貴方が考えた独自の架空国家を作ろう

概要

1970年に誕生した中央アフリカ帝国は建国から53年と歴史が浅い。
古代からフランス植民地時代、帝政以以前ほ中央アフリカ共和国などの国家が存在していた。
このページではそれらの国家の歴史も併せて紹介する。

フランス領赤道アフリカ時代

1850年、植民地拡大のために赤道アフリカ地域に進出したフランス第2帝政はチャド南部、コンゴ共和国・カメルーン・ガボン・中央アフリカの5地域をフランスの植民地として海外植民地「フランス領赤道アフリカ」とした。
植民地開拓のためフランス本国から約30万人のフランス人が移住してきた。彼らはフランス式の近代技術を植民地に伝えた。
フランス帝国政府の政策によりブルボン朝・オルレアン朝時代の旧貴族も赤道アフリカに移民させ赤道アフリカの開拓を躍進したフランス人を植民政府の要職につけた。旧貴族と新貴族を赤道アフリカに封土を与えた。そのため、多くのフランス人貴族が赤道アフリカに住むことになり後の中央アフリカ帝国貴族社会の下地となった。
フランス政府はさらなる人材確保のため欧州で出資者や開拓者を募った結果、ドイツ人などゲルマン系民族・ロシア人・イギリス人・イタリア人・ギリシャ人を始めとする欧州系諸民族約200万人が赤道アフリカに移住した。

フランス領赤道アフリカ分割

1860年代後半からフランス領赤道アフリカの統治範囲が広範なため行政が複雑化し各地の貴族や植民者からの不満が爆発し革命未遂などの暴動が起き植民地統治が難しくなってきた。赤道アフリカ総督の人事も初期はアフリカに精通したナポレオン3世の側近が務めていたが探索や開拓により仏領赤道アフリカが天然資源の宝庫と知ると実力重視の人事登用を行いフランス本国に利益をもたらした。
1870年、フランスは帝政から共和制に移行した。
共和制以降によりナポレオン3世により1868年に仏領赤道アフリカ総督に任命されたエルキューレ・ド・デュスマンが続投した。
フランス本国では国防政府、パリ・コミューンなどの第三共和政政権に対抗する勢力が乱雑していた。
また、王党派・ボナパリストの台頭によりフランス本国も混乱の極にあり広大なフランス領赤道アフリカの統治にいきずまりが生じた。
デュスマン総督はこれまで植民政府要人及び公務員はフランス人のみで構成していたが現地民族やフランスが併合した現地国家の王族をフランス準市民権を与えて植民地経営に当たらせた。
それでも仏領赤道アフリカの経営が以前厳しい状態であるためデュスマンは1874年に本国政府宛として赤道アフリカを分割する提案書をフランス本国に送付した。
本国政府は治安維持のため忙殺されておりこの報告書の対応が出来なかったが4年後の1878年4月、混乱が収束したフランス政府はマクマホン大統領の命令でフランス領赤道アフリカを5つの地域に分割案に同意すると宣言した。8月には仏領赤道アフリカは「仏領中央アフリカ」「仏領カメルーン」「仏領ガボン」「仏領ソコト=南チャド」「仏領ブラザヴィル=コンゴ」が誕生した。元々が1つの植民地であるため円滑な植民地経営をするため「フランス海外領赤道アフリカ・コミューン法」を定めた

フランス海外領赤道アフリカ・コミューンの解体

マクマホン政権はカメルーンに植民地を持っていた英国政府との交渉により英国領カメルーンを獲得した。
しかし、5分割したことにより植民地によって生産性の差異や近代化の遅れが指摘された。
例として上げるとデュスマンが総督を勤めたカメルーンは民族融和政策と沿岸部開発により商業・貿易が発展し工業化の成功と鉄道敷設により更なる飛躍を遂げたがラフォーレ総督が統治していた中央アフリカは内陸地域のため発展が遅れ鉄道敷設は完成したが民族同士の対立が深いため民族浄化政策により治安維持を計ったため後の時代まで引きずることになる。
フランス本国政府は5つの植民地にフランスから派遣された総督による統治システムから現地人を君主として政府・軍部要人をフランス人で固めて統一国家を建設する計画が構想された。

赤道アフリカ連合王国

赤道アフリカ連合王国構想計画

赤道アフリカ地域にフランスの意思を汲んだ傀儡政権を樹立してフランスの影響力を確保すべきとの議論はフランス議会で討論された。フランス議会の決定により5総督、かつての先住アフリカ君主をパリに集めて連合王国建国と連合王国君主を決める会議を開いた(パリ・赤道アフリカ評議会)。
フランス本国政府は赤道アフリカ連合王国準備委員会を発足させて誰を持って赤道アフリカ連合政権の君主を決めるか議論が紛糾した。
中央アフリカ地域を支配していたバイヤ帝国皇帝の血を引くウェジン・ドタ・メウベ=バイヤを連合王国国王に指名した。
仏領赤道アフリカ植民地政府は1885年に5地域の統合と国名を赤道アフリカ連合王国?とした。
支配体制は国内最大のバイヤ族とフランス人を始めとするヨーロッパ系民族による独裁体制が敷かれて建国直後は専制君主体制が敷かれた。
1903年6月26日にウェジン1世が崩御すると次期連合王国国王はフランスの旧王族(ブルボン家・オルレアン家・ボナパルト家)から選出する事を決定した。
20日間の空位を経て王位を継いだのはボナパルト家のアンリ・ナポレオン・ド・ボナパルト公爵だった。
アンリは先祖のフランス皇帝ナポレオン1世に倣いナポレオン1世を名乗った。
1905年5月20日に国会である中央アフリカ連合王国中央議会が開かれた。同日には中央アフリカ連合王国憲法が発布された。
1914年、名誉民族とされたアジア人、バイヤ人、コンゴ人、ピグミーのバカ人、バントゥー系、アラビア人、ユダヤ人が新たに支配層として君臨し続けた。
連合王国政府は国内第2の民族バンダ族やピグミー族などのアフリカ系諸民族を奴隷扱いし1906年から始められた選挙では彼ら被差別民族には選挙権は与えられず徴兵や国土開拓事業など強制労働に従事させられた。
後にバンダ族は名誉民族に復帰したがバンダ族を中心に被差別階級にあったアフリカ諸部族・アジア系移民らの不満が燻り続けた。
欧州との関わりが深いため鉄道・電気・軽工業・自動車・航空機などの各産業、農業の振興、法制度と軍隊の近代化が図られたが連合王国の歪な支配体制は続いたままであった。

赤道アフリカ連合王国解体

8・10政変
1940年8月10日11時4分、この日は連合王国記念日である聖獣降臨祭の日であった。
コンゴ人連合王国国王ジョシュアショア1世と18年間内閣を率いたベルギー人 レオポルド・フォン・ドラクロワ首相は新たに建設した中央アフリカとコンゴ国境にあるインムルードで行われた聖獣降臨祭を訪れていた。
アフリカ諸部族による独立共和主義組織 「神の解放」構成員グク・ヘナベが見物していたジョシュアショア1世とドラクロワ首相ら王族・政府・軍部高官らに手榴弾と迫撃弾を投げ込んだ。
初弾でジョシュアショア1世ら王族、政府・軍部高官らは即死したがドラクロワ首相だけは意識があったためクナベにより拳銃を発砲され死亡した。直ぐに警護に当たっていた近衛兵・首相親衛隊がクナベを包囲したが「中央アフリカ諸国は解放されるべきだ!今こそ民族総自決を!革命万歳!」と叫んで自害した。
同時刻、首都が置かれていたリーヴィルプルで神の解放指導者 ドト・ウガメ・ニンガが王宮・議会・省庁を占拠、王太子のムショア(当時12歳)を連合王国国王に推戴した。ニンガは白人貴族や白人閣僚を拘束すると彼らに連合王国解体宣言書、白人特権の喪失及び貴族制廃止の宣言書に署名させた。
午後5時14分にムショア1世から中央アフリカ連合王国解体宣言と退位が伝えられここに中央アフリカ連合王国は滅亡した。ニンガは翌8月11日に白人貴族の襲撃を受け死亡した。
ニンガの後継者は同志で社会主義運動家のコンゴ人のアレクセイ・マサワが指名された。

中央アフリカ連合共和国

4カ国独立宣言

初代連合大統領に就任したアレクセイ・マサワは全国民に「1950年に全ての構成地域を独立させる」と宣言した。独立するのはかつての白人植民地だった中央アフリカ・コンゴ・ガボン・カメルーンの4地域でこれらの地域に独立後、円滑な政治運営・経済活動が行われるため積極的な投資・開発を行った。
1949年12月31日、マサワ大統領は連合共和国大統領職を辞任した。翌年1950年1月1日に宣言通り中央アフリカ・コンゴ人民共和国・ガボン共和国・カメルーン共和国が独立した。
しかし、建国から2年後にマサワ大統領が死去すると政権が不安定になり大統領が1年に6人に辞任し国内をまとめるために粛清や虐殺を行う政権の誕生は市民を落胆し構成国は本国に支援を求め独立に動いた。
1958年に就任したウンデラ大統領は経済政策と近代化の失敗により中央アフリカ共和国の経済不安が他の3加盟国に波及するのを恐れた中央アフリカ共和国出身の中央アフリカ連合国防軍 ダヴィデ・ダッソ中将が1960年にクーデターを起こし中央アフリカ連合共和国は打倒された。

中央アフリカ共和国

ダヴィデ・ダッソはフランスの莫大な支援を取り付けたが国庫健全化の成功と全国への鉄道開通、農業政策の発展に力を注いだが改革は失敗に終わり粛清と虐殺を繰り返し国民からの支持を失った。

中央アフリカ革命

ジャン・べデル・ボカサ陸軍中将は中央アフリカ共和政府の腐敗と怠惰に業を煮やしていた。一向に良くならない経済や白人至上主義の蔓延、進まない近代化は全て政府によるものだと思う軍内部の青年将校達は「救国革命軍」を組織した。その組織の中心人物が当時陸軍参謀長だったボカサ中将だった。
ボカサは同僚、部下、救国革命軍に自らの意を伝え急進派、タカ派の上級将校の取り込みにかかり成功した。更にバンダ族各氏族、各部族の有力者、黒人に支持する白人貴族、共和制によって追放された旧連合王国の王侯貴族も取り込みついに1970年10月1日午前8時に革命軍は蜂起した。革命軍は政府に不満を持つ学生・一般市民も加わり共和国政府軍は徴兵部隊ばかりが投入されていたため戦闘にならなかった。
午後15時の降伏宣言
正午には革命軍主力が国会議事堂、大統領官邸を攻撃した。当時の大統領でありボカサの従兄弟だったドッコ大統領は共和国親衛隊・大統領警護隊、民兵を率いて果敢に抵抗したが兵力差の前に午後15時に全権をボカサに委任する調印所にサインし全国にドッコ政権解体宣言が出された。これによりボカサが中央アフリカ共和国最後の大統領に就任する

中央アフリカ帝国建国

ボカサ大統領は1970年12月4日に中央アフリカ帝国建国と皇帝即位を宣言した。ボカサ1世を名乗り共和制の永久破棄と帝政の開始を国民に伝えた。

ボカサ1世大帝の時代

帝国崩壊の危機
ボカサ1世の即位戴冠式は当時の中央アフリカ帝国国家予算の5倍とも言われる豪勢なもので財政危機が起こった。この経済状況でもフランス政府の莫大な資金援助がありなんとか財政が保っていたがデフォルトが起きてもおかしくない状況だった。
ボカサ1世とボカサ一族の独裁政治もあり支援していたフランスの支援も打ち切られ一気に経済・政情不安となった。
1978年には近衛連隊によるジョルジュ皇太子誘拐未遂事件が発生すると堰を切ったように各部族首長による反乱、反バイダ族連合による反乱事件が相次いだ。
危機からの脱却
相次ぐ政情不安により国家破綻の危機に陥りボカサ1世も亡命寸前まで追い詰められた。
このような状態から脱却するためボカサ1世の側近、帝国宰相フランシス・ボジン、 国務大臣中阿弗利加宮黒仁親王(なかあふりかのみやにがひとしんのう)、産業大臣T・K・フォン=ジュッセンマイヤー侯爵、財務大臣ガブリエラ・シャルティア伯爵夫人らの献策により民族問題と経済問題が解決した。
国力の回復
1981年には中央アフリカで産出される石油・鉱物資源による輸出で発展し国民の生活が安定し外貨の獲得が容易になると大規模な軍備増強も可能になるほど国力が安定化した。ボカサ1世はかつての中央アフリカ連合王国時代の版図に領土拡大するために旧構成3カ国解放戦争を政策の主軸とした。

旧連合王国統一戦争

中央アフリカ・カメルーン戦争

1982年1月1日、隣国カメルーンと領土問題とカメルーン政府軍が国境に住む中央アフリカ系サンゴ人を虐殺したとの報告を受け直ちに報復的措置としてカメルーンに陸空軍からなる1万人を投入した。
ボカサ1世と帝国軍参謀総長ルイ・バンデガン大将が考案した電撃作戦によりカメルーン軍は各所で敗退を余儀なくされ兵站も寸断されてしまった。
3ヶ月後の1982年、4月1日にカメルーン首都 ヤウンデが陥落した。
カメルーン大統領ピエール・ホヤは降伏宣言書に調印した。この戦いは中央アフリカ帝国の圧勝で終わった。
同年5月1日にはカメルーンを中央アフリカ帝国の1部とするカメルーン合併宣言が発布し正式に中央アフリカ帝国の1部となった。
ボカサ1世はカメルーンの優秀で有能な人材を登用した。また、戦犯らには寛大な処置を行ったためカメルーン国民から圧倒的な支持を得た。
港湾地域の獲得、カメルーンの人的・天然資源の確保、海軍力の獲得に成功したため帝国の国力向上を受けボカサ1世大帝の権威は大きく高まった。

中央アフリカ・ガボン戦争

1984年6月、カメルーン戦争を受けて中央アフリカ帝国と国境を接することになった隣国ガボンは中央アフリカ帝国を警戒するようになった。
ガボン政府諜報機関はガボン人国家主義者を使って中央アフリカ航空自爆テロ事件(CAEAL334便ハイジャック事件?)を発生させた。
更にカメルーン海域を航行している漁船にガボン海軍が無差別攻撃したとの報告が帝国政府に上がった。
中央アフリカ帝国とガボン政府との関係が急激に悪化した。
以前から国境を巡り係争関係にはあったがガボン大統領エンデュイバ大統領(当時)はガボン・中央アフリカ帝国国境封鎖と国境付近に5万人規模の軍隊を動員して威嚇行動をした。
1984年9月、ガボン軍兵士がガボン国境付近にいた中央アフリカ帝国の農夫一家を殺害したとして帝国政府がガボンに宣戦布告した。
既にガボン国境付近に待機していた陸海空軍海兵隊6万をガボンに投入した。
カメルーン戦争と同じく中央アフリカ帝国軍の電撃的侵攻により初戦では中央アフリカ帝国軍は大勝を収めたがガボン軍の遅滞戦術・正規軍によるゲリラ作戦によりガボン軍が優勢に経ち始めた。
戦争開始から4ヶ月後、参謀総長バンデガン大将らが拠点を置いていた基地がガボン軍の空爆と砲撃によりバンデガン大将らが戦死、ガボン攻略軍首脳部が壊滅状態になった。
この砲撃で唯一無事だった高級士官で中国系中央アフリカ帝国軍人ヤン・フーリン准将が指揮権を受け継いだ。ヤン准将の活躍により帝国軍は一気に優勢に経った。
1985年2月に帝国軍は首都リーブルヴィルは陥落した。
エンデュイバ大統領を初めとするガボン政府・軍部高官は捕虜となりガボン臨時政府は降伏宣言と支配権の譲渡をボカサ1世と中央アフリカ帝国政府に譲渡した。
ここにガボン全土が中央アフリカ帝国領となった。
カメルーン侵攻とは対照的にボカサ1世はエンデュイバ前大統領らガボン旧政府・旧軍部の戦争責任を問うリーヴィルプル軍事裁判を開き旧ガボン政府及び軍部ら公職にあった者、ガボン旧政府支持者、ガボン愛国者、反中央アフリカ帝国思想のガボン国民3000人の死刑を執行した。これは共に戦いこの戦いで元帥に叙されたバンデガン元帥への弔いと解釈されている。
なお、ヤン准将は一気に中将に昇進してガボン方面軍司令官に抜擢された。中央アフリカ帝国軍に加勢したバカ人などのピグミー人部族は寛大な措置が取られ栄誉帝国臣民として遇されることになった。

ボカサ2世の時代

ボカサ2世即位

1986年、ボカサ1世は健康上の理由により皇太子ジョルジェに譲位した。
ジョルジェはカメルーン戦争・ガボン戦争に従軍し実際に一軍を率いて勝利した経験を持ち帝国軍大将と全軍幕僚監部総監の地位にありながらグランダ・バンギ学習院大学法学部を首席で卒業した。その傍ら改革派貴族、学者、多くの財産を築いた青年実業家・青年経営者とサロンで語り合いいわゆるリベラル、インテリの軍人、貴族、官僚を側近に固めた。
積極的にアフリカ諸国・アジア諸国・欧米諸国に外遊をするなど次期皇帝としての素質を発揮した。
ボカサ2世として父の政策を継承するため発展途上にある中央アフリカ帝国の強化に尽力した。
併合したカメルーン・ガボンの開発と投資を積極的に行い欧州白人貴族、アジア系貴族を正式な中央アフリカ帝国貴族として遇し有力先住民族酋長の叙爵も行った。フランス以外にも他国の貴族や王族など身分のある一族の亡命を無制限に受け入れた。

民族浄化作戦

父であるボカサ1世大帝が頭を悩ませた諸問題のうち最大の問題であるのが民族・宗教問題だった。
特にガボン、カメルーン南部では反中央アフリカ帝国主義が蔓延し中央アフリカ帝国の各地方や辺境地域でも過激なイスラム教主義者、土着の神秘主義結社が蠢動して帝国へのテロや叛乱が頻発した。
これらの行為を抑圧するためボカサ2世は主流先住民族(サンゴ人・バイダ族・カメルーン人・ピグミー人種)以外の先住民族の大部分を「反帝国主義的分子」と認定して老若男女を問わず虐殺した。
生き残った反帝国主義諸民族は1部を除き下民?と呼ばれる奴隷階層に落とした。
民族浄化により人口が激減したためその代わりに世界規模での移民を高待遇で大量に受け入れて彼ら移民と優等アフリカ先住諸民族を正統なる「中央アフリカ帝国臣民」とした。
移民を踏む全国民に妊娠特例法を制定し4人以上産めば卿の称号を授け年金などの高待遇と子育て支援政策を行ったため人口爆発が発生した。
更にボカサ2世は国民を管理するため厳格な身分階層政策を推し進め身分の区別をはっきり分けるため「国民身分法」「出身階層法」などの身分制度に関する条文を憲法に加え詔を発した。

血統操作による政略結婚

帝国には地方王族の帝権の正当性を保持するため自らの皇統を由緒ある血統として正当化するためボカサ1世大帝の交渉によりフランス王家ブルボン家とボカサ2世の縁談が進みブルボン家の一門 ルイーゼ・ド・アンテローベ=ブルボン公爵令嬢と1987年に結婚した。

ボカサ大帝の崩御

ボカサ大帝は1996年11月13日、グランダ・バンギ宮殿の一室で崩御された。ボカサ2世は死を悼むため全帝国臣民に1週間の服喪を命ずる詔を発した。更に同年12月25には帝都グランダ・バンギにボカサ大帝の遺体を冷凍保存したボカサ大帝聖廟が完成されボカサ大帝の遺体が安置された。

1990年代後半

ボカサ2世による後期改革

ガボンで行われていたオクロ天然原子炉によるオクロ天然原子力発電所の完成と安定的で安全な原子力発電技術が完成した。
これにより中央アフリカ帝国国内の電力供給を安定させた。同時に進められた核兵器開発を成功させ1995年には独自に開発した核兵器を用いた核実験を成功させ核兵器保有国となった。
1997年以降のボカサ2世は帝国をより発展させるために世界各国の政治思想に関する本を取り寄せたり皇宮に政治学者を招き多くの政治に関する勉強を始めた。中でも王権神授説、ノブレス・オブリージュ・国家社会主義、主体主義、カトリック、イスラム思想、八紘一宇に感銘を受けたためこれらを実践する法律を発布した。

12・4大逆事変

1998年12月4日、建国記念式典が帝都グランダ・バンギ宮殿バルコニーにて午前9時から執り行われていた。
正午にはボカサ2世による建国記念演説が行われその様子が全帝国のマスメディアで生中継され衛星放送で世界中に生配信されていた。演説開始30分後、近衛軍皇宮禁衛旅団長カエオ・ウバンタ近衛軍少将(58)率いる青年将校団らが壇上にあがりボカサ2世を拳銃で銃撃した後、バルコニーにいた帝室と皇族、バルコニー下にいた上級士族、政府・軍部高官らに向けて自動小銃と軽機関銃を乱射した。
この襲撃事件でボカサ2世ら100名以上が負傷、重軽傷者300名以上、皇族5名、閣僚11名、上級将校20名、王侯酋長18名、貴族22名、政府関係者45名、近衛軍将兵・皇宮警察官63名が銃撃により即死した。
負傷したボカサ2世は皇宮聖護院にて侍医団による緊急手術が施され15時には意識が回復したが17時に再び昏睡状態に陥り同日21時、37歳で崩御した。
内務省国家警察庁国家保安部特別高等警察の捜査によりウバンダ少将は穏健派・リベラル派としてしられ軍部からの評価も高く近衛軍の下級貴族・士族、平民出身の青年将兵から慕われており近衛軍以外にも同じ境遇の陸海空軍将兵らからも信頼され帝国自由将兵団を結成していた。
ボカサ2世は軍人による派閥形成を嫌いこれらの派閥や軍人による政治的結社を解体させていたがウバンダ少将らボカサ大帝時代からの側近でありボカサ2世もウバンダの行動は不問に付していた。
ウバンダ少将は「国家の発展ためとはいえ国民を護るべき軍隊に大量虐殺の勅令を発し道楽を推し進めるがごとき君主は排し奉ることがボカサ大帝陛下への忠義である。」と発言したとされる。
12月12日、ウバンダらクーデターに参加した将兵300名は特別軍事法廷によって銃殺刑に処された。
公式記録には12.4事変(4 décembre, la Grande Rébellion. 日本語訳:12月4日大逆事変)と記録されている。

冬の空位期間

1998年12月4日、大逆事変により皇帝が暗殺され帝位が空位状態となった。
帝位継承者として名が上がったのが皇后ルイーゼたった。
彼女は政変当日、発熱により建国式典を欠席していたため生存していた。
夫であるボカサ2世、ボカサ家皇族・友人を失い数日間極度の精神錯乱状態になりかけた。
生母であるマリー皇太后の「皇后たるものたとえ内戦、革命、騒乱、クーデター、暴動が起き一族や臣下に犠牲が出ようと皇帝亡き今、皇后である貴女が壮健であり国民の前では常に気丈に振る舞い気品を保たなくてはならない。国民と臣下が居ない時だけ大いに泣きなさい」の言葉で冷静さを取り戻し空位状態の中、皇帝の代理人として公務を執り行った。
この様子を見ていた帝国議会最高会議、皇族議会、最高閣僚評議会、帝国枢密院、帝国元老院は全会一致で皇后ルイーゼの即位を採択したがルイーゼはこれを固辞した。
ルイーゼは生き残ったボカサ氏皇族、皇統に連なる王侯貴族・酋長を帝位に着けるように進言した。
しかし帝国政府臨時最高閣僚評議会は皇帝空位期間が長く続くと不安定な中央アフリカ帝国が崩壊する危機が生じることを恐れ再度帝位継承を願い出たがこれも固辞されたが事変に巻き込まれなかったボカサ家男性皇族のシャルル・ギヨーム=ゴ・ボカサ大公がボカサ3世として第3代中央アフリカ帝国に即位した。
ボカサ3世は後天性発達障害を患っており内戦が起こりかねない中央アフリカ帝国を統治できる器にないと見た帝国政府はボカサ3世を中継ぎの皇帝として即位した上でボカサ2世の子女を帝位継承者にしようとした。
ボカサの2世とルイーゼ皇后との間に産まれた2人の子供はいずれも女子であった。
当時の帝国憲法と帝室典範には皇后を除く女性帝室及び女性皇族の即位は認められていなかった。
ボカサ2世には側室が6人おり庶子男子が2人いた。
1人のアンリ皇子は知能障害を抱えており統治不適格とされた。
もう1人のルネ皇子は事変により負傷療養中だった。
ボカサ2世の兄弟も事変により死亡または負傷により即位できる体調ではなかった。
ボカサ1世の兄弟及びボカサ3世の一族も即位を思い留まっていた。
宮内省・枢密院・内閣府は12月15日に帝国憲法の皇帝即位基準によりボカサ1世大帝の末弟リゲル親王とボカサ2世とルイーゼ皇后の第1皇女 ウィジェニーの夫でブルボン家一門エマヌエル・ド・ダントワール=ブルボン大公がボカサ3世の後継者として推挙された。
次期皇帝に推挙されたダントワール大公は28歳ながら皇帝主席政務秘書官につき帝国軍大将としてチャド南部の武装勢力との戦闘や中央アフリカ帝国本土=南スーダン国境付近での戦闘で実績を上げており貴族ながら青年期に下町で育ち市民感覚を持っていたため市民や軍人、青年大貴族・青年上級士族からの人気が高かった。
事変当日はフランスに外遊中で難を逃れていた。
ダントワール大公は壮健な数少ない皇族男子であったため皇族会議はリゲル親王に継ぐ第2皇位継承者に指名したがダントワール大公自ら若さを理由に皇位継承を辞退した。
一方、リゲル親王は保守層・門閥貴族層・各部族長からの信頼も厚く自らも皇位継承に乗り気ではあったが革新派下級士官らがリゲル親王の私邸を襲撃する事件が発生するとリゲル親王は態度を一変して皇位継承を辞退した。
2000年12月25日、宮内省は「2001年1月1日にエマヌエル・ド・ダントワール=ブルボン大公を第4代中央アフリカ帝国」即位決定の布告が出された。2000年12月31日に宮内省は「中央アフリカ帝国皇帝であらさられるボカサ3世陛下は不豫により統治不能のため退位宣言の叡慮をなされた」と発表した。
実際、ボカサ3世は健康そのものだったがルイーゼを始めとする白人皇族及び白人門閥貴族が正統ボカサ家の影響力を削ぐための策謀であったとされるが正式発表でないため真実は不明である。
ボカサ3世は中央アフリカ帝国本土北部の皇族別邸に現在も幽閉されているが自由に生活しているとされている。

ボカサ=ブルボン朝中央アフリカ帝国 誕生

2001年1月1日深夜0時に21世紀の幕開けと共にダントワール大公はエマヌエル1世として即位した。
ここにボカサ大帝から続く男系王朝はブルボン家の血を引く女系王朝となり王朝名もボカサ=ブルボン家に改められた。
エマヌエル1世は皇后以外の女性皇族にも帝位継承を認める憲法と皇室典範が発布した。
日本・中国地域から中央アフリカ帝国に市民権を得た皇族らにも中央アフリカ帝国皇族の身分を与えた。

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