最終更新: nevadakagemiya 2024年04月14日(日) 20:24:40履歴
わたしの左の手背に、不意に鈍い痛みが走る。
目線をやると、そこには歪んだ剣のような紅い紋様が浮かび上がっていた。3つのパーツに分割できるそれは、一目見るだけで魔術的な刻印であることを理解できた。
だが、その刻印――令呪が意味するところを、わたしは未だ知らない。
あの騎士がわたしの前に現れたことと、何か関係があるのだろうか。そんなことを問いかけようと口を開こうとするが、それを遮るように声が響く。
「……儀式の引継からの英霊召喚? そんなのアリかよ」
崩れた土壁の中から槍の男が立ち上がる。その体は汚れてはいるものの、傷一つついていない。恐らくは吹き飛ばされ、その身で壁を砕いた筈なのにも関わらず、だ。鎧によって守られた、程度で説明できるものではない。
その顔から男の様子を感じ取ったのか、わたしを守った騎士――セイバーと名乗った彼女が振り返る。そのままわたしを庇うように片手を広げた。
「マスター。状況を理解しきれてはいませんが、とりあえず貴女を守ることが先決だと感じ取りました。どうかボクの背後に」
腰に提げられた黒い鞘から、セイバーは一本の剣を抜き放つ。その刃もまた夕暮れのように深い紫紺で、夕陽を反射してきらりと輝いた。よく見ると、所々に血痕のようなものが見て取れる。
その気高い雰囲気に似合わぬ血塗られた剣を正中に構えながら、セイバーは声高に問いかけた。
「貴公、その長大なる得物からランサーと目するが、如何に」
彼女の張り詰めた雰囲気とは対照的に、男は砕けたような自然体だ。開いた方の腕でこめかみをポリポリと掻く。
「別に長物使いならライダーやバーサーカーなんかも有り得るはずだが……まぁ、如何にも聖杯が僕に与えたクラスはランサーに相違ない」
後半から声のトーンが低くなり、槍の男――ランサーが氷の槍を構え直す。
「ここで英霊が出てくるのは予想外だが、混乱している今こそ機会と見たぞ、セイバー」
そして、その美麗な顔がにたりと歪んだ。
「すまないが……ここでご退場願おうかァ!」
その次の瞬間、ランサーが地面を蹴って飛び出し、真っ直ぐセイバーの喉笛に槍を突き出したことも、セイバーが上半身を傾けるだけでその突きをかわし、同時に無造作に剣を切り上げて槍の軌道を偏向したことも、わたしが一瞬静止した二人の体勢から推測した事象にすぎなかった。その交差は瞬く程の時間にて過ぎ去り、少なくともわたしの目では捉えきれないほどの一瞬の攻防だった。
あまりにも速すぎて、動体視力も、脳の処理スピードも圧倒的に足りない。
推測した攻防だって、もしやもすればその姿勢に移る前にもう何合か打ち合っていた可能性も十分にあるほどだった。
セイバーとランサー、両者が共に人の身を遙かに凌駕した戦士なのだと、わたしは肌を以て理解した。
-----
ランサーは、改めて槍を握り直した。
少なくとも自分にとっては、これが聖杯戦争における初陣だ。
そして、意図していなかった戦いでもある。
本来であれば無警戒で力のないマスターを仕留めて戻るだけの、暗殺めいた任務のはずだった。それはアサシンの領分だろうと思わないこともなかったが、別段文句を言う理由もない。何より、今のランサーには軽度とはいえ令呪の縛りがある。
令呪。サーヴァントの主たるマスターが三画だけ有する絶対命令権。その一つを、あの夜ランサーは身に受けていた。
『近衛偉弦からの命令には絶対服従』。
令呪はその命令が曖昧なほど、そしてその指示が広範囲に渡るほど効果が低くなる。それゆえ、今のランサーとて対魔力でレジストすれば、一切の指示に逆らうことができないというようなことは決してない。
しかし、彼のマスターは違う。
マスター・近衛美奈はランサーの見たところ過剰なほどまでに父親に躾られているようだった。まるで逆らうという選択肢が脳裏に存在していないのかといえるほどに。
まったく、僕の親父といい、父親というものには禄な男がいない。
苦い思い出が脳裏に過り、ランサーは首を振った。
その隙を突くかのようなセイバーの斬撃を、槍の穂先で受け流す。そのまま竿の部分で剣を打ち払い、回転させた尾部で彼女の側頭部を殴打しようと試みるが、当然のように戻ってきた刃で受け止められた。
とにかく、この任務は当然のようにこなして戻る筈だった。
油断こそしていたつもりはないが、簡単な役目だと甘く見てかかっていたのは事実である。
しかし、結果はこれだ。
確かに、ギリギリではあったが敵のマスターは召喚前に殺すことができた。だが、その娘らしき少女が召喚の儀式を続行し、新たにマスターの座に収まった。つまりはそういうことだろう。
即ち、『セイバーのマスター』は殺せていない。
任務は失敗だ。
向こうが向かってくるよりも早く、彼女が姿を見せた時点で刹那に殺すべきだった。
自身のマスターと変わらない年若い少女であったからか、すぐに動けなかったのが甘かった。
セイバーと幾度も打ち合い、斬撃をかわし、受け止めながらランサーは唇を噛む。
その上。
戦いから目を逸らすわけにはいかないが、彼は天をも仰ぎたい気持ちだった。
まだ戦い始めて五分も過ぎていないが、悔しい程によく分かる。
間違いない。
その真名が何であれ。
このセイバーは、非常に強力なサーヴァントだ。
-----
ランサーが一瞬で飛び退き、ちょうどそれぞれ得物が交合する位置で二人は再び睨み合った。その様子を、わたしはただ呆然と見つめていた。
「想定よりは腕が立つようだな、ランサー。少なくともボクの腕慣らしには丁度よさそうな相手と見た」
「ほう? 生真面目そうな出で立ちの割に一丁前に煽ってくるじゃないか」
剣と槍の穂先が軽く触れあい、冷たい金属音が響く。
「貴公こそ、氷にて槍を封じたままとは舐められたものだ。禍々しき輝きを放つその槍、貴公の宝具に相違あるまい?」
「生憎僕の槍は手の着けられない暴れん坊でな。おいそれと開帳するわけにはいかんのよ」
セイバーが下段に構えを変える。
「ではその隙、突かせて戴こう」
それに応じるように、ランサーもまた槍を握り直した。
「案ずるな、セイバー。この封印、僕の槍の鋭さに影響はないッ!」
再び両者が斬り合い、辺りが土煙に包まれる。セイバーの一薙ぎが、ランサーの一突きが、尋常ならさる衝撃波となって工房を破壊していく。
壊れていく。
壊れていく。
わたしが毎朝父親を起こしにいくだけでなく、なんだかんだで週に数度かは魔術の訓練をしていた場所が。
見慣れた魔術器具が、見慣れた床が、二人の騎士の争いに飲み込まれていく。
「……………………めて」
わたしの口から小さな懇願が漏れた。
「お願い、だから」
蚊の泣くようなわたしの声は、剣と槍がぶつかる音に飲まれて彼女自身にすら聞き取れない。
必死に声を絞り出そうにも、喉は潰れ、肺には空気がない。心臓は激しすぎるほどに拍を打ち、頭の中でドクンドクンという音が反響する。
燭台が倒れ、瓶が砕けた。中に入っていたどんな効能があるとも分からない薬品がカーペットにぶちまけられ、もうもうとした白煙が立ち上る。
思い出が壊されていく様を、わたしはただ呆然としながら見つめる他ない。
今朝、小中と交わした会話が蘇る。
何がパトロールだ。何が住民の平和を守りたいだ。
わたしは自分の父親すら守れなかったじゃないか。
自分の正しいと思ったことを貫くには、わたしにはあまりにも力が足りない。
あまりに強く唇を噛んだせいか、わたしの口の中に鉄の味が広がる。
その時だった。
ランサーが後ずさりした先にあった小さなローテーブルが、わたしの目に入る。
その上にあったのは、綺麗に完食された、朝食の小皿とコップ。
わたしの脳裏に、朝の父との会話が蘇る。
ああ、それだけは。
「だめェェェッ!」
目の前で繰り広げられていた剣戟の恐ろしさも、そこへ自分が割って入ることでどうなるかも、わたしには関係なかった。
ただ必死で走り、二人の間に割り込む。
「何ッ!? マスター!?」
そんなわたしの唐突な行動にセイバーが驚きの声を上げる。ランサーもまた、虚を突かれたように動きを止めた。
その隙に、転がり込むようにして2つの食器を掴み取る。そのまま慣性によって床を二回ほど転がり、ちょうど二人の騎士の中央あたりでわたしは動きを止めた。
今度は、間に合った。
ひどくふらつきながらも、それらを抱えてわたしは立ち上がった。
二人を鋭く睨みつけながら、わたしは口を開く。
「お願いだから。これ以上、わたしの思い出を傷つけないで」
割れた器具の破片か何かで切ったのか、彼女の額から血が滴った。
「殺し合いもやめて。あなたたちが何だか知らないけど、話し合いすらせずに刃を向けあうなんてどうかしてるよ」
その言葉に打たれたのか、それとも呆れているのか、荒れきった部屋に沈黙が落ちる。もうもうと舞っていた土煙は、壁に空いた穴から吹き込む風に吹き飛ばされ、次第に晴れ渡っていった。
やがて、ランサーが構えを解き、氷の槍を肩へと担いだ。
「……つーことで、どうやらアンタのマスターは休戦をお望みのようだぞ、セイバー」
一方のセイバーは黒い剣を正中に構えたまま動かない。ただ、目線だけをくるりとわたしの方へと動かした。
「いいのですか、マスター。察するに、この男は貴方の父の仇のはず。この場で討つべきかと」
「その『マスター』っていうのもよく分からないけど、もしそれがわたしの言葉に従ってくれるって意味なら従ってくれないかな、騎士さん」
わたしが目を伏せる。
「少なくとも今は、悲しむ時間が欲しいんだよね」
「そうは行かないわ、鞠瀬さん」
工房の壁に開いた穴から差し込む夕陽が、現れた人影に遮られる。
そのシルエットは女性のものだった。
その衣服は、わたしの学校のものだった。
その髪は長く、吹き荒ぶ風に揺れていた。
逆光であっても、わたしはその顔をよく知っていた。
「近衛、さん――――?」
わたしが絶句する。
彼女の同級生であり、今朝も顔を合わせた少女。
近衛李奈は、誰もが見れば驚くだろうその光景を一瞥しただけで理解したように首を振った。
「とりあえず槍を収めて、ランサー」
ランサーもまた彼女の言葉に従うのが当然のように応じる。肩に乗せていた槍が煙のように消失した。
「すまねぇマスター、厄介なことになっちまった」
「いいわ。鞠瀬さんには私が説明する。貴方は私の指示を果たしてくれた。感謝してるわ」
「そりゃあ恩に着るが――この嬢ちゃんはどうするよ」
「もうこのサーヴァントのマスターなんでしょう? だったらなにも知らせずに殺すのはフェアじゃないわ。私が監督役のところまで連れて行く」
「……ほぅ」
ランサーが眉を上げた。
「親父さんはいいのか?」
「父の指示は鞠瀬霧治を殺すこと。それは既に果たしたわ。だったら後は私の自由でしょ」
近衛さんのその言葉に、感心したようにランサーは鼻を鳴らす。
「へぇ。お前さんにそんな一面があったなんてな。分かった、とりあえず僕はここで消えておこう」
「そうしてもらえると助かるわ」
「おう。そんじゃまた後でな、セイバーのマスター」
その言葉を残して、ランサーは姿を消した。
「さて」
近衛さんがセイバー、そしてわたしの方へと向き直る。
「まずは謝らなければならないわね。こんな言葉に貴方が意味を見出してくれるかは分からないけど――貴方の父親を殺すようランサーに指示したのは私。ごめんなさい、鞠瀬さん」
近衛さんの表情は動かない。だがその瞳はあちこちに揺れていて、これでも彼女が言葉を選んだ結果なのだということをわたしは理解した。
漸く目線が合うと、近衛さんは深々と頭を下げた。
当然ながらその言葉で沸き上がる悲しみが収まるはずもなく、けれども目の前で頭を下げ続ける少女につかみかかるような激情もまた生まれてくることはなかった。
感情の行き場をなくしたわたしは、ふらふらと自らの父の元へと歩み寄った。
心臓を一撃。左胸に寸分違わず穴を穿たれた鞠瀬霧治は、見間違えるはずもなく息絶えていた。
……………………あぁ。
わたしの口から声が漏れる。
涙は流れなかった。
膝を着くこともできなかった。
ただ立ち尽くしていた。
悲しい。それは間違いないけれど。
間違いなく、わたしの大切なお父さんだったけれど。
わたしの中に去来する感情は、決してそれだけではなくて。
振り返ると、近衛さんはわたしをまっすぐ見つめていた。
わたしは――――――。
→「説明して、ください。お父さんがやろうとしていた……そしてわたしが巻き込まれた儀式ってなんなのか。今この街で、何が起ころうとしているのかを」
→「どうしてあなたの言葉に耳を貸す必要があるの? あなたはわたしから父を奪った。こんなこと、警察に通報しても無駄かもしれないけど。とにかく出ていって」
「『マスター』って何なのか。『セイバー』とか『ランサー』ってのはどういう存在なのか。なんで戦わなきゃならないのか。全部――――説明してください」
「それを説明するために来たのよ。ついてきて」
近衛さんが踵を返す。
「今やあなたもマスターの一人。知る権利があるわ」
背中を向けたまま、彼女は告げた。
「この儀式――『聖杯戦争』について」
これがわたしの、運命の黄昏。
わたしの『聖杯戦争』の幕開けだった。
------
自分で、自分のしている行動が信じられなかった。
私の人生は生まれたときから父が全てで、父の指示以外の行動を行うという行為自体が非現実的とすら言える日々を送ってきた。
けれど、今私は明らかに父には指示されていないことをしようとしている。
確かに父の直接の指示、「鞠瀬霧治の殺害」は果たした。
けれども彼からマスター権を引き継いだのであろう娘の彼女を支援したことを聞いたら、父は間違いなく良い顔をしないだろう。
では――なぜ。
この家に潜入したときに偶然耳にした、鞠瀬霧治の"あの言葉"が脳裏に反響する。
なぜそれが私の中で何度も繰り返されるのか――理由も分からないまま、私は鞠瀬さんを先導した。
目線をやると、そこには歪んだ剣のような紅い紋様が浮かび上がっていた。3つのパーツに分割できるそれは、一目見るだけで魔術的な刻印であることを理解できた。
だが、その刻印――令呪が意味するところを、わたしは未だ知らない。
あの騎士がわたしの前に現れたことと、何か関係があるのだろうか。そんなことを問いかけようと口を開こうとするが、それを遮るように声が響く。
「……儀式の引継からの英霊召喚? そんなのアリかよ」
崩れた土壁の中から槍の男が立ち上がる。その体は汚れてはいるものの、傷一つついていない。恐らくは吹き飛ばされ、その身で壁を砕いた筈なのにも関わらず、だ。鎧によって守られた、程度で説明できるものではない。
その顔から男の様子を感じ取ったのか、わたしを守った騎士――セイバーと名乗った彼女が振り返る。そのままわたしを庇うように片手を広げた。
「マスター。状況を理解しきれてはいませんが、とりあえず貴女を守ることが先決だと感じ取りました。どうかボクの背後に」
腰に提げられた黒い鞘から、セイバーは一本の剣を抜き放つ。その刃もまた夕暮れのように深い紫紺で、夕陽を反射してきらりと輝いた。よく見ると、所々に血痕のようなものが見て取れる。
その気高い雰囲気に似合わぬ血塗られた剣を正中に構えながら、セイバーは声高に問いかけた。
「貴公、その長大なる得物からランサーと目するが、如何に」
彼女の張り詰めた雰囲気とは対照的に、男は砕けたような自然体だ。開いた方の腕でこめかみをポリポリと掻く。
「別に長物使いならライダーやバーサーカーなんかも有り得るはずだが……まぁ、如何にも聖杯が僕に与えたクラスはランサーに相違ない」
後半から声のトーンが低くなり、槍の男――ランサーが氷の槍を構え直す。
「ここで英霊が出てくるのは予想外だが、混乱している今こそ機会と見たぞ、セイバー」
そして、その美麗な顔がにたりと歪んだ。
「すまないが……ここでご退場願おうかァ!」
その次の瞬間、ランサーが地面を蹴って飛び出し、真っ直ぐセイバーの喉笛に槍を突き出したことも、セイバーが上半身を傾けるだけでその突きをかわし、同時に無造作に剣を切り上げて槍の軌道を偏向したことも、わたしが一瞬静止した二人の体勢から推測した事象にすぎなかった。その交差は瞬く程の時間にて過ぎ去り、少なくともわたしの目では捉えきれないほどの一瞬の攻防だった。
あまりにも速すぎて、動体視力も、脳の処理スピードも圧倒的に足りない。
推測した攻防だって、もしやもすればその姿勢に移る前にもう何合か打ち合っていた可能性も十分にあるほどだった。
セイバーとランサー、両者が共に人の身を遙かに凌駕した戦士なのだと、わたしは肌を以て理解した。
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ランサーは、改めて槍を握り直した。
少なくとも自分にとっては、これが聖杯戦争における初陣だ。
そして、意図していなかった戦いでもある。
本来であれば無警戒で力のないマスターを仕留めて戻るだけの、暗殺めいた任務のはずだった。それはアサシンの領分だろうと思わないこともなかったが、別段文句を言う理由もない。何より、今のランサーには軽度とはいえ令呪の縛りがある。
令呪。サーヴァントの主たるマスターが三画だけ有する絶対命令権。その一つを、あの夜ランサーは身に受けていた。
『近衛偉弦からの命令には絶対服従』。
令呪はその命令が曖昧なほど、そしてその指示が広範囲に渡るほど効果が低くなる。それゆえ、今のランサーとて対魔力でレジストすれば、一切の指示に逆らうことができないというようなことは決してない。
しかし、彼のマスターは違う。
マスター・近衛美奈はランサーの見たところ過剰なほどまでに父親に躾られているようだった。まるで逆らうという選択肢が脳裏に存在していないのかといえるほどに。
まったく、僕の親父といい、父親というものには禄な男がいない。
苦い思い出が脳裏に過り、ランサーは首を振った。
その隙を突くかのようなセイバーの斬撃を、槍の穂先で受け流す。そのまま竿の部分で剣を打ち払い、回転させた尾部で彼女の側頭部を殴打しようと試みるが、当然のように戻ってきた刃で受け止められた。
とにかく、この任務は当然のようにこなして戻る筈だった。
油断こそしていたつもりはないが、簡単な役目だと甘く見てかかっていたのは事実である。
しかし、結果はこれだ。
確かに、ギリギリではあったが敵のマスターは召喚前に殺すことができた。だが、その娘らしき少女が召喚の儀式を続行し、新たにマスターの座に収まった。つまりはそういうことだろう。
即ち、『セイバーのマスター』は殺せていない。
任務は失敗だ。
向こうが向かってくるよりも早く、彼女が姿を見せた時点で刹那に殺すべきだった。
自身のマスターと変わらない年若い少女であったからか、すぐに動けなかったのが甘かった。
セイバーと幾度も打ち合い、斬撃をかわし、受け止めながらランサーは唇を噛む。
その上。
戦いから目を逸らすわけにはいかないが、彼は天をも仰ぎたい気持ちだった。
まだ戦い始めて五分も過ぎていないが、悔しい程によく分かる。
間違いない。
その真名が何であれ。
このセイバーは、非常に強力なサーヴァントだ。
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ランサーが一瞬で飛び退き、ちょうどそれぞれ得物が交合する位置で二人は再び睨み合った。その様子を、わたしはただ呆然と見つめていた。
「想定よりは腕が立つようだな、ランサー。少なくともボクの腕慣らしには丁度よさそうな相手と見た」
「ほう? 生真面目そうな出で立ちの割に一丁前に煽ってくるじゃないか」
剣と槍の穂先が軽く触れあい、冷たい金属音が響く。
「貴公こそ、氷にて槍を封じたままとは舐められたものだ。禍々しき輝きを放つその槍、貴公の宝具に相違あるまい?」
「生憎僕の槍は手の着けられない暴れん坊でな。おいそれと開帳するわけにはいかんのよ」
セイバーが下段に構えを変える。
「ではその隙、突かせて戴こう」
それに応じるように、ランサーもまた槍を握り直した。
「案ずるな、セイバー。この封印、僕の槍の鋭さに影響はないッ!」
再び両者が斬り合い、辺りが土煙に包まれる。セイバーの一薙ぎが、ランサーの一突きが、尋常ならさる衝撃波となって工房を破壊していく。
壊れていく。
壊れていく。
わたしが毎朝父親を起こしにいくだけでなく、なんだかんだで週に数度かは魔術の訓練をしていた場所が。
見慣れた魔術器具が、見慣れた床が、二人の騎士の争いに飲み込まれていく。
「……………………めて」
わたしの口から小さな懇願が漏れた。
「お願い、だから」
蚊の泣くようなわたしの声は、剣と槍がぶつかる音に飲まれて彼女自身にすら聞き取れない。
必死に声を絞り出そうにも、喉は潰れ、肺には空気がない。心臓は激しすぎるほどに拍を打ち、頭の中でドクンドクンという音が反響する。
燭台が倒れ、瓶が砕けた。中に入っていたどんな効能があるとも分からない薬品がカーペットにぶちまけられ、もうもうとした白煙が立ち上る。
思い出が壊されていく様を、わたしはただ呆然としながら見つめる他ない。
今朝、小中と交わした会話が蘇る。
何がパトロールだ。何が住民の平和を守りたいだ。
わたしは自分の父親すら守れなかったじゃないか。
自分の正しいと思ったことを貫くには、わたしにはあまりにも力が足りない。
あまりに強く唇を噛んだせいか、わたしの口の中に鉄の味が広がる。
その時だった。
ランサーが後ずさりした先にあった小さなローテーブルが、わたしの目に入る。
その上にあったのは、綺麗に完食された、朝食の小皿とコップ。
わたしの脳裏に、朝の父との会話が蘇る。
ああ、それだけは。
「だめェェェッ!」
目の前で繰り広げられていた剣戟の恐ろしさも、そこへ自分が割って入ることでどうなるかも、わたしには関係なかった。
ただ必死で走り、二人の間に割り込む。
「何ッ!? マスター!?」
そんなわたしの唐突な行動にセイバーが驚きの声を上げる。ランサーもまた、虚を突かれたように動きを止めた。
その隙に、転がり込むようにして2つの食器を掴み取る。そのまま慣性によって床を二回ほど転がり、ちょうど二人の騎士の中央あたりでわたしは動きを止めた。
今度は、間に合った。
ひどくふらつきながらも、それらを抱えてわたしは立ち上がった。
二人を鋭く睨みつけながら、わたしは口を開く。
「お願いだから。これ以上、わたしの思い出を傷つけないで」
割れた器具の破片か何かで切ったのか、彼女の額から血が滴った。
「殺し合いもやめて。あなたたちが何だか知らないけど、話し合いすらせずに刃を向けあうなんてどうかしてるよ」
その言葉に打たれたのか、それとも呆れているのか、荒れきった部屋に沈黙が落ちる。もうもうと舞っていた土煙は、壁に空いた穴から吹き込む風に吹き飛ばされ、次第に晴れ渡っていった。
やがて、ランサーが構えを解き、氷の槍を肩へと担いだ。
「……つーことで、どうやらアンタのマスターは休戦をお望みのようだぞ、セイバー」
一方のセイバーは黒い剣を正中に構えたまま動かない。ただ、目線だけをくるりとわたしの方へと動かした。
「いいのですか、マスター。察するに、この男は貴方の父の仇のはず。この場で討つべきかと」
「その『マスター』っていうのもよく分からないけど、もしそれがわたしの言葉に従ってくれるって意味なら従ってくれないかな、騎士さん」
わたしが目を伏せる。
「少なくとも今は、悲しむ時間が欲しいんだよね」
「そうは行かないわ、鞠瀬さん」
工房の壁に開いた穴から差し込む夕陽が、現れた人影に遮られる。
そのシルエットは女性のものだった。
その衣服は、わたしの学校のものだった。
その髪は長く、吹き荒ぶ風に揺れていた。
逆光であっても、わたしはその顔をよく知っていた。
「近衛、さん――――?」
わたしが絶句する。
彼女の同級生であり、今朝も顔を合わせた少女。
近衛李奈は、誰もが見れば驚くだろうその光景を一瞥しただけで理解したように首を振った。
「とりあえず槍を収めて、ランサー」
ランサーもまた彼女の言葉に従うのが当然のように応じる。肩に乗せていた槍が煙のように消失した。
「すまねぇマスター、厄介なことになっちまった」
「いいわ。鞠瀬さんには私が説明する。貴方は私の指示を果たしてくれた。感謝してるわ」
「そりゃあ恩に着るが――この嬢ちゃんはどうするよ」
「もうこのサーヴァントのマスターなんでしょう? だったらなにも知らせずに殺すのはフェアじゃないわ。私が監督役のところまで連れて行く」
「……ほぅ」
ランサーが眉を上げた。
「親父さんはいいのか?」
「父の指示は鞠瀬霧治を殺すこと。それは既に果たしたわ。だったら後は私の自由でしょ」
近衛さんのその言葉に、感心したようにランサーは鼻を鳴らす。
「へぇ。お前さんにそんな一面があったなんてな。分かった、とりあえず僕はここで消えておこう」
「そうしてもらえると助かるわ」
「おう。そんじゃまた後でな、セイバーのマスター」
その言葉を残して、ランサーは姿を消した。
「さて」
近衛さんがセイバー、そしてわたしの方へと向き直る。
「まずは謝らなければならないわね。こんな言葉に貴方が意味を見出してくれるかは分からないけど――貴方の父親を殺すようランサーに指示したのは私。ごめんなさい、鞠瀬さん」
近衛さんの表情は動かない。だがその瞳はあちこちに揺れていて、これでも彼女が言葉を選んだ結果なのだということをわたしは理解した。
漸く目線が合うと、近衛さんは深々と頭を下げた。
当然ながらその言葉で沸き上がる悲しみが収まるはずもなく、けれども目の前で頭を下げ続ける少女につかみかかるような激情もまた生まれてくることはなかった。
感情の行き場をなくしたわたしは、ふらふらと自らの父の元へと歩み寄った。
心臓を一撃。左胸に寸分違わず穴を穿たれた鞠瀬霧治は、見間違えるはずもなく息絶えていた。
……………………あぁ。
わたしの口から声が漏れる。
涙は流れなかった。
膝を着くこともできなかった。
ただ立ち尽くしていた。
悲しい。それは間違いないけれど。
間違いなく、わたしの大切なお父さんだったけれど。
わたしの中に去来する感情は、決してそれだけではなくて。
振り返ると、近衛さんはわたしをまっすぐ見つめていた。
わたしは――――――。
→「説明して、ください。お父さんがやろうとしていた……そしてわたしが巻き込まれた儀式ってなんなのか。今この街で、何が起ころうとしているのかを」
→「どうしてあなたの言葉に耳を貸す必要があるの? あなたはわたしから父を奪った。こんなこと、警察に通報しても無駄かもしれないけど。とにかく出ていって」
「『マスター』って何なのか。『セイバー』とか『ランサー』ってのはどういう存在なのか。なんで戦わなきゃならないのか。全部――――説明してください」
「それを説明するために来たのよ。ついてきて」
近衛さんが踵を返す。
「今やあなたもマスターの一人。知る権利があるわ」
背中を向けたまま、彼女は告げた。
「この儀式――『聖杯戦争』について」
これがわたしの、運命の黄昏。
わたしの『聖杯戦争』の幕開けだった。
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自分で、自分のしている行動が信じられなかった。
私の人生は生まれたときから父が全てで、父の指示以外の行動を行うという行為自体が非現実的とすら言える日々を送ってきた。
けれど、今私は明らかに父には指示されていないことをしようとしている。
確かに父の直接の指示、「鞠瀬霧治の殺害」は果たした。
けれども彼からマスター権を引き継いだのであろう娘の彼女を支援したことを聞いたら、父は間違いなく良い顔をしないだろう。
では――なぜ。
この家に潜入したときに偶然耳にした、鞠瀬霧治の"あの言葉"が脳裏に反響する。
なぜそれが私の中で何度も繰り返されるのか――理由も分からないまま、私は鞠瀬さんを先導した。
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