最終更新:ID:NtGkRvwDjQ 2021年05月22日(土) 22:00:46履歴
青白い月の夜だった。
日の光に照らされた喧騒は遠く、されど人の営みは、人工の明かりの中に未だ僅かばかりに息づいている。
だが、そこから外れる者もいる。
それは如何な気まぐれか、或いは単なる迷い子か。営みから外れた深い闇の底。街から外れた路地の裏。
そこで迷い子は―――血溜まりに沈んでいた。
血溜まりに倒れ伏す迷い子の側には、影が一つ。それは迷い子では無く、はじめから人の営みの中には属さぬモノ。
「ヒ、ヒ、ヒ」
血の香る暗闇にはまるで似つかわしく無い、華美なドレスに身を包んだソレは、一応は人間の女性の姿をしていた。
ソレは小さく笑って、血貯まりにかがみ込む。
「ああ、いけない、いけないねぇ。やり過ぎちまったよ、全く。踊り食いのつもりだったっつーのに。こんなに血も抜けちまったしよ」
生命の息遣いを失いもはや肉塊と化したそれを、躊躇いなく持ち上げて、そのままむしゃぶりつく。
ぐちゃぐちゃ、と。獣の咀嚼音が静寂の中に響いた。
不意に、静寂を割く音がもう一つ。
コンクリートを打つヒールの音。
それは、押し殺して漏れ出した無様な足音には非ず。誇り高き狩猟者に、そんな愚かな失敗は有り得ない。
自信に満ち、自尊に満ち、己の存在を証明する、透き通るように高い音だった。
「ご機嫌よう」
と、狩猟者は言った。それもまた、自信に満ちた声だった。
「『悪食』……リュコス・オステオン」
「あぁん?」
名を呼ばれて、捕食者―――リュコスは、しゃがみ込んだまま胡乱げに振り向いた。
「なんだよお嬢ちゃん。ご相伴に預かりに来た、っつーわけじゃねぇよなぁ」
そう言ってからようやく立ち上がって、声の主に向き直る。
「ええ、勿論ですとも。他人の獲物を横取りするような下卑た真似をするつもりはないしぃ……。それに、物言わぬ屍体を食い漁ったところで、何も面白くないじゃなぁい?」
声の主たるその女もまた、身に纏うのは美しいドレスだった。
女の名を、イルミーナ・イントリーグ・アマランス。
静かに向き合う二つの影を見て、しかしそれを社交会と見紛う者は何処にもいないだろう。それと誤解するには、この場はあまりに血生臭い。
「だったらよぉ。血の匂いに誘われて、わざわざ何しに出向いたんだテメェはよ。アタシは食事の邪魔をされるのは大ッ嫌いなんだがなぁ」
「あら、わからないのぉ?」
それは何気ない世間話のように、どちらも穏やかな声色だった。
その色を塗り潰すように、怜悧に、鋭利に、殺気が走る。
混ざり合った殺意は溶け合って、もはやどちらから発せられたものかは判別つかず。しかし両者にとって、そんなものは些末な事。
「私ねぇ、『悪食』さん。貴方のことが、控えめに言って大嫌いなの。だから、ねぇ……」
言葉を次ぐように、暗闇を小さな光が駆けた。
月光を弾く鉄の輝き。常人ならば瞬きの間に見過ごすであろうその速度を、しかし相対する怪物は見過ごさない。
「……くだらねぇ」
つまらなそうに漏らして、掴み取った輝きを見やる。
なんの変哲もない、スローイングナイフ。―――否。
その柄に結ばれたワイヤーに気付く事には、獣の眼にも数秒を要した。
そして、その数秒で十分だった。
「ごちさうさまぁ」
それは、捕食者への意趣返しか。皮肉げにイルミーナは呟く。
ナイフとワイヤー越しの、吸血によるエナジードレイン。だが対する怪物も、それに息を呑む程に悠長では無かった。
「っ……!」
イルミーナの身体が、勢いよく宙を舞う。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒハァ!!」
それは全く力任せに、勢い任せに、掴んだナイフを、そこに繋がれたワイヤーを、リュコスは思い切り引き寄せたのだ。
宙を舞い落下するイルミーナの身体を待つのは、巨大な骨切り包丁の刀身。リュコスの得物。戸惑う暇は無く、そして戸惑う程に彼女は未熟では無い。
刃へと導かれるよりも先に引き寄せられるワイヤーを手放し、そして空中で新たなナイフを構える。
ぶつかり合う金属音。
しかしこの状況では、質量にも膂力にも差があり過ぎた。
巨大な刃に弾かれるようにイルミーナの身体は再び宙を舞い、今度はリュコスとは逆方向に吹き飛ぶ。
「流石に簡単じゃないわねぇ……」
無様に地を転げる様な愚は犯さず、あくまで優雅に着地して、再び怪物へと向き直る。
「ヒ、ヒ!そんなに食われてぇならもっと大人しくしろよクズ肉。骨ごと噛み砕いてやるからよぉ!」
再び殺意が混ざり合う。
溶け合って、闇に弾ける、その刹那―――
「あん?」
「あらぁ?」
両者が、動きを止める。
血が、匂い立つ。
それは、向き合う2体の怪物のものでなければ、ましてや未だ地を転がる肉塊のものでは無く。
それはもっと、濃密な。
「……どうやらお互いこんな事をしている場合じゃないみたいねぇ?」
「ヒ、ヒ。途中で別の獲物に手出すってのはアタシらしくねぇが、まあ。こいつばかりは仕方ねぇやな」
それは、極上の獲物。
或いはトロフィーであり。或いは最上の食事であり。或いは超えるべき壁。
本当の獲物を求めて、二つの影が闇に溶ける。
「……おっとと」
否、一つ残って。
「お残しはいけねぇよなぁ」
地に転がる肉塊を、膨れ上がった獣の頭が、丸ごとに飲み下した。
「ごちそうさま」
今度こそ、闇は静寂を取り戻す。
こうして誰に知られることも無く、営みから外れた迷い子は姿を消した。
数多の影は闇に蠢き、街を侵す。
青白い月は輝き。
夜は、続く。
日の光に照らされた喧騒は遠く、されど人の営みは、人工の明かりの中に未だ僅かばかりに息づいている。
だが、そこから外れる者もいる。
それは如何な気まぐれか、或いは単なる迷い子か。営みから外れた深い闇の底。街から外れた路地の裏。
そこで迷い子は―――血溜まりに沈んでいた。
血溜まりに倒れ伏す迷い子の側には、影が一つ。それは迷い子では無く、はじめから人の営みの中には属さぬモノ。
「ヒ、ヒ、ヒ」
血の香る暗闇にはまるで似つかわしく無い、華美なドレスに身を包んだソレは、一応は人間の女性の姿をしていた。
ソレは小さく笑って、血貯まりにかがみ込む。
「ああ、いけない、いけないねぇ。やり過ぎちまったよ、全く。踊り食いのつもりだったっつーのに。こんなに血も抜けちまったしよ」
生命の息遣いを失いもはや肉塊と化したそれを、躊躇いなく持ち上げて、そのままむしゃぶりつく。
ぐちゃぐちゃ、と。獣の咀嚼音が静寂の中に響いた。
不意に、静寂を割く音がもう一つ。
コンクリートを打つヒールの音。
それは、押し殺して漏れ出した無様な足音には非ず。誇り高き狩猟者に、そんな愚かな失敗は有り得ない。
自信に満ち、自尊に満ち、己の存在を証明する、透き通るように高い音だった。
「ご機嫌よう」
と、狩猟者は言った。それもまた、自信に満ちた声だった。
「『悪食』……リュコス・オステオン」
「あぁん?」
名を呼ばれて、捕食者―――リュコスは、しゃがみ込んだまま胡乱げに振り向いた。
「なんだよお嬢ちゃん。ご相伴に預かりに来た、っつーわけじゃねぇよなぁ」
そう言ってからようやく立ち上がって、声の主に向き直る。
「ええ、勿論ですとも。他人の獲物を横取りするような下卑た真似をするつもりはないしぃ……。それに、物言わぬ屍体を食い漁ったところで、何も面白くないじゃなぁい?」
声の主たるその女もまた、身に纏うのは美しいドレスだった。
女の名を、イルミーナ・イントリーグ・アマランス。
静かに向き合う二つの影を見て、しかしそれを社交会と見紛う者は何処にもいないだろう。それと誤解するには、この場はあまりに血生臭い。
「だったらよぉ。血の匂いに誘われて、わざわざ何しに出向いたんだテメェはよ。アタシは食事の邪魔をされるのは大ッ嫌いなんだがなぁ」
「あら、わからないのぉ?」
それは何気ない世間話のように、どちらも穏やかな声色だった。
その色を塗り潰すように、怜悧に、鋭利に、殺気が走る。
混ざり合った殺意は溶け合って、もはやどちらから発せられたものかは判別つかず。しかし両者にとって、そんなものは些末な事。
「私ねぇ、『悪食』さん。貴方のことが、控えめに言って大嫌いなの。だから、ねぇ……」
言葉を次ぐように、暗闇を小さな光が駆けた。
月光を弾く鉄の輝き。常人ならば瞬きの間に見過ごすであろうその速度を、しかし相対する怪物は見過ごさない。
「……くだらねぇ」
つまらなそうに漏らして、掴み取った輝きを見やる。
なんの変哲もない、スローイングナイフ。―――否。
その柄に結ばれたワイヤーに気付く事には、獣の眼にも数秒を要した。
そして、その数秒で十分だった。
「ごちさうさまぁ」
それは、捕食者への意趣返しか。皮肉げにイルミーナは呟く。
ナイフとワイヤー越しの、吸血によるエナジードレイン。だが対する怪物も、それに息を呑む程に悠長では無かった。
「っ……!」
イルミーナの身体が、勢いよく宙を舞う。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒハァ!!」
それは全く力任せに、勢い任せに、掴んだナイフを、そこに繋がれたワイヤーを、リュコスは思い切り引き寄せたのだ。
宙を舞い落下するイルミーナの身体を待つのは、巨大な骨切り包丁の刀身。リュコスの得物。戸惑う暇は無く、そして戸惑う程に彼女は未熟では無い。
刃へと導かれるよりも先に引き寄せられるワイヤーを手放し、そして空中で新たなナイフを構える。
ぶつかり合う金属音。
しかしこの状況では、質量にも膂力にも差があり過ぎた。
巨大な刃に弾かれるようにイルミーナの身体は再び宙を舞い、今度はリュコスとは逆方向に吹き飛ぶ。
「流石に簡単じゃないわねぇ……」
無様に地を転げる様な愚は犯さず、あくまで優雅に着地して、再び怪物へと向き直る。
「ヒ、ヒ!そんなに食われてぇならもっと大人しくしろよクズ肉。骨ごと噛み砕いてやるからよぉ!」
再び殺意が混ざり合う。
溶け合って、闇に弾ける、その刹那―――
「あん?」
「あらぁ?」
両者が、動きを止める。
血が、匂い立つ。
それは、向き合う2体の怪物のものでなければ、ましてや未だ地を転がる肉塊のものでは無く。
それはもっと、濃密な。
「……どうやらお互いこんな事をしている場合じゃないみたいねぇ?」
「ヒ、ヒ。途中で別の獲物に手出すってのはアタシらしくねぇが、まあ。こいつばかりは仕方ねぇやな」
それは、極上の獲物。
或いはトロフィーであり。或いは最上の食事であり。或いは超えるべき壁。
本当の獲物を求めて、二つの影が闇に溶ける。
「……おっとと」
否、一つ残って。
「お残しはいけねぇよなぁ」
地に転がる肉塊を、膨れ上がった獣の頭が、丸ごとに飲み下した。
「ごちそうさま」
今度こそ、闇は静寂を取り戻す。
こうして誰に知られることも無く、営みから外れた迷い子は姿を消した。
数多の影は闇に蠢き、街を侵す。
青白い月は輝き。
夜は、続く。
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