとは助手代わりのクロニクくらいのものだろう。
ボルチェイブが後継者作りを諦めた理由のひとつがそれだ。この時代では早すぎる。だから誰もボルチェイブの命題の重要性を理解できないし受け継がれたそれが実行されるはずがない。彼が自分ひとりで成し遂げることに固執していたのも同様である。
「さて、巻き込まれたには理由を聞きたいな。君がなぜ追われていたのはわかっているが私のところにやってきた理由がいまいち掴めないのだよ」
「私が追われていた理由はわかるのですか?」
「うん。手当をしたときに君の腕に刻印があった。で、追手の彼らにはなかった。そして血の味が似通ってたからね。たぶん、後継者争いで君が選ばれたことを不満に思い襲ってきたとかそのへんだろう? 違うかい?」
「………………」
ポカーンと若者は口を開けて尊敬の眼差しをボルチェイブに向けていた。
ふふんと得意げにボルチェイブが鼻を鳴らすと、
『一つだけ訂正するとすればその仮説はお父様でなく私が算出したということですね』
「うぐっ」
冷ややかなクロニクの声がボルチェイブを刺した。
「だ、誰だ?!」
一方で若者は上半身を持ち上げて壁にもたれかかりながら、警戒するようにキョロキョロと小屋の中を見回した。反撃の用意を始めているようで魔術回路が淡く光っている。
『落ち着いてください。私はクロニク・ナビ・ナバ。そちらの老人の使い魔のようなものです。お父様があなたを害する気がないのなら敵に回るつもりはありません。少なくとも、今は』
「使い魔……? それにしては姿が見えないが……」
『すぐ近くにいますよ。具体的に言えばあなたの隣に』
「隣……?」
若者はボルチェイブに向けて胡乱な表情を向ける。
ボルチェイブがフルフルと首を振ると目をパチクリさせて首を傾げた。
「あの、もしや貴殿が私をからかっているのか?」
「私はからかってなんかいないさ。私の下だよ」
『お父様が座っているものが見えませんか?』
ハテナマークを浮かべながらベッドから身体を伸ばす若者の前でボルチェイブが立ち上がる。すると、そこには老魔術師が椅子代わりにしていた箱のようなもの。幾何学模様が入った大きな直方体状の鉱石、『月雫箱』が鎮座していた。
「…………ロォスト殿は変わった使い魔を使うのだな。いや、貴殿には驚かされるばかりだ」
『正確には使い魔ではなく礼装です。が、あなたの認識なら使い魔が近いかと思いまして』
「もう、なんだか、すごいなぁ……ロォスト殿の手にかかれば礼装も喋るのか……」
既に驚きも品切れになっているのだろうか。若者はしみじみとそんなことを言うと、何やら自分を納得させるようにコクコクと頷いた。
『驚かせるつもりは毛頭なかったのですが』
「楽しんでくれるならいいじゃないかクロニク。それと、これだけ動けるようなら食事も喉を通るだろう。傷を治すには食事が一番だ。話の続きはそれからだ」
『間違って人肉や血を出さないでくださいね』
「出すわけ無いだろう! 私もそこまでボケちゃいないぞ!」
『どうですかね。現に大事なことを聞き忘れておられませんか?』
「えっ、なにかあったかな?」
首を裂いたナイフはもう洗ったし、などとボルチェイブが指折り数えているとクロニクは呆れはてたように溜息をついた。
『お客人。食事の前にひとつ質問しても良いですか?』
「あ、ああ。構わないぞクロニク殿」
『あなたの名前は?』
あっ、とボルチェイブと若者が同時に声を漏らした。
「ああっ、ごめん! 聞こうと思っていたのにすっかり忘れていたよ!」
「い、いや! ロォスト殿は悪くない! 押しかけておいて名乗りもしない私の責だ!」
そんなことはない、とボルチェイブが言い返そうとしたちょうどその時、クロニクの非常に白々とした思考がパスを通してボルチェイブに伝わり、老人は口を閉ざした。
が、わたわたと慌てる若者は老人の様子に気づかないのか、なおも食い下がろうとする。
『堂々巡りで話が進みません。いいから名乗ってください』
……ところをクロニクに切り捨てられた。
「そ、それもそうだな。うん。悪かった」
冷ややかなクロニクの声に促された若者は腰まで届かんばかりの美しい白髪をたなびかせ、その髪と同じく真っ白な肌の中で燃え上がるように赤く煌く瞳をボルチェイブに向けると、
「私はレグゼ=アンディライリーの子、ザイシャ。ザイシャ=アンディライリーだ」
そう、誇らしげに名乗りを上げた。
「ザイシャ……?」
「ザイシャだ」
「…………君(そなた)、僕(こなた)をからかってやしないよね?」
あ、『月雫箱』の位置を聞いてるとかそういうウィットに飛んだジョークじゃないからね、と帚木が付け加えると「そうか……」とグロースはどこか残念そうに顔を背ける。
やっぱりかー、とちょっと呆れながらワイングラスを弾いて次のワインの首を切り落とした帚木はテーブルの上に積もったツマミの残骸を『胡乱』に放り込むと、心底残念そうに溜息をついたグロースの目の前──つまりテーブルの上に──尻を乗せた。
「でぇ、そのザイシャくん? は、君の作り話や脚色じゃなくて実在したわけかい?」
「私がお前に嘘をついたことがあったか?」
「ないねぇ。いつでも本当のことを言うのが君の役割。嘘をつくのは僕の役割だ」
でもさぁ、と帚木は続ける。
「いや、ほら。君結構ジョークの類好きだし、よく使うだろ? だから確証ないなぁって」
「だがこれについては」
「さっきだってぇ、質問をジョークに持ち込もうとしたしぃ? やっぱ僕も思うところは──」
「……………………」
(あっ、やばぁ。本気で傷ついてるわぁこれぇ)
急激に覇気を失ったグロースは捨てられた子犬のような様相を醸し出す。
「そうだ、な……。すまない、帚木。今日はここまでにしよう。話の続きは日を改めて──」
「ああ帰らないで帰らないで! ごめんよぉ僕が悪かったからさぁ! 信じる信じる! 君の言うようにザイシャくんはいたんだね! いやぁすごいねぇ偶然の一致なのかなぁ!」
覇気どころかクロニクを残して『月雫箱』に戻ろうとするグロースを慌てて引き止めると、グロースは扉の隙間からおっかなびっくり覗き込むようにほんの少し彼の気配を覗かせる。
「…………本当にそう思っているのか?」
「僕が君に嘘ついたことあるかい?」
「…………嘘をつくのが役割だとさっき言った」
「──あったね! あっ、そうだあれだ。さっきのが嘘だったということだよぉ。ね? ね?」
「…………嘘をつくのが役割だとさっき言った」
「もー! たまに拗ねるのほんっっっと面倒くさくて可愛いなぁ君はぁ!」
……結局、グロースの機嫌を取り戻して話を再開するまでに十分ほど掛かった。
「ザイシャだ」
「…………君(そなた)、僕(こなた)をからかってやしないよね?」
あ、『月雫箱』の位置を聞いてるとかそういうウィットに飛んだジョークじゃないからね、と帚木が付け加えると「そうか……」とグロースはどこか残念そうに顔を背ける。
やっぱりかー、とちょっと呆れながらワイングラスを弾いて次のワインの首を切り落とした帚木はテーブルの上に積もったツマミの残骸を『胡乱』に放り込むと、心底残念そうに溜息をついたグロースの目の前──つまりテーブルの上に──尻を乗せた。
「でぇ、そのザイシャくん? は、君の作り話や脚色じゃなくて実在したわけかい?」
「私がお前に嘘をついたことがあったか?」
「ないねぇ。いつでも本当のことを言うのが君の役割。嘘をつくのは僕の役割だ」
でもさぁ、と帚木は続ける。
「いや、ほら。君結構ジョークの類好きだし、よく使うだろ? だから確証ないなぁって」
「だがこれについては」
「さっきだってぇ、質問をジョークに持ち込もうとしたしぃ? やっぱ僕も思うところは──」
「……………………」
(あっ、やばぁ。本気で傷ついてるわぁこれぇ)
急激に覇気を失ったグロースは捨てられた子犬のような様相を醸し出す。
「そうだ、な……。すまない、帚木。今日はここまでにしよう。話の続きは日を改めて──」
「ああ帰らないで帰らないで! ごめんよぉ僕が悪かったからさぁ! 信じる信じる! 君の言うようにザイシャくんはいたんだね! いやぁすごいねぇ偶然の一致なのかなぁ!」
覇気どころかクロニクを残して『月雫箱』に戻ろうとするグロースを慌てて引き止めると、グロースは扉の隙間からおっかなびっくり覗き込むようにほんの少し彼の気配を覗かせる。
「…………本当にそう思っているのか?」
「僕が君に嘘ついたことあるかい?」
「…………嘘をつくのが役割だとさっき言った」
「──あったね! あっ、そうだあれだ。さっきのが嘘だったということだよぉ。ね? ね?」
「…………嘘をつくのが役割だとさっき言った」
「もー! たまに拗ねるのほんっっっと面倒くさくて可愛いなぁ君はぁ!」
……結局、グロースの機嫌を取り戻して話を再開するまでに十分ほど掛かった。
雪仔(ザイシャ)という言葉がある。
それが後の世にアルビノと呼ばれるものであることはボルチェイブしか知らないことだが、少なくともこの時代のこの周辺地域においてはそう呼ばれ、信じられていた。
彼らは雪の精の取替子(チェンジリング)であり、雪のように白く美しいが雪のように脆く、常人より死に近い。故に人の子ではなく雪の仔として、人らしい扱いを受けないことも度々どころではなくあった。
ザイシャもまた雪仔だ。で、あるからには家督の継承が適う対象からは外れてしまっている。だというのにザイシャが次代の当主へ選ばれたことが彼らの諍いの元となったのだろうと老人は推測していたが、食後に訊ねてみれば果たしてその通りであった。
老人の三食分の食事をぺろりと平らげたザイシャが言うにはアンディライリーの家には他に数人の子供がいたらしい。ザイシャは彼らと血が繋がっておらず、先代当主のレグゼが拾った捨て子であったという。
先ほど、雪仔の話が出たが、雪仔に纏わる風習として雪送りというものがある。雪の降る日に雪の精に仔を返すと、本当の子供がお腹の中に帰ってくるというまじない(・・・・)だ。おそらくは、ザイシャも雪送りで捨てられていた雪仔だったのだろう。
……道理で嬉しそうに名乗ったわけだ。
名前も雪仔そのままの子だ。アンディライリーの家で育てられていたのだろうが、育てられただけ。名前らしい名前を付けて貰っていないことからもアンディライリー家でのザイシャの扱いは見て取れる。そんなザイシャがレグゼに子と認められ、それどころか正答な後継として選ばれ、父が背負った物の次の担い手を任された。その喜びは推して知るべしというものだ。
『しかし、そのレグゼという男は愚かですね。雪仔に家督を渡すことが周囲にどれほどの波紋を生み出すか程度、容易に算出できるでしょうに』
話を終えた時にクロニクが冷ややかな声で呟いた。
すると、ザイシャは雪のように白い顔をサッと紅潮させた。
「レグゼ様を悪く言うな! 確かに、レグゼさ──父もそれを心配していた。だが、きっと皆納得してくれると信じておられたんだ。悪いのは私だ。父が亡くなったときに刻印がないこと皆に知られ、うまく弁明できなかった。私さえしっかりしていれば父の遺志は叶えられたはずなんだ!」
『そんなわけがないでしょう。やはりレグゼとやらは愚か者です。雪仔に継がせることが既に間違いだと言うのにそれすら気づかないとは』
「礼装のくせに! 命なき貴殿に父の何がわかる!」
『少なくとも家督を継がせることが雪仔の命を更に脆くするのも知らぬ愚鈍だとは』
「────言わせておけばァ!」
「はいはいストップストップ! じゃない止まって! 一旦落ち着いてくれ!」
ボルチェイブはヒートアップする二人の間に慌てて割って入る。
「し、しかしロォスト殿」
「レグゼへの非礼は私がクロニクの分まで謝ろう。悪かった。君の父は立派な人物だ。君のことも、そして親族のことも心の底から信頼していたのだろう。もしも、不幸が訪れなければ、きっと彼の言うようにみんなが納得できた道があったに違いないだろう」
「う、うう……」
深々と頭を下げるボルチェイブの姿にザイシャは勢いを削がれ言葉を失う。
『まったく、お父様に助けられたくせに頭まで下げさせるとは良いご身分ですね』
「君もだクロニク。君の強情は知っているから謝れとは言わないがこれ以上波立たせるんじゃない。私の小屋は君の『月雫箱』と違って狭いんだ。穴でも空いたら修繕は老骨に堪えるよ」
『……………………』
頭を下げたままのボルチェイブが『月雫箱』に向かって非難の目線を飛ばすと、クロニクはふっつりと黙り込んだ。
「君の気が済むまで頭を下げよう。どうか、クロニクのことを許してやってくれ」
「わ、わかった! わかったから頭をあげてくれロォスト殿! 私も貴殿に助けられた身分。そんな私が貴殿に頭を下げさせるなど耐えられない!」
やっと頭を持ち上げたグロースは、しかし、苦々しげに口を開く。
「……こんな卑怯なことをしてすまないねザイシャ」
「いや。いいんだ。それに礼装程度の言うことに目くじらを立てた私も悪いんだ。ああ、そうだとも。礼装の妄言など気にするだけ無駄だと言うのに」
『…………感情の変数に算出結果を混乱させられている雪仔の言えたことですか?』
あ、と声が出る間すらもなくザイシャの煽りにクロニクが買って出る。
ボルチェイブは一瞬、ザイシャと姿すら見えないクロニクとの間にバチバチとスパークするものを幻視した。
「………………礼装風情が」
『………………雪仔の分際で』
「ふんっ!」
『……ハッ』
互いに吐き捨てるように言葉を投げたその裏で、ボルチェイブは明日の朝食はどうしようかなどと諦め混じりの現実逃避を始めていた。
□□
「これで全員かな?」
翌朝、太陽が登るとともにクロニクに起こされたボルチェイブは、昨日血を抜き取った死体をザイシャに見せた。追手に放った呪歌は、例え魔術師であろうとも確実に滅ぼすほどのものだったが呪い除けの結界を越えて退避していたのなら関係ない。故に、始末できたかの確認をザイシャにさせることが必要だったのだ。
「…………ああ。父の弟のクルガ様に、長兄のレアヌ様と、弟のグキロア様、ソルゾ様。そして、クルガ様の妻のコワリ様。これで追手は全てだ」
意外なことにザイシャは死体を見てもさほどショックを受けてはいなかった。かといって、恨んでいた相手が死んだことへの喜びの表情も無い。それを不思議に思っているボルチェイブに気がついたのか、ザイシャは曖昧に笑った。
「ロォスト殿の森に魔術師が入れば殺されると父に教わっていたので。私も死に体だったし、せめて道連れにして皆で父の顔を見に行こうという思いからここに逃げて来たのだよ。彼らが死んだことはわかりきっていた。むしろ、逆に何故私が生きているかわからないくらいさ」
「心外だなあ。私がまるで見境のない怪物のように言われているとはね」
傷ついたような顔をボルチェイブがしてみせると冷ややかな声がパスから流れる。
『事実、二百年ほど前は害意と魔術師という条件が揃えば端から呪殺していたのでは?』
「いやあ、それはさあ。一応ここも工房だしね。魔術師なら覚悟はできてるだろうって……。それに、流れ者の魔術師なんてろくなもんじゃないんだから……」
『徹夜明けの魔術師の血は最高だ! もう一杯! と、お父様が口にした際の記録は私の中に音声データごと残っていますよ。再生しますか?』
「ごめん。昔の私が見境なかった。だからやめてくれ」
『了解しました。それと、そろそろ朝食が出来ます。別に雪仔に伝える必要はありませんが』
ぷつりと念話が切れる。ボルチェイブはやれやれと肩をすくめた。
「どうされたのだロォスト殿?」
「朝食が出来たってさ。……あー、死体を見た後だけど食べられそうかい?」
「私も魔術師の端くれだから平気だ。ご相伴に預かる。……だが、」
ザイシャは、アンディライリーの人々だったものをじっと見つめて、
「ロォスト殿、朝食の後に手伝って貰ってもいいだろうか? せめて彼らを埋めてやりたい」
「わかった。でも老人だから力仕事にはあまり期待しないでくれ」
「恩に着る」
短い返事。その裏からほんの少しの憂いが漏れる。
ボルチェイブはザイシャを残して、先に朝食の香り漂う小屋へと戻っていく。
老人が扉を閉めた後も、しばらくザイシャは彼らを見つめていた。
本当の家族になりたかった、そんな呟きが聞こえたような気がした。
□□
「さて、それではこれからの話をしようか」
アンディライリー家の面々を獣の掘り出さないように魔術的に処理し埋葬した頃には夜闇がその帳を下ろそうとしていた。くたくたになったザイシャは夕食を平らげてしまうと、やっとひと心地ついたのか食後の薬湯を飲みながら微睡みかけていた。
起こすのは可哀想な気もしたが、このことを告げるのは早ければ早いほどいい。
その肩を何度か叩くと、ザイシャはハッとしたように飛び上がって恥ずかしそうに俯いた。
「そ、それで、これからの話というのは?」
「そのままの意味だよ。これから君が何をどうするか決めようということだ」
「なるほど」
ザイシャはコクコクと頷くとその赤い瞳でボルチェイブを見上げた。
「確かに、いつまでもロォスト殿に世話になるわけにも行かないだろう。怪我も治ってきたがあと数日だけ大事を取って滞在させて欲しい。どうも、さっき穴を掘ったときに無理をしすぎたようで傷が少し開いてしまった。その後は村に戻って父の仕事を引き継ぐつもりだ」
途端、あっちゃーとボルチェイブは顔を覆う。
「あー……やっぱりかー……」
『予測が当たりましたね』
そんな二人の様子にザイシャは、自分がなにか間違えているだろうかと首を傾げる。
「…………? ああ、もちろん謝礼はする。貰ってばかりで終わらせるつもりはない。だが、あと数年だけ待ってくれ。私がアンディライリーとして職務を全うするまで父の遺した財産を使う権利はないと思うのだ」
「いや、謝礼とかそういう問題ではなくてね」
どう言えばザイシャを傷つけないだろうと老魔術師が頭のなかで思索を組み替え続けていると、面倒そうなクロニクの声がそれを遮った。
『……まどろっこしい。単刀直入に言いましょう雪仔。あなたは村に帰れません』
「……………………へ?」
ザイシャはクロニクの言葉の意味がわからないようでコテリと首を倒したまま固まっている。
そんなザイシャの様子に呆れ果てたように嘆息したクロニクは、冷たい声で滔々と事実を並べ始めた。
『いいですか? 第一にれっきとした事実としてあなたの村は滅びます』
「ふぇっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、ザイシャが立ち上がった。
「な、なぜだ!?」
『決まっています。あなたの父、レグゼが死んだからです。魔術師のいる村は栄えます、しかし、それは魔術師がいるからこその繁栄。彼を失った今、次の冬は越せないでしょう』
「だが、私がその後を──」
『愚問ですよ雪仔。では、こちらから問いますがあなたは何度の春を過ごしましたか?』
「……十回だ。それがどうかしたのか?」
『安心しました。その矮躯で十八の春を越えたなどと冗談のようなことを言われたらどうしようかと思っていましたので』
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
顔を真赤にしてテーブルを叩くザイシャ。
クロニクは鼻で笑うような声でそれに答えた。
『続けます。十の春ということは生まれた頃から魔術師として育てられていたとしても未熟。確かに、あなたには素晴らしい才能があるのでしょう。レグゼが後継に選んだのも魔術師として大成するとわかったからでしょう。ですが、それはレグゼが生きてあなたを育て上げた時の話。今のあなた一人の力では到底村を支えることなど出来ません。せいぜい揃って餓死するか、その前に村人の恨みを買って八つ裂きにされるのがオチです』
「……ロ、ロォスト殿! この礼装の言っていることは」
今度は顔を真っ青にしたザイシャがボルチェイブの名を呼ぶ。ぶるぶると震える身体は例え暖炉に当たっていても凍えているだろう。否定してほしかったのはわかっていた、が、それでもボルチェイブは非情に徹しゆっくりと首を振った。
「────私が、私がアンディライリーを継いだからなのか? そうでなければ村の皆は」
『安心しなさい雪仔。断りも無く魔術師の領域に踏み入れ、対策もなしにお父様の呪歌を受けた時点でどのアンディライリーも愚劣です。他の兄弟を選んだのではなく幼いあなたを後継としたのがその証左の一つ。例えあなた以外がアンディライリーを継いでも遠からず村は滅びていたことでしょう。簡潔に言えば、あなたの村はレグゼが死んだ時点で終わっていたのです』
「そん……な……」
へなへなとザイシャは床に座り込む。
『責務とは選択することが出来る者だけに付随します。あなたは滅びを招く以外には選択肢が与えられていなかった。ならば、無力なあなたに責を負う義務も資格もありません』
「クロニク」
『おや、これでも慰めているつもりだったのですが?』
ボルチェイブが咎めると、クロニクは白々しく返した。
力なく落ちたザイシャの肩にボルチェイブはそっと手を置く。
「……帰るところが見つからないのならしばらくここで暮らすといい。君が望むならレグゼの代わりに私が魔術を教えてあげよう。一人前になるまでね。私は歌で君らアンディライリーは契約を基とするが、幸いにも基礎魔術の範疇でその辺りはカバーできる。ここを出て行くにしても、一人で生きていくのに十分な力を備えてでもいいんじゃないかな? 私だって君くらいの子供を見捨てるほど人の心を忘れちゃあいないし君の食い扶持くらいならなんとかなる。なんだったら私の後を継いでこの村の魔術師に──」
「────少し、考えさせてください」
フラフラと立ち上がったザイシャはベッドへ向かっておぼつかない足取りで向かっていく。
ゴソゴソとベッドに潜り込む音に続き、いくらかの啜り泣きのような声が漏れていたが、埋葬の疲れもあったのだろう、さほどもしないうちに寝息に変わった。
「急ぎすぎた、かな?」
ポリポリと老魔術師は頬を掻いた。
と、その時、
『あなたは卑怯者ですね。お父様』
パスを通じて『月雫箱』から念話が届いた。ボルチェイブもまた念話を送る。
「卑怯、とは?」
『私にとぼける必要があるのですか? 視えていたのでしょう? あの雪仔に会った時から、あなたの、その未来視の魔眼で』
────終点の未来視。
それはボルチェイブ=ロォストが生まれ持っていた限定的な未来視の魔眼。
物事の終点、つまり破滅・終焉だけを知覚する異形の未来視である。
ボルチェイブが森で追手の性質を識っていたのもザイシャの数通りの破滅を視て、追手の正体を識ったことによるもの。そして、その中には勿論ザイシャを助けることで破滅することになった村の未来も例外ではない。
そう。ボルチェイブが追手を皆殺しにしたのはザイシャを助けるためではない。ザイシャの帰る場所をなくし、選択肢を奪い、確実にこの老魔術師の元に留まらせるための行いだった。
「怒っているのかいクロニク?」
『いいえ。あなたの悲願と苦しみを知っている以上私から言えることはありません。なにより、冷たく当たってあなたの言を聞きやすいよう誘導した時点で私も同罪です』
ですが、と続ける。
『余りにもあの雪仔が哀れです。あなたの願う未来を叶えるために欲しかった未来へと繋がる要素を全て叩き潰されたのですから』
"本当の家族になりたかった"
ザイシャの願った未来は老人の手で手折られた。
至る可能性はとてつもなく低かっただろう。それでも、まだ可能性はゼロでは無かったのだ。人ならざる雪仔であったとしても、アンディライリーの面々と、村の人々と共に笑い、同じ目線で慎ましくも平和に暮らす、そんな未来もあったはずだった。
その道を閉ざしたのは紛れもなく、ボルチェイブとクロニクだ。
『雪仔はあなたの弟子になると言うでしょう。あなたの目論見どおりに。十の春しか迎えたことのない小娘が七百をゆうに超える老獪な化物に敵うはずもありません。自分が既に選べなくなっていることにすら気が付かずに、自らの意思でここに残ることになる。そして、最後には喜んであなたの夢の後継(いしずえ)となるに違いありません。それで満足ですか』
「…………これは業だよクロニク。私の罪だ。それでも、私にとっては最後のチャンスなんだ。私は、この魔眼で子供の頃から人類の破滅を視続けてきた。そして、それを跳ね除ける手段を確立した。後は時間だけ。未来に繋げるだけなんだ」
『だから雪仔には犠牲になって貰うと?』
「そうとも。傲慢だろうねえ。身勝手だろうねえ。────でも、それが私たち魔術師だ」
ランプを消す。暖炉に新たな薪を投げ入れ、安楽椅子にボルチェイブは腰を下ろす。
ギィ、ギィ、と椅子を漕ぐたびに響く軋みが夜の中に溶けていった。
「…………どうしようかねえ、クロニク」
『どう、しましょうかね。お父様』
無機質なクロニクの声さえも今はどこか呆然としたように。
父子揃って頭を抱える彼らの目線の先には、先日弟子入りした雪仔──ザイシャ=アンディライリーの小さな体躯があった。
浅く息をするザイシャの周りには血痕が飛び散り、暴走した魔力の迸りが片腕とともに地面を吹き飛ばしてクレーター状に地面を抉っている。
────リバウンド。
魔術式の制御に失敗した場合に発生する魔力回路の暴発。正しく歪められるはずの世界が変化を拒み、その代償として行き場の無くなったエネルギーが回路を遡る。そして、針を刺した風船のように脆弱な部分から圧力は抜け出ようとする。
破裂。
ザイシャのそれはリバウンドによって生じる結末の典型であった。
勿論、こんなことは見習いにとっては初歩の初歩。ロォストの神童と呼ばれたボルチェイブでさえもリバウンドの経験は何度かあったし、腕が吹き飛ぶなど日常茶飯事。怪我したばかりなら治すのも仔細ない。
老人らの反応はザイシャの怪我に向けられたものではない。
問題は、このリバウンド現象を引き起こしたのが基礎中の基礎と断言しても良いだろう強化魔術だったことである。リバウンドは見習いにとっては初歩の初歩といったが、逆説的に基礎魔術でのリバウンドというのは見習いどころか素人一歩半くらいで卒業するものなのだ。
『とりあえず、腕を縫合して地面に埋めてみますか?』
「そうしてみようか……」
要するにである。
ザイシャは魔術師にも関わらず魔力制御がド下手くそだった。
それはもう、本当に。
□□
話は、その日の朝まで遡る。
老魔術師の元に弟子入りするとザイシャが決断してから実に二週間後のことだった。
ささやかな朝食を終えたボルチェイブは、まだ眠気の残る顔でナメクジのようにゆっくりと咀嚼を繰り返すザイシャに話しかけた。
「さて、ザイシャ。君が私に弟子入りして七つの夜が明けた。どうだい? そろそろ傷も完治してきたんじゃないかね?」
「ん……? もむ……もむ……こくり」
やや遅れて、ザイシャは相変わらず眠そうな目で口の中の物を飲み下す。
「……そう、だな。一番深い傷はもう開きそうにないし、他の傷もあらかた治ってしまった。うん。これなら動き回っても問題はなさそうだ」
二日ほど前から血が滲まなくなってきた包帯を見ながらザイシャは嬉しそうに頷く。
本来は身体を動かしているのが性分なようで、老人のベッドで安静にしていた頃、特に傷の痛みがなくなってきた頃には大変つまらなさそうにしていたのは老人の記憶にも新しい。
数日前からはクロニクの操る人形の目を掻い潜り、こっそり軽い家事をしようとするもののクロニクに見つかってお小言を言われている風景が常になっていた。
と、そんな確執があったせいだろうか。
『月雫箱』に光が灯り、念話ではなくスピーカーモードで聞きなれた無機質な、それでいてどこか皮肉気な声が漏れ出す。
『そうでしょうか? 普通の人間なら問題はないでしょうがあなたは雪仔。雪のように脆いのですから。あと七つの夜が明けるまでは、寝ていたほうがいいと思いますよ。ほら、考えても見てください。折角、お父様が弟子に取ったあなたが基礎すら叩き込まない間に斃れるなどと笑い話にもなりませんよ。どうです? あなたもそう思いませんか、雪仔?』
「む……!」
その声を聞いた途端にザイシャは渋面になって『月雫箱』をキッと睨んだ。
「うるさいぞ礼装! そういう君こそ人の身体を持っていないではないか! 雪仔雪仔と莫迦にするな! 私だって、アンディライリーでは雑事の一切を預かっていたのだぞ! 君の言うほど私の身体は脆くはない!」
『はん。拾われ子の雪仔が仕事を押し付けられていただけでしょうに』
「なんだと……!」
また始まった、と老魔術師は眉間の皺を指で摘む。
ザイシャを助けた日。その思考を誘導するために冷たく当たっていたクロニクだったが、そのように雪仔を扱った一因には単純に馬が合わないという理由もあったようで、何かにつけて言い争っていることはこの二週間の内でも頻繁に見られた。
ボルチェイブも寂しい老人。多少賑やかになるのは嬉しいくらいだが、厄介なことに二人の喧嘩はボルチェイブが仲裁に入るまで終わった試しがまるで無い。一度もない。
説得の言葉のストックが切れたわけではない。七百歳オーバーの老獪な智慧はまだまだ天井知らずに在庫を残しているのだが、それでも、このやり取りが生涯、自分が生きている限りは続くのだろうと思うと少し気が遠くなるのが老魔術師の正直な感想であった。
いつの間にか貴殿という二人称がクロニクに対してのみ君に変わっているのは、ザイシャがクロニクに敬意を払いたくもないことの表れなのか、はたまた喧嘩するほど仲が良いとの言葉通りに少しは互いに打ち解けているだけなのか。
「礼装!」
『雪仔』
「礼装!!」
『雪仔』
きっと後者だろう。
終わらない礼装と雪仔の押収をバックコーラスにしながら、そう思うことにした。
思いたかった。
「はい! ストップ! ストッープ!」
手のひらから零れ落ちそうな希望から目を逸らした老人は二人の喧嘩を止めに入る。
すると、彼の言葉を待っていたかのように二人の言い争いはピタリと止まった。
ストップ、という言葉は本来この時代には存在していないためボルチェイブの写し身であるクロニク以外には通じないはずのだが、喧嘩を止めに来る老魔術師が毎度のようにその言葉を口にしていただろうか。ザイシャも、『喧嘩を止めろ』という意味の言葉として解していた。
老魔術師が犬の躾のようだと面白がっていられたのは最初のうち。日に日に、それこそ現在進行系で静止の命令は必死な物へとなって行っていたのだが、それはまあ、別の話である。
「とりあえず、話を戻して、いいかね?」
吸血なし、かつ全力で声を張り上げたせいかゼイゼイと息切れを起こしている老体。
やっとのこと紡ぎ出した言葉にも息切れの影響が残っている。
そんな、必死の形相の声に『月雫箱』は黙り込み、ザイシャは気まずそうに頷いた。
「よし……。ああ、すまない。ちょっと息を整える。すぅ……ふぅ……。これでよし、と」
なんとか平静を取り戻したボルチェイブは瞠目していた目を開いて本題に移ろうとする。
「二度目だが。さて、身体が治った、ということで私もやっと師匠らしいことが出来るようになったというわけだ。簡潔に言えば今日から君に魔術師としての鍛錬をしてもらおうと思う。だが、その前に確認したいことがあってね」
「確認?」
「ああ。テスト……じゃない。力試しだね。君が魔術師としてどれほどの力を持っているのか知りたい。それによって教える起点も変われば速度も変わる。つまるところを言えば、師匠として弟子の実力は把握しておきたいというわけさ」
「なるほど。それでは、私は何をすれば良いのだロォスト殿?」
「そうだねえ……。じゃあ、まずは基礎の強化魔術から見せてもらえるかい? クロニク、裏から薪を持ってきておいてくれ。この子の魔術を試させる」
老魔術師がそう命じると、『月雫箱』がその幾何学模様を輝かせ、小屋の隅に崩れるように置かれていた木偶人形の一体がガチャガチャと起き上がった。
『承りました。お父様』
冷たい声が一言。許諾と共に関節をガチャガチャと賑やかに鳴らしながら木偶人形は小屋の裏にある薪置き場へと向かっていった。
「準備が終わり次第、と言っても持ってくるだけだからすぐに始めることになるだろう。心の準備をしておきなさい」
老人がにこやかに言うと、ザイシャはなにやら言いにくそうな顔で、
「あの、ボルチェイブ殿。少しよろしいか?」
「ん? ああ、心の準備というのはあくまで言葉の綾だ。魔術師たるもの冷静であるべきだからね。私も君が失敗するなんてこと思っちゃいないさ」
「いや、そうではない。そうではないのだ」
目を泳がせながらザイシャは続ける。
「その……力試しは外でやりたいんだ。ええと、ほら。木くずを落とせば礼装がまた神経質に掃除を始めるだろう? なんというか、そういう気遣いは大事だと思うのだ。うん」
「……? まあ、別に構わないが」
そして、その数分後。
意を決した表情で強化魔術を使おうと試みたザイシャに続いた三景。
リバウンドによる爆発。
吹き飛ぶ腕。
血染めのクレーター。
それらを前にして、老人はやっとザイシャの真意を知ったのであった。
□□
『まさか、本当に七夜も延長になるとは思いませんでしたよ。雪仔』
翌日、魔術刻印による再生能力と霊地に埋められたことによる魔力の増幅により、なんとか片腕を繋いだザイシャが目を覚ますなりクロニクの皮肉が突き刺さった。
クロニクの言うとおり、運動厳禁絶対安静を固く言いつけられたザイシャは二週間寝ていたベッドに逆戻り。傷が治り、腕のリハビリが終わるまでの一週間は修行もお預けとなった。
「……今度こそは、出来ると思ったんだ」
『出来てないじゃないですか』
「うぐっ……」
拗ねたようなザイシャの呟きを即座にクロニクは切り捨てた。
無感情ながらどこか呆れたような声でクロニクは続ける。
『それで、あなたの師、もとい父である先代アンディライリー当主のレグゼがあなたに魔術を殆ど使わせなかったというのは事実ですか?』
「……本当だ」
『月雫箱』のそっぽを向くように、ベッドの上から壁側を見つめるザイシャはやはり拗ねたように呟いた。
「だが、それは父のせいじゃない。私は昔からこういうのが苦手で……。父が言うには、私の保有魔力が多すぎるせいだと。だから簡単に制御が途切れてリバウンドを起こしてしまう。故に、父のいないところでは魔術を使わないように言いつけられていたんだ」
『……なるほど』
納得したような色が無機質な声を染める。
『道理で十年……失礼。十の春を越した魔術師のあなたが、ここまで未熟だったわけですね。元より家督を受け継ぐ権利のない雪仔。レグゼがあなたに魔術を教えること自体が褒められたことではありません。彼があなたを指導できたのは道楽のように短い時だけだったでしょう。更に言えばあなたも雑事を押し付けられていたのですから、おそらく、あなたの魔術師としての経験は一つ春を越した魔術師のそれにも届いていない』
「………………」
『沈黙、ということは私の算出結果は正しかったようですね』
クロニクの淡々とした言葉を最後に静寂が二人の間に立ち込める。重苦しい沈黙に覆われたザイシャはその重みに耐えきれないように、抱えていた膝の間に顔を伏せた。
「…………失望、したか?」
ぽつりと、ザイシャの声が静けさを破った。
「あれだけ偉そうなことを言って、結局私は一人では強化の一つ使えない。君の言う通りさ。私は責任を背負う資格もない無力な雪仔だ。皆が私はアンディライリーを継ぐに相応しくないと言ったのも当然のことだよ。…………そうだ。何を、夢を見ていたんだ。私が雪仔ということに代わりは無い。皆に受け入れてもらう? 家族になれる? 出来るわけがないだろう! 最初からわかっていたじゃないか! ああ、本当に。……なんて、無様だ。滑稽極まりない。いつの間にか信じたふりをして、……父上だって、レグゼ様だってどうせ────」
『失望、ですか』
割り込むように。クロニクが鼻で笑うような音を立てる。
『思い上がらないでくれませんか。初めからあなたに期待などしていません。私にしてみれば雪仔、あなたはお父様が老いの暇を晴らすために迎え入れた手慰みのひとつに過ぎない。失望どころか、むしろ安心さえ覚えましたよ。お父様の背負い目指した崇高な命題を受け継ぐなど何人にも適わぬことだとわかりました。感謝しましょう、雪仔。やっと諦めがつきました』
吐き捨てるように『月雫箱』の灯りが消える。
一人、無音に取り残されたザイシャは、村の滅びを知ったあの日のように小さくその身体を震わせ続けていた。
□□
『と、いうのが雪仔の現状です』
村外れに位置する老人の小屋から更に万歩ほど踏み入った森の中にその荒屋は建っていた。
これはかつてボルチェイブの吸血衝動が今よりも激しかったころに住んでいた最初の家だ。今の小屋は晩年に作った第二のものである。若い頃の彼は隙間風や人の出入りなどについては特に気にしていなかったため新居よりも随分と雑な作りだが、死徒である老人一人が暮らすには十分だった。
さて、そんな旧い住処には人影が二つ。老魔術師ボルチェイブ=ロォストとクロニクが送り込んだ木偶人形の姿がひび割れた雨戸の隙間から見えていた。
木偶人形は簡素な作りの椅子に倒れ込むように寄りかかっており、『月雫箱』の中にあるクロニクが離れたボルチェイブに念話を通すハブ、つまり触媒として機能している。
そして、木偶人形を通してクロニクからザイシャの置かれていた状況を伝達された老人は、偏頭痛でも痛むかのように頭を抱えて悩んでいた。
「そこからかぁ……。あー、ちょっとその辺は私には難しいかもなあ」
『左様ですか?』
「うん。私は魔力量自体は並の方だったからね。制御も感覚で覚えてしまったし、覚えたのも随分昔のことだから教導するのも難しいと思うよ? 十歳と言えば身体が出来上がる途中段階だから一歩間違えれば成長や寿命を歪める可能性だってある。死ぬかもしれない」
『雪仔を魔術師に育てるのは不可能だと?』
「そうとまでは言わない。だが、終点の魔眼で軽く覗いただけで実に十万もの滅びが視えた。それもほんの一部だ。あんまり滅びが飽和しているからここまで逃げて来たことからもわかるだろう? 私が手を加えてザイシャが一年以上保つ可能性は億分の一にも満たない。リスクが高すぎるのだよ。そう。私が妖精コリャダの血を受け継ぐ以上は看過出来ないほどに、ね」
『では、諦めるのですか?』
「いや、そのつもりはない。せっかくやる気を取り戻したんだ。計画は続行する。……まあ、なんだね。今回は運が悪かった、ということだ。きっと次はある。アンディライリーのように後継者からあぶれる魔術師だって他にいるだろうし、それでもダメならお前がいる。私の研究が無駄に終わることは無い。そう、信じることにするよ」
『…………それでは、その場合ザイシャはどうされるのですか?』
「…………そうだな。いっそ、お前の身体に使ってみるかね? 肉の器を手に入れれば何かとインスピレーションも湧いてくるかもしれない。うん。それがいい。そうしよう」
『……………………ハァ』
無感情な声が、深く、深く、溜息をついた。
『却下します。雪仔の身体を纏うなど考えるだけでも虫唾が走ります』
「おや、それではどうしようか。無為に殺してしまうのは私の血が許さない。せめて、形だけでも有意義に整えたいのだけどねえ」
『却下、と。否定を述べたのはザイシャの死体の使い道についてではありません』
「……ほう」
老魔術師は興味深そうな声を漏らした。
『私が思うに、お父様。ザイシャ以上に優れた個体が現れるとは考えられません。また、その出自と孤独を嫌う性格に由来するコントロールの容易さも優秀。二点を兼ね備えることを必要性として代入すれば、あれを手放すのは極めて非効率と言わざるを得ません。他選択の帯びた将来性・確実性とザイシャを大成させる難度を天秤にかければ後者が圧倒的に容易いかと』
「では、クロニク。私の愛し子にして我が写し身よ。君はどんな提案をしたいのかね?」
『提案しましょう。私にお任せくださいお父様。必ず、ザイシャを魔術師にしてみせます』
「その言葉を違えたならお前はどうする?」
『お望みのままに、ザイシャの身体でもなんでも纏って差し上げましょう』
「────よろしい! お前に任せようクロニク」
喜色に満ちた父の声を受け、ガチャガチャと音を立てる木偶人形。
ぎこちなく、それでいて恭しく老魔術師に向けて一礼する。
『承りました。お父様』
そして、クロニクの声が途切れると共に木偶人形は崩れ落ちた。
荒屋に残る人影はただ一つ。
爛々と、その瞳孔を光らせて。
「…………そう。私が手を加えれば滅びの空隙は億分の一にも満たぬ。ああ。そうだとも……私が手を加えれば、ね」
滅びを見通し、時に人心さえ自在とする老獪な死徒は旧き住処でくつくつと笑う。
くぐもった笑い声を漏らしながら、『月雫箱』の魔力が通っていた木偶人形を見下ろした。
「ところで、クロニク。いつの間にかアレを雪仔と呼んでいなかった事に気がついたかね? 良い傾向だ愛し子よ。私の写し身でありながら、お前に私を父と呼ばせることで別個の人格として分化させ移植した魂を宿しこむことに成功した。だが、この私がどれだけ手を尽くそうと心や感情は獲得しなかった。そんなお前がやっと、それを手に入れたのだ。──素晴らしい。この上なく素晴らしいじゃないか! くっくくくくくっ……ああ、人生とは本当に、面白い」
歓喜か、狂気か。その笑声は夜を徹して森の底に谺する。
「ああ、素晴らしきかな。────これで、最後の駒も盤上に揃う」
そんな、誰かの声が、
□□
深夜、夢さえ見ない眠りに落ちていたザイシャの身体を何者かが乱暴に揺さぶる。
「誰……だ……?」
半分眠ったままに閉じられた瞼を薄く開けながら短い問いを投げつける。
その問いかけに、ガチャガチャとやかましく耳慣れた喧騒が答えた。
『起きなさい雪仔。あなたの魔術回路を調整しますよ』
「クロニク……?」
ザイシャを起こしたのはクロニクの操る木偶人形であった。
寝ぼけ眼と頭のままザイシャが疑問符のついた名前を呼ぶと木偶人形の動きが止まる。
「どうしたんだこんな時間に、それに調整って」
『言葉通りです。私が、あなたの、回路を調整してリバウンドの防止策とします』
「そんな、急に言われたって……それにロォスト殿からは魔術を使うなと!」
『お父様の許可は取っています。お早く』
「えっ……えぇ……?」
寝起きと唐突なクロニクの豹変のせいだろうか、ザイシャは目を回して混乱しているようでクロニクの促すままにベッドから立ち上がり木偶人形の後をついてくる。
『ここに手を置いてください』
木偶人形が指し示しているのはザイシャも見慣れた幾何学模様の箱。
クロニクの本体である礼装、『月雫箱』であった。
「……これは『月雫箱』じゃないか? 回路を調整するのではなかったのか?」
『いいですから。早く』
「いや、だって」
『早く』
「わ、わかった……」
何時になく語気鋭いクロニクに戸惑いつつもザイシャはそっと右手──魔術刻印が刻まれたほうの手──を『月雫箱』に触れさせる。
瞬間、同調開始という感情の薄い声と共にザイシャの意識が吸い込まれた。
気がつけば、真っ白な空間にザイシャは立っていた。
「ここ、は?」
「『月雫箱』の頭脳。内在の海。フォトニック純結晶体。記憶。記録。覗き窓。呼び名の候補は様々ですが、私は単に『内側』と呼称しています」
聞き覚えのある無感情な声。
しかし、その音に距離と方向があるという事実がザイシャに酷く違和感を覚えさせる。
「ようこそ雪仔。『内側』へ」
「クロニク……? いや違う、君は……私……?」
声のする方へザイシャが振り向くと、そこにはザイシャと全く同じ姿の雪仔が立っていた。
自分と瓜二つの人間が、ただ一つ声だけはクロニクのそれだということがアンバランスで、船酔いでもしたかのようにグラグラとした違和感が、どこか気持ち悪く思えた。
「私には決まった姿はありません。あなたが見ているのはあなたのセルフイメージ……失礼、あなたが思い描いている自己像を投影し視覚機能の不全を補完しているだけです。あまり気になさらずともよろしいかと」
「よくわからないが……とりあえず、君の本当の姿はそれではない、ということか?」
「間違いではありません」
さて、と鏡写しの雪仔が口火を切った。
「本題に移りましょう。あなたは現在、右手の魔術回路を通じて『内側』に接続しています。この状態を長く保つことは推奨しません。故に、あなたと接続を保てるリミットは約一時間。より正確に言えば説明終了予定時刻である三十秒後に五十五分十四・三秒の猶予を残します。私の算出したリバウンドの要因として最も可能性が高いものは魔術刻印が機能不全を発生させ適合者とのリンクを拒絶することによる魔術式の崩壊です。第二に魔力過多による制御不能については魔術回路の編成に異常が発生していることが予測されました。スキャン完了。以上の予測が正答であることが確定。対処プランを提示します。要因A、魔術刻印の不全。あなたの回路を経由し、身体保全機能にリソースを割かれ対侵入防壁が脆くなった刻印にハッキング、アクセスし先ほどスキャンしたあなたの身体データに合わせアンディライリーの刻印を書換えます。要因B、魔術回路編成の異常。この異常は後天的なものと診断されたため逆説的に本来の編成に回復し得る可能性を提示。二次スキャン終了。閉塞したままの回路が数本残ることが経脈に影響し異常をもたらしていると判断。強制的に回路を開き魔力の循環を正常化。以上。対処プラン提示終了。質問、または当処置を拒絶する場合は────」
「待て! 待ってくれ!」
「なんでしょうか?」
「早すぎるし何を言っているのかさっぱりわからない! ……が、クロニク。おそらく君は、私を治そうとしているのだろう?」
「はい」
「何故だ?」
ザイシャの言葉に、ザイシャの影がコテリと首を傾げた。
「何故とは?」
「何故って……君が言ったことではないか! 私には最初から期待していなかったと! それに君は私を嫌っていたはずじゃないか! そんな君がどうして私を治そうと言うんだ!」
「あなたも、その答えはわかっているのではないですか?」
瞠目しながらザイシャの影が答えると、ザイシャは顔を伏せて──まるで、何かの甘い期待を噛み殺してしまうかのように──声を絞り出した。
「…………ロォスト殿の、ためなのか?」
「あなたを助けたかったから、あなたのためだと、そう言って欲しかったですか?」
「…………ッ!」
見え透いていたと、暗にそう言われてザイシャは言葉を無くす。
ギリッ。『内側』に噛み砕かんばかりの切歯の音が響いた。
「礼装、私はやはり君のことが嫌いだ」
「意見が合うとは珍しいですね、雪仔」
ザイシャの目に憎悪が燃え盛る。
「……何かとつけてお父様お父様と! 主体性が無いくせに知ったような口を聞いて!」
「主体性がないのはあなたもでしょう。同族嫌悪。違いますか、雪仔?」
「話を逸らすな! だから私は、君のその口ぶりが嫌いなんだ!」
「また意見が合いましたね。私もあなたの感情的なノイズに侵された思考回路が嫌いです」
烈火の如く、あるいは氷雪の如く。二者は沈黙をぶつけ合う。
が、すぐさま影が馬鹿馬鹿しいとばかりに溜息をついた。
「やめましょう。堂々巡りです。さて、先ほど話したようにこれはお父様の意思です。つまりあなたにこの処置を受けない、という権利は存在していない。信用できない相手に受け継いだ刻印と自身の肉体を弄ばれたくないのはわかりますがここは大人しく────」
「……それは違う。逆だ。私は、今の君をこの上なく信じている」
影の言葉に割り込んでザイシャが妙なことを言った。
「…………? 別に、そんな嘘をつかずとも私はあなたを治しますが」
「違う!」
再び力強く否定し、ザイシャは影をまっすぐに見据えた。
「私は君が嫌いだ。判断を他人任せにしているくせに白々しく力不足を揶揄する君が嫌いだ。主体性が無いのは私もだと? 馬鹿馬鹿しい! 一緒にするな! 少なくとも私は選択した!本当は選ぶのを怖がっているくせに、さもそれが賢いような顔をして! なにが、お父様だ!お父様お父様お父様お父様……! もう、うんざりだ! 少しは己に責任のある言葉を話せ!私は、君のそういうところが、心の底から大嫌いだ!」
だが、と言葉を区切り、無表情の影を睨みつけながらザイシャは右手を伸ばす。
「だからこそ主体性をロォスト殿に押し付けた今の君を信用する。甘く見るなよ礼装。私は、アンディライリー家当主だ。例え魔術が使えなくとも、そうあろうと私自身が選択したんだ。人の好き嫌いに信頼の有無を依存するなど以ての外。冷徹に、平等に、我を捨て最善を選ぶ。それが、契約魔術をその身に宿す当主の振る舞いだと、他ならぬ私が選んだが故に」
まっすぐと伸びた右腕は、ザイシャがまた一つ自ら選択したことを意味していた。
今の今まで憤怒に満ちていたように見えた赤い瞳はエゴを乖離させ、理性に澄んでいる。
影への否定はアンディライリー当主としての誇りのために。
そこに立っていたのは、齢十の幼い雪仔などではなく一人の魔術師であった。
「……なるほど。影、ですか」
やれやれとザイシャの影は頭を振る。
「完敗ですね。此度は負けを認めましょう。雪仔、あなたは正しく魔術師です」
「そして、魔術師にならなければならない。────礼装、私を魔術師にしてくれ」
迷いのない、心底から信頼するまっすぐな瞳。
「承りました」
ザイシャと対照的に、ザイシャの影は静かにその手を取った。
同時に、ザイシャがその右手から0と1に還元されていき、その影もまた姿を投影する視点を失ったことで解けていく。
「目覚めた時にはあなたは魔術師。お父様の教えは生易しいものではありません。ですから。おやすみなさい、雪仔。今のうちに、甘く、楽しい夢を味わっていなさい」
「望むところだ、礼装。そしてアンディライリーの名に誓おう。いつか、この恩は必ず返す」
強い意志を宿した瞳が最後に数式に変換され、観測者を失った『内側』は光を失い虚とも闇とも取れぬ場所へと姿を変えていく。難攻不落かつ繊細至極な魔術刻印へのハッキングに向け、クロニクの自我もまた計算領域の一部として『内側』の中に溶けていった。
……そして、残った苛立ちはやはり自分の感情で。
わかっていた。この怒りが内向きであることも、発端が雪仔への罪悪感ということも。
クロニクはザイシャの身体を治すことで初めて覚えた罪悪感を解消しようとしていたのだ。
怒りは思うようにならないザイシャへのもどかしさと、同時に、こんな方法で一方的に禊を晴らそうとしていた自身への憎悪から湧き出たもの。
なんて、勝手で卑怯なのだろう。笑ってしまうほど滑稽な独りよがり。
奪った未来と与えた未来が等価でないことは、とっくに知っていただろうに。
それでも、と。
────これで、あなたから奪ってしまったものを少しは返せたのだろうか?
語る先を持たぬ問いは、計算領域に飲まれて消えた。
□□
乾いた軋みが早朝の森に響いた。
音の源はザイシャが両手で抱えた一本の薪。それが、太い木の枝をへし折った音だった。
「やった、やったぞ! 見ろクロニク! 私もちゃんと使えた! 魔術師になれたんだ!」
感涙寸前の喜び様のザイシャ。が、クロニクの冷ややかな声がそれに水をかける。
『強化魔術程度で何を喜んでいるのですか。確かに物体、人体ともにリバウンドの兆候すらも無く発動できていましたがあくまで基礎の入り口に過ぎないとわかっていないのですか雪仔。全く、これだから雪仔には困ったものです』
「な、なんだとっ! ……いいだろ喜んだって。初めてまともに魔術を使えたんだぞ!」
ほら! とザイシャはもう一度刻印を励起させ薪を強化してみせる。
二度目の軋み。先ほどより重いそれはより太い枝を折ったと教えている。
が、クロニクはそれを無視して、
『しかし魔術師、ですか。お父様の領域に達せねばその呼称を当てるのは気が引けますね』
「待て礼装! この前、私のことを魔術師と認めてくれたのは嘘だったのか!?」
『ああ、そうですね。魔術師は魔術師でもへっぽこが頭につきますが』
「君はまたそんな屁理屈を……!」
礼装! 雪仔! 礼装! 雪仔! と、いつもの騒がしさが寂しい村外れの小屋に響く。
だが、気のせいだろうか。
その喧騒は少しだけ、以前よりも楽しげに聞こえた。
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