貴方が考えた独自の架空国家を作ろう

Да здравствует Российская Империя и Император!
ロシア帝国はインペラートルを戴く帝国であり、帝国議会による民主主義を掲げる立憲君主制国家である

ロシア帝国
Российская империя


帝国の象徴

Боже, Царя храни! Славному долги дни Дай на земли!
神よ皇帝を守り給え、彼の栄光の時が続くように


国旗

国章

ロシアは古い国家であり、国体は歴史の中で幾度か変遷した。その中でも帝国国民が帝国に対する帰属意識と愛国心を持ち、多民族が国民国家としての団結とその価値観を共有するのは、皇帝の御稜威によるものであり、また帝国が民主主義を重んじる民主国家だからである。帝国の象徴は国民統合の象徴であり、対外への帝国の民主性の発露であり、我が民族の文化伝統の継承である。帝国の元首である皇帝は、立憲君主制となった1832年以後、その象徴性がより重視されるようになった。

ロシア帝国国歌ロシア人の祈りは1816年に採用された。皇帝を崇拝し、帝国の安寧を神に願う曲で、時の皇帝アレキサンドル1世が作詞された。

国歌 Молитва русских
音声ファイルへのリンク

Боже, Царя храни!
Славному долги дни
Дай на земли!
Гордых смирителю,
Слабых хранителю,
Всех утешителю —
Всё ниспошли!

Перводержавную
Русь православную
Боже, храни!
Царство ей стройное,
В силе спокойное!
Всё ж недостойное
Прочь отжени!

О, Провидение!
Благословение
Нам ниспошли!
К благу стремление,
В счастье смирение,
В скорби терпение
Дай на земли!
神よ皇帝を守り給え!
彼の栄光の時が
続くように!
大地に与えよう
誇り高きものの謙虚さ、
弱きものの守り人を
全ての者に救済を!

第一の玉座の地
正当なるロシア
神よ、守り給え
彼女の王国を安寧に導き給え
強さの中の穏やかさを
価値なき者を
払い給え!

信託よ!
祝福を
私たちに与え給え
良きことを願いと
幸せの中の謙虚さを
侮辱には忍耐を
この地に与え給え!


自然環境

Да здравствует великая природа Российской империи!
神が抱擁されたロシアの大自然は、人類共通の宝である

ロシア帝国の広大な領土には、広大な針葉樹林、大平原、長大な大河、天に連なる山々があり、これら豊かな自然は帝国の財産として敬われている。主な河川にドン河、ヴォルガ川、カマ川などがある。川では良質なチョウザメやサケ類などが生息しており、これらの漁獲も盛んである。

国土の北辺は北極圏にあり、人口も希薄ながら北極海航路の重要な要衝として研究と開発が進められている。国土の大部分は平原からなり、北からツンドラ、タイガ、ステップと変化に富んでいる。中央にはウラル山脈が聳えており、ここが地理学におけるヨーロッパ州とアジア州の境界となっている。ロシア帝国は古来より欧州諸国との文化的経済的関係が強く、また首都モスクワ市もヨーロッパ州に位置し、人口の過半数が欧州ロシアに居住していることから、ロシア帝国はヨーロッパに通常分類される。

歴史

ロシア帝国の起源

ロシア帝国は東ローマ帝国の継承者である

モスクワ大公国リューリク朝イヴァン4世はツァーリの称号を正式に採用した。リューリク朝が断絶すると動乱時代に突入するが、1613年にロマノフ家ミハイル=ロマノフがツァーリに即位したことにより、ここにロマノフ朝が誕生し動乱時代も終焉を迎える。
1682年、ロマノフ朝君主に即位したピョートル1世は大北方戦争に勝利し、インペラートルの称号を元老院と宗務院から送られると、1721年10月22日、ここにロシア帝国が成立した。

絶対主義国家への道


リューリク朝によって君主権と身分制の強化、中央・地方行政機関、税制、官僚組織の整備、常備軍の増強などによって著しく強化され、絶対主義への傾斜を示した。しかし、リューリク朝断絶の後、ロシア大飢饉、民衆蜂起、首都占領などが立て続けに勃発し、ロシアは混乱に陥った。ロマノフ朝が創設されるまでの15年間を動乱時代という。

ピョートル1世はリューリク朝の政策を継承しつつ、自身の西欧への視察などを踏まえた、根本的な国政改革と積極的な政策を果敢に遂行し、本格的な絶対主義を確立した。ピョートル1世は外征による不在中の臨時政府として、9人からなる元老院を創設し、元老院に最高の行政権と司法権を与えた。また、ドイツの哲学者ライプニッツの提言をうけて、1725年に帝国モスクワ科学アカデミーを設立し、これは今日までロシア帝国最高の学術研究機関となっている。

啓蒙専制君主の誕生

私は声をあげて称賛し、声を和らげて咎める

ピョートル3世の皇后、エカチェリーナ2世(Екатерина II)は、1762年にピョートル3世をクーデターにより失脚させ、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝に即位した。
西ヨーロッパの産業革命による覇権の確立がなされた当時において、ロシアの近代化を急ぎ、啓蒙専制君主として合理的な政策を推し進めた。

フランスの啓蒙思想家ディドロを招聘し、新法典編纂委員会を設立し、訓令を発した。訓令の中でエカチェリーナは、広大な領土を抱えるロシアのような国家には専制君主による統治が然るべきとして、皇帝の権力を正当化した。一方で、市民の自由や法の下の平等の理念を訴えた。代議政体の確立、教育制度の改革、官職就任試験の導入などの提言を行ったが、これらの急進的な近代化諸政策は成功することは無かった。

法の下の平等と農奴制の緩和を主張したエカチェリーナだったが、近代化諸政策の失敗や貴族からの要求によって、農奴制を強め、1773年には農民大反乱が勃発した。この反乱は地方行政府の弱体に起因すると判断したエカチェリーナは、地方行政改革「県行政令」を発布して農奴制をさらに強固にし、貴族に各地における特権を与えた。

1789年にフランス革命が勃発すると、市民革命の衝撃から、反動政策に転じ、自由主義思想を取り締まった。

立憲君主制への移行


ロマノフ朝第10代ロシア皇帝のアレクサンドル1世(Александр I)が1825年11月19日に崩御すると、跡継ぎとなる男子が不在による空位期間が発生した。この混乱期に自由主義を訴える貴族や志士が12月14日に決起をしたデカブリストの乱が発生する。将校らは元老院を襲撃し、専制政治の打倒と農奴制の廃止を主張した。3週間後に元老院は解放された。

元老院は第11代ロシア皇帝として即位したニコライ1世(Николай I)に平和的な権力の民主化に関する議論を開くべきと上奏した。ニコライ1世はこれを承認して、帝国モスクワ科学アカデミーにて機関説会議が開催された。
国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上一つの法人だとみる。国家が法人だとすると、君主や議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明をロシアあてはめると、ロシア国家は法律上は一つの法人であり、その結果として、皇帝は、法人たるロシア国家の機関だということになる。 これがいわゆる皇帝機関説または単に機関説である。
1832年2月8日に帝国憲法が公布され、ここにロシア帝国は専制君主制から、立憲君主制へ移行し以降、ロシア帝国は民主制を重んじる先進的な国家として歩みを始めた。
帝国憲法の施行に伴って、元老院が廃止され、農奴解放令が公布された。また、帝国議会が設置され、帝国憲法の規定によるところ、皇帝と議会は立法権を分かちあうものとされ、皇帝によって裁可された法律のみが効力を発し、一方で帝国国民は憲法の下で自由を得た。エカチェリーナ2世の啓蒙主義は専制啓蒙主義の終焉によって、皮肉にも結実したのである。

1840年ごろの帝国議会では、バルト海と黒海進出のための戦争を掲げる主戦派と、戦争による国家疲労の弊害を訴える反戦派による大論争が繰り広げられ、刃傷沙汰にまで至った。これを受けてニコライ1世は、後に凍結勅語と呼ばれる声明を1843年9月9日に議場で発表した。
不凍港の獲得は帝国の宿願でありましたが、これは帝国の外洋防衛と貿易に理由を求めることができますでしょう。然すれば、今や帝国がどれほど長い年月想えども成せないことは、手段が違うと思わなければ、これは宿願のままなのだと思わざるを得ないでしょう。我々は帝国の外ではなく、帝国の内に暮らしているのです。
『凍結勅語』より一部抜粋
凍結勅語は、事実上帝国の政策である、不凍港の確保の凍結を表明したものであり、これに伴って、一連の論争は反戦派が勝利を収めた。そして、1849年には「帝国基本綱領」が公布され、国内の交通輸送網の整備による国内貿易の活性化と、諸民族の経済的な交流が促された。当時の交通輸送網計画によって計画あるいは建設された道路鉄道網は、現在のロシア帝国内の国土計画にも継承されている。
重工業もまた推奨され、官営エカテリーナ製鉄工場などが建設された。

共産主義の排斥

所謂共産主義は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず

1894年5月18日にニコライ2世(Николай II)がロマノフ朝第14代に即位した。このころのロシア帝国では、農民の共産革命啓蒙を行うナロードニキ運動やそれとは決別しつつ、革命を強く主張するエステルらの、マルクス主義の喧伝活動が行われていた。49年帝国基本綱領に基づいてロシア帝国国民の生活はそれ以前よりもより近代的なものとはなっていたが、それは主に都市労働者の間であって、一方の農民の生活は農奴解放令以前と大きな差はないものに留まっていた。都市労働者の内部にも、経済格差社会に不満を抱く人間が多くあり、彼らが共産革命運動の原動力となっていた。

帝国政府は帝国憲法によって保障されている国民の集会、思想、結社等の自由を抑制することはできず、彼らの活動は当局によって監視されてはいたが、取り締まることはされなかった。
議会では農民の生活向上のため、農民を労働力として公共事業を行うことが決定され、49年帝国基本綱領を拡大した97年帝国基本綱領が公布された。これに基づいて、ダムや橋梁の大規模建設計画、当時都市部に限られた電線網の地方への拡大、同じく都市部に限られた上下水道の地方での整備などが決定され、農民から労働者へ転向するものも多く現れ、ナロードニキ運動は霧散した。
しかし、都市労働者のなかでは依然として資本家に対する不満を抱くものが多く、マルクス主義に感化されプロレタリアートととして団結を強める労働者も増加し、帝国議会には社会民主労働党に代表される革命派政党も出現した。

1914年6月15日にサラエボ事件が発生すると、ロシア帝国は汎スラブ主義からセルビアを擁護しつつ、凍結勅語などの反戦ドクトリンなどを継承して第一次世界大戦には参戦しなかった。第一次世界大戦では武器や資源などを中立国として両陣営に輸出した。この戦争特需によって労働者の労働待遇や賃金、失業率が大幅に改善され、革命派閥は大幅に影響力が削がれた。

1914年9月10日、レーニン率いる社会民主労働党はこの事態に焦り、武装した党員を率いて帝国議会を占領し、モスクワ市内では市役所などを襲撃する9月騒擾が発生した。政府は直ちに軍を動員し、共産主義に基づく組織を国家反逆罪の容疑で手配し、これら組織を犯罪組織として認定し事実上共産思想が合憲的に違法とされた。

1914年11月10日、政府は反共産主義声明を発表した。
恭しく惟みるに、我が国体は神聖不可侵の皇帝の絶対の統治の大権を平和に国民と分轄することを憲法により昭示せらるる所にして、萬世一系の帝国を統治し給い、寶祚の隆は天地と倶に窮なし。即ち帝国の大権は儼として皇帝と国民とに存すること明かなり。若し夫れ皇帝を廃位させ皇帝と国民の大権を簒奪し国体を改変せしめんと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。然るに漫りに外国の學説を援いて革命を謳い国民を嚮導する活動を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。所謂共産主義は、神聖なる我が国体に悖り、其の本義を愆るの甚しきものにして嚴に之を芟除せざるべからず。此處に重ねて意のあるところを闡明し、以て国体観念を愈々明徴ならしめ、其実績を收むる為全幅の力を效さんことを期す。
『反共産主義声明』


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