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イエメン動乱とは?

1910年より起こったシーア派のイエメン南部の南部評議会によるアラビア連邦への抵抗がくすぶり続け、これにしびれを切らしたシーア派のイエメン州政府軍と南部評議会との間で戦争が発生。
これにより、連邦軍もイエメン州側について戦争に介入。これに対して隣国でシーア派のイランが侵攻してきた。
これによってイランとの全面戦争が開始されたのである。三回行われたため分けて説明する。そしてこの戦争の平和条約として結ばれたのが、テヘラン条約である。

第一次イエメン動乱

1910-1919 シーア派の多いイエメンにて、イエメン南部の地域住民がイエメン州政府にスンニ派である人が多い事に腹を立てて、武装勢力の南部評議会を設立。
支配の及びにくい南部側を支配する国として南イエメン共和国を建国。イエメン州政府はこれに反発して州軍を派遣して激しく攻撃した。
だが、南部評議会の抵抗もすさまじく、戦況は一進一退を繰り返し膠着状態に入った。そこでアラビア連邦はシーア派とスンニ派の割合を1:1にするので戻ってきてほしいと呼びかけた。
南部評議会のほとんどはこれを受諾して解散した。
しかし、一部の都市のものは反発して南イエメン共和国を守り続けた。

第二次イエメン動乱

1921-1928 第一次イエメン動乱の時に南イエメン共和国についていた南部評議会が勢力を拡大して、当時の州政府の知事であるSaltun・Aliの腐敗政治をただすために反乱を開始した。
これに対してアラビア連邦は不介入を表明した。こうして州軍と南部評議会の本格戦争に突入した。この戦争はかなり激化して、イエメン州の州都であるサナアを州軍は守り切れなかった。
そして州政府がイエメン州からサウジアラビア州に逃げたところで南部評議会はイエメン南部共和国を再興したと高らかに宣言した。
そしてアラビア連邦とは別の国であると南イエメン共和国の指導者が発言したため、アラビア連邦は不介入から一転、侵攻を開始しサナアを奪還したのであった。これに対してイランはアラビア連邦に侵攻したが、逆にイランの首都テヘランまでアラビア連邦軍に占領されてしまった。
この敗北から第一次テヘラン条約を締結した。
内容はイエメンへの不介入と賠償金1000億ドルを払うものであった。
これで収束した。

第三次イエメン動乱

1930-1933 南イエメン共和国をつぶすために州政府軍および連邦政府軍がイエメン州南部を攻撃した事件。これによって南イエメン共和国は滅亡。さらには、第一次テヘラン条約を不服に思っていたイランが復讐のために攻撃してきた。
イエメン州を北イエメン共和国として、ここの2つの国を合併してイエメン共和国を建国。そして一定数のシーア派を政府内に入れることを条件にそれをアラビア連邦に吸収されるという形のサナア協定を締結。
また、侵攻してきたイランに対して総攻撃を開始。
これにより、イランは一部を残してアラビア連邦に割譲することを承諾した(第二次テヘラン条約の締結)。また、この時に我が国を支援していた、オスマン共和国,スタン共和国連邦もそれぞれ領地を得た。これによってイランは完全に分割されたのであった。

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