最終更新: nevadakagemiya 2022年05月19日(木) 02:29:07履歴
やはり大阪は暑い。粘り付くような熱気が、空からも地面からも照りつける。
室内ならともかくとして、太陽の差す屋外での活動には憎らしいほどに燦々と輝く
初夏に差し掛かろうかという季節でも油断は大敵。念のため日焼け止めクリームを持ってきて正解だった。
とはいえ赤外線こそ防げてもこの暑さだけはどうしようもない。
寒さなら着込めばいいが、暑さへの対処は難しい。まさかこんな往来で脱ぐわけにもいかないし。
……いや、基本誰もいないんだし“見えない所”を脱ぐくらいなら。
そんな突飛な発想が脳裏をよぎるのは、この暑さで脳漿が茹だってしまっているせいなのか。
幸いにもこの現代には文明の利器というものがある。
この日本は自販機大国だ。手を伸ばせば届く距離に必ず自動販売機というものが存在している。
無人であってもその機能に不全を来すこと無く職務を全うしてくれる……電気は通ってて、本当に良かった。
短い衝突音と共に落下したそれを取り出す。
爽やかな青色の山脈が描かれた無色透明のラベル。普段であれば飲み切るのは少々酷なサイズのボトル。
手にすればひんやりとした感覚が一瞬暑さを忘れさせ、一刻も早くその冷気を全身に取り込むべくキャップを開けた。
開封から飲み終えるまでおよそ1分。空になったボトルをゴミ箱に投入し、潤いと文明の恵みに感謝を述べる。
水分補給というものは必要不可欠の行為であるが、それにともなって生じる現象もまた必要不可欠かつ不可避のものである。
取り入れた分、排出される。それは自然の摂理であり生命体の原則だ。人間も勿論例外ではない。
だから節制が必要なのだ。供給のバランスが欠かせないのだ。私は……迂闊にもその判断を誤ってしまった。
つまり、その。お手洗いに行きたい。思わず水を飲みすぎた。私の悪い癖だ。
以前聖杯戦争の参加者──一羽、と名乗った女性──にお腹の中を掻き回されて以来、有事の前には食事を控えるようにしていた。
あんなことがあっては、握りつぶされた胃から中身が溢れてしまいかねないからだ。実際あの時ちょっと吐いてしまったし。
故に夜間行動する際には必要最低限の補給に留めていたが、その反動でつい日中は食べ過ぎかつ飲み過ぎてしまうのである。
その代償がこれだ。腹部……より少し下に感じる圧迫感と緊張感。そしてそれに伴う焦燥感。
幸い、この国には自販機以上にお手洗いが充実している。
やや内股気味で小走りし、ちょうど近くにあった公園の公衆トイレへ…………っ。
『工事中』
頬に一筋の汗が伝う。
黄色と黒の警告色で彩られた看板を目にした時、腹部……の少し下が萎縮したのを感じた。
ま、まあ近くのコンビニとかに行けばいいし。己の心に言い聞かせ、“それ”を刺激しないようゆっくりとした足取りで公園を離れる。
しかし不運というものは、こういった時に限って連続するもの。
訪れたコンビニには「ご使用の際は店員に一声おかけ下さい」との張り紙が貼られ、扉には鍵が。
次に訪れたコンビニにも同様の文言が貼られており、その次のコンビニにはそもそもトイレ自体が表に見当たらなかった。
バックヤードになら……という考えも頭を過ぎるが、流石に不在中に押し入るわけにもいかない。
まずい。まずい。まずい。
焦りが直に伝わっていき、タイムリミットを刻一刻と削っていくのを感じる。
身体の緊張が高まっていく度に移動速度には制限がかけられる。最早小走りすらも脅威なのだ。
息が上がっていく。実際の運動量に見合わない疲労感が身体を襲う。
どうしてどこのコンビニも貸してくれないの!焦燥感はやがて苛立ちに変わり始め、しかしそれを発散することも出来ず内へ内へと溜まっていく。
そうだ、コンビニではなく量販店や複合施設のような場所のトイレならば。
先程通りがかった道の向こうに、比較的大きめの家電量販店がちらりと見えたのを思い返す。
天体に鳴り響くBGMや店頭に並ぶテレビからの音も相まって、無人でありながら普段と変わらぬ賑わいを見せる場所。
最新機種のパソコンやゲーム機、イヤホン、眩いLEDには目もくれず、赤と青のピクトグラムが指し示す方へ。
入店から1分余り、私は探し求めていたオアシスにようやく辿り着く。
ああ────緊張感で綻びかけた“それ”を既で引き締め、逸る気持ちを抑えて一歩一歩慎重に進んでいく。
清潔感のある白色の中を進み……個室に手を……手、を……………
「えっ……えっ、なん……で」
埋まってる。
個室のドアは綺麗に閉じ見事な「壁」を築き上げていた。
心が軋む音がする。腹部の下が軋む音もする。泣きそう。
えっ、いや待ってなんで埋まってるの?
つい絶望で思考が別方向に向いてしまったが、冷静に考えるとこの状況は異様だ。
人払いが行われたこの大阪で、店内も無人であるというのにトイレだけ満席なんて状況があり得るのだろうか?
考えられうる可能性。それは何らかの理由で、店側がトイレを封鎖していた……ということ……。
その場合、私がこの壁の向こうのオアシスに辿り着くことは絶望的になるわけで。
「お……お願いしますっ!そ、そのっ、わたしっ、も……漏れそう、なんです!!あけて!あけてえっ!」
どん、どん。
中に人が居るのなら、この扉が開く可能性も僅かに存在する。
けれど現実は非情なもので、響き渡るのは私の虚しい叫びと乾いた打撃音のみ。
「ぅ……お願い……あけてぇ…………」
先に溢れたのは涙。汗。そして。
…………一点静まり返る店内。
耳を凝らせば遠巻きに聞こえるBGMに紛れ、滴るような水の音を聞き取れたことだろう。
電気量販店のすぐ側に古めかしい銭湯があったのは幸いだった。
石鹸と、タオルと、ついでにシャンプーリンス。そこに入浴料を加えた金額を番台に置き残し、道具一式揃えて全身を洗い流した。
電気だけでなく水道、ガスも通り続けていたことにも感謝すべきだろう。
でなければ私は。想像もしたくないほどに絶望的な状況で教会に帰還する羽目になっていたのだから。
結果として、私は出るときよりも少し清潔な状態で帰還した。
出る前と違うのは清潔感だけでなく……ニーソックスと下着を着用していない、という部分もか。
折しも出かけてすぐの私が考えていた耐暑方法を実践する形となってしまったが、その効果については……語るべくもないだろう。
……今日一日の記憶を消し去ってしまいたい。覚束ない足取りで私は自室のベッドに倒れ込み、石鹸の香る身体をタオルケットに潜り込ませて眠りについた。
コメントをかく