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supedosurikku 2023年10月14日(土) 20:58:34履歴
タービンは、元・ソ共界隈民。
タービン | |
在籍歴のある主なグループ | ソ共・ソ社・ソ民・ソ狂連・プロ連・マ連・ラ創・マ創 |
---|---|
在任期間 | 2021年5月24日 - 2021年5月30日 2021年6月12日 - 2021年6月19日 2021年6月26日 - 2021年6月27日 2021年6月27日 - 2021年7月3日 2021年7月31日 - 2021年8月3日 |
在任期間 | 2021年11月7日 - 11月13日 |
第10代 ラシュクリエ人民共和国国家主席 | |
在任期間 | 2022年3月12日 - 2022年3月19日 |
在任期間 | 2022年8月6日 - 2022年8月13日 |
界隈古参であり、ソ共・ソ社という二大グループ結成の原動力となった。その融和的な性格からソ共時代はよく書記長に祭り上げられていたが、政務能力の高さは評価されていない。それでも界隈内で喧嘩を起こすことはなく、誰からも憎まれない存在である。
5月24日、スフォーイの「誰か共産趣味グループ作れ」というツイートに呼応してグループを結成。後にそこはソビエト共産趣味共和国連邦(通称:ソ共)と命名された。スフォーイが導入した初期役職体制では周囲に担がれて初代書記長に就任。
30日成立のスフォーイ政権ではモスクワ市党第一書記として入閣。
6月5日成立のロシア政権でもモスクワ市党第一書記として入閣。6日〜7日には不信任抗争が巻き起こるも過激な行動はしなかった。7日には政治局が総辞職することとなり、タービンも辞任。
8日成立のレヴァニラ政権では最高会議幹部会議長として入閣。
12日には選挙に当選し5代目書記長に。しかし、政権前半期は過疎りかけていた。しかし、16日のカレロフィン正式復帰(公害の帰還)や、18日のラムダのソ共参加(ラムダの奇跡)でなんとか立て直す。
19日成立のhyot政権ではKGB議長として入閣。
26日には7代目書記長に。しかし直後に6月クーデターで政治局は崩壊して多数のメンバーもソ共を離脱した。翌27日に政治局が再構成され、書記長に続投した。
7月3日成立のかみん政権では最高会議幹部会議長として入閣。
10日成立のスフォーイ政権では閣僚会議議長として入閣。
17日成立のレヴァニラ政権では、当初は前スフォーイ政権で政治局員が2枠削減されていたために入閣漏れしたが、18日に政治局員の数が引き戻されたために外相として入閣した。
24日成立のヒトラー政権でも外相として入閣。
25日には、ソ共の外で共産趣味同窓会を設立。
31日には選挙に当選し12代目書記長となる。第二書記には、6月クーデターで永久追放になっていたが7月9日に復帰したらねを登用した。しかしこの頃にはソ共の内部抗争が激化しており、8月3日、遂にソ共は崩壊した。
30日成立のスフォーイ政権ではモスクワ市党第一書記として入閣。
6月5日成立のロシア政権でもモスクワ市党第一書記として入閣。6日〜7日には不信任抗争が巻き起こるも過激な行動はしなかった。7日には政治局が総辞職することとなり、タービンも辞任。
8日成立のレヴァニラ政権では最高会議幹部会議長として入閣。
12日には選挙に当選し5代目書記長に。しかし、政権前半期は過疎りかけていた。しかし、16日のカレロフィン正式復帰(公害の帰還)や、18日のラムダのソ共参加(ラムダの奇跡)でなんとか立て直す。
19日成立のhyot政権ではKGB議長として入閣。
26日には7代目書記長に。しかし直後に6月クーデターで政治局は崩壊して多数のメンバーもソ共を離脱した。翌27日に政治局が再構成され、書記長に続投した。
7月3日成立のかみん政権では最高会議幹部会議長として入閣。
10日成立のスフォーイ政権では閣僚会議議長として入閣。
17日成立のレヴァニラ政権では、当初は前スフォーイ政権で政治局員が2枠削減されていたために入閣漏れしたが、18日に政治局員の数が引き戻されたために外相として入閣した。
24日成立のヒトラー政権でも外相として入閣。
25日には、ソ共の外で共産趣味同窓会を設立。
31日には選挙に当選し12代目書記長となる。第二書記には、6月クーデターで永久追放になっていたが7月9日に復帰したらねを登用した。しかしこの頃にはソ共の内部抗争が激化しており、8月3日、遂にソ共は崩壊した。
その後しばらくした後、センクス連邦共和国なるDMグループを作るも左派と右派の抗争と過疎で事実上の崩壊。ソ共復活騒動時はエログループ等で見守っていた。
10月30日にスフォーイの「選挙グループ作ってくれないか」というの誘いに応じてソビエト社会主義共和国連邦(通称ソ社)をその翌31日に作成。その日のうちに一度目の選挙が行われタービンも出馬したが、スフォーイに惜敗した。しかし、最高会議幹部会議長として入閣している。
11月7日の選挙で当選し、2代目書記長に。第二書記にはレヴァニラを登用した。
8日に派閥結成の許可が下りる。ネヴィルの誘いを受けてパンジャン派に加入。
13日成立のレヴァニラ政権では厚生大臣として入閣。しかしマンマン政変が発生し、翌日に書記長がレヴァニラからヘリウムに。しかしタービンは厚生相に続投した。
20日成立の赤単政権では入閣できず。しかし22日に赤単書記長が辞任。繰り上げで書記長となった自宅警備隊(元・第二書記)は、当初は空いた枠の厚労大臣に自身の党に属する友引を入れようとしたが、規定違反になることがわかり、タービンが厚労大臣として入閣した。
23日のお間抜けクーデター後に成立したらね政権では国防大臣として入閣。
26日にらねに建国されたソ狂にも初期の頃に参加。
27日成立のしょきちょー政権でも国防大臣として入閣。この日所属していたパンジャン党が解党された。
29日の新潟クーデター時にはラムネコーラとの密約をとある理由により反故にして巻き返しを行い、クーデターの鎮圧に一役買った。
12月4日成立のレヴァニラ政権では入閣できず。
11日成立のビスマルク政権では入閣できなかった。しかし三権分立問題などでソ社は急激に荒れ、翌日にソ狂で抜けろコールを行われてソ社を離脱。その後、ソ社崩壊することとなる。
10月30日にスフォーイの「選挙グループ作ってくれないか」というの誘いに応じてソビエト社会主義共和国連邦(通称ソ社)をその翌31日に作成。その日のうちに一度目の選挙が行われタービンも出馬したが、スフォーイに惜敗した。しかし、最高会議幹部会議長として入閣している。
11月7日の選挙で当選し、2代目書記長に。第二書記にはレヴァニラを登用した。
8日に派閥結成の許可が下りる。ネヴィルの誘いを受けてパンジャン派に加入。
13日成立のレヴァニラ政権では厚生大臣として入閣。しかしマンマン政変が発生し、翌日に書記長がレヴァニラからヘリウムに。しかしタービンは厚生相に続投した。
20日成立の赤単政権では入閣できず。しかし22日に赤単書記長が辞任。繰り上げで書記長となった自宅警備隊(元・第二書記)は、当初は空いた枠の厚労大臣に自身の党に属する友引を入れようとしたが、規定違反になることがわかり、タービンが厚労大臣として入閣した。
23日のお間抜けクーデター後に成立したらね政権では国防大臣として入閣。
26日にらねに建国されたソ狂にも初期の頃に参加。
27日成立のしょきちょー政権でも国防大臣として入閣。この日所属していたパンジャン党が解党された。
29日の新潟クーデター時にはラムネコーラとの密約をとある理由により反故にして巻き返しを行い、クーデターの鎮圧に一役買った。
12月4日成立のレヴァニラ政権では入閣できず。
11日成立のビスマルク政権では入閣できなかった。しかし三権分立問題などでソ社は急激に荒れ、翌日にソ狂で抜けろコールを行われてソ社を離脱。その後、ソ社崩壊することとなる。
1月9日、ラ創入国
2月1日、ラ創にてSSBの代理として首相に就任した。
22日、ラ創にて農林大臣として入閣。
3月22日、第9代ラ創国家主席に就任した。
23日、マ連大統領選挙に初出馬、だが惨敗した。
5月8日、マカオ連邦共和国第20代大統領に就任。
2月1日、ラ創にてSSBの代理として首相に就任した。
22日、ラ創にて農林大臣として入閣。
3月22日、第9代ラ創国家主席に就任した。
23日、マ連大統領選挙に初出馬、だが惨敗した。
5月8日、マカオ連邦共和国第20代大統領に就任。
・スフォーイやかみんなどとは4月18日にかみんによって結成された東日本内戦(現JW)時代から交友がある。
・ソ共の全ての政治局に入った3人のうちの一人。尚、ソ社では最高会議参加皆勤を達成できなかった。
・ソ狂にてネヴィルに「三大日和見主義者?」と名指しで呼ばれたうちの一人。
・ソ共の全ての政治局に入った3人のうちの一人。尚、ソ社では最高会議参加皆勤を達成できなかった。
・ソ狂にてネヴィルに「三大日和見主義者?」と名指しで呼ばれたうちの一人。
12/25頃にIRIAMをインストール。その日はある配信者の元に6時間ほど居た。三が日には、別の配信者の元に10時間居た。その人が今のアイコンの原型となる絵を書いてくださったいわゆるパパである。
その後配信を開始。バナーイベント68位等様々な実績を残す。ある人物とのオフ会後、100日連続配信を置き土産に事実上の引退。
その後配信を開始。バナーイベント68位等様々な実績を残す。ある人物とのオフ会後、100日連続配信を置き土産に事実上の引退。
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