出雲黒箱奇譚・破
最終更新：ID:v/+8N3Y+eg 2022年06月19日(日) 02:07:19履歴
大砂丘のどこか。
『箱』を抱きかかえて全力疾走しながら、その少女はふと考えた。
「はぁ、はっ！」
――どうして、ヨリエさん はこんな事をしているんだろうか？
『ヨリエ、3時方向から来るぞ、避けろ』
「そんなこと言ったってえ！ ――ひゃあ！」
腕の中で喋るこの『箱』のせい？
それとも、この『箱』を喋れるようにした医者のせい？
それとも、この『箱』を見捨てられなかった自分のせい？
……それとも、この『箱』に纏わる陰謀、事件のせいだろうか？
答えは出ない。
砂丘を蹴って10時方向に飛ぶ、側面から小妖の群れが先ほどまで自分のいた場所に殺到し、砂塵が巻き上がった。
振り返っている暇はない。
肉体強化の魔術を掛けての全力疾走、それも命を掛けての疾走に、ひりひりと若い体が灼熱する。
『次は5、7、10時の方向から来る。その次は――』
「一気に言わないで欲しいなあ？！」
状況は、あまりにも多勢に無勢と言わざるを得ない。
追ってくる小妖の数はそれはもう悍ましいとか恐るべきとかグロいとか、とにかく物凄いと表現すべきだ。
両手はそれなりに重たい箱のために塞がっているし、もし使えても普段使いのお祓い棒だけでは手に余るのは明白である。
なので、とにかく逃げるしかない。
もう自分が大砂丘のどこにいるのかハッキリしないというだけでも泣きたくなるというのに、泣く暇も、助けを呼ぶ隙も小妖の群れは与えてくれない。
――悪縁と言うのも、此の世にはあるのでな。
神さまのそんな言葉が頭を過るが、ヨリエは頭を振ってそれを払拭する。
再び砂を蹴って飛ぶ。ヨリエは自分に言い聞かせるように呟いた。
「そんな事、あるもんか……！」
――事の始まりは、午前中にまで遡る。
（紅雨さんの所に行こう）
『箱』を血深泥接骨院に届けてから一週間が経った頃、ヨリエは唐突にそう思い付いた。
元々いずれ顔を出そうと思っていたのだが、そこはやはり人の子、体は一個しかない上に日常は忙しい。
今日だってまだまだやるべき事はそれなりに残っているのだが、でも、やっぱり気になるということにも限度がある。
元々やろうとなった事に対しては、人一倍行動力のあるヨリエだ。
さささっと神社の仕事をいつになく早いペースで片づけて、
すすすっと友達との約束を名残惜しさと共にキャンセルして、
ばばばっと動きやすい服装に着替えて――
「うん、よし、バッチリ、行ってきます！」
「ん？ おぉ、今日はいつも以上に忙しないな、如何した」
背中から掛けられる声に「ちょっとね！」とだけ返事をして、ヨリエは黒髪を靡かせて神社を後にするのだった。
「紅雨さん！ こんにち――！」
ばん！ と勢いよく扉を開けて接骨院に侵入したヨリエを出迎えたのは、死体だった。
「は――？」
下顎を喪失して脱力し、デスクチェアの背もたれに身を預けた女性の体。
紛れもなく、それはつい先ほどまで会おうと決意を固めていた女医、紅雨曇黒のものだった。
天井を見上げる紅い目は幽鬼のように血走り、白い肌は死体のように生気がない。
ヨリエは悲鳴を上げるよりも先に、思考を巡らせる。
――死んでる？！
――誰かに連絡！ 誰に？！
――とりあえず落ち着いて脈を。
――脈ってどう図るんだっけ？
――ええい！ とりあえず一回叫んでおくか！
「ぎゃあ――」
『目の前の個体 に問う――お前が、己の最初の 目撃者 か』
出し掛けた悲鳴は、誰かの声によって遮られた。
診察台の上――そこにいたは、機械仕掛けの獣だった。
『機械仕掛け』と言っても、その見た目は非常に粗悪 だ。
表現するなら、廃材を寄せ集めて造られた、出来の悪い狛犬と言うべきか。
その不細工機械犬の背中には先の黒い箱が、ガラクタの群れの一部となって、居心地が悪そうに添え付けられている。
「あ、あんたは……？」
『己 の名前 は■■■、用途 は――の――』
「え？ モデル、ロール……何？」
見た目通りの粗悪品なのか、肝心な部分がノイズになって聞こえない。
死体。機械犬。黒い箱。
何が何やらさっぱりだ。ヨリエは混沌とした状況の中、混乱しつつ次の一手を考えていた。
その時である。
――ぽんぽん。
誰かが、ヨリエの肩を叩いた。
「こ、今度は何ぃ……？」
恐る恐る振り向くと、そこにいたのは――他でもない、曇黒の『死体』だ。
下顎のない死体が動いて、自分の肩を叩いた。
あんまりにも、あんまりだ――ヨリエはついに卒倒しそうになる。
しかし曇黒の『死体』は、まるで新しい帽子でも被るかのように、懐から取り出した新しい『下顎』を取り付けると、
「あー、アー……ヨシ。悪いネ、驚かせて」
――喋り出した。
曇黒の『死体』――否、初めから死んでなどいなかったのだ――は、悪びれもせず「歳喰うと夜更かし出来なくなるネェ……」と欠伸をしながら背を伸ばす。
全身から力が抜ける。ヨリエはへなへなとその場に座り込んだ。
「よ、よ、ヨリエさんしんぞー 飛び出すかと思いましたよ！」
「そーなったらアタシが外科手術で戻してやるヨ」
「そういう事じゃなくってぇ！」
「ハハハ――とにかくサ、丁度呼ぼうかと思ってたんだヨ。『アレ』の調整で徹夜しててネ」
曇黒は診察台の上の機械犬を指差した。
「あの黒い箱の中身から話を聞こうと思ってネ。あの体……ゴーレム……ま、とにかく『体』に繋いでやったのサ」
『だがセキュリティにより検閲が掛かっている。自分について知ってはいるが、それを直接伝えることができない』
「らしいヨ。つまりは肝心な部分はなーんにも分かんないって事サ」
セキュリティ、検閲――なるほど、先ほどのノイズの正体はそれか、とヨリエは納得する。
曇黒は「あーんだけ苦労したのにネェ」と箱を小突く。
『こうして起動されたこと自体が己に取っては不足の事態だ。己の活動可能期間は一ヶ月に満たない。それまでに、何としても用途を全うしなければ、己が製造された意味はなくなる』
「一ケ月……それに『製造』って……」
「大方、ホムンクルスか何かだろうネ」
「それが、この箱の中に……？」
『正確に言えば魔術回路と大脳の一部だ』
「それって……」
大脳と魔術回路を摘出された『体』があるという訳で……。
「――胸糞悪い話だネ」
ヨリエの言いたいことは、曇黒が代弁した。
一か月という命の起源。パーツの様に扱われる肉体。
どんな命であれ、そんな扱いを受ける謂われは無い。
そういう思いが、ヨリエと曇黒の間で一致したのかは定かでないが……ともかく、目の前にある箱に詰められた人造の命に対する一種の憐憫が、ヨリエの中に湧き上がる。
『ここで待機するよりは効果的だと判断する。頼む。己を外に連れ出して、己の事を知る人間 を探して欲しい』
「アタシャひと眠りするヨ……アンタも、足はもうあるだろ」
『己はここの地理に疎い、それにこの体での単独行動は他者に警戒されかねない』
「あ、じゃあ、ヨリエさんが案内してあげよっか？」
だからなのかどうかは分からなかったが、そんな言葉が口から出ていた。
いや、この箱の正体が何であれ、ヨリエの中で答えは決まっていたに違いない。
『出来るのか？』
「任せて任せて！ これでも、顔は広い方ですからね！」
とりあえず、出来る範囲で手助けを。
年相応の良心に突き動かされて、ヨリエは箱の案内を買って出たのだった。
とはいえ、当てもなく片っ端から『このハコ何か知りませんか？！』とやっていてはキリがない。
ヨリエは先ず箱を発見した場所、美輪神社へと戻ることにした。
正直、電車内での人々の機械犬への奇異の目線は中々ツラかったが、言い出した手前引くわけにもいかない。
そうこうして八百万神祇大社境内に辿り着けば、妹のタヨリがその黄色い目をキラキラと輝かせて、
『一ヶ月だ。己に残された時間は少ない。こんなことをしている場合ではない』
「おて！」
『聞け。聞いているのか。言語は通じているのか』
「おかわり！」
『己は愛玩用 ではない。それは己の正しい用途 ではない。己の用途は……』
「一回回って、ワン！」
『異議を申し立てる 。おぶ――ワン』
箱とのレクリエーションを始めてしまい、調べる所ではなくなってしまったり。
参拝客の何人かに『変わった狛犬』として拝まれて、これもまた調べる所ではなくなってしまったり。
とにかく、神社に辿り着いてからしばらくの間は『箱』にとって、
『とんだ時間の浪費だ……待て、己に硬貨を入れる場所はない。直ちに停止しろ、停……ぐうっ』
あまり良い時間ではなかったようだった。
そんな慌ただしい時間が過ぎ去って、
『本当に己はここに放棄されていたのか。あまりにも用途に関係が無さすぎる』
「む、ヨリエさんのことを疑うのかね」
『疑いたくもなる。見ろ、ボディの隙間に硬貨が13枚も挿入されている。これは明らかに正しくない』
箱は抑揚のない口調で冷静に、しかし明らかに不満げな口振りで『被害』を報告する。
ぶるる、と箱が水浴びをした後の犬のように身を震わせると、言葉通り何枚かの硬貨が音を立ててその体から落ちた。
その様子がなんだかおかしくて、ヨリエはくすっと笑った。
「でも、ちょっと楽しくなかった？」
『楽しい……それは用途に必要な概念なのか？』
「うん、楽しくて、正しいこと。それがヨリエさんは大事だと思うのですよ」
『そういうものか』
「んふふ、今考えた」
『……あのドクターも似たような事を言っていた。『用途』ばかりが人生ではない、『不合理』なこともまた必要なことだ、と』
――あの人も、そんなこと言うんだ。
ヨリエは不思議な気分になって、曇黒の顔を思い出す。
下顎の外れた……いやいや、それは流石に怖すぎ。
煙とその匂いに燻された、白黒 の女性のしたり顔。
ちょっとだけ不思議な感じがした。
箱が言葉を続ける。
『だが、己は造られた存在だ。目的があって産み出された、いわば『道具』だ。人間とは違う』
『それに己は己の用途に疑問を抱かないように思考が規制 されている。己の用途が人間にとって『正しい』ものかどうかの判断は出来ない。それに『楽しい』という感情も良く分からない』
『そんな己に協力するのは、危険だとは思わないのか？』
「……どうだろうね、正直なところ、分かんないや」
「でもあたしは、あんたが悪い奴だとは思わない……いや、思いたくないんだと思う」
『何故だ』
「だってあたしの、この神社で出会ったから。ここでの出会いは、どんなものだって良縁だって信じたいから。あんたはきっと、楽しい……かは分かんないけど、正しい事をする為にあたしとここで出会ったんだ、って信じたいんだよ」
『場所と思想が結びついているのか』
「かもね。だってここ、神社だし」
にか、とヨリエはそばかす顔に笑顔を浮かべた。
箱はその笑顔を見、美輪神社の境内を見渡して、それから少し考えて、再び言葉を出力する。
『……己は『その時』には用途を優先するだろう』
『己の用途が、キミの言う『正しさ』から外れたものだとしたら、その時は阻止してくれて構わない。判断は、一任する』
「あんた……」
『ヨリエ』
「へ？」
『個体認識名 を記録しておく。そちらの方が、効果的だと判断した』
「……じゃあ、あんたはハチこ……『ハチ』だね」
『己の個体認識名か？』
「そーそー、いつまでも『あんた』じゃ疲れるしね！ よろしく、ハチ！」
『……登録を完了した、宜しく頼む』
「よーし、次！ 次行ってみよー！ 今日は歩くよー！」
「ヨリエ」
「大国主命様、どうかしたの？」
いつの間にか、出雲のランサー……大国主命がそこにいた。
「本当にあの狛犬に協力するのか？」
「何、もしかして、ハチと知り合い？」
「いや、そうではないが……余り佳くない気配がしてな」
大国主命は、美髭をさすりながら、
「……悪縁と言うのも、此の世にはあるのでな」
「む――」
『大分遠くまで来たな』
「ちょっとね、遠くから探した方が手間じゃないかなって」
嘘だ。本当は神社から――というより、大国主 から距離を置きたかった。
わざわざ花園大地という観光地を選んだのには、ある種の当てつけのようなものだ。
（悪縁、だなんて）
ヨリエの頭の中に、大国主の言葉がリフレインする。
あまり認めたくない言葉だった。とはいえ、彼の言葉にも一理あるかもしれない、とヨリエの中の冷静な部分が呟く。
そうだ、冷静になって考えてみれば、どう考えたって怪しいに決まっている。
悪縁というのも、あながち間違いでは――
「あー！ やめやめ！ ヨリエさんに暗い顔は似合わないぞー！ っと！」
ヨリエは頭をぶんぶんと振って、湧いて出た冷静な考えを否定する。
元々冷静さとは縁のない性格であるつもりだ。思ったが最後、ゴールまで突っ走る。
それがヨリエという少女の良い所であり、また欠点でもあるのだ――と、ヨリエは自身の中にモノローグを綴り、その感覚に酔う。
酔わなければ、色々とやっていけない、そんな気がして。
とはいえ、酔っていれば良い結果に巡り合うのかというのも、また別の話であることは確かだ。
観光地ゆえ、花園大地には多くの人がいる。いはするのだが、多すぎて逆に人探しには不向きだ。
何しろ多くが他の地域から来た外客だ。知り合いのお土産店や、ここに出立している神社等を当たってみるが、箱――否、ハチの事を知っている人物は全くいない。
収穫がゼロのまま、ヨリエとハチはついに花園大地の外縁――大砂丘の入り口にまで到達していた。
「はぁ、参っちゃいますね……一旦戻ろっか」
『停止しろ』
「はい？」
『人の気配がなくなった。それに、誰かに後をつけられている』
「後って……」
ヨリエが恐る恐る振り返ると、いたはずの観光客達の姿がない。
ただ一つだけ、人影があった。
不自然に、まるで影から染み出てきたような黒い人影――。
よた。よた。
それは、風に揺れる案山子のように頼りない足取りで、こちらに向かってくる。
異様なのはその上半身。
頭陀袋のようなものが無造作に取り付けられ、それは中で無数の『何か』が這いまわるかのように蠢いている。
備え付けられた手と、顔のない黒い頭はその蠢きに合わせてゆらゆらと揺れるのみだ。
気味が悪い、と思うより先に、体は後退を始めていた。
その動きを察知したのか、それとも既に敵の間合いに入っていたのか――。
『！』
「きゃあっ？！」
まるで水袋が破裂するかの如く、人影の上半身が破れ散ったのだ。
瞬間、ヨリエの体はハチの体当たりによって弾き飛ばされていた。
そして先ほどまでヨリエのいた場所――今はハチのいる場所を、無数の『群れ』が薙ぎ払った！
『ぐ』
「――！」
悲鳴すら出ないほどあっという間の出来事だった。
ハチの下半身は人影の上半身から飛び出た無数の小妖によって破壊され、地面に転げ落ちた。
小妖の群れは勢い良く空中へ飛び散ったかと思うと、今一度こちらに向けて群れを再構築し、追撃して来ようとする。
だがそれには僅かに時間が掛かるようだった。その隙にヨリエは上半身だけとなったハチの体へと呼びかける。
「ちょ、あんた、大丈夫？！」
『本体は無事だ。それより奴らは己の用途 の鍵となるかもしれない。己を放置して逃げる事を強く提案する』
「いやいや！ あんなのロクなもんじゃないでしょうが！ 逃げるよ！！」
ヨリエはハチの体から無理矢理本体たる箱を引き抜く。ずしり、と重たい感触が腕の中に伸し掛かる。
「ぐえ、おっも！」
『奴らの標的は己だ。ヨリエも狙われるぞ』
「それに関しては！ もう遅いかな、って！」
ヨリエはさほど豊富ではない魔術のレパートリーの中から、最も単純であろう身体強化の魔術を自分に適用する。
ぐん。と視界が広がり、腕の中の重みが和らぐ。よし、行ける。
ヨリエは一目散に、砂丘の方へと駆け出したのだった。
それが、おおよそ15分前。今はとにかく逃げて逃げて逃げ回っている。
それしか方法が思いつかない。とんだ方向に逃げてきてしまったものだとヨリエは自分を嗤う。
せめて街の方へ逃げていれば、一人二人では利かない数のおせっかい焼き達に助けて貰えたかもしれない。
だが、そうするまでの間に、小妖が街を破壊したら――？
そんな一抹の不安が、ヨリエを出来るだけ人気のない方向へと逃がしたのだ。
しかしながら、それは勝算のない選択でもあった。
「ひぃっ！！」
どおん！！ と大きな音を立てて小妖の群れが砂丘へと激突する。
砂が散り、ヨリエの頬を掠める。
そう、ここに人という人はいない。皮膚のない人馬だとか、餓鬼の一種だとか、そういう疫厄悪神の類モノがいるとかは、聞いたことがあるのだが。
むしろそれでも良い。この小妖の群れを引き受けてくれるなら何だって良い！ ヨリエは半ば自棄になりながら――
「う゛、ぁっ……？！」
『ヨリエ！』
ずきん、と鋭い痛みと共に、ヨリエはバランスを崩す。視界が傾いて、熱い砂に顔がぶつかった。
「あ……れ……？」
バタバタと動かしていたはずの足に、一気に疲労が訪れて動かなくなる。
（痛い。痛い痛い痛い）
激痛とまではいかないまでも、確かな痛みがビリビリト左側の足から伝わって来る。
避け損なった小妖の一匹が、ヨリエの左足を噛み裂いたのだ。
幸いにして、そこまで深い傷ではない。皮と肉の一部を持っていかれただけだ。
だがそれでも不意な衝撃と痛みは、齢13の少女の細い体を倒すのには十分な威力を持っていた。
じわり、と足から滲み出た鮮血が、砂丘に見る見るうちに染み込んでいく。
『ヨリエ、立て、走れ、逃げろ』
「あ……あ……」
転んだ勢いでヨリエの腕から放り出されたハチの抑揚のない、それでも焦っていることは伝わる声が聞こえる。
『あはは、ちょっと無理みたい』
そう笑って見せようとしたが、頬が強張って強がりの一つも言えない。
リアルな痛みと、苦痛が、何よりも精神を蝕んでいた。
麻痺していた恐怖という感覚が、脳内を支配しそうになる。
もうすぐ小妖がやってくる。立って、走って、逃げなければ、
そうしなければ、
（死ぬ）
ヨリエは頭が真っ白になる。何も考えられなくなりそうになる。全て、諦めそうになる――その、瞬間だった。
「やぁっと追いついたヨ」
頭上から声が聞こえる。ずさぁ、と砂の上を滑るかのような音が響くと同時に、目の前に翻ったのは、白衣の長い裾だった。
――曇黒が、そこに現れたのだ。
曇黒は向かってくる小妖の群れに対して、右腕をかざした――。
「術式 ・第�契�限解除 」
「雅洒髑髏 ・肉体維持機能 ・一部解除 」
「令呪 ・一画消費 ――セイバー、切っ先を ！」
『Sultur――』
一瞬の光と共に、曇黒の黒い右腕が、真白く染まった。
その手先には一本の美しい短剣がいつの間にか握られている――。
「切除――」
曇黒が短刀を振るう。その切っ先が切り裂くのは、小妖達そのものではない。
空間 ――。
切り開れた空間の一部がゆがみ、ひずみ、そこから溢れ出したのは、灼熱と乾燥の砂丘に似つかない『霧』だ。
その霧は、ヨリエ達と小妖の間に充満し周囲を包む。
しかしと言うべきか、無論と言うべきか、その霧はただの霧ではないのだ。
「……！」
そう、言うなれば『瘴気』――霧のカタチを取った死そのものだ。
その薄靄に触れた小妖達は一瞬の、或いは悲鳴を上げる間もなく、空間に存在を散らして行く。
瘴気は意思を持つかのように、小妖達の間を駆け回り、蹂躙し――瞬く間に、群れの全てを喰滅した。
曇黒はふぅ、とため息を付きながら、空間に出来た切開痕を縫合するかのように短剣を操る。
すると、瘴気は空間のひずみの中へと引きずり込まれ、何事もなかったかのように乾いた熱気が辺りを漂い始める。
静寂――小妖達の死骸は中空に消え、辺りに残ったのはヨリエと曇黒、そしてハチの本体だけだ。
「べ、紅雨、さ――」
「ぐぼっ」
ヨリエが口を開く、曇黒は血を吐いた。
鮮やかな紅色が、砂に吸い込まれて消えて行く。
短剣が虚空に消える。白く染まった右腕が、指先からボロボロと崩れて行った。
ぐらりと倒れそうになる曇黒の体を、ヨリエは咄嗟に立ち上がって支える。
「ハ……捨て身の必殺技ってやつサ。我ながら、カッコイイじゃないか……けほっ」
「じ、自分で言うことじゃないやつですって！ 大丈夫なんですか？！」
「大丈夫、大丈夫だヨ、慣れっこサ――そんな事よりアンタだ……足、すぐに診るからネ」
「あ……」
指摘されるまで、そうとは気付かないのは不思議なものである。
ヨリエは小妖に食い千切られ、鮮血を流す己の左足――を見ると、ガクンとその場に崩れ落ちる。
「い……痛゛ったぁー！！」
「……消毒と止血だけすれば大丈夫だネ。ああクソッ、右腕がないとやりにくいったら」
大声で
曇黒は片腕で器用にヨリエの足を治療するついでに、連絡機器を取り出すと、その先にいる人物へと話しかける。
「アイコ、そのままこっちだヨ。すぐ来れるかい」
『ドクタースカル、人遣い、メイド遣いが荒いですの！』
どるるるん。とエンジン音が響き、向こうから一台の軽トラックが砂塵を巻き上げてやって来るのを見て、ヨリエはようやく人心地ついたのか、大きなため息を付くのだった。
『……こちらの回収も忘れずに頼む』
その一方で、黒い箱が寂し気に呟いた。
『箱』を抱きかかえて全力疾走しながら、その少女はふと考えた。
「はぁ、はっ！」
――どうして、
『ヨリエ、3時方向から来るぞ、避けろ』
「そんなこと言ったってえ！ ――ひゃあ！」
腕の中で喋るこの『箱』のせい？
それとも、この『箱』を喋れるようにした医者のせい？
それとも、この『箱』を見捨てられなかった自分のせい？
……それとも、この『箱』に纏わる陰謀、事件のせいだろうか？
答えは出ない。
砂丘を蹴って10時方向に飛ぶ、側面から小妖の群れが先ほどまで自分のいた場所に殺到し、砂塵が巻き上がった。
振り返っている暇はない。
肉体強化の魔術を掛けての全力疾走、それも命を掛けての疾走に、ひりひりと若い体が灼熱する。
『次は5、7、10時の方向から来る。その次は――』
「一気に言わないで欲しいなあ？！」
状況は、あまりにも多勢に無勢と言わざるを得ない。
追ってくる小妖の数はそれはもう悍ましいとか恐るべきとかグロいとか、とにかく物凄いと表現すべきだ。
両手はそれなりに重たい箱のために塞がっているし、もし使えても普段使いのお祓い棒だけでは手に余るのは明白である。
なので、とにかく逃げるしかない。
もう自分が大砂丘のどこにいるのかハッキリしないというだけでも泣きたくなるというのに、泣く暇も、助けを呼ぶ隙も小妖の群れは与えてくれない。
――悪縁と言うのも、此の世にはあるのでな。
神さまのそんな言葉が頭を過るが、ヨリエは頭を振ってそれを払拭する。
再び砂を蹴って飛ぶ。ヨリエは自分に言い聞かせるように呟いた。
「そんな事、あるもんか……！」
――事の始まりは、午前中にまで遡る。
（紅雨さんの所に行こう）
『箱』を血深泥接骨院に届けてから一週間が経った頃、ヨリエは唐突にそう思い付いた。
元々いずれ顔を出そうと思っていたのだが、そこはやはり人の子、体は一個しかない上に日常は忙しい。
今日だってまだまだやるべき事はそれなりに残っているのだが、でも、やっぱり気になるということにも限度がある。
元々やろうとなった事に対しては、人一倍行動力のあるヨリエだ。
さささっと神社の仕事をいつになく早いペースで片づけて、
すすすっと友達との約束を名残惜しさと共にキャンセルして、
ばばばっと動きやすい服装に着替えて――
「うん、よし、バッチリ、行ってきます！」
「ん？ おぉ、今日はいつも以上に忙しないな、如何した」
背中から掛けられる声に「ちょっとね！」とだけ返事をして、ヨリエは黒髪を靡かせて神社を後にするのだった。
「紅雨さん！ こんにち――！」
ばん！ と勢いよく扉を開けて接骨院に侵入したヨリエを出迎えたのは、死体だった。
「は――？」
下顎を喪失して脱力し、デスクチェアの背もたれに身を預けた女性の体。
紛れもなく、それはつい先ほどまで会おうと決意を固めていた女医、紅雨曇黒のものだった。
天井を見上げる紅い目は幽鬼のように血走り、白い肌は死体のように生気がない。
ヨリエは悲鳴を上げるよりも先に、思考を巡らせる。
――死んでる？！
――誰かに連絡！ 誰に？！
――とりあえず落ち着いて脈を。
――脈ってどう図るんだっけ？
――ええい！ とりあえず一回叫んでおくか！
「ぎゃあ――」
『目の前の
出し掛けた悲鳴は、誰かの声によって遮られた。
診察台の上――そこにいたは、機械仕掛けの獣だった。
『機械仕掛け』と言っても、その見た目は非常に
表現するなら、廃材を寄せ集めて造られた、出来の悪い狛犬と言うべきか。
その不細工機械犬の背中には先の黒い箱が、ガラクタの群れの一部となって、居心地が悪そうに添え付けられている。
「あ、あんたは……？」
『
「え？ モデル、ロール……何？」
見た目通りの粗悪品なのか、肝心な部分がノイズになって聞こえない。
死体。機械犬。黒い箱。
何が何やらさっぱりだ。ヨリエは混沌とした状況の中、混乱しつつ次の一手を考えていた。
その時である。
――ぽんぽん。
誰かが、ヨリエの肩を叩いた。
「こ、今度は何ぃ……？」
恐る恐る振り向くと、そこにいたのは――他でもない、曇黒の『死体』だ。
下顎のない死体が動いて、自分の肩を叩いた。
あんまりにも、あんまりだ――ヨリエはついに卒倒しそうになる。
しかし曇黒の『死体』は、まるで新しい帽子でも被るかのように、懐から取り出した新しい『下顎』を取り付けると、
「あー、アー……ヨシ。悪いネ、驚かせて」
――喋り出した。
曇黒の『死体』――否、初めから死んでなどいなかったのだ――は、悪びれもせず「歳喰うと夜更かし出来なくなるネェ……」と欠伸をしながら背を伸ばす。
全身から力が抜ける。ヨリエはへなへなとその場に座り込んだ。
「よ、よ、ヨリエさん
「そーなったらアタシが外科手術で戻してやるヨ」
「そういう事じゃなくってぇ！」
「ハハハ――とにかくサ、丁度呼ぼうかと思ってたんだヨ。『アレ』の調整で徹夜しててネ」
曇黒は診察台の上の機械犬を指差した。
「あの黒い箱の中身から話を聞こうと思ってネ。あの体……ゴーレム……ま、とにかく『体』に繋いでやったのサ」
『だがセキュリティにより検閲が掛かっている。自分について知ってはいるが、それを直接伝えることができない』
「らしいヨ。つまりは肝心な部分はなーんにも分かんないって事サ」
セキュリティ、検閲――なるほど、先ほどのノイズの正体はそれか、とヨリエは納得する。
曇黒は「あーんだけ苦労したのにネェ」と箱を小突く。
『こうして起動されたこと自体が己に取っては不足の事態だ。己の活動可能期間は一ヶ月に満たない。それまでに、何としても用途を全うしなければ、己が製造された意味はなくなる』
「一ケ月……それに『製造』って……」
「大方、ホムンクルスか何かだろうネ」
「それが、この箱の中に……？」
『正確に言えば魔術回路と大脳の一部だ』
「それって……」
大脳と魔術回路を摘出された『体』があるという訳で……。
「――胸糞悪い話だネ」
ヨリエの言いたいことは、曇黒が代弁した。
一か月という命の起源。パーツの様に扱われる肉体。
どんな命であれ、そんな扱いを受ける謂われは無い。
そういう思いが、ヨリエと曇黒の間で一致したのかは定かでないが……ともかく、目の前にある箱に詰められた人造の命に対する一種の憐憫が、ヨリエの中に湧き上がる。
『ここで待機するよりは効果的だと判断する。頼む。己を外に連れ出して、己の事を知る
「アタシャひと眠りするヨ……アンタも、足はもうあるだろ」
『己はここの地理に疎い、それにこの体での単独行動は他者に警戒されかねない』
「あ、じゃあ、ヨリエさんが案内してあげよっか？」
だからなのかどうかは分からなかったが、そんな言葉が口から出ていた。
いや、この箱の正体が何であれ、ヨリエの中で答えは決まっていたに違いない。
『出来るのか？』
「任せて任せて！ これでも、顔は広い方ですからね！」
とりあえず、出来る範囲で手助けを。
年相応の良心に突き動かされて、ヨリエは箱の案内を買って出たのだった。
とはいえ、当てもなく片っ端から『このハコ何か知りませんか？！』とやっていてはキリがない。
ヨリエは先ず箱を発見した場所、美輪神社へと戻ることにした。
正直、電車内での人々の機械犬への奇異の目線は中々ツラかったが、言い出した手前引くわけにもいかない。
そうこうして八百万神祇大社境内に辿り着けば、妹のタヨリがその黄色い目をキラキラと輝かせて、
『一ヶ月だ。己に残された時間は少ない。こんなことをしている場合ではない』
「おて！」
『聞け。聞いているのか。言語は通じているのか』
「おかわり！」
『己は
「一回回って、ワン！」
『
箱とのレクリエーションを始めてしまい、調べる所ではなくなってしまったり。
参拝客の何人かに『変わった狛犬』として拝まれて、これもまた調べる所ではなくなってしまったり。
とにかく、神社に辿り着いてからしばらくの間は『箱』にとって、
『とんだ時間の浪費だ……待て、己に硬貨を入れる場所はない。直ちに停止しろ、停……ぐうっ』
あまり良い時間ではなかったようだった。
そんな慌ただしい時間が過ぎ去って、
『本当に己はここに放棄されていたのか。あまりにも用途に関係が無さすぎる』
「む、ヨリエさんのことを疑うのかね」
『疑いたくもなる。見ろ、ボディの隙間に硬貨が13枚も挿入されている。これは明らかに正しくない』
箱は抑揚のない口調で冷静に、しかし明らかに不満げな口振りで『被害』を報告する。
ぶるる、と箱が水浴びをした後の犬のように身を震わせると、言葉通り何枚かの硬貨が音を立ててその体から落ちた。
その様子がなんだかおかしくて、ヨリエはくすっと笑った。
「でも、ちょっと楽しくなかった？」
『楽しい……それは用途に必要な概念なのか？』
「うん、楽しくて、正しいこと。それがヨリエさんは大事だと思うのですよ」
『そういうものか』
「んふふ、今考えた」
『……あのドクターも似たような事を言っていた。『用途』ばかりが人生ではない、『不合理』なこともまた必要なことだ、と』
――あの人も、そんなこと言うんだ。
ヨリエは不思議な気分になって、曇黒の顔を思い出す。
下顎の外れた……いやいや、それは流石に怖すぎ。
煙とその匂いに燻された、
ちょっとだけ不思議な感じがした。
箱が言葉を続ける。
『だが、己は造られた存在だ。目的があって産み出された、いわば『道具』だ。人間とは違う』
『それに己は己の用途に疑問を抱かないように思考が
『そんな己に協力するのは、危険だとは思わないのか？』
「……どうだろうね、正直なところ、分かんないや」
「でもあたしは、あんたが悪い奴だとは思わない……いや、思いたくないんだと思う」
『何故だ』
「だってあたしの、この神社で出会ったから。ここでの出会いは、どんなものだって良縁だって信じたいから。あんたはきっと、楽しい……かは分かんないけど、正しい事をする為にあたしとここで出会ったんだ、って信じたいんだよ」
『場所と思想が結びついているのか』
「かもね。だってここ、神社だし」
にか、とヨリエはそばかす顔に笑顔を浮かべた。
箱はその笑顔を見、美輪神社の境内を見渡して、それから少し考えて、再び言葉を出力する。
『……己は『その時』には用途を優先するだろう』
『己の用途が、キミの言う『正しさ』から外れたものだとしたら、その時は阻止してくれて構わない。判断は、一任する』
「あんた……」
『ヨリエ』
「へ？」
『
「……じゃあ、あんたはハチこ……『ハチ』だね」
『己の個体認識名か？』
「そーそー、いつまでも『あんた』じゃ疲れるしね！ よろしく、ハチ！」
『……登録を完了した、宜しく頼む』
「よーし、次！ 次行ってみよー！ 今日は歩くよー！」
「ヨリエ」
「大国主命様、どうかしたの？」
いつの間にか、出雲のランサー……大国主命がそこにいた。
「本当にあの狛犬に協力するのか？」
「何、もしかして、ハチと知り合い？」
「いや、そうではないが……余り佳くない気配がしてな」
大国主命は、美髭をさすりながら、
「……悪縁と言うのも、此の世にはあるのでな」
「む――」
『大分遠くまで来たな』
「ちょっとね、遠くから探した方が手間じゃないかなって」
嘘だ。本当は神社から――というより、
わざわざ花園大地という観光地を選んだのには、ある種の当てつけのようなものだ。
（悪縁、だなんて）
ヨリエの頭の中に、大国主の言葉がリフレインする。
あまり認めたくない言葉だった。とはいえ、彼の言葉にも一理あるかもしれない、とヨリエの中の冷静な部分が呟く。
そうだ、冷静になって考えてみれば、どう考えたって怪しいに決まっている。
悪縁というのも、あながち間違いでは――
「あー！ やめやめ！ ヨリエさんに暗い顔は似合わないぞー！ っと！」
ヨリエは頭をぶんぶんと振って、湧いて出た冷静な考えを否定する。
元々冷静さとは縁のない性格であるつもりだ。思ったが最後、ゴールまで突っ走る。
それがヨリエという少女の良い所であり、また欠点でもあるのだ――と、ヨリエは自身の中にモノローグを綴り、その感覚に酔う。
酔わなければ、色々とやっていけない、そんな気がして。
とはいえ、酔っていれば良い結果に巡り合うのかというのも、また別の話であることは確かだ。
観光地ゆえ、花園大地には多くの人がいる。いはするのだが、多すぎて逆に人探しには不向きだ。
何しろ多くが他の地域から来た外客だ。知り合いのお土産店や、ここに出立している神社等を当たってみるが、箱――否、ハチの事を知っている人物は全くいない。
収穫がゼロのまま、ヨリエとハチはついに花園大地の外縁――大砂丘の入り口にまで到達していた。
「はぁ、参っちゃいますね……一旦戻ろっか」
『停止しろ』
「はい？」
『人の気配がなくなった。それに、誰かに後をつけられている』
「後って……」
ヨリエが恐る恐る振り返ると、いたはずの観光客達の姿がない。
ただ一つだけ、人影があった。
不自然に、まるで影から染み出てきたような黒い人影――。
よた。よた。
それは、風に揺れる案山子のように頼りない足取りで、こちらに向かってくる。
異様なのはその上半身。
頭陀袋のようなものが無造作に取り付けられ、それは中で無数の『何か』が這いまわるかのように蠢いている。
備え付けられた手と、顔のない黒い頭はその蠢きに合わせてゆらゆらと揺れるのみだ。
気味が悪い、と思うより先に、体は後退を始めていた。
その動きを察知したのか、それとも既に敵の間合いに入っていたのか――。
『！』
「きゃあっ？！」
まるで水袋が破裂するかの如く、人影の上半身が破れ散ったのだ。
瞬間、ヨリエの体はハチの体当たりによって弾き飛ばされていた。
そして先ほどまでヨリエのいた場所――今はハチのいる場所を、無数の『群れ』が薙ぎ払った！
『ぐ』
「――！」
悲鳴すら出ないほどあっという間の出来事だった。
ハチの下半身は人影の上半身から飛び出た無数の小妖によって破壊され、地面に転げ落ちた。
小妖の群れは勢い良く空中へ飛び散ったかと思うと、今一度こちらに向けて群れを再構築し、追撃して来ようとする。
だがそれには僅かに時間が掛かるようだった。その隙にヨリエは上半身だけとなったハチの体へと呼びかける。
「ちょ、あんた、大丈夫？！」
『本体は無事だ。それより奴らは己の
「いやいや！ あんなのロクなもんじゃないでしょうが！ 逃げるよ！！」
ヨリエはハチの体から無理矢理本体たる箱を引き抜く。ずしり、と重たい感触が腕の中に伸し掛かる。
「ぐえ、おっも！」
『奴らの標的は己だ。ヨリエも狙われるぞ』
「それに関しては！ もう遅いかな、って！」
ヨリエはさほど豊富ではない魔術のレパートリーの中から、最も単純であろう身体強化の魔術を自分に適用する。
ぐん。と視界が広がり、腕の中の重みが和らぐ。よし、行ける。
ヨリエは一目散に、砂丘の方へと駆け出したのだった。
それが、おおよそ15分前。今はとにかく逃げて逃げて逃げ回っている。
それしか方法が思いつかない。とんだ方向に逃げてきてしまったものだとヨリエは自分を嗤う。
せめて街の方へ逃げていれば、一人二人では利かない数のおせっかい焼き達に助けて貰えたかもしれない。
だが、そうするまでの間に、小妖が街を破壊したら――？
そんな一抹の不安が、ヨリエを出来るだけ人気のない方向へと逃がしたのだ。
しかしながら、それは勝算のない選択でもあった。
「ひぃっ！！」
どおん！！ と大きな音を立てて小妖の群れが砂丘へと激突する。
砂が散り、ヨリエの頬を掠める。
そう、ここに人という人はいない。皮膚のない人馬だとか、餓鬼の一種だとか、そういう疫厄悪神の類モノがいるとかは、聞いたことがあるのだが。
むしろそれでも良い。この小妖の群れを引き受けてくれるなら何だって良い！ ヨリエは半ば自棄になりながら――
「う゛、ぁっ……？！」
『ヨリエ！』
ずきん、と鋭い痛みと共に、ヨリエはバランスを崩す。視界が傾いて、熱い砂に顔がぶつかった。
「あ……れ……？」
バタバタと動かしていたはずの足に、一気に疲労が訪れて動かなくなる。
（痛い。痛い痛い痛い）
激痛とまではいかないまでも、確かな痛みがビリビリト左側の足から伝わって来る。
避け損なった小妖の一匹が、ヨリエの左足を噛み裂いたのだ。
幸いにして、そこまで深い傷ではない。皮と肉の一部を持っていかれただけだ。
だがそれでも不意な衝撃と痛みは、齢13の少女の細い体を倒すのには十分な威力を持っていた。
じわり、と足から滲み出た鮮血が、砂丘に見る見るうちに染み込んでいく。
『ヨリエ、立て、走れ、逃げろ』
「あ……あ……」
転んだ勢いでヨリエの腕から放り出されたハチの抑揚のない、それでも焦っていることは伝わる声が聞こえる。
『あはは、ちょっと無理みたい』
そう笑って見せようとしたが、頬が強張って強がりの一つも言えない。
リアルな痛みと、苦痛が、何よりも精神を蝕んでいた。
麻痺していた恐怖という感覚が、脳内を支配しそうになる。
もうすぐ小妖がやってくる。立って、走って、逃げなければ、
そうしなければ、
（死ぬ）
ヨリエは頭が真っ白になる。何も考えられなくなりそうになる。全て、諦めそうになる――その、瞬間だった。
「やぁっと追いついたヨ」
頭上から声が聞こえる。ずさぁ、と砂の上を滑るかのような音が響くと同時に、目の前に翻ったのは、白衣の長い裾だった。
――曇黒が、そこに現れたのだ。
曇黒は向かってくる小妖の群れに対して、右腕をかざした――。
「
「
「
『Sultur――』
一瞬の光と共に、曇黒の黒い右腕が、真白く染まった。
その手先には一本の美しい短剣がいつの間にか握られている――。
「切除――」
曇黒が短刀を振るう。その切っ先が切り裂くのは、小妖達そのものではない。
切り開れた空間の一部がゆがみ、ひずみ、そこから溢れ出したのは、灼熱と乾燥の砂丘に似つかない『霧』だ。
その霧は、ヨリエ達と小妖の間に充満し周囲を包む。
しかしと言うべきか、無論と言うべきか、その霧はただの霧ではないのだ。
「……！」
そう、言うなれば『瘴気』――霧のカタチを取った死そのものだ。
その薄靄に触れた小妖達は一瞬の、或いは悲鳴を上げる間もなく、空間に存在を散らして行く。
瘴気は意思を持つかのように、小妖達の間を駆け回り、蹂躙し――瞬く間に、群れの全てを喰滅した。
曇黒はふぅ、とため息を付きながら、空間に出来た切開痕を縫合するかのように短剣を操る。
すると、瘴気は空間のひずみの中へと引きずり込まれ、何事もなかったかのように乾いた熱気が辺りを漂い始める。
静寂――小妖達の死骸は中空に消え、辺りに残ったのはヨリエと曇黒、そしてハチの本体だけだ。
「べ、紅雨、さ――」
「ぐぼっ」
ヨリエが口を開く、曇黒は血を吐いた。
鮮やかな紅色が、砂に吸い込まれて消えて行く。
短剣が虚空に消える。白く染まった右腕が、指先からボロボロと崩れて行った。
ぐらりと倒れそうになる曇黒の体を、ヨリエは咄嗟に立ち上がって支える。
「ハ……捨て身の必殺技ってやつサ。我ながら、カッコイイじゃないか……けほっ」
「じ、自分で言うことじゃないやつですって！ 大丈夫なんですか？！」
「大丈夫、大丈夫だヨ、慣れっこサ――そんな事よりアンタだ……足、すぐに診るからネ」
「あ……」
指摘されるまで、そうとは気付かないのは不思議なものである。
ヨリエは小妖に食い千切られ、鮮血を流す己の左足――を見ると、ガクンとその場に崩れ落ちる。
「い……痛゛ったぁー！！」
「……消毒と止血だけすれば大丈夫だネ。ああクソッ、右腕がないとやりにくいったら」
大声で
曇黒は片腕で器用にヨリエの足を治療するついでに、連絡機器を取り出すと、その先にいる人物へと話しかける。
「アイコ、そのままこっちだヨ。すぐ来れるかい」
『ドクタースカル、人遣い、メイド遣いが荒いですの！』
どるるるん。とエンジン音が響き、向こうから一台の軽トラックが砂塵を巻き上げてやって来るのを見て、ヨリエはようやく人心地ついたのか、大きなため息を付くのだった。
『……こちらの回収も忘れずに頼む』
その一方で、黒い箱が寂し気に呟いた。
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