最終更新: nevadakagemiya 2017年05月19日(金) 00:18:15履歴
一日が終わる。
夏の長い日も既に地の果てへ沈み、赤い黄昏も西の空に微かな残光を残すのみ。街は穏やかな夜の帳に包まれる。
世界有数の大都市ロンドンといえど、広がる街が郊外に至ればビル群もまばらとなり、代わりに煉瓦造りや石造りの家々が姿を表す。このあたりまで来ると商店も華やかなデザインのチェーン店のファミリーレストランから個人経営の食堂やパブへと切り替わり始め、建物は高くても三、四階建て程度のものが殆どになってくる。そんな家々には同然華やかな蛍光灯やネオンサインが灯っていることもなく、窓から漏れる柔らかな電球の明かりのみがそこに人が住んでいるのだと示している。道で遊んでいた子供たちも皆がとうに家へと帰り、灯り始めた街灯と疎らに点在する個人商店の電灯、家路を走る自動車のヘッドライトが、どこか古風なロンドン郊外の家々を照らし出している。昼と変わらず辺りには活気なくなったわけではないが、少しずつ、しかし確実に、街は眠りにつく準備を始めていた。
繰り返す日々は変わることなく、今日も時は巡って夜が来る。
「ただいま」
扉を開けて真っ暗な家の中へと声をかけるが、返ってくる声はない。あたしの他にこの部屋に住んでいる者はいないのだから当然のことではあるのだが、それでも体に染み着いた習慣というモノはいつまでも変わらないもの。一人暮らしを初めてからだいぶ時間が経つというのに、あたしは一度も欠かすことなく「ただいま」を言い続けていた。
すみれ色のキーケースをトートバッグへと仕舞うと、廊下の明かりのスイッチに触れる。途端、橙色の電球光が廊下を満たす。扉に鍵をかけてブーツを綺麗に揃えて脱ぎ、廊下の先の引き戸を開ければ、朝に出かける前最後に見たそのままの自分の部屋が姿を現した。
トートバッグとリュックを部屋の傍らに投げ捨てて、リビングのソファへと倒れ込む。授業と復習で疲れきった頭と長距離の通学で疲れきった身体を預けるのに、この柔らかさが心地よい。汗で微かに湿った服が乱れるのも気にせずに、麻製のざらついたカバーの上で寝返りを打ち仰向けに寝転んだ。
顔にかかった髪を左腕で掻き上げると、あたしは眠たげに目を閉じた。瞳へ送り続けていた微弱な魔力の供給を絶てば、ずっとその裏に浮かんでいた偽物の夜空が消え、あたしの視界は完全に闇の中へと落ちる。身体の奥深くまで染み込んでいた疲労が、あたしの意識に急速に靄をかけてゆく。せめて、先にシャワーを浴びておきたかったのに……。そんなことが少し脳裏を過ぎったが、眠気の波はそんな微かな躊躇いを容赦なく飲み込み、あたしは眠りの中へと落ちていった。
ふと、あの輝きを思い出す。
あれはもう、半年も前のことだったか。
ずっと大好きだった努力が、分からなくなってしまったことがあった。
あたしは結局何にもなれないのではないかと、恐ろしい感情に捕らわれてしまったことがあった。
そんな、自分に自信を失ってしまっていた時に偶然耳にした、一つの噂。
聖杯戦争。
何を血迷ったのだろうか。
気づいた時にはあたしは、あたしらしくもなく、一足飛びで結果を求めていた。
聖杯戦争を勝ち残りたい。今すぐ何かを成し遂げたい。
そう思って───あたしは"彼女"を召喚した。
「ランサー、ベディヴィエール。ここに参上した。あぁいやかしこまらなくていい。私が困る」
あたしの前に現れた彼女が、ランサーが初めて発した言葉。
初めは驚いたものだ。アーサー王伝説に名高い、忠義の騎士ベディヴィエール卿。リサーチを重ね、生活費を切り詰めて入手した「羽根のように軽い金属片」を触媒としてあたしの前に現界した彼女は、果たして見目麗しい女性の騎士であった。
その美しさに圧倒された。その清廉さに心を打たれた。そして、この女性を自らの願のためだけに使役するのだと考えると、心が痛んだ。
だから。
よりにもよって言ってしまった。
あんな言葉を。
「じゃあいいわ、ランサー。あたしがあんたのマスター、白根ほたるよ。あんたはあたしのサーヴァントとして、あたしの指示に従うこと。分かった?」
それなのに、彼女は穏やかに微笑んだ。
「了解した、マスター。なんなりと、私は君の指示に従うさ」
……まあ、別にあいつは決してあたしの指示に絶対服従なんかじゃなかったんたけど。
次にランサーの姿を見たのは、聖杯戦争が行われる土地───アメリカ合衆国ネバダ州に到着した後のことだった。
決して会話がなかったわけではない。むしろ、ランサーは饒舌にあたしに話しかけてきた。聖杯から得た知識と現実の風景を比較してはしゃいだり、かつての自身のゆかりの地はどうなっているのか尋ねてきたり。けれど、あたしは聖杯戦争に参加するということでピリピリしていたものだから、つい素っ気ない態度で返してしまうのだった。そのために会話が長く続くということはなく、ランサーも無理に会話を続けようとしないものだから、結局数回言葉を交わしただけで会話が終了してしまうことが多かったのだ。
だから、初めて明確に会話が続いたのは、あのときが初めてだった。
偶然立ち寄った世界的チェーン店のコーヒーショップ。そこであたしは好物の抹茶ラテを注文した。故郷の日本と違って、海外ではメニューに抹茶ラテの表記はない。しかし、店頭できちんと注文すればその通りに作ってもらえるのである。そうした裏メニュー的な存在であったことからか聖杯からの知識にそれは存在していなかったようで、ランサーは自分もそれを飲みたい、と言い出したのだ。
あたしは、いつものように反論した。サーヴァントは霊体なのだから食事は必要ないだろう、と。けれどあいつは、そもそも君も必要だから飲んでいるわけではあるまい、サーヴァントだろうと嗜好品を楽しんだってよいだろうと言い出したのである。
……まあ、それは確かに間違いじゃなかったんだけど。
「はぁ……。出てきて、ランサー。ちゃんと二つ頼んだから」
「おお、恩に着るぞマスター」
数日ぶりに霊体化を解いたランサーの姿は、召喚陣にいたときとは少し様子が違っていた。鎧を身につける代わりに、簡素な衣装を身に纏っていたのである。いいや、代わりに、というのは少し意味合いが異なるかもしれない。なぜならそれは間違いなく鎧の下に着るための簡素な衣服であったから。しかしその素朴な衣服はむしろランサーの壮麗さ(それとあたしには決してない女性らしいボディライン)を際立たせていて、遺憾ながら少し目を奪われそうになってしまった。英霊とはかくも華麗なものなのか。ランサーが実体化した瞬間にそう思ってしまったからこそ、
「なんだこれは! 美味、実に美味だぞマスター! 抹茶ラテといったか、どうしてこれが当時のブリテンにはなかったのだ!」
グランデサイズの抹茶ラテをストローでちゅうちゅう吸い上げるランサーの無邪気な子供のような笑顔に、あたしは少し戸惑ってしまうのだった。
その表情が忘れられなくて。
それ以降コーヒーショップの前を通りがかる度に抹茶ラテをねだるランサーに、あたしは毎回自腹を切ることになるのだった。
それ以降、あたしはなるべくランサーを実体化させておくことにした。魔力の消費を抑えるという観点からすれば下策ではあったけれど、それでもあたしはあちこちへ目を輝かせるランサーの姿を、この目で見ておきたかったからである。その代わり、あたしは魔力消費を抑えるために観点読星術 の瞳への夜空の投影を右目のみに限定することにした。ここ数日は明確な傾向が形作られることがなく、いわゆる間期にあたると思われていたからである。あたしは自分の瞳を見つめる代わりに、ランサーの瞳を見つめた。どうしてもあたしは上手く態度を変えることが出来なかったから、ランサーがあたしの気持ちの変化にどこまで気がついていたかは分からない。けれど、ランサーはついきつく当たってしまうあたしに対しても、屈託のない笑顔を向けてくれた。まだ召喚して一週間も過ぎていなかったというのに、あたしにはまるでランサーが幼い頃から自分の隣にいたのではないかと錯覚してしまうほどに、彼女の存在はしっくりと馴染んでいたのだ。
けれど、これは聖杯戦争であって。
いつしか、戦いの時は来る。
ロンドンを出る前に最後にあたしが垣間見た星の形。
「袋の中のさくらんぼ」「入社面接」「成る将棋の駒」「縄に降り注ぐ雨」そして「割れた椀から蕎麦をすする老人」。
その意味は解釈できないまま、どこか不安をもたらすイメージとして頭の隅に留まっていたそれらの意味を、結局あたしは今回の戦いが終わるまで解き明かすことは出来なかった。
それゆえに、予想など出来るはずもなかったのだ。
あたしたちを含めた7人のマスターと7人のサーヴァントが、地下へ幽閉されてしまうことになるということなどは。
夜空投影を両眼にしておけば、などというのは後出しジャンケンだというのはわかっている。それに、仮に投影しておいたところで、曖昧な啓示をあたしが明確に解釈しあの事態を回避できたとはとても思えない。けれど、でもやはり一切の前兆を読みとることも出来ずに無抵抗のまま洞窟に誘い込まれ捕らわれてしまったことには、ひどくプライドを傷つけられた。その感情は、聖杯戦争への参戦を決意したあの時には生じ得ないものだったのだと、あたしは後になって気づいた。
洞窟の異界から現れた老人───ヨセフと名乗った──は、あたしとともに集められた合計14人のマスターとサーヴァントに、そこからの脱出条件を告げた。洞窟には、あたしたちが召喚した7騎の他に、更に7騎のサーヴァントが存在している。そのうちヨセフ自身、すなわちエクストラクラス・クリミナルのサーヴァントを除いた残り6騎のサーヴァントを、消滅させるもしくは和解する……即ち無力化するのが脱出の条件。最悪、合計13騎のサーヴァントを相手取らなければならない状況も危惧したが、幸いなことに地上からやってきた者たちは皆物分かりがよく(エキセントリックな者もいくらかいたが)、協力して洞窟の脱出へ挑むこととなった。その幸運に安堵したとともに、そんな他のマスター達と争おうとしていた自分を少し恥じた。
遅れて現れたアヴェンジャーも合流し、あたしたちは協力して洞窟のサーヴァントたちへ挑むことになった。方針としては、可能な限りサーヴァントとの和解・共闘を目指すこと。しかしながら、いざという時には戦闘も覚悟せねばならない。否応なしにあたしの中で緊張が高まるが、しかし他の英霊たちは慣れたものだった。冷静に状況を分析する者、ひたすらボケる者。あたしのランサーもいつもと変わらず自然体で構えて、微笑んですら見せた。その姿に、その表情に、強張りそうなあたしの全身の筋肉が解れていくのを感じていた。他のそうそうたるマスターたちと変わることなくあたしにもランサーが側にいてくれることが誇らしくて、嬉しくて、
少し、胸が締め付けられた。
真紅の軍服に黒い軍靴。立派な肩章を身につけた、小柄ながらどこまでも威風堂々とした雰囲気を纏う男。浮かべた表情は柔和で親しみやすいが、その鋭い眼光は対峙する者には油断は決して許されないのだということは、使い魔の瞳越しにもかかわらずはっきりと伝わってきた。
ナポレオン・ボナパルト。その名を知らぬものはいないフランスの大英雄を、しかしキャスターたちは難なく仲間に引き入れた。まるでしばらく関係を絶っていた師に協力を仰ぐがごとく、穏便に、流れるように。だから、きっとあたしにも出来るはずだと思った。出来なければならないと思った。誰かに出来ることならあたしにだって出来るはず────そう信じてこれまで頑張ってきたんだから。
そして。
足が震えていた。
肩が震えていた。
声が震えていた。
だって、言えるはずがなかったから。
だって、答えられるはずがなかったから。
だって、認めて貰えるはずがなかったから。
必死に脳を回転させる。せめて言葉を紡がねば。口ごもるわけにはいかない。言い澱むわけにはいかない。けれど、嘘をつくわけにもいかない。あたしが即興で積み上げた言葉など、中身が伴わねば純然たる砂上の楼閣。僅かにつつかれるだけで、それは脆くも崩れ去ってしまうことだろう。誤魔化せない。「あいつ」がそんな言葉に踊らされるはずがない。
だって。
だって。
あたし自身をすら誤魔化せていないあまりにも脆い嘘なのだから。
ならば、正直に告げるか。否、そんなことは出来ない。出来るはずがない。それは誰かに主張するには、あまりにも浅はかに過ぎる考えで、安直に過ぎる願望で、愚かに過ぎる目的だ。そんなことは分かっている。とうの昔にあたしは分かっていた。分かっていたけど、認めるわけにはいかなかった。そんなことのためにあたしはランサーを呼んだのだと、彼女の力を、その存在を、そんなことのために使おうなどと思っていたことを、あたしは認めたくなかったのだ。
対峙する洞窟のキャスターの視線が突き刺さる。正確に述べればよい、と彼は告げた。その一言だけでも、彼が既に真実を見通していることは十分以上に理解できる。あたしは、試されているのだ。自身の心に、自身の迷いに、自身の浅はかさに向き合うことが出来るのかと。
出来ない。そんなこと、出来るわけがない。
喉がからからに乾いていた。あたしの喉から出る声 は、掠れて、嗄れて。
「────力を、ただ、聖杯戦争を勝ち抜いたという自分の力を……それだけで……」
洞窟のキャスターと相対する他の者たちは、事も無げにその問いへ応えてゆく。それは、彼らが皆自らの願望に誇りを持ち、他者の願いを踏みにじってでもカタチにしたいと覚悟していたということの証左に他ならない。そして、洞窟のキャスターもそれを見抜き、彼らを認める言葉をかけてゆく。それなのにあたしにはそれがない。それがないから言葉が出ない。
思考が同じ場所でループする。頭が回らない。わからない。わからない。わからない。わからない───
ごめんなさい、だめ、あたしのせいでキャスターは──────
「────えぇ、主の願いはまだ道の途中」
「ランサー……?」
まだ出会って数日しか過ぎていないというのに、それはあまりにも聞き慣れた声で。
しかし、もう出会って数日も過ぎたというのに、初めて耳にする声だった。
あたしが初めて対峙した、明確に敵対者となりうるサーヴァント。あたしが初めて感じた、敵対の予感。それに真っ向から立ち向かうように、ランサーは、ベディヴィエールは、あたしの前に立った。
「このベディヴィエールが主の下に召喚された此度の聖杯戦争もまた、主が進むべき道に他ならないでしょう。ならば、私は騎士としてその道を拓くのみ」
その姿はまさに歴戦の戦士────否、騎士そのもので。
そして、洞窟のキャスターは。
「ならば良し。我の答えは決まった。我は今一度戦士として、王としてお前たちと共に邪悪に立ち向かうとしょう」
あたしたちの味方になると。そう宣言した。
洞窟のキャスター───偉大なるマヤの王ユクノームは、その険しい視線を再びあたしへ向けた。それは射竦めるような鋭さを保ったままだ。けれどその厳しさはどこか教師のようで、それまであたしの胸の奥を抉っていた値踏みするような鋭さは消え去っていた。
「騎士のマスターよ。お前のそれは恥ずべきことでは無い」
「え……?」
「道半ばであるのならば進め。幸いにも、今のお前には共に歩む存在がいる」
「我々英霊は本来ならばこの世には存在しない者。それから学べるのはお前にとっていい経験になるだろう」
「────ランサー。さっきのアレ、どういう意味なの?」
洞窟のキャスターとの和解を終えて陣地に戻ってから、あたしは耐えきれずに口を開いた。けれど、すぐに口ごもってしまう。
「……私は、本当に」
尋ねたいだけなのに。どうして、あたしはこう語気が鋭くなってしまうのだろう。問い詰めるような言い方に、しかしランサーは気にした様子もなく、
「んん、まー。アレだな」
生身の方の腕で頭を掻くと、いつもと変わらない飄々とした口調で答えた。彼女の纏った鎧が軽い金属音を立てた。
「率直に言えば、単に私の願いだ」
「────王の話をするとしよう」
ランサーが大きく息を吸う。
「何よ……急に仰々しく」
「まあ、私の王については────詳しい説明は省こう」
「省くの!?」
いきなり話の腰を折られて、つい叫んでしまった。こいつはいつもこうだ。やっと掴めたと思ったら、のらりくらりとあたしのそばをすり抜けて───決してあたしを固まらせない。真面目になったかと思ったら梯子を外して、おどけていたと思ったらその一言がこころに染み込んでくることもある。今もこうして、彼女は照れたように笑っていた。
「今は緊急事態だからな……かいつまんで話すと、私の国はそりゃあ酷い有様だった」
目を閉じて、思い出に浸るように彼女は語る。
「────私がこの世界のベディヴィエール卿とは別人という話はしただろう?同様に、私たちの国も少し違っていた。男手は尽き、腕のある人材ならば女性が騎士となることをためらわなかった。それだけ逼迫していたのだ」
知っている。かつてのイギリス・ブリテン島は決して豊かな土地ではなかったが、ランサーの世界のブリテンはそれに輪をかけて貧困であったのだと、いつか彼女の口から聞いたことがある。あれは、いつ交わした会話だったか。
「そんな中現れたのが、まぁ私の王なわけだな。最初はケイ卿とガウェイン卿、私ぐらいしかいなかったが、少しずつ仲間が増えて、少しは盛り返せてきた」
ランサーは言葉を切った。
「……そう、思っていたのだが」
あたしは首を傾げた。
「いや、少し私たちがどうこうできる範囲を超えていたようだ。私がそれを知ったのは後になるが───次第に、雲行きが怪しくなっていった。疫病、災害、侵略……騎士たちの心も荒んでいった。そんな中、王はあくまで民に手を差し伸べ続けた、だがな……」
彼女は整った眉を寄せて、困ったように笑った。洞窟内に微かに吹く湿った風がランサーの銀髪を吹き上げ、頬を撫でる。
「その度に、するすると掌から零れ落ちる。民も王も傷ついて……見ていられなかった」
その寂しげな表情も、やはり初めて見るものだ。それは今まで見せていた凛々しい騎士のものとも、無邪気な少女のものとも違う。国と民を憂う、一人の女のものだった。
「そして……」
ランサーの話術は、「聞かせる」話だ。否、これを話術と呼ぶのは少し違うような気がする。彼女の語り口は相手を引き込むというよりは、もう少しこう、聞き手を包み込むような印象。そう、保育士や母親とも違う、まるで稀に家を訪れる親戚の土産話のような。
こうして今もあたしは、彼女の言葉に包み込まれて───
「──────また今度な」
「んがぁっ!?」
あー! こいつはもう! いつもいつも梯子を外して!
「いやー、マーリンの野郎みたいにはいかんな。すぐ話が長くなってつい」
からからと笑うランサー。
「つい、じゃないわよ! 人が真剣に聞こうと思ったのに! ほんっとにあんた締まらないわね!」
話に包み込まれようとしていただけに、急にそれを切られると肌寒くてたまらない。
「いやー、すまんすまん。またいつか話すさ、いつかな」
いつかっていつよ!
ランサーの話の続きが知りたかったのに!
あの時のランサーの気持ちが知りたかったのに!
ランサーのことがもっと知りたかったのに!
「もういいわよ! 結局何が言いたかったのよあんた!」
苛立ちが募る。いつもこうだ。すぐに誰かに当たり散らして、そんな自分に更に腹が立つ。ランサーの胸でも殴ってやろうと思ったが、大人げないのでやめた。
「ん、あー。そうだな」
やはり生身の方の腕で、ランサーはぽりぽりと頬をかいた。視線があちらこちらへ泳いで、言葉を選んでくれているのが分かる。
悪かったわね、怒りっぽくて。
それでも、彼女は懸命に言葉を紡ぐ。その姿が、なんだか嬉しかった。
「────物事というのは、常に最短の道が、最善の道が正しいわけではない」
そしてランサーは、またこうやって真っ直ぐに、あたしの心を突きにくる。
まるで、彼女の槍のように。
「というより、真に正しいかどうかが決定するのは、もっと別のところだろう」
「だからな、マスター。寄り道だと思う事でも、後退だと思うものでも」
「そこに正しいも間違いもない。ただ路傍の花が、思いがけない贈り物を遺すことがある」
「たまには夜空じゃない、大地にも眼を向けてみろ。それだけだ」
そうして、ランサーは。
穏やかに、微笑んだ。
ずるいよ、こんなの。
分かっていたつもりだった。でも、本当は分かっていなかったのかもしれない。
生まれてからずっと、あたしは努力に努力を重ねてきた。努力をしなければ、あたしは「普通」にすら届かなかった。だから皆に追いつくために、皆を追い越すために、あたしは努力をしなければならなかった。
本当に、そうだっただろうか?
両親から授かった、質はよくないけれど十分以上の量のある魔術回路。
組み合わせとしては最も多くはあるけれど、そもそも存在自体が貴重な火と風の二重属性。
本当に、あたしは努力するしかなかったのか?
しなければならないから、努力してきたのか?
違う、そんなことはない。あたしは楽しかったはずだ。勉強して、練習して、何かができるようになっていく自分が、とても誇らしかったはずだ。自分の手で掴み取るということがどれほどまでに楽しいことだったのか、あたしは知っていたはずだった。
道なんて選ばずに進んできた。幼い子供が道ばたに転がる木の実や草花に興味を引かれるがまま歩き続け、気づけば自らの知らぬ場所にまで到達しているように、昔のあたしは目の前だけを見て進んできたはずだった。
いつからだろう、結果を求めるようになってしまったのは。
いつからだろう、到達点をしか見なくなってしまったのは。
いつからだろう、正解だけ探すようになってしまったのは。
必ずしも最短の道が正解とは限らない───否、そもそも正しき唯一の道など存在しない。
いつもは抑えようとしても勝手に口をついて出る罵詈雑言が、今は痺れたように喉の奥に引っかかって出てこない。
だって、ランサーの言うとおりなんだから。
「────なんか説教くさくなったな! さて、ランサーの相手まで私たちは休憩しようか!」
ランサーが取り繕うようにはにかむのを見て、頬がどうしようもなく熱くなるのを感じた。慌てて彼女から顔を逸らして、提げていたポシェットに手を突っ込む。爪の先にひんやりとした金属の筒が当たった。少し大きめな鞄の中で転がったそれは、ちゃぷんと音を立てた。隙間から少し中身が漏れていて、指がわずかに濡れた。
「……ランサー」
「ん?」
「…………お茶、持ってきたわ」
「……ありがたい、頂くとしよう。マスター」
ランサーに蓋のコップを渡すと同時に、あたしは直接水筒に口をつけてお茶を煽った。
水筒の口はあたしには少し大きすぎて、唇の端から雫が伝った。
そしてランサーは、洞窟のランサーもまた仲間に引き入れた。その真名はアグラヴェイン。彼女と同じく、キャメロットの円卓にその席を置いていた騎士の一人だった。敗北を危惧し、現状維持を選択していた彼女を、しかしランサーは叱咤した。滅びを前に恐れているだけではいけない、いつかは必ず滅びは来るのだから、せめて抗わねばならないと。そうして、洞窟のランサーは協力を承諾した。別口で仲間に引き入れられていた洞窟のセイバー、そして洞窟のランサーと肩を並べていた洞窟のバーサーカーの協力をも取り付けたことで、遂に結界が破られるときが来た。洞窟のサーヴァントたちはその力で、この洞窟に邪な存在を封じていたのである。
封じられしはザッハーク。悪魔イブリースの甘言にて魔に墜ちた、双肩に魔蛇を携えし邪竜。
故に此処は無銘の洞窟に非ず。
故に此処は無銘の特異点に非ず。
邪竜の封じられし霊峰───その名を「ダマーヴァンド」。
邪竜封印迷宮ダマーヴァンドである。
洞窟の中でありながら、その空間は天井が見えないほどにまで高く、そしてその肉柱の末端もまた、天高く聳え闇の中へと消えている。放たれる膨大な魔力は全身に強酸を振りかけられたようにあたしを錯覚させた。瘴気は息苦しいまでに濃く、ただその場に立っているだけでもどんどん体力が奪われてゆく。どす黒い肉の表面はまるで蛆に覆われているがごとく脈動し、一面に並んだ毒々しい血赤色の目は、悪魔の瞳を連想させた。
その姿は、いつかとある文献で目にした存在を想起させる。
残された記述はあまりにも曖昧で、明確に存在したと判断できるものはなにもない「アレ」。
何者かに修正されたように、不自然に記述が欠如している「アレ」。
かつて中世フランスや古代ローマに現れたとされる「アレ」。
名を、魔神柱。
でも、だからってなんなのよ。
伝説上の存在が、あたしたちの前に立ちふさがった? それがなんだっていうのよ。
あたし達には頼もしい仲間がいる。本来は聖杯を賭け争うはずだったサーヴァントたち。ザッハークの復活を防ぐため、その身を捧げていた洞窟のサーヴァントたち。そしてなにより、円卓の騎士が一人、最古にして最速の騎士、ランサー・ベディヴィエールがあたしの隣にいるんだから。
だから、負けない。負ける気がしない。負けるはずがない。
必ず、勝てる!
ね! ランサー! だってあんたは───
「はっはっは! 次は良いマスターを見つけることだな! 私みたいに!」
「私の方は本当にいいサーヴァントだったのか不安がぬぐえないわよ……」
なんとかならないかな、このあたしの悪癖。
幕引きは呆気なかった。いつものように星読み はうまくいかなかったけれど、ザッハークはあたし達の総攻撃で面白いように瓦解した。まずあたしのランサーが先行してからの、嵐のような連撃。あたしはうまくいかなかったのに、あたしのランサーはしっかりその宝具『槍を執れ、ただ一つの腕 』を全てザッハークへと叩き込んでいた。なんだか悔しい。
崩壊するザッハーク。それは、この聖杯戦争のエピローグを告げる鐘の音に他ならない。まず果たすべき役割を果たしたことで、洞窟のサーヴァントたちが消滅してゆく。洞窟のランサー、アグラヴェインが消えゆく時にさえ、あたしのランサーはマスターの自慢をしていた。顔から火が出るのを感じたけれど、ありがたいことにあいつは気がついてはいなかったようだ。
結局、聖杯の存在そのものがザッハークを滅ぼすためのフェイクだった。けれど、そのことをヨセフから告げられても、不思議と腹は立たなかった。
「何だマスター。思ったより落胆していないな」
洞窟のランサーの消滅を見送った後、あたしのランサーが声をかけてきた。その表情は問いかけというよりは、むしろ微笑に近い。その悟ったような表情に少しカチンと来て、あたしは大仰に肩をすくめて首を振った。
「そりゃあね、たぶんこの先そうそう驚かないぐらいは強烈な経験をしたわ……」
そして、彼女の方へ向き直る。
「でも、寄り道したら、綺麗な花を見つけたわ」
「……うむ、うむ。良い顔になったな。マスター」
洞窟のキャスター、ユクノーム王もまた、この世界を去っていった。あたしのランサーと並んで、あたしを導いてくれた彼は、けれどもあたしには何も言わずに去っていった。あくまでも厳しい教師のように、あたし達全員へ一言だけ、導きの言葉を遺して。けれど、その姿が光の粒となって消える最後の瞬間、その巌のごとき表情が微かに緩むのをあたしは見た───ような気がした。
そして、分かっていてもその時は来る。
いくら来て欲しくないと願おうと、それは届かぬ望み。
「……本当に帰るの?ランサー」
あたしのランサーの足の先から、黄金色の光が舞い始めていた。
溶けていく。空気の中へ。
あいつが。
あいつが、消えてしまう。
「あたしの魔力なら、ここにずっととどまっていても……」
つい、そんな言葉が口をついた。自分の声があまりにも「女の子」で、気づかないうちに震えていて、胸がぎゅっと締め付けられる。こんな気持ち、あたしは知らない。生まれて初めての気持ち。あたしのランサーを、失いたくない。
「まぁ、な。私は円卓の中でも燃費のいい方だ」
その一言だけで、胸のつかえが軽くなるのを感じる。
そうよ。どうせあたしには大したことなんてできない。だからせめて、あんただけは側にいてほしい。
「ただな……」
それなのに。
「少なからず、お前に負担がかかる。十全に魔力を使えない状況では、お前の才能を潰してしまう」
そんなことを、あいつは言う。
「そんな……! あたし、結局何も……」
「いやぁ、十分だったとも。言っただろう? この戦争は道の途中である、と」
そう、あいつははにかむ。
「──────私は、かつて王の物語の幕を閉じた騎士だ」
ベディヴィエール。アーサー王最古の騎士にして、アーサー王最後の騎士。あたしのサーヴァント。そんな彼女は、ただあたしに微笑みかける。
「それが今度は新しい主の幕を開くわけだ。────こんなにうれしいことがあるか!」
だから、ずるいってば。
そんな顔をされたら、あたしは何も言えなくなっちゃう。
「いいかマスター、道は無限だ。他人との背くらべが全てじゃない。どこへなりとも進めばいい」
あたしのランサーが、あたしの頭に手を置いた。義手ではなく、あいつ自身の手が、あたしを撫でてくれる。
「目に映る夜空じゃない。本物の空の下を歩けばいい」
その澄んだ翠眼が、あたしの瞳を覗き込んでくる。瞳孔のない夜の瞳じゃなくて、あたしの黒い瞳の中にあいつの姿が浮かんでいるのが分かる。きっとその像は微かに揺れていることだろう。だってこんなにも目頭が熱い。
だから。
だから。
これ以上はダメだ。
これ以上は、あたしのプライドが許さない。
「──────────────わかった」
手の甲で両目を拭って、あたしは力強く首を縦に振った。あたしの我が儘はここまで。自分勝手なあたしは、ここまでだ。
「だけど───それが終わったら」
拳を硬く握り締める。声の震えを必死に抑える。あいつに、情けない表情なんて見せられない。
「あたしが、たどり着くことができたら、その時は」
「あぁ……そうだな。ならば、これを持っていくといい」
そう言って、彼女は何かをあたしに手渡した。
「──────何この切れ端?」
砂と煤で汚れたあたしの手のひらの上に乗っているのは、古ぼけた布の切れ端だ。一続きの布の端なのか、ある部分は折り返して丁寧に縫製されている一方で、歪にちぎれほつれれている部分もある。随分と古いものに見えるが、上等な布であることに見間違えようはなかった。そしてなによりもその色は。
「……これ、あんたのマントじゃないの? なんで……」
その布ごと、あたしのランサーは両手であたしの手を包み込んだ。ひんやりとした作り物の腕と、暖かい生身の腕があたしの手をすくい上げる。
「……お守りだ。そして、次の約束だな」
両手を包まれたまま、どこまでも優しく、あいつは微笑む。目が合った。視線が交差した。消失は変わらず進み、腰から下は既に光の粒子に溶けていた。だから、あたしは見上げる。背の高い人は見下されているみたいで苦手だったのに、今はいつまでもあいつに見下ろされていたい。見守られていたい。
でも、それは叶わないのは知っているから。
もう、我が儘は言わないって決めたから。
だから。
「その時が来たら──────」
うん、その時が来たら。
「円卓の騎士が一席ベディヴィエール。再び君の下に馳せ参じよう」
「──────えぇ。約束よ。ベディヴィエール」
絶対に忘れない。
忘れることなんてできるはずがない。
約束だ。
だから、別れの言葉 に「さようなら」はありえない。
そう、今あいつに言うべき言葉は。
「だから──────またね」
「──────あぁ! また会おう!」
最後まで掴み所がなく、けれども最後まで真っ直ぐに、あいつは去っていった。
頬にキスでもしてやればよかったかしら、なんて考えて、後で一人気恥ずかしさに悶えた。
あたしの視界が滲んでいたのは、きっとあたしがダマーヴァンドの結界から解放されるプロセスの中にいたから。
だから、もう大丈夫だよ、あたしのランサー。
これは僅か数日を駆け抜けた、あたし達の夢の記憶。
目が覚めたら、既に時計は午後10時を回っていた。帰宅した流れのまま、軽く2時間は眠ってしまったことになる。とりあえずシャワーだけは浴びようと脱衣場へ向かう。郊外の下宿は市街地と比べると同じ値段でも比較的広めで、サニタリースペースもユニット・バス方式ではなくトイレとシャワーブースは別々の場所にある。そのシャワーブースの手前の洗面所をあたしは脱衣場として使っていた。
手早くホットパンツとストッキングを脱ぎ捨て、上に着ていたブラウスも脱いで簡単に纏める。その下に着ていたキャミソールも脱いだところで、右耳に細い何かが引っかかった。
「ああ、これすら外さずに寝ちゃってたんだ、あたし」
それは、いつも肌身離さず身につけているロケットだ。銀色の細いチェーンに小物を入れるための円形の部品がついただけのシンプルなもので、決して高級品でもブランド品でもない。蓋を開けても、家族やらペットやらの写真が入っているわけでもない。
そこに収められているのは一枚の布切れだ。なにも知らない者からすれば破けた服の一端と変わりのない、古ぼけた小さな布の欠片。
でも、これはあたしにとっての大切な思い出。
いつかそこへ至るための道標。
だからかな。
久し振りだ。あんなにはっきり、あいつの夢を見るなんて。
今晩も授業の復習と翌週の予習をするつもりだったけれど、たまには早めに床につくのもいいかもしれない。幸い明日には講義がないし、まだ疲れは体の奥底にまで染み込んでいる。汗と汚れをちゃっちゃとシャワーで洗い流して、気軽なネグリジェに着替えるとしよう。冴えてしまった頭は、魔術でなんとかするとして。
首からロケットを外して、外したヘアピンと一緒に入浴中用の小物入れにしまうと、あたしは最後の下着も脱いだ。ブースに入ってバルブを捻ると、シャワーヘッドから降り注ぐ冷たい水滴があたしの身体を打つ。けれどそれもすぐ、暖かい温もりに変わってゆく。
今日はなんだか休みたい気分だし、前に進み続けるだけが道ではない。
それになによりも、あいつとの思い出にとっぷりと浸れている今ならば、もしかしたら見られるかもしれないのだ。
あいつと過ごした────夢の、続きを。
夏の長い日も既に地の果てへ沈み、赤い黄昏も西の空に微かな残光を残すのみ。街は穏やかな夜の帳に包まれる。
世界有数の大都市ロンドンといえど、広がる街が郊外に至ればビル群もまばらとなり、代わりに煉瓦造りや石造りの家々が姿を表す。このあたりまで来ると商店も華やかなデザインのチェーン店のファミリーレストランから個人経営の食堂やパブへと切り替わり始め、建物は高くても三、四階建て程度のものが殆どになってくる。そんな家々には同然華やかな蛍光灯やネオンサインが灯っていることもなく、窓から漏れる柔らかな電球の明かりのみがそこに人が住んでいるのだと示している。道で遊んでいた子供たちも皆がとうに家へと帰り、灯り始めた街灯と疎らに点在する個人商店の電灯、家路を走る自動車のヘッドライトが、どこか古風なロンドン郊外の家々を照らし出している。昼と変わらず辺りには活気なくなったわけではないが、少しずつ、しかし確実に、街は眠りにつく準備を始めていた。
繰り返す日々は変わることなく、今日も時は巡って夜が来る。
「ただいま」
扉を開けて真っ暗な家の中へと声をかけるが、返ってくる声はない。あたしの他にこの部屋に住んでいる者はいないのだから当然のことではあるのだが、それでも体に染み着いた習慣というモノはいつまでも変わらないもの。一人暮らしを初めてからだいぶ時間が経つというのに、あたしは一度も欠かすことなく「ただいま」を言い続けていた。
すみれ色のキーケースをトートバッグへと仕舞うと、廊下の明かりのスイッチに触れる。途端、橙色の電球光が廊下を満たす。扉に鍵をかけてブーツを綺麗に揃えて脱ぎ、廊下の先の引き戸を開ければ、朝に出かける前最後に見たそのままの自分の部屋が姿を現した。
トートバッグとリュックを部屋の傍らに投げ捨てて、リビングのソファへと倒れ込む。授業と復習で疲れきった頭と長距離の通学で疲れきった身体を預けるのに、この柔らかさが心地よい。汗で微かに湿った服が乱れるのも気にせずに、麻製のざらついたカバーの上で寝返りを打ち仰向けに寝転んだ。
顔にかかった髪を左腕で掻き上げると、あたしは眠たげに目を閉じた。瞳へ送り続けていた微弱な魔力の供給を絶てば、ずっとその裏に浮かんでいた偽物の夜空が消え、あたしの視界は完全に闇の中へと落ちる。身体の奥深くまで染み込んでいた疲労が、あたしの意識に急速に靄をかけてゆく。せめて、先にシャワーを浴びておきたかったのに……。そんなことが少し脳裏を過ぎったが、眠気の波はそんな微かな躊躇いを容赦なく飲み込み、あたしは眠りの中へと落ちていった。
ふと、あの輝きを思い出す。
あれはもう、半年も前のことだったか。
ずっと大好きだった努力が、分からなくなってしまったことがあった。
あたしは結局何にもなれないのではないかと、恐ろしい感情に捕らわれてしまったことがあった。
そんな、自分に自信を失ってしまっていた時に偶然耳にした、一つの噂。
聖杯戦争。
何を血迷ったのだろうか。
気づいた時にはあたしは、あたしらしくもなく、一足飛びで結果を求めていた。
聖杯戦争を勝ち残りたい。今すぐ何かを成し遂げたい。
そう思って───あたしは"彼女"を召喚した。
「ランサー、ベディヴィエール。ここに参上した。あぁいやかしこまらなくていい。私が困る」
あたしの前に現れた彼女が、ランサーが初めて発した言葉。
初めは驚いたものだ。アーサー王伝説に名高い、忠義の騎士ベディヴィエール卿。リサーチを重ね、生活費を切り詰めて入手した「羽根のように軽い金属片」を触媒としてあたしの前に現界した彼女は、果たして見目麗しい女性の騎士であった。
その美しさに圧倒された。その清廉さに心を打たれた。そして、この女性を自らの願のためだけに使役するのだと考えると、心が痛んだ。
だから。
よりにもよって言ってしまった。
あんな言葉を。
「じゃあいいわ、ランサー。あたしがあんたのマスター、白根ほたるよ。あんたはあたしのサーヴァントとして、あたしの指示に従うこと。分かった?」
それなのに、彼女は穏やかに微笑んだ。
「了解した、マスター。なんなりと、私は君の指示に従うさ」
……まあ、別にあいつは決してあたしの指示に絶対服従なんかじゃなかったんたけど。
次にランサーの姿を見たのは、聖杯戦争が行われる土地───アメリカ合衆国ネバダ州に到着した後のことだった。
決して会話がなかったわけではない。むしろ、ランサーは饒舌にあたしに話しかけてきた。聖杯から得た知識と現実の風景を比較してはしゃいだり、かつての自身のゆかりの地はどうなっているのか尋ねてきたり。けれど、あたしは聖杯戦争に参加するということでピリピリしていたものだから、つい素っ気ない態度で返してしまうのだった。そのために会話が長く続くということはなく、ランサーも無理に会話を続けようとしないものだから、結局数回言葉を交わしただけで会話が終了してしまうことが多かったのだ。
だから、初めて明確に会話が続いたのは、あのときが初めてだった。
偶然立ち寄った世界的チェーン店のコーヒーショップ。そこであたしは好物の抹茶ラテを注文した。故郷の日本と違って、海外ではメニューに抹茶ラテの表記はない。しかし、店頭できちんと注文すればその通りに作ってもらえるのである。そうした裏メニュー的な存在であったことからか聖杯からの知識にそれは存在していなかったようで、ランサーは自分もそれを飲みたい、と言い出したのだ。
あたしは、いつものように反論した。サーヴァントは霊体なのだから食事は必要ないだろう、と。けれどあいつは、そもそも君も必要だから飲んでいるわけではあるまい、サーヴァントだろうと嗜好品を楽しんだってよいだろうと言い出したのである。
……まあ、それは確かに間違いじゃなかったんだけど。
「はぁ……。出てきて、ランサー。ちゃんと二つ頼んだから」
「おお、恩に着るぞマスター」
数日ぶりに霊体化を解いたランサーの姿は、召喚陣にいたときとは少し様子が違っていた。鎧を身につける代わりに、簡素な衣装を身に纏っていたのである。いいや、代わりに、というのは少し意味合いが異なるかもしれない。なぜならそれは間違いなく鎧の下に着るための簡素な衣服であったから。しかしその素朴な衣服はむしろランサーの壮麗さ(それとあたしには決してない女性らしいボディライン)を際立たせていて、遺憾ながら少し目を奪われそうになってしまった。英霊とはかくも華麗なものなのか。ランサーが実体化した瞬間にそう思ってしまったからこそ、
「なんだこれは! 美味、実に美味だぞマスター! 抹茶ラテといったか、どうしてこれが当時のブリテンにはなかったのだ!」
グランデサイズの抹茶ラテをストローでちゅうちゅう吸い上げるランサーの無邪気な子供のような笑顔に、あたしは少し戸惑ってしまうのだった。
その表情が忘れられなくて。
それ以降コーヒーショップの前を通りがかる度に抹茶ラテをねだるランサーに、あたしは毎回自腹を切ることになるのだった。
それ以降、あたしはなるべくランサーを実体化させておくことにした。魔力の消費を抑えるという観点からすれば下策ではあったけれど、それでもあたしはあちこちへ目を輝かせるランサーの姿を、この目で見ておきたかったからである。その代わり、あたしは魔力消費を抑えるために
けれど、これは聖杯戦争であって。
いつしか、戦いの時は来る。
ロンドンを出る前に最後にあたしが垣間見た星の形。
「袋の中のさくらんぼ」「入社面接」「成る将棋の駒」「縄に降り注ぐ雨」そして「割れた椀から蕎麦をすする老人」。
その意味は解釈できないまま、どこか不安をもたらすイメージとして頭の隅に留まっていたそれらの意味を、結局あたしは今回の戦いが終わるまで解き明かすことは出来なかった。
それゆえに、予想など出来るはずもなかったのだ。
あたしたちを含めた7人のマスターと7人のサーヴァントが、地下へ幽閉されてしまうことになるということなどは。
夜空投影を両眼にしておけば、などというのは後出しジャンケンだというのはわかっている。それに、仮に投影しておいたところで、曖昧な啓示をあたしが明確に解釈しあの事態を回避できたとはとても思えない。けれど、でもやはり一切の前兆を読みとることも出来ずに無抵抗のまま洞窟に誘い込まれ捕らわれてしまったことには、ひどくプライドを傷つけられた。その感情は、聖杯戦争への参戦を決意したあの時には生じ得ないものだったのだと、あたしは後になって気づいた。
洞窟の異界から現れた老人───ヨセフと名乗った──は、あたしとともに集められた合計14人のマスターとサーヴァントに、そこからの脱出条件を告げた。洞窟には、あたしたちが召喚した7騎の他に、更に7騎のサーヴァントが存在している。そのうちヨセフ自身、すなわちエクストラクラス・クリミナルのサーヴァントを除いた残り6騎のサーヴァントを、消滅させるもしくは和解する……即ち無力化するのが脱出の条件。最悪、合計13騎のサーヴァントを相手取らなければならない状況も危惧したが、幸いなことに地上からやってきた者たちは皆物分かりがよく(エキセントリックな者もいくらかいたが)、協力して洞窟の脱出へ挑むこととなった。その幸運に安堵したとともに、そんな他のマスター達と争おうとしていた自分を少し恥じた。
遅れて現れたアヴェンジャーも合流し、あたしたちは協力して洞窟のサーヴァントたちへ挑むことになった。方針としては、可能な限りサーヴァントとの和解・共闘を目指すこと。しかしながら、いざという時には戦闘も覚悟せねばならない。否応なしにあたしの中で緊張が高まるが、しかし他の英霊たちは慣れたものだった。冷静に状況を分析する者、ひたすらボケる者。あたしのランサーもいつもと変わらず自然体で構えて、微笑んですら見せた。その姿に、その表情に、強張りそうなあたしの全身の筋肉が解れていくのを感じていた。他のそうそうたるマスターたちと変わることなくあたしにもランサーが側にいてくれることが誇らしくて、嬉しくて、
少し、胸が締め付けられた。
真紅の軍服に黒い軍靴。立派な肩章を身につけた、小柄ながらどこまでも威風堂々とした雰囲気を纏う男。浮かべた表情は柔和で親しみやすいが、その鋭い眼光は対峙する者には油断は決して許されないのだということは、使い魔の瞳越しにもかかわらずはっきりと伝わってきた。
ナポレオン・ボナパルト。その名を知らぬものはいないフランスの大英雄を、しかしキャスターたちは難なく仲間に引き入れた。まるでしばらく関係を絶っていた師に協力を仰ぐがごとく、穏便に、流れるように。だから、きっとあたしにも出来るはずだと思った。出来なければならないと思った。誰かに出来ることならあたしにだって出来るはず────そう信じてこれまで頑張ってきたんだから。
そして。
足が震えていた。
肩が震えていた。
声が震えていた。
だって、言えるはずがなかったから。
だって、答えられるはずがなかったから。
だって、認めて貰えるはずがなかったから。
必死に脳を回転させる。せめて言葉を紡がねば。口ごもるわけにはいかない。言い澱むわけにはいかない。けれど、嘘をつくわけにもいかない。あたしが即興で積み上げた言葉など、中身が伴わねば純然たる砂上の楼閣。僅かにつつかれるだけで、それは脆くも崩れ去ってしまうことだろう。誤魔化せない。「あいつ」がそんな言葉に踊らされるはずがない。
だって。
だって。
あたし自身をすら誤魔化せていないあまりにも脆い嘘なのだから。
ならば、正直に告げるか。否、そんなことは出来ない。出来るはずがない。それは誰かに主張するには、あまりにも浅はかに過ぎる考えで、安直に過ぎる願望で、愚かに過ぎる目的だ。そんなことは分かっている。とうの昔にあたしは分かっていた。分かっていたけど、認めるわけにはいかなかった。そんなことのためにあたしはランサーを呼んだのだと、彼女の力を、その存在を、そんなことのために使おうなどと思っていたことを、あたしは認めたくなかったのだ。
対峙する洞窟のキャスターの視線が突き刺さる。正確に述べればよい、と彼は告げた。その一言だけでも、彼が既に真実を見通していることは十分以上に理解できる。あたしは、試されているのだ。自身の心に、自身の迷いに、自身の浅はかさに向き合うことが出来るのかと。
出来ない。そんなこと、出来るわけがない。
喉がからからに乾いていた。あたしの喉から出る
「────力を、ただ、聖杯戦争を勝ち抜いたという自分の力を……それだけで……」
洞窟のキャスターと相対する他の者たちは、事も無げにその問いへ応えてゆく。それは、彼らが皆自らの願望に誇りを持ち、他者の願いを踏みにじってでもカタチにしたいと覚悟していたということの証左に他ならない。そして、洞窟のキャスターもそれを見抜き、彼らを認める言葉をかけてゆく。それなのにあたしにはそれがない。それがないから言葉が出ない。
思考が同じ場所でループする。頭が回らない。わからない。わからない。わからない。わからない───
ごめんなさい、だめ、あたしのせいでキャスターは──────
「────えぇ、主の願いはまだ道の途中」
「ランサー……?」
まだ出会って数日しか過ぎていないというのに、それはあまりにも聞き慣れた声で。
しかし、もう出会って数日も過ぎたというのに、初めて耳にする声だった。
あたしが初めて対峙した、明確に敵対者となりうるサーヴァント。あたしが初めて感じた、敵対の予感。それに真っ向から立ち向かうように、ランサーは、ベディヴィエールは、あたしの前に立った。
「このベディヴィエールが主の下に召喚された此度の聖杯戦争もまた、主が進むべき道に他ならないでしょう。ならば、私は騎士としてその道を拓くのみ」
その姿はまさに歴戦の戦士────否、騎士そのもので。
そして、洞窟のキャスターは。
「ならば良し。我の答えは決まった。我は今一度戦士として、王としてお前たちと共に邪悪に立ち向かうとしょう」
あたしたちの味方になると。そう宣言した。
洞窟のキャスター───偉大なるマヤの王ユクノームは、その険しい視線を再びあたしへ向けた。それは射竦めるような鋭さを保ったままだ。けれどその厳しさはどこか教師のようで、それまであたしの胸の奥を抉っていた値踏みするような鋭さは消え去っていた。
「騎士のマスターよ。お前のそれは恥ずべきことでは無い」
「え……?」
「道半ばであるのならば進め。幸いにも、今のお前には共に歩む存在がいる」
「我々英霊は本来ならばこの世には存在しない者。それから学べるのはお前にとっていい経験になるだろう」
「────ランサー。さっきのアレ、どういう意味なの?」
洞窟のキャスターとの和解を終えて陣地に戻ってから、あたしは耐えきれずに口を開いた。けれど、すぐに口ごもってしまう。
「……私は、本当に」
尋ねたいだけなのに。どうして、あたしはこう語気が鋭くなってしまうのだろう。問い詰めるような言い方に、しかしランサーは気にした様子もなく、
「んん、まー。アレだな」
生身の方の腕で頭を掻くと、いつもと変わらない飄々とした口調で答えた。彼女の纏った鎧が軽い金属音を立てた。
「率直に言えば、単に私の願いだ」
「────王の話をするとしよう」
ランサーが大きく息を吸う。
「何よ……急に仰々しく」
「まあ、私の王については────詳しい説明は省こう」
「省くの!?」
いきなり話の腰を折られて、つい叫んでしまった。こいつはいつもこうだ。やっと掴めたと思ったら、のらりくらりとあたしのそばをすり抜けて───決してあたしを固まらせない。真面目になったかと思ったら梯子を外して、おどけていたと思ったらその一言がこころに染み込んでくることもある。今もこうして、彼女は照れたように笑っていた。
「今は緊急事態だからな……かいつまんで話すと、私の国はそりゃあ酷い有様だった」
目を閉じて、思い出に浸るように彼女は語る。
「────私がこの世界のベディヴィエール卿とは別人という話はしただろう?同様に、私たちの国も少し違っていた。男手は尽き、腕のある人材ならば女性が騎士となることをためらわなかった。それだけ逼迫していたのだ」
知っている。かつてのイギリス・ブリテン島は決して豊かな土地ではなかったが、ランサーの世界のブリテンはそれに輪をかけて貧困であったのだと、いつか彼女の口から聞いたことがある。あれは、いつ交わした会話だったか。
「そんな中現れたのが、まぁ私の王なわけだな。最初はケイ卿とガウェイン卿、私ぐらいしかいなかったが、少しずつ仲間が増えて、少しは盛り返せてきた」
ランサーは言葉を切った。
「……そう、思っていたのだが」
あたしは首を傾げた。
「いや、少し私たちがどうこうできる範囲を超えていたようだ。私がそれを知ったのは後になるが───次第に、雲行きが怪しくなっていった。疫病、災害、侵略……騎士たちの心も荒んでいった。そんな中、王はあくまで民に手を差し伸べ続けた、だがな……」
彼女は整った眉を寄せて、困ったように笑った。洞窟内に微かに吹く湿った風がランサーの銀髪を吹き上げ、頬を撫でる。
「その度に、するすると掌から零れ落ちる。民も王も傷ついて……見ていられなかった」
その寂しげな表情も、やはり初めて見るものだ。それは今まで見せていた凛々しい騎士のものとも、無邪気な少女のものとも違う。国と民を憂う、一人の女のものだった。
「そして……」
ランサーの話術は、「聞かせる」話だ。否、これを話術と呼ぶのは少し違うような気がする。彼女の語り口は相手を引き込むというよりは、もう少しこう、聞き手を包み込むような印象。そう、保育士や母親とも違う、まるで稀に家を訪れる親戚の土産話のような。
こうして今もあたしは、彼女の言葉に包み込まれて───
「──────また今度な」
「んがぁっ!?」
あー! こいつはもう! いつもいつも梯子を外して!
「いやー、マーリンの野郎みたいにはいかんな。すぐ話が長くなってつい」
からからと笑うランサー。
「つい、じゃないわよ! 人が真剣に聞こうと思ったのに! ほんっとにあんた締まらないわね!」
話に包み込まれようとしていただけに、急にそれを切られると肌寒くてたまらない。
「いやー、すまんすまん。またいつか話すさ、いつかな」
いつかっていつよ!
ランサーの話の続きが知りたかったのに!
あの時のランサーの気持ちが知りたかったのに!
ランサーのことがもっと知りたかったのに!
「もういいわよ! 結局何が言いたかったのよあんた!」
苛立ちが募る。いつもこうだ。すぐに誰かに当たり散らして、そんな自分に更に腹が立つ。ランサーの胸でも殴ってやろうと思ったが、大人げないのでやめた。
「ん、あー。そうだな」
やはり生身の方の腕で、ランサーはぽりぽりと頬をかいた。視線があちらこちらへ泳いで、言葉を選んでくれているのが分かる。
悪かったわね、怒りっぽくて。
それでも、彼女は懸命に言葉を紡ぐ。その姿が、なんだか嬉しかった。
「────物事というのは、常に最短の道が、最善の道が正しいわけではない」
そしてランサーは、またこうやって真っ直ぐに、あたしの心を突きにくる。
まるで、彼女の槍のように。
「というより、真に正しいかどうかが決定するのは、もっと別のところだろう」
「だからな、マスター。寄り道だと思う事でも、後退だと思うものでも」
「そこに正しいも間違いもない。ただ路傍の花が、思いがけない贈り物を遺すことがある」
「たまには夜空じゃない、大地にも眼を向けてみろ。それだけだ」
そうして、ランサーは。
穏やかに、微笑んだ。
ずるいよ、こんなの。
分かっていたつもりだった。でも、本当は分かっていなかったのかもしれない。
生まれてからずっと、あたしは努力に努力を重ねてきた。努力をしなければ、あたしは「普通」にすら届かなかった。だから皆に追いつくために、皆を追い越すために、あたしは努力をしなければならなかった。
本当に、そうだっただろうか?
両親から授かった、質はよくないけれど十分以上の量のある魔術回路。
組み合わせとしては最も多くはあるけれど、そもそも存在自体が貴重な火と風の二重属性。
本当に、あたしは努力するしかなかったのか?
しなければならないから、努力してきたのか?
違う、そんなことはない。あたしは楽しかったはずだ。勉強して、練習して、何かができるようになっていく自分が、とても誇らしかったはずだ。自分の手で掴み取るということがどれほどまでに楽しいことだったのか、あたしは知っていたはずだった。
道なんて選ばずに進んできた。幼い子供が道ばたに転がる木の実や草花に興味を引かれるがまま歩き続け、気づけば自らの知らぬ場所にまで到達しているように、昔のあたしは目の前だけを見て進んできたはずだった。
いつからだろう、結果を求めるようになってしまったのは。
いつからだろう、到達点をしか見なくなってしまったのは。
いつからだろう、正解だけ探すようになってしまったのは。
必ずしも最短の道が正解とは限らない───否、そもそも正しき唯一の道など存在しない。
いつもは抑えようとしても勝手に口をついて出る罵詈雑言が、今は痺れたように喉の奥に引っかかって出てこない。
だって、ランサーの言うとおりなんだから。
「────なんか説教くさくなったな! さて、ランサーの相手まで私たちは休憩しようか!」
ランサーが取り繕うようにはにかむのを見て、頬がどうしようもなく熱くなるのを感じた。慌てて彼女から顔を逸らして、提げていたポシェットに手を突っ込む。爪の先にひんやりとした金属の筒が当たった。少し大きめな鞄の中で転がったそれは、ちゃぷんと音を立てた。隙間から少し中身が漏れていて、指がわずかに濡れた。
「……ランサー」
「ん?」
「…………お茶、持ってきたわ」
「……ありがたい、頂くとしよう。マスター」
ランサーに蓋のコップを渡すと同時に、あたしは直接水筒に口をつけてお茶を煽った。
水筒の口はあたしには少し大きすぎて、唇の端から雫が伝った。
そしてランサーは、洞窟のランサーもまた仲間に引き入れた。その真名はアグラヴェイン。彼女と同じく、キャメロットの円卓にその席を置いていた騎士の一人だった。敗北を危惧し、現状維持を選択していた彼女を、しかしランサーは叱咤した。滅びを前に恐れているだけではいけない、いつかは必ず滅びは来るのだから、せめて抗わねばならないと。そうして、洞窟のランサーは協力を承諾した。別口で仲間に引き入れられていた洞窟のセイバー、そして洞窟のランサーと肩を並べていた洞窟のバーサーカーの協力をも取り付けたことで、遂に結界が破られるときが来た。洞窟のサーヴァントたちはその力で、この洞窟に邪な存在を封じていたのである。
封じられしはザッハーク。悪魔イブリースの甘言にて魔に墜ちた、双肩に魔蛇を携えし邪竜。
故に此処は無銘の洞窟に非ず。
故に此処は無銘の特異点に非ず。
邪竜の封じられし霊峰───その名を「ダマーヴァンド」。
邪竜封印迷宮ダマーヴァンドである。
洞窟の中でありながら、その空間は天井が見えないほどにまで高く、そしてその肉柱の末端もまた、天高く聳え闇の中へと消えている。放たれる膨大な魔力は全身に強酸を振りかけられたようにあたしを錯覚させた。瘴気は息苦しいまでに濃く、ただその場に立っているだけでもどんどん体力が奪われてゆく。どす黒い肉の表面はまるで蛆に覆われているがごとく脈動し、一面に並んだ毒々しい血赤色の目は、悪魔の瞳を連想させた。
その姿は、いつかとある文献で目にした存在を想起させる。
残された記述はあまりにも曖昧で、明確に存在したと判断できるものはなにもない「アレ」。
何者かに修正されたように、不自然に記述が欠如している「アレ」。
かつて中世フランスや古代ローマに現れたとされる「アレ」。
名を、魔神柱。
でも、だからってなんなのよ。
伝説上の存在が、あたしたちの前に立ちふさがった? それがなんだっていうのよ。
あたし達には頼もしい仲間がいる。本来は聖杯を賭け争うはずだったサーヴァントたち。ザッハークの復活を防ぐため、その身を捧げていた洞窟のサーヴァントたち。そしてなにより、円卓の騎士が一人、最古にして最速の騎士、ランサー・ベディヴィエールがあたしの隣にいるんだから。
だから、負けない。負ける気がしない。負けるはずがない。
必ず、勝てる!
ね! ランサー! だってあんたは───
「はっはっは! 次は良いマスターを見つけることだな! 私みたいに!」
「私の方は本当にいいサーヴァントだったのか不安がぬぐえないわよ……」
なんとかならないかな、このあたしの悪癖。
幕引きは呆気なかった。いつものように
崩壊するザッハーク。それは、この聖杯戦争のエピローグを告げる鐘の音に他ならない。まず果たすべき役割を果たしたことで、洞窟のサーヴァントたちが消滅してゆく。洞窟のランサー、アグラヴェインが消えゆく時にさえ、あたしのランサーはマスターの自慢をしていた。顔から火が出るのを感じたけれど、ありがたいことにあいつは気がついてはいなかったようだ。
結局、聖杯の存在そのものがザッハークを滅ぼすためのフェイクだった。けれど、そのことをヨセフから告げられても、不思議と腹は立たなかった。
「何だマスター。思ったより落胆していないな」
洞窟のランサーの消滅を見送った後、あたしのランサーが声をかけてきた。その表情は問いかけというよりは、むしろ微笑に近い。その悟ったような表情に少しカチンと来て、あたしは大仰に肩をすくめて首を振った。
「そりゃあね、たぶんこの先そうそう驚かないぐらいは強烈な経験をしたわ……」
そして、彼女の方へ向き直る。
「でも、寄り道したら、綺麗な花を見つけたわ」
「……うむ、うむ。良い顔になったな。マスター」
洞窟のキャスター、ユクノーム王もまた、この世界を去っていった。あたしのランサーと並んで、あたしを導いてくれた彼は、けれどもあたしには何も言わずに去っていった。あくまでも厳しい教師のように、あたし達全員へ一言だけ、導きの言葉を遺して。けれど、その姿が光の粒となって消える最後の瞬間、その巌のごとき表情が微かに緩むのをあたしは見た───ような気がした。
そして、分かっていてもその時は来る。
いくら来て欲しくないと願おうと、それは届かぬ望み。
「……本当に帰るの?ランサー」
あたしのランサーの足の先から、黄金色の光が舞い始めていた。
溶けていく。空気の中へ。
あいつが。
あいつが、消えてしまう。
「あたしの魔力なら、ここにずっととどまっていても……」
つい、そんな言葉が口をついた。自分の声があまりにも「女の子」で、気づかないうちに震えていて、胸がぎゅっと締め付けられる。こんな気持ち、あたしは知らない。生まれて初めての気持ち。あたしのランサーを、失いたくない。
「まぁ、な。私は円卓の中でも燃費のいい方だ」
その一言だけで、胸のつかえが軽くなるのを感じる。
そうよ。どうせあたしには大したことなんてできない。だからせめて、あんただけは側にいてほしい。
「ただな……」
それなのに。
「少なからず、お前に負担がかかる。十全に魔力を使えない状況では、お前の才能を潰してしまう」
そんなことを、あいつは言う。
「そんな……! あたし、結局何も……」
「いやぁ、十分だったとも。言っただろう? この戦争は道の途中である、と」
そう、あいつははにかむ。
「──────私は、かつて王の物語の幕を閉じた騎士だ」
ベディヴィエール。アーサー王最古の騎士にして、アーサー王最後の騎士。あたしのサーヴァント。そんな彼女は、ただあたしに微笑みかける。
「それが今度は新しい主の幕を開くわけだ。────こんなにうれしいことがあるか!」
だから、ずるいってば。
そんな顔をされたら、あたしは何も言えなくなっちゃう。
「いいかマスター、道は無限だ。他人との背くらべが全てじゃない。どこへなりとも進めばいい」
あたしのランサーが、あたしの頭に手を置いた。義手ではなく、あいつ自身の手が、あたしを撫でてくれる。
「目に映る夜空じゃない。本物の空の下を歩けばいい」
その澄んだ翠眼が、あたしの瞳を覗き込んでくる。瞳孔のない夜の瞳じゃなくて、あたしの黒い瞳の中にあいつの姿が浮かんでいるのが分かる。きっとその像は微かに揺れていることだろう。だってこんなにも目頭が熱い。
だから。
だから。
これ以上はダメだ。
これ以上は、あたしのプライドが許さない。
「──────────────わかった」
手の甲で両目を拭って、あたしは力強く首を縦に振った。あたしの我が儘はここまで。自分勝手なあたしは、ここまでだ。
「だけど───それが終わったら」
拳を硬く握り締める。声の震えを必死に抑える。あいつに、情けない表情なんて見せられない。
「あたしが、たどり着くことができたら、その時は」
「あぁ……そうだな。ならば、これを持っていくといい」
そう言って、彼女は何かをあたしに手渡した。
「──────何この切れ端?」
砂と煤で汚れたあたしの手のひらの上に乗っているのは、古ぼけた布の切れ端だ。一続きの布の端なのか、ある部分は折り返して丁寧に縫製されている一方で、歪にちぎれほつれれている部分もある。随分と古いものに見えるが、上等な布であることに見間違えようはなかった。そしてなによりもその色は。
「……これ、あんたのマントじゃないの? なんで……」
その布ごと、あたしのランサーは両手であたしの手を包み込んだ。ひんやりとした作り物の腕と、暖かい生身の腕があたしの手をすくい上げる。
「……お守りだ。そして、次の約束だな」
両手を包まれたまま、どこまでも優しく、あいつは微笑む。目が合った。視線が交差した。消失は変わらず進み、腰から下は既に光の粒子に溶けていた。だから、あたしは見上げる。背の高い人は見下されているみたいで苦手だったのに、今はいつまでもあいつに見下ろされていたい。見守られていたい。
でも、それは叶わないのは知っているから。
もう、我が儘は言わないって決めたから。
だから。
「その時が来たら──────」
うん、その時が来たら。
「円卓の騎士が一席ベディヴィエール。再び君の下に馳せ参じよう」
「──────えぇ。約束よ。ベディヴィエール」
絶対に忘れない。
忘れることなんてできるはずがない。
約束だ。
だから、
そう、今あいつに言うべき言葉は。
「だから──────またね」
「──────あぁ! また会おう!」
最後まで掴み所がなく、けれども最後まで真っ直ぐに、あいつは去っていった。
頬にキスでもしてやればよかったかしら、なんて考えて、後で一人気恥ずかしさに悶えた。
あたしの視界が滲んでいたのは、きっとあたしがダマーヴァンドの結界から解放されるプロセスの中にいたから。
だから、もう大丈夫だよ、あたしのランサー。
これは僅か数日を駆け抜けた、あたし達の夢の記憶。
目が覚めたら、既に時計は午後10時を回っていた。帰宅した流れのまま、軽く2時間は眠ってしまったことになる。とりあえずシャワーだけは浴びようと脱衣場へ向かう。郊外の下宿は市街地と比べると同じ値段でも比較的広めで、サニタリースペースもユニット・バス方式ではなくトイレとシャワーブースは別々の場所にある。そのシャワーブースの手前の洗面所をあたしは脱衣場として使っていた。
手早くホットパンツとストッキングを脱ぎ捨て、上に着ていたブラウスも脱いで簡単に纏める。その下に着ていたキャミソールも脱いだところで、右耳に細い何かが引っかかった。
「ああ、これすら外さずに寝ちゃってたんだ、あたし」
それは、いつも肌身離さず身につけているロケットだ。銀色の細いチェーンに小物を入れるための円形の部品がついただけのシンプルなもので、決して高級品でもブランド品でもない。蓋を開けても、家族やらペットやらの写真が入っているわけでもない。
そこに収められているのは一枚の布切れだ。なにも知らない者からすれば破けた服の一端と変わりのない、古ぼけた小さな布の欠片。
でも、これはあたしにとっての大切な思い出。
いつかそこへ至るための道標。
だからかな。
久し振りだ。あんなにはっきり、あいつの夢を見るなんて。
今晩も授業の復習と翌週の予習をするつもりだったけれど、たまには早めに床につくのもいいかもしれない。幸い明日には講義がないし、まだ疲れは体の奥底にまで染み込んでいる。汗と汚れをちゃっちゃとシャワーで洗い流して、気軽なネグリジェに着替えるとしよう。冴えてしまった頭は、魔術でなんとかするとして。
首からロケットを外して、外したヘアピンと一緒に入浴中用の小物入れにしまうと、あたしは最後の下着も脱いだ。ブースに入ってバルブを捻ると、シャワーヘッドから降り注ぐ冷たい水滴があたしの身体を打つ。けれどそれもすぐ、暖かい温もりに変わってゆく。
今日はなんだか休みたい気分だし、前に進み続けるだけが道ではない。
それになによりも、あいつとの思い出にとっぷりと浸れている今ならば、もしかしたら見られるかもしれないのだ。
あいつと過ごした────夢の、続きを。
タグ
コメントをかく