貴方が考えた独自の架空国家を作ろう

中阿弗利加宮黒仁(ナカアフリカノミヤニガヒト)
〈写真〉(あれば)
出生1920年2月5日
死亡2022年2月25日
出生地大日本帝国 東京
没年齢102歳
性別男性
カーシム=オスマン・ダン・フォディオ=ソコト 和名:中阿弗利加宮神師无(ナカアフリカノミヤカシム)親王
中阿弗利加宮眞子女王(南伏見宮第三女王)
学歴
大日本帝国 学習院初等科
大日本帝国陸軍幼年学校
大日本帝国陸軍士官学校
東京帝国大学 法学部
中央アフリカ共和国バンギ大学 法政学部
中央アフリカ帝国 グランダ・バンギ大学大学院 法学院
軍歴
大日本帝国陸軍少佐
ソコト独立義勇軍特派参謀大佐
中央アフリカ共和国陸軍少将
中央アフリカ帝国陸軍上級大将
|中央アフリカ帝国陸軍元帥|
中央アフリカ帝国軍名誉元帥
称号
中央アフリカ帝国 名誉皇族親王殿下
ガボン西部州ムパッサ藩王
中央アフリカ リムペンデ州 ウガウンダイ公爵
コンゴ南部 エウォ子爵
中央アフリカ帝国仏教大黒宗大僧正
中央アフリカ神道 権禰宜
政治歴
第3代・第5代〜第12代国務大臣
第3代〜第6代産業工務大臣
初代〜第11代中央アフリカ帝国枢密院枢密院議長
第6代内閣府首相たる帝国宰相
永世最高枢密顧問官
中央アフリカ帝国貴族院議員
中央アフリカ帝国元老院大老


来歴

日本での生活

父はチャド湖南東部から中央アフリカ北部を支配していたチャド=ソコト帝国皇帝オスマン1世の第3皇子 カーシム=オスマン・ダン・フォディオ=ソコト、母は大日本帝国皇族南伏見宮眞子女王との間に1920年に東京の南伏見家の邸宅で産まれた。
両親はフランスの脅威から祖国を護るため日本と秘密防共協定のために政略結婚した。
産まれたときから肌が黒かったため昭和天皇から黒仁(ニガヒト)の字を賜った。

父カーシムは陛下より親王位を賜ったが黒仁は王の称号を賜った。
黒仁が5歳の時、昭和天皇に拝謁している。
昭和天皇は側近に「そちらは黒人を蛮族と呼ぶが黒仁は朕が見た黒人の中でで1番の秀才である」
黒仁は6歳まで有能な12人の家庭教師から政治・外国語・軍事教練・数学・地理などを学び7歳から12歳まで学習院で学んだ。黒仁親王は後年、日本での生活はとても良かったと語っている。
1932年、父カーシム皇子の祖国 ソコト帝国がフランス領南チャドに組み込まれるとソコト帝国皇族支援及び抵抗運動参加のため妻と黒仁(ニガヒト)を日本に残しフランス領南チャドに向かった。
カーシムは他のソコト帝国旧皇族・王侯貴族と共にソコト独立義勇軍を組織し特派参謀総長として抵抗運動に参加した。ニガヒトは父の命令で陸軍幼年学校に転校した。

大日本帝国陸軍軍人時代。

18歳の時に陸軍士官学校に入学した。卒業後は歩兵師団、砲兵旅団、騎兵師団勤務を経験した。
各地の戦線で活躍したが夜戦では行方不明になり部下や副官を困惑させたこともありそのことで大変心を傷めたとの証言が残されている。
皇族の係累であったことから昇進も早く25歳で大日本帝国陸軍少佐に任命された。
26歳で軍を退役すると東京帝国大学法学部で法律・政治を修めた。
成績は良く周囲から「黒人の中で唯一の天才」と言われた。

チャド独立戦争

独立義勇軍教官として
1947年フランス領チャドでついに独立戦争が勃発した。
27歳の黒仁は母眞子女王、妹黒子女王、弟の奴仁(ドヒト)王と黒仁の帝国陸軍時代の僚友・部下、日本人義勇兵200名と共にチャドに渡った。
その際、黒仁は日本製の武器を大量に密輸して義勇軍に配った。この武器密輸が独立戦争勝利の鍵となる。
父からソコト独立義勇軍特派主任教導大佐の称号を与えられると練度も士気も チャド駐留フランス軍より下回っていた義勇軍を正規軍並の練度に高め日本式の正しい軍規で義勇軍を強化した。
駐南チャド・フランス軍との戦い
1949年、黒仁は初めて義勇軍第10独立混成大隊500名を率いてチャドと中央アフリカ国境付近で行われたバカンガキダの戦いに参加した。
この戦いでフランス軍は外人部隊第52連隊、陸軍2個連隊合計3500名で装備面でもフランス軍が圧倒的に優位だったがゲリラ戦、補給路を断ち敵の兵站を混乱させて敵の兵力の各個撃破に成功したため兵力差を覆し敵の士気の大幅低下にも成功した。
バカンガキダ平原での正面衝突では義勇軍が大勝利した。その後のフランス軍との戦いでも黒仁が自ら考案した作戦で勝利したためた1951年には独立義勇軍特派参謀総長中将に昇進した。1952年にはフランス領チャド総督との講和により独立を確約して1953年にはチャドはチャド湖を境に独立を果たした。

ソコト内戦

フランスからの独立を果たしたチャド・ソコト帝国だった。既にオスマン1世から譲位された皇太子 ウマンが帝位に着いていたが独立から5日後に死去した。
帝位を巡って皇族同士の内紛が勃発、オスマン1世の嫡孫 イブラヒムが即位を宣言した。
ソコト帝国皇族会議はこれを認めず
独立戦争に貢献し軍人や市民からの支持を得た黒仁の父ハーシム、ハーシムの伯父で貴族の支持が厚いスレイマン、若者層や残存フランス人からの支持を手にしたハーシムの弟 セリムなど男女合わせた11名の皇位継承を決める内戦に突入した。黒仁はハーシム側に立って他の皇族と戦ったが父ハーシムが暗殺されると支持をしていた現地軍人の離反が相次いだ。

中央アフリカ連合共和国への亡命

1956年、父や名誉を失い存亡の危機に立たされた黒仁は家族や部下を引き連れて関係のあった中央アフリカ連合共和国に亡命した。
中央アフリカ連合王国では黒仁に知名度があること、日本人が多く配下にいるため亡命を受け入れたが条件として黒仁がソコト帝国復興活動を行わないこと、中央アフリカ連合王国政府特別顧問になることを要求したがこれらを全て受け入れた。だが、1960年中央アフリカ連合共和国は共和派のクーデターにより打倒され中央アフリカ共和国が誕生した。

中央アフリカ共和国での生活

初代中央アフリカ共和国大統領になったダヴィデ・ダッソは黒仁一族を国賓待遇の中央アフリカ国民に任命し国務省高等政務参事官に任命された。更に外務省から駐日中央アフリカ大使に指名された。ダッソより日本人移民と日本人開拓者を募集したところ5万人の日本人が中央アフリカ共和国に移住した。しかし、ダッソは前政権と同じく無能だった。ダッソは周囲をイエスマンで固めて一族といえど反対派は粛清され黒仁もダッソから警戒され公職追放により中央アフリカ南部に流刑となった。
国民の支持を離れたボカサ陸軍参謀総長が

政治

親族


エピソード

逸話

    • 日本時代、停電した時や夜の明かりがない時は良く行方不明になっていた。中央アフリカ時代も侍従に日本人・フランス人がいたため夜になると見えないから発光ダイオードを塗ろうかという声もあった。特にフランス人の侍従からは「殿下、肌にラジウムを塗りましょう」と提言されたが不敬罪でその侍従は処刑された。
    • 陸軍幼年学校時代・陸軍士官学校時代の教官から良く「クロンボが皇族とは陛下に対し不敬だ!」「クロンボ風情が皇族を僭称しあまつさえ我が皇軍の敷居を跨ぐなど言語両断」と良く理不尽な暴言や鉄拳制裁に晒された。士官任官後は彼らを部下につけるよう陸軍省人事部に掛け合い自分に対して不敬な態度を取った教官・元上官・先輩・同級生を自らの部下にさせた上でわざと全員戦死させたと語っている。彼らの死因は公式には夜戦による戦死なので恐らく闇夜に紛れて仕留めたのでは?と推測されている。

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