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honorin1219 2023年01月01日(日) 14:05:55履歴
hyot105とは、蘇共、蘇民、蘇社の政治家、思想家である。
本名は「バウ・マッド・ロマイオン」である。(旧名:ツァーリミッツァイル君)
なお、23年1月1日現在Twitterアカウントは消えている
本名は「バウ・マッド・ロマイオン」である。(旧名:ツァーリミッツァイル君)
なお、23年1月1日現在Twitterアカウントは消えている
彼はデュ―エマ朝の島江永地方で生を享けた。幼少期から聡明ながらも芯の強い人物であったと、当時の歴史家栖鳳威が残した「蘇共人伝」には残っている。
彼は20代半ばまでは友人と共に紙遊びに明け暮れていたが、当時の朝廷の最高権力者であった冷馬似羅にその才と、飽くなき野心を見抜かれ、彼の側近として育てられることとなる。
彼が冷馬の側近となってから暫くの折、蘇共の指導者を決める選挙があった。彼はその選挙にて「我に票入れる者、役職を与えり」と語り、見事指導者の地位に上り詰めた。この出来事により、彼は選挙、民意というものに対しての失望、嫌悪感を抱くようになった。
その後しばらく、戦乱、派閥争い、内輪もめ、腐敗が続く朝廷を眺めていたが、奸臣裸無駄に自らの思想を否定されたことに激高し、朝廷から去った。
そして彼は、西の果てに流刑となっていた九霊夢理州と共に、蘇民を建国し、蘇共から独立する。
蘇民では九霊夢に次ぐ二番手として権勢を振るい、国家の発展に大きく寄与したが、次第に蘇共を復活せしめんとする九霊夢に不満を抱くようになる。
其の為彼は九霊夢を除こうと、自ら軍を振るい九霊夢を首都から追い出す。「三巴風呂解の乱」である。
しかし、蘇民人からの支持を集めることはできず乱は失敗し、彼は平民に落とされ、流浪の暮らしを送ることとなる。
十数年後、彼が辿り着いたのは蘇共の後継国家、蘇社であった。
蘇共、蘇民での行動により、彼の名は全国に知れ渡っており、蘇社に入るや否や、「選挙廃止」「秩序の破壊」など彼の思想の根幹を成す部分を宣伝し、広く大衆から注目を集めた。
蘇社では、「採決の乱」を起こし、当時の朝廷の腐敗を厳しく糾弾した。しかし、そのせいで朝廷からは危険視され、10年の楚明地方への流刑を言い渡される。
楚明地方に流刑となった彼が見たものは、当時のアピャ―ボケ朝の武将カリツ・カリニ・コゲジョンウンらの軍勢が、蘇社のwikiを荒らし、罪の無き民衆に害を与えている姿だった。
これに激怒した彼は、同じく流刑となっていた羅牟禰らとともに、これに対処し、その功として恩赦を勝ち取ることに成功する。
恩赦を勝ち取り、都への帰還が許されて政務へと復帰した彼だが、その直後に起きた巣呆夷らの起こした「緒摩抜の乱」を見て遂に蘇社を見限り、再び流浪の暮らしを送った。
晩年に蘇糾に入り、第二書記という厚遇を受けるが、突然謎の言葉しか喋れなくなり死去。
彼は20代半ばまでは友人と共に紙遊びに明け暮れていたが、当時の朝廷の最高権力者であった冷馬似羅にその才と、飽くなき野心を見抜かれ、彼の側近として育てられることとなる。
彼が冷馬の側近となってから暫くの折、蘇共の指導者を決める選挙があった。彼はその選挙にて「我に票入れる者、役職を与えり」と語り、見事指導者の地位に上り詰めた。この出来事により、彼は選挙、民意というものに対しての失望、嫌悪感を抱くようになった。
その後しばらく、戦乱、派閥争い、内輪もめ、腐敗が続く朝廷を眺めていたが、奸臣裸無駄に自らの思想を否定されたことに激高し、朝廷から去った。
そして彼は、西の果てに流刑となっていた九霊夢理州と共に、蘇民を建国し、蘇共から独立する。
蘇民では九霊夢に次ぐ二番手として権勢を振るい、国家の発展に大きく寄与したが、次第に蘇共を復活せしめんとする九霊夢に不満を抱くようになる。
其の為彼は九霊夢を除こうと、自ら軍を振るい九霊夢を首都から追い出す。「三巴風呂解の乱」である。
しかし、蘇民人からの支持を集めることはできず乱は失敗し、彼は平民に落とされ、流浪の暮らしを送ることとなる。
十数年後、彼が辿り着いたのは蘇共の後継国家、蘇社であった。
蘇共、蘇民での行動により、彼の名は全国に知れ渡っており、蘇社に入るや否や、「選挙廃止」「秩序の破壊」など彼の思想の根幹を成す部分を宣伝し、広く大衆から注目を集めた。
蘇社では、「採決の乱」を起こし、当時の朝廷の腐敗を厳しく糾弾した。しかし、そのせいで朝廷からは危険視され、10年の楚明地方への流刑を言い渡される。
楚明地方に流刑となった彼が見たものは、当時のアピャ―ボケ朝の武将カリツ・カリニ・コゲジョンウンらの軍勢が、蘇社のwikiを荒らし、罪の無き民衆に害を与えている姿だった。
これに激怒した彼は、同じく流刑となっていた羅牟禰らとともに、これに対処し、その功として恩赦を勝ち取ることに成功する。
恩赦を勝ち取り、都への帰還が許されて政務へと復帰した彼だが、その直後に起きた巣呆夷らの起こした「緒摩抜の乱」を見て遂に蘇社を見限り、再び流浪の暮らしを送った。
晩年に蘇糾に入り、第二書記という厚遇を受けるが、突然謎の言葉しか喋れなくなり死去。
彼の思想の根幹となる、選挙、権力への飽くなき反抗心、秩序の破壊は、蘇共時代に築かれたと言われている。
当時の蘇共の朝廷での醜い権力争いは、当時の歴史書「蘇共書」にも表れ、その争いに巻き込まれることも多かった彼の思想に多大なる影響を与えた事は想像に難くない。
また、選挙を捨てるということで非民主主義的、専制的な思想家と考えられることも多いが実際は、権力そのものの否定、権力争いへの否定、秩序の否定であることを念頭に置くと、当時としては先進的なアナーキストという評価が適切であろう。
当時の蘇共の朝廷での醜い権力争いは、当時の歴史書「蘇共書」にも表れ、その争いに巻き込まれることも多かった彼の思想に多大なる影響を与えた事は想像に難くない。
また、選挙を捨てるということで非民主主義的、専制的な思想家と考えられることも多いが実際は、権力そのものの否定、権力争いへの否定、秩序の否定であることを念頭に置くと、当時としては先進的なアナーキストという評価が適切であろう。
蘇四国の歴史の大家である栖鳳威は、彼について「hyotはラムネコーラと同じ、中身はクソガキでありますから話す必要はない」と低く評価していた事からも分かるように、同時代人からの評価は著しく、クソガキという評価が一般的だった。
しかし、近代になってから再評価され、歴史学者のヤーマイチ・オマーヌケ・スホーイ氏などは「彼は先進的な思想を持っていた開拓者だった。ある意味で生まれるのが早すぎた」などとし、時代の波にもまれた悲劇の天才という評価が固まっている。
妄言大杉
しかし、近代になってから再評価され、歴史学者のヤーマイチ・オマーヌケ・スホーイ氏などは「彼は先進的な思想を持っていた開拓者だった。ある意味で生まれるのが早すぎた」などとし、時代の波にもまれた悲劇の天才という評価が固まっている。
妄言大杉
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稚拙!人間の無能感を味わったことがない者に一撃を加えることができず、悔し涙とともに腹を切る!