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帝国気候測量所の下部機関として、帝都市気象台がある。帝都気象台は帝国気候測量所の下部組織だが、その権限は限定的であり、気象観測に関する最終的な責任を負っているのは帝国気候測量所である。

概要

帝国気候測量所の下部組織として、帝都気象台が設置されている。帝都気象台では、主に帝都およびその周辺地域の気象観測業務を担当している。具体的には、毎日定時に気象観測気球による観測を実施し、気象観測値の速報を発表している。そのほか、定期的に天気予報を発表し、各地の気象台や新聞を通じて住民への注意を促している。また、帝国気候測量所の予測をもとに、各気象台でも予報を発表している。これらの情報はすべて、帝国全土の気象観測値と予報値をまとめたものとなっており、帝国全土の気象観測業務を一手に担っていると言っても過言ではない。なお、帝都気象台では気球や飛行船を使って気象観測を行っている。気球や飛行船は、悪天候時には観測業務に支障をきたすおそれがあるため使用されないことになっているが、それ以外の時間帯であれば自由に使うことができる。さらに、帝国気候測量所からの要請があれば、観測地点の変更なども引き受ける。そのことから、帝都気象台は帝国気候測量所にとって欠かせない存在となっているといえるだろう。帝都気象台はエータ人による職員の割合が高い機関である。エータ人の職員が多い理由としては、帝国気候測量所と同様に、気象観測を国家が独占していた時代にその技術を磨き続けてきたからだと考えられている。1925年にエータ人が帝国気候測量所の実権を握って以来、彼らは気象観測技術の発展に力を注いできた。

沿革

気象台が最初に設置されたのは、1871年である。しかし当初は、帝国の気象観測体制はまだ未熟なものであった。そのため、帝国気象局の気象官たちは自分たちの手で独自に気象観測を行うことにした。これが、現在の帝国気候測量所の前身となる組織である。1875年には東アフリカ気象協会が設立され、気象台が全国各地に17か所設置された。しかし、この組織はのちに内務省量地課に吸収された。1896年に気象台制度が再編され、気象台が各地に設立された。そして1897年、最初の管区気象台であるソロモンポリス気象台が設置された。その後、各地の気象台は統廃合を繰り返しながら規模を拡大していき、1920年には帝都気象台を中心とするピラミッド状の組織となった。こうして、帝都気象台が誕生したのだった。しかし1926年には、各地の気象台は内務省量地課に統合されてしまった。その後、気象観測の業務は内務省直轄の気象局に移管し、帝都気象台は帝国全域における気象業務を統括する組織として生まれ変わった。現在では、帝国気象局は統合されて気象庁となり、気象庁は全国の気象台に対して気象情報の提供を行うほか、各地の観測所のデータを収集して解析する活動を行っている。

主要人物

帝都気象台長を務めるのは、エータ人のアミル・サレム導師である。彼はもともとは、在野の地理研究家だった。大学では地理学を学んでいたが、卒業後は助手として大学に残ることを断って故郷へ帰り、実家で暮らしていたという。ところが、革命戦争中に妻を亡くしてからは再び都会に戻り、大学で研究を続けた。その後、革命戦争が終わると彼はふたたび故郷の村へ戻り、そこで農業に従事していた。しかし、あるとき偶然にも、彼は自分がかつて学んだ学問の世界がどのようなものであるかを知る機会を得た。彼はそのときのことを、こう語っている。「――私は、世界を知りたいと思ったのです。それまではただ漠然とそう思っていただけでした。しかし、ある出来事がきっかけで、自分の人生を変えたいと強く思うようになりました」。そして彼は、もう一度大学で学び直すために上京してきたのだという。気象台の職員には他に、ソロモン人のヤニス・シモネッティ博士がいる。彼はもともと、在野の地理学者として著名な人物だった。若い頃は軍に志願して従軍していたが、軍をやめるとすぐに帝都へ戻ってきたという経歴の持ち主である。彼はもともと、帝国気候測量所の予報部門で働いていたのだが、現在は帝都気象台の予報部門の部長を務めている。

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