最終更新:
our_colors 2022年09月19日(月) 09:23:45履歴
燃えるヘリウムは、ラシュクリエシリーズの創始者。
燃えるヘリウム | |
---|---|
界隈参入日 | 2021年11月9日 |
ソ社第4代書記長 | |
期間 | 2021.11.14〜11.20 |
ラ創臨時書記長、第3代、8代国家主席 | |
期間 | 2022.1.9〜1.15、1.29〜2.5、3/6~3/12 |
マ創第5代大統領 | |
期間 | 2022.9.3〜9.10 |
11月9日。その日、彼の人生は狂い出した。
ラムネコーラによる、『ソビエト社会主義共和国連邦』への参加募集。
その時は、まだなんとなくでの参加だった。
参加してすぐ、ラムネから『蘇教派』に参加するよう持ちかけられた。私は派閥制度の何たるかも知らず、参加した。当初のメンバーは前述のラムネコーラと、スフォーイ―――この界隈の創始者だ―――の2人であった。
さらに、この時、第二期最高会議の空きが出ていた。私は最高会議が何かも知らず参加した....
参加してすぐの第3回選挙。グループに参加して4日なのに出馬が決定した。やはり新規と言うのは票を得づらいのだろうか、その時出馬していたレヴァニラ候補に大敗した。この時、私はまだ『ソ共連』の存在を知らなかった。
大敗とは言ったが、この選挙で私は2位だったので、第二書記に選ばれた。その中で始まった第三期最高会議。私は政治局員に選ばれた。そこで私が目にしたもの、そして目にしたものに対する感情が、君たちに分かるだろうか。
レヴァニラ書記長『マンマンセ○クス〜』
私は絶句した。このグループはなんなのか。最高会議とは何なのか。彼は書記長と言う自覚があるのか。....等のことは思わなかった。そうだ、ただ何とも思わなかったのだ。しかし、ラムネコーラにとって、これは蘇教派が政権を握る好機であった。彼はすぐさまこれを糾弾した。結果、翌日にレヴァニラは辞任。後任には私が選ばれた。こうして、私はソ社に参加して5日で『第4代書記長』となった。
しかし、ここで問題が起きた。この時私はデート中だった。政治局員を再任命しようにも出来なかった。私にレヴァニラ辞任をいち早く伝えたのは、自宅警備隊だった。私は彼を第二書記にし、レヴァニラをただの政治局員にすることで、事を荒立てるのを避けた。これは今でも失策だったと思う。11月14日、ちょうどWINJ放送終了から14年が経った日のことだ。
ラムネコーラによる、『ソビエト社会主義共和国連邦』への参加募集。
その時は、まだなんとなくでの参加だった。
参加してすぐ、ラムネから『蘇教派』に参加するよう持ちかけられた。私は派閥制度の何たるかも知らず、参加した。当初のメンバーは前述のラムネコーラと、スフォーイ―――この界隈の創始者だ―――の2人であった。
さらに、この時、第二期最高会議の空きが出ていた。私は最高会議が何かも知らず参加した....
参加してすぐの第3回選挙。グループに参加して4日なのに出馬が決定した。やはり新規と言うのは票を得づらいのだろうか、その時出馬していたレヴァニラ候補に大敗した。この時、私はまだ『ソ共連』の存在を知らなかった。
大敗とは言ったが、この選挙で私は2位だったので、第二書記に選ばれた。その中で始まった第三期最高会議。私は政治局員に選ばれた。そこで私が目にしたもの、そして目にしたものに対する感情が、君たちに分かるだろうか。
レヴァニラ書記長『マンマンセ○クス〜』
私は絶句した。このグループはなんなのか。最高会議とは何なのか。彼は書記長と言う自覚があるのか。....等のことは思わなかった。そうだ、ただ何とも思わなかったのだ。しかし、ラムネコーラにとって、これは蘇教派が政権を握る好機であった。彼はすぐさまこれを糾弾した。結果、翌日にレヴァニラは辞任。後任には私が選ばれた。こうして、私はソ社に参加して5日で『第4代書記長』となった。
しかし、ここで問題が起きた。この時私はデート中だった。政治局員を再任命しようにも出来なかった。私にレヴァニラ辞任をいち早く伝えたのは、自宅警備隊だった。私は彼を第二書記にし、レヴァニラをただの政治局員にすることで、事を荒立てるのを避けた。これは今でも失策だったと思う。11月14日、ちょうどWINJ放送終了から14年が経った日のことだ。
赤単書記長。未来民主党の候補者が当選した。
そして、政党制導入が特に採決も行われず決定されたのを見て、私は憤った。私はこれをhyot氏の報道機関にリークし、採決騒動が起こった。正直私も予想していなかった大波乱となった。ここから、11月騒乱が始まった。私はこの時点で謹慎処分を食らったので詳細は不明。ただ、いつの間にかクーデターが起きたり創始者のスフォーイが追放されたり書記長が2回交代したりしていた。
そして、政党制導入が特に採決も行われず決定されたのを見て、私は憤った。私はこれをhyot氏の報道機関にリークし、採決騒動が起こった。正直私も予想していなかった大波乱となった。ここから、11月騒乱が始まった。私はこの時点で謹慎処分を食らったので詳細は不明。ただ、いつの間にかクーデターが起きたり創始者のスフォーイが追放されたり書記長が2回交代したりしていた。
第8代書記長にはしょきちょーが就任。私は再入閣を果たした。私はスフォーイの追放解除に賛成し、赤単の追放解除に反対した。理由は、どちらかの追放解除に反対を示しておけば、追放解除反対派を穏便に納得させられると考えたからだ。しかし、これが赤単との関係に尾を引き、翌年の2月辺りに爆発することになる。
第10代書記長はビスマルクだった。私は第2書記になり、裁判所を廃止し、考試院を新たに作った。考試院とは、司法権と入国審査権を持った期間で、私はこの時から二権分立という制度に憧れを抱くようになる。しかし、この制度はあまり理解されず、採用もされなかった。さらに、レヴァニラもソ社に飽きていた。
私はソ社の崩壊決議を取り、ソ社は崩壊した。
私はソ社の崩壊決議を取り、ソ社は崩壊した。
このページへのコメント
この人がゲイ?
ソ社党への当たり強ふぎるのだよ
おいでやす