貴方が考えた独自の架空国家を作ろう

神聖アメルアリ帝国

▲国旗

▲国章
国の標語:正義と勝利が我らの誇りなり
国歌:不死鳥のアンセム
公用語ドイツ語(アフリカ・ドイツ語)
建国1936年8月10日
首都ソロモンポリス
最大の都市ソロモンポリス
政府
 皇帝:アンドロメダ2世 
 首脳:マリア・カンディツァイス
面積
 約80万km2
人口
 約2億1300万人
経済
 GDP:約1兆8800億ドル 
 一人あたりGDP:約8900ドル
通貨アメルアリ・シリング

概要

主要人物

地理

気候

地形

生物

地方行政区画

主要都市

歴史

前ルドルフ時代

 旧ソマリア地域は古代からプント王国が古代エジプト王国・アラビア半島と交易をして繁盛した。10〜14世紀の間にアラビア半島からソマリ人が定住し数多のスルタン国家が誕生しペルシャ.アラビア半島と交易を交わした。特にアジューラン=スルタン国はポルトガルなどの西欧国家を撃退している大国で17世紀末まで栄えていたが18世紀以降になると衰えオスマン帝国や西欧諸国の影響下に入った。1870年代、ソマリア地域は北を英国が支配するイギリス領北ソマリア、南をイタリアが支配するイタリア領ソマリアが誕生した。ソマリアは氏族主義による団結が強く浸透しており独自の文化が根付いた。両国はこの氏族主義を利用した植民地支配を行った。この頃から両植民地では多数のソマリ人を含める現地民族が欧州に人間動物園の飼育物として展示された。肥沃な大地が多いため農地化が図られ近代農法も同時に伝来したため各地に大小様々な農場、農園が誕生し食料自給率の向上と経済の発展に繋がった。しかし、その裏では植民地政府によって現地人を徴収し農場開拓、農作業に従事させるため彼らを一族単位で農奴として過酷な労働を強いた。この頃になるとソマリア各地で多くの鉱山が発見された。貴重な天然資源の獲得により本国の発展と植民地経済発展のため鉱山採掘を急がせ植民地政府の依頼を受けた企業により鉱山周辺地域に住んでいた先住民、現地人は武力に寄って鉱山奴隷にさせられた。採掘は過酷を極め労働待遇は極めて悪く1日に1食食べれればよく休憩も5分しか与えられず休んだら見せしめに処刑された。そのため採掘により多くの犠牲者を出しその数は最低10万、最大800万と言われている。

初期ズィルベンバウム朝

 1880年、2月9日空白地帯だったソマリア中部のガルムドゥク地方にドイツ人貴族「ルドルフ・フォン・ズィルベンバウム」侯爵(ルドルフ1世)がイタリア政府より買い取りガルムドゥク侯国を建国した。ルドルフは白人主導による都市部と港湾部の開発を行った。また、現地人の支持を得るためにガルムドゥク地方で行われた過酷な労働を辞めさせ奴隷を解放した。ドイツから武器、兵士を運び込み密かに各地方国家を平定するために武装勢力を組織した。ルドルフ1世はソマリア中部地域全域を併合すると1886年2月14日、ソマリ神話に登場する女神の名前をとり国号をガルムドゥク侯国からアメルアリ大公国と改称した。ルドルフ大公は建国と同時にドイツ諸国やバルカン半島など中南欧地域から最大100万人からなる移民団を招いて公国全土に入植させ大規模な開拓事業を始めた。移民の中にはユンカー、リッター、爵位持ちの貴族もおり彼らは地方領主(ランデスヘル)として遇された。移民たちは農場建設、公国縦断鉄道敷設、運河建設、ダム建設を始め、現地人やアジア人移民は小作農民や労働者となった。しかし過酷な労働環境のせいで多数の現地人、アジア人労働者が犠牲になり、天災の発生などもあって開発は遅々として進まなかった。
 1905年にルドルフが薨去すると孫のジギスムントが大公位に就いた。ジギスムント大公は開発の近代化を図るために大胆な改革を実施した。一族のつてを用いてドイツから多数の技術者や科学者、医師、労働者を呼び寄せ、遅れていた近代化、工業化の基礎を固めた。法整備を整えさせ今に続く民法、刑法などの各種法案もこの時代に作らせた。1910年〜1925年に国内初の航空機、戦車、自動車、機関銃の開発、量産に成功し、1924年のショベリダム建設成功によりアメルアリの農業は飛躍的に発展した。1928年になるとアメルアリ大公国政府はイタリア政府と交渉してイタリアが支配していた南ソマリアを吸収合併、または国力強化のため多数の移民を受け入れ、その中には15万人の日本人移民も含まれていた。イタリア人、ドイツ人、アラブ人からなる軍事顧問団によってこれまで8000人程度の兵力しかなかった公国軍も30万人まで増員し強化された。1929年にジギスムントは45歳で薨去し子のオットーが第3代大公となった。1930年3月14日、イギリス領北ソマリアがアメルアリ領に侵入して略奪、虐殺を働いたの噂が流れた。アメルアリ公国宰相府はこれを事実として北ソマリアに報復的行為としての軍事行動をアメルアリ公国全軍に指令、イギリス領北ソマリアに侵攻を始めた。3ヶ月で北ソマリアを併合してイギリス領北ソマリア総督などを含む多数のイギリス人をアメルアリに取り込んだ。この噂は嘘であり大義名分欲しさにアメルアリ公国軍参謀本部がでっち上げたとされているが公式記録に記載されていない。戦線はイギリス領東アフリカ(ケニア)やイギリス領ウガンダにも及び4年も続いたが、最終的には1934年8月13日にアメルアリ大公国が勝利した。アメリアリ大公国は東アフリカのイギリス植民地のほとんどを併合して、急激な拡大を果たした。アメルアリ大公国政府は時の公国宰相マクシミリアン・シュラーフ主導のもとイギリス政府との難しい交渉を達成させた。シュラーフは33年エリトリアを併合、35年フランスからジブチを割譲させた功により大公より公爵に叙せられた。

帝政の始まり

 勢いにのったオットーは、1935年より隣国エチオピアへの侵攻を開始した。毒ガスと戦略爆撃によってエチオピアの勢力を削ったアメルアリ大公国軍は1936年5月5日にエチオピアの首都アディスアベバを占領して、侵略戦争に終止符を打った。1936年8月10日、オットーは国号をアメルアリ帝国に改め、ルドルフを初代皇帝として自分を第3代アメルアリ皇帝と称した。ここにズィルベンバウム朝アメルアリ帝国が建国された。これまでの都だったガルムドゥクからモガディシュへと遷都した。モガディシュは既に発展著しい都市へと変わっており遷都により首都機能を備えた本格的な大都市へと生まれかわった。しかしオットー帝は、即位後半年にして心労により崩御した。オットー1世の後任としてオットーの第2皇子フリードリヒが第4代皇帝に即位した。フリードリヒ1世は父が残した帝国整備に邁進した結果、1937年に独自の空軍や機甲部隊、イタリアから輸入した戦艦と重巡洋艦を備えた本格的な海軍の建設に成功した。また翌1938年1月にはラジオ放送網を整えることに成功した。
 フリードリヒ1世は1939年8月7日に崩御した。死因は飲酒による心臓発作であった。突然の崩御に側近は取り急ぎ後継者としてフリードリヒの孫で13歳のエルヴィン・ヨーゼフを第5代皇帝に即位させた。わずか13歳での皇帝即位で国内は混乱したがシュラーフの後任の帝国宰相としてリヒャルトラーケン侯爵が就任した。リヒャルトラーケンは皇帝一門となった門閥貴族と対立を深めだが彼らは地方軍閥、現地部族首長を取り込んでいたため24歳の若さで帝国陸軍参謀総長になったラインハルト・ローエンハルト元帥と盟約を結んだ。反リヒャルトラーケン陣営に対抗したのはフリードリヒ帝の女婿のブラムシュバイツ侯爵、同じく女婿のリッペンハイム伯爵だった。彼らはハルゲイサで「ハルゲイサ連合」と呼ばれる門閥貴族連合を結成した。ブラムシュバイツ侯爵は奸臣排除のため先手を打ってリヒャルトラーケン・ローエンハルト陣営暗殺の為に暗躍したがローエンハルトに計画が露見してローエンハルト陣営の知るところとなった。ローエンハルトは直ちに皇帝にハルゲイサ連合を賊軍として討伐軍を組織、各地で賊軍となったハルゲイサ貴族連合軍を敗北せしめた。ハルゲイサ貴族連合はエリトリアまで後退したがブラムシュバイツ公爵によるエリトリア人の大量殺戮がローエンハルト軍に知られ全国に知らされると貴族、士族、国民の支持を得られず貴族連合同士でも内紛が起きた。ローエンハルトはハルゲイサ連合が篭もるアレザ要塞を陥落させブラムシュバイツ公爵含むハルゲイサ連合に組みした全ての貴族を粛清した。大乱が終結したのは1940年4月1日である。

新帝国建国

 ローエンハルトは軍を率いて帝都モガディシュ帰還後、直ちにリヒャルトラーケン侯を排した。彼は既に新帝国建国を構想しておりそれまでの下地を整えた。1940年6月18日 これまでのアメルアリ帝国から国号を神聖アメルアリ帝国に改めた。またモガディシュもソロモンポリスと改名した。エルヴィン帝は姓をアメルアリに変え名前も「ヴォータン・アメルアリ」とした。彼はドイツや日本人を参考にした新しい貴族制、官制を導入した。功績が多大だった自らの部下、支持する現地勢力の首長・貴族を藩王に取り立て各地に封じた。またヴォータン帝は即位と同時に欧米諸国、ロシア、日本、中国、インド、オーストラリア、アラブ諸国から大量に移民を招いた。移民に伴い国土の大部分を開発し主要都市を発展させた。1945年から始まった交通インフラ、生活インフラ、通信インフラを徹底的に整備する国土開発計画「アヴァロン計画」は初代工務卿グスタフ・グレルマン主導によって進められわずか8年で国内全土に高速自動車国道、国営・私営鉄道、上下水道、通信ケーブル、ラジオ放送が完備した。ヴォータン帝は1945〜1964年までに国内の官僚、軍人、政治家、警察、資産家、実業家、技術者を欧米諸国や日本に派遣し科学技術、政治、経済、官僚機構などを学ばせたた。ヴォータン帝は彼らの意見を参考にするため枢密院を設け、海外派遣した彼らを枢密院に属して改革を進めていった。
 これによって確立された経済計画い基づいて国家予算は教育、福祉、民間企業への投資に活用され、アメリアリ経済の飛躍的な成長を支えた。独立から最初の10年間で貧困は約3分の1減少し、人間開発指数、識字率、平均余命、1人あたりの食料消費量が大幅に改善された。経済は長期にわたって毎年平均6%の成長を遂げ、新国家は紅茶、園芸作物、コーヒーなどの商品作物の一大生産国になった。また食品加工や繊維などの軽工業も発達し、エチオピアの金鉱山の操業も経済を支えた。しかし支配層のドイツ人と中間層のヨーロッパ・アジア系が地主として国内の農地のほとんどを持つという農業の構造的欠陥と、東アフリカが洪水、火山活動、蝗害、土砂災害、干魃、伝染病などあらゆる災害の頻発地域であるという事実から、高度経済成長は1990年代に限界を迎えた。その後も緩やかな経済成長は続き、1993年時点から2023年現在までの30年間で新たに1500万人が絶対的貧困の状態(一日1・25ドル未満で暮らす状態)を脱した。しかし世界有数の人口大国であるアメルアリ国内には未だに多数の貧困者がおり、政府はその対策に苦慮している。

社会

政治

 神聖アメルアリ帝国は移民国家である上に1930年代にかけてその国土をあまりにも急速に拡大させたため、近代を通じて国民国家、中央集権国家の形成が不十分だった。国内には近代的官僚機構の代わりに、藩王によって統治される数十、最終的には数百の藩が存在していた。1940年からヴォーダン帝によって行われた改革は帝国の国政上の近代化を進めたが、彼も内戦での功労者を藩王として各地に配置することで治安を守る方針をとった。戦後の高度経済成長の中で神聖アメリアリ帝国は、中央政府から権力を奪おうと画策した藩王達と皇帝の不安定な共存を特徴としていた。中央政府は各藩の所領を召し上げては直轄地化し、今日では帝国全土の4割を直轄地が占める。しかし藩自体は今日にも残存している。
 帝国の最高議決機関たる2院政の帝国議会は、他国の議会同様に立法機関としての役割をもつだけではなく、皇帝と藩王の交渉の場でもある。上院は81議席からなって、帝国各地の藩のうち有力な藩の藩王で構成されている。従って選出は選挙に依らず、また任期も存在しない。政府によって指定された81の藩の藩王は、その就任と同時に上院議員となり退任と同時に議員資格を失う。下院は513議席からなり、藩あるいは直轄区を単位とする比例代表制選挙で議員が選出され、任期は4年。新しい領土の承認などいくつかの問題については上院は審議できないが、その他の議題については上院の議決が優越する。また帝国の首脳である宰相は、両院合わせた594人の議員による投票で下院議員の中から選出される。

経済

軍事

交通

テクノロジー

文化

宗教

教育

芸術

生活

娯楽

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