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supedosurikku 2023年08月30日(水) 08:21:43履歴
ラムネコーラ(らむねこーら、ramunekoura)は、ソ共界隈の政治家、喧嘩師、新潟。
ラムネコーラ らむねこーら | |
---|---|
,300) ソ共連時代のアイコン | |
生年月日 | |
出生地 | 大韓民国 |
没年月日 | |
死没地 | |
出身校 | |
所属政党 | |
称号 | |
第36代 マ創大統領 | |
在任期間 | 2023年4月29日 - 2023年5月13日 |
ラムネコーラ(23-60)とは、蘇教の宗教指導者。蘇教の一宗派であるラムネ派を創設した。
彼はカーミン帝國の属州であったジェーウォー州の裕福な家に生まれた。幼い頃の名は現地の風習に合わせて「二ィガタ」だった。裕福な家に育った彼は英才教育を受けて育ち、12才の時にアラビア語を完全に習得し、周囲を驚かせたという逸話が残っている。36年、13才になった彼は当時にわかに広がりを見せていた蘇教に触れ、その教義に感動し入信する。
彼が原始蘇教の中でどのような立場にあったかは信ぴょう性のある資料が残っておらず、ただレーヴァによる福音書?において当時筆頭司祭だった使徒ロシアの失脚と殉教に関与している事がほめのかされている。西暦54年(ラムネ31才)カイ・カク―ハ神殿に務めることになった彼だが、同僚のラムダと折り合いが悪く、度々喧嘩をし、見兼ねた使徒クレムによって一時教団を追われたこともある。
その後、蘇教の腐敗を変える為に新たな戒律(シンポ―)を聖書の解釈の変更によって生み出し、秩序を守ろうとするが、使徒スフォヌルオなどの守旧派によって阻まれる。このような事を通じて蘇教に見切りをつけるようになり、西暦79年(ラムネ56才)「ラムネによる福音書」を発表し正統蘇教へと宣戦布告、相互破門の事態へ陥った。その後ソミン地方へ移り住むが、現地で病死(暗殺とも)。
彼が原始蘇教の中でどのような立場にあったかは信ぴょう性のある資料が残っておらず、ただレーヴァによる福音書?において当時筆頭司祭だった使徒ロシアの失脚と殉教に関与している事がほめのかされている。西暦54年(ラムネ31才)カイ・カク―ハ神殿に務めることになった彼だが、同僚のラムダと折り合いが悪く、度々喧嘩をし、見兼ねた使徒クレムによって一時教団を追われたこともある。
その後、蘇教の腐敗を変える為に新たな戒律(シンポ―)を聖書の解釈の変更によって生み出し、秩序を守ろうとするが、使徒スフォヌルオなどの守旧派によって阻まれる。このような事を通じて蘇教に見切りをつけるようになり、西暦79年(ラムネ56才)「ラムネによる福音書」を発表し正統蘇教へと宣戦布告、相互破門の事態へ陥った。その後ソミン地方へ移り住むが、現地で病死(暗殺とも)。
2021年4月18日、かみんが主催した架空戦争グループ・東日本内戦(後の日本内戦、JW)に新潟担当として参加した。新東秋山同盟(閑神・水無瀬等が参加)の一員として西方連合と協力し青森に侵略した北海道を叩きのめしたり、栃木のタービンと遥かな尾瀬戦争を巻き起こしたりなど活躍したが、新東秋山同盟と西方連合が合併してできた新日本連合にて他の幹部と対立し、新潟自身の新日本連合追放を巡って激論を交わした。後に直談判して運営に全ての同盟のリセットを飲ませている。
何期も続いていく日本内戦(JW)の歴史の中で、抜きん出て好戦的であるラムネコーラは「戦闘狂」と呼ばれた。
日本内戦で活動する傍ら、タービンやスフォーイが所属する大変態共栄圏や、5月8日に結成された共産趣味を賛美する党?に参加し、共賛党では副党首を務めた。
何期も続いていく日本内戦(JW)の歴史の中で、抜きん出て好戦的であるラムネコーラは「戦闘狂」と呼ばれた。
日本内戦で活動する傍ら、タービンやスフォーイが所属する大変態共栄圏や、5月8日に結成された共産趣味を賛美する党?に参加し、共賛党では副党首を務めた。
5月24日、ソビエト共産趣味共和国連邦の結成を呼び掛けたツイートには最初に返信している。(タービンがグループを作成したため本当の参加は3番目。外務局長に任命され、初期ソ共の入国審査を請け負った。
6月6日、その日に制度が成立したばかりの不信任決議案をロシア政権に対して提出するために、署名を集め始める。これを不審に思った政権側と口論が勃発し、
ソ共連?というか同時?)初期ソ共では他でのあばれ具合から外務局長に留まり、その後の選挙でも勝利することはなかった。常に改革派にいたがその行動から改革派の主要メンバーである閑神、ラムダ、クレムリスなどには距離を置かれていていた。不信任抗争の勃発した原因であり、結果的にロシアを政権から降ろすことに成功したが政権は獲得できなかった。新法無駄事件や建設委員会事件など大事件に大体絡んでいて追放されてもおかしくないのだが温情で生きていた。ソ共崩壊直前に裏ソ共に入り蘇民メンバーとの関係を築く。
6月6日、その日に制度が成立したばかりの不信任決議案をロシア政権に対して提出するために、署名を集め始める。これを不審に思った政権側と口論が勃発し、
ソ共連?というか同時?)初期ソ共では他でのあばれ具合から外務局長に留まり、その後の選挙でも勝利することはなかった。常に改革派にいたがその行動から改革派の主要メンバーである閑神、ラムダ、クレムリスなどには距離を置かれていていた。不信任抗争の勃発した原因であり、結果的にロシアを政権から降ろすことに成功したが政権は獲得できなかった。新法無駄事件や建設委員会事件など大事件に大体絡んでいて追放されてもおかしくないのだが温情で生きていた。ソ共崩壊直前に裏ソ共に入り蘇民メンバーとの関係を築く。
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