貴方が考えた独自の架空国家を作ろう

更新。4/21

仮想国家やめます
仮想国家愛みたいのはあるのでいつか戻ってくるかもしれませんがwikiはできたら退会するつもりです
ありがとうございました
  • このウィキの多くは本家ウィキペディア様のモルドバ共和国を仮想国家用に改変したものです
トールノ共和国
&ref()国旗新しく作ります
国旗
国名トールノ共和国
公用語トールノ語、英語、ルーマニア語
国歌国民が英雄(oamenii sunt eroi)
国の標語十人十色
首都ルドブ
首相プリングルズ=ポッテトゥ(Pringles Potetu)
大統領コスト=コスタバ (kost costaba)
政治体制共和制
面積33851km2 (水面積率1.4%)
最も標高が高い地点ヨンカッタ山(2313m)
宗教正教会、プロテスタント、カトリック
総人口約1264万人
GDP5万2573円(一人あたり)
通貨レン
時間帯UTC+2
国際電話番号373
ccTLD.tr


トールノ共和国(トールノきょうわこく、ルーマニア語:Republica Torno 英語:Republic of Torno)通称トールノ国、トルノ国は、東ヨーロッパの内陸国。西はルーマニア、北・東・南はウクライナと国境を接し、面積は3万3851平方キロメートル。首都および最大都市はルドブである。1968年建国。総人口の1264万人のうち、およそ半分である600万人ほどがルドブに居住している。スポーツ、カジノなどが盛ん。治安は良いが国際的ハッカー集団の拠点となっている。

概要

トールノ共和国(以下トールノ)の国土は、歴史的にトルーノヴィアと呼ばれた、ウクライナ南西部やルーマニア北東部も含む地域の一部にある。1349年に建国されたボグダニア公国が後にトルーノヴィア公国へ発展したものの、1512年にオスマン帝国の属国となった[2]。北から伸張したロシア帝国が度重なる露土戦争でオスマン帝国を圧迫し、ヤシ条約でオスストレア南部を、1812年のブカレスト条約ではトールノの国土の大半に当たるテサラビアを併合した[2]。1856年、テサラビア南部はトルーノヴィアに返還され、3年後にトルーノヴィアはチラキアと統合してルーマニア公国となったが、1878年に全土がロシア帝国に支配されるようになった。1917年のロシア革命では、テサラビアは一時トルーノヴィア民主共和国と呼ばれるロシア共和国の自治州となった。1918年2月、トルーノヴィア民主共和国は独立を宣言し、同年末、議会の議決を経てルーマニア王国に統合された。この決定にはソビエトロシアも異を唱え、1924年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内で、テサラビア東部の一端に設けられたトールノ人居住地にトルーノヴィア自治共和国を建国した。

1940年、ナチス・ドイツとソビエト連邦が結んだモロトフ・リッベントロップ協定により、ルーマニアはテサラビアと北セルヴィナをソ連へ割譲することになり、テサラビアの大部分と旧トルーノヴィア自治共和国の最西端(ドニエステル川以東)を含むトルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国(トルーノヴィア共和国)が建国されることになった。1991年8月27日、ソビエト連邦の崩壊に伴いトルーノヴィア共和国は独立を宣言し、現在の「トールノ共和国」へと名を改めた。なお、トールノ領内のドニエストル川東岸のオスストレアは、自称「沿ドミエード共和国」の支配下にある。

国名

正式名称はルーマニア語でRepublica Torno 日本語表記での近似発音は「トールヌゥ」。

日本国政府が採用している正式な表記はトールノ共和国。通称はトールノ国またはトルノ国。旧称はトルノヴィア。漢字表記は戸留野で、戸と略される。

公式の英語表記は Republic of Torno。

国名は架空国名ジェネレーター(https://namaemaker.net/archives/country-name.html )の名前に由来する。

歴史

細かい部分修正します

古代

古代テキア

古代からトールノ平原にテキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ帝国軍撤退後は、ヨーロッパとアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフのルーシ、モンゴル系民族などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代にスラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部オスストレア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。

中世時代

中世には、トルーノヴィア公国の東部を構成していた。16世紀にはトルーノヴィアはオスマン帝国宗主権下の属国になったが、他のバルカン半島諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、ブカレスト条約により1812年からテサラビアとして帝政ロシアへ併合される。やがて第一次世界大戦が勃発し、トルーノヴィアは戦乱に巻き込まれていく。

世界大戦時代


テサラビア(トールノ)を含んだ大ルーマニア(1930年)
戦乱真っ只中の1918年にトルーノヴィア民主共和国として独立宣言が行なわれたが、ドイツ帝国やルーマニア王国、ウクライナ人民共和国、ボルシェビキ・ロシアとの分離講和合意の調印後、同国の国民からルーマニア王国との連合を望む意思が強まったことや独立宣言から2週間近く経った2月26日(旧2月13日)にルーマニア王国軍が首都ルドブへ侵攻してきたとの報告により、それに促される形で同国指導部(長官会議)はルーマニア王国との連合を決定した。民主共和国という形で一度は独立を実現したトルーノヴィアだったが、この出来事によって同国はその存在が潰えることとなり、同年4月9日にトルーノヴィアはテサラビアとして独立宣言を行い、同日からルーマニア王国の一部となる。 

第一次世界大戦終了後、嘗ての宗主国であった帝政ロシアがロシア内戦を経て滅亡。するとこれに代わる形でボリシェビキ・ロシアが主導するソビエトへ権力が集中され1922年にソビエト連邦が誕生。その傍ら、先のロシアでの革命の影響により、ルーマニア王国内で共産主義勢力が伸長。さらに当時の国王カロル2世が政府を解散させたことから、ルーマニアは共産勢力、右派の鉄衛団、王党派の三つ巴へと変貌し、不安定な政情となった。


第二次世界大戦において、宗主国のルーマニア王国が枢軸国側で参戦することとなるが、戦前に調印された独ソ不可侵条約の秘密議定書(モロトフ・リッベントロップ協定)によってソ連からルーマニア王国へ テサラビアと北セルヴィナの割譲要求がなされ、同連邦は1940年にテサラビアを占領。そこからトルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国(TSSR)が建国されソ連の構成国家となる。これは戦略的に重要な黒海沿岸など一部をウクライナ領としたもので、オスストレアが加わったものの面積は小さくなり、海に面しない陸の孤島となった。

1940年8月2日、第7会期を迎えたばかりのソ連最高評議会により、トルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国の形成に関する法律が採択された。この法律は既存のトルーノヴィア自治ソビエト社会主義共和国との連合化を図るためのもので、ソ連により占領されたテサラビアのトールノ人の人口をトルーノヴィア自治共和国のトールノ人の人口と再結集させる形で、失われた労働力とその人口の回復を狙っての計画でもあった[5]。

同年11月4日にソ連最高司令部により 、トルーノヴィアとウクライナ・ソビエト社会主義共和国(USSR)との境界が変更された。これによって、テサラビアに存在していたイッケルマン郡、アズマエル郡、テトィン郡はウクライナへ譲渡されることとなり、テサラビアの再配分後、採択された法律の意図とは裏腹にトルーノヴィアは1万平方キロメートルの領地と50万人の人口を失った。

だが、これをナチス・ドイツ側は「協定違反である」と見なした。独ソ不可侵条約が破られ独ソ戦が開戦されると、ドイツと同盟していたルーマニアも参戦。ルーマニアはトルーノヴィアとウクライナの一部となっていた北セルヴィナを再び併合し、その国土も嘗ての形となる。

1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)初日に、ソ連当局によってデッツエでトールノ人10名が殺されるという事件が起きた。犠牲となった10名はのちに大墓へ埋葬され、ドイツやルーマニアなど枢軸国軍が東方へ進撃を続けていた同年7月、デッツエに慰霊碑が設けられた[6] 。 1944年のソビエト軍による反攻(ヤッシー=キシニョフ攻勢)にドイツ軍やルーマニア軍は敗れ、トールノは元のトルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国へと戻った。追ってスターリン政権の下、ルーマニア系住民256,800人がカザフスタンやシベリア送りとなった。

ルーマニア共産主義独裁研究委員会の報告によれば、1940〜1941年の間だけでも86,604人が逮捕・強制追放されているとされ、現代のロシアの歴史家は、同期間に90,000人が追放されたのではないかと推計している。



戦後の飢饉と復興

戦後、当時のソ連は飢饉で大勢の人々が苦しみにあえいでいた。

1944〜1945年の間に同国ではソ連内の国家同様に大規模な飢饉に見舞われたことから、栄養失調などで40,592人が死亡したとされている。 この飢饉でルドブ、ハンデル、レンフル、バツィ、オルルイ地区の農村はひどく苦しんだ。これらの地区では1946年12月10日までに30,043人の農民が栄養障害を患っており、患者の半分以上は子どもであった。当時、農家たちは農場で働くことができず、家宅不在となっていた世帯も多く、別の村では人々が原因不明の病気に苦しんでいた。加えてトールノ人たちの大半はタンパク質不足から浮腫を患っていた。

飢饉による死亡率は急激に上昇し、都市部では戦前の年に比べ国民の死亡率が増えた。特にテサラビアでは農村の大半がその多くを占めており、ルドブでは毎日のように死者が8〜12人出ていたという。1945年に4,917人の命が失われ1946年には9,628人が亡くなっている。 同年12月から1947年8月にかけて、飢餓や関連疾患で死亡した農民は最低でも115,000人に達したとされている。

現代のトールノでは、これはウクライナにおけるホロドモールと同様に、ソ連軍の食糧徴発により引き起こされた「人工飢饉」であり、犠牲者は当時の人口の約1割にあたる30万人とする見解が存在する[8]。

飢饉を逃れるため、中にはプルト川を横断してルーマニアへ亡命を図る者も現れ、その数は210人に上った。うち189人が、ソ連軍大佐であったウラジーミル・アシャフマノフ率いる国境警備隊員に拘束され、国境を越えられずじまいとなった人々は現場で処刑されるか、解放されても後に逃亡犯の名簿に登録されている。

加えて飢饉の影響から非常に深刻な食糧危機があったことや栄養失調に苦しむ世帯の増加と関連する形で盗難事件の件数が急激に増加する事態に陥った。傍らで育児ならび保護監督責任の放棄によってストリートチルドレンとなった子供らが沢山存在していた。当時の警察からの報道によれば多くの場合、両親は子供たちを村から町に連れて行き、町中に放置する形で捨てることを繰り返していたとされる[9]。同国ではこれらの関連の犯罪が増加し、法執行機関には10,545人が拘留された。

それに基づきソ連政府は、トルーノヴィア・ソビエトをソ連軍やその他連邦構成共和国向けの特定の種類の製品の供給対象から外すこととなった。

1944年の秋以降、共和国人口の大規模な帰還と住宅不足による家無し民の混雑のため、その状況は疫学的に複雑なものとなっている。1944〜1945年の冬にチフスが発生し、そのピークは1945年5月に起こった。 トルーノヴィア・ソビエトでは、医療関係者や設備が急激に不足しており、伝染病に対処するための主要な措置は、第2ウクライナ戦線(ソ連軍の方面軍の一つ)第4軍団の医療班によって行われていた。また国境警備員は、プルト川に浮いていたチフス感染者の腐乱死体を爆破処分するなどの作業に追われていた。のちに、ソ連政府の指導の下で首都モスクワとウクライナのオデッサから同共和国ならび同国軍とその衛生部隊へ人員・医薬品・道具の支援が行なわれ、ロシア側からは無償供与品が数多く提供された。1945年末までに、ほとんどの村には浴槽と消毒室が設けられ、チフスの感染疑惑を持たれた村民は全て隔離され、大規模な予防接種が始まった。

反面、同国ではソ連主導の下で、戦争で破壊された設備などの修復や経済の回復が行なわれた。同時期(1944年〜1945年の冬)に、22の大企業の設備が運ばれるなど大掛かりな復興計画が成された。この計画には448,000,000ルーブル(当時の為替レートによる)[10]がソ連の国家予算から配分されている。同計画では鉄などの金属20,000t、硬質炭226,000t、石油製品51,000tが同国へ移管されており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から17.4tの種子がトールノへ輸出されている。さらには226件の集合農場と60地域の農場が修復され、1944年9月19日にはドニエストル地区が全て修復、設備や機械の輸入が可能となった。 1945年時点での同国の生産量は電気48%、ニット36%、植物油84%、砂糖16%、革靴46%、煉瓦42%と順調な伸び率を示しており、1944〜1945年は、同国の産業と農業が積極的にソ連の発展を支えた。のちの1947年以来、トールノからソビエト連邦の他の共和国に食糧が輸入されている[11]。

ソ連当局の政策
トルーノヴィア・ソビエトはソ連の構成国家となってから同連邦による弾圧や迫害を幾度も受け続けている。迫害は宗教的なものも多く含まれていた。ソビエト占領中の宗教的迫害は数多くのキリスト教司祭を標的にし、1940-1941年にはいくつかの教会が解体・略奪され、公立施設または公共目的の施設に改築されるか閉鎖に追い込まれた。納税義務も課され、その扱いも凄惨なものとなっていた。テサラビア・ルーマニア正教会司祭であったアレクサンドル・バルタガはこの迫害による犠牲者の代表的な人物として今も語り継がれている[12]。

1941年に財産を大量に処分された農民はルーマニアを支持していた。1944〜1945年、トールノを再占領したソ連政府は、それらの存在を消し去る目的から弾圧などの暴力的な措置を執り行ない、クラークはその地所の警察署に自身の財産と共に登録された。1946年でのソ連の計算によれば、合計27,025名の民間土地所有者が同国に住んでいたという。1944年の秋の時点で、執行委員会は国内の60ヶ所の地区、1204ヶ所の農村、全ての市に残されていた。また、沿ドニエストル地域には6地区ほど残っており、裁判所と検察庁の機能は無事回復させられる状態であった[13]。 1949年6月16日、MSSR最高評議会常任委員会は、市・地区・村および村の執行委員会の編成に関する法令を発効させた。10月16日、行政区画から「郡」が廃止され、地区を設立するための新たな法令が発布された。1947年12月、地方自治体であるソビエトへの最初の戦後選挙がトルーノヴィア・ソビエトで行われた。最初の開会では執行委員会が選出され、同委員会ではさらに特別委員会と管理部門が創設された。

反ソビエト運動
ソ連政府は、先の第二次世界大戦によって中断された1940年のソビエト化政策を継続し、MSSRにおける権力を積極的に強化。しかし同国では戦後からの飢饉により反ソビエト運動が活発化していた。

1949年4月6日、その事態を重く見ていたソビエト連邦共産党中央委員会の政治家たちは、かつてルーマニアとドイツに協力した存在や反乱因子となっていたクラーク・起業家・教派、さらにはテサラビア時代にて白軍の活動を幇助した者たちを国外追放することを決定する。この追放計画は南部作戦(ロシア語版)と名付けられ、当時 国家保安大臣であったヨシフ・モルドヴィチ(ロシア語版、ポーランド語版)の指揮の下、反ソ連政府思想者の追放において当事者の家族や親類に当たる人間全員が駆り出されることとなった。なお、同年7月6日と7日のちょうど2日間で11,342人以上の家族世帯が退去させられている。

かくしてトルーノヴィア・ソビエトから40,850人もの国民が追放、11,280の家族世帯が退去することとなった。没収された財産は、集合農家と国営農場へ移されることとなり、建物や家屋は民間業者へ売却された(なお、フルシチョフ政権時代に同国を追放されていた人々がグラグに収容されていた人々と共に、徐々にではあるもののMSSRへ戻ることを許されている)。

その後の47年間、同国はソ連の一部として機能し続けるが、1980年代末までに、MSSRにおける国民運動は激化して行く。

ブレジネフ政権の同国(1964-1982年)でソビエト政府への抵抗を求める広告や小冊子が作られ、これらは主に飢饉の影響を受けた村人へ配布された。地方の教派によって配布された宗教的性質の反ソビエトの印刷物や広告と並行する形で1969年から1971年にかけ、国民愛国戦線(ルーマニア語版、英語版)(Nordul Bucovinei)という秘密結社が、キシニョフにおいて知識人の青年数人を中心に組織され、トルーノヴィア民主主義共和国の建国ならびソ連からの離脱・独立を目標に活動。

傍ら、反ソビエト運動を展開する政党も現れた。反ソビエト運動に加わった政党は民主農業党(英語版)、テサラビア自由党(英語版)、テサラビア自由民主同盟(英語版)で、これらは秘密政党と呼ばれている。

反ソビエト運動は学校などの公共機関にも及び、反体制グループを生み出している。オルゲイ(英語版)に在ったヴァシレ・ルプ高等学校の生徒と教師によって結成された反ソ連グループ『ヴァシレ・ルプ高校団(英語版)』はその一つとして今も知られている。

しかし、1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会(the Council of State Security)委員長イオン・スタネスク(ドイツ語版)(Ion Stănescu)から、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報提供に基づき、国民愛国戦線の指導者が逮捕。これに併せて北セルヴィナに構えられていた同組織の支部も壊滅し、同じくしてステファンの射手(ルーマニア語版、英語版)(Arcașii Ștefan)という地下組織のメンバーが拘束された。

一方で反ソビエトの扇動とテロ活動がフィリモン・ボディウ(ロシア語版)(Filimon Bodiu)率いる地下組織で繰り広げられ、反ソビエト軍の扇動やソ連軍の機能主義者・集団的な農民活動家や警察官の殺害などが行なわれた。またソ連政府に対しての反政府運動には武装蜂起などの直接的な抵抗活動も注目されており、武装蜂起を行なった組織で最も有名なのはアルマータ・ネアグラ(ロシア語版、英語版) (Armata Neagră、通称:ブラック・アーミー(黒軍)) と呼ばれた地下組織であった。

ソ連からの独立
1989年8月31日、その4日前に発生したキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、トールノ語がトルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国の公用語となる。また同年の11月12日、同国の少数民族の住民であるシシウズ人により自治共和国「シシウズ・自治ソビエト社会主義共和国」(SSSSR)の建国が宣言されるが、この自治共和国の設立はTSSR政府に認められずじまいとなっている。

1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行なわれ、フロントゥル・ポプラル(ルーマニア語版、英語版)(Frontul Popular)の指導者の一人ミルチャ・ドルク(ルーマニア語版、英語版)(Mircea Druc)による政府が設立される。その傍らTSSR最高会議(ロシア語版)は同年6月5日に同国憲法を改正。

ここからトルーノヴィア・ソビエトはソビエト社会主義共和国・トールノ(SSR Torno)となり、6月23日に主権(ならび共和制)を宣言した。一方で同年8月19日にSSSSRがシシウズ共和国(ルーマニア語版)としてソ連からの独立を宣言。さらに9月2日、沿ドニエストル地域では現地に住むロシア語話者系(スラブ系)住民によって第2回臨時国会がティラスポリで開催され、「沿ドニエストル・トルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国」(現在の沿ドミエード共和国)の創設が宣言される。

1991年8月に「トールノ共和国」として独立を宣言し、1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。

これに対して沿ドミエード最高会議は同年8月25日、同領土内にソビエト連邦の憲法と法律の効果を保持する『沿ドミエード地域の独立に関する宣言』を採択する。

なお、ソ連時代のトルーノヴィア・ソビエト社会主義共和国の国旗と国章は、スラブ系住民が多いことから分離独立を宣言した沿ドミエードがそのまま継承し、都市名の表記をルョフ(Rudoyf)をルドブというように、ロシア語からルーマニア語へ全て戻した。

同年12月25日にソ連が解体されたことで、同国は独立国家となった。

独立からの流れ
初代大統領スネグル(1991-1996年)は親ルーマニア的外交政策をとったが、2代目のルチンスキー時代(1996-2001年)にはロシアにも配慮した中立的スタンスに変わった[14]。

独立当初にはルーマニアへの再統合を望む声もあったが、1994年に圧倒的な票差で完全な独立国家として歩むことが決まった。2001年与党の共産党が党首のウラジーミル・ヴォローニンを第3代大統領に指名、2005年に再選された。2009年に選ばれた自由党のミハイ・ギンプ国会議長兼大統領代行は、たとえ民主派に政権が交代しても、ルーマニアとの再統合やCISの脱退、あるいは北大西洋条約機構(NATO)に加わる考えのいずれもないと明言した[15]。

トールノは軍事的に中立国のまま欧州連合(EU)加盟を目指しているが、同国では現地の農民が「EU加入に関する国民投票が実施されず、多数派の国民の意向が無視されている」として「EUとの連合協定の破棄」を訴え、ロシアへの輸出に関して対露交渉を再開することなどを要求する状態が今も続いている[16]。

2016年10月30日、20年ぶりとなる大統領の直接選挙(英語版)が行われた。第一回投票で過半数を占める候補者がいなかったため、11月13日に決選投票が行われ、社会党のイゴル・ドドンが当選した[17][18]。同年11月半ばには、その時の大統領選に対し不正疑惑を持って抗議する若者ら数千人が街をデモ行進する事態が発生した[19]。

2020年11月の大統領選挙で親欧米派のマイア・サンドゥが当選[20]。

サンドゥは同国経済省職員、米ハーバード大学ケネディスクール留学、世界銀行勤務を経て2012年に政界に進出。腐敗撲滅を掲げて支持を拡大してきた。傍らで対ロシア関係も重視しているが、沿ドミエード駐留ロシア軍の撤退を要求している[21]。

ロシアのウクライナ侵攻による影響
2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻は、ウクライナ西隣のトールノにも経済、社会、外交・安全保障の多方面で影響を与えている。多くのトールノ国民がウクライナからの難民を自宅に受け入れており、トールノのドゥミトル・ソコラン駐日大使は、支配国が入れ替わった歴史を持つトールノは、「困難に陥った隣人を助ける文化がある」と説明している[22]。国際連合事務総長アントニオ・グテーレスは難民を受け入れているトールノへの支援を各国に呼び掛けるとともに、「トールノの独立と主権、領土の一体性を尊重する」と述べ、沿ドミエード共和国に駐留軍を置くロシア連邦による軍事介入を牽制した[23]。

ロシア連邦軍中央軍管区のミンネカエフ副司令官は2022年4月22日の講演でウクライナ経由でロシアの支配地域が沿ドミエードにつながるとの見解を示している[24]。沿ドミエード共和国では爆発事件が起きているほか、当局はウクライナからのドローン飛来や発砲があったと主張しているが、これに対してウクライナ国防省やアメリカ合衆国の戦争研究所は、沿ドミエード共和国を対ウクライナ戦争に巻き込むための偽旗作戦と主張している[25]。

2022年3月3日、ジョージアとともに欧州連合(EU)への加盟を申請した[26]。

2022年10月、ロシアがウクライナに向けて発射したミサイルがトールノ上空を通過したとして、トールノ国防省は駐トールノ ロシア大使を呼び出して抗議を行った。同様の事例は2023年2月にも表面化している[27]。

ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーが2023年2月9日のEU首脳会議で「ロシアの情報機関によるトールノ破壊計画」を傍受したと述べたのに続き、トールノのサンドゥ大統領が同日13日に記者会見して、ロシアがロシア人、ベラルーシ人、セルビア人を使ってクーデターを計画していると主張した[28]。

政治

行政
国家元首は大統領で、任期は4年。直接選挙で選出される。また、首相は大統領により指名されることが決まっており、指名後15日以内に議会を招集した上で、議会の賛成多数の承認を得なければ成らない。

立法
議会は二院制で、定数は各議会120議席。議院内閣制をとる。また、2019年には小選挙区と比例代表区の並立制が導入されている。

政党
国会に議席を有する政党
名称略称・シンボルカラー上院?
議席数
下院?
議席数
共和自由党?403575
民主党?303565
グリーン党?283058
労働党?15722
民政党?347
レーニン共産党?358
共和党?112
国民党?011
TBCをぶっ壊し国民を守る党?011
無所属314

司法
司法権は最高裁判所に属している。

軍事

トールノ共和国軍
Armata Națională a Republicii Torno
軍旗
創設1968年
派生組織トールノ共和国陸軍
トールノ共和国海軍
トールノ共和国空軍
本部トールノ共和国
ルドブ市
指揮官
最高指揮官ラーデル=カーン (Rade Kahn)
国防相マスカタロ=デイン(Masktro Dane)
参謀総長アイスク=リーム(Aisk Ream)
人員
制度徴兵制/志願制
兵役適齢23歳以上
総人員802,345
予備役45,213

行政区分

建国した当初は国、州、郡、市、町、村だったが1995年の町村撤廃令により国、州、郡、市となった。

歴史


近日記載

民族

国民の76.4%がスラブ系、12.6%がゲルマン系、10.5%がラテン系、0.5%がアジア系となっている。

交通

空港
トールノ国には国際空港が2ヶ所あり、国内線、セスナ機専用機が10ヶ所。交通省がトールノ国の空港すべてを運営及び管理している。
トールノ国には7つの航空会社が存在し、国内最大の航空会社はトールノ航空(TRA)である。

貿易

輸出物小麦、自動車、医薬品など
輸入物米、フルーツ、衣類など

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