混沌都市オルツィニー

　チョコレートを一枚口にした。
　体温で溶け行く板切れはすぐに液状化してしまって、既に彼女の貧しい五感では口中にあるはずの行方さえも見えなくなった。
　喉に滑り落ちたのかさえわからないままに少女は次の一枚を口の中に差し込む。やはり、味はわからない。
　口の端からポタポタと溶けたチョコレートが垂れていることにも気が付かぬまま彼女はチェーンスモーカーのように板切れを口にする。
　道に滴る茶色い雫は血のように、ロンドンの道に境界線を描くかのごとく点を等間隔に作っていた。
　が、唐突に点の間隔が狭まり、一点に滴って点描を何度も繰り返し始めた。少女が足を止めたのだ。
「見つけた」
　小さくそう言うと少女は天を仰ぐようにして口中にあるはずの異物を全て嚥下する。
　少女の長い髪を揺らす風に乗ってチョコレートの香りが辺りに拡散され、同時にロンドンの町並みに場違いな油臭い金気を微かに臭わせた。
　油と金属の入り混じった冷たい悪臭の根本たる狙撃銃が少女の手によって構えられ、照星に獲物を捉えんと銃口を動かす。
　そして、一点を指して止まったPSG-1のトリガーへと小さな指が掛けられて────

Prolog : The City & the City & the city .

　ロンドンの街を少女が歩く。彼女の第一印象はこうだ。『【浮浪者のような】と、そんな枕詞が付きそうな』。
　身長はメートルにも満たず、飢え犬を思わず連想させるくらい痩せぎすでちっぽけな彼女はストリートチルドレンそのものだ。しかし、掃き溜めのような裏路地に似合わぬ白い髪と肌は透き通るように美しく、汚れ一つ無い面立ちは非常に可憐で、見るものが見れば（といっても、少女性愛者の類だが）彼女の比類なき眉目秀麗さに気がつくだろう。
　が、如何せん身嗜みのセンスの絶無さが足を引っ張って、その輝きを天蓋のように覆い隠してしまっていた。むしろ、彼女がガリガリと右手で引っ掻いている寝癖だらけのぼさぼさ頭を見れば、通りすがる人々が身嗜みという概念が少女の中に存在しているのかと疑ってしまうのは火を見るより明らかだ。
　身につけるものは殊更酷い。革製の襤褸衣類一式は辛うじて服としての体裁を整えているが、まるで不器用な蓑虫が作ったオートクチュールのようにでたらめ無茶苦茶な縫製。おまけに、革の素材にどんな動物を使ったのだろうか妙な艶を持っていて、その厭味ったらしい色合いを無理矢理染料でつや消ししているせいなのか、見るものにどことなくグロテスクな印象を与えるのは間違いない。
　気怠げに欠伸する少女の姿が視界に入った誰もが、例えば裏路地に潜むホームレスたちであっても、その嫌気導くような襤褸切れから無意識に目を逸らし、生理的嫌悪からの防衛機構によって次の瞬間には真っ白なストリートチルドレンもどきの彼女を忘れ去るだろう。
　そう。それでいい。
　なぜなら少女は魔術師で、どちらかといえば厭世的で、人払いは歓迎こそすれ不利益を被るようなものではないと考えていたからだ。一点物のドールを思わせる黄金比を保つ面立ちは、人攫いに拐かされた経験も二度や三度と言わず、売り飛ばされた先から徒歩で戻ってきた記憶は両手の指でも足りないくらいには覚えている。目立たないこと実に結構。なにはともあれ、自分の身嗜みやらを羞恥するほど少女は青春に近くはなく、また、アピールするような相手もいないのだから。
　……もっとも、今この場に限っては（少女には目が向かないとは言え）幾ばくかの衆目を彼女は感じていたが。原因は隣を歩く、彼女より少し背が高い少女である。
　浮浪者じみた少女──ザイシャ=アンディライリーは嘆息した。
「メギドラ。目立つから服着て」
　じっとりとした上向きの眼差しでメギドラ──メギドラ・エイハブ・サレナをザイシャが睨む。すると咎められたメギドラは心外そうな顔をしてみせた。
「何を言う。ちゃぁんと着とるじゃろうが」
「それは着たうちに入らないの。今、冬だよ？」
　メギドラの青褐色をした素肌を（そう、素肌をだ）ザイシャはべしべしと指先で突いた。
　防寒の観点から見ればザイシャの着こなしにも大いに問題があったが、メギドラはそれ以上だろう。常から服装をころころと替える彼女だが今日は実に扇情的なコーディネートで、細く、薄ぺらな幼児体型のあちこち、特に性的な欲望を喚起させる部分を強調するように開けられた穴からは素肌がチラリと流し目している。その視線に釣られたのだろう。冬空から吹き下ろされた木枯らしが銘々に穴へと忍び込んでいって、その周りの布地をパタパタと翻らせていた。
　ただでさえ、服自体も仄かに透ける薄い布地で出来ているネグリジュのような物なのだから、これが凄まじいまでの場違いさをロンドンの街の中に浮き出させており、見ていて寒々しいところを遥かに通り越して、もはや神秘的な雰囲気さえ纏ってるのではないかと錯覚しそうになるほどだった。
「別に良いじゃろ。儂は寒くないしのう。確かに肌は珍妙な色じゃろうがロンドンは時計塔のお膝元じゃ、どうせ認識阻害だのなんだの影響あるじゃろうて。大して目立たんわ」
「アナタは困らないかもしれないけど私は困るの。リスクはなるべく排除しておきたい」
「リスク、リスクとな。いったい、どんなリスクかのう？」
　くつくつと、メギドラが笑声を口に含める。
「例えば──そうじゃな。お主が儂のエロティックな魅力に負けて遮二無二押し倒してしまうリスクなんかどうじゃ？　そういえば先程から指先で愛撫されておる気がするしのう。くっふっふっ。良いぞ。良い。可愛ぃ、可愛ぃ弟子が頼むなら、どれ、ラブホテルにでもシケこんで神も恐れず日の高いうちから淫蕩に耽るとするかのう」
「メギドラ」ザイシャは軽く舌打ちして苛々と名前を呼んだ。
　しかしメギドラは構わずに、演劇でもやるかのようなわざとらしい身振りを始める
「嗚呼、誰よりも愛しき想い人よ。そのお主さえ望むなら、無論、儂は青姦も吝かでないぞ？　凍りつくような寒空の下で互いの熱だけを感じるのも悪くは無いじゃろう。……逸る劣情を抑えきれず、青々しき衝動のままに狭苦しい路地裏で唇を奪い、未熟な果実を二つ重ねて、零れ落ちる蜜へと溶かし合う……なんともロマンチックで良いのう。世界に互いの白い吐息だけを数え、荒く、不揃いな音の中へと時を、明日を、季節を、何もかも忘れ去って発情した獣のような幼い愛を交わす。…………くふっ。実に淫らで、心地よかろうなぁ？」
「メギドラ」先程よりも強く。
「或いは、陰に潜むことさえ許されずに衆目の中で貪り食われてしまう？　ああ！　そんなことは想像するだけで恥ずかしくて火を吹きそうになる！　じゃが、嫌で嫌で、必死に希ったとしても……儂も所詮は首輪をつけられた囚われの身、鎖を握る御主人様であるザイシャ、いや、ザイシャ様には逆らえぬ……。下卑た笑いを浮かべる卑劣な女あるじに歯向かうことも出来ずに、許しを請うて恥ずかしく乱れる様を町中で晒してしまうのじゃな……。そしていつしか身体は快楽の香に誘われ花開き、心では屈辱を感じているはずが本能は喜んで舌先を蜜へと────」
「メーギードーラー？」
「くっふっふ。お主は真面目じゃのー」
　この類のジョークに理解がない友人をいつものようにからかったメギドラは満足そうに瞠目して口の端を上らせる。
　一方のザイシャは苛立ったようにそっぽを向いて盛大に舌打ちした。
　ザイシャとメギドラ。両者の関係は要するにこうした様相だ。
　とある事件を切っ掛けに出逢った彼女らは、敵対だとか共同戦線だとか司法取引だとか契約魔術だとか複雑な事情を基とする色々を経た末に、実に面倒かつ端的な関係を構築した。
　メギドラは師匠。ザイシャは弟子。
　ザイシャは主人。メギドラは従者。
　反転する二つの力関係で結ばれた両名は、隙あらば自分が首位に立とうと虎視眈々と首を狙う……なんてことはなく。同じ重さの分銅を秤にかければ釣り合いが取れるように、シーソーゲームがギッコンバッタン動くこともないままパワーバランスは中間で落ち着いていた。
　立ち位置が周遊するせいで格差がはっきりと構築されないため、一般的な師弟や主従の関係とは緩い方向に異なっており、ザイシャとメギドラの仲は例えるなら同じ寮に住む学生同士か何かのような気安さだ。
　事実として。以前、メギドラの部屋が用意されるまでという約束で、しばらく二人ザイシャの部屋で暮らすことになったのだが、互いに居心地も悪くなかったせいなのか、私室の申請が受領された後でもルームメイトの関係がズルズルと続き、同じ部屋の中に枕を並べて寝起きを共にするうちに、互いの存在が若干ながら生活の一部と化した今に至っていたりするので、相性もそう悪くはない。
　友人。相棒。同類。一言でまとめるならこの辺りが当てはまるだろうか。
　つまるところは、日常的に神経を逆撫でする冗談を飛ばしたり、それに半ば本気で殺意を抱いたり、時折不死者同士の無為な殺し合いに発展したり、それでいて互いに手心を加えていたり、とはいえ本当に殺してやろうかと不意に脳裏に囁く声がよぎっていたりしながらも、なんだかんだで変わらず揺らいだことのない関係というわけである。
　よって、ザイシャの辛辣な態度も、呆れ半分だが残りの半分は友人への心配から出たものだったりする。無論、メギドラも知っている。
　が、その一切を匂わせない無表情のザイシャが視線を冷たくするのは、傍目から見れば部屋の隅の塵屑を一瞥した様に思えるかも知れない。
　そんな感情を窺いにくいポーカーフェイスが呆れ果てたような声でメギドラに尋ねる。
「メギドラ。封印指定されてる自覚はないの？　ここ、時計塔なんだけど」
「だからじゃよ」
　笑った顔のまま、しかし声だけは真剣にメギドラが返した。
「執行者は教会の連中と違い、不死者祓いには未熟な脳筋揃いじゃからのう。強力な執行者は時計塔も出し惜しむ。故、彼奴らが出張るのは事前に居場所を掴んだ者を急襲させる場合ばかりよ。今のようなケースで緊急的に派遣される駒は時計塔に近い、その場凌ぎの駒、つまりフリーランスの魔術使いどもじゃろうて。ならば逃げるのは造作もない。儂はそう貴重な検体でも無かろうし、こちらが去るなら深入りはしてこんよ」
「……へえ」
　興味深しげに唸ったザイシャが小さく諸手を挙げた。
「降参。やっぱり、私は経験じゃアナタに勝てないや」
「くふふー。伊達に二百四十六年も歳を重ねてはおらんからの」
　得意気なメギドラが右手の人差し指を伸ばして空中にクルクルと円を書く。
　そんな彼女の肩に、「それはそうと」そう、ザイシャが言いながらポンと手を置いた。
　ん、と小首を傾げるメギドラの紫色の瞳を至近距離から覗き込むザイシャは氷の眼差しを浮かべる。
　五割を専有する心配が晴れた今、ザイシャの心情には呆れが十割だった。
「時計塔に動かれるのはデメリットしか無いし、封印指定から逃げ延びても今回の目的には一欠片の利益もないから。目立たないように着替えて。今すぐにでも」
「あ、はい」
　流石のメギドラも頷くしかなかった。

　安ブティックにメギドラを叩き込んだザイシャは、凸型に出っ張った店の軒下で扉から右側面の壁に寄りかかりながら、PDAのような小さな携帯端末を起動させた。
　ファルス・カルデアから支給された端末が網膜に投影するヴィジョンには、今回のミッションに関わる様々な資料や何やらが立ち並んでいる。視線スクロールに従って流れていくタイトルを眺めていたザイシャは、その中から一つの映像資料（外部記録媒体に転写したザイシャの記憶データだ）を見つけて、目を止める。視線が留まったことで自動的に選択された映像が網膜ヴィジョンに映し出された。
『先日、既に作戦要項は通達されていたと思うが改めて僕の口から説明しよう』
　現ファルス・カルデアの二大巨頭の片翼、ウィルマース財団が代表のアーサー・マイヤーの姿が現れ、一人称視点の中から落ち着いた声で語り始めた。
　簡素な書斎風の視界の隅には珍しく支給された制服を着た（正確には着せた、が正しいが）メギドラの姿がちらついていて、くつくつと笑い始める。
『くふふっ。まさかわざわざ御高説賜れるとはの。組織の長というには、お主結構暇しとるんじゃ──あいたっ！』
　映像がぶれるとバシッと何やら破裂音がして、マイヤーの話の腰を折ろうとしたメギドラが小さく悲鳴をあげた。『どうぞ』と声がする。その様子を見ていたマイヤーは困ったように笑うと、コンソールからデータを呼び出し、背後のディスプレイの電源を入れた。
　まず初めに映ったのは世界地図。五大陸全てが色を失った白地図が画面いっぱいに表示される。
『君たちも知るように人類史は漂白されてしまった。白紙化された地球上では現ファルス・カルデアを除くコミュニティは存在しない。あったとしても、残留物に留まっているのは人数にして二桁が精々だろう。我々、現ファルス・カルデアの四百名がこの星の最大勢力となる』
　だが、とマイヤーが言葉を濁してコンソールを操作する。するとカメラはユーラシア大陸の西側へと範囲を縮めていき、拡大された地図の中にグレートブリテン島が広がった。更に拡大される地図はサウス・イースト・イングランドとイースト・オブ・イングランドの間へとパンされて行き、グレーター・ロンドンの上で停止した。
　マイヤーがまた手元の画面を二、三、操作すると、グレーター・ロンドンを囲むように赤い枠線が現れ、その周囲に様々なグラフが並んだ。その中で奇妙なグラフが右上にあった。どうやら母数が足りていなかったようでグラフいっぱいが一色に染められている。
『右上のグラフは現在の倫敦の人口を示す。これは白紙化された現在は0でなくてはいけないはずだ。しかし、』
　マイヤーの操作と共にグラフの母数が増えていく。そしてその数が千五百万に到達してやっと、グラフの全貌が明らかとなった。
『現在、【倫敦には千四百万人が生きている】』
　ありえない。誰もがそう思うだろう。
　当然だ。地球は既に漂白されてしまった。千四百万人の人口を支える文明も、都市も、歴史も、存在しているはずがない。
　事実その通りだ。地球上にグレーター・ロンドンは存在していない。仮に異聞帯があったとしても内部を観測できるはずもない。なのに、千四百万の【人口だけが】現ファルス・カルデアで観測されたのだ。
　明らかな、異常事態だった。
『許される限りの観測を繰り返し、我々ウィルマース財団はさらなる事実を発見した。これを見て欲しい』
　画面上でグレーター・ロンドンが三枚に卸され、上層の【NearSide】(=こちら側)、中層の【FarSide】(=あちら側)、下層の【BackSide】(=裏側)に分断される。それぞれ白、灰、黒に塗り分けられた三層の倫敦の右側へと新たに、上層から順に【Bleach-London】(=漂白倫敦)、【CrossHatch-London】(=交差倫敦)、【Unsee-London】(=不可視倫敦)と表示される。
『今のグレーター・ロンドンは、おおよそ三つに分けることができる。我々の世界に属する漂白倫敦、我々が観測した交差倫敦。そして、我々の観測範囲から外れた暗黒空間だが、確実に交差倫敦への影響を与えている不可視倫敦。結論から言えば、千四百万の人口は中層の交差倫敦のものだ。おそらく交差倫敦の世界では白紙化が行われていない。O-13が白紙化を起こすか否かで分岐した平行世界のようなものではないかというのが我々の見解だ。何故現ファルス・カルデアがこれを観測できたのか、という謎についても今のところは不可視倫敦と交差倫敦の混在によって世界の境界が曖昧になったというものが有力説となっている』
『なるほどのう。して、以前説明を受けた時に思うとったんじゃが、その交差倫敦とやらはこちらの世界に混ざるんじゃろうか？』
　メギドラがマイヤーに尋ねる。すると彼は曖昧に首を振った。
『正しくも、間違ってもいる。確かに交差倫敦は観測上は我々の漂白倫敦と混ざりあった状態にある。が、事実上は別物だ。僕らの世界は白紙化によって分岐しているからね。交差倫敦はカオス的状態にあるから、それに釣られて漂白倫敦にも接点が出来てしまっただけだろう。証拠に、交差倫敦と触れ合っているはずの不可視倫敦を現ファルス・カルデアからは観測することはできない。だから不可視倫敦(Unsee-London)なんだ。これは逆説的に言えば、我々の世界と不可視倫敦の世界は交わりを持てないということだろう。詭弁みたいだけどね』
『うむうむ。よくわからぬが混ざらんなら良い』
　納得して頷くメギドラを見たマイヤーが小さく笑い、すぐにウィルマース財団長の顔になって話を続ける。
『本題はここからだ。我々はこの交差倫敦を混沌都市オルツィニーと仮称。ザイシャ=アンディライリー。メギドラ・エイハブ・サレナ。両名はオルツィニーに潜行し、内部からの観測を行ってくれ。潜行には携帯型バイアクヘー・プロトタイプ【ダゴニットMk-Ⅲ】を用いる。本作戦の目的は二つ、不可視倫敦と重なるオルツィニーの観測データ収集による対異聞帯観測技術の向上、そして、ダゴニットMk-Ⅲの実地運用試験だ』
『待て』
　不意に、メギドラから鋭い視線が放たれてマイヤーを貫く。
『拒否権はあるんじゃろうな？　……儂はあくまでアドバイザーじゃ。勘違いするでないぞアーサー・マイヤー。儂はザイシャに隷属したが、お主に仕えた覚えはない』
　プレッシャーがメギドラを中心に重圧を生み出し、マイヤーの身体が無意識に下がる。が、怯まずにマイヤーはメギドラの問いに答えた。
『拒否権はもちろんある、が……残念ながら手が空いてるのが君たちしかいなくてね。オルツィニーに潜行と簡単に言ったが、あちらでは何が起こるかわからない。生還が絶対条件である以上、君たちのような不死者にしか任せられることじゃないんだ。更に付け加えれば、メギドラ・エイハブ・サレナ。君の現ファルス・カルデアへの姿勢を周知させるという政治的な目的もある。だから断られると…………そうだな、とても困る』
　力強くメギドラに回答していたマイヤーは、本当に困ってしまったように言葉尻をすぼめて肩を竦める。気が抜けるような様子にメギドラはくつくつと笑った。
『冗談じゃよ。儂とて進んで立場を悪くしたくはないからの』
　悪戯っぽい色をしたメギドラの紫の瞳の輝きから、自分がからかわれたのだと気がついたマイヤーはぎこちなく苦笑する。
　そして、一人称視点のカメラへとマイヤーが向き直った。
『君はどうかな、ザイシャ=アンディライリー？』
『構いませんよ。私はアナタの直属となって動く依頼を既に引き受けていますから。これもお仕事です。バイアクヘーⅢが戻るまで時間が掛かるでしょうし、良い暇つぶしになるかと。折角なので異世界を観光してきます』
『ありがとう。色良い返事が聞けて嬉しいよ』
　ホッとしたようなマイヤーの声が届いた瞬間、映像は途切れ、視界に軽くノイズが走った。記憶映像の再生が終わったのだ。
　ザイシャは微細に眩むヴィジョンを払うように頭を振り、携帯端末をスリープモードにしてポケットにしまった。
「不可視倫敦(Unsee-London)か……」
　壁から身体を離し、店の前の通りの向こうをザイシャは臨む。
　オルツィニーの構造がザイシャの知る倫敦と同じなら通りの向こうに小汚い看板の大衆食堂があったはずだ。だが、彼女の目はその影さえも見えなかった。
　障害物があったわけでも、店がなくなってしまったわけでもない。ただ、ある境界から先を見ることが出来なかったのだ。まるで、見た端から記憶が修正液か何かで塗りつぶされてしまったように。
　アンシー(unsee)。意味は【見た記憶を消す】。
「遅いなぁ、メギドラ」
　クロスハッチ状のギザギザとした境界線で倫敦を二分し、内、半分に不可視の空白を浮かべる混沌都市オルツィニー。
　その断崖絶壁淵に佇む安ブティックの前で、ザイシャは退屈な猫みたいにまた欠伸した。

第一節　漂白されなかった世界

　女の買い物は長いというのは『悪霊王女』と恐れられるメギドラ・エイハブ・サレナであっても御多分に漏れなかったようで、待ち続けた末、しびれを切らしたザイシャがブティックに足を踏み入れると、試着室の中ではメギドラがああでもないこうでもないと一人ファッションショーを繰り広げていた。冬らしい服を入手する目的で来店したはずなのだが、山のようになった試着待ちの服の数々には何故か水着やらも混ざっている。それを見て眉間に深い皺を作ったザイシャを見つけた途端、わざとらしいほど慌てて試着室のカーテンが閉められた。
　心中が虚無になっていくのを感じつつザイシャがカーテンを開けると、恥じらいに頬を染めたメギドラが狭いコンパートメントの隅っこで、下着さえ着けていない青褐色の裸体を手で隠していた。逃げるように背けた横顔からは紫色の潤んだ瞳が閉じかけた瞼の下から上目遣いでザイシャを見ていて、怯えたように震える口がおずおずと開く。
「メギドラ、急いで服を脱ぐ音は聞こえてたから。冗談なら後にして」
　……よりも先にザイシャが白けた眼差しを向けた。
　メギドラがつまらなさそうに唇を尖らせる。
「なんじゃ。釣れないやつじゃのう……」
「店の人は？」
「暗示を掛けた。儂のような子供は相手にされんからの。店を出るまでは十分に持つ」
「そ。ならいいや」
　試着室の前にあった小さな椅子にザイシャは座る。
　カーテンを開けっ放しにしたまま脱ぎ去った下着を付けるメギドラは、紐のようなショーツを腰まで引き上げながら、思い出したようにザイシャに尋ねる。
「それで、不可視領域の観測はどうじゃ？」
　ザイシャが肩を竦めた。
「全然だね。手応えすらないや。写真を取ったりしてみたけど全部真っ白け。不可視の部分はどうやったって見えないみたい」
「修正力かのう？」
「多分、その類」
　ふむぅ、とメギドラが口籠るように口元に手を当てる。
「となれば儂らに打つ手はないじゃろうな。えー、【ダゴニット】の試験日数の残りは？」
「潜行テストが二日だから、残りはちょうど十日だね。日数使い切るまでに進展あればいいんだけど」
「希望は薄いのう……」
　メギドラが会話の合間で着た夏物のワンピースの裾をはためかせ、「これはどうじゃ？」と訊くとザイシャは手でバッテンを作った。メギドラは次の服に手を伸ばす。
「とはいってもウィルマースの連中、特にあの甘ちゃんの首領なら自分にも出来んことを儂らに強要せんじゃろ。進展がなければ諦めてしまえ。帰ったら無理でしたと伝えて、それで終わりじゃろうし」
「うわ。不良だ」
「ふふん。お主に言えたことではなかろうが不良娘め」
「不良が言っても説得力ないですー」
「その言葉そっくりそのまま返してやろうか？　ん？」
　軽口を叩きながらメギドラはポニーテイルのように髪を縛ってスポーツウェア姿をお披露目する。当然のごとくザイシャは却下のジャスチャーをした。新しい服がハンガーから外された。
「あくまで憶測じゃが今回の派遣の大目的は儂への箔付けじゃろうて。組織の命じるままに従順に動き、大なり小なりなんらかの結果を残して、首輪を付けられた犬であることを十分にしろしめす。或いはお主がウィルマースの子飼いであることを隠す意図も、か。……ま、なんにせよ茶番じゃな」
　そう言いつつメギドラが中華風のドレス姿でくるりと一回転した。ザイシャは足の際どいスリットを指さして無言で首を振る。
「同じ馬鹿なら踊らにゃ損。儂らにも関わることとしても多くは向こうの都合じゃろ？　どうせ茶番なら茶番らしく、付き合わされとる儂らは観光気分で羽を伸ばすのがよかろうとも。少なくとも儂はそのつもりじゃな」
「観光って言われても私ロンドン住みなんだけどなぁ……」
「ガイド付きとは楽しいツアーになりそうじゃな！」
「それ。楽しいのはメギドラだけでしょ？」
「そうかもしれんな。くっふっふっ」
　ザイシャが嘆息するとメギドラがからからと笑って、次に手にとった服へと袖を通していく。ボディコンのシースルーに張り付けられたちゃちなスパンコールが、店内の薄暗い照明に照らされて安っぽい輝きを浮かべていた。その光を横目にしながらザイシャが椅子から立ち上がる。
「じゃ、そろそろ行こうか。メギドラ」
「ほう……意外じゃな。素肌を見せるよりも隠した上で身体のラインが出とるほうが好みとは、いやはや儂の御主人様は中々の好き者なようじゃ。次からは夜を共にする時間は留意しておかねば。素気ない主をその気にしてみせるのも下僕の務めじゃろうしのう？」
　ニンマリと笑うメギドラを意に介さず、ザイシャは財布を取り出してレジに向かう。
「はいはい。どうせメギドラのことだから買う服はもう決めてあるんでしょ？　買ったらそれ着て出るよ」
「ちぇっ。儂の御主人様と来たら儂のことをよぅく理解しておるようじゃな……が、一つだけ間違いじゃ」
　残念そうに言いながらメギドラは試着室の奥のほうから膨らんだ紙袋を持ち上げると、中からコーデュロイのワイドパンツと暖かそうな茶色いセーターを取り出して手にぶら下げた。
「もう買っておるぞ？」
　ザイシャの動きが俄に止まった。くつくつと笑う声だけが店内に聞こえる。すぐに少し忌々しげに振り向いた彼女は得意満面のメギドラを軽く睨んだ。
「…………気が利く下僕で私も助かるよ。本当に」
「お褒めに預かり光栄至極、と言うやつじゃの♪」
　硬く皮肉っぽい口調のザイシャに向けてメギドラは愉しげに破顔する。そして、映画の一場面を真似るかのように恭しく手を差し出してみせた。
「それでは我が御主人様、デートコースへのエスコートをお願いできますか？」
「ええ。喜んで承りましょうともレディ。着替え終わればね」
　ぶっきらぼうに言いつつ遠間からメギドラの手をシッシと跳ね除けたザイシャは、店主のいないカウンターに腰掛けると、肘をついて窓の外の景色を睨むように見つめる。
　そして再びダゴニットMk-Ⅲを取り出したザイシャは端末を手の中で弄びながら、メギドラが着替えを終えるまで、不可視の境界を眺めていた。

　オルツィニー侵入から五日後。
　グランジ・ロチェスターホテルの一室。
　ダブルベッドの側面に背中を預け、眠るように目を閉じていたザイシャが不意に舌打ちした。
「ダメ、か……」
　不可視の境界線をなぞるようにしてウェストミンスターを訪れたザイシャは携帯端末──【ダゴニットMk-Ⅲ】の拡張視床(=レティナ・ヴィジョン)に投影された観測ドキュメントファイルを閉じた。
　ここ数日、観光気分そのものな調子のメギドラと共にロンドンをぶらつきながら、ダゴニットMk-Ⅲでの観測データ収集をザイシャは続けていた。が、どれだけデータを蓄積しても解析へと至らぬまま、ただ解読不能な記録が増えていくばかりだったのだから、今や彼女の胸には落胆すらも浮かばない。「またか」とばかりに溜息をつくと、ベッド脇のプラグからコードを伸ばす専用充電ケーブルへとダゴニットMk-Ⅲを繋いだ。距離が開いたことで拡張視床が自動的に終了されてザイシャの視界が開け、休眠中のメギドラの寝顔がその端に映った。
　時計を見る。時刻は標準時で午前五時。
「……結構時間かかっちゃったな」
　昨晩からダゴニットMk-Ⅲ内の記録情報のフルチェックを行っていたザイシャだったが、五日分の記録を解析、エンコード、および精査するともなればクロックを加速させ思考を並列分割しても時間はかかる。熱中、というにはやや語弊があるが(単純に一つの物事に取り組んでいたのではなく、文字通り全タスクをデータ解析作業のみに用いていたためだ)集中するうちにいつしか夜が明けてしまっていた。
　冬の北半球に位置する倫敦の窓辺からは未だ日の出は見えないが、夜空に輝くはずの星明りは、空を削り取る不可視領域の向こうから差し込んだ、朝焼け色の残照で隠されつつある。
「んー……」
　小さく声を上げながらザイシャが伸びをした。相変わらず表情への混入物は絶無。徹夜作業明けにも関わらず疲れも眠気も備わっていないようだった。
　それもそのはず。少女は姿ばかりは人間に酷似するが、本質は人ではないのだから。
　彼女はかつてグロース紋章院で鋳造された人型形状記憶合金、名を【雁来紅】(=アマランサス)とラベリングされた一種の礼装である。
　巨大なフォトニック純結晶より制作した礼装【月雫箱】を、形而上から混ぜ込まれた雁来紅の身体は鉱物に近いため、人間の肉を模倣しているものの疲労への耐性は人間よりも遥かに高く、また脳を休息させるための睡眠も必要としないのだ。つまりザイシャの伸びは【なんとなくやってみた】癖らしきソレということになる。生命体を模倣した鉱物に癖があるのも可笑しな話だが、きっと無くて七癖の慣用句が道理だったのだろう。
　そして、眠りを必要としていないのはザイシャの腰掛けたダブルベッドに横たわる青褐色(=ペイルカラー)の肌をした少女も同じことだ。ディブク、即ち悪霊と怨念の集合体が本体であるメギドラ・エイハブ・サレナの身体は既に死んでいる。小奇麗なリビングデッドが生存に必要な三欲求に駆られることはない。
　彼女は時折セックスに興じることもあるが、これも繁殖本能に刺激から生じるのではなく単なる快楽主義者の戯れにすぎないもの。本質的にはザイシャと同様に三欲求の介在から離れた場所にいるのだ。
　そんなメギドラが眠っているのは何故か。それは、矛盾するようだが必要に駆られたからである。
　食事を必要としないザイシャも物を食べる。何故なら内燃機関を駆動させるにはエネルギーを消費するためだ。内蔵された【炉】と呼ばれる魔力変換機関に物質を取り込ませることで、連続稼働で消費されたエネルギーを補っている。一般的な食事とは異なる、この比喩的捕食行為は、ある意味では食欲という形容に当てはまるだろう。人間的な三欲、食事、交尾、睡眠はザイシャには意味がないが、しかし、メギドラが霊的に再現された脳髄に報酬系の活性化を求めてセックスするように、三欲を持ち得ない不死者たる彼女らでも、比喩的に類似する特定条件下では代替として収束された疑似本能的作動を受動的に行うことがあるのだ。
　今、メギドラが眠る理由がそれだ。
　人は身体の疲労、或いは脳髄の疲労を癒やすために眠る。簡潔に形容したとすれば疲労とは欠落の一種だ。ゼロサム状態、つまり平常を万全とした場合、機能不全を引き起こす欠落が生じた該当部の活動を低下させることで、欠落の増加を減速し補完までの時間を作る役目を帯びるのが睡眠という行為であると言えるだろう。
　疲労と縁を切ったメギドラであってもエネルギー保存からは逃れられていない。活動時に何かを消費する以上は万全と不全は不死者にも存在し、欠落を補完する、或いは欠落の増加を抑制するために肉体等の活動を限りなく停止させた状態は、彼女が人の形を為すために自然、本能に刻まれた三欲求の発露と酷似する形に収束する。言うなれば【他方からは眠っているように見える状態】だろうか。
　さて、この場合の欠落の根元とは魔力不足にある。
　魂の群体たるメギドラも魔力の生産量には限度があり、魔術回路を持たない悪霊も多数内包すること、彼女が消えれば愛する悪霊たちも道連れとなることから、消費と供給のバランスには普段から気を使っている。当然、日中に多くを使えば供給量がゼロサムに戻るまで休むことになる。
　要するに魔力を消費して動くメギドラはその消費を抑えるために眠っていたのだ。
「メギドラ、起きて。作業終わったよ」
　のそのそとダブルベッドに這い上がったザイシャがメギドラを百合起こす。「んむ……」と寝惚けたような声がメギドラの口から漏れ出した。
「ふわ……終わったかザイシャ。……今何時じゃ？」
　手の後ろで欠伸するメギドラに向けてザイシャが指を五本立てる。するとメギドラが難色を示すように眉根を顰めた。
「昨晩の七時には始めておったろうに、十時間ぶっ続けとか体壊しても知らんぞお主」
「壊れたら作り直せばいいから」
「まーたこれじゃよ。全く、若者は老人の金言を受け入れんで困るものよな……ふぁう……」
　寝転がったまま、ふわりともう一度欠伸するとメギドラは身体を起こした。そして、ぱちぱちと何度か瞬きした後に、ザイシャに【止まれ】をするように左の掌を向ける。
「さて、十時間もお預けされるのはちと堪えたぞ？　のう。ザイシャ？」
　いそいそと左手を突き出すメギドラが何を求めているのかはザイシャには瞭然だった。「私も足りないんだけどなぁ……」とぼやきつつ懐から四つ折りのB4コピー用紙を取り出し、ペンを添えて彼女に差し出す。
「では今日のサインを」
「よしよし。いつものじゃの」
　メギドラが慣れたようにB4用紙を片手で開く。薄ぺらなコピー紙にはびっしりと契約の文言がプリントアウトされていた。
　不安定なベッドを台座に用紙を置いて、ボールペンの頭をノックしたメギドラは下部の署名欄に【メギドラ・エイハブ・サレナ】と二度書き連ねた。
　その用紙を手にとって数秒間確かめるように視線を動かしていたザイシャは、コクリと頷いて「受領」と一言呟き、コピー紙をクシャクシャに丸めて口の中に放り込み飲み下してしまうとメギドラの左手に右手を重ねた。
「メギドラ。指を」
「うむ」
　接触面積を増やすために合わせた手で両者の指を絡める。死体故に冷め切ったメギドラの身体にザイシャの熱が伝わっていく。
「……はふぅ、ようやくありつけた……いつもながら思うがお主の魔力供給は変わっとるのう」
「そう？」
　伝わる魔力を感じながらメギドラがしみじみと呟いた言葉、それを受けてザイシャは首をかしげた。
「ほら、あるじゃろあれ、あの……なんとか式契約云々。紙を飲み込むやつじゃよ」
「N層型多重契約方式？」
「そうそれじゃ。なんちゃら契約方式。触れるだけで魔力を移せるのはあれの力で良いのかのう」
「え、違うけど」
「……じゃあなんで儂は毎朝魔力供給前にあれにサインしとるんじゃ？」
　ザイシャは肩を竦めた。
「N層型多重契約方式は原本の写しを一定間隔で更新することで契約自体を更新せずに擬似的な複製を行い、契約書原本と同じ効力を持たせる方式だから、……って前に説明したよね？」
　呆れたようなザイシャの声。
　しばしの後にメギドラが笑顔を花咲かせた。
「くっふっふ！　儂はお主がそれで特許取っとることしか覚えとらんな！」
　満面の笑みを直視したザイシャが空いた左手で目を覆い、天を仰ぐ。
　が、今までの経験上、この年寄りは覚えようとしないものは覚えないことはわかっていたので、追求はせずに能面じみた表情を貼り付けた。
「兎に角、メギドラへの魔力供給は契約書を通してしかできないよ。アナタとパスを結ばないことで戦闘能力を削ぐことがアーサー・マイヤーの出した条件の一つだったしね。でも、これは条件っていうヒューズであって契約書自体に魔力供給を補助する能力があるわけじゃない。メギドラを縛る【レメゲトン】の契約書の機能は召喚、束縛、退去の三つしかないもの」
「ふんふむ。魔力供給は契約書が手元にある場合のみ許可、という条件が契約文に入っとったということじゃの。それはなんとなぁく予想しておったぞ儂」
「で、今は原本はアーサー・マイヤーの手元で厳重に保管されてるから代わりにN層型多重契約方式でワンデイの交換許可を貰ってます……と、そろそろ終わりでいい？　魔力？」
　車のメーターでも見ているような口ぶりでザイシャがそう尋ねた。
　ザイシャと指を絡めたままメギドラが魔力を巡らせ、二、三度感触を測る。少し物足りないが活動には十分だろう。
「……メギドラ。供給中に回路起動させるのやめてっていつも言ってるでしょ」
　手を繋いだまま、じっとりとザイシャがメギドラを睨む。
　供給している間に魔術回路を励起させると擽ったいらしくザイシャはこれを酷く嫌がるのだ。
　メギドラも時折わざと回路を動かして御猪口ってみることはあったが今回ばかりは素で忘れていたので素直に謝罪の言を述べる。
「ああ、すまんすまん。……うむ。良い具合じゃな。して、どうやって供給しとるんじゃこれ。体液交換とか性魔術とか使わんと出来んじゃろ普通」
「ん？　あ、それか」
　ザイシャが独りごちるように呟いて、口を開く。
「話せば長くなるんだけど、私の身体に混ざってる月雫箱は偽典の三の力で物質界の重量を捨てて形而上に存在させたものの影を接続することで物理的魔術的及びあらゆる概念攻撃から月雫箱内部の紋章院本部を保護していて第二の根と呼称する存在Xからの観測のみで現実に干渉する手掛りを得ているのだけどそこに接続する私も同時に観測されているから存在座標は二重写し状態でZ軸上では二つの点であるものがX軸Y軸のみでは重なるように視座からは別個のものと判断することができないから当然ゆらぎが生じてそこを突くことで復元範囲を調整したり他の物体を肉体として同時に再構成することができるんだけどこれはつまり観測点からの視界はかなりアバウトということでもあって一部のつながりなら直に繋がずとも内包することで契約を省いて代替することが出来るということでそこを私の起源と束縛魔術及びメギドラとの契約を手綱にして干渉することでサーキット同士の比喩的な意味での物理的接触を欠いたままでも一方的ながら互いの身体を一体として認識しそこから発生した魔力は透析患者の肉体に巡る血流が体外に刺された針から伝って濾過装置に伸びる管に入るように輸血ならぬ輸力状態を構築しているから魔力を動かす場合の障害となる抵抗を排除した仮定からやり取りを────」
「ストップ！　ストップ！　ストーーーーーーーーーーーーーーーップ！！」
　メギドラがザイシャの話をぶった切る。
　言葉を切られたザイシャが訝しげな視線を友人に向けた。
「なに？」
「話が……話が長いわっ！」
　急に長話を始められた聴き手として全く以て当然の言葉をメギドラが叫ぶ。
　しかしザイシャはどことなく憮然とした顔をしていた。
「話せば長くなるって言ったのに」
「許可した覚えが無いわ馬鹿者！　長話をするときは結論から言えと教わったことは無いのかお主！？」
「教わってないかなー。学校行ったこと無いし」
「じゃあ今儂が教えてやろう！　長く話さず要約せい要約！　一言で言わんか！」
「はいはい」
　本当にわかっているのかいないのか、軽い二つ返事をしたザイシャは斜め上を見ながら十秒ほど俯いた。
　そしてコクコクと頷きつつ顔を上げる。
「うん。一言にまとめると」
「まとめると？」
「魔力供給する間、メギドラを食べてる？」
「食べてる？」
「こう……丸呑みしてる、みたいな……？」
「……えっ、怖っ」
　かなり本気のトーンで引いているメギドラ。
　その目前でザイシャが存在階級だの模倣限界だのぶつぶつと呟きつつ、ああでもないこうでもないと空中でろくろを回す。
　不意にポン、とザイシャがろくろを回していた手を打った。
「わかった。要するに私がメギドラでありメギドラが私である状態になってるということ。繋がってるの。両者に境界線がない状態から熱伝導で力の流れを作ることで魔力の供給をしてる。……これならどう？」
「うむ！　最初からそう言えと思うくらいわかりやすいぞ！」
「よかった」
　言外にわかりにくいと言われたのを気にしていたのだろう。ザイシャが安心したように小さく胸を撫で下ろした。
　その幼気な安堵を見守りながらザイシャの説明を反芻していたメギドラが、突如なにかに気がついたように視線を宙空の一点で止め、くつくつと悪い笑みを浮かべた。
「ところでじゃ、ザイシャ。確認するが一時的にお主と儂で一つになることで、肌で、そう、肌と肌で触れあった場所から魔力を供給するのよな？」
　警戒心がザイシャの瞳に浮かんだ。
「……まあ、そうだけど」
「思ったんじゃがこれってつまりセッ」
「はいはい。そうですねー。……ああ。そうだ。今から私は朝食摂りに行ってくるから大人しくしててねメギドラ」
　言い終えぬうちに棒読みのような声が被さり、ザイシャがメギドラと繋いでいた手を放してベッドから降りる。
　その背中に向けてメギドラは退屈極まりないと言うような表情を浮かべた。
「うわー……腰を折った上にスルーとか。うわー……」
「なんとでも言えば？　アナタへの魔力供給でお腹減ってて老人の繰り言に耳を傾ける余裕はないから全部聞き流すけど」
「はあ……可愛くない弟子じゃのう……」
　ノリが悪い白髪の少女は我関せずと肩を竦めてキーを手に取る。
　やれやれとばかりに首を振ったメギドラ、その脳裏にふとしたように疑問が浮かんで、彼女は思うままにボソリと呟いた。
「そういえば魔力供給中に回路動かすと擽ったいと言っておったが、先程の儂の例え話に対照するとこれもしや────」
「契約に依りて命じます。レメゲトン、煩く囀る悪魔の舌を縛りなさい」
「────んぐ！？」
　束縛。悪魔契約術式【レメゲトン】の三つの効力の一つ。
　冷徹な声が紡ぐオーダーに従い、メギドラの舌が攣ったように動かなくなった。
　逆鱗に触れたか、或いは猥談の蓄積量が彼女の許容範囲をオーバーしたか。感情の色が抜け落ちたザイシャのポーカーフェイスからは判断がつかない。
　ふん、と鼻を鳴らすザイシャが退室し、扉を締めると同時にメギドラの舌が自由を取り戻す。
「……まったく。頬の一つでも染めればまぁだ可愛かろうに。本当に可愛くない弟子じゃのう、あやつは」
　楽しげに溜息つきつきメギドラはスプリングの効いたベッドに思い切り倒れ込んだ。衝撃が反発して何度か身体がバウンドし、バネがギシギシと笑っている。
「もっとも。そういう不器用さが可愛い御主人様でもあるんじゃがのー」
　愛いやつ、愛いやつ、とメギドラは破顔する。
　放っておけば仕事に戦闘にと休息知らずで、いつも血腥いザイシャは、一人前に心を殺しているが余裕を持たぬ者こそ最も危うい。
　こんな時くらいは息抜きしろと示すつもりで平常より高頻度でフザケているメギドラの親心も伝わっていないのだからさもありなん。
　こうなれば率先して引っ張ってやるしかないと思ったメギドラは、ここ五日間ザイシャを連れ回して楽しいロンドン観光に興じていたのだった。
　支え甲斐があって奴隷冥利に尽きるというものよな、とそんなことをベッドの上で嘯きながら、ザイシャが食事から戻るまでの間、メギドラは今日の予定を頭の中で組み立てていた。

　正午。アルメイダ劇場周辺の再観測を終え、とある違和感に気がついたザイシャたちは拠点としているグランジ・ロチェスターホテルに近いトラファルガー広場まで引き返していた。
　曇天の下、湧き上がる噴水の飛沫が無数に舞い散り、その雫の数と同じくらいの人々が広場の中を行き交っている。広場奥では何かの集会が開かれているようで、国立美術館の前の階段にポツポツと聴衆が並び、彼らの視線の先で熱心な身振り手振りをしている男の演説に耳を傾けている。
　その人々に紛れ込むようにザイシャとメギドラは階段の隅に腰を下ろした。
「魔術師は？」
「ディブクに探らせたが、時計塔の目はここには無いようじゃ。お主の予想通りじゃな」
「政治演説、それも下級層相手のものなんて魔術師が聞きに来るわけがないからね。あの煩い声の中ならカクテルパーティー効果も働きにくいだろうし、安心して話せそうだよ」
「他の世界から来た、なんぞ知れたら検体にされかねんからのぅ。土地勘のあるザイシャに任せて正解じゃった」
　一瞬、二人のおかしな会話に耳を止めた聴衆の数人がチラリと彼女たちを横目で見たが、ただの子供の空想話だと考えたのだろう。すぐに彼らの興味は色を失われて再び演説に集中し始めた。
　ザイシャもメギドラも小さな子供のような(それぞれ五歳と十歳前後)見掛けをしている。彼女らの矮小な体躯は戦闘時にはウェイトやスタミナの問題が付き纏うが、対して群衆の中ではこれほど有利に働くものもない。多少の違和感は【子供だから】という理由で片付いてしまうし、マナー違反も幾らかは分別のない年齢と勝手に解釈して見逃される。堂々としていれば親からはぐれたと思う者もいない。
　幼子は愚かだ、という固定観念に人々は囚われている。愚かさ故に人々は寛大さを発揮し、愚かさ故に人々は幼子の言葉を真面目に取り合おうとはしない。ザイシャとメギドラが腰掛けているのはただの階段ではない。聴衆の意識の空隙から形作られた聖域、メートル単位の厚さを持つ壁よりも強固な防音効果を伴う一種の密室であった。この密室での会話ならば秘匿回線以上に漏洩リスクを低く見積もれるだろう。
「検体はともかく。境界線を越えて不可視領域に入ったらどうなるかわからないからね。拘束されて連行されるだけでもリスクが高すぎるし。……それはいいんだけどさ、メギドラ。一ついいかな？」
「なんじゃ？」
「……なんでジェラート持ってるの？」
　ザイシャがメギドラの手元に視線を落とす。
　その手には真っ白なジェラートが握られており、先程から口元との間で行ったり来たりを繰り返していた。
「何故、と訊かれてものぅ。そりゃ買ったからに決まっとるじゃろ。流石に氷菓子程度で強盗などせんぞ儂。それともあれか？　冬に冷たいものを食べるのはありえなーい、なんて言いたいクチなのかお主？」
「そうじゃなくて……いいや、うん。……というか、メギドラ食事出来たんだね」
　ぺじゅぺじゅと音を立てジェラートを掘削する舌先に向けてザイシャが興味深そうに目を細める。
「アナタが何か食べてるの初めて見たかも」
　メギドラはコーンの上の氷山を崩す手を止めてザイシャの方を顔を向ける。
「必要に駆られぬ限り食事は娯楽じゃからの。ファルス・カルデアの限られた食料を相伴に預かる気はなかっただけじゃ。儂が食うのは魔力じゃが……お主のように炉がなくとも食べ物から魔力を得ることは可能じゃからなぁ。朝にも言うたが魔力が足りんのじゃよ今。補給できるタイミングがあるなら補給しておきたいじゃろ？」
「朝といえば、聞きそびれてたけど魔力そんなに使う機会あったっけ？」
　ザイシャが尋ねるとメギドラが悪戯っぽい顔をしてニヤリと笑う。
「ちと、備えのようなものをな。暇を持て余してこねくり回しておったら使いすぎたんじゃよ」
「ふーん。……なんにせよジェラートだけで足りるとは思えないけど」
「選びようがなかったんじゃ。冷えに冷えたフィッシュアンドチップスとの二者択一ならジェラート選ぶに決まっとるじゃろ。なんでこの国は頑なに温かいもの売ろうとしないのじゃ……」
　嘆くように首を振るメギドラに「税金かかるからねー」とザイシャが呟く。
　メギドラはジェラートを一舐めして、
「まあ、休日だからという理由もある。わざわざ海を渡ってスペイン広場に行くわけにもいかんし階段はあり物じゃけど、向こうと違ってこっちは飲食禁止ではないからの。ジェラート食べれるだけトラファルガーのほうがそれっぽいじゃろうて」
　休日。つまり映画【ローマの休日】の有名な場面。オードリー・ヘップバーンがスペイン広場でジェラートを食べるシーンのことをメギドラは話していた。
　が、ザイシャは不可思議そうな顔をしている。どうやら伝わっていないらしい。
「なんじゃ。知らんのかローマの休日」
「……小説とかは読まないから」
「映画じゃよ」
「映画も見ないかな」
　肩を竦めるザイシャ。メギドラは溜息をついた。
「薄々わかってはおったが、お主仕事以外に趣味ないじゃろ」
「敢えて言えば、あー、今はメギドラが趣味かな」
「結局仕事じゃろうがそれ。本当に無趣味じゃのー」
「メギドラが多趣味なだけでしょ」
　ザイシャはぶっきらぼうに突っぱねた。
「くっふっふ。かもしれんな。長く生きておると暇を持て余し、自然と色々と手を出してしまうものじゃ。今でこそ無教養なお主もそのうち良さがわかるじゃろう」
「教養がつくとジェラートが食べたくなるわけ？」
「無知でもジェラートは食べて良いのだぞ？　ほれ」
　そう言ってメギドラがジェラートをザイシャの顔に近づける。ザイシャは渋面を作った。
「……フレーバーは？」
「ホワイトチョコレート。冬限定フレーバーじゃ」
「そ。じゃあ食べたくない。チョコレートは嫌いなの」
「ほう……」
　面白そうに、メギドラが唸るような声を出す。
「チョコレートが嫌いとは珍しいのう」
「別にチョコレートだけが嫌いなわけじゃなくて、そもそも甘いのがダメ。私刺激に強いから辛さと香りは感じにくいの。オマケに構造上、糖への依存性が限りなく薄いから多幸感とは縁遠いし。フレーバーわからないと全部同じ味でベタベタ甘いだけだから食べてると憂鬱になってくる。特にチョコレートは舌に纏わりつくからイヤ」
「ふむ、しかしザイシャ。お主チョコレート常に携帯しとるじゃろ？　ご丁寧に溶けないタイプ。てっきりチョコが好きなのかと思っておったぞ」
「甘味は一部の地域だと通貨代わりに使えたりするし、その点では携帯性が優れているチョコレートは打って付けだもの。色々と練り込んでも香りで隠せるから、魔力への変換効率を良くして緊急時の携帯食として併用することも可能だしね。アイテムとして便利だから携帯してるけど……自分では食べたくはないかな」
　ふむふむとメギドラが大振りに頷いた。
「相わかった。しかしじゃ、ザイシャよ。これはあまり甘くないぞ？　ジェラートじゃからすぐ溶けるし」
「む……」
「色々理由つけとるが甘味が嫌いなだけじゃろ。お主、やろうと思えば嗅覚の鋭敏化だのなんだのお茶の子さいさいなんじゃろう？　つまり単なる食わず嫌いに近い。先入観に囚われるのはいかんぞー？　見識を広めるためじゃ。ほぅら、騙されたと思って食うてみんか」
　ずずい、とジェラートがザイシャの口元に寄せられる。
　及び腰になったザイシャは迫りくるジェラートから逃げようとしたが、メギドラは互いの距離自体を縮めて壁側に白髪の少女を追い詰める。そして、とうとう観念したのかザイシャがおずおずと小さな口を開いた。
「そぅら。あーん」
「……あーん」
　ザイシャはメギドラに促されるままにジェラートに唇を這わせて小氷山の一角を削り取る。
　もぐもぐと何度か咀嚼し舌の上で転がすと、わざとらしく音を立てて口中のジェラートを嚥下した。
　ちゃんと飲み込んでおろうな？　とメギドラが尋ねると、んべっとザイシャが舌を出して口の中を見せた。並びの良い乳歯の内側は空っぽだった。微かに白く染まった舌の先にミルク色の雫が集まって行く。
「して、感想は？」
「……騙されたつもりで、と前置いた場合って大抵は騙されることになるよね」
「くっふっふっ！　言えとるのう！」
　呵呵と笑うメギドラの隣で「うぇぇ……」とザイシャが嫌そうに舌を出した。次いで懐から小さな薬包を取り出して舌の上に空けると口の中に擦り付け始める。薬包の中身はシアン化カリウム。俗に言う青酸カリだ。百人はゆうに殺せる量の毒物も不死のザイシャには無害同然。スモモのような爽やかなアーモンド臭で口に残るベタつく甘さを中和する清涼剤として使われていた。
　そして、袋一杯の青酸を飲んだ後もまだチョコレートの後味が残っているのか、もにゅもにゅと口を動かしながらも、ザイシャが改まったように口を開いた。
「本題に入ろ。ジェラート片付けてしまってねメギドラ」
「応ともさ。あ、食べてる間に話し始めて良いからな」
「お言葉に甘えて。さてと、アルメイダ劇場でも話したけど少し気になることがあった」
「ふぃふぃふぁふほほぉほふぁ？(気になることとは？)」
「不可視領域と交差倫敦を遮る境界線、あれ、どうやら少しづつ交差倫敦に近づいてるみたい」
　メギドラがジェラートとコーンの混合物を胃袋にしまい込む。
「近づいている、とな？」
「うん。録画映像からのスナップショットと比べると三日前よりも五メートル近く交差倫敦側に境界線が移動してる。他の場所も数箇所確かめてみたけど、どこも等しい間隔で不可視領域を拡大してた」
「……不安定なんじゃろうなぁオルツィニーは。進行速度を鑑みればホテルまでは届かなそうじゃが」
「それが、そうとも言えなさそうなんだよね」
　ザイシャがダゴニットMk-Ⅲの物理ディスプレイからファイルを選択し、メギドラに見せる。
「これは？」
「各日の境界線の移動量、なんだけど……」
「見事にバラバラじゃのう……」
　境界線の移動に共通することは唯一つ。必ず不可視側から交差側へ移動していることだけだった。
　他に法則性らしきものは見つからず、まさにお手上げといった具合だ。
「拠点を変えることを考えたほうがいいかもね」
「寝とる間に不可視領域に飲まれるとか笑えんからなぁ」
　不可視領域。観測不可地帯。
　それは他の世界からの異分子である彼女たちには見えない世界。
　踏み入れば何が起こるかわからない。最悪、存在そのものが消失する可能性もある。
　アーサー・マイヤーが発したオーダーの第一条件は生還。ここで敢えてリスクを踏むメリットはないだろう。
「郊外に待機させたダゴニットMk-Ⅰまで退避したほうが良いか？」
「そこまではしなくていいと思う。Mk-Ⅱはロチェスターから移動させないといけないけどMk-Ⅰまで戻る必要は無いよ。移動力はあるから順次対応することにして今はテムズを渡ってブリクストンまで下がろう。あの辺りは私も詳しいし」
「ブリクストン、というと確かお主の古巣じゃったかのう」
「うん。治安はまずまずだけど私みたいなのが紛れ込むのは楽なところだよ。移民が多いからそっちのルーツの魔術師なんかも結構集まってるし、フリーランスのメッカみたいなポジションだからモーテル探すのも簡単だと思う。ええと、後は……ああ、マーケットだとメギドラの好きそうな呪術系の触媒とかよく置いてあるよ」
「むっ。……良いぞ良い良い。実に退屈と縁遠そうではないか。くふふふっ。やはりツアーガイドを頼んで正解だったわい」
　くつくつとメギドラが笑う。ザイシャはダゴニットMk-Ⅲからマップを網膜投影しながら立ち上がった。
「優先度が高いのは取り敢えずこれだけ。先に移動して後は向こうに着いてから、ということで」
「承知した。となればまずはホテルを引き払わねばのう。……あっ、そういえば昼食はどうする？」
「ブリクストン着いてからで。メギドラも食べるなら私の行きつけの店を紹介するよ」
「ほうほう。それは楽しみじゃな……。お主の勧めというからには碌な店ではなかろうぞ。さては人肉料理店ではないじゃろうな？」
「違いますー。フツーの多国籍料理店ですー。ほら、早く行くよメギドラ」
　演説は佳境を迎えたか、トラファルガー広場の真ん中で声を張り上げる弁舌滑らかな男の顔は酸欠で真っ赤になっていた。彼の言葉に聞き入る聴衆の間を縫ってザイシャが階段を降りていく。
「ああ、これこれ、置いていくでない」
　慌ててメギドラも腰を上げて足早なザイシャの後を急ぎ足で追う。階段を降り切ったところでザイシャは振り返ってメギドラを待つために立ち止まった。
　境界線の移動という思わぬアクシデントもあったが禍転じて福。倫敦の中心街を歩き回るのも飽きが訪れた頃だ。異国情緒の薫るブリクストン行きは楽しみでならない。
　今まで気を使ってやった分、今度はザイシャを観光案内として存分にこき使ってやろうと、そんなことをメギドラは思っていた。
　ふと、その思考を甘い香りが遮った。
　風に乗り漂うチョコレートの香り。
　その中に隠された僅かな臭い。鼻につく金気。甘いガンパウダー。そして、研ぎ澄まされた殺意。
「────伏せろザイシャ！」
　メギドラの本能が警報を鳴らし死した肉体は自動的に戦闘に適応する。こもった魔力が蹴り足を強化し、階段を飛び降りる勢いのままメギドラはザイシャを押し倒した。
　直後に刹那の一重で弾丸がメギドラの青褪めた表皮の直上を掠める。
　狙撃。
　流れ弾ではない。地面に跳ねた弾丸はザイシャを狙ってのものだった。
「……メ、メギドラ？」
「しっ。動くでない。どうやら、狙われておるようじゃ」
　文字通り目と鼻の先で困惑する赤い瞳を嗜め、メギドラはザイシャに伸し掛ったままディブクを飛ばす。
　魔術師が使い魔を用いる時のように左目で視界を共有したメギドラはすぐさま【彼女】を発見した。同時に驚愕によって見開かれる。
「な……！」
　彼女は身の丈を越える大きさの狙撃銃を構えていた。
　決して銃が巨大なのではない。彼女がとてつもなく小さかったのだ。
　見掛けの歳は五歳前後。真っ白な長髪をミリタリー色の交じる意匠を施されたコートの中に収めていた。
　欠食童子と見紛うほどの細い腕は狙撃銃へと次弾を装填し、次いで懐から出したチョコレートを包み紙ごと口の中に運んだ。
　メギドラは右目でザイシャを、左目で彼女を見る。驚愕の理由は両者の姿がこの上なく酷似していたからだ。
『外したか……』
　共有された聴覚から聞こえる声はどこか風化したような印象を受けたが声質はやはり瓜二つ。
　そう。狙撃手の正体は、ザイシャ=アンディライリーだったのだ。
　何故？
　脳裏に疑問の泡が湧き上がる。
　現れる何故は、ザイシャがザイシャを狙う理由に向けた【why】なのか、何処のザイシャなのかと問うた【who】なのか、或いはその両方なのか。
　メギドラにわかっていることは唯一つ。あのザイシャが自分たちに敵対する存在であることだけであった。
　そして、戦闘の薫香に猛る思考と、堂々巡りする問いによってメギドラの死角に入った違和感が一つだけ。
　ザイシャを狙撃したもう一人のザイシャ=アンディライリー。
　その瞳はメギドラが食べていたジェラートのように白濁した霙色を浮かべていた。

第二節　明日と現在の交差

　絶句。
　転がるように隠れた遮蔽物の後ろでメギドラの状況説明に感情の薄いザイシャもポーカーフェイスを剥ぎ取られた。純粋な驚愕が目の奥で露わとなっている。
　無理もない。今の彼女には少なくとも三つの不可解が渦巻いているはずだ。
　第一の不可解は動機。ザイシャはオルツィニーのザイシャと出逢ったことはない。接点がない。ならば殺意を向けられる理由がどこにもない。仮にもザイシャと同一人物なら見ず知らずの他人に近い相手を、それも食べもしないのに殺すような非合理性を持ち合わせるはずがない。ならば何故彼女はザイシャを狙ったのか。
　第二の不可解は所在。トラファルガー広場は見通しが良い。それは狙撃手にとって今のザイシャが格好の的と言うことだが、逆に言えば射線からおおよその位置取りは把握できてしまう。しかしメギドラが操るディブクが射手を発見したのは予測範囲から大きく外れた場所にあった。これでは直線──より正確に言えば直線に近い曲線を描くはずの弾丸が、直角に近い角度を曲がってザイシャに放たれたことになる。ならばその弾はどこから、或いはどうやって撃ったのか。
　第三の不可解は方式。狙撃手がザイシャならその身体に宿る不死についても知るはずだろう。たかがライフル弾程度で死ぬわけがない。ならばどのような目的から単なるフルメタルジャケット弾を放ったのか。
　仮説に近い解は浮かぶが明確な答えは出ない三問の不可解。しかし仮説を再構築する時間さえも与えられずに新たに第四の不可解がザイシャの目の前に現れていた。
「……メギドラ、気づいてる？」
「ああ。これだけあからさまではな」
　盗み見るように遮蔽物から顔を出したメギドラの視線の先には、銃弾が飛来したことを忘れたような何食わぬ顔が演説を続けていた。……いや、違う。忘れたのではない。そもそも気がついていないのだ。
　ザイシャを押し倒したままのメギドラの姿を誰も意に返さぬのが一つの証左となるだろう。子供は目立たないが、しかし転倒した子供なら話は別だ。平時なら善良な市民の誰かが彼女らを助け起こしに来るだろう。トラファルガーを歩く者全てが悪人揃いだとしても意識さえしていないというのは不自然すぎる。よって導き出される答えは一つだった。
「実に高度な結界じゃ。魔術的反応を表に出さぬまま、彼奴め、一帯の認識範囲を完全に制御しておる。民衆には銃声も聞こえてなければ儂らの姿も見えておらんじゃろうな。ザイシャ、お主この結界について何か知っとることはないのか？　同じ自分じゃろ？」
「全く。私結界とか作るのあまり得意じゃないし。まだメギドラのほうがわかるんじゃないかな」
　不可解。まったくもって不可解だった。
　故にこの場では有力かつ脅威度の高い仮説を元に行動する。
　第一の推量は現段階では適わぬため省く。
　第二の推量は狙撃手が戯曲『魔弾の射手』の七発の弾丸のような魔術を用いる仮説。その場合の発動トリガーは、狙撃手がスコープを覗いていたことから視覚に基づくものと予想される。
　第三の推量は弾丸の的中をトリガーにした魔術式が組み込まれていた仮説。マーカーで彩色し確実に本命を放つか。或いは弾丸をケーブルの代替として接続し、こちらにハッキングを仕掛けてくるか。どちらにせよ、当たればろくなことにはなるまい。
　第四の推量は第一と同じく判断材料が不足しているが、トラファルガー広場を覆うものが結界とすれば対抗策は結界破りのそれに準ずる。基点の破壊、魔力供給源の断絶、そして範囲外への逃亡。
　四項の推量から両名が選択した方針はトラファルガー広場からの脱出だった。
　狙撃手とアドバンテージ差が大きく開いている現状では立ち向かうだけ徒労。状況の打開を戦闘に求めるのは小石を積んで大河を堰き止めようとしているも同じだ。そもそも、戦いに臨んだとしても、こちらに勝利条件はないのだ。ザイシャとメギドラの目的はオルツィニーの観測にあり、狙撃手の排除は一切の利益を齎すことはないだろう。迎え撃とうとした時点で敗北か、無為な消耗かの二択を迫られることになるのだから。
　即ち、付き合うだけ無駄。
　以上より導き出される最善は直ちに狙撃手の射程距離圏内を脱し、以後のアクションに基づいた対応策を練ることであろう。よって、刹那の機を得るため、許される限りの最長の用意を以て最高のカードを彼女らが持つ手札から切る。
　メギドラは警戒心と回路の循環を強めて戦闘に備え、狙撃手を監視するもの以外のディブクを結集させる。その隣で腹部を切り開くザイシャは、内臓を欠いた空洞から溢れる血溜まりの中を探り、一振りのワスプナイフとライフル弾のようなものを取り出す。白く、金属光沢を持つそれを、慎重な手付きで身体から少し離れた場所に置いたザイシャが、
「コードA573MQ52-C1、形態記憶改竄」
　そう呟くやいなや白い弾丸を中心に石畳が半球状に抉り取られ、その後、一瞬遅れて同じ色をした拳銃が曲面を滑って底へ落ちた。ザイシャはワスプナイフの先をトリガーガードに引っ掛けて器用に拳銃を手元に寄せると、再び腹部を裂いて内部を探り、取り出した血まみれの弾倉を白い拳銃に叩き込んだ。
「ザイシャ」
　メギドラが短くザイシャの名前を呼んだ。小さく首肯してそれに応える。
　チャンスは一度切り。
　コンビネーションは問題ない。後は相手が乗ってくるか否か。
　ザイシャは小さく深呼吸すると中腰に立ち上がってメギドラに確認の視線を送る。その先でコクリと頷きが返された。
　「────【強まれ】」
　一節の詠唱に揺り起こされたサーキットが爆発的な加速で魔力を巡らせ、循環の先で魔力を推力に変えたザイシャの蹴り足が地面のスレスレを滑空する。
　コンマ一秒の浮遊の中で身体をよじり仰向けになったザイシャは上空目掛けて拳銃を構え、そう機能を定められた機械のように僅かな乱れも無くトリガーを絞った。
　サイレンサーを噛まされた銃口は軽い破裂音を残し、旋条痕を辿って回転する弾丸が空中で弾ける。散弾のように拡散する破片が空を喰らい、プログラミングされた通りに網目のついた球状の姿へと膨れ上がって再び弾けた。
　特殊形状記憶合金、SH.ME.EL.には補食と呼ばれる性質がある。内蔵記憶形から欠損や湾曲によって異なる形に変化した際、周囲の物質・魔力を取り込むことで自身を本来の形状へと修復するのだ。
　この性質を応用したのが先程ザイシャが取り出した白い弾丸である。
　白い弾丸はSH.ME.EL.から作られたものだ。これに外部からハッキングしセルフイメージを書き換えることで補食を発生させ、その場で新たな形状へ創り変えたものがザイシャの握る拳銃だった。
　そして、彼女が撃ち出した弾丸もまたSH.ME.EL.から作られたもの。
　────三層型SH.ME.EL.収束散弾。
　通称、消却砲。
　多数の子弾をバラ撒くクラスター爆弾のように、二段階に渡って破片に周囲を補食させて爆発的に弾数を増加し、孫弾へと一斉に補食行動を起動することで一定範囲に存在する物・人を消し去る特殊弾である。
　ザイシャの手ずから発明された消却砲は下手に撃てば使い手を巻き込み喰らい尽くす諸刃の剣だ。特に孫弾の拡散範囲は風向きや火薬量、ライフリングの長さ、手のブレ、空気抵抗、その他諸々の無数の要素で容易に変化し、コントロールは不可能に近い。よって孫弾が行う第二補食にはセーフティが掛けられており、リアルタイムで補食を命じる必要があった。このような理由から消却砲の本来の用途は、子弾の第一補食による近距離攻撃、或いは地面に孫弾を散らして踏み込んだ敵対者の足先を消し飛ばすトラップ設置の二つに限られる。
　が、ザイシャが消却砲を放った目的はそのどちらでもない。
「コードA573MQ52-W6、形態記憶改竄！」
　ザイシャは数百の孫弾に遠隔ハッキングし、白い弾丸から拳銃を作った時のようにSH.ME.EL.内部のセルフイメージを書き換えた。第二補食を開始した孫弾がリライトされたイメージに従い、互いを飲み込み繋がりながら新たな形状を構築する。
　それは、巨大な金属箔だった。
　結界の影響か、誰一人と見上げる者無きトラファルガー広場の空を覆うように展開された薄紙のようなSH.ME.EL.は、風に舞い上げられ皺を作りながら浮き上がる。その下の、ザイシャとメギドラの姿を覆い隠して。
「メギドラ！」
「わかっておる！」
　サーカスの天蓋のような金属箔によって空間と電磁波(=レーダー)に目隠しが施され、一帯は人工的死角、不可視の領域へと変化した。その中をメギドラが駆ける。
「同胞よ、塞げぇい！」
　メギドラの号令と同時に、各所に待機していたディブクたちが弾かれるように散開し、周囲に高密度の呪いの気配を漂わせる。
　塞ぐ。その命令の真意は構造解析などを用いた魔術的な探知のジャミング。中点を悟られぬため円周ではなく敢えて不定形不規則に飛ばしたディブクたちがトラファルガー広場を霊障の轍で彩り、中空の数箇所は魚眼レンズを通したように歪められ、噴水は時を戻したように逆流し、腐り落ちた果実のような甘ったるい香りが生温い風に揺らされ、ラップ音がけたたましく鳴り響いた。
　これなるは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、物理的、魔術的、間接的、観測的、その全ての情報探知を妨害する複合密室結界【目隠しの砦】(=スパンデュール)。
　彼我が空間的に離れている限り【目隠しの砦】は莫大なカオスの振れ幅によって未来視をも潜り抜け、その下に隠された秘密を暴くことは不可能に近い。効力が減衰する三分後までに【目隠しの砦】の護りを破れるのは透視(=クレアボヤンス)の力を持つ超能力者の他には存在しないだろう。
　たった三分。されど彼女たちが逃げるには十分すぎるほどの時。
　しかし。
「なるほど。確かに合理的な判断。合理的な技だ。……が、私には通用しないよ」
　チョコレートの香りが鮮烈に匂い立ち、ザイシャの後ろから放たれた銃声が薫香を切り裂いた。
　頭部が弾け、頭蓋の破片を撒き散らしながらザイシャが地に倒れる。
　その向こうには片腕で狙撃銃を構えた狙撃手、もう一人のザイシャ=アンディライリーの姿があった。
「馬鹿な？！」
　メギドラが狼狽のあまり叫んだ。
　彼女の動揺は今も監視役のディブクと共有された視界から生ずるものだった。
　左目に映る光景の中で、今も狙撃手は不動の姿勢でスコープを覗いている。
　が、その姿が不意に解け、石灰色の砂山となって崩れ落ち、水に砂糖を落としたように陽炎のような存在の痕跡を残して消え去った。
　絶句するメギドラへ無感情な声が種明かしする。
「優秀な使い魔か、或いはカメラか。どうやって見つけたかは知らないが、それはただの囮(=デコイ)だよ。撹乱のために脱ぎ去っていた肉体(=コート)だ。気づかなかったかい？　本物の私はずっと側にいたのを」
　この中にね、と狙撃手はザイシャのポケットから取り出したダゴニットMk-Ⅲをプラプラと振ってみせる。
　中にいた。
　つまり彼女はあの中に隠れ潜み、たった今現実に帰還し肉体を再構築したと言っているのだ。
　確かにそれなら唐突な出現にも説明がつくだろう。
　つくだろうが、それは詭弁だ。何故なら……
「ありえ、ない……！」
　その言葉を顔の右半分を吹き飛ばされたザイシャが即座に否定する。
　第一に肉体を物質界にて人間が生存するために必要なマテリアルと定義しよう。
　ザイシャが保有する『偽典・第三呪詛』は決して万能ではなくデメリットも有る。こと、無限再生による肉体と魂の結びつきは牢獄と形容してもいい。
　彼女の肉体はSH.ME.EL.に似る。一定以上の肉体の損壊、もしくは魂の遊離を検知した場合、内蔵魔力を呼び水にして強制的に肉体を再構成する。
　しかし欠片と残さず消し飛ばされたSH.ME.EL.が、補食するための破片さえ失ったことで再生できずに消失するように、ザイシャの肉体もまた、魂と魔力の二要素が揃っていなければ復活できない。
　されど、それは物質的存在を拒絶する電脳世界では不可能だ。そもそも、電子的虚構はあくまで共感覚幻想に基づく幻。本質的には隙間のない空間であり、計算領域の間に出来た虚無である。肉体を構築しようとも出力するための場所がない。
　ゼロ・スペースの空白は一切を有さず、また持ち込ませることはないだろう。電脳への適性が並外れているザイシャであろうとも、物理法則からは逃れられない。肉体はネットワークから入力された幻覚症状を脳髄に伝達することのみを許されているのであり、自身、つまり魂が長く引いた尾の先端の在り処は常に肉体。ちょうど飼い犬の首輪に繋がるリードを伸ばすようなもので、魂自体は移動していない。
　ここで霊子ハッカーの極限、ウィザードを例としよう。彼らは魂を物質化させるが、彼らの肉体は現実に残り、魂はホームたる実体と繋がり続けている。そして彼らが纏うアバターは肉体ではなく情報。共感覚幻想を用いた五感の刺激パターンだ。彼らの肉体は主観的意味での肉体でしか無く、物質、実体としての肉体を劣化させた模倣体に過ぎないのである。
　電脳世界とは計算結果を物質界のクオリアに従う共感覚幻想へと翻訳することで生み出された虚構であり、虚構とは物質界と相反する世界。電脳世界とは観測者と名付けられし【有】が介入を行わねば存在を許されず、脳髄の後ろで発された【在る】と誤認に基づく実りなきディアスポラ。概念そのものを手に取ることができないように、物質存在は電脳の中に産まれないのだ。
　或いは、もしも電子的虚構のゼロ・スペースに肉体を構築出来る者がいたとすれば可能となるかもしれない。
　だが、それこそ【ありえない】のだ。
　無から有を為す。それは第一魔法の範疇。魔法使いならぬ狙撃手に使えるはずがないのだから。
「……中にいた？　それは破綻してる。【無い】場所に居ることができるわけがない。あり得るわけがない！」
　狙撃手の種明かしをザイシャが強い口調で詭弁と断ずる。
　すると、狙撃手はザイシャの顔をまじまじと見つめ、
「……ああ。そうか、キミはまだ【偽典】の段階か」
　と、思い出したように呟き、新たに一枚のチョコレートを舌の上に載せた。
「────じゃあ、これはどうだ？　CB-VLSNC4KNV3」
　何かの文字列を口で羅列した狙撃手が指を鳴らす。パチンッ、と破裂音がした。
　その破裂に続いて刹那、何もなかったはずの空間に工具箱が出現した。どこかコミック調に歪んだツールボックスにはカートゥーン風の兎マークが描かれている。
　は？　と間抜けな声をメギドラが出さずに済んだのは既に当惑の内にいたからだろう。代わりに言葉を失ったのは、今程に狙撃手の言葉を真っ向から否定したザイシャの方だった。
「キミなら、この意味がわかるだろう？」
「コニーズ……ブロウ……？」
「付け加えるなら、私は偽典じゃない。ジピィズィア=アンケル・バジュロンステ。────【正典】だ」
「……ま、さか……。そんな、嘘…………」
　何かに気圧されるようにザイシャが後ずさる。
　力の抜けた膝が【く】の字に折れ曲がって、ザイシャはヘナヘナと割座で座り込んでしまった。
「ど、どうしたのじゃザイシャ。何に驚いておるのだ！」
「……………………」
　うろたえ口を開け放しにするザイシャの身体を、一足早く我に帰っていたメギドラが揺さぶる。
　しかしザイシャは目を見開いたまま何のリアクションも見せず、唖のように黙りこくっていた。
　ザイシャの心情を知ってか知らずか、他人事のような目の狙撃手────ジピィズィアがもう一度指を鳴らすと工具箱が消え、彼女は改めて銃を構え直す。
「くっ、兎角、一旦引くぞザイシャ！　ザイシャ！　────ザイシャ！」
　ジピィズィアの接近に急かされメギドラが乱暴にザイシャの肩を掴むが、その身体は根が生えたように動かない。
　痺れを切らしたメギドラは彼女の脇の下から胸へと手を回し、無理矢理抱き上げる。
「逃がすとでも？」
　ジピィズィアがメギドラに向けて銃を構える。照星は彼女の頭部をきっちりと収めていた。
　だがメギドラは傲岸不遜に鼻を鳴らしてみせる。
「ふん。逃がす逃さぬを決めるのはお主ではなく儂じゃ。確かに儂らは不覚を取った。じゃが、儂らの逃走経路は【目隠しの砦】が成立した時点で何人たりと阻むことは出来ん────わいっ！」
「っ？！」
　メギドラは隠し持っていたザイシャのワスプナイフをジピィズィアの持つ銃に向けて投擲した。ナイフとストックがぶつかり、金属音が大きく響き、反動で銃口が跳ね上がった。
　その音に驚いたのか、ジピィズィアが能面のようだった顔を少しだけ強張らせフリーズする。
「今じゃ！」
　号令一下。密かに再結集させていたディブクがポルターガイストでザイシャを抱いたメギドラを空中に引っ張り上げる。
　等間隔に配置されたディブクは順々に二人を引き寄せ、まるで見えないワイヤーフックで吊られているように滑空させていく。
　ジピィズィアは咄嗟に銃を構えて撃ち落とそうとしたが、
「……まあ今はいいだろうさ。どうせコイツを取り返しにやって来る」
　そう言いながら銃口を下ろし、ザイシャから奪い取ったダゴニットMk-Ⅲを手の中で投げてキャッチした。

　テムズの川岸近くの川面にぶくぶくと気泡が浮き上がっていた。
「ぷはっ！」
　その下から顔を出したのは果たして、ジピィズィアから辛くも逃げ延びたメギドラであった。
　緊急脱出故に上手く狙いを付けられずテムズの流れのド真ん中に墜落した彼女は、ザイシャを抱えながらなんとか川の中で泳ぎ、やっとのこと川岸に辿り着いたのだった。
　ロンドン・アイ(テムズ川の川辺に設置された巨大な観覧車)近くの船着き場からなんとか這い上がると、観光客らしき人々が遠巻きにメギドラを見ていた。メギドラは彼らに愛想笑いをしながら、今の自分の惨状に向けて溜息を漏らした。
「あーあー。折角の服が台無しじゃわい。コインランドリーで洗うだけじゃ汚れ落ちんじゃろこれ絶対」
　びしょ濡れの裾を絞って水気を切り「新しく買うしかないかのう」と独りごちる。そして、ふう、と息を長く吐いて座り込んだメギドラは、横目でザイシャの表情を盗み見た。
　彼女の顔が青くなっているのは決して体温低下のせいではないだろう。ピクリとも動かずに口の中で何かを病的にブツブツと唱え続けているザイシャは、いっそメギドラよりも死人に似た表情をしていた。
「それで」
　メギドラが口火を切る。
「端的に聞こう。ザイシャ。コニーズブロウとはなんじゃ？」
　コニーズブロウ。
　ジピィズィアが虚空から取り出した物を見てザイシャが呟いた言葉。
　おそらく、ザイシャが今まで見たこともない真っ青な顔をしているのもコニーズブロウが関わっていることだろう。
　故にメギドラは尋ねる。が、ザイシャは相も変わらず俯いたまま。虚ろな眼差しに浸っている。
「ザイシャ！」
　メギドラがザイシャの両頬を手で挟み、無理矢理自分の方を向かせる。「……あ」と声が漏れてザイシャの瞳に仄かな光が戻った。
　どうやら自分の世界から戻ってきたようだ。メギドラは安堵混じりの溜息をついた。
「ごめん、メギドラ。聞いてなかった」
「わかっておる。何やらショックを受けたようじゃったしの。茫然自失としておったのは、まあ仕方がない。此度は許そうとも」
　が、とメギドラは言葉を切ってザイシャを睨む。
「お主がまた同じことを繰り返すようならば舌を絡めたキスを、それも、もう滅茶苦茶に情熱的なやつをしてでも話を聞かせるからの。前後不覚になろうものなら貞操を覚悟しておくんじゃぞ？　わかったな？」
「な、なんでキス……」
「ショック療法じゃ。それともセックスの方が良いか？　儂は構わんぞ」
「……あー。うん。それは、どちらも勘弁願いたいかな」
「なら、ちゃぁんと人の話に耳を傾けることよな」
　いつもの下ネタ論法の成果かザイシャは心なし落ち着いたようだったが、それでも普段の苛立った反応からは程遠く、覇気のない表情同様、感情の薄い声もひどく弱々しい。
　しおらしく愛想笑いを作ってみせるザイシャの姿に、メギドラは心中で「重症じゃな」と呟いた。
「さて、だ。状況を整理する必要があるじゃろう。だからもう一度尋ねる。ザイシャよ、コニーズブロウとはなんじゃ？　お主は何故あれを見て止まった？」
　少し逡巡し、ザイシャがポツポツと答え始める。
「……コニーズブロウは、私が作ったプログラム言語。特殊で支離滅裂なアルゴリズムを使ってるから解読できるのは私だけ。あの私もそれを使っていた」
「ふぅむ。他の世界のお主なら使っていてもおかしくないように思えるが」
「そこはいいの。問題は、彼女のコニーズブロウが十文字のコードで作られてたこと。……あれは、洗練されすぎている」
「どういうことじゃ？」
「私が使っているコニーズブロウは基本的に二千万字のコードで成立してる。本体には五十字も必要ないけど、周囲のマトリクスに馴染ませるために余剰がいるの。仮に私だけが使うマトリクスがあったならこの五十字以外は必要がなくなるだろうね。だからあれはおかしい。現実でプログラムを使ってるとかそう言う以前に、たった十字だけでマトリクスに適応してる事実が異常なんだ。……これは私の予想だけど、彼女は一人で一つのネットワークを構築してる。彼女自身が構造体で、だからこそマトリクスに馴染ませるための余剰を必要としない。存在だけをフォーカスした視点から見れば電子的虚構も現実も共感覚幻想に繋がる面では同じ、私達が画面の向こうに隔絶を感じるのは物質界と幻想の段差であって、主観的事実の中であれば在るという事実はどちらも変わりはないもの。多分あれは影で本体はもっと広大な────なに？」
　ちょいちょいと肩が叩かれてザイシャがメギドラの方を向く。人差し指が頬に突き立った。
「長話は？」
「……端的に」
「よろしい」
　メギドラが指を離すと、考えをまとめようとザイシャが小さく深呼吸した。
　そして、数秒の後に改まった様子で結論を紡ぐ。
「ねぇ、メギドラ。トラファルガー広場に張ってあった結界のこと覚えてる？」
「む？　うむ。覚えているが」
「あれ結界じゃない。私達は多分、彼女の身体を結界と勘違いしてたの」
「…………は？」
　ぽかんと口を開けて呆気にとられる。
　ザイシャは溜息をついて「そういう反応だよね……」と嘯いた。
「あの場で得た情報を分析すると半径三十メートル前後の球状の【空間】が彼女の正体。比喩的に言えば私達が相対した彼女は、その球状空間が見た夢。私達はその夢を共有した状態にあったんだ」
「む、むむ？　待て……つまり幻ということか？」
「ううん。夢はあくまで例え話だから。一番近いのは、そうだな……メギドラの身体かな。メギドラを例に出すなら【空間】に対応するのは、悪霊の群体である本体。私達が見ていた彼女はメギドラが使ってる依代に対応するよ。メギドラと違うのは、存在という概念が成立しているなら依代を現実でも非現実でも作り出せること、かな」
「あ、あー……なるほどなるほど。うむ。なんとなくわかったぞ。あれじゃ。あのザイシャは、えー、確かジピィズィアだったか。要するにジピィズィアはマリオネットで、されど本体と感覚や経験を同じくするということじゃろ？」
「そういう絡繰りだと思う。九分九厘」
「で、お主は自分が人外どころか単なる空間になっていることにヘコんでおったと」
「……………………」
　ザイシャは非常にわかりやすく目を逸らした。
　ポーカーフェイスにも関わらず、あまりに容易に感情を読み取れてしまったメギドラが苦笑する。
「わっかりやすいのう、お主は」
「…………うっさい」
「まあ気持ちはわかるぞ儂も。霊ならともかく空間というのはなぁ……」
　うむうむ、と頷くメギドラの隣で、いじけたようにザイシャが抱えた膝に顔を埋める。
「…………それで、ね。コニーズブロウが洗練されすぎているって言ったでしょ？」
「うむ。覚えておるぞ」
「あの私は交差倫敦の私なんかじゃない。………………未来の私」
「そう、か……」
　上手い言葉が浮かばず、尻すぼみに相槌を打ってメギドラは川面を見下ろす。
　ザイシャが不死に甘んじながらも、その実、人であることに強く拘っているのはメギドラもよく知っている。
　そんな少女が自分の末路とも言える、人外の極地に至った未来を目にして精神的にショックを受けるのは当然のことだろうとメギドラは理解出来ていた。
　彼女は強い。折れず、曲がらず、ストイックな姿は清廉さを覚えるほどだ。
　だが、その強さはガラス細工の強さに過ぎない。
　折れず、曲がらず。逆に言えば、折れることも曲がることも出来ない。真っ直ぐに走ることが出来なければ、彼女の心は砕け散る。余裕が無いのだ。
　メギドラがザイシャに対して度々老婆心を起こしてしまうのは、同じ不死者のよしみという以外にも、彼女の危うさが気になってしまう故のことだった。
「死にたかったから昔の私を殺そうとしたのかな、やっぱり……」
　ボソリと、ザイシャが独り言のような声でそう言った。
「……あーもう！　うじうじするな戯け者！」
　その背中をメギドラが渾身の力で殴りぬく。「がふっ！？」と妙な声がした。
「え。なんで殴、ゥウッ！？」
　もう一発追撃する。ザイシャの言葉が途中で身体ごと吹き飛ばされた。
　予想外の全力パンチ、しかも二回攻撃のそれに当惑し、こちらを上目遣いで見るザイシャの前で、仁王立ちしたメギドラは腕組みした。
「良いか！　未来のお主がどうなろうと儂の知ったことではないわ！　が、お主もそれは同じじゃ。未来なんぞ幾らでも分岐する。お主もああなると誰が決めた？　少なくとも、あれと違ってお主には儂がおるじゃろ。儂ならあんなつまらん現象に派生するなど許さんわい」
　ザイシャの襟首を掴んで、ぐっと顔を近づける。
「……なぁ、舐めるなよ小娘。儂が今お主と共にいるのは、不死と人の間で藻掻いておる癖にそれを隠した気になっとる馬鹿な娘を余興とし、永遠の無聊の一時を慰めるために決まっておろうが。努々忘れるでないぞ。儂はメギドラ・エイハブ・サレナ。世界の全てを、生きとし生ける全てを呪い続ける終着点無き怨恨の具象。存在だの空間だのなんだの知らんが、諦めて別の物に成り果てるなら興醒めにも程があるわ。その時は、すぐさま魂を呪い潰しディブクとして取り込もうとも。無論お主に拒否権など無い。生き延びたければ精々人であれ。出来なければ儂がお主の永遠に幕を下ろす。わかっておろうな？」
　目と鼻の先でザイシャの瞳の怯えが僅かに和らいだ。
　それはきっと他人から見れば普段と変わらぬポーカーフェイスに見えるのだろう。
　しかしメギドラには、この無表情な友人が、喜びの中で微笑みを湛えているように見えたのだ。
　世話の焼ける、主人にして弟子にして友人の彼女を抱き寄せ慰めるように背中を叩く。
　耳元から小さな囁き声が聴こえた。
「…………わかってるよ。ありがと、メギドラ」
「戯け。そこは怯えるポイントじゃろうが。礼を言われる筋合いなど無いわ」
　メギドラもまた、口元には静かな微笑みが浮かんでいた。

「さてと」
　瞠目していた瞳をぱっちりと開いたメギドラは、冷静さを取り戻しつつあるザイシャに尋ねる。
「お主も落ち着いたところで本題じゃ。ジピィズィアに奪われたダゴニットは如何にする？　一応、Mk-Ⅲには予備が一つあるじゃろ。無理に取り返す必要はないが」
　ザイシャはいつもの冷たい顔でゆるゆると首を振る。
「それはダメ。あの端末には五日分の観測記録が入ってるもの。境界線の侵食を分析するには間違いなく必要となる。取り戻さないと」
　メギドラは肩を竦めた。
「相変わらず、不真面目なくせにこういうところは頑なじゃのう」
「仕事ってそう言うものでしょ？　私の受けた依頼は観測と試験。契約を結んだからには履行する義務と責任が生じるんだから」
「わかったわかった。お主に付き合ってやろうとも。どうせ一蓮托生じゃしの。好きにせい」
「うん。ありがと」
「それは良いとしてじゃ。が、どうやって奪い返す？　その、なんじゃったか……ああ、そうじゃそうじゃ。電脳にダゴニットを持ち込まれておったら、仮に奴を倒したとしても儂らは手出しできんじゃろ？　こちらの言を聞かせるのは難しいのではないか？」
「いや、それはない……と思う。メギドラは見ていただろうけど、彼女は電脳に侵入した時に旧来の肉体を現実に残してた。多分、私と本質は変わらなくて、存在を再構築する度に新しい肉体を作り出してるんだと思う。コニーズブロウを現実で使ってたのも同じ理屈じゃないかな」
　ザイシャとジピィズィアは進度こそ違えど同じ【雁来紅】だ。
　あの球状空間がザイシャの行き着く果てだと仮定すれば、第一に着目するべき相違点は拡張性。
　例えばグランジ・ロチェスターでメギドラに魔力を供給した時のように、一時的に肉体の範囲をブレさせて、一定範囲を自分の肉体として扱うようなことは現在のザイシャにも可能だ。また、彼女が普段身に付けているボロ布のような衣服も、自身の筋繊維で織り上げたことから肉体の一部としての拡大解釈を可能にし、再構成時は肉体と共に新たに複製されるようにしたものだ。
　これを突き詰めたものがジピィズィアの能力だろう。
　三万六千π立方メートルの空間を己が肉体と解釈し、その内部にセルフイメージを投映して触覚たるマリオネットを配置することで、内蔵したクオリアを保ったまま移動型侵食固有結界を成立させるのだ。
　彼女がコニーズブロウを現実で使っていたのも基部となる理屈は衣服の復活システムと全く同じ。結局はそれを応用したものに過ぎない。ちょうどSH.ME.EL.の形態記憶改竄のようなものだ。球状空間内に出力される肉体イメージをコニーズブロウによって書き換え、これによって好きなデザイン──素材、質量、密度、形状、動作、概念、蓋然性──の【肉体】を結界内にプリントアウトしているのだ。
　つまるところ、ジピィズィアは物質と電子的虚構存在をコンバートしているのではなく、行き来する度に新たに肉体を刷り直しているのである。
「だからダゴニットは現実世界に残ったままだと思うよ。それだけは保証する」
「ふぅむ。まず第一段階クリアというところか。少なくとも可能性は生まれたじゃろうて」
　頷きながらもメギドラは次の懸念を口に出す。
「奴の居場所は？　取り返す手立ての具体案は？　奴の周囲三十メートルに近づけば感づかれるのであろ？　ダゴニットを破壊するならともかく、取って戻ってくるなら接近は必定じゃ。それをどう捌く？」
　ザイシャの仮説が正しければジピィズィアの正体は移動する力場のようなもの。
　球形の陣地に踏み込むのは彼女の肌に触れているにも同じだ。
　範囲外からの攻撃なら対抗策は幾らか浮かぶだろう。だが、ダゴニット奪還のためにはジピィズィアの荒唐無稽な侵食固有結界に侵入しなければならないのだ。
「何より彼奴の用いるコニーズブロウ……ありゃ無茶苦茶じゃ。一小節で事象や物質を発生させるなんぞ真祖の【空想具現化】のようなものじゃろアレ」
「……カスタマイズ出来るだけもっとタチが悪いかも」
「じゃろ？　……のう、言っても良いかザイシャ？　アレと相対して勝てる自信がないぞ儂。ギリギリ生き延びれるラインを越すか越さないかじゃぞ」
「多分高ランクの浄化も再現できるよ」
「越さんかったかー。ライン越さんかったかー」
　うむ、とメギドラが冗談めかした素振りで力強く首肯した。
「さぁて！　それではザイシャ、ブリクストン観光に行こうか！　いやはや、実に楽しみじゃなぁ！」
「メギドラ。さっき協力するって言わなかった？」
　やれやれと肩を竦めるメギドラが「ふっ」と鼻で笑う。
「冗談じゃよ。しかし、お主に勝算がないなら前言は撤回するぞ。針の穴を通すような僅かな可能性のためにハイリスク・ローリターンに張るつもりはないからのう」
　おどけるような一言目の後、スッと言葉調子が冷え切り、真剣な眼差しのメギドラがザイシャの瞳を覗く。
　彼女の紫色の瞳は、展望も見えていないなら引っ張ってでも連れて行くと言外に伝えていた。
　その思いを汲み取りつつザイシャは首を縦に振った。
「わかってる。もちろん策は考えてるよ。────アレを【倒そう】、私達で」
　倒す。
　その言葉を耳にした瞬間メギドラの睫毛の先がぴくりと動いた。
　そして、彼女は込み上げる感情のまま、くつくつと小刻みに身体を揺らす。
「……倒す、倒すか。くふっ。大きく出たではないかザイシャ？　儂でも勝てそうにないと言っておろうに、話を聞いとらんのか。……良いぞ、良い。これだからお主といると退屈しない！」
　三欲を欠いたメギドラの相貌に第四の獣欲、即ち貪欲な戦闘本能が哮り、瞳の中で獰猛な火の粉が嵐のように瞬いた。
「それでは、作戦を聞こう御主人様(=マスター)。くれぐれも儂を落胆させてくれるなよ？」
「無論、退屈だけはさせないつもりだよ。お師匠様」
　そう言ってザイシャは不敵な表情を浮かべてみせた。

　ぱしゃり。水音がした。青褐色の身体が跳ねた。
　ぱしゃり。水音がした。ザイシャの顔が飛散した赤黒い飛沫で彩られる。
　水音。水音。水音。水音。水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音水音。
　川面を風が叩いたように、メギドラの身体がバシャバシャと跳ね、水音がする度に弾ける。ぐらりと崩れ落ち、ザイシャの前でメギドラの存在感が急速に薄れていく。
「もう随分昔の話だ。ウィザードというのは兎に角、厄介でね。電脳世界では多少の肉体的損傷は意味を為さない上に、ほぼ全員が強制離脱(=ベイルアウト)プログラムを組み込んでいるから、殺しても殺しても戻ってきてキリがないんだ。だから、昔考えたことがあった。ホームに繋がるパスを辿って現実の肉体を破壊し、それから電脳体を殺せばいいんじゃないかと。試してみたら効果覿面だったが……少々やりすぎてね。ビアフラ連邦にハッキングを試みる者を殺し尽くして私の仕事もなくなってしまったんだよ。笑えるだろう？」
　昼のトラファルガー広場でザイシャはジピィズィアの弾丸に何らかの特殊効果が付与されていると仮説を立てていたが、果たしてそれは正解であった。
　弾丸に穿たれ、再生したはずの彼女の頭部に奇妙な穴が空いていた。正方形の穴は淡い燐光から形成されており、役目を終えた今はその形をゆったりと解かせていて、消えゆく穴の奥にはザイシャの脳髄ではなくガンメタリックの銃口が僅かに覗いて、四十発の弾丸を撃ちきったオリンピックアームズOA-93が真新しい硝煙を燻らせている。
　『侵食基底・枷』(=ワイアードギアス・チェイス)
　ジピィズィアが編み出したウィザード殺しの魔弾。
　物質界に眠る実体を理を跳躍して電脳世界の内側から狙撃するそれは、マーキングした者を銃眼へと変貌させ、簡易砲塔として利用することをも可能とした。
「メギ……ドラ……？」
　死臭と血溜まりを残して消えた友人の姿をザイシャが探す。
　空を掻く手は瞼の裏に幻視したメギドラの残像へと伸ばされたもの。
　理解の追い付かない、目まぐるしく渦巻く困惑の中で、何度も辺りを見回してみる。メギドラは見つからない。
　代わりに現れた背後の気配はコニーズブロウで生成した小ぶりな自動小銃を放り捨てると、背負っていたPSG-1へと持ち替えて、下っていたコッキングハンドルを慣れた手付きで引いた。
「手強そうだとは思っていたが、まさか、その子が悪霊だったとは予想だにしなかったよ。悪いが、キミに仕掛けた『侵食基底』のパスを通じて盗聴していた。ありがとう。これも不死だからと油断し被弾したキミのおかげだとも。念には念を入れ、Aランク相当の浄化効力を持つ弾を三ダースほど撃ち込ませてもらったから、そのリビングデッドもきっちり浄化されてくれたことだろうね」
　ガチャガチャと音を立て、チョコレートと油と金属臭さが距離を縮める。
　茫然自失としたザイシャに向けて、ジピィズィアが片腕で狙撃銃を構えた。
「さぁ、キミの相棒(=バディ)は死んだ。これで厄介な手練(=アデプト)はいない。……残るはキミだけだ、第三の【偽典】」
　あ、とザイシャが小さく声を漏らした。
　現実が追いついて神隠しと血溜まりが等号で結ばれる。わかってしまったのだ。全て。
　隙を突こうとしてブラフに掛かり返り討ちにされたこと。
　初めからジピィズィアの掌の上だったこと。
　メギドラがジピィズィアに殺されたこと。
　初めて出来た大切な親友を永遠に失ったこと。
　そして、……その全てが己の落ち度で招かれたのだと言う事実を。
　紅の瞳孔が揺らぐ。
　喉を締められたように少女が喘ぎ、砕け散ったポーカーフェイスの向こうから大粒の涙が溢れ落ちる。
　不可視が可視を飲み込むオルツィニーの夕暮れ、テムズの流れに悲痛な叫びが谺した。

第三節　至らざるべき不可視の国で

　不可視領域の拡大、つまり境界線の侵食について漠然とした一つの予想があった。
　ジピィズィアとの交戦後、遠くにあったはずの境界線はサマセット・ハウスのすぐ側まで勢力を広げていた。
　その際、不意にザイシャは考えたのだ。この境界線を動かしているのは自分たちではないのか、と。
　不可視倫敦は漂白された世界から観測出来ない。が、そもそもだ。並行世界とは本来観測出来るものではない。可能なのはトップクラスの千里眼や第二魔法の使い手。千年以上の時を掛けて作られた礼装である紋章院の第二呪詛。その程度のものだろう。アトラス院のズェピア・エルトナム・アトラシアであろうと観測に限りなく近い計算に留まる。漂白された世界に浮かぶファルス・カルデア【程度】が観測できるはずもない。
　要するにファルス・カルデアが観測できている現状こそが異常であり、本来のオルツィニーは不可視倫敦同様に見えなくて然るべきものなのだ。
　さて、アーサー・マイヤーが便宜上の名付けを行う以前の【NearSide】(=こちら側)、【FarSide】(=あちら側)、【BackSide】(=裏側)という区分がオルツィニーの分類上最も適している。これを踏まえて前提条件を整理しよう。
　第一に、オルツィニーとは不可視の領域と観測可能な領域を内包した状態にある【FarSide】のグレーター・ロンドンを示す名称である。
　第二に、オルツィニーは下層に不可視倫敦、上層に漂白倫敦を持つ、【NearSide】と【BackSide】の緩衝地帯である。
　第三に、オルツィニーは両世界から独立した【FarSide】世界にあるが、不可視倫敦の属する【BackSide】と融合しつつある。
　第四に、不可視倫敦とは現ファルス・カルデアの観測範囲を離れた【BackSide】に属している仮定存在である。
　第五に、不可視領域は【FarSide】のグレーター・ロンドンに存在する、不可視倫敦からの影響を受けた観測不可区域であり、不可視倫敦と等号で結ばれることはない。
　第六に、交差倫敦はオルツィニー内の可視化された領域を意味し、不可視領域から独立した存在である。
　第七に、漂白倫敦の存在する【NearSide】は、オルツィニーの【FarSide】と不可視倫敦の【BackSide】が異なる世界であるように、オルツィニーの所在とは似て非なる世界である。
　以上から導き出せる結論は一つ。
　道理は逆だ。【異物は不可視倫敦ではなくオルツィニーに繋がった漂白倫敦】なのだ。
　先程、ズェピア・エルトナム・アトラシアを例に出した。彼は算出によって過去や平行世界を再現する超人的技巧を持つが観測者ではない。なぜなら観測と算出には大きな差がある。もし、ファルス・カルデアの研究チームの面々がそれが何かと問われれば、観測が可能性を収束させ事象を確定してしまう点に触れるだろう。
　そう。観測者は事象を確定させる。そして、二重写しの不可視倫敦へ収束するはずだった交差都市を【オルツィニーとして確定してしまった】のが漂白倫敦、現ファルス・カルデアという観測者であったのだ。
　おそらく、混沌都市たるオルツィニーと漂白倫敦が繋がったのは単なる事故だ。何かの弾みで繋がってしまった両世界は本来ならすぐに分かたれるはずだった。が、そこで現ファルス・カルデアが観測し漂白倫敦が繋がったままの状態で確定されてしまった。その結果が二分されたオルツィニーの風景。即ち、正常故に漂白世界からは観測不可能な不可視領域、漂白倫敦からの影響を受けたことで未だ統合されぬままの交差倫敦、この二景だ。
　オルツィニーに何があったのかはわからないが、おそらくは【FarSide】と【BackSide】のグレーター・ロンドン、いやさ【FarSide】と【BackSide】自体が融合しつつあり、新たな一つの世界となろうとしていたのだろう。内部は蛹の中身のようにドロドロと取り留めのないもので、方向性を決定づける成虫原基を作っている最中にあった。そこに横入りして成虫原基を与えようとしたのが漂白された世界だった。
　しかし【NearSide】の倫敦は厳密には【FarSide】や【BackSide】の倫敦とは違うもの。何より、漂白されてしまっている点で甚だしく異なる。従って【FarSide】及び【BackSide】の修正力が働き、一時的に世界の統合を低速化し、【NearSide】に近い【FarSide】で影響を留めて【NearSide】の影響を排した正しい形へと少しづつ変化させていったのだと考えられる。
　修正力はその世界を正常な様態に戻す自浄作用を有する。管で繋いだバケツに注がれた水が同じ高さで揃うように、異常を常態によって拡散させ均一な形に戻すのである。それではオルツィニーの異常とは？
　回答は漂白倫敦及び漂白倫敦の観測手。そして漂白倫敦概念を固着させる異邦人、ザイシャとメギドラである。
　世界を肉体に例えた時、異邦人は病原体へと言い換えることができるだろう。彼女ら病原体が活発になるほどに免疫の役目を冠する修正力も活性化される。
　それは増加に依る物ではなくコンピューターのタスク処理に似る。放置できない敵対者を発見したことを切っ掛けにリソースの割り振りを先鋭化させるのだ。
　この場合の指針は観測の遮断と異邦人の排除。前者は境界線の進行速度の増加だ。その根拠も五日目までの観測データからザイシャは見つけていた。
　オルツィニーでは星光や登り沈む太陽光の遮られ方が境界線の接近に同調するかのように変化していた。それが気にかかったザイシャが演算した結果、予想通り、上空の可視範囲も狭まっていることが発覚したのだ。同時に、境界線が直線ではなく限りなく直線に近い曲線であることも導かれた。即ち、交差倫敦は半球状の境界、境界球とでも呼べるものに覆われた空間なのである。
　観測範囲を一定に絞り込み、また、修正を済ませカオスの海に戻した区域を更なる観測から守る境界球。その進行は観測者の影響を削ぎ、一定の範囲に【追い込む】。
　さて、追い込むとは何のために？　答えは酷く明瞭だ。つまり、第二の指針。白血球。マクロファージ。アクティブな免疫。病原体が潜んでいるなら排除してしまえばいい。少なくとも世界にとっては異物というだけで排除してしまうに十分な理由を持つのだから。
　それでは、掃除屋として免疫の一助を承った誰かとは即ち────

「……心折れた、か」
　ジピィズィアが銃口を下ろす。
　慟哭の果て、虚ろな瞳のザイシャの精神は崩壊した。もはや観測者として用を為すまい。
　狙撃手にとって最も厄介なのが彼女だった。ザイシャの不死性はジピィズィア自身、身をもって理解している。彼女を無力化するには拘束か、より確実性を目指せば精神破壊が必定であった。ジピィズィアからすればメギドラの脅威度はそう高いものではない。少なくともリソースは有限。いつかは殺せるだろう。それにも関わらず細心の注意を払ってメギドラを葬ったのはザイシャへの精神的苦痛を考慮してのことだ。彼女がメギドラに少なくない依存心を表しているのは読み取れた。そこを突いてやれば見ての通り。ジピィズィアという未来を見せられた時から揺らいでいた心に最後の一押しを加えられたわけだ。
　ジピィズィアには霊的存在を感知できない。群体存在のメギドラが魂を遊離させてしまえば対抗手段が無くなってしまう。故に餌を撒いてセント・ジェームズ・パークに誘導し、全力を尽くし立ち向かわんとしてディブクを集合させたメギドラを浄化したのだった。
　策は成功。これで自分にも用はない。しかし、ジピィズィアは首を傾げる。観測者を始末次第空間は閉鎖し町並みは二重写しのものへと塗り替えられるはずだ。だが、どうしてか空は未だ分割されていたのだ。
　その疑問を解いたのはジピィズィア目掛けて振り下ろされた一閃だった。
　ジピィズィアの首が刎ねられ宙空の視界から殺害の凶器を捉える。
　それは一振りのワスプナイフ。艶消しされたガンメタリックが妖しく煌めき、その先から赤々と見開いた殺意の眼差しが発されていた。
　首が半径三十メートルの球体から飛び出し灰へと変わる。灰が舞い散る中でジピィズィアの姿が像を結んで新たな肉体を纏った。
「友達を殺された怒りか？　その解釈は間違っている。死なせたのはキミさ、偽典」
「うるさい！」
　腹中から更に一本のワスプナイフを引き抜いたザイシャが勢いのままジピィズィアに斬りかかる。
　だが、激昂が裂いたのは残像。溶けるように砂に変わった霙瞳の一歩後ろでは、また新たな肉体を作ったジピィズィアが無表情な顔をザイシャに向けていた。
　憎悪を滾らせたザイシャが駆ける。ジピィズィアはやれやれと肩を竦めながら指を鳴らした。
「仕方ない。────CB-ANGHL3U7TW」
　ザイシャの前に数十の銃口の衾が現れ、一斉に火を噴く。
　咄嗟に跳躍で弾幕を潜り抜けると、またパチンと音がして背後に同じ銃口が出現した。
　パチン。パチン。パチン。
　フィンガースナップがリピートされる度にコピー&ペーストのように弾幕が現れた。
　それをジグザグと避けながらザイシャは加速、ジピィズィアの背後に回る。
「CB-3GH5LBRAWF」
　瞬間、ジピィズィアの頭上にザイシャの持つそれと酷似するワスプナイフが実像を得て、二ダースばかり展開されたそれらは見えない台座でもあるかのように自ずと空中で静止した。
　ザイシャのナイフならばシアン化水素が装填されており、刺さった目標の肉を爆散させながら致死量の毒物を血中に侵入させる。しかしジピィズィアは毒など甘いことは言わない。
「射出」
　号令に合わせ空中に浮いていたワスプナイフたちがトリガーを作動させる。毒ガスの代わりに装填した宇宙塵────真エーテルが純粋なエネルギー波に変換されてザイシャを襲う。
「がッ！」
　二十四の光波に圧殺され、衝突でもみくちゃになったザイシャの身体は大型トラックに跳ね飛ばされたように大きく宙を舞い、数個のパーツに分かれながらセント・ジェームズ・パークの芝生跡に落下した。
　されどザイシャは死んでいない。この程度では死なない。今も彼女の身体は元通りに再生しようとしている。
　だからこそジピィズィアは追撃を緩めない。心が折れないと言うなら苦痛に砕かれるその時まで無限に殺し続けようとも。
　フィンガースナップは幾度となく鳴らされて、その度に現れたワスプナイフが光線銃のように二十四条の光線を撃ち出し、ビルの屋上から数トンのコンテナを地面に叩きつけたような轟音を放っていた。
　四十八。七十二。九十六。百二十。百四十四……
　光の弾幕は二十四を乗算し続け、砂埃さえも灼き貫いた光波の着弾点では地響きのような音が立てられ続けていた。
「そろそろ、か」
　最後に破裂音を一打ちすると更に二十四条の光波が爆発し、その後、やがて立ち込める砂埃が収まっていく。
　その中心は、まるで巨大な爆弾を爆発させたように深い穴が大地に刻み込まれ、土が焼け焦げた臭いが漂っていた。
　これだけの破壊の痕を残しても尚、ザイシャは未だ生きている。再生速度は落ちているが確実に肉体を修復しつつある。
　燃える瞳はただただ憎悪に彩られてジピィズィアを睨みつけており、未だ朽ちるビジョンが見えない。
　手強い相手だ、とジピィズィアは心中に呟く。
　そして、同時にザイシャもまた口には出さず言葉を浮かべた。
『おのれ……まだかザイシャ！　儂のような大根役者では程なく絡繰りを読まれるぞ！　あといい加減痛い！　この身体超痛いんじゃけど！』
『ごめん、メギドラ。もう少しだけでいい。持たせて。その間に掴む』
『くははははははは！　嫌になるくらい奴隷に厳しいご主人様じゃなぁ！』
　ヤケクソのように念話で叫んだザイシャ────正確に言えばザイシャが脱ぎ捨てた古い身体に憑依したメギドラ・エイハブ・サレナは、二本のワスプナイフを手に吶喊した。

　話は数時間前に遡る。作戦を聞こうとしたメギドラに突如念話が通じた。
『メギドラ、聴こえてる？』
　その声は聞き慣れたザイシャのもの。メギドラは思わず驚愕のままに唇の動きを止めた。
　が、ザイシャがそれを視線で僅かに咎める。
『ダメ、喋りながら念話で会話して』
『う、うむ。わかった。じゃが何故パスを結んどらん儂らで念話が出来とるんじゃ』
『魔力供給のこと覚えてる？　あれの応用。今、私とメギドラは二重人格みたいなものになってて、拡大解釈された肉体で擬似的にパスを結んでるの』
　ザイシャの肉体は、とある一点からの観測によって補強されているというのは以前にもメギドラに話したことだ。
　あの時は接触した身体の境界を曖昧にすることでパス無しで魔力供給を行った。しかし、今のザイシャ爪の先一つさえメギドラに触れていない。非接触時まで広げることが出来たのは何故か。その解答がメギドラにはなんとなく察せられた。
　ザイシャは【視】た。己の進化系。自身の力の一つ結末を。
　手習いの子供がいるとしよう。理屈だけを習っているのと、理屈を知る上で実際に目の前で手本を見せられるのでは覚えが違ってくるだろう。同じ理屈だ。本来なら百年の流浪の果てに我流で辿り着くはずの力の一端へと既にザイシャは小さな手を届かせていた。
　同時にメギドラにはその覚悟も見て取れた。彼女が自身の未来形に動揺し、怯えを見せていたのは真実だ。それでもザイシャは毒をもって毒を制そうとしているのだ。故にメギドラは真摯に応える。手始めにザイシャの手が僅かに震えているのは見ないふりをして。
『……ふぅむ。便利なもんじゃのう。で、なにゆえ念話をしたのじゃ。驚かせたかったわけでもあるまい』
『今の会話は高確率で盗聴されている。普通じゃない特殊なやり方、念話で話す必要があった』
『会話が盗聴されておる根拠は？』
『私が同じ立場ならそうするから』
『ならほどのう。ならば間違いない』
　ジピィズィアはザイシャだ。
　経験の差は段違いでも本質は変わらない。ザイシャはザイシャ。同じザイシャならある程度だが思考をトレースできる。
『盗聴を回避しとるのを気付かれた可能性は？』
『低い。彼女は私を【偽典】と呼んだから』
『どういうことじゃ？』
『私のコードタグは【星辰鋲"第三呪詛・逆流"】(ジピィズィア=アンケル・バジュロンステ)だけど、これはグロース=アンディライリーの【呪歌六節】プロジェクト内での呼び名であって【雁来紅 Type-1】が事実上の分類になる。偽典というのはあくまで【雁来紅】が持つ二十三の発生段階が正常に進行しているかを総括的に示したものに過ぎないの。グロース=アンディライリーが正典と定義しているのはステージ23、つまり最終段階のみ。偽典という言葉はあまりに多くを含んでいるから私をそう呼ぶことがまず間違っている』
『それを知らんということは……』
『うん。彼女は力の使い方は熟知しているけど用途や製作目的は知らないはず。【だから死体を消す】。【だから銃を撃つ】。根本的に人の常識に囚われているから自ら出力の方法を狭めているの』
　侵食基底。
　言うなればそれはイメージに依存した力だ。想像の通りに物質を創出し、思うままに実像と虚像を行き来する。だが、イメージというのは人に埋め込まれた理、即ち、【認識】からの制限を逃れられない。或いは価値観、常識と言い換えることも可能なはずだ。この事実はジピィズィアが肉体の不全、虚弱性を改善していないことが顕著だ。
　空間のない電脳世界に物質として存在する非常識を為す彼女が何故五感を正常化していない？　何故走れぬ足を治さない？　答えは簡単だ。彼女は抱いているセルフイメージを払拭出来ていない。思い描く虚弱な自分の姿で自縄自縛している。
　そして、想像力に従うなら想像を越えたものを顕すことは出来ないだろう。虚弱の躰を己と信じ、健常の己を理解できぬがためにジピィズィアは不自由に囚われたままなのだ。
　ジピィズィアが現実に出現したとき、古い身体がメギドラの視界から消えた。
　ジピィズィアが呼び出したコニーズブロウが彼女の半径三十メートルを越えた途端灰となって消えた。
　これらはザイシャから見れば異常現象だ。死体もコニーズブロウも物質界に受肉したからには質量と体積を持つ物体。誰かが手ずから壊さぬ限り残り続けるものだろう。それがザイシャの【常識】だ。
　だが、ジピィズィアの【常識】では消えるものなのだ。彼女には現実と電脳の境界が無く、電脳では観測領域を出たマテリアルは消失するのだから。
『発生段階について私が知ってるのはグロース=アンディライリーが南米に所有する金庫に隠されてた物理資料を暴いて漁ったから。ネットワーク上の隠しデータベースで知ることが出来るのは偽典と正典、外典のダミー分類のみ。間違いなく知識量では紋章院の作品資料を読み込んだ私のほうが上だよ。出来ることもね』
『では彼奴の【こにーずぶろー】のようなことも？』
『それは無理。単純に習熟度が違いすぎるもの』
『じゃよなー』
『コニーズブロウどころか、結界規模に肉体を希釈することも難しいよ。というかアレはどう足掻こうが私には無理じゃないかな。メギドラ、固有結界ってわかる？』
『うむ。無論じゃとも』
『別々の人間の固有結界が一致することって少ないでしょ？　魔術として受け継ぐ特殊例はあるけど心象風景をコピー&ペーストして同一の固有結界を作ることは出来ない』
『つまり、お主も同じということか。お主の能力は想像力と認識、詰まるところ人生の積層から芽生えた価値観が物を言う。人の性格なんぞコロコロ変わる。故に千差万別。同一人物でも青年期と老年期で固有結界の色味が変わるように、お主もまた経験の質と量と性格のアベレージに縛られる。そういうことじゃろ？』
『正解。……悔しいけど私はグロース=アンディライリーのデザインから本質的には乖離できていない。想定を乖離しプロジェクトから外されて【敗軌物】(=ブラジェーニア)になった彼女と違って物質的な境界を無視するのが難しいだろうね。将来的にも自在に出来る範囲はかなり限られると思う』
『今は？』
『それ以下。精密に動かせるのは自分の皮膚下までかな。このままだと勝算はない』
　だから、と前置いてザイシャが面を上げた。
『メギドラ。時間を稼いで。私はアナタを攻撃する彼女を見て学習する。対抗できる下限まで届かせてみる』
『それがお主の作戦か？　なら儂は返答しよう。【無理】じゃ。彼奴が儂らの会話を聞いておったなら儂が悪霊ということも知れておろうよ。浄化の手立てを用立てられれば抵抗する暇もなく消えるのがオチじゃ。対案はあるか、ザイシャ』
　厳しい声でメギドラが告げるとザイシャが頷く。
『おそらく、彼女は霊的な性質を判別できない。今までの行動から視覚への依存度が高いのはメギドラもわかってるはず。で、彼女の瞳はSH.ME.EL.製だから浄眼の機能はない。ディブクへの反応も薄かったからほぼ確定と考えてもいいかも』
　ザイシャは人を殺し、霊を食う魂喰い(=ソウルイーター)。食性の都合、自らを改造して霊視を身に着けている。しかし、ジピィズィアは違う。そもそも食事を必要としていない。彼女がメギドラを判別する手段は魔力量と実体のみ。よって、メギドラの抜け殻に魔力を集めればジピィズィアの認識を欺ける。
　表面上は会話を続けて偽装したままメギドラは密かに納得する。霊視が持たないなら浄化のタイミングは限られる。リスクは大幅に減少するだろう。第一項目はクリアし即却下のラインは越えた、が、まだ足りない。メギドラは指摘を続ける。
『それだけでは論外じゃ。機会が少ないといえ、彼奴はその一瞬に致死の一撃を注ぎ込めるだけの能力と経験を持っておる。僅かな隙を晒せば終わり、そんなハイリスクローリターンにベット出来てたまるか』
『うん。私もそう思う。……というわけで。メギドラ、一回死んで』
『……………………は？』
　思いもよらぬ回答に絶句したメギドラは思わずザイシャの正気を疑った。
　ザイシャは正気そのものといった瞳で言を続ける。
『メギドラもディブクだし他の死体にも取り憑けるでしょ？　私が今の身体を捨てるからそっちに取り付いて、今メギドラが使ってる身体を囮にしよう』
『…………一度死ぬとはそういうことか。確かに向こうの浄化の手掛かりは儂の実体だけ。じゃったら、デコイを浄化すれば儂を浄化したと思い込むはずじゃ。同時に此の場にいるザイシャが儂の取り憑いた偽物である事実からも目を逸らせる。うむ、確かに勝算が見えた。……じゃが、未だ半分じゃな。死体に憑いたとしても儂の修復能力は再生速度ではお主に劣る。これは如何とする？』
『非接触で接続可能になったから再生力を死体側に残したまま身体を新造できると思う。グロース=アンディライリーの資料がソースだから信頼性は九分九厘』
　実に嫌そうに、心底嫌悪している相手をこの上なく信用する自分を皮肉るようにザイシャが展望を述べた。
『アナタが取り憑いて動かす身体をコチラから再生させるから、そこからはアナタの演技次第。あとは物凄く痛いくらいだけどこっちは我慢して。それで、コンメディア・デッラルテに挑む自身の程は？』
『役者は昔に齧っとった、ここまでお膳立てされれば舞台で恥を掻くなど恐れるまい。……それより物凄く痛いってほうが気になるんじゃが。……何されるの儂……？』
　沈黙。
『…………………………。まあ、それは置いておいてだけど』
『ははは。……露骨に流しおったわ此奴』
『盗聴器プラス発信機が付いた、この私の身体ならメギドラが中にいるなんて思わない。雄叫びでも上げて斬りかかってればきっと、アナタが死んで激昂したとでも思ってくれるはず。なんとか彼女を引き付けて欲しい』
『儂が協力するのは確定事項なのかのう？』
『好きにしろって言ったでしょ？』
『はぁ……わかったわかった。どうせ何を言っても聞かないんじゃ。彼奴に一泡吹かせるために尽力するほうが退屈せんじゃろうて』
『ありがと』
『しかし、最後に一つ尋ねておこう』
　メギドラが怯えも震えも欠片と感じたことも無さそうな────少し前まで震えていたはずの白い手に目線を落としてジト目で言った。
『どうせブリーフィング以前にも盗聴対策交えとったんじゃろ？　ついでに、儂の情を誘って巻き込むためにのう』
　ザイシャは猜疑心が強い。思い返せば、メギドラにある程度心を開いたからと言え、心をあそこまで開くのは不自然だ。つまりそれはジピィズィアに敢えて聞かせ、彼女の行動を制限するためのブラフであり、メギドラを操作して自分の求める結論へ落とし込むための演技で。
　まったく、どちらが役者なのか。メギドラが毒づく。
『────して、どこから演技しておったんじゃ？　なぁ、この狸娘』
　すると、ザイシャが素の笑顔で微笑んで、
「さあ、どこからでしょう？」
　とぼけたようにそう言ったのだった。

　視る。視る。視る。
　ジピィズィアの一挙手一投足をザイシャは視る。
　理論は解している。フリーランサーとして仕事をこなしながら世界各所のグロース=アンディライリーの足跡を辿ったザイシャは【呪歌六節】について世界で二番目に通じている。足りないのは実感、つまり感覚だ。故にジピィズィアの戦いを視る。公式を使いゼロから答えを導き出すのではなく、他人が手本に並べる数列を目で追って、計算を組み立てる順序立った工程を一種の論理として覚え込むように。記述様式がわからずに遮二無二羅列しているザイシャ=メギドラの姿と対照しながら、ただ、視る。
　侵食基底、即ちジピィズィアが我流のみで辿り着いた境地は、グロース=アンディライリーの想定という観点から評価するなら間違った進化だ。
　彼女の技術は対人戦闘に特化しすぎている。それはジピィズィアの過去がそれに相応しいものだったからだろう。生者と有限の不死者を削り尽くし、殺戮に最も適した方策を用いて弑するコニーズブロウの数々は【無駄が無い】。いや、【無さ過ぎる】。人型のモノを殺す為に必要なだけの、規模と、火力と、手段。そして、億の戦場に死して尚余り有るほどの真なる不死。彼女の侵食基底は第一にザイシャに許された出力形式とは掛け離れており、そして第二にグロース=アンディライリーの求めるモノと比べて矮小すぎる。
　しかし主流から大いに外れたジピィズィアの姿は、されど一点のみ、ザイシャと同じ場所から力を引用する技術においては、第一人者たるグロース=アンディライリーさえも遥か後ろに置き去っている。
　故にザイシャは視る。観測し、測定し、解析する。
　目の前にあるのは【第三呪詛】という問題を解くために先人が用意した公式。世界を越え、境界を越え、【根】に繋がる姿を実演したマネキン人形。例えそれが別解であっても答えを求める一助となるだろう。
　急ぐ必要はない。ザイシャはメギドラ・エイハブ・サレナという個人を信頼している。彼女は折れない。狂わない。絶対に配役を演じきる。
　焦りは無為。焦るくらいならその感情の思考容量さえも【観】のタスクへと割くべきだ。無感情に、冷徹に、機械的に、ザイシャは状況を次フェイズへ移行するためのタスクを淡々と処理していく。彼女は演算という観測士の許可を待つ狙撃手だった。その指は未だトリガーガードに添えられ、撥条が強く重い銃爪を引くには依然遠い。
　僅かに指が動き、ガードの内側をなぞるようにゆっくりと三日月の曲面に人差し指の腹が掛かった。スコープを覗きながらハンドルを回し、銃口の角度を微調整して、一歩一歩積み重ねるようにレティクルは目標へと忍び寄るのだ。ただ、ただ、銃爪を引き絞るその時を見据えて。
　ザイシャの視線の先では爆撃のような切れ間ない轟音が炸裂し続ける。
　その中心にいるのはジピィズィア。恐らくまだトリックには気がついていない。彼女は瀑布から落ちる叫びに似た鳴動を指揮するように、また指を鳴らした。
　スナップ。指より放たれた音を追い掛ける光波は、糸のようにザイシャ=メギドラに巻き付き四肢を融解させる。
　が、類稀な再生力は破壊の衝撃を上回る速さで肉体を再構成し、誇張された痛覚が彼女を苛んだ。
『メギドラ、まだ大丈夫？』
『ッぅ────心配するくらいなら解析を優先せい！』
　メギドラを案ずる平らな声を、喉奥で痛みに喘ごうとする息もろとも振り払って、彼女は叱咤と共に次の一撃をジピィズィアに見舞う。
　痛い。凄まじい痛み。畏れと、恐怖と、数々の異名と共に謳われた【あの】メギドラ・エイハブ・サレナでさえも、一瞬でも気を抜こうものなら許しを乞うように投地して、のたうち回って永劫途切れぬ絶叫を挙げそうになるほどの絶死の苦痛。
　それはジピィズィアの撃ち出す光波によって齎されるもの……ではない。そんなもの、この苦しみに比べれば屁でもない。メギドラを苛むのは外部からの暴虐ではなく、身体の中を食い荒らす内側からの疼痛だった。
　ヒュドラの毒。たった今メギドラが苦しんでいる熱病をザイシャはそう呼んでいた。
　ザイシャの内蔵器官は後の世に宇宙塵と呼ばれることになる物質で構成されている。大気に含まれるマナと相剋するそれは、マナと反応して消失する度に強い痛みを発生させ、刻み込まれた擬似神経が痛みを数千倍に膨れ上がらせ、魂を痛めつけ、相剋して消費したそれは再生と共に補完され、また相剋して体内を灼く。以上のループによってザイシャは常に筆舌し難い苦痛の中にある。生きている限り苦しみ続ける終わりなき火傷はまさしく、神話に表されるヒュドラの毒であろう。
　言うなればザイシャの身体とは極上の拷問機械だ。内側に入り込んだ魂を幽閉し、縛りつけ、苦痛を流し込む。常人であれば痛覚共有だけで発狂死するほどの灼熱を今のメギドラは身をもって味わっていた。
　メギドラは文字通り魂の抜けたザイシャの身体を操っている。そして魂を捕えることにかけてザイシャの肉体は他の追随を許さない。
　先程の【目の前でメギドラが死んだ演技】の際に漏らした慟哭も半ば素だ。あの瞬間、ザイシャが再生機能を全開に戻したことで拷問機械は喜悦に揺れてメギドラの魂を切り刻んだのだ。
　核となる自分以外のディブクを待機させていて良かったとメギドラは思う。万一にも魔力量や気配を悟られぬためと、先だってデコイのメギドラが倒れた刹那にザイシャの持つ【レメゲトン】を用いて彼らを退去させていた。これは良い判断だった。この【ヒュドラの毒】の苦さは怨念すらも容易に上回る。魂の牢獄に囚われて火炙りにされていたとしたら、ディブクの大半は恨みや憎悪も塗り潰されて、太陽に漬け込まれたかのような錯熱の奔流に呑まれ存在を霧散させてしまっていただろう。
「が、っ、ぁッ！！」
　また、光波がメギドラを破壊した。
　しかしメギドラは見掛けの破壊になど目を止めず、一瞬の空隙の後に追い縋る凄絶な痛みに身構える。これはジピィズィアとの戦いではない。彼女と戦うのはメギドラではなくザイシャだ。メギドラが戦うのは自分自身。今にも泣き出したくなる己を投げ捨て、【メギドラ・エイハブ・サレナ】としての意地とプライドだけで立ち上がる、そんな戦いだった。
『まだか、……ザイ、シャ！』
『ダメ。もう少し』
　泣き言は即座に切り捨てられ、口元に乾いた笑いが上って来そうになる。それらを噛み殺し、憎悪の彩りを以てメギドラはジピィズィアの残した蜃気楼を切り裂いた。
　そして、
『……視えた』
　微かな呟きが、撃鉄が雷管を叩いたが如くメギドラの思考の中で大きく響いた。
『メギドラ、プランBのフェイズⅣにシフトする。五秒のカウントに合わせて離脱した後プランCに移行して』
　作戦の次段階への移行。つまり、ザイシャは状況をイーブンに戻すだけのものを掴んだのだ。
　そしてそれは永遠よりも長く感じた五分間の中でメギドラが自分との戦いに打ち勝ったことでもあった。
　憔悴しかかっていた彼女は、既に限界に近づいて朦朧としつつある意識の後ろで歓声を挙げる。
『やっとかザイシャ！』
『ごめん、待たせた。もう五秒だけ堪えて』
『よし来た！　任せよ！』
　最後の力を振り絞ってメギドラは跳躍した。
　一方でザイシャはカウントを開始しながら魔力を練り上げる。
『五秒』
　実のところ、この場で大いなる負担を抱えているのはメギドラだけでなくザイシャも同じだった。
　彼女は今、身体を二つ所有した状態にある。が、これは正規の表現ではない。
　例えるならザイシャの身体は虚数の血管で繋がれたシャム双生児だ。頭、つまり魂はザイシャとメギドラのそれぞれに分かれ、各々の意志で肉体を作動させているが、それというのは有名なシャム双生児のヘンゼル姉妹が内臓の一部を別個に保有しているようなもので、根本的な事象の描写としては【ここにいるのはザイシャ一人だけ】なのだ。オルツィニーが可視と不可視に分割されながらも一つの世界であるように、ザイシャもザイシャ=メギドラも一つの身体を共有している。よって、現状を審らかに表した場合、当て嵌まるのは【割譲】という単語だろう。小作農が土地の一部を貸し出されるように、本来は二倍の身体を動かすには足りない魂というエンジン、それを所有するメギドラへと肉体の一部を分け与えている。
　問題はそこに主客関係が生じていることだ。
　開拓によって二倍になった土地の半分をメギドラに貸し与えた地主はザイシャだ。が、小作人との契約内容はあくまで作物の生産と収穫のみ。もっと広い視点、例えば肥料の選別であったり、育てる作物の決定、農薬の量、単作か二毛作か、トラクターやコンバインを導入するか否か、そもそも畑を作るか田を作るかという問題までもがザイシャの持つ決定権に左右される。これは、或いはメリットのようにも思えるかもしれないが、その解釈は地主と小作農という表現の綾でザイシャに関しては全くの逆である。再びヘンゼル姉妹を例に出そう。彼女らは一人分の身体を二人で共有している。故に脳活動でのソレを除いたエネルギー消費量は常人と変わらない。ザイシャは姉妹と正反対に概念的には一人で二倍の肉体を利用している。無論、もう一つの身体はメギドラが操作するため負担が倍加するわけではない。思考、行動、感情のカオスから課せられる莫大なタスクからは逃れられるだろう。それでもザイシャが持つリソースは一人分しかないのだ。希釈不可能な一人分のリソース、単純計算で二分割すれば半分の量しか利用できないことになる。
　その弊害の一つがザイシャの口の端を【つ】と滴る鮮血だった。今の彼女は再生能力をザイシャ=メギドラに割譲しているせいで肉体が修復されない。だが彼女を肉体を構成する第五真説要素は変質していないため、既に内臓の多くは空気中のエーテルと反応する度に消滅した。毛細血管が破裂したせいで半分以上レッドアウトした視界は、ザイシャ=メギドラの視界や仕掛けていた隠しカメラの映像を共有して補完しなければまともに働かない。物質界に存在しない【月雫箱】を用いた観測及び測定及び解析の速度だけは弛みないままであったが、逆を言えば思考以外の機能を今のザイシャは失っていた。端的に言えば彼女は死にかけているのだ。
　もしザイシャが死んだとしても、それは真の意味での死ではない。遊離した魂はザイシャ=メギドラの身体に繋がる疑似パスを辿り、直ちにメギドラの宿る場所で自ら魂の台(うてな)に座るだろう。
　故に【耐えねばならない】。ザイシャの持つ二性格──あらゆる損傷を瞬時に複製し不眠不休の戦闘行動を可能とする再生能力、思考の分割と高速化及び積層化によって蓄積したデータを分析し最適な解を導き出す演算能力、それらの分割こそがダゴニット奪還作戦の要である。残り四秒のカウント、これもまた彼女の計算に基づく最適値。なんとしてでも耐える。耐えねばならぬと引き締めたザイシャの口の中で奥歯が砕けた。
　ジャリジャリと煩いエナメル片を飲み下しながらザイシャが念じるように呟く。
『四秒』
　ザイシャも耐えていることがメギドラにはわかっていた。だからこそ彼女は残り三秒痩せ我慢を張り通す。
　これは矜持だ。群体たる胡乱たる虚栄たる表象たる主格たる先導たる悪霊メギドラ・エイハブ・サレナとしての矜持だ。
　例え、今の彼女が二百三十六年前に殺された哀れな孤児メギドラ一人だったとしても、十で死した己より四年しか長く生きていない小娘の前で弱音を吐くなど許されない。
「来い！」
　痛みの雨の隙間を縫ってメギドラが魔力の糸を伸ばし、ロンドンに刻み込まれたハンセン病患者たちの怨念を土塊に受肉させ、即席のゴーレムを作成した。
　生者への恨みをインストールされたゴーレムは咆哮しながら真っ直ぐにジピィズィアを狙う。
「無駄だ」
　ジピィズィアが指を鳴らすと空中に四つのM134(=ミニガン)──被弾すれば痛みを感じる間もなく死ぬことから【ペインレスガン】とも呼ばれた殺戮兵器が受肉し、百発毎秒で弾丸を撃ち出す回転銃身が空転を始めた。
　フラッシュマズルの向こうで弾帯を鯨飲馬食するM134。その銃身が吐き出すのは万を越える洗礼弾。降り注ぐ金属片の雨は礫混じりの泥人形を容易に砕き、怨念を核とするゴーレムは浄化概念を叩きつけられ元の土塊に戻っていく。ザイシャ=メギドラも横殴りの雨粒に引き裂かれるが、魂を幽閉する肉の牢獄は檻であり鎧。意に反する昇天的指向性に反応し、一時的に物質界から魂を退避させたことでメギドラに浄化は届かなかった。
　カウントが進む。
『三秒』
　ジピィズィアにゴーレムは届かなかった。が、一秒稼いだ。
　回転する弾幕の空隙を抜けながらメギドラはサーキットを巡る魔力を指先へ集める。
「ガンド！」
　一工程を介して指し示す先へと黒弾が飛ぶ。
　ガンド。極めて原始的な呪法の一。指差しの呪い。
　本来は体調を乱す程度の呪い。しかしそれは高密度の魔力を込められたことで純粋なエネルギー量が跳ね上がり、着弾時のインパクトが大幅に向上されたことで、敵対者を撃ち抜く魔力の弾丸として形成された。
　的確な狙いで放たれたガンドは吸い込まれるようにジピィズィアの頭部に着弾。その衝撃に当てられた頭蓋骨は上から半分が吹き飛ばされた。
　カウントが進む。
『二秒』
　一瞬で身体を再構成したジピィズィアに向かってメギドラが拳大の砲丸のようなものを投げつける。ジピィズィアに砕かれたゴーレムから成型した泥玉だ。
　ジピィズィアは反射的に玉を撃ち落とし、爆裂した泥団子がメギドラとジピィズィアの間に飛散して視界の数割を奪う。直後、泥の幕を突き破り、ワスプナイフを手にしたメギドラがジピィズィアの喉笛を掻き切った。
　迸る血液が粒子に変わり灰が舞う。ジピィズィアが身体を再構築しようとしている。
　メギドラは刹那の内にナイフを手の中で持ち変えると強化魔術を用いながら背後に向かって投げつけた。
　カウントが進む。
『一秒』
　背中を取ろうとしたジピィズィアは具現の速度を緩め、蜃気楼の身体をワスプナイフが擦り抜けた。ナイフが通過するやいなや実像を得たジピィズィアが指を鳴らす。千のナイフがメギドラに突き刺さる。
　しかしメギドラはニィと笑った。【狙い通り】だ、と。
　ジピィズィアを通り抜けたナイフは回転し、弧を描きながら、ジピィズィアの領域である半径三十メートルから外れる。そして、勢いを落とさぬまま小さな茂みの中へ突っ込んだ刃先が、隠れていたザイシャの腕の肉と骨に突き刺さって止まる。すると、ザイシャは口から泡立った血を零しながらワスプナイフを引き抜き、渾身の力で腹部に突き刺した。
　薄れ行く意識から絞り出すように呪文を紡ぐ。
「ザイシャ=アンディライリーが命じます。レメゲトンに繋がれし悪魔メギドラ・エイハブ・サレナよ、元いた場所へ疾く失せなさい！」
『御意に！』
　【レメゲトン】の三つの効力が一つ、退去。
　契約の履行に従い吸い上げられる魔力が、度重なる致命傷の連鎖で既に落命寸前だったザイシャの残り滓のような命を摘み取った。
　実体を失った魂は二分割の欺瞞的夢想から目覚め、シャム双生児の肉体に繋がる縁を辿って不死の肉体へ帰還する。時、同じくして【レメゲトン】の退去機能が作動し、魂の牢獄に収監されていた虜囚を引き寄せ、ザイシャ帰還の一瞬の空隙よりメギドラの魂を引き抜いた。魂が入れ替わる。
　チェスのルールに【キャスリング】というものがあるが、一連の動作はこれによく似ていた。キャスリングは縦横に自在に動く城壁の駒と王の駒を移動させ、城壁より外側に王を配置して守りを固めるという最も基本的かつ多用される定石を一手で行えるルールで、通常なら最低五手かかる手順を省略したものだ。
　ザイシャの肉体は魂の剥離を許さない。例えザイシャが帰還しようと第三呪詛は腹の中の囚人を逃がそうとはしないだろう。そういうふうに出来ている。そして、その場合に再生力がどちらに移譲されるかは賭けになるし、船頭が二人いることで心象風景にどんな影響を及ぼすかも未明。ザイシャの策では分割した自分の全てを自分が再度コントロールする必要があった。両者の肉体と魂を元通りに戻すことは不可能ではないが、五手どころか二十と数個の複雑な工程を経ることになる。これを戦闘中に行うのは無理だ。
　故に【レメゲトン】を併用した。レメゲトンが利用している悪魔概念は聖堂教会と同じもので、人に取り憑き、本来の持ち主の意志に関わらず肉体を動かす悪霊めいた存在も定義に含まれる。よって、エクソシストがするように霊を肉体から引き剥がすものとしてもレメゲトンの退去は作動する。この介入でメギドラが外部から侵入した異物として一時的に再定義されるためにザイシャの肉体の影響圏から僅かに乖離し、代わりにザイシャがメギドラのいた牢獄に収まることで依然変化がないような誤認を産む。それがメギドラの速やかな脱獄を可能としたことで、煩雑な入れ替わりの手順をまるでチェスのキャスリングのように、実戦で使える速度まで省略したのである。
　しかし、キャスリングに幾つかの条件があるように、この霊的キャスリングにも多くの制限があった。その一つが肉体Aと肉体Bの間の体液交換または物理的接触。解析のためジピィズィアの半径三十メートルに近寄れないザイシャは、メギドラが引きつけてくれるだろう猶予を考慮したギリギリの七十メートルほど離れた地点にいる。これは、到底一手で狭まる距離ではないだろう。ザイシャの策ではジピィズィアの不意を突く必要がある。不用意に動けば気づかれてしまう。合流には最低でも三手。なんとか二手以内に納めなければならなかった。
　そこでワスプナイフを距離を省くための媒体とした。キャスリングの一手前に血液の付着したナイフを投げ渡すことで移動すること無く条件を満たそうとしたのだ。
　だが、武器を投げるというのは不自然極まりない行為である。魔術のみを使う者やジピィズィアのように次から次に武器を作って持ち替えるような者であれば違和感はないだろうが、ザイシャは魔術は肉弾戦の補助やトラップとして用いるタイプ。自ら武器を捨てるというのは【今から罠にかけます】と言っているようなものだろう。この不自然さの消臭がメギドラが攻撃の手を緩めなかった理由だった。
　たった五分。されど戦闘中の五分は非常に長い。
　五分間、有効打が一つもなく、ずっと叩きのめされ続けたとすれば【頭に血が上った相手が破れかぶれになって武器を投擲した】との解釈を引き出しやすくなるのではないか？
　そう。全ては【布石】だ。
　観察を終えたザイシャにナイフを受け渡し、最高のコンディションで戦闘を引き継ぐために巧妙に敷き詰められた数百の組紐。
　その組紐が描き出そうとする絵に今、最後の一本が通されようとしていた。
『ゼロ』
　退去命令に準じ、郊外に待機させたディブクたちの元へと飛ばされるメギドラがカウントを引き継いだ。
　その瞬間、ナイフを突き立てられ剣山のようになっていたザイシャの身体が動きを止め、【キャスリングの直前にザイシャが再度投擲したった今ジピィズィアの頭上へと届いたワスプナイフ】を中心に肉体を再構成した。
「……まさか」
　何かに気がついたようにジピィズィアが狙撃銃を構えて銃口を振る。武器であると同時に欠けた五感を補う外部臓器でもあるPSG-1は集音マイクのように音を集め、主に危機を讒言する。
「上か！」
　しかし既に遅い。機は満ち、策は成ろうとしている。もはやザイシャは彼女を逃さない。
「逃すものか！　────【止まれ】！！」
　一工程の束縛魔術がジピィズィアの足を曳いて、根を張ったように動かなくなる。
　約束された一秒の拘束。一秒間だけは如何なる手段を用いても彼女はザイシャの一撃を回避できない。
　そして並列された分割思考が同時に唱える。
　一番、ラビットフット。『コードA573MQ52-A0。形態記憶改竄』
　二番、イージーエッグ。『"月雫箱"、グロース=アンディライリーの戦闘データを抽出、起動』
　三番、ブージャムラフ。『火器管制プログラム起動。アシストを開始』
　四番、ピルグリムマザー。『【最果ての絵本】起動、概念接続素子装填開始』
　唱和は一瞬、バックログを読み取り顕在化したプログラムがザイシャの手の中に光輝を喚ぶ。
　色濃い影を反転させたような抜け落ちた白光。セント・ジェームズ・パークの冬空を喰らう白き太陽は長槍を形作った。
　ラビットフットは宣言する。『コード・ミストルティン。出力終了(=プリント・アウト)。放出(=シュート)』
　刹那にザイシャとジピィズィアの視線が交錯する。
　その交点を抉り貫くかのようにザイシャの手から光の長槍が放たれ、ジピィズィアの身体を大地へと穿ち留めた。セント・ジェームズ・パークの敷地から場違いな朝日が昇る。
　まるで世界を漂白するように、小太陽から放たれた光が一帯を覆い尽くした。

　白光が焼き付く肉体を捨ててジピィズィアは新たな身体を作り出した。
　ダメージの余韻はない。負荷は全て以前の身体へと置いてきたのだから。
　ザイシャが何を目論んでいたかはジピィズィアにはわからない。が、それはジピィズィアには届かなかった。届かないなら、どんな手段も意味はない。
　まあいい、とジピィズィアは思う。抵抗したいなら好きなだけさせればいい。自分はその全てを真正面から無意味な虚事に返すのみ。どうせ暇を持て余した身だ。何時間でも付き合おうとも。彼女が心折れて世界を観測する瞳を永遠に閉ざすまで。
　とはいえ、あの光の槍は厄介だった。視覚に多くを依存するジピィズィアにとって目潰しは下手な絨毯爆撃よりも有効だ。あれを連発されては例え不死たるジピィズィアもたまったものではない。
　ひとまずは距離を取るべきだろう。そう考えたジピィズィアが白光から脱出した時同様に転移の最大距離である三十メートルを飛ぼうとした、その時だった。
「む？」
　沈黙していたジピィズィアが首を傾げた。転移が作動しなかったからだ。
　訂正する。転移が作動しなかったのはまだいい。それどころかまるで視えない壁が阻んでいるかのように、ジピィズィアは転移しようとした方向には一歩も進めなくなっていたのだ。
　侵食基底を得て数千年、或いは万年の間に一度も経験したことがない異常だった。
　戸惑いの渦中にある彼女の足元を、どこから来たのだろうか、妙に硬質的な毛皮を纏った白ウサギが通り過ぎ、その姿に釣られてか、兎の飛び跳ねる軌道を目で追うようにジピィズィアが振り向いた。
「………………………………え？」
　その時、ジピィズィアの白い瞳はキャンバスを驚愕の絵の具で塗りつぶされた。
　これほどまでに感情を露わにしたのは千年ぶりか二千年ぶりか、見開かれた瞳は一点を映して、釘付けになったように静止してしまう。
　理由は極めて、そう、【目に見えるように】明快だった。何故なら彼女の視線の先には────
「────逃すものかと、そう予告したはずだよ」
　ジピィズィアの背後、振り向いた先の三十メートル前方で、氷のように冷たい声が地獄から響くように言った。
　その隣、ジピィズィアが目を奪われている【ソレ】に突き立った槍を手に、もう片手で金属の兎を抱き上げながらザイシャが【ソレ】を見下ろす。そこにあるのは異常だった。あり得ざる事象の具現、違和感の焦点であった。即ち、そこにあるのはジピィズィアだ。筋肉反射によって未だピクピクと蠕動するジピィズィアの脱け殻だ。異常、不可解、違和感。理解を拒むモノイド構造の集合が取り巻く特異点は一つ。それは【ジピィズィアの脱ぎ捨てた肉体が灰化していない】ことだった。
　パリン、とガラスが割れるような音が聴こえた気がした。【自分の身体が二つ在る】という現実を受け止められていない頭をかばうように押さえる手の下で、ジピィズィアがゆるゆると力なく、そして忙しなく首を振る。
　その様子を横目で見ながら大儀そうにザイシャが続けた。
「アナタの【座標】は固定した。もうアナタはこの半径三十メートルの円からは逃げられない」
　ザイシャは槍から手を離すと、いつしか姿を変化させていた、白兎だった何かを胸の前で掲げる。
　小さな手から少しはみ出した円盤状の膨らみはアンティークの懐中時計のように見えた。時計と同じく真っ白な鎖はザイシャの手に巻き付いて、手から零れ落ちぬように固定している。不意にその蓋が開放されて内部が露出し、カチコチと規則的に音立てる三つの針は、しかし文字盤の上で【六時】を示し続けていた。
　そして、懐中時計が輝きに変わった。
　輝きの向こうで彼女に纏わりつき、体表を覆っていく白骨色。
　半自立型積層式自動外骨格人形────【輪転骸殻】(=コーカス・ドール)が第一作、【時計兎の月カンテラ】。
　これこそが、侵食基底に至れぬ彼女が辿り着いたモノの一端。ザイシャが手に入れた新たな力の名前であった。
「これでイーブン。アナタの絶対的な優位は崩されているし、もがれた翼が戻ることはない。……さぁ、勝負はここからだよ。狙撃手さん」
　異形のシルエットを浮かべながらザイシャがジピィズィアを見据えた。

第四節　混沌都市オルツィニー

「ラビットフット！」
　ザイシャがその名を叫ぶ。疑似分割思考AI、衝動を司る一番、【ラビットフット】が声紋に反応して輪転骸殻の脚部を撥条のように曲げ、ギチギチと軋むそれを開放した。
　擦れる装甲からバラライカをかき鳴らすような音を立てながら、撥条足で加速するザイシャは腕部装甲の先についたマニピュレータにSH.ME.EL.のハンマーを携え、補食形態に移行済みのそれをジピィズィア向けて振り下ろす。
　ジピィズィアはフィンガースナップで巨大な金属ブロックを呼び出しザイシャを迎え撃った。ブロックがSH.ME.EL.に削り取られ、滑らかな大穴の曲面が灰に変わっていく。
　崩れる灰がザイシャに蹴り飛ばされ飛び散る。ザイシャは蹴り足の勢いのまま側転するようにハンマーで大地を叩き、反対のマニピュレータにマウントしたサブマシンガンを空中で乱射した。
　転移機能を奪われたせいで動きに精彩を欠くジピィズィアの身体に.45ACP/JHPが突き刺さり、呪詛によって霊的武装を加味されたそれは再生力を大きく削ぎ落とす。
　銃弾に貫かれながらもジピィズィアはハンマーを防いだブロックをリピートし、横向きに射出して、弾を防ぎながらザイシャの身体を吹き飛ばした。
　密度の高いブロックは、数トンの重みを空中で逃げ場のないザイシャにぶつけたが、ザイシャの纏う鎧、輪転骸殻は傷一つなく、小器用にくるりと宙返りして着地する。
「……チッ」
　ジピィズィアは舌打ちをした。
　ザイシャがあの外骨格を纏って以来、ジピィズィアの攻撃は通じず、劣勢に押し込まれている。
　分厚く、堅牢な輪転骸殻、【時計兎の月カンテラ】は全長二メートルほどの真っ白な鎧のような姿をしていたが、その鈍重な外見とは正反対に身軽で素早い。
　高速機動で右へ左へと翻弄するザイシャは、どんなに重い攻撃を与えても、まるで無重力空間で飛び跳ねるかのように軽業師めいた動きで凌いでしまうのだ。
　月面を跳ぶ大兎は再びハンマーを補食形態に移行させてジピィズィアの頭を狙う。
　すかさず狙撃銃の銃口を握ったジピィズィアは銃把でハンマーの横っ腹を殴りつけた。
　軌道が逸れる。
「────そこ！」
　しかし既にハンマーを手放していたザイシャは輪転骸殻の異様に長い腕を屈折させ、握っていたナイフでジピィズィアの肩口から胸までを切り下ろした。
　背後に飛ぶジピィズィア。彼女へ追撃しようとする第二の腕から逃れた小さな胸に鈍痛が走る。滴り落ちる血は灰へと変わっていくが、流血はとめどなく溢れていた。傷が治っていないためだった。
　ジピィズィアは肉体に欠損が生じた場合に特定の部位を修復するのではなく、全身そのものを作り直す。そして再発行と転移は同じメカニズムで動いている。転移を奪われた今の彼女に復活はできない。
　それを見透かしているからこそジピィズィアは侵食基底を最適化して部位蘇生が可能になるまで逃げの一手を打っていたのだ。
　表情の伺えない輪転骸殻の奥で獲物を睥睨するザイシャは、膝を折る彼女を無表情な瞳に捉えながら撃ち尽くしたマガジンをスライド。そして、軽くなったマガジンを投げ捨てながら残弾を新たに供給されたイングラムM10のトリガーを押し込みジピィズィアへと肉薄する。
　しかし黙って弾幕を受け入れるジピィズィアではない。
　フィンガースナップが響くよりも先にザイシャの前に極大の熱量が急遽出現し行く手を阻む。
　トラップ。ジピィズィアは逃げに徹しながらも地雷を仕掛けていたのだ。
　ザイシャはイングラムM10もろともに輪転骸殻の腕を地面に叩きつけ軌道を反らして衝撃の渦中に陥るのを避ける。
　彼女の背を爆風が押した。
　そして、押し飛ばされた先にはジピィズィアが顕現させたばかりの戦車砲が待ち構える。
「射出！」
　ジピィズィアの号令が砲門の奥に火を灯す。
「させない！」
　ザイシャはイングラムM10を形状変化させ、十尺ほどの白い長槍に変わりつつあるそれを投げて砲門を穿った。
　槍が赤々と光る炸裂を戦車砲ごと補食し世界から消失する。
　だが、時間稼ぎは既に終わっている。
　ナイフで深く裂かれていたジピィズィアの胸の傷から灰が零れ、引っ掻き傷一つない白い素肌が現れる。その上を軍用コートが覆った。
　ザイシャは輪転骸殻の中で苦々しく眉を顰めた。
　ジピィズィアが部位修復プログラムの構築を終えたのを悟ったのだ。
　転移と復活は奪われたままにせよ防戦一方だった彼女が回復力を取り戻したことで趨勢は変わる。
　輪転骸殻の補助を見積もれば、これからの戦いは五分と五分。相手も捨て身の攻撃を選べるようになったからには一方的な押し込みはもう通用しない。
　瞬時にそう判断したザイシャは疑似分割思考を走査。
　衝動の一番(=ラビットフット)。杞憂の二番(=イージーエッグ)。無知の三番(=ブージャムラフ)。盲信の四番(=ピルグリムマザー)。
　ザイシャから疎遠な四つの判断基準を元にして制作された分割思考AI群【媼羊雑貨店】が体内に投影された仮想シナプス経路上に光を瞬かせ、刹那の合間に輪転骸殻のキャノピーグラスに回答を並べる。
　衝動。消却砲による牽制。後、戦鎚を回収し強襲。切れ間のない補食で防戦状態を保つことを提言。
　杞憂。ミストルティンの構造解析が開始されたことを前提とし新たな封じ手を構築することを提言。
　無知。輪転骸殻を破壊された場合戦闘能力が低下し秤が傾く。距離を開き鎧を増強することを提言。
　盲信。ミストルティンの仕組みを悟る可能性低。現状を維持しつつレッド・ヘリングの散布を提言。
　四つの提言を斜め読みしたザイシャは脚部の撥条足を縮め右後方へ飛び退り、先程投げ捨てたマガジンをジピィズィアに向かって蹴り飛ばす。
　ジピィズィアの眼が彼女に迫るマガジンに一瞬だけ焦点を合わせた。
　十分な隙だ。
　ザイシャは提言者たちを思考補助型の並列状態に再帰させるとジピィズィアの死角に潜り込むようにスライディングし、形状変化を終えたM1911のエジェクションポートへと白い弾丸を挿入。直に薬室へ送り込んだ三層型SH.ME.EL.収束散弾──消却砲をジピィズィアに向かって撃ち出す。
　だが、射線の先の少女は既にそれを予期していたらしい。消却砲の子弾がバラ撒かれる寸前にフィンガースナップが鳴り響き、巨大な鋼鉄のパーティー・コーンが覆いかぶさった。
　遅れてザイシャの指令が子弾に届き孫弾が散布。しかし、パーティー・コーン内にできた空洞に遮られた孫弾は散らばり切れずに地に落ちた。
　消却砲の弱点は弾丸自体には貫通力も破壊力も乏しく人体さえ穿てないこと。ジピィズィアは一度目の邂逅で、この致命的な欠点を見破り、当然その対応策も用意していたのだ。彼女の狙い通り消却砲が作る虫食いは鋼鉄の帽子の下部を食い千切るだけに留まり、パーティー・コーンが灰となって消滅する。
　されど消却砲はあくまで囮。舞い散る灰の後ろから補食状態に移行済みのハンマーを携えたザイシャがジピィズィアへと飛ぶ。
　だがそれも読んでいたと言わんばかりに刃幅の広いブレードが取り付けられたPSG-1でジピィズィアは戦鎚の補食を払い落とした。
　その隙間を縫うように、既に投げ放たれていたワスプナイフがくるくると鋭く弧を描き、ガスを吹きながらジピィズィアの喉元に迫る。彼女はそれを紙一重で避けると指を鳴らしザイシャの頭頂部目掛けて剣群を降り注がせる。が、ザイシャは再びガバメントの銃爪を引いてリロードしておいた消却砲を発射、迎え撃つSH.ME.EL.は剣群を喰らいつくした。
「CB-FTUPX6Y74W」
　ジピィズィアの口から魔名が紡がれる。
　十基の収束レーザー砲台──ジピィズィアの時代では既に旧時代の遺物だったが、このオルツィニーの今より遙か未来に作られるはずの兵器(オーパーツ)──を展開したジピィズィアは剣群の対処に意識を奪われていたザイシャに向け、輝かんばかりに濃密な殺意を砲門から放出。光が、ザイシャを飲み込む。
「剥離(=パージ)！」
　光を遡るように加速するザイシャが高らかに宣言した。
　レーザーに灼かれていた輪転骸殻の表層が浮き上がり剥がれ落ちる。
　飛び散る欠片を跳ね除けるように、地を蹴る勢いで身体を回転させた鎧の少女は光線の射程から逃げ延び、傷一つ無い輪転骸殻のマニピュレータ先端に再びハンマーをマウントした。
　フィンガースナップ。胴抜きに振り抜かれた戦鎚へ向けて宙空に現れた砲台が覆いかぶさり真っ二つに折れる。
　ジピィズィアの銃剣がザイシャを突く。ハンマーから形状変化した双剣がマニピュレータの右手で弾き、左手で体勢を崩したジピィズィアに斬りつける。わざと姿勢を砕き攻撃を誘ったジピィズィアがPSG-1の胴で軽い一撃を防ぎ、もう一度剣群を招来する。その攻撃パターンも織り込み済みだったザイシャが既に長槍になっていたSH.ME.EL.をマニピュレータで高速回転させ、剣群を払い落として消却砲を放ち牽制する。ジピィズィアはパーティー・コーンを呼び出し先程と全く同じように拡散を封じる。
　微かな金属音が二つ。互いの銃口が互いの額を狙っていた。
　両者ともに息は乱れていた。
　呼吸を整えながらジピィズィアが唇を開く。
「……一つ、尋ねよう」
「なに？」
「まずは認める。私は君の策に見事に嵌められた。過去の自分だと油断していた。君は確かに、考え方から私と根本を違えているようだ」
「で？」
　鼻を鳴らすように、憮然とした声色でザイシャが一音を返す。
　するとジピィズィアは無表情のまま、喉だけでくっくっと笑った。
「だから問いたい。君はなんのために生きている？　復讐、グロース=アンディライリーを殺すためか？　なら奴を殺した私が保証しよう。彼を殺すのは【無理だ】。確かに、この世界にグロース=アンディライリーと名乗る魔術師はいる。だが、それは並列化された総体の中の一体に過ぎない。彼を倒したとしても分割思考の一本を奪ったようなものだ。真の意味でグロース=アンディライリーを殺せるのは、そうだな、第二魔法の使い手くらいのものだろう」
　自嘲するようにジピィズィアが口の端を吊り上げる。
「それを理解した時、私は考えるのをやめることにして、死を求めた。……そして無様に生き延びた。無論、君もいずれはこうなる。だったら、今ここで死ぬのが君のためだと思わないか？」
「思わないね」
「それはただの蛮勇だ」
　無関心そうに吐き捨てたザイシャの言葉をジピィズィアが切り捨てる。
「或いは無謀。私と君を違えるものは、仮とは言えグロース=アンディライリーを殺した経験だ。殺したその時に自分の無力を知るだろう。残るのは絶望だけだ」
「アナタは未来を語るけど、たった一度しか辿ってない成果に再帰性なんて無い。私が何を思うかなんてその時々の私が決めること。決めつけないでくれる？」
「浅はかだな【雁来紅】(=アマランサス)。何より、若い。無限に込み上げる自信に駆り立てられているだけで自分を騙すことができる愚かな子供だ。…………わかっているんだろう？　君はグロース=アンディライリーへの復讐なんて望んではいない。やることがないだけだ。退屈。空虚。心に空いた穴を埋めるためだけに、復讐なんてわかりやすいお題目を唱えている。そうとも。君は単に、人を喰い殺して無為に生きる意味を復讐の大義で擦り替えているだけで────」
　湧き上がった【衝動】に任せてザイシャが槍を振り抜いた。
　ジピィズィアは狙撃銃の銃床で穂先を捉え、勢いに乗ってふわりと身体を逃がす。が、回避を予測していたザイシャは銃口を未来軌道に合わせてトリガーを引き絞った。
「……何度も同じ手が通用すると思うな」
　冷徹に囁いてジピィズィアは狙撃銃の銃爪を引く。銃口の前に展開されていた光の方形が銃弾を転移させザイシャの左手にあるガバメントの銃口へと送り込む。
　弾速247m/sの.45ACPは音速で滑空するライフル弾に押し負け、トリガーがガチリと堅い感触を伝えた。
　弾詰まり(=ジャム)。
　ザイシャは拳銃を即座に投げ飛ばす。暴発した三層型SH.ME.EL.収束散弾が広げる空間の虫食いはM1911を飲み込んで大地を削り取っていった。
「コードA573M──」
「させないよ」
　手数を奪われたことを理解したザイシャが槍の形態を変化させSH.ME.EL.を株分けしようとしたその時。ジピィズィアの剣群が輪転骸殻の表層を削る。
　豪雨のように切っ先を落とすナイフの群れは硬い鎧を噛み砕いて、内、数本がザイシャの背に突き刺さった。
　ごぼり、吐く息の中に血色の泡が混ざり溢れた。
「その鎧、そう容易く修復できるものではないと見た。ならばそちらから破壊する」
「────しまっ！」
「もう遅い」
　リピート、リピート。リピート！
　幾度となく鳴らされる指に従いコピー・アンド・ペーストされた剣群は、ザイシャの肉を刺し貫き針山に変えていく。
　重みによって跪くザイシャは懺悔をするかのように頭を垂れた。
　そして、罪人に傅かれし宣教師は聖書の一節を読み上げるように彼女に向けて最後の宣告を下す。
　それはエーテルから構築された物体を爆裂の魔弾へと変える秘技。
　一度きりしか行使を許されぬ炸裂は本来のランク以上の威力を以て使用者の敵を打つ。
「砕け爆ぜろ。『壊れた幻想』(=ブロークンファンタズム)」

　砂埃が収まった後にはひしゃげた鉄屑と倒れ伏すザイシャが残っていた。
　本来Eランク程度の威力しかないはずの剣群は、数十と束ねられ、対人宝具にしてCランク相当の爆弾となって起動した。
　Cランクと言うと聞こえが悪いが、Eランクでも只人を殺すだけなら十分過ぎる威力を持つのだ。
　少なくとも、ザイシャのような少女の矮躯を粉微塵にするには些か過剰すぎるほどの破壊である。
　ざり、と音が聴こえた。
　身体を再生させ、這いつくばってケホケホと咳き込むザイシャの視界に軍用コートの裾が映る。
　グワングワンと鳴り響く爆発の残滓に酔う頭をなんとか上げると、カチリ、と微かに音がしてジピィズィアが銃口を突きつけた。
「詰みだ」
　ザイシャは目眩に顔を顰めながらも不敵な笑みを作る。
「どこが？」
「全てが、だ。鎧を破壊した今、純粋な戦闘能力では私が君を大きく上回る。そして私は君が鎧の補修を終えるまで待つような紳士ではない。……諦めろ、雁来紅。もう君は私に勝てない」
　冷ややかにザイシャが言う。
「勝てない？　それはアナタも同じでしょ。自称正典さん？　アナタは戦力で私を上回った。でもアナタに私を殺すことは出来ない。不死は、奪えない。だったら詰まる所は根比べ。アナタと私、どちらが先に音を上げるか。そういうことでしょ？」
　輪転骸殻を失ったザイシャはジピィズィアに勝てない。さりとてジピィズィアはザイシャを殺せない。
　まったくもって千日手。ザイシャが言う通り、戦局はどちらが先にこのゲームに疲れるか、というものに移っていた。
　そのはずだというのに、ジピィズィアはゆっくりと頭を振ってザイシャの言葉を否定する。
「違うな。私は君に勝てるとも。空を見ろ、雁来紅」
　彼女が指さした先、オルツィニーの空はいつの間にか夜闇に包まれ、月明かりが微かにセント・ジェームズ・パークを照らしている。
　が、その光はやや不自然な途切れ方をしていた。まるで月夜の風景から一部を切り取って、新月の空に貼り付けたように、月の見えない空の中で月光だけが忘っと浮いていたのだ。
　それはまるで、【夜空の一部だけしか見えなくなってしまったように】。
「不可視、倫敦……」
　そう呟いたザイシャへとジピィズィアが色素の薄い声を振り下ろす。
「この世界は既に収束を始めている。もって二時間、いいや、一時間もないか。……何を企んでいたかは知らないが、この三十メートルに閉じ込められたのは私ではなく君だ」
　つ、と頬に伝う冷や汗をザイシャは幻覚する。
　僅かながら顔色が変わった。
　やはり想定外だったかと心中で呟いたジピィズィアは狙撃銃を構え直す。
「残り二十分、私は君を逃しはしない。君も、君の友人の亡骸も。不安定な世界と一緒に消えてもらう」
「…………。そう……」
　重たげに声を絞り出したザイシャはふらつきながら立ち上がりジピィズィアを上目に睨む。
　フッ、とまたしても彼女は不敵な、獰猛な微笑みを浮かべた。
「じゃあ……早くアナタを倒さないとね。────ラビットフット！」
　バラライカが鳴るような音を微かに捉えたジピィズィアは背後へと飛んだ。
　振るわれる白刃を躱すも彼女の首は軽く裂かれ赤血を撒き散らし灰を飛ばす。
　無表情の鉄壁が崩れ驚愕を滲ませながら、首を押さえたジピィズィアはたった今彼女を攻撃した影をその瞳に捉える。
「……破壊した、その手応えはあったのだが。甘かったようだな」
　ジピィズィアの前でガチャガチャと不規則に身体を揺らす鉄色人形。
　壊れた幻想で破壊されたはずの輪転骸殻、時計兎の月カンテラが独りでに立ち上がり、長い腕の先のマニピュレータにマウントされた大振りのナイフからジピィズィアの血灰をはらはらと落とし、無傷の金属光沢を月光に照らしていた。
　人間のするように姿勢を落として彼女の挙動を伺っている輪転骸殻はザイシャの命令を待ちながら、撥条足をギチギチと曲げ縮める。
　ザイシャは足元に落ちていた長槍を蹴り上げ回転させながらキャッチすると、拳銃とナイフに変化させて遊底を引いた。ジピィズィアを見据える。
「お生憎様、設計図は頭に入ってる。壊されたって作り直せばいい話でしょ」
　不遜に鼻を鳴らすザイシャ。対するジピィズィアも構えを取る。
「設計図、ね」
　彼女は輪転骸殻をチラと見る。
　片腕の時計兎の月カンテラには、かすり傷一つなく、ジピィズィアが与えたダメージなど最初からなかったかのように。
　ザイシャの言葉が正しいなら輪転骸殻も彼女たち同様に不死の存在。相手にするのは厄介だ。
　が、ジピィズィアには一つの確信があった。それを試す。
「ラビットフット！」
　最初に動いたのはザイシャ。
　右方に飛びながら輪転骸殻を左方に回らせ挟み撃ちを狙う。
　ジピィズィアは前方に一歩踏み出しザイシャの進行方向に砲台を五個ばかり具現化した。
　宙空から降り注ぐ鉄塊はザイシャを潰さんと急速落下し地響きと砂埃を大きく立てている。
　ザイシャはすばしっこく、その尽くを躱したが輪転骸殻との連携は崩されしまった。
　背後から迫る凶刃をジピィズィアは防ぎ、鉄塊で輪転骸殻を押し出し距離を開くと彼女は顔を左手で覆い、その間から白濁した瞳を覗かせる。
「……CB-A573MQ52、形態記憶改竄」
　小さな唇が唱えた瞬間、霙瞳は八つに分かたれた切っ先となり、指の隙間から蔦のように伸ばされる。
　蔓枝の根となった眼窩からは、ぼたぼたと赤い血が落ちた。
　それは死徒より錬成されし特殊形状合金。少女の兄、金朱孔(=プレグラスタチア)の遺物。
　吸血的友愛によって万物を捕食し、石膏の裡に魔力と秘める悪意の花。
　改竄に従い八岐の大口を広げた槍は血涙を纏い、迅雷のごとく目の前の獲物を襲った。
「槍よ、我が敵を穿け」
　眼窩から伸びる八条の閃光が鋭い穂先で輪転骸殻を貫く。
　ザイシャの使うSH.ME.EL.の数々と同じ性質を持つ槍は輪転骸殻を補食することも可能だった。が、それを敢えてせずにジピィズィアは槍を一本だけ抜き去る。
　すると輪転骸殻のがらんどうの装甲に開けられた穴が周囲の空間を補食し、元の形を形成しなおした。
　ジピィズィアの予想は的中していた。
　輪転骸殻の用法として効果的なのは当初ザイシャが使ったパワードスーツとしての運用。
　ザイシャのウェイトが著しく不足してる以上、近接戦闘において輪転骸殻を第二の遊撃手として用いるのは良いやり方ではない。
　ならば何故ザイシャは輪転骸殻を纏わないのか。
　簡単な話だ。纏わない、ではない。纏えないのだ。
　今の輪転骸殻はジピィズィアに破壊されたパーツをSH.ME.EL.で代用した張子の虎。単なるハッタリだった。
「やはりSH.ME.EL.で接いでいたか。こんな急場凌ぎ、恐れるまでもない」
　SH.ME.EL.の対処法は一切を残さず消滅させること。
　残り七本の槍を振り回し輪転骸殻をザイシャを妨害するために顕在させた収束レーザー砲の前に投げ飛ばす。
　膨大な熱量が輪転骸殻を灼き尽くし消し飛ばした。
「はっやっ……！　もうバレた！」
　無論ザイシャもジピィズィアがあのような案山子に騙されてくれることは期待していなかった。
　しかし見積もりが甘かった。もう少しは引きつけられるものと予想したが想定以上にジピィズィアが優秀だったのだ。
　砲台の影でマガジンに三層型SH.ME.EL.収束散弾を作った端から詰めていたザイシャは前方に跳躍すると、なんとか半分は給弾したマガジンを空中でイングラムM10に叩き込み、ハリボテの輪転骸殻を囮にする間に修復しておいた時計兎の月カンテラの右腕で側転するように受け身をとってトリガーを絞る。
　だがジピィズィアの機転はザイシャが銃爪に手をかけるより早くPSG-1の銃口に光の方形を出現させ、ワープしたライフル弾がイングラムM10をかち上げた。
　ザイシャの頭上で二十発の消却砲が二段階に分裂し半径三十メートルの闘技場の全域に孫弾を飛ばす。
　その軌道から自身が巻き込まれる未来を把握したザイシャは孫弾の補食を止める。バラバラと白い金属片が降り注ぐ。
　その雨を吹き飛ばしジピィズィアが駆けた。
　眼窩から伸びる八本の触手はザイシャの手足を狙う。
　あれに捕まれば残り時間いっぱい拘束されて逃げ切られる。そんな確信を得たザイシャは銃把にライフル弾が陥没したイングラムM10を長槍に変化させた。
「イージーエッグ！　リピート！」
『イージーエッグ了解。"月雫箱"、グロース=アンディライリーの戦闘データを再抽出、起動』
　腕だけ(=クォーター)の輪転骸殻に長槍をマウントしインストールした憑依経験を走査してジピィズィアの八又槍を弾き飛ばす。
　槍の根本から血涙を流しながらザイシャの腕を守る白鎧を認めたジピィズィアは小さく舌打ちした。
「本命は生きていたか。……だが、そちらも壊せば問題ない。CB-3GH5LBRAWF-A」
　ジピィズィアが手をかざすと数多の刃がザイシャをぐるりと取り巻く。
　壊れた幻想。
　再び彼女が剣群を炸裂しようとする寸前、ザイシャが低く腰を落とし、駒のように回りながら槍を振るった。
　キンキンと金属音を鳴らして吹き飛ばされた白刃は一瞬遅れて爆発する。
　弾き出す槍を手先で操りナイフの数本をジピィズィアに跳ね返すが呆気なく四本の槍で防がれ、間を縫って残り四本の槍が足を殺しに疾走した。
　ザイシャが石突で地面を殴りつけ、跳躍しながら触手槍を牽制する。しかし、どうしたことだろう。彼女の表情に変化が現れ、槍を振るう手が僅かに強ばる。
　ジピィズィアはそれを見逃さない。
「……『悪意の花』(=ザーヴィシストゥィ)」
　詠唱のその刹那、四本の槍は雷の如く斜複し真白き花を咲刺せた。
　そしてザイシャの右足ごと空間を飲み込んだ花は時を戻すように花弁を窄めていく。
　バランスを崩し、べしゃりと地に叩きつけられたザイシャは距離を取ろうとするが右足が動かない。急ぎ、再生力を集中させたが……依然として変化は訪れない。
「再生阻害！」
「その通り。取っておきの不死殺しだ」
　魔槍、『悪意の花』。ジピィズィアの奥の手の一つである魔槍は奪うのではなく与えることで敵対者を破壊する。
　ザイシャの右足はSH.ME.EL.に薄く覆われ、腓骨の内部にまで達した無数の針が筋肉を破壊、溶接し、修復も自切も許さずに完全に殺してしまっていた。
　切歯したザイシャは右足へと乱暴に右手を添えSH.ME.EL.の形状記憶データを改竄しようとする。しかし。
「プロテクト付きか……！」
　エラーコードに阻まれた瞬間にザイシャは棒のような動かない右足を引きずり、右手と左足で飛び退る。間一髪で魔槍の第二撃を躱した。
「スナークバイト！　ピルグリムマザー！　走査(=ラン)！」
『スナークバイト了解。コードA573MQ52-X1-6、形態記憶改竄』
『ピルグリムマザー了解。コードA573MQ52-X1-2、形態記憶改竄』
　両足に輪転骸殻の模造品がSH.ME.EL.によって形成される。
　ザイシャは纏った撥条足で地を蹴って第三撃の横振が作る殺傷圏から逃れた。
　パキ。軽い音がしてフットパーツに罅が入るが、間、髪を入れず傷が塞がる。
　本来は補食を作動させるはずのSH.ME.EL.。しかし疑似分割思考AIによって統括される今は補食範囲を最小限に抑え、単純な再生機能として働いていた。
　ザイシャは内心焦りを覚える。
　その気になれば輪転骸殻をSH.ME.EL.で形成することは可能だった。外骨格として纏うことだって出来る。それをしなかったのは今のようにパーツごとに精密制御が必要になるからだ。
　ザイシャが保有する疑似分割思考は四本。脚部だけでそのうちの二本を必要とする。
　輪転骸殻は分割思考一本だけで機体を制御し、残り三本で詠唱、走査などを行えることがコンセプトであり強み。
　事実として戦闘経験ではザイシャを圧倒するジピィズィアと互角に戦えたのはそれらの【手数】あってのこと。
　今であれば右腕の制御にラビットフット。憑依経験の構築にイージーエッグ。既に二本の分割思考を裂いているのだから模造輪転骸殻を使うのは自殺行為に等しいだろう。
　その上で輪転骸殻を再生したのは足を奪われた現況がそれ以上に致命的であるためだ。槍の重みでバランスを取ってはいるが機動力は格段に下った。次に捕まれば後はない。
　時に石突を第三の足として使い、時に穂先で振り払い、曲芸じみた動きでザイシャは回避に専念する。
　第四撃。第五撃。第六。第七。第八。第九……
　絡み合い翻弄する八本の花弁は不規則に飛び交い、ランダムに変わる狙いを読み取ってミリ単位の動きで掻い潜るザイシャは、精彩を欠くもののまだ余裕は残る。
　だがそれは防戦においての話だ。『悪意の花』に機動力を削がれて以来ザイシャは一度も攻めに転じることが出来ないでいる。
　むしろ、わざと逃げ道を作り攻め手を奪っているようにさえも彼女には思えた。
　ザイシャの感性は正確だった。彼女の脳裏に浮かんだイマジネーションの泡沫は、まさしくジピィズィアの狙いを探り当てていた。
　ジピィズィアの目的は時間切れいっぱいまでザイシャを引きつけておくこと。このまま世界消失が確定するまで粘りきれば彼女の勝利は成る。
　しかし一つ気にかかるのはザイシャがジピィズィアを倒すつもりでいることだった。
　封じ込めるならわかる。逃げ延びるならわかる。それでは倒すとはいったい？
　ジピィズィアがザイシャを殺せないようにザイシャにもジピィズィアは殺せない。故に、ジピィズィアはザイシャが何らかの秘策を用意していると判断した。
　だからだ。だからここで抵抗を封じる。防御策以外の一切をザイシャの選択肢から奪う。
　攻勢に転じる機会を与えず、残り十五分間、このまま世界が閉じるまで反撃する時間を与えない。
　収束する不可視の白。
　月光は閉ざされ天蓋はとうに消え去った。
　月明かりだけが残されたセント・ジェームズ・パークで対の白影が踊る。
　そして、…………唐突に終わりは来る。
「────ッ！」
　キ、ィィン、と甲高く尾を引いた。
　真っ白な穂先が弧を描いて焼け焦げた芝に突き刺さり、ザイシャの手の中で一尺短くなった棒きれが、歪な斜め切りの断面を高く跳ね上げた。
　ザイシャは槍を再生させず輪転骸殻のマニピュレータの手の中で滑らせ、アッパーカットのように伸びる不死殺しを払い落とす。
　が、それが明暗を分けた。
「……ゲームオーバーだ。雁来紅」
　槍が動かない。
　アッパーを打った『悪意の花』が槍に払われる瞬間に塑性を高め、トリモチのようになって、ザイシャの足を殺したように槍へと取り付いていた。
　同じSH.ME.EL.である以上、不死殺しは単なるソードブレイカーの役割しか果たさない。本来なら補食を行うだけで焼き切れるだろう。
　だが、ザイシャは防御を優先し、SH.ME.EL.の補食で輪転骸殻を食われるリスクを案じて再生機能を一時的に停止させた。これが仇となったのだ。
　二本、三本と巻き付く『悪意の花』はザイシャの槍を固めてしまって動かしようがない。補食はこのタイミングでは無理だ。
　現在のザイシャに選択可能な行動は二つしかなかった。
　槍を放棄し、逃げながら新たな武器を作るか。
　再生機能を再起動させ『悪意の花』を解くか。
　……もっとも。既に彼女には選ぶ時間さえ残ってはいなかったのだが。
「ラビッ──」
「遅い」
　ザイシャが輪転骸殻へ命令を下そうとしたその口をライフル弾が貫き、正確に舌を切り飛ばす。
　既に声帯を通して音へ変換された呼気はねじ切られた舌に塞がれて声にならない。
　次の瞬間には次弾が喉を抉り、気管と声帯を破壊した。
　ザイシャが全快するまでには秒と掛からない。しかしザイシャの置かれている状況下では刹那すら永遠に等しい。
　間に合わない。
　残酷なまでに冷徹な結論。
　少女の小さな手ができることは、ほんのささやかな悪足掻きのみ。
「ト、べ……！」
　ゴボゴボと喉に溜まった血を泡へと変えながら僅か二音を絞り出す。
　声を読みとったラビットフット──輪転骸殻、時計兎の月カンテラが薄くバラライカを響かせる。
　一瞬にして輪転骸殻がパージされ、短槍に似た核部が露出するやいなや鋭く空転し、ジピィズィアへと放たれる。
　ザイシャの奥の手。輪転骸殻の核槍。
　或いは常人が相手であれば、槍は直ちにその脳髄を打ち砕いて盤面を裏返したただろう。
　しかし。対するは遙か未来(=さき)で個として人理と契約するほどの力持つ不死の魔人、ジピィズィア=アンケル・バジュロンステ。
　紙一重で射線から頭をずらし、頬を切り裂く感触を意に返さずに再びザイシャの喉へと大穴を開けた。
　所詮は苦し紛れの悪足掻き。あっさりと避けられた核槍は暗転していくザイシャの視界の中で勢い落とさぬまま空を裂き、中心に鎮座するジピィズィアの抜け殻、その胸を貫き縫い止めるミストルティンの柄に当たって弾かれた。
　そして衝撃に変換された加速を受け止めたミストルティンは死体から抜け落ち、倒れて、核槍は弾かれたまま明後日の方向に飛んでいった。
　今ここにいる彼女に、もう次の手はない。
「魔槍よ、我が敵を貫け」
　ジピィズィアの宣告に従って八本の槍が口を開きザイシャを飲んだ。
　硬直していく身体は俄に暗がりに閉じられる。
　それは意識が流れ落ちる血に熱を奪われたせいだったが、それにすら気づく間もなくザイシャは薄れゆく視界の中へと呑み込まれたのだった。

　……都合にして十分。ザイシャが気絶していたのは受けた傷に沿うそれと比較すれば極々僅かな間だった。
　オルツィニーが閉じるまでは残り三十分。状況を打開すればまだ崩壊する世界から逃げ出す【目】はある。
　勿論それは彼女の身体が平時の通りならばの話だったが。
　動かない。
　ザイシャがその身体に対して初めに浮かんだ言葉がこれだった。
　マイクロミリ以下の太さを持つSH.ME.EL.の針は全身を覆うように突き刺さっており、筋肉破壊どころか神経電流のジャマーとして働いていた。不死殺しが脳にまで達した以上、本来は思考すらも彼女には許されない。
　今、その身体が意志の意味への変換機能を保持しているのは偏に霊的領域に構築された擬似分割思考の補助あってこそのものだ。
　それすらも横たわる身体に与えることが可能な恩恵は思考の他には皆無。
　膠のように体中に張り付いたSH.ME.EL.の薄膜は速乾性のコンクリートのように堅く乾ききっており、ザイシャの傷跡すらも開いたままに固定してしまっている。
　今のザイシャの身体は決して塞がらない傷孔から永遠に血を流し続けるだけの彫像でしかなかった。
「……起きたか」
　ザイシャの雰囲気が変わったのを察したらしい。ジピィズィアは指を鳴らした。
　口の周辺と喉辺りの『悪意の花』の拘束が緩まっていく。
「…………お気遣いどうも」
　ぎこちなくも、吐き捨てるようにザイシャが言葉を振り絞る。
　文字通り張り付いてしまったポーカーフェイスのデスマスクは微動だにせず、目の前の敵を睨みつけることもできない。ただ、意志だけを瞳に爛々と湛えていた。
　万人が万人とも終わりと解釈するであろう絶体絶命の窮地、ザイシャは心中でカウントを始める。六十…五十九……五十八……。
　それはさながら死刑囚が絞首台の階段で死の訪れまでを登り数えるような行いか、はたまた、単純作業に没頭して苦痛を忘れるためか。いずれにせよ、彼女にできるのはこうして数を数える他にはなかったのだが。
　四十……三十九……と。事実はどうあれ無情にカウントダウンは進んでいく。
「最後に遺言くらいは聞いておこう。せめてもの手向けだ」
　と、ジピィズィアがいつでも指を鳴らせるように構えながら尋ねた。
　それをザイシャは喉奥でせせら笑う。
「遺言？　殺すことなんてできないのに？」
「死ねずとも外界に意志を伝えることが出来ないカタワになれば死ぬも同じだろう？」
　引き絞られた弓のように緊張する二本指が、ぐ、ぐ、と震える。
　張りつめたそれが解放されれば再びザイシャの身体は僅かながらの自由を奪われて、肉で象られた彫像と化してしまうだろう。ここで話す言葉が文字通りの遺言(=ラストワード)というわけだ。十五……十四……。カウントは進む。
　全くもって絶望の淵。未来(=さき)を一本道へと集約される闇深きどん詰まり。
　あと十秒もすれば彼女の全ては閉じられるだろう。世界が終わり、もろとも消えるまで。終端を知ることも出来ずに裏表紙は捲られるのだ。
　なればこそザイシャの目にあるのは絶望の暗がりでなければならない。ならないはずである。しかし少女の瞳に灯るのは絶望ではなく……そう、絶望とは真逆の感情だったのだ。七……六……五……とカウントは進み、それでもなお彼女の目には光があった。
　その光に名を付けるなら希望や不暁などではない。そのような前向きの意味を持っていない。
「最後に言うなら一つだけ、アナタに伝えるべきことはあるね」
「ほう……」
　興味深そうにジピィズィアが声を漏らす。
　地に這い伏せるザイシャが何を言い残そうとするのか。恨み言か、呪いか、もしくは伝言か。
　しかし、絶命の間際にあった少女が口にするのはそのどれでもない。瞳に宿す感情がそう伝えている。
「アナタの敗因は最初の襲撃で殺しきらずに私に考える時間を与えたこと。……カウント・ゼロ。終わりだよ、外典」
　そうとも、ザイシャの瞳にあった感情は一つ。それなるは狩人の喜び。
　罠を幾多と仕掛け、行動を誘導し、追い立てた獲物を銃口の前に自ら進ませた瞬間の謀略の昏き光。
　最後の罠に掛かった獲物(=ジピィズィア)を収穫するその時を今か今かと待ち構える殺意の灯火だった。
　刹那、魔力が迅雷のように弾けて。
　──そして、呪いが一面を覆った。
　濃密な呪詛の帳が閉じゆく世界を切り取り、あるはずのない声が谺する。
「良う時間を稼いだなザイシャ！　時間ぴったりじゃ、間に合わせたぞ！」
　メギドラ・エイハブ・サレナ。既に肉体を失い、消失したはずの彼女の声が。
　ジピィズィアが既に浄化したと思いこんでいた呪術師の声が。
　……まさか、と周囲の変貌に動転していたジピィズィアがザイシャへ振り返る。するとザイシャは我が意を得たりとばかりに喉奥でくつくつと笑った。
「まさか、二度も時間稼ぎをするとは思わないよね普通は。でもこれが真相。最初から私がアナタを倒せるなんて思ってないよ。事実として私では無理だもの。……だったら、倒せる仲間に頼ればいいってことだよね？」
　仲間。それがザイシャとジピィズィアを隔てる最大の差だった。
　ジピィズィアは単独で万能。故に人に頼る必要はない。人に頼ることを【想像できない】。
　全能が全能たりうるには全知が前提であり、仮に不知を基にした場合の全能の行使とは不知が広いほどにその死角を大きく広げる。
　単独で完成してしまっていること。これこそがジピィズィア最大の弱点であり致命的なまでの付け入る隙であった。
「既に絡繰りは読めておるぞジピィズィアとやら！　お主は空間そのものが本体。その中で身体が欠けようと魂が汚れようと常のままの他が増殖し、欠陥を得た一部を廃することで変わらずの今を保全し取るんじゃろ？　じゃったら答えは簡単じゃ。──まるごと全部呪い殺せば良い！　血肉の一片一滴たりとも逃さずにの！」
　メギドラの身体を中心に嵐のように吹き荒れる魔力反応光がバチバチと雷鳴を轟かせる。
　放たれた稲妻は地に落ち、半径三十メートルの円の中に形成されていたサーキットを駆け抜ける。
　そうして浮かび上がる光が映し出したのは魔法陣。ばらまかれたSH.ME.EL.で戦闘中にザイシャが形成していた秩序の円であった。
　ザイシャが効きもしない消却砲を連発していたのは決して牽制のためではない。全ては布石。メギドラが発動する大魔術を補助するための用意だったのである。
　ジピィズィアのポーカーフェイスが崩れ、狼狽が支配する。
「最初からこれを狙っていたというのか！？」
「いいや？　行き当たりばったりだよ。メギドラが【もしも】のためにスペアの身体を作っていなければ、私が死体を動かす方法を知らなければ、メギドラが時間を稼いでる間に自己進化できてなければ、そして、アナタがミストルティンのトリックに気が付いていれば、この作戦は呆気なく覆されていた」
「馬鹿な！　そんなものはただのギャンブルだ！　私なら決して────」
「しないだろうね。でも、私はアナタじゃないもの」
「────────」
　詰まる所、勝敗を分けたのは考え方の差だ。
　ジピィズィアはザイシャを自分と同一視していた。
　ザイシャはジピィズィアを思考がトレースできる他人と解釈した。
　その証左こそがジピィズィアの絶句だ。
　彼女は全能である。しかし全知ならねば全能は全能に非ずして。
　そして、互いに全能ならぬ只人であれば知れたこと。想像力の多寡が致命的な力の差を生み出すだろう。
　ジピィズィアは【考えるのを止めてしまったから】敗北するのだ。
「いや、お主の言う通りじゃよジピィズィア。儂もリスクの高いギャンブルとしか思っとらんかったわ。じゃが、賭けに勝ったのは儂らじゃ！　強者に挑む者は多かれ少なかれ賭けに挑まねばならぬ！　そして、例え分の悪い賭けだろうと勝ちさえすれば正義じゃろうて！」
「……くっ！」
　直に呪いは完成する。あれを受ければ一溜まりもないだろう。
　ジピィズィアは構造上歩くことの出来ない足を懸命に動かし魔法陣から逃れようとする。
　だが、
「最後に教えてあげる。私が使ったミストルティン、あれは一定区画を半球状に異界化させるもの。異界と言っても機能は外界を半球の内面に映し出すだけだけどね。……だけどアナタには効果覿面。ピンと来たんだよね。電脳世界に潜っていたのが利用出来るって」
　ジピィズィアは半径三十メートルの中から抜け出すことは出来なかった。
「アナタが電子的虚構に身を潜められるのは端的に言えば精神と肉体を分割しているだけだ。だから肉体の座標を中心に侵食固有結界的機能が作動し、圏内にある電子機器に精神が潜り込んでも肉体は消滅しない。電脳上ではまた別の理屈が働くだろうけど現実ではただそれだけ。なら話は簡単。電脳に潜るときのように精神と肉体を分断される環境を作ってやればいい」
　本来の肉体を離れているジピィズィアの精神は乖離しながらも肉体を持っている。
　ジピィズィアは二つの肉体が現出していることに驚いたが、なんてことはない。現実の映像が投影されているだけで、ミストルティンはジピィズィアが電脳に潜っている状態を再現しているプラネタリウムに過ぎなかったのだ。
　彼女が半径三十メートルより外に転移できなかった理由も実に簡単。そもそも異界の展開範囲がそれだけだったという話だ。
　種が明かされれば子供騙しの奇術のような他愛のないトリックだろう。されど子供騙しの術中に陥らせることこそがザイシャ=アンディライリーという少女の本領である。
「既にミストルティンは解除されて私達は現実にいる。それなのにアナタの身体が二つあるのは、アナタがそのように自己進化したからだ。アナタの常識はとっくの昔に肉体が複数存在するって現実を受け入れてしまっている。二重存在の矛盾を許容してしまったの。故に、もう一つの身体を置いていくことはできない。逃げられないんだよ」
　そして、なにより。こと、ジピィズィアを相手にするのであれば子供騙しは有効だった。
　一瞬でもいい。全能たる彼女が受け入れてしまえば子供騙しは真実にすげ変わるのだから。
　歪んだ認識は本人すらも容易に修正できるものではなく。よって、偽りをザイシャに刷り込まれてしまった今、ジピィズィアは【詰み】であった。
　死の宣告を下すようにメギドラの詠唱が朗々と響く。
「……『天に至る門は狭く、死に至る門は広く。我は大門より来るもの、多くを死へと誘う悪の霊なり。其に在る者も共に来たれ。我等は生無く神失いし者、故に生有り神持つ総てを恨み羨む者達』！！」
　詠唱はザイシャがジピィズィアを引きつけていた間、常に続けられていた。
　故に練り上げられた魔力は空間を歪めるほどに。魔法陣から発せられるプレッシャーは儀式級の大魔術に匹敵するだろう。
　十重二十重に展開されたディブクたちは球状にジピィズィアを囲み、毛髪の一本すら残さず喰らい尽くさんと、呪詛の波導を蠕動させていた。
　それを言葉にして現すなら物質化された死。
　触れた者に安らかなる永遠を与えるバロールの視線の再現。
　天寿概念により対象の属性を塗り替え殺害しめる冥界神の記名帳。
　どこまでも純粋な【人の終焉】というものがジピィズィアへの殺意に従い顕現したのだ！
「都合九十四小節！　くっふっふ。実戦でここまで唱えたことは流石にないのう！　────さぁて、儂が手塩に掛けたこの一撃、躱せるなどと驕るでないぞ！」
　メギドラの言葉を合図にして呪詛球は凄まじい速さで収縮を始める。
　殺到する呪いの洪水。もはやジピィズィアに打つ手はない。
　彼女は諦念に支配されて、だらりと力なくPSG-1の銃口を垂らしながらも同じ波濤に飲まれようとしているザイシャに捨て台詞を吐く。
「参った。ここで終わるなんて想定外だったよ。だが私が終わるなら君も同じだ【雁来紅】。動けない君に逃げ場はないだろう。結局のところ、これは捨て身の相打ちに過ぎない。私の勝ちだ」
「ご心配なく。ここにいる私は少し前から遠隔操作に切り替わってるもの」
「……なんだと？」
　そんなはずがない。
　ザイシャの戦闘精度は遠隔操作などから出力できるものではない。間違いなく本人が戦っていた。
　仮に途中で逃げたとしても、それが適うだけの隙も手段もなかったはずだ。
　しかし、一つだけ。ジピィズィアの記憶には思い当たる瞬間があった。
「まさか……あの攻撃は！」
「ご明答。さっき飛ばした輪転骸殻の核に乗せて外に逃げた。躱してくれて助かったよ」
　核槍の投擲は苦し紛れの一撃なんかではない。
　ミストルティンを弾き飛ばして強制的に解除し、異界化が解けた半径三十メートルの殺傷圏からセント・ジェームズパークへ自分を逃がすための策だったのだ。
　ザイシャはメギドラから死霊魔術の手ほどきを受けている。残った身体を、それも不死殺しによって動かない身体を使うだけなら魔力のみでも十分に利用できる。そう、例えば、今もザイシャがその肉体に留まっていると錯覚させるにはうってつけだろう。
　乗せられていたことを自覚し、唖然としながらも、苦々しげにジピィズィアが呟く。
「…………この、詐欺師めが！」
「うん。よく言われるよ」

　怨念の焦点だった場所に倒れ伏す女の懐をメギドラが探る。
　酔ってしまいそうなほど濃密な死の香り漂うセント・ジェームズ・パークに乾燥した音が囁いた。
　そんなメギドラの背中を小さな手がポンと、労うように叩く。
「お疲れ。メギドラ」
「そっちも、の。……じゃーがー」
　ジピィズィアの抜け殻から回収したダゴニットMk-Ⅲを手にしたメギドラが眉を顰める。
「いつまで裸でいるつもりじゃお主？」
「あー……帰るまで？」
「……………………」
「……仕方ないでしょ。ロストしちゃったんだから」
　いつもなら、常用しているあの襤褸切れマントまで再生するはずだったのだが、輪転骸殻の核槍から肉体を再生させたザイシャは裸のままだった。
　今回の操作は非常に複雑で服までタスクを分ける余裕がなかったためだが、おかげで服はロストしてしまった。
　ファルス・カルデアに戻ればレプリカもあるが……無論、それまでは着るに着れずというわけで。
「メギドラー。メギドラの服に予備が残ってたりとか？」
「しないのう」
「そっかー。……どうしよ」
「まあ、裸で困ることもないじゃろうし。それに優先すべきことは服ではなかろう」
「そだね」
　メギドラの視線の先、オルツィニーの空は崩れ落ちるように収縮している。
　ジピィズィアの言葉が正しいとすれば、おちおちしていると二人とも世界ごと抹消されてしまうだろう。
　で、あるからには。今にでも出発して脱出の用意をすることが必要なはずだが……。
「ザイシャ。消滅までの残り時間は？」
「うーん……十分ってところ」
「ダゴニットMk-Ⅰで脱出するまでにかかる時間は？」
「二十分は必要かな。最低でも」
「ザイシャ」
「うん」
「……脱出、無理じゃな？」
「そだね」
「儂ら、ヤツを倒すことばかり考えて脱出時間のこと忘れとった……」
　メギドラは頭を抱える。
「予定ではもうちょっと早かったんだけどねー。思ってたより収束時間が短かったみたい」
　あはは、と笑うザイシャにメギドラが食って掛かる。
「呑気に言っとる場合か！　どうするんじゃこれ！？」
「ん？　そうだな。私はメギドラと一緒に消えるならそれもいいかも」
「ザイシャ……」メギドラが首をゆっくりと振った。「……この展開でいい話風に持っていくのは無理があると思うんじゃけど。というかお主どうせ自分だけは逃げる算段ついとるじゃろ！」
「いやいや。今回ばかりは流石に無理だよ。コイン弾いて表が出るくらいの成功率だし」
「二分の一じゃろそれ！　やっぱりお主だけ逃げるつもりじゃな薄情者！　おのれ！　かくなる上は、せめてザイシャを殺してから儂も死ぬ！」
　叫んだなり魔力回路を励起させたメギドラがザイシャに躙り寄る。
　呪詛の気配が周囲に漂う。
　ザイシャもまた魔力を練りSH.ME.EL.の槍を形作った。
「ん、困ったな。ここは【お主だけでも生き延びてくれー】って託すシーンじゃないかな普通」
「くはは！　ぜんぜんわかっとらんのう！　生者を呪う儂らがそんな馬鹿なことを言うわけないじゃろ戯け！」
「……私疲れてるんだけど？」
「儂もの！　じゃが疲れを取るのはお主を取り込んでからにするとしようぞ！　その時は共に永遠の安息を得られるじゃろうからなぁ！」
　ヤケクソ混じりに叫びながらメギドラが第一の呪いを放出。溜息のザイシャがそれを迎え撃つ。
　消え行く世界の中、師弟であり主従である両名は、先程の仲睦まじい連携の残り香もどこへやらと常日頃のように殺し合いを始めたのだった。
　そして…………。

◆

「以上がオルツィニー視察とダゴニットシリーズの実地運用試験の報告です」
「ご苦労さま。疲れているだろう。今日はゆっくり過ごしてくれ」
　はい、と短く返事をしてザイシャはアーサー・マイヤーのオフィスから退出した。
　ドアの外で壁に寄りかかって待っていたメギドラはザイシャが戻ってきたのに気づいて身体を起こす。
「どうじゃった？」
「報告書はこれといって。今日はゆっくり休めってさ」
「ふむ。休めと言われてもやることも無いしのう。鍛錬でもするか？」
「今日はパス。輪転骸殻作り直さなきゃいけないし」
「はぁ……釣れないのう……」
　つまらなそうに、そう言いつつメギドラはザイシャの隣を並んで歩く。
　ふと、思い出したようにメギドラは口を開いた。
「そういえば、結局【あのこと】は報告したのかの？」
「そこは省いたよ。言う必要もなければ観測記録すら残ってなかったしね」
「順当といえば順当じゃな。下手に話しても面倒になるだけの類じゃろうし」
　……ザイシャとメギドラは無事にオルツィニーから脱出した。
　が、それは決して二人が窮地を抜け出す奇策を思いついたわけではない。
　あの時、オルツィニーの崩壊は【止まった】。
　それがイレギュラーなのか、或いは元から崩壊がそこまでに留まるはずだったのかは伺い知れない。
　しかし世界は二人が崩壊の道連れから逃れた途端に再び収縮し消滅したのだ。まるで、誰かの意思が介在していたように。
「なんじゃったんじゃろうな、あれ」
「さあね。確かなのは今の私たちにはあまり関係ないってことかな」
「違いないのう」
　メギドラが小さく肩をすくめた。
　オルツィニーで何が起こったかは依然として霧の中。メギドラたちに持ち帰ることが出来たのはダゴニットのテスト結果のみだ。
　何故、オルツィニーがそこにあったのか。何故、オルツィニーは彼女らを消し去ろうとしたのか。何故、オルツィニーはそれを躊躇したのか。
　仮説だけなら幾らでも立てられる。だが、それが何になるというのだ。オルツィニーは既に消え去った。もはや漂白されたこの世界から彼の地へと道を繋げる手段はないだろう。
　ならば考えるだけ無駄というものだ。少なくとも、漂白世界を救うために少しでも行動するほうが身になると、そんなことはわかりきっているのだから。
「さて、そうとなれば。まずは昼食でも取ろうか、ザイシャ？」
「あれ？　メギドラも食べるの？」
「そろそろ温かい食事が恋しい頃合いじゃ。折角のオフじゃし儂もご相伴に預からせて貰おうとも」
「オススメとか聞きたい？」
「はっ。お主のことじゃ。どうせ味より魔力量優先じゃろ。聞くだけ無駄じゃて」
「うわっ、失礼な。これでも味にも煩いほうなのに私」
「ほー。そこまで言うのなら試させて貰おうではないかオススメとやら。まあ、味合わずとも既に結果は見えておるがの」
「言ったね？　いいよ。吠え面をかかせてあげる。ファルス・カルデア社食のクオリティの高さに驚くといいさ」
　他愛のない会話を弾ませながら、わーわーぎゃーぎゃーと少女たちは廊下を歩いていく。
　その歩みはきっと世界から奪われた色彩を取り戻す日を目指し、そして決して止まることはないのだろう。

【混沌都市オルツィニー】　了

次回、『Epilogue : Dawn , after the star slept .』に続く。

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目次

序節 Prolog : The City & the City & the city .

第一節 漂白されなかった世界

第二節 明日と現在の交差

第三節 至らざるべき不可視の国で

第四節 混沌都市オルツィニー

Prolog : The City & the City & the city .

第一節 漂白されなかった世界

第二節 明日と現在の交差

第三節 至らざるべき不可視の国で

第四節 混沌都市オルツィニー

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　序節　Prolog : The City & the City & the city .

第一節　漂白されなかった世界

第二節　明日と現在の交差

第三節　至らざるべき不可視の国で

第四節　混沌都市オルツィニー

第一節　漂白されなかった世界

第二節　明日と現在の交差

第三節　至らざるべき不可視の国で

第四節　混沌都市オルツィニー