最終更新:ID:juCKYzNXDw 2019年04月18日(木) 22:29:18履歴
有子の手のひらがジャンクパーツ満載の木箱の取っ手を握る。
力を込めようとしたとき、紅葉の葉のようにまだまだ小さな手の上へ、やんわりと被さるものがあった。
「うひゃっ!?」
背後から手を伸ばして触れられたので素っ頓狂な声が出てしまう。まったく存在に気づかなかった。
幼い頃からいろいろと危機を潜り抜けて来た身の上、忍び寄る気配というものには敏感なはずだが完全に意識の外に『彼女』はいた。
仕事に集中していたからか。あるいは。
「失礼。ですがその荷物は私が持ちましょうアリス。淑女が担ぐには少々重すぎる」
有子が振り向くと間近に『彼女』の姿があった。
それほど大柄ではない。さすがに11歳の有子よりは大きいが、少し薄めな肉付きであること以外は女性としてごく自然な体格だ。
シャツの上からベストを羽織り、下はバギーパンツにスニーカー。いつも共通しているのは、そういったどことなく男性的な空気の装いであること。
そして美しい金髪をおさげにした上から大きめの帽子を被っていることである。帽子のつばと前髪に隠れて目元の表情が伺いにくい。
代わりに、口元は微かに柔らかく綻んでいた。有子と喋る時はたいていこんなふうに微笑んでくれるのだ。
「あなたはあちらの陳列棚の整理をなさるとよいでしょう。業務内容外とはいえこのくらいはお手伝いさせてください」
「あ、うん。ほなおおきに。よろしゅうおねがいしますおさげさん」
「はい。お任せを」
こくりと頷くと、『彼女』は木箱をあっさりと抱えて店の奥へ運んでいってしまう。有子ならば顔を真っ赤にして踏ん張っても亀のような速度でしか運べないのに。
少し呆気に取られたような調子で背中を見送った有子の耳に、耳障りな音が飛び込んできた。
『は。腐ってもあいつがサーヴァントだったことを忘れたか?ガキ。あのくらい指先ひとつで支えてみせるだろうよ。
それより片付けはどうした。ぼけっとあいつを見てるだけじゃ終わるものだっていつまで経っても終わらないぞ』
「わ、分かっとるわ!今からやろうとしとったんや!放っといてくれへんか、インコのくせに!」
『インコじゃない、鸚鵡だ鸚鵡。オレにとっちゃどっちでもいいけどな』
軽石を擦り合わせるような、ざらざらとした響きの声音。しかし、肩を怒らせて振り向いた有子の視線の先に人間はいない。
見目鮮やかな極彩色の鳥―――鸚鵡が1羽、椅子の背もたれに留まっていた。鸚鵡という鳥の希少性以外に何か外見について特筆すべき点はない。
至ってごく自然の鸚鵡だ。ただひとつ変わった点があるとすると、この鸚鵡がくちばしを開くと“よく喋る”のだ。
『だいたいお前は棚によって仕事の力の入れ方を変えるのが下らないんだ。
そっちのやたら甘ったるい匂いのしそうな物ばかり並んでる棚は一品一品丁寧に並べるのに、こっちの日用品だか興味ねぇ骨董品だかは適当にするだろう。
この前なんざ………』
「う、うっさいわアホ!そん時はちゃんと並び替えたやろ!……開店前ギリギリやったけど。あーもう、ほんま細かいことまでネチネチネチネチ……」
『ふん。釘1本無駄にしたがらない、ケチくさい男てのがオレの評判でな』
皮肉めいた口調で有子を弄る鸚鵡へ憤懣やるかたないという目線できっと睨みつけると、有子は1日を過ごしたことで乱れた陳列棚を綺麗に揃え直しだした。
―――モザイク市に夜の帳が落ちていく。
そのうちのひとつ「梅田」に居を構える小物店「アリス・ショップ」。そのショウウィンドウから見える店外の景色の色合いにも、少しずつ薄墨が足されていっていた。
店内は照明によって忍び寄る夜の気配を駆逐していたが、客は既にひとりもいない。閑古鳥が鳴いている、というわけではない。
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に因んだファンシーグッズ……に留まらず、日用雑貨品やちょっとした骨董品まで取り揃えたこの店は毎日それなりの客足を誇っている。
が、今は既に閉店時間。客はとうに帰路へ就いた。ぶら下げられたクローズの看板が吹き始めた夜風に揺れている。
そんな中、明日の開店へ向けた棚卸しが店内では着々と進んでいた。
基本的にこれらは有子の仕事だ。店長であるレヴァナントは店の奥――外観こそファンシーだがアリス・ショップは日本家屋を改築したものだ――の居住スペースか応接室が主な縄張り。
店番も、そして現在行っているクローズ作業も多くは有子が担っている。
が、接客には一切関わろうとしないものの体力のいる荷物運びや清掃に限っては有子の手伝いをする者がこの店にはいた。
ただしそれは店員ではない。というのも、『彼女』はこの店の警備員………いわゆる、用心棒なのだ。
「アリス。さしあたっての大きな荷物は全て所定の箇所へ運びました。そちらは問題ありませんか?」
「おおきに。こっちはこの棚で全部おしまい………すぐ済ませるから待っててや、おさげさん」
「いえ。どうか焦らず。特にこの後予定のある身でもありませんから」
穏やかにそう言って、セイバーは開店している間ずっと座っている椅子へ腰掛けた。留まっていた鸚鵡が軽く羽ばたき、彼女の肩へと留まり直す。
二言三言、彼らの間で何か言葉が交われたようだったが小声だったので聞き取れはしなかった。
棚に残った品数を数えながら、有子は横目で椅子に座ったセイバーの様子をこっそり伺った。
そう。セイバー。この用心棒はセイバーのサーヴァントなのだ。そしてそれ以上のことを有子は何も知らないのだ。
彼女は真名を語ろうとしない。聞いたところで困ったように微笑むばかりで何も口にしようとしない。
サーヴァントが持つ本来の霊衣を身に纏っているところなど一度も見たこともない。いつも私服で通勤してきて帰っていく。佇んでいるぶんには普通の人間のようだ。
セイバーと始終一緒にいる喋る鸚鵡だけが普通ではない、サーヴァントらしい変わった部分だった。
ただ。謎めいた部分があるからといって、有子がセイバーに不信感を抱いていると言えばノーだ。
むしろ(口煩い鸚鵡は玉に瑕だが)彼女と共にいることを好んでさえいる。都市戦争に浮かれるサーヴァントたちを含め、権威や欲心に囚われる“大人”というものを嫌う彼女にしては、珍しく。
セイバーは都市間対抗擬似聖杯戦争 ―――「難波」と「梅田」の間で行われるあの大規模な都市戦争には興味が無いようだった。
正確に言えば、参加することに意欲を持たない。知り合いが映っているのか、時折中継映像を見つめていることはあるが、それだけだ。
日頃から周りに流されること無く、清廉潔白であり、緩やかな様子でありながら確かな芯を感じさせ、有子のような幼い子が相手でも対等に立って話をしようとする。
有子にとっては理想的な“大人”へ限りなく近しい存在である。共にいることは小気味よい。真名が分からぬ程度、有子には些細なことだった。
―――と。有子が全てのクローズ作業を終えようとした頃。
がらがら、と車輪が回る音がする。レジのある店の最奥から更に先、このアリス・ショップの居住スペースの扉が開けられた音だ。
木枠と擦りガラスというレトロチックな仕切り戸をスライドさせて現れたのは、銀糸の長髪を無造作に肩から下へ流した長身の美女。
名をレヴァナント・ラビット―――この店のオーナーであった。
有子とセイバーのふたりから集めた注目へさして反応も示さず、いつもの据わった瞳でぐるりと片付いた店内を見回す。
片付き様を無造作に確かめると、にこりともしない能面のままレヴァナントはふたりと1羽に言った。
「十分だ。ユウコ、もう上がっていい。セイバーもご苦労」
「もー、トラ姉も少しは手伝ってくれへん?お店のことはいっつもウチばっかりやん。おさげさんがいひんかったらまだ片付いてへんよー」
「私は奥で別の仕事をやってるだけだ。怠けているわけじゃない」
腰に手をやって有子がレヴァナントを非難していると、背後でかたんと軽い音がした。
セイバーが立ち上がって腰掛けていた椅子の位置を正し、帰る準備をしていたのだ。
ポケットに入る以上のものは持ってこず、いつも身一つでやってくる彼女はそれだけでもう帰路につける。
視線に気づいたセイバーは有子とレヴァナントに向かって折り目正しくぺこりと小さく会釈した。
「では、今日はこれで。明日もよろしくおねがいします」
『今日も1日何もなかったがな。やったことといえば店開き前と店閉め後に少し雑用を手伝っただけだ。こいつに用心棒が聞いて呆れると言ってやれよ』
「もう。私が本来の仕事を遂行する必要がないのは結構なことではありませんか。平和が一番です」
皮肉気味の笑い混じりに喋る鸚鵡をセイバーが呆れたような調子で嗜める。
いつものことだった。斜に構えた態度の鸚鵡の言葉をセイバーが受けて返す。どちらも互いに遠慮がなく、まるで兄妹のような遣り取りをする。
店内の洋装からは一変、昔の日本家屋のような有様の居住区画に立っていたレヴァナントが特に表情を変えるでもなく言った。
「相応の事態に相応のリスクを負ってもらう。そういう契約内容だ。相応の事態が来ない以上は構いやしない。では明日も開店前に」
「はい。アリスも今日1日お疲れ様でした。また明日」
「うん!また明日なー、おさげさん!」
元気よく返事をした有子にもう1度にこりと微笑むと、アリス・ショップの真っ赤なドアを押して退店していく。
有子がつけたあだ名の元になった、おさげの房がふわりと揺れるのが目を惹く。涼やかなドアベルの音と共に扉は閉まり、薄闇の降りた街へセイバーと鸚鵡は吸い込まれていった。
後に残ったのはアリス・ショップの従業員がふたり。はぁ、と感嘆の溜め息混じりにそれを見送りながら有子は言った。
「なんやろな。ちょっとしたことでも絵になるわあの人。かっこええわぁ」
「かっこいい、か。まぁ、そうかもしれないな」
レヴァナントの口から漏れたそれを聞き逃す有子ではない。ぎょっとして振り向いた。
かっこいい、だなんて。そんな抽象的なものに感じ入るような、そんな精神構造はしていないはずの人間なのだ。レヴァナントは。
振り向いて目にしたレヴァナントの表情はというと、残念というべきか、果たして普段と対して違いのない仏頂面であった。
「私と初めて会ったときもそんな調子だった。
海底新地のどん底だっていうのに、まるで地上の星みたいにきらきら光る。どうしようもないほど澱んだ底にあってさえ隠しきれないほどに。
………いろいろと見てきたつもりだが。あんな綺羅びやかな英霊は過去にひとりだかふたりだか、その程度だ」
「へ、へぇ〜……」
妙に饒舌にレヴァナントが喋る。
虚偽は無いのだろう。冗談はともかく、どうでもいいことに嘘をつくような者ではない。
ああ、と敏に有子は悟る。レヴァナントは有子がセイバーを大変尊敬していることを知っている。
だからセイバーをただ持ち上げてるわけではなく、有子に配慮をしているのだろう。
「駄目元で声をかけてみたら向こうも定職を探していて……あとはユウコがいつも見ている通りだ。
こちらで賃金を示したらそれは適切な料金ではないからもっと下げろなんて言い出してな。結果的には実に安上がりに腕利きを雇えている、というわけだ」
全く英霊というものは分からないな、とレヴァナントが少し呆れたように鼻で笑う。
有子には分からない。
『おさげさん』は立派な英雄であり、大人だと思う。真名こそ名乗ろうとしないが、落ち着いていて余裕がある。
都市間対抗擬似聖杯戦争 という分かりやすい闘争に現を抜かすサーヴァントたちより、有子の基準に拠ればよっぽど洗練された英霊だ。本当に守るべきものを大事にしようとする、在り方
が綺麗で美しい英雄だ。
だがしかし同時に、齢にして11という若さにして様々な人心の移り変わりを見てきた見てきた有子はこうも思うのだ。
それが、『そうあって欲しい』というだけの自分の理想の投影に過ぎないことに。
有子はこのアリス・ショップで用心棒をしている時の姿しか彼女のことを知らない。人間には表と裏があるもの。それはサーヴァントでも変わらない。
むしろ、ひとつの人生を終えてやってきている彼らは今を生きる人間以上に裏があって当たり前だ。あのセイバーが突然どす黒い面を覗かせたとして驚きはしても否定はしない。
たくさんのものに裏切られ、ほんの少しのものに手を差し伸べられてきた有子はそれを痛いほどよく知っている。
レヴァナントが評するように、ただ佇んでいるだけで一種の聖性を醸し出すに至るまでに何を経てきたのか、有子は知る由もないのだ。
例えばそれは――――嘆きの内に終わる伝説だったり。
例えばそれは――――絶望と共に去る幕切れだったり。
例えばそれは――――尊い答えを胸に抱いて旅立つ物語だったり。
そういうことは、有子には分からない。
だから有子は確実に言えることを口にした。ひとまず込められるだけの信頼を込めて。
「ま、ウチをユウコやのうてアリスって呼んでくれるだけでもめっさええ人やって分かっとるし、ウチにはそれだけでええわ」
「………は。そういえば、ユウコの本名を知ってもアリスと呼ぶのはアイツだけだな」
「せやで!チャル君からバラされても『では、どちらでお呼びすればよろしいですか?』ってにこにこ笑いながら聞いてくれはった時の感動は忘れられへんな!」
追憶に瞳を輝かせる有子を見てレヴァナントが冷笑する。
ぱちん、と指を弾くような軽い音を響かせて店内の照明のスイッチを切りつつ、有子へ投げつけるように言った。
「さっさと食事にしよう。私はこの後も忙しい。
例えばユウコ、お前の歴史学の面倒を見たりな。案外その中でセイバーの真名が分かったりするかも知れない」
「う………歴史は………き、今日はお店も大変やったしお休みしたいかなー、なーんて………」
「そうか。………デザートは今日は無しでいいな」
「て思たけど急にやる気が湧いてきたわ!古今東西どっからでもかかってこい!」
息巻いた有子がレジ裏の居住スペースへ履物脱ぎ散らかしすたすたと上がっていく。
何ら変わりのない気だるげな視線でその小さな背中を見送った後、レヴァナントは最後に店の前の照明のスイッチをオフにした。
アリス・ショップ。これにて本日の業務は全て終了。
明日のご来店をお待ちしております。
『この体は最悪だ』
「………」
「………」
その場を静寂が支配した。
アルトリアはビールが並々と注がれたジョッキを傾けた。凍てつくような温度の酒精と破裂する炭酸の刺激を心ゆくまで堪能し痛飲した。
パーシヴァルはたこ焼きを爪楊枝で突いた。べったりとソースや青海苔、鰹節の塗りたくられたそれを息を吹きかけながら冷まし頬張った。
テーブルの端に留まっていた鸚鵡はふたりの表情をじっと観察していたが、彼らのあまり興味のなさそうな素振りを見てとるや恐るべき人間臭さを発揮し、器用にくちばしの中で舌打ちした。
『糞が。お前らふたりとも呪われて地獄に落ちろ』
「と言われましても……私としては、マーリンにしては文句のつけようのない良い仕事だったとしか言いようがない。
鸚鵡の鮮やかな色彩は旅の途中、幾度も私の心を慰めてくれましたとも」
「正直いい気味………あっいえなんでもありませんケイさん。私は何も言っていませんよ?
ともかく聞きましょう。何が最悪だというんですか?それを聞いてからでないと意見を述べるというわけにもいきません」
『決まっている』
梅田の一角。昔ながらの赤い暖簾と提灯が灯っているような、そんなレトロさを売りにしている立ち飲み屋。
本業は焼き鳥屋のはずなのに、たこ焼きやらラーメンやら、あまりにやぶれかぶれなメニューが壁一面に綴られている小汚い店だ。
誰もが自分の聖杯に願えば生活必需品のいくらかは問題なく手に入る今でも、結局のところ歴史が築いてきた生活の形は捨て切れなかった。
全てがシステマチックに回るだけならそこに心の充足 はない。金を払い、食事を得る。その当然に人が魅力を見出だせなくなるまでまだ何百年か必要になるだろう。
そんなどこか懐かしい空気の店の中、ラウンドテーブルを囲んで好き勝手に飲み食いしている美女ふたりを鸚鵡は睨みつけた。
『飯も食えん。酒も飲めん。女も抱けん。
その上、だ。そんなオレの目の前で無神経な馬鹿がふたり、何の遠慮もなく美味そうに食うわ飲むわしている。オレは何に愉しみを見い出せばいい』
「………」
「………」
その場を静寂が支配した。
アルトリアは柄をむんずと掴んでつくね串を頬張った。甘辛のタレが鶏肉の肉汁と協奏曲を奏で、さらに僅かについた焦げ目が独特の香ばしさを産んでいてとても美味しい。
パーシヴァルは慣れた手付きで箸を操ってホルモン焼きを口にした。よく洗ってあるホルモンは臭みもまるでなく、しっかり火の通った身は口の中で溶けるようでとても美味しい。
鸚鵡は見るからにますます不機嫌になった。
―――アルトリアがかつての己の騎士、パーシヴァルとたびたびこうして顔を突き合わせるようになってからしばらく経つ。
再会した直後はパーシヴァルの王に対する負い目や後悔、今の主であるアルスとの関係もあってぎくしゃくとした時期もあったが―――閑話休題。
今では時折こうして食事を一緒にする間柄となっていた。定期連絡と連中は称しているが単にくだを巻いているだけ、とは鸚鵡の談。
実際、このアルトリアの霊基は厳密には王に非ず。流浪の剣士として王になるための修行をしていた頃の彼女であればこそ、王としてある時よりも少しざっくばらんな態度だ。
勿論この地に至るまでに経た多くの出会いが彼女の精神に働きかけたのもあるだろうが……それはここで語られるべき物語ではない、遠い時間の話。
ともあれそれに引っ張られるようにパーシヴァルも少しだけ砕けた態度を取れている。かつて嘆きの中で終わった関係は、仮初ではあるが僅かに潤滑油を得て緩やかに回っていた。
その証拠のように、とりとめのない話が二転三転する。アルトリアかパーシヴァルが切り出し、鸚鵡が混ぜっ返す。然程大事でもない話がいたちごっこのように転がる。
生前は私語など出来るはずもないほど地上にありながら頭上に眩しく輝いていた星が、パーシヴァルの口にした話題で可笑しそうに微笑んでいる。
これが夢だとしたら、少し甘すぎる夢だなとパーシヴァルは内心笑う。決してプラスの感情ばかりではない笑いだが、それでも確かに嬉しいと感じていた。
「確か、先王のお住まいは天王寺でしたね?」
「はい。この梅田には仕事で出向いている身です。天王寺における旧新世界と呼ばれる地区に仮の住まいを構えています」
『はは。見りゃ驚くだろうよパーシヴァル。かつてはあの趣味の悪い白亜の城にふんぞり返っていた王が、今や四畳一間がせいぜい。近場の銭湯が開いてなけりゃ湯も浴びられない始末なんてな』
「口が過ぎますよパプガウ。私は十分満足しています。最初こそ風呂は備え付けのものがあればとも思いましたが、慣れれば銭湯も良いものです」
「し、四畳一間………ですか………」
サーヴァントとして仕えているアルスの都合、パーシヴァルの普段住まいはキャメロットの城よりはいくらか落ちるという規模の豪邸だ。
元を正せばただの村娘に過ぎなかったパーシヴァルにとってはそれが大変な贅沢なのだと知っているし、暮らしぶりを理由に奢るつもりも毛頭ない。
が。四畳一間。トイレがあって、簡素な調理スペースがあって、それだけの間取り。かつて目の前の彼女が玉座にあった光景を鮮明に覚えていればこそ、何も思うところがなかったと言えば嘘になる。
たまらずパーシヴァルは問いかけを口にしていた。
「せ、先王は……普段、どのような暮らしを」
「どのような、と言われましても」
『普通の暮らしだ』
ふと心に引っかかってパーシヴァルは鸚鵡へ視線を向けた。
ぶっきらぼうに言った彼の台詞が今までとはごく僅かに違ったものに聞こえたのだ。大鍋に塩を2〜3粒落としたような、ほとんど変わらないほどの変化。
『朝起きる。飯を食う。仕事に行ってなんやかんやとあって、夜帰ってきて寝る。どこぞの呪い師に邪魔されることもなくぐっすりとな。その繰り返しだ。
特別に誰かを導いてるわけじゃなし。地上の星だなんて眩しいものじゃなし。何かを代弁するわけでもない。
万人の心の臓に聖杯が宿っているとかいう狂った時代で普通なんて言葉を使うのもちゃんちゃらおかしい話だが、それでも平均化した数字の真ん中を普通とするならその範疇だろう』
「……………」
アルトリアはどこか困ったように微笑んだまま何も言わなかった。
『オレもお前と同感だパーシヴァル。コイツが人並みの生活をしているなんて質の悪い冗談だ。今更こんな真似事をしていたって、全部遅すぎるという話だ』
「わ、私はそこまでは言いません!まして、先王をさして質の悪い冗談などとそのような不敬など!」
『そうかい』
「私は……………」
鸚鵡―――サー・ケイはアルトリアの義兄であり、彼女が幼少の頃からの付き合いだという。
彼らには彼らにしか計れない万感があり、そしてパーシヴァルがそれを察することは出来なかった。
パーシヴァルは知らない。あの日騎士たちの輪を割ってパーシヴァルの前に現れたアルトリア―――アーサー王の、後光すら差していると感じた清浄な姿以外知らない。
その姿を胸の中で永遠のものとし、ただ愚直に王を信じていた。聖槍の欠片を下賜された時も、最後の聖杯探索の旅出に遠いキャメロットの白亜の城を目に焼き付けた時も。
無論、息を引き取る寸前。今際の時でさえ、アーサー王こそ理想の王だと疑わなかった。彼女にも苦悩があったのだと知り後悔を覚えたのは英霊となってからのことである。
もっとも、今となってはアルスという新しい主に仕える身。いろいろと事情は変わっているのだが―――。
ケイほど己が賢しくないという自覚のあるパーシヴァルは、だからこそ感じたことをそのままに口にした。
「おふたりはともかく、私はこうして同じ高さに立って先王とお話できることを畏れつつも嬉しく思っています。
確かに遅きに失するとはいえ今再び先王のお心に触れることが出来るというのは私にとって望外の喜びです」
『オレの遅いってのは、お前のそれとは違うがな』
鸚鵡のぼやきは店内のざわめきに紛れて誰にも伝わらなかった。
代わりにアルトリアがその緊張の混じった宣言に応え、柔らかく微笑む。……ああ、この表情もブリテンが綻び始めた晩年は見ること叶わなかったものだったか。
「ありがとう、パーシヴァル卿。とはいえここは歓談の席。気持ちは私も嬉しく思いますがあまり堅苦しい話はやめておきましょう。
パプガウも、パーシヴァル卿に対して当たりを強くするのは控えなさいといつも言っているでしょう?」
『ふん、それこそ今更だな。小汚い小娘が自分を騎士にしてくれだなんて頼みに来た時からオレはこいつの顔を見ると口の滑りが良くなるんだ。
要領が悪い、頭が堅い、その割には脳みそに雑草でも生えてるんじゃないかというくらい能天気!女としても膨らむところは無駄に膨らんでいる癖に1点もやれん!
都市間対抗擬似聖杯戦争 とやらに映ってる時は取り繕って澄まし顔だが、戦いになれば案の定山猿のそれだ。半端に槍の術理に精通してるところまで含めてな』
「ひ、ひどい…特にケイさんの言う山猿の戦い方に全敗していた人にそんなこと言われたくない…。
……というか、都市戦争を先王とケイさんも見ていらっしゃるのですか?」
「清貧を心がけあまりむやみに私物は増やさないようにしているとはいえ、一応テレビくらいは私の宅にもあるのですよ?」
『職場のお下がりのボロいやつだ。まぁ、たまにだ』
「そ、そうですか……」
パーシヴァルは妙にくすぐったい気分になった。
自分の感知の外でかつての己の主に自分の武者働きをつぶさに観察されているかも知れないのだ。採点でもされているような感覚だ。
次の都市間対抗擬似聖杯戦争 を平常心で臨めるだろうか?
実際始まってしまえば集中してそれどころではなくなるのだろうが、いささかパーシヴァルは不安な気持ちに駆られた。
気を取り直すように咳払いしつつ、ぬるくなり始めたビールで喉を湿らしながら気になることを聞いてみる。
「先王は都市戦争には加わろうなど、お思いにはならないのですか?」
何の気無く言ったことだが、まだ酒精の回りきっていない冷静な部分が『もしその意思があるなら大変なことだ』と警鐘を鳴らしていた。
騎士王のカリスマ性は文字通り桁が違う。直に仕えたのだから身に沁みて知っていた。
ただそこにいるだけで全ての騎士が奮い立つ。ただ一言で全ての騎士の目の色が変わる。剣を掲げて敵を示すだけで全ての騎士が命を賭して戦う。
パーシヴァルとそのマスターであるアルスが先頭に立つ「梅田」にあっても、その対抗勢力の「難波」にあっても、もし彼女が加わったなら影響力は小さくあるまい。
アルトリアの存在はその存在だけで破軍の象徴となり得るだろう。アーサー王とは、そうしたものだ。
が――――。
アルトリアは静かに笑って首を振った。丁寧だが明確な否定の意があった。
「都市戦争だけでなく、私は表舞台の出来事には直接関わらないと決めているのです。少なくとも、騎士の王としては。
この世界にこの霊基でもって降り立った時から定めたことです。マスターのいないサーヴァントとして何故か今でも我が身は成立している。
それは特別なことで、私には何者かに割り振られた役割があるのかもしれませんが、それを拒否して自分で決めたことです。それだけはいつか此処から退去する日まで覆すつもりはない」
「それは………何故でしょうか?」
「私はもう歩む必要がないからです。
長い時間はかかりましたが、もう拾うべきものは拾い、持ち帰るべきものを持ち帰りました。自分の中に自分で幕を引いたつもりでいます。
私はもうこれ以上歩かなくていい。あとの余剰はこの世界の者たちのものであり、私はなるべく見守るに徹する。
あとはただ、待つだけの身なのです」
何故か鸚鵡が憎たらしそうに唸った。
アルトリアはただ柔らかく微笑み、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「待つ?」
「ええ――――待っているのです」
錯覚。これは錯覚だ。
だがパーシヴァルはそれを言った時のアルトリアの静謐な瞳の中に、溢れんばかりの物語を見た。
美しいだけではない。いくつもいくつも失敗を重ねて、間違えて、迷って、それでも辿り着いた答えを見た気がした。
ああ、とパーシヴァルは腑に落ちる。
この御方は、私などには想像もできない苦難の旅路を生前はもちろん死後すら続けていらっしゃって。
でも、全てには意味があったのだと。目指したものと、遺したものと、それぞれに間違いはなかったのだと。そう、かつて仕えた主の尊い受容を垣間見た。
まるで、『次はあなたの番だ』と囁かれたような予感さえした。
得も言われぬ感覚にぐっと胸が詰まりそうになり――そんな顔は見せたくない――慌てて話題を変えようと試みる。
「そ、それはそうと、ええとええと………そうだ、今日はこのように外食なさっていますが普段はどのようなお食事を?」
「基本的に外食ですね。あまり家で炊事したりということはありません。幸い質のいい食事を提供してくれる店が近隣に豊富で助かっています」
「ああ、なんというか意外ではないというか……」
「む。聞き捨てなりませんね。私とてやろうと思えば手料理のひとつくらい出来ますよパーシヴァル卿」
「えっ」
『はん』
パーシヴァルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
鸚鵡は思い切り鼻で笑った。
アルトリアは少し照れくさそうに頬をかきながらぽつりと言った。
「中でもホットケーキを作るのは、得意です」
力を込めようとしたとき、紅葉の葉のようにまだまだ小さな手の上へ、やんわりと被さるものがあった。
「うひゃっ!?」
背後から手を伸ばして触れられたので素っ頓狂な声が出てしまう。まったく存在に気づかなかった。
幼い頃からいろいろと危機を潜り抜けて来た身の上、忍び寄る気配というものには敏感なはずだが完全に意識の外に『彼女』はいた。
仕事に集中していたからか。あるいは。
「失礼。ですがその荷物は私が持ちましょうアリス。淑女が担ぐには少々重すぎる」
有子が振り向くと間近に『彼女』の姿があった。
それほど大柄ではない。さすがに11歳の有子よりは大きいが、少し薄めな肉付きであること以外は女性としてごく自然な体格だ。
シャツの上からベストを羽織り、下はバギーパンツにスニーカー。いつも共通しているのは、そういったどことなく男性的な空気の装いであること。
そして美しい金髪をおさげにした上から大きめの帽子を被っていることである。帽子のつばと前髪に隠れて目元の表情が伺いにくい。
代わりに、口元は微かに柔らかく綻んでいた。有子と喋る時はたいていこんなふうに微笑んでくれるのだ。
「あなたはあちらの陳列棚の整理をなさるとよいでしょう。業務内容外とはいえこのくらいはお手伝いさせてください」
「あ、うん。ほなおおきに。よろしゅうおねがいしますおさげさん」
「はい。お任せを」
こくりと頷くと、『彼女』は木箱をあっさりと抱えて店の奥へ運んでいってしまう。有子ならば顔を真っ赤にして踏ん張っても亀のような速度でしか運べないのに。
少し呆気に取られたような調子で背中を見送った有子の耳に、耳障りな音が飛び込んできた。
『は。腐ってもあいつがサーヴァントだったことを忘れたか?ガキ。あのくらい指先ひとつで支えてみせるだろうよ。
それより片付けはどうした。ぼけっとあいつを見てるだけじゃ終わるものだっていつまで経っても終わらないぞ』
「わ、分かっとるわ!今からやろうとしとったんや!放っといてくれへんか、インコのくせに!」
『インコじゃない、鸚鵡だ鸚鵡。オレにとっちゃどっちでもいいけどな』
軽石を擦り合わせるような、ざらざらとした響きの声音。しかし、肩を怒らせて振り向いた有子の視線の先に人間はいない。
見目鮮やかな極彩色の鳥―――鸚鵡が1羽、椅子の背もたれに留まっていた。鸚鵡という鳥の希少性以外に何か外見について特筆すべき点はない。
至ってごく自然の鸚鵡だ。ただひとつ変わった点があるとすると、この鸚鵡がくちばしを開くと“よく喋る”のだ。
『だいたいお前は棚によって仕事の力の入れ方を変えるのが下らないんだ。
そっちのやたら甘ったるい匂いのしそうな物ばかり並んでる棚は一品一品丁寧に並べるのに、こっちの日用品だか興味ねぇ骨董品だかは適当にするだろう。
この前なんざ………』
「う、うっさいわアホ!そん時はちゃんと並び替えたやろ!……開店前ギリギリやったけど。あーもう、ほんま細かいことまでネチネチネチネチ……」
『ふん。釘1本無駄にしたがらない、ケチくさい男てのがオレの評判でな』
皮肉めいた口調で有子を弄る鸚鵡へ憤懣やるかたないという目線できっと睨みつけると、有子は1日を過ごしたことで乱れた陳列棚を綺麗に揃え直しだした。
―――モザイク市に夜の帳が落ちていく。
そのうちのひとつ「梅田」に居を構える小物店「アリス・ショップ」。そのショウウィンドウから見える店外の景色の色合いにも、少しずつ薄墨が足されていっていた。
店内は照明によって忍び寄る夜の気配を駆逐していたが、客は既にひとりもいない。閑古鳥が鳴いている、というわけではない。
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に因んだファンシーグッズ……に留まらず、日用雑貨品やちょっとした骨董品まで取り揃えたこの店は毎日それなりの客足を誇っている。
が、今は既に閉店時間。客はとうに帰路へ就いた。ぶら下げられたクローズの看板が吹き始めた夜風に揺れている。
そんな中、明日の開店へ向けた棚卸しが店内では着々と進んでいた。
基本的にこれらは有子の仕事だ。店長であるレヴァナントは店の奥――外観こそファンシーだがアリス・ショップは日本家屋を改築したものだ――の居住スペースか応接室が主な縄張り。
店番も、そして現在行っているクローズ作業も多くは有子が担っている。
が、接客には一切関わろうとしないものの体力のいる荷物運びや清掃に限っては有子の手伝いをする者がこの店にはいた。
ただしそれは店員ではない。というのも、『彼女』はこの店の警備員………いわゆる、用心棒なのだ。
「アリス。さしあたっての大きな荷物は全て所定の箇所へ運びました。そちらは問題ありませんか?」
「おおきに。こっちはこの棚で全部おしまい………すぐ済ませるから待っててや、おさげさん」
「いえ。どうか焦らず。特にこの後予定のある身でもありませんから」
穏やかにそう言って、セイバーは開店している間ずっと座っている椅子へ腰掛けた。留まっていた鸚鵡が軽く羽ばたき、彼女の肩へと留まり直す。
二言三言、彼らの間で何か言葉が交われたようだったが小声だったので聞き取れはしなかった。
棚に残った品数を数えながら、有子は横目で椅子に座ったセイバーの様子をこっそり伺った。
そう。セイバー。この用心棒はセイバーのサーヴァントなのだ。そしてそれ以上のことを有子は何も知らないのだ。
彼女は真名を語ろうとしない。聞いたところで困ったように微笑むばかりで何も口にしようとしない。
サーヴァントが持つ本来の霊衣を身に纏っているところなど一度も見たこともない。いつも私服で通勤してきて帰っていく。佇んでいるぶんには普通の人間のようだ。
セイバーと始終一緒にいる喋る鸚鵡だけが普通ではない、サーヴァントらしい変わった部分だった。
ただ。謎めいた部分があるからといって、有子がセイバーに不信感を抱いていると言えばノーだ。
むしろ(口煩い鸚鵡は玉に瑕だが)彼女と共にいることを好んでさえいる。都市戦争に浮かれるサーヴァントたちを含め、権威や欲心に囚われる“大人”というものを嫌う彼女にしては、珍しく。
セイバーは
正確に言えば、参加することに意欲を持たない。知り合いが映っているのか、時折中継映像を見つめていることはあるが、それだけだ。
日頃から周りに流されること無く、清廉潔白であり、緩やかな様子でありながら確かな芯を感じさせ、有子のような幼い子が相手でも対等に立って話をしようとする。
有子にとっては理想的な“大人”へ限りなく近しい存在である。共にいることは小気味よい。真名が分からぬ程度、有子には些細なことだった。
―――と。有子が全てのクローズ作業を終えようとした頃。
がらがら、と車輪が回る音がする。レジのある店の最奥から更に先、このアリス・ショップの居住スペースの扉が開けられた音だ。
木枠と擦りガラスというレトロチックな仕切り戸をスライドさせて現れたのは、銀糸の長髪を無造作に肩から下へ流した長身の美女。
名をレヴァナント・ラビット―――この店のオーナーであった。
有子とセイバーのふたりから集めた注目へさして反応も示さず、いつもの据わった瞳でぐるりと片付いた店内を見回す。
片付き様を無造作に確かめると、にこりともしない能面のままレヴァナントはふたりと1羽に言った。
「十分だ。ユウコ、もう上がっていい。セイバーもご苦労」
「もー、トラ姉も少しは手伝ってくれへん?お店のことはいっつもウチばっかりやん。おさげさんがいひんかったらまだ片付いてへんよー」
「私は奥で別の仕事をやってるだけだ。怠けているわけじゃない」
腰に手をやって有子がレヴァナントを非難していると、背後でかたんと軽い音がした。
セイバーが立ち上がって腰掛けていた椅子の位置を正し、帰る準備をしていたのだ。
ポケットに入る以上のものは持ってこず、いつも身一つでやってくる彼女はそれだけでもう帰路につける。
視線に気づいたセイバーは有子とレヴァナントに向かって折り目正しくぺこりと小さく会釈した。
「では、今日はこれで。明日もよろしくおねがいします」
『今日も1日何もなかったがな。やったことといえば店開き前と店閉め後に少し雑用を手伝っただけだ。こいつに用心棒が聞いて呆れると言ってやれよ』
「もう。私が本来の仕事を遂行する必要がないのは結構なことではありませんか。平和が一番です」
皮肉気味の笑い混じりに喋る鸚鵡をセイバーが呆れたような調子で嗜める。
いつものことだった。斜に構えた態度の鸚鵡の言葉をセイバーが受けて返す。どちらも互いに遠慮がなく、まるで兄妹のような遣り取りをする。
店内の洋装からは一変、昔の日本家屋のような有様の居住区画に立っていたレヴァナントが特に表情を変えるでもなく言った。
「相応の事態に相応のリスクを負ってもらう。そういう契約内容だ。相応の事態が来ない以上は構いやしない。では明日も開店前に」
「はい。アリスも今日1日お疲れ様でした。また明日」
「うん!また明日なー、おさげさん!」
元気よく返事をした有子にもう1度にこりと微笑むと、アリス・ショップの真っ赤なドアを押して退店していく。
有子がつけたあだ名の元になった、おさげの房がふわりと揺れるのが目を惹く。涼やかなドアベルの音と共に扉は閉まり、薄闇の降りた街へセイバーと鸚鵡は吸い込まれていった。
後に残ったのはアリス・ショップの従業員がふたり。はぁ、と感嘆の溜め息混じりにそれを見送りながら有子は言った。
「なんやろな。ちょっとしたことでも絵になるわあの人。かっこええわぁ」
「かっこいい、か。まぁ、そうかもしれないな」
レヴァナントの口から漏れたそれを聞き逃す有子ではない。ぎょっとして振り向いた。
かっこいい、だなんて。そんな抽象的なものに感じ入るような、そんな精神構造はしていないはずの人間なのだ。レヴァナントは。
振り向いて目にしたレヴァナントの表情はというと、残念というべきか、果たして普段と対して違いのない仏頂面であった。
「私と初めて会ったときもそんな調子だった。
海底新地のどん底だっていうのに、まるで地上の星みたいにきらきら光る。どうしようもないほど澱んだ底にあってさえ隠しきれないほどに。
………いろいろと見てきたつもりだが。あんな綺羅びやかな英霊は過去にひとりだかふたりだか、その程度だ」
「へ、へぇ〜……」
妙に饒舌にレヴァナントが喋る。
虚偽は無いのだろう。冗談はともかく、どうでもいいことに嘘をつくような者ではない。
ああ、と敏に有子は悟る。レヴァナントは有子がセイバーを大変尊敬していることを知っている。
だからセイバーをただ持ち上げてるわけではなく、有子に配慮をしているのだろう。
「駄目元で声をかけてみたら向こうも定職を探していて……あとはユウコがいつも見ている通りだ。
こちらで賃金を示したらそれは適切な料金ではないからもっと下げろなんて言い出してな。結果的には実に安上がりに腕利きを雇えている、というわけだ」
全く英霊というものは分からないな、とレヴァナントが少し呆れたように鼻で笑う。
有子には分からない。
『おさげさん』は立派な英雄であり、大人だと思う。真名こそ名乗ろうとしないが、落ち着いていて余裕がある。
が綺麗で美しい英雄だ。
だがしかし同時に、齢にして11という若さにして様々な人心の移り変わりを見てきた見てきた有子はこうも思うのだ。
それが、『そうあって欲しい』というだけの自分の理想の投影に過ぎないことに。
有子はこのアリス・ショップで用心棒をしている時の姿しか彼女のことを知らない。人間には表と裏があるもの。それはサーヴァントでも変わらない。
むしろ、ひとつの人生を終えてやってきている彼らは今を生きる人間以上に裏があって当たり前だ。あのセイバーが突然どす黒い面を覗かせたとして驚きはしても否定はしない。
たくさんのものに裏切られ、ほんの少しのものに手を差し伸べられてきた有子はそれを痛いほどよく知っている。
レヴァナントが評するように、ただ佇んでいるだけで一種の聖性を醸し出すに至るまでに何を経てきたのか、有子は知る由もないのだ。
例えばそれは――――嘆きの内に終わる伝説だったり。
例えばそれは――――絶望と共に去る幕切れだったり。
例えばそれは――――尊い答えを胸に抱いて旅立つ物語だったり。
そういうことは、有子には分からない。
だから有子は確実に言えることを口にした。ひとまず込められるだけの信頼を込めて。
「ま、ウチをユウコやのうてアリスって呼んでくれるだけでもめっさええ人やって分かっとるし、ウチにはそれだけでええわ」
「………は。そういえば、ユウコの本名を知ってもアリスと呼ぶのはアイツだけだな」
「せやで!チャル君からバラされても『では、どちらでお呼びすればよろしいですか?』ってにこにこ笑いながら聞いてくれはった時の感動は忘れられへんな!」
追憶に瞳を輝かせる有子を見てレヴァナントが冷笑する。
ぱちん、と指を弾くような軽い音を響かせて店内の照明のスイッチを切りつつ、有子へ投げつけるように言った。
「さっさと食事にしよう。私はこの後も忙しい。
例えばユウコ、お前の歴史学の面倒を見たりな。案外その中でセイバーの真名が分かったりするかも知れない」
「う………歴史は………き、今日はお店も大変やったしお休みしたいかなー、なーんて………」
「そうか。………デザートは今日は無しでいいな」
「て思たけど急にやる気が湧いてきたわ!古今東西どっからでもかかってこい!」
息巻いた有子がレジ裏の居住スペースへ履物脱ぎ散らかしすたすたと上がっていく。
何ら変わりのない気だるげな視線でその小さな背中を見送った後、レヴァナントは最後に店の前の照明のスイッチをオフにした。
アリス・ショップ。これにて本日の業務は全て終了。
明日のご来店をお待ちしております。
『この体は最悪だ』
「………」
「………」
その場を静寂が支配した。
アルトリアはビールが並々と注がれたジョッキを傾けた。凍てつくような温度の酒精と破裂する炭酸の刺激を心ゆくまで堪能し痛飲した。
パーシヴァルはたこ焼きを爪楊枝で突いた。べったりとソースや青海苔、鰹節の塗りたくられたそれを息を吹きかけながら冷まし頬張った。
テーブルの端に留まっていた鸚鵡はふたりの表情をじっと観察していたが、彼らのあまり興味のなさそうな素振りを見てとるや恐るべき人間臭さを発揮し、器用にくちばしの中で舌打ちした。
『糞が。お前らふたりとも呪われて地獄に落ちろ』
「と言われましても……私としては、マーリンにしては文句のつけようのない良い仕事だったとしか言いようがない。
鸚鵡の鮮やかな色彩は旅の途中、幾度も私の心を慰めてくれましたとも」
「正直いい気味………あっいえなんでもありませんケイさん。私は何も言っていませんよ?
ともかく聞きましょう。何が最悪だというんですか?それを聞いてからでないと意見を述べるというわけにもいきません」
『決まっている』
梅田の一角。昔ながらの赤い暖簾と提灯が灯っているような、そんなレトロさを売りにしている立ち飲み屋。
本業は焼き鳥屋のはずなのに、たこ焼きやらラーメンやら、あまりにやぶれかぶれなメニューが壁一面に綴られている小汚い店だ。
誰もが自分の聖杯に願えば生活必需品のいくらかは問題なく手に入る今でも、結局のところ歴史が築いてきた生活の形は捨て切れなかった。
全てがシステマチックに回るだけならそこに心の
そんなどこか懐かしい空気の店の中、ラウンドテーブルを囲んで好き勝手に飲み食いしている美女ふたりを鸚鵡は睨みつけた。
『飯も食えん。酒も飲めん。女も抱けん。
その上、だ。そんなオレの目の前で無神経な馬鹿がふたり、何の遠慮もなく美味そうに食うわ飲むわしている。オレは何に愉しみを見い出せばいい』
「………」
「………」
その場を静寂が支配した。
アルトリアは柄をむんずと掴んでつくね串を頬張った。甘辛のタレが鶏肉の肉汁と協奏曲を奏で、さらに僅かについた焦げ目が独特の香ばしさを産んでいてとても美味しい。
パーシヴァルは慣れた手付きで箸を操ってホルモン焼きを口にした。よく洗ってあるホルモンは臭みもまるでなく、しっかり火の通った身は口の中で溶けるようでとても美味しい。
鸚鵡は見るからにますます不機嫌になった。
―――アルトリアがかつての己の騎士、パーシヴァルとたびたびこうして顔を突き合わせるようになってからしばらく経つ。
再会した直後はパーシヴァルの王に対する負い目や後悔、今の主であるアルスとの関係もあってぎくしゃくとした時期もあったが―――閑話休題。
今では時折こうして食事を一緒にする間柄となっていた。定期連絡と連中は称しているが単にくだを巻いているだけ、とは鸚鵡の談。
実際、このアルトリアの霊基は厳密には王に非ず。流浪の剣士として王になるための修行をしていた頃の彼女であればこそ、王としてある時よりも少しざっくばらんな態度だ。
勿論この地に至るまでに経た多くの出会いが彼女の精神に働きかけたのもあるだろうが……それはここで語られるべき物語ではない、遠い時間の話。
ともあれそれに引っ張られるようにパーシヴァルも少しだけ砕けた態度を取れている。かつて嘆きの中で終わった関係は、仮初ではあるが僅かに潤滑油を得て緩やかに回っていた。
その証拠のように、とりとめのない話が二転三転する。アルトリアかパーシヴァルが切り出し、鸚鵡が混ぜっ返す。然程大事でもない話がいたちごっこのように転がる。
生前は私語など出来るはずもないほど地上にありながら頭上に眩しく輝いていた星が、パーシヴァルの口にした話題で可笑しそうに微笑んでいる。
これが夢だとしたら、少し甘すぎる夢だなとパーシヴァルは内心笑う。決してプラスの感情ばかりではない笑いだが、それでも確かに嬉しいと感じていた。
「確か、先王のお住まいは天王寺でしたね?」
「はい。この梅田には仕事で出向いている身です。天王寺における旧新世界と呼ばれる地区に仮の住まいを構えています」
『はは。見りゃ驚くだろうよパーシヴァル。かつてはあの趣味の悪い白亜の城にふんぞり返っていた王が、今や四畳一間がせいぜい。近場の銭湯が開いてなけりゃ湯も浴びられない始末なんてな』
「口が過ぎますよパプガウ。私は十分満足しています。最初こそ風呂は備え付けのものがあればとも思いましたが、慣れれば銭湯も良いものです」
「し、四畳一間………ですか………」
サーヴァントとして仕えているアルスの都合、パーシヴァルの普段住まいはキャメロットの城よりはいくらか落ちるという規模の豪邸だ。
元を正せばただの村娘に過ぎなかったパーシヴァルにとってはそれが大変な贅沢なのだと知っているし、暮らしぶりを理由に奢るつもりも毛頭ない。
が。四畳一間。トイレがあって、簡素な調理スペースがあって、それだけの間取り。かつて目の前の彼女が玉座にあった光景を鮮明に覚えていればこそ、何も思うところがなかったと言えば嘘になる。
たまらずパーシヴァルは問いかけを口にしていた。
「せ、先王は……普段、どのような暮らしを」
「どのような、と言われましても」
『普通の暮らしだ』
ふと心に引っかかってパーシヴァルは鸚鵡へ視線を向けた。
ぶっきらぼうに言った彼の台詞が今までとはごく僅かに違ったものに聞こえたのだ。大鍋に塩を2〜3粒落としたような、ほとんど変わらないほどの変化。
『朝起きる。飯を食う。仕事に行ってなんやかんやとあって、夜帰ってきて寝る。どこぞの呪い師に邪魔されることもなくぐっすりとな。その繰り返しだ。
特別に誰かを導いてるわけじゃなし。地上の星だなんて眩しいものじゃなし。何かを代弁するわけでもない。
万人の心の臓に聖杯が宿っているとかいう狂った時代で普通なんて言葉を使うのもちゃんちゃらおかしい話だが、それでも平均化した数字の真ん中を普通とするならその範疇だろう』
「……………」
アルトリアはどこか困ったように微笑んだまま何も言わなかった。
『オレもお前と同感だパーシヴァル。コイツが人並みの生活をしているなんて質の悪い冗談だ。今更こんな真似事をしていたって、全部遅すぎるという話だ』
「わ、私はそこまでは言いません!まして、先王をさして質の悪い冗談などとそのような不敬など!」
『そうかい』
「私は……………」
鸚鵡―――サー・ケイはアルトリアの義兄であり、彼女が幼少の頃からの付き合いだという。
彼らには彼らにしか計れない万感があり、そしてパーシヴァルがそれを察することは出来なかった。
パーシヴァルは知らない。あの日騎士たちの輪を割ってパーシヴァルの前に現れたアルトリア―――アーサー王の、後光すら差していると感じた清浄な姿以外知らない。
その姿を胸の中で永遠のものとし、ただ愚直に王を信じていた。聖槍の欠片を下賜された時も、最後の聖杯探索の旅出に遠いキャメロットの白亜の城を目に焼き付けた時も。
無論、息を引き取る寸前。今際の時でさえ、アーサー王こそ理想の王だと疑わなかった。彼女にも苦悩があったのだと知り後悔を覚えたのは英霊となってからのことである。
もっとも、今となってはアルスという新しい主に仕える身。いろいろと事情は変わっているのだが―――。
ケイほど己が賢しくないという自覚のあるパーシヴァルは、だからこそ感じたことをそのままに口にした。
「おふたりはともかく、私はこうして同じ高さに立って先王とお話できることを畏れつつも嬉しく思っています。
確かに遅きに失するとはいえ今再び先王のお心に触れることが出来るというのは私にとって望外の喜びです」
『オレの遅いってのは、お前のそれとは違うがな』
鸚鵡のぼやきは店内のざわめきに紛れて誰にも伝わらなかった。
代わりにアルトリアがその緊張の混じった宣言に応え、柔らかく微笑む。……ああ、この表情もブリテンが綻び始めた晩年は見ること叶わなかったものだったか。
「ありがとう、パーシヴァル卿。とはいえここは歓談の席。気持ちは私も嬉しく思いますがあまり堅苦しい話はやめておきましょう。
パプガウも、パーシヴァル卿に対して当たりを強くするのは控えなさいといつも言っているでしょう?」
『ふん、それこそ今更だな。小汚い小娘が自分を騎士にしてくれだなんて頼みに来た時からオレはこいつの顔を見ると口の滑りが良くなるんだ。
要領が悪い、頭が堅い、その割には脳みそに雑草でも生えてるんじゃないかというくらい能天気!女としても膨らむところは無駄に膨らんでいる癖に1点もやれん!
「ひ、ひどい…特にケイさんの言う山猿の戦い方に全敗していた人にそんなこと言われたくない…。
……というか、都市戦争を先王とケイさんも見ていらっしゃるのですか?」
「清貧を心がけあまりむやみに私物は増やさないようにしているとはいえ、一応テレビくらいは私の宅にもあるのですよ?」
『職場のお下がりのボロいやつだ。まぁ、たまにだ』
「そ、そうですか……」
パーシヴァルは妙にくすぐったい気分になった。
自分の感知の外でかつての己の主に自分の武者働きをつぶさに観察されているかも知れないのだ。採点でもされているような感覚だ。
次の
実際始まってしまえば集中してそれどころではなくなるのだろうが、いささかパーシヴァルは不安な気持ちに駆られた。
気を取り直すように咳払いしつつ、ぬるくなり始めたビールで喉を湿らしながら気になることを聞いてみる。
「先王は都市戦争には加わろうなど、お思いにはならないのですか?」
何の気無く言ったことだが、まだ酒精の回りきっていない冷静な部分が『もしその意思があるなら大変なことだ』と警鐘を鳴らしていた。
騎士王のカリスマ性は文字通り桁が違う。直に仕えたのだから身に沁みて知っていた。
ただそこにいるだけで全ての騎士が奮い立つ。ただ一言で全ての騎士の目の色が変わる。剣を掲げて敵を示すだけで全ての騎士が命を賭して戦う。
パーシヴァルとそのマスターであるアルスが先頭に立つ「梅田」にあっても、その対抗勢力の「難波」にあっても、もし彼女が加わったなら影響力は小さくあるまい。
アルトリアの存在はその存在だけで破軍の象徴となり得るだろう。アーサー王とは、そうしたものだ。
が――――。
アルトリアは静かに笑って首を振った。丁寧だが明確な否定の意があった。
「都市戦争だけでなく、私は表舞台の出来事には直接関わらないと決めているのです。少なくとも、騎士の王としては。
この世界にこの霊基でもって降り立った時から定めたことです。マスターのいないサーヴァントとして何故か今でも我が身は成立している。
それは特別なことで、私には何者かに割り振られた役割があるのかもしれませんが、それを拒否して自分で決めたことです。それだけはいつか此処から退去する日まで覆すつもりはない」
「それは………何故でしょうか?」
「私はもう歩む必要がないからです。
長い時間はかかりましたが、もう拾うべきものは拾い、持ち帰るべきものを持ち帰りました。自分の中に自分で幕を引いたつもりでいます。
私はもうこれ以上歩かなくていい。あとの余剰はこの世界の者たちのものであり、私はなるべく見守るに徹する。
あとはただ、待つだけの身なのです」
何故か鸚鵡が憎たらしそうに唸った。
アルトリアはただ柔らかく微笑み、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「待つ?」
「ええ――――待っているのです」
錯覚。これは錯覚だ。
だがパーシヴァルはそれを言った時のアルトリアの静謐な瞳の中に、溢れんばかりの物語を見た。
美しいだけではない。いくつもいくつも失敗を重ねて、間違えて、迷って、それでも辿り着いた答えを見た気がした。
ああ、とパーシヴァルは腑に落ちる。
この御方は、私などには想像もできない苦難の旅路を生前はもちろん死後すら続けていらっしゃって。
でも、全てには意味があったのだと。目指したものと、遺したものと、それぞれに間違いはなかったのだと。そう、かつて仕えた主の尊い受容を垣間見た。
まるで、『次はあなたの番だ』と囁かれたような予感さえした。
得も言われぬ感覚にぐっと胸が詰まりそうになり――そんな顔は見せたくない――慌てて話題を変えようと試みる。
「そ、それはそうと、ええとええと………そうだ、今日はこのように外食なさっていますが普段はどのようなお食事を?」
「基本的に外食ですね。あまり家で炊事したりということはありません。幸い質のいい食事を提供してくれる店が近隣に豊富で助かっています」
「ああ、なんというか意外ではないというか……」
「む。聞き捨てなりませんね。私とてやろうと思えば手料理のひとつくらい出来ますよパーシヴァル卿」
「えっ」
『はん』
パーシヴァルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
鸚鵡は思い切り鼻で笑った。
アルトリアは少し照れくさそうに頬をかきながらぽつりと言った。
「中でもホットケーキを作るのは、得意です」
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