泥新宿"異章"-DRAGONS AWAKEN-『気がかりな夢』
最終更新：ID:BHmKRek6HQ 2018年08月29日(水) 03:06:39履歴
そこは、永遠と見まごうほどの暗闇だった。
どこまでも続くように思える、風のない、地平とも知れない場所。
ひとりの男が、この孤独で静寂に満ちた、冷たく、どうしようもなく寂しいどこかを歩いていた。
それは生気のない、どこか苛立った風のくたびれた男だった。
男はその身体を引きずり、何のためでもなく、どこに行くでもなく、ひたすらに暗闇の中で、ゆっくりと手足を動かし続けていた。
「ここはどこだ？」そんな疑問が男の頭の中に浮かんだが、数歩進んですぐに脳裏から消えていった。
どうしようもない暗がりの中で、男は不思議と孤独や恐怖などは感じていなかった。あるいは、それを不思議と感じてさえいなかったかもしれない。
男が動かし、その身体をどうにか前へと進ませているのは、いつもの二本の足と二本の手。
ふたつの瞳でそれをぼんやりと眺めていると、男の心の隅にはふと、思いあたる何かがあった。
「これは、本当におれなのか？」
どこか遠い昔か、すぐ昨日かの過去には、男の歩みはここまで軽くはなかったはずだ。
そんな曖昧な疑念が消え去ってしまうよりも早く、男は自分に問いかけた。「待てよ」
「…おれとはなんだ？」
その思考さえも、空虚な歩みを進めるうちに、男はいつしか忘れ去ってしまった。
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男がこのだだっ広い暗闇を歩いて、どれだけの時間が経っただろうか。
浮き出ては泡のように消えていく思索を何度も何度もくり返しながら、男はまだ、道なき場所をひたすらに歩んでいた。
男はずっと、そこをさまよっていたのだ。なんとなく始めた事を、なんとなく終わらせられないままに。
終始つきまとう気だるさはあったが、疲れを感じるという事はなかった。むしろ重い足取りの割に、どこか心地よい、懐かしい軽さを感じる肉体は、その作業を苦でなくしていた。
ここがどこかという疑問は、男にはもう浮かばなくなっていた。ただ自分はここにいるものなのだという、根拠のない、奇妙な納得が、男に不思議な安心感すら与えていたのだ。
長い長い、安寧に満ちた孤独。そんな夢現のような安堵の中、永劫に続くと思われた歩みのさなかであった。
今まで自分の手と足とばかりをぼんやり眺めていたうつむいた両目が、ふと、男の進む前方へと向けられた。
「…あれは？」
男の目の先には、果たして今まで見た事のない奇妙な点が輝いているように見えた。
漠然とした変化のない暗闇の中で、突然にして現れたその存在に、男はすっかり目を奪われ、いつかその手足を動かすことを忘れていた。
「…あの、光は…」
ほどなくその輝きは強まり、点が円に、円が波となって広がり、模糊たる空間を照らしていく。
暗闇になれた瞳には強烈な光に、男は思わず、目をつぶって───────
──────やがては男もまた、広がる光に飲まれていった。
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ある夜、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目覚めたとき、自分の身体が不自然な重みに満たされている事を発見した。
目覚めてすぐに、寝ぼけた眼には鮮烈すぎる無数の光が目に入り、彼は思わず、目をつむろうとする。
しかし何故か、それはできなかった。彼は結局のところ、そのまぶしすぎる光を目に入れ続けなければならなかったのである。
何度かいまいましそうに辺りを見回した後、彼は周りがどこかを確かめようとする。
それは自分の部屋、朝起きて見るよく見知った壁に囲まれた、まともな部屋などではなかった。
彼はまず、冷たい風を感じた。次に聞こえたのはやわらかな海の潮騒。そして先ほどから見える灯りは、空の星々ではなく、そのさらに下に輝いているらしいことを見つけた。
彼の眼前には例えるなら、漆黒の積み木を並べ、その中にまたぎらぎらと光る七色の星を散りばめたような光景が、あたり一面に広がっていたのである。
見たこともない明らかに異質な風景に対して、グレゴールは何故か、それが”街”であると無意識のうちに理解していた。
そして自分の立っている場所はおそらく、巨大な鉄橋の上であろうという事まで。
「おれはどうしたのだろう？」
十分睡眠をとっていたはずだったというのに眠気がおさまらず、それだけでない妙な具合の悪さが彼の肉体を襲っていた。
次に自分の身体を見ようとしたが、頭がうまく動かない事に気がついた。彼は深いため息と共に、ここらあたりの地形を────すなわち、ここが海上である事を────思い出し、水面に自分を映そうと考え、橋の端までゆっくりと歩いて行こうとした。
そこでかすかな異変を感じ、彼ははっと目覚めたように、その巨大すぎる身体を震わせる。
彼の足は二本ではなかった。人間のものでもなかった。
グレゴール・ザムザは、自分が橋の上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。
あのか細い何本もの足。あの盛り上がった茶色の腹。光る甲殻のようなおぞましい背中に、いくつもの目のついた怪物の姿。確認こそできないが、彼は感覚でそれを憶えていた。
かつて遠い日の、いつかの自身のみじめな姿を、彼は自分自身で発見したのである。
「ああ、そうだったか」
グレゴールは─────その時は意外にも、その事実を冷静に受け止め、自らの姿を、あのみにくいぶざまな自らの姿を、深い記憶の中から掘り起こした。
そういえば、そんな事もあったと。あの、つまらないあの人生には、そんな悪夢もあったはずだと───────
──────
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─────────────────
�狃�けて！どうか助けて！��
�爐泙織哀譽粥璽襪�！��
�爛哀譽粥璽襪里箸海蹐悗い�せて！あいつはわたしのかわいそうな息子なのだから！��
�爐�父さん、お母さん��
�爐發Δ海譴泙任世錙�こんな怪物の前で兄さんの名前なんかいいたくはないわ��
�爐△い弔�われわれのことをわかってくれたら��
�爐世�、こんなふうじゃあねえ��
�爐△い弔呂い覆�ならなければならないのよ��
�爐△い弔�グレゴールだなんてことが、どうしてありうるのでしょう��
�爐箸Δ箸Θ；；；；，海譴如���
�爐舛腓辰箸瓦蕕鵑覆気い茵�すっかりのびてしまっていますよ！��
�犹爐鵑世痢���
�爐海譴猫�
�狄斥佑亡脅佞任�る��
─────────────────
───────────
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──────グレゴールの頭についたいくつもの眼が、ふと翳ったように見えた。
彼は深いため息らしき音を出して、いらだったように顎のはさみを鳴らす。
「…”ちがう”。ここはちがう」
その心のうちで密かに揺らぐ感情の異変はその実、困惑や、あるいは恐慌といった類のものではなかった。
「おれは、あれでおしまいなんだ。」
彼は、今引きずり出したばかりのその記憶のすべて───あの辛気くさい、下らない人生のフラッシュバック。それだけが自分にとっての全てであり、そこで自分は終わったのだ───ということを、無意識のうちに理解していた。
その心中でのみ下されたあいまいな確信だけが、漠然と彼の意識をいらだちへと誘っていた。何故ならば、これが神のいたずらであれ何であれ、彼があの暗闇から引きずり出されたのは紛れもなく、彼にとっては何ら価値のない、”気がかりな夢”でしかないのだから。
「ともかくこんなところに意味もなくとどまっていないことだ」
グレゴールは自分に言い聞かせ、その巨大な身体をどうにか動かそうとした。
が、彼の重い体重と、まったく別々に動くたくさんの小さな脚は、その作業を非常な重労働としてグレゴールに強いる。
いくらかの時間をかけてどうにか、橋の向こうへと自分の身体を向けることには成功した彼は、一息入れようとばかりに腹の穴から不気味な呼吸音を響かせる。
そして目の前に鎮座する、穴のあいた、まぶしく輝く高い橋塔をくぐろうとして、ゆっくりとその脚を用いて這っていこうとした。
だがその行動もまた、先ほど以上にグレゴールにとって大変に骨を折るものであった。か細い脚は彼の重すぎる身体を動かすには、あまりに心もとなかったのである。
「ああ」グレゴールは思った。
「おれにこんな夢を見せて、神様ってやつは何がしたいんだ？」
心の中でついた悪態がふと、彼の口らしき穴から、小さな甲高い雑音とともに漏らされた。
そのかすかな訴えかけは誰に届くこともなく、空の中にこだまして消え去り、やがては散っていったはずだった。
だが────グレゴール自身は暗がりでまったく気付かなかったし、そのことを予期していなかったのだが────そのすてばちな悪態に対して、返事をする人間がそこにいたのである。
『────察しがいいものだ。今はただの幻霊とは言え、君の姿は毒虫のままの様だな』
グレゴールは非常な驚きとともに、その甲殻をぴくりと震わせる。たくさんの瞳を凝らして見やると目の前には、今の彼と比べればごく小さな、ふたつの人影がそこにはあった。
奥の方で何も言わずジッと立っている方の男の風貌は、彼にとってはあまりに見慣れないものだった。
褐色の肌に燃えるような色の瞳、この世のものとは思えない異相。野生的な雰囲気を宿すこの男は、あるいは彼にとって、今の自身の姿よりも恐ろしいものであったかもしれない。
対して手前で彼に話しかけた男は、彼にしてみれば奥の男よりずっとまともに見えた。見慣れない顔つきではあったが、その程度なら彼の仕事柄、出張旅行の先で少しは見た事もあるものだった。
老けぎみの顔と髪色に反して、その背筋はぴんと伸ばされている。使い古された黒コートを羽織ったその人物は次に、奥の異邦の男の方をふり返って、面白みのない調子とともに口をひらいた。
『ウェンディゴ、彼はそこに居るな？』
ウェンディゴとだけ呼ばれたその奇怪な風貌の男は、一瞬の逡巡ののち、不機嫌そうにただこくりと頷くだけだった。
手前の男はその動作をただ一瞥したのち、ふたたびグレゴールの方に目を向ける。
『…原典からして、ろくにそこから動けないのだろうから、心配は要るまいか。』
『なあ、『変身』の主人公────グレゴール・ザムザ。』
「なぜおれの名前を？」グレゴールは思った。彼の少なくともまともだった時代の生活は旅の多い人生だったから、どこかで忘れてしまった知人もいるかもしれなかった。
当惑し、思いをめぐらせようとするグレゴールをよそに、目の前の男は淡々と冷ややかに、抑揚も変化もほとんどない口調でいった。
『『変身(ディー・フェアヴァントルング)』。君の唯一の宝具といえるモノだ。尤も、実態は君の意思など関与しない。制御不能の、通常ならどうしようもない宝具だ』
『…だが、私にはそれが必要なんだよ。毒虫なら何でも成り得る、君の力がね』
ここまで一方的にまくしたてられたのでは、もはやグレゴールに、話をかみ砕こうとする気力も薄れていった。
彼は男の話を無視してか細い足で動こうとする作業を再開しようとしたが、確かに彼の身体は、いくらの時間をかけても目の前の男を追い越せるようには思えなかった。
結果的にグレゴールは黙ってそこにとどまり、男の話を否応にも耳孔に入れざるを得なかったのである。
すっかり手持ち無沙汰となってしまったグレゴールは、ふと思いあたった事があり、男が次に何かいうより前に、彼の質問をわり込ませてやろうと思った。
「おれをここに連れてきたのはおまえか？」
人間にとって非常に不快に響くぴいぴいいう音をその言葉の中に混じらせながら、彼はなんとか人間の言葉として聞こえるよう気を払い、ごく短いその文句を口にした。
男はそれに対して一瞬口ごもってから、不気味な薄ら笑いを浮かべて、馴れ馴れしい調子で彼に話しかけた。
『いや、はや────実に察しがいい。話が早くて助かるものだ』
その言葉はグレゴールにとって、逆に理解しがたい物ではあったが…目の前の男がどのような存在であるかを理解し、すっかり腹を立ててしまうには十分な挑発だった。
「夢の主人だと、くだらない！おれは、あれでしまいなんだ。」
憤怒の声はしかしもう、人語としての均整を失い、単なる化け物の呼吸音にしかならなかった。
のろのろとおぼつかなげではあるが、彼は確かに目の前の男へ向けて攻撃の構えをみせ、ふしゅうといった奇怪な吐息の音をあたりに響かせる。
男はそんなグレゴールの感情の変化を感じとったらしかったが、そんな事は意にも介さぬ風にせせら笑うのをやめない。
だがその笑みもすぐあと、何かを思い出したかのように、数瞬ののちにふと消え去ってしまう。そうした男の、ある種不気味とも思える大きな機敏に、グレゴールは思わずぎょっとすくんでしまった。
『…どの道、君には誰も近付けないようにしなくてはならないからな。霊基の確立は可及的速やかに済ませておこう』
『君にはまず”可能性”を与える。君の創造者(フランツ・カフカ)がそうしたように』
その言葉と共に、奥に立っている異邦の男の顔が微かに、しかし確かに不快そうに形を変えたのが見えた。
グレゴールはだんだんと、この手前の男の方に得も言われぬ脅威を感じるようになってきていた。
何のために自分を連れてきたのかも、何のために自分の前に立っているのかも。この男はおしゃべりな割に、すべてがわからないことが不気味だった。
『…素に銀と鉄 礎に石と契約の大公…』
『…降り立つ風には壁を 四方の門は閉じ…』
男はグレゴールが思索をめぐらしているその隙に、彼へと向けていつの間にかその腕をつき出し、いよいよもって意味の取れない文句をつぶやき始めた。
『…満たせ 満たせ 満たせ…』
『…繰り返す都度に五度 ただ満たされる刻を破却する…』
彼はそれを見て、もういい加減に男が”不気味なやつだ”とはっきり感じとっていた。
どうしようかとすっかり立ち往生してしまったグレゴールなど意にも介さず、男は言葉を続けていく。
『…抑止の輪より来たれ 天秤の守り手よ』
彼がそのたくさんの脚をもって後退を考え始めたとき、不意に、グレゴールの身体にはっきりとした異変がもたらされた。
それはやがて男が、その意味不明な文句を言うのをやめたのとほぼ同時の事であり、またそれと共に、彼の足元が淡く、青色に光り輝いているらしいことを察知した直後のできごとであった。
一斉に身体全体へと、むずがゆく、不快な感覚がほとばしる。彼はその異様なおぞましさに思わず、声にならぬ声を出してしまっていた。
「ぁ…ああ」
それは、紛れも無い”現実”であった。
「ぁぁあああァアア、ぁああアァあああァァアあああァああアァああああ！！！！」
海風をつんざいて、するどい雑音混じりの、想像を絶する苦痛にゆがんだ彼の叫び声が辺り一面に響き渡ると同時に、グレゴールの────今まで手前の男には見えていなかった────肉体が明滅するように、実に不確定な様子で姿をあらわしはじめた。
蜘蛛かと思えばむかで、むかでかと思えばごきぶり、ごきぶりかと思えば蛇へと変わっていく。
手前の男は、異常に変わりゆく彼の苦しみようを見ても、冷ややかにそれを眺めているだけ。
グレゴールはその最中、奥に佇んでいた男がまさに、苦虫をかみつぶしたように歯を食いしばり、いかにも不愉快といった具合でその顔を歪めているのが見えた。
彼の人生のうちでもおよそ経験のない凄惨な苦痛を味わうグレゴールの前で、コートを着た男は淡白に───彼にはとても聞こえなかったが───言葉を発した。
『悪いが、君に幻霊を付与させてもらった。先ほどよりずっと、霊基がはっきりしたな』
『「蠱毒」と言っても、君は知らないだろうな。オカルトの界隈ではそれなりに有名なのだがね…』
相も変わらず目の前の男は、彼にとってはわけのわからない事を口走っている。グレゴールはその頃、身もだえるような苦痛に身を任せてめちゃくちゃに暴れることで、その男をどうにかして害してやろうと苦慮していた。
だがその試みも、身の危険を感じたらしき男の重苦しく響いた声によって、すっかりと阻まれてしまった。
『…令呪を以って命ずる。さらに重ねて命ずる。』
『”そこから動くな”』
『”�狠懃甅瓩砲覆譟鼻�
グレゴールは、その男の右腕が赤く不気味な光を放った瞬間、自分の肉体が何か硬く丈夫なひもか何かで縛られているような感覚におちいった。異常な変身はおさまったものの、彼の肉体はすっかりそこに接着されてしまったように動かなくなってしまっていた。
彼は結局のところ、身を走る激痛に身もだえることすら出来ず、彼は異様に巨大な、毒蜘蛛の姿でその場にとどまる事を余儀なくされたのである。
グレゴールは血走った瞳で男をにらみつけ、その動向を監視するより他に出来ることはなかった。
『蠱毒。何百種もの毒虫を争わせ、最後に残った一匹をもって呪術の使い魔とする儀式の概念。…もっとも、魔術の儀式などとしてはアンティークもいいところだが─────』
『その儀式が君の『変身』の宝具と合わさる事で、君の肉体内では無数の毒虫たちによる、永遠に終わらない君自身の主導権争いが行われているのだ』
『さて、私は今、君を仮に”蜘蛛”と規定したわけだが────』
『────そうすると、何が起こると思う？』
異様な感覚に声をあげようとする間もなく、彼は自分の身体がおぞましい何かに変革していく事を認識した。
元よりその身体は人のものでなかったとしても、それ以上におそるべき何かが、この怪物の身に起ころうとしている事をすぐに気づいたのである。
だが彼にはもはや、それをどうにかできるだけの力はなかった。彼の腹がごぼりと音を立てて、体内から何かが、彼の意に反して出て行こうとするような感覚に襲われた。
『───主導権争いに破れた残りの蟲達は、君の身体から這い出てくる。』
『君という存在に変身できなかった蠱毒の蟲たちは、君でない存在として自立するのだ』
男の言葉とほぼ同時に、幾多の小さな何かが、彼の身体から這って出ていくのを彼は感じた。
またひどい痛みと共に、明らかに異様な体液が、彼の肉体から染み出してくるのも、グレゴールははっきりとした苦痛という形でそれを認めていた。
そのどす黒い体液の一滴が橋へと滴ったとき、何かが焼けるような音と、ひどいにおいの煙と共に、その地面へ小さな穴を開けた。
『君の体内はもうおそらく、めちゃくちゃだ。無限に君は蠱毒を成す蟲達に変身しようとするし、その蟲達はさらに互いに命を貪りあい、君という存在を奪い合う。』
『君でないものは這い出てきて、死んだものは毒となって君自身と周囲を蝕む』
『そうだな。今の君の宝具は、名付けるなら─────』
『『致命の循環(ディー・フェアヴァントルング)』か』
そうして男はまた、彼に向けてふたたび近付いていった。グレゴールにとってそれはもはや、自分にとってろくでもない害をもたらす事ぐらいはわかっていた。
『…霊基も安定した。では、仕上げと行こう…』
それでも彼が、もう何もできないことはその場の誰にも明らかだった。彼は苦痛にひどくその瞳を曇らせながら、男の動きを注意ぶかく観察するより他になかった。
その時初めて、先ほどウェンディゴと呼ばれていた奥の男が、辛抱たまらないと言うように、切羽つまった怒声を上げた。
『おい、まだ続けようってのかよ！！』
しかし男は彼のほうへ歩みよったままで、相も変わらない冷ややかな目とともに、異相の男へと声を返した。
『まだだ。むしろここからだ。私が彼をわざわざ呼んだ理由はこれだ』
『…新宿特異点の外周を成す蛇だけでは、この特異点の破滅を世界へ伝播させるに至らない。元々、そういうふうに私はここを作ったのだからな』
異邦の男へと語る口調が、だんだんと熱を帯びていく。何か悪いものに取り憑かれているかのような異様な雰囲気とともに、男は言葉を続けた。
『ならばそれに変わる、いや、それを脱皮させ羽ばたかせる、世界を包む神たる蛇こそが、私には必要なのだ。だが、�爐△讚瓩呂修里泙泙任牢�べない。彼の、”変身”の力を使うことを除いてはな！�爐△讚瓩鯒北任泙任砲海寮い亡�ぶ、私が思いつく限り、これこそがなしうる最善の方法だからだ！！』
まるでそれが、自分の命にかかわるといった風な、ある種すっかり気が狂ってしまったような一転して強い語調で、男はひと息でまくし立てる。
そのあまりの語気の勢いに、異相の男は一瞬口をつぐんでしまった。
『…アンタもたまには、燃料を使うんだな？』と、少しあざ笑ったような調子で男に対してひとこと言ったのち、すぐに───表情は同じようだったが、その瞳のうちにわずかな翳りを見せて───グレゴールをただ黙って、眺めているのみだった。
ウェンディゴなる男のそうした様子を確認したのち、男はふたたびグレゴールの方を向いて、元の淡々とした調子で言った。
『さて。…君にもうひとつ、可能性を追加する。特級の”毒虫”だ。リヒャルト・ワーグナーぐらい知っているだろう？君はドイツ人だったよな？「ニーベルングの指環」第４節だ』
確かにそんな劇作家の名前には、聞き覚えがあった。
妹を音楽学校に行かせてやっていたものだから、そんな単語を家の中で小耳に挟むことも二度や三度ではなかったかもしれない。
ただ、彼自身は小さく狭い家の中で寄り集まって過ごしていたものだから、実際に劇などを興する余裕などまるでなかった。そのために、男の提示した質問に対する答えを見つける事は─────そもそもグレゴールには、それに答えようなどという意思はなかったものの────できなかった。
『何だ、解らないのか？…仕方のない、これだから教養のない人間は困る。…おっと、今は君は虫だったな』
『ラグナロク。世界終末神話──────ワーグナー流に言えば、"ゲッテルデメルング"というやつさ。君の時代(フランツ・カフカ)より成立は前だったかな？』
『神々の黄昏───────実に終末には、ふさわしい幕引きだと思わないかね？』
男はトレンチコートの懐からいくつかの非常に古びた、なにやら総じて蛇をかたどったような異質な形状の骨董品を取り出して、彼の目の前に並べていく。
彼にはそれが何かなどわからなかったし、それを聞く気力も一切わいては来なかった。
それらがおそらく並べ終わったように見えたとき、グレゴールの前に並んだそれらのおびただしい量は、ちょっとした骨董品店を彷彿とさせる様相だった。
整頓された沢山の古びた紙切れに、あるいはその逆に、妙にきれいに見える装丁の本や、蛇のように見えるかざりつけ、まじないに使うと思しき奇妙な形の小物まで、多種多様な奇怪な品々が揃えられていた。
きれいに並べられたそれらを満足げに見渡したのち、男はグレゴールに向けて、わずかな声をかけた。
『…君には、その一助となってもらう』
『終末とともに、世界を包む蛇に』
彼自身は幻霊であり、それ故に、現界に際して細部にわたって十分な知識を得ている訳でもない。
また生前には男の言う通り、十全といえる教養もなかった彼にとっては、その蛇とやらが自分に何を起こすかなど知れたものではない。
『さあ、はじめるとしよう』
だがそれでも、彼は動きもしない身体を必死に動かそうともがいて、男の行動を止める事を無意識的に求めていた。
“それは危険だ”という、ある種の本能に駆り立てられたかのように。
しかしそれは結果的に全て、まったくむだな骨折りに終わった。そのある意味では非常にみじめな一連の努力を前にして、ウェンディゴなる男が明らかに、グレゴールから目をそらすのが見えた。
彼は最初から最後までなすすべのない状況のまま、ふたたび男の発した、わけのわからない呪文を聞き入れるよりほかになかったのである。
気のせいだろうか。今度は男の言葉が一語一句ごとに、彼にとって確かな重みをもって聞こえてくるように思えた。
──────素に銀と鉄 礎に石と契約の大公
──────降り立つ風には壁を 四方の門は閉じ 王国に至る三叉路は循環せよ
男の言葉と共に、グレゴールの這いつくばっている地面がぼうと怪しい光を発するのが見えた。
彼は今ここで初めて気が付いたのだが、その灯はどうやら、彼の乗った鉄橋の上に描かれた複雑な紋様に沿って浮かんでいるらしかった。
明らかに作為的な一連の行為に対して、グレゴールは改めて目の前の男に対して恐怖にも近い不気味さへの忌避を抱きつつ、どうにもならない事に対する投げやりなあきらめから、すっかり全身の力を無気力に抜いてしまっていた。
──────閉じよ 閉じよ 閉じよ 閉じよ 閉じよ
──────繰り返す都度に五度 ただ満たされる刻を破却する
グレゴールはふと、ちらりと男の方を見てみた。そこでグレゴールがひどく動揺を受けたのは、その男がいままでの仏頂面とはまるで異なった表情を見せていたからにほかならなかった。
男は笑っていた。それも、ひどく子供っぽく無邪気で、妙ちきりんな奸計や悪意などは微塵のかけらも感じられない様子とともに。だからこそそれは余計に、その男の異様な気色の悪さを明るみに出していたのだ。
まるでまったくもってあなたに敵意などありませんよ、といった風な、いかにも人なつっこい感じのその笑みは、その男が今まさに何をグレゴールにしているのかという問題を考えるまでもなく、彼にとってはまるで理解のできない、奇異で、異次元的なできごととしてさえ、グレゴールには感じられたのである。
──────告げる
──────汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に
──────�狢腓い覆觴忰瓩隆鵑詈佞暴召ぁ，海琉奸，海陵�に従うならば応えよ
ここで彼は───それまでも十分そうだったのだが────明らかな異変が、彼の身、それどころか彼の周囲一帯に起こりつつあるのを認識していた。
堅固な外骨格におおわれた筋肉が緊張し、体温が急激に下がっていくのを自分の肉体に感じながら、グレゴールは、そのおそるべき予感に背中の甲殻をふるわせていた。
それはまさに、自分ができるわずかで矮小な、ちっぽけな想像など遥かに超えるような出来ごとを示唆するような悪寒そのもので、グレゴールはただその「何か」が起こるであろう時をおびえ、地べたをなめて待つ事しかできなかったのである。
──────誓いを此処に 我は常世全ての善と成る者 我は常世全ての悪を知る者
──────然れど 汝は人に非ざる御身が故に
──────汝 災禍を常世に齎す者 我はその破局を臨む者──────
「やめ─────ロ─────」
その制止は自分自身から発せられたものだと、グレゴールはしばらくの間気がつかなかった。
グレゴールを今まさに襲う身もすくむような寒気と、彼の身体をしばり付けている目に見えないひもとが彼の動きを阻止していたにもかかわらず────
グレゴールは無意識のなかで、この悲痛にひびきわたる、嘆願するような意味合いの音を、いつのまにか発声していたのである。
それはほぼ、本能のようなものであった。異形の化け物となってなおまともな思考力を保っていたグレゴールであったが、このときはただ完全に、彼の動物的な本能にまかせてその音声を口にしていたのだと、彼は自分自身で悟った。
それが意味するところは、これから起ころうとする事は少なからず、彼にとって、少なくとも彼がかつてそうであった生物にとって、最悪の結果をもたらすものであろう事を、彼はその意せずして出てきた言葉に気づくとともに、同時に認めてしまったのである。
──────汝 三大の言霊を纏う七天───────
…だが、男の言葉は、それで止まるはずはなかった。
男は今まさに、グレゴールのおそれていた予感を的中させるべく、相も変わらない、むしろ半ば恍惚さすら浮かべたようなおぞましい笑みを浮かべた表情で、全身から汗を吹き出しながら、血の混じる声と共に、力強く最後のひとことを言ってしまった。
──────抑止の輪より来たれ 天秤の守り手よ──────！！
骨董品が突風とともに吹き飛ばされ、夜闇に舞っていくのが見えた。
足元の紋様が鮮烈に光を放つと同時に、夜の冷たい海風の全てが、自分の方に集まってくるように思えた、その瞬間であった。
「───────────ァ」
グレゴールにとって、あるいはあらゆる”人間”にとって、もしくはこの世すべての生きとし生けるものにとって────おぞましく不愉快きわまりない、おそるべき何かが、彼の肉体内をめちゃくちゃにのたうち回るような幻覚が、グレゴールの意識の中に飛び込んできた。
────しかし、それは幻覚などではない。その事実をすぐさま認めたのは、他ならぬグレゴール自身だった。まさに彼の肉体内には、まったく彼にとって想像を絶するような、ひどく彼の身に余る過剰すぎる力をもった、理解できない這いうねる何者かが、彼の全てを脅かしていくかのように侵略していくのを、彼は鮮烈な感覚として理解してしまったのである。
同時に彼の肉体のこわばりが解けて、おびただしい過剰な力に促進されたかのように、グレゴール自身の身体がみるみるうちに肥大化していくのがわかった。
数秒もしないうちに彼は、その鉄橋の巨大な橋塔と同じぐらいの高さとなり、その大きすぎる腹は橋の幅を越して、橋を完全にふさいでしまうような巨大さにまで変化してしまっていた。
しかしグレゴールの意識はもはや、そこには向いてはいなかった。彼にとっては、その明らかな変化というよりも、それをもたらした、彼の中で今まさにうごめいている「何か」こそが真に恐怖すべき、そして注視すべきものなのであって、そしてそれ以外の事はもう、彼にとってはささいな問題に過ぎなかったのだ。
もはや彼の叫び声などが上がるよりも前に、グレゴールはこの一瞬のうちに、およそ今起こったことのうちで分かるべきことは、すべて認識してしまっていた。
それはただ、�猝楹个瓩討呂覆蕕覆い發里�、自分の中で目覚めようとしている�瓩箸いΑ�漠然としたぼやけた言葉でしか片付けることのできない事柄であった。
それでもその、曖昧ながらも確かな形を持って彼へと接近してくるまさに名状しがたい悪寒は、およそ絶望にみちみちた実感として、現在のグレゴールの前に無慈悲にも突きつけられていたのである。
「ァ───────ァアああああァアアああああああああ！！！ッッァアアぁああああアァァァァアアアアアああああああアアアァァァアアアアア！！！！！！」
グレゴールの、もはや化け物のほえ声としてしか認識できないような、しかしひどく悲痛な響きをもった叫び声が、海面を揺るがすように轟き─────それと呼応するように、どこか遠くで、異なるけたたましい咆哮が海に、街全体にこだました。
想像を絶するおぞましい感覚に襲われる中でどこからか聞こえてきたその轟音は、恐ろしいことに、今のグレゴールにとってはある種のなつかしさ、ある種の親近感をもって受け入れられるように思え、彼の恐慌を幾分かやわらげるのを手助けしているように感じられたのだ。
そして、それが今まさに自分の中で這い回っている「何者か」に関係することがらである事を、彼はなにゆえか把握し────そして同時に、把握できてしまった事そのものを恐怖していた。
『ハハ─────ハハハハハハハッ、ハッハッハハハハハハハハ─────！！』
グレゴールにはもう、男などを見ている余裕はなかったが、今のその男の様子を見ていたのならば、きっとぞっとするような思いを抱いていた事だろう。
男はいよいよ気が狂ってしまったような勢いでもって、目の前の肥大化するグレゴールを前にしてなお、ばか笑いを上げていたのだから。
『聞こえたか、あの”大いなる蛇”の呼応が！！私の召喚は成功したのだ！！！…ハ────ハハハハハハハッ、ハハハハハハハ───！！』
先程のグレゴールのものではない咆哮はまさに、この新宿特異点を囲む”蛇”のもの。
まさに「ウロボロス」として眼前の男が召喚を成功させたそれが、彼の身に降り注いだ異変とともに吠えた。それはすなわち─────
グレゴールの身を這い回っているものはまさに、その「世界蛇」に類する”何か”である事の何よりの証左であり、結果的に、男の当初の目的が達成されてしまった事をも同時に示す事でもあったのだ。
『おお、おお！！この力の氾濫を見ろ！！破滅だ！！まさにこの世界を終焉へと導き、すべてを潰滅するにふさわしい引き金だ！！』
男の熱っぽい演説とは裏腹に、ずっと何も言わないでいた褐色肌の異相の男は、ただ黙って、きわめて不愉快そうに、屈辱的な表情で、変わり果てたグレゴールを見ているだけだった。
その男の、かたく食いしばった歯でもって噛み締めていた下唇からはすでに鮮血が流れ出しているのを気にも留めずに、ウェンディゴなる男はただ、眼前のグレゴールの様子を、血走った目でその瞳に焼き付けていた。
『ここにて眠るは世界蛇！！”大地の杖”にして”人界の蛇”！！かの世界蛇の原典にして、終焉とともに目覚めるもの！！』
『────────即ち！！『途切れた永劫(ヨルムンガンド)』で或る！！！───ハハハハハ、アッハハハハハハハ…！！！！』
男が何かに憑かれたように笑っている途中でグレゴールは、同時に彼の身体から這い出てくるものたちにも異変が訪れたことを察知した。
今まではただ小さな虫けらばかりが漏れ出していたばかりであったが、彼の肉体の巨大化とともに、それらも合わせて大きくなっていくのが感覚としてわかったのだ。
グレゴールは、気分が悪くなるほどに莫大な力が、体内の「何か」からもたらされるのをはっきりと感じていた。
それによる影響を受けたのだろう。先程から、彼の腹から漏れ出てくるどす黒な体液は滝のようになって海まで流れ出ていくし、どんどんと蟲達が溢れかえるようにして、彼の腹部から這い出していくのがわかった。
その中でも羽を持った類の種が、人ほどの大きさをもってぶんぶんと彼の頭のまわりを飛び回るのを彼は認め、その一匹が彼の頭の上に止まった。
「邪魔だ」いらだたしげに、崩落しそうな意識の中でグレゴールがかすかにそう思考すると、彼は微動だにしていなかったにもかかわらず、あたりを飛び回っていた虫たちが、彼の身体から離れていく。それを見たグレゴールは、はっとしたように意識を現実へと引き戻した。
ある程度は彼らを操れるのではないか。そんな予測が、グレゴールの中に浮かび上がった。それは現在の彼にとって特筆すべき発見に他ならず、そしてその予測はおそらく確実なものであろうと、彼は推測した。
それを理解したグレゴールがいかなる行動に出るかという問題は、深く考えるまでもない事であろう────────
────────…いち早く周辺の異変に気がついたのは、ウェンディゴなる男であった。
まず男は、あたりに出現し始めた蟲達までもが異様に巨大化している、という事を認めたのち、同時にそれらが、奇妙な統率のもとに動いているらしいことを発見した。
もっともそれらは一元的な「どこかへ向かう」だとか「何かをする」といった、蟲の域こそ出ない動作ではあったものの、群をなすわけでもない互いに別種の蟲達が、異様な連携をもって行動している事は、元より野生に近い環境にあったウェンディゴにとって、非常に不可思議なものに映っていた。
そして真なる問題は、蟲達の行動の”目的”であった。それらは明らかに、ウェンディゴの前で未だに笑っている男─────彼の「マスター」たる男を害するために、その場所へと、徐々に密集していくように思えたのである。
大量の羽虫達はどれも人ほどの大きさを持っており、そして皆々が、程度の違いはあれど、凶悪な牙や毒針を保有している事は、少しばかり見ただけでも確認できる。人ひとりなどがそれらに襲われようものなら、決して生存への希望など望めないであろう事は、誰の目にも明白な事実であった。
そのような恐るべき異形の羽虫たちは、もうそのすぐ近くまで、男をとり囲むようにして集まってきていた。そこで初めてウェンディゴは、蟲たちがそのおのおのの武器をもって、まだかれらなど眼中にないといった具合で恍惚にひたるその男を、今まさに、かれらの記念すべき最初の贄としようとしている事に気がついたのである。
それを知ったウェンディゴは一瞬その場から駆け出しかけたが、しかし何か思い留まったように立ち止まってしまった。
そして拳をかたく握り、目の前の男を睨みつける。彼が立ちすくんでいたごく数秒間のうちにどれほどの、いかなる思考がその脳裏をかすめていったかは定かではなかったが─────
ともかくウェンディゴは結局、男が毒虫にたかられ、食い荒らされようとするまさに直前、その身をさっとおどらせ、男のもとへ駆け出していた。
『─────しっかりしやがれ、テメェ！！』
ウェンディゴが怒号を放つとともに、その身にかすかな冷気を感じたグレゴールは、次の瞬間、驚きと共にその目をみはった。
男のまわりに密集して、今まさにその毒牙をかけようとしていた羽虫たちが全て、一瞬のうちに、見えない不可思議な何かによって両断されていたのを視認したのだ。
彼らの体内を巡っていたどす黒な猛毒の体液でさえ、飛び散るまもなく凍りついて地に落ち、砕け散ってしまうまでを目の当たりにしたグレゴールはたしかに仰天していたが、それはしかし、その不可思議な現象を目の当たりにした事自体への驚きではなかった。
なぜなら、彼はその現象がもたらされた理由をいつのまにか、何者かの手によって、その脳裏に刻みつけられていたためであった。
眼前のウェンディゴなる男のように、人ならざる力をもって、人のような存在に仕える者たちの事を、すでに彼は知っていた。彼の仰天の理由は単に、その男が”それ”であったということに対するものであった。
グレゴールはいまいましげに顎のはさみを鳴らして、かれらの総称を────彼のような、もはや人ではない者たちの名をつぶやいた。
「……�爛機次張凜．鵐鉢瓠帖�！」
それをよそに、ウェンディゴなる男はすぐさまコートの男へと駆け寄っていって、その身体を抱きかかえてから、その紅の瞳でもってグレゴールを一瞥したのち、ただひとことを伝えた。
『…悪いね、旦那』
『俺はまだ、消えたくないんでな』
その言葉を発すればすぐさま、ウェンディゴは空を見上げた。周囲の、グレゴールから産まれて出てくる蟲が時とともに数を増していき、また、そのすべてがウェンディゴと男への明確な殺意を持ちながら彼らに接近しつつあることを確認しながらも、ウェンディゴはその膝をぐっと折り曲げた。
『────『風に乗りて歩む者(イタクァ)』ッ！！』
ウェンディゴが声と共に膝を伸ばして飛び上がれば、男を抱きかかえたその身体は、どのような理由かたちまち鳥のように浮上し、宙へと浮かび上がっていってしまった。
追いまわしてくる蟲たちを振りはらいながら、異様な冷たい風と共に、彼らは既に広範囲に汚染され、刺激臭を放ちつつある東京湾上へと飛び立っていった。
風にまぎれて、男はいくらか正気をとり戻したらしかった。だんだんと離れていくグレゴールの姿を眺めて、男は、ウェンディゴの腕の中で呟くように独りごちた。
『────さて。外周を成すウロボロスの召喚に続けて、かの終末の蛇、ヨルムンガンド。余す所のカードは、あと一枚か───』
『───その時までは眠りたまえよ、大地の杖。かの■■■■■■が来たるまで。グレゴール・ザムザに、ウロボロスに変わって、安穏なる午睡から目覚めるまでに』
未だに男の命を狙おうとする羽虫たちがやっきになって彼らを付けねらってくるのを、先程蟲達を両断した不可視の風の刃をもって撃ち落としながら、ウェンディゴはあざけるような調子で、男のつぶやきに呼応するように言い放った。
『カッ！ようやくオーバーヒートが終わったのかよ、ええ、『首謀者』さん？そのカードに殺されかけといて、よくも偉そうに言えたもんだぜ』
『首謀者』と呼びかけられたその男は、しかし────その挑発に対しても、涼しげな様子で返答してみせた。
『…無論、君を同行させたのはこのためだ。私はおそらく、かのヨルムンガンドなどさえも喚んでしまえたならば、喜びのあまり正気は保てまいと推測したからな。…実際のところは、君の見た通りだったがね』
『私が居なくなって困るのは、君だからな。そうだろう？まあ、令呪でも事前に使っておけば確実だっただろうが────』
男の言葉に、ウェンディゴは眉をひそめる。彼はこの男の、どこまでも突拍子のない、それでいて抜け目のない────有り体に言って”食えない”その性質が嫌いであった。
『……ケッ。…俺は空の逃げ道ってわけかよ。てっきりあの、趣味の悪いショーを見せるためだけだと思ってたぜ？』
ウェンディゴのその言葉は、いつものように軽薄な口調ではあったが、それを語る表情は心の底から不愉快だ、といったふうに歪められていた。
街を見据えるその紅い瞳には、微細で、しかし確かな翳りが差し込んでいるように思えた。ウェンディゴはそうしたやり取りの間、男には気取られぬよう、背後に座している巨大な蜘蛛─────グレゴールの姿を、ちらりと振り返った。
『そんな非合理的なことはしない事ぐらい、君はもう分かっていると思っていたが』
『────どうだか。俺にしてみりゃ、このイカれた街そのものが、この世の何より非合理的だと思うがねえ？』
互いに口の減らないやり取りを繰り返しつつ、やがては蟲の追っ手も消えたところで、彼らは陸へと辿り着いた。ウェンディゴは高度を急激に上げて、街に大量にそびえ立つ摩天楼の、そのうちの一つの屋上に着陸する。
そして地へと足を付けたトレンチコートの男────かの一件の「首謀者」は、何事もなかったかのように、礼すらせぬまま、忙しなさそうにウェンディゴへと背を向けてしまった。
『…さて。私は今しばらく、魔力の貯蓄に戻る。君は引き続いて、かの蛇の”秘密”を知る者を追いたまえ』
そのぶっきらぼうな様子にはウェンディゴも流石に頭にきたらしかった。彼はわざとらしく、その背中に向かって声を上げてみせる。
『おいおい、働きづめかよ？命を助けてやったんだ、何か礼の一つでもよこせよ』
ウェンディゴに声をかけられても、男は声をかけようともしないまま、背中を見せるのをやめずに立ち去っていく。
その瞬間、男の右腕が赤く妖しい光を発するのが見えた。ウェンディゴはその閃光と共に、全身の消耗がすっかりもとに戻り、肉体に力がみなぎってくるのを感じながら、男が何をしたのかをも同時に理解し、その背中に向けて、ちっと舌打ちをした。
『…いくらでも増える多角令呪だからって、ずいぶん雑に使いやがる…』
結局その後、男はウェンディゴなど意にも介さずにどこかへ消えてしまった。
彼にとってはウェンディゴがその通りに動く事などは、見越した上での行動なのだろう。また、実際そうする他にはすべき事もないウェンディゴにとっては、何か自分のことを見透かされているような疑念が生まれ、余計に腹立たしい心持ちにさせられたのである。
『…”黙って従え”、ってわけか』
『まったく、どこまでも食えねえ野郎だ。アイツとは、やっぱり合わねえな』
屋上の柵から、海の方を見てみる。遥か向こうには、黒く蛇行する螺旋の世界蛇の姿が見える。
そして海の上には、つい先ほどまでは何事もなかった───今では巨大かつ奇怪な化け物を照らし出すだけのものとなった───長い橋がかかっていた。
『(…あれは確か、レインボーブリッジとか言ったか)』
もはやその意味を成さなくなってしまったその構造物と、その原因たる大蜘蛛の姿を眺めて、ウェンディゴは舌打ちをしたのち、その燃えるような瞳をまっすぐそちらに向けて、どこか哀れむような感傷をもって、他の誰にも聞こえる事のない悪態を、ひそかについた。
『─────俺もアンタも、このクソったれな街じゃあ、本当にままならねえモンだな？』
『……なあ、蜘蛛の旦那よ……』
…────しばらくの間、彼はそこにとどまっていたが、やがては海を背に向けて、今度は大地に広がる摩天楼へと向き直っていく。
彼は、彼の追うべき者を追う。”何のために”など、もう考えるのはやめた。柵を越えて空へと身を投げ出せば、鉄の巨塔の間を縫って、いつしか彼は、闇の中へと消えていくのだろう。
ここは狂った街。妄想も幻想も夢も羨望も憎悪も憧憬も嫉妬も後悔も、此処では全てが混ざり合い、矛盾しながら同居している。
消えゆくはずだったものたちが形を成して、現実と化して表出する、秩序の忘れ去られた混沌たる世界。
故にこそ、人はここをこう呼ぶのだ。
溷濁たる泥濘の街─────────�狹タ圭畢瓩函�
────────────
──────────
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同じほどの時間であった。黒く巨大な、蛇行する何かがごうごうとうなりを上げて回転するその目と鼻との先には、その凶暴に走り回るものとはうってかわって、小ぎれいな駅のホームが別世界のような静寂とともにたたずんでいた。
今やこの街においてはすっかり利用価値を失ってしまった、よって人っ子ひとりいない、海の見えるがらんどうとしたこの小さな施設に設置されたベンチの上に、ひとりの少女が座っていた。
彼女の前方にはすぐ、宵闇の向こうに、グレゴールのいる橋が見えていた。見ごたえのあるイルミネーションが今や、奇怪としか思えない毒虫がそこに鎮座しているのを照らしだすだけの装置となってしまっているさまは、そのようないたいけな少女にとってはすぐさまに目をそらしたくなるような、おぞましい光景にはちがいなかった。
だが、その少女においては、それは異なる事実であった。そうした異様な光景を前方にのぞみながらも、その視線そのものは手元に落としつつ、彼女は白い指でしきりに、手にした本のページをめくり続けていた。
「────さて、どうしましょうか。」
「…爆音、騒音、迷惑行為はこの街の常、とはいえ────」
「この列車が”汽笛”なんて、滅多にない事ですもの。…それにしても、あんなに大それているなんて」
ため息と共に漏らされたかのような独り言とともに、不愉快そうに橋上の毒虫の方を見やったのち、彼女はホームよりは数段低い位置にある地上の様子をちらと見る。
海を隔てた埋立地であるこちら側には、一本の橋のみが繋いでいる。この街の主要な脅威である者たちはあまりやってこない。そのおかげか、未だにまともに生きながらえていて、その辺をほっつき歩いている人間の姿も、橋向こうよりはずっと多い様子であった。
だとしてもある種異様な程、彼らには持つべき危機感というものが欠如しているように思えた。
あの橋に鎮座する毒虫グレゴールの姿は明らかに彼らにも見えているはずだというのに、そこらあたりをさまよう人々はのんきな様子で、橋の異常さに誰一人として、目を向ける事さえしていなかったのである。
少女はそんな街の様子を見ながら、傍に置いてあった香水の瓶を手でいじっていた。
（…この辺りの生存者の方々には、とりあえず”忘れて”いただきましたが…）
（あんなに大きいと、またすぐ気付かれてしまうでしょうね。…この辺りは比較的安全だから、お客も多かったと言うのに…）
「…また避難者が増えますわね、あれは。」
彼女はまた、手に持っている書籍らしきものに目を落とす。ただでさえ古むした装丁は今や度重なる読書によって痛みきっており、その題名さえも読み取る事は難しい。さらにそのすぐ下にあるはずの作者名の欄は、まるで意図的に消されているようにも見えるほど、格段にひどく擦り切れていた。
ページの端という端は損傷しており、紙自体も経年劣化からか褐色に焼けている。古本という度を越してボロボロな紙の束に記された、イタリア語と思しき均整の取れた文字列にそって、その赤い瞳をせわしなく動かしながら、少女はひとり思案にふけるようにして、言葉をはき出した。
「…まあ、当分は放っておきましょうか。あの虫が何なのかはわかりましたし。」
「あんなに大声で話しているのだから────”盗み聞き”くらい、あの方々も許して下さいますわよね？」
彼女はそう呟くと、手に持った古本から視線をはずして、海向こうに見える毒虫の姿をまじまじと眺めていた。
（…『あんなもの』と合体した、あのかわいそうな虫さんの事までは分かりませんでしたけれど）
（もっとも、私の知る限り、”虫”と言ったら────）
彼女はふと、その脇の紙袋の中に雑に積まれている、少なくとも彼女の読んでいるものよりはずっと保存状態のいい何冊かの古本に目をやる。
その一番上にあったものをふと手にとって、橋の上の毒虫の上にかざしてみた。
『Die Verwandlung』と題された古びた一冊。
その表紙に描かれている、悲痛に顔をおおった男性と、向こうの毒虫の姿とを交互に、特段に感情のこもらぬ瞳で見やったのち、ふと我に返ったように彼女は頭を横にふって、古本を紙袋の中に戻して立ち上がった。
「…どうでもいい事ですね。”彼”が何であれ、今となってはアレは別物みたいですし──────」
紙袋を片手に持った彼女は、先程まで読んでいたボロボロな本を閉じる。古い紙の匂いがあたりに立ち上るとともに、少女は目を細めて、橋の上の、これっぽっちも動かない蜘蛛をにらんで言った。
「────『世界蛇(ヨルムンガンド)』だなんて、どうかしていますわ。…また、住処を変えないといけないのでしょうか…」
少女はあきれた風な調子でそれだけ言ってから、さっとふり返って、読んでいた傷ものの古本を、大事そうにも、まるで危険物を扱っているかのようにも見える慎重さでもって小脇に抱えつつ、先程からうるさく回転し続ける巨大な何かに接近していく。
通常の人間ならば近寄る事すら憚られると考えられるこの危険な回転体に、少女はそのまま臆することなく、その質量のおそるべき速度から生まれる強風にブロンドの髪を揺らしながら、さも当然といったように身体をそこへと突き出していく。
そして気付いた時には、少女の姿はもう既にそこにはなく─────もとの静寂ばかりが、この場所に残されていたのである。
走行によって生み出された突風のせいだろうか。少女がこの回転体に触れるより前に、何かが古本の頁の隙間から舞っていった。もはや今やそれだけが、この駅において唯一目立って動いているものであった。
『Commedia』───そう書かれた、何処かのページから千切れたその紙片が、音も立てずにひらひらと、静かな寂しさにみちた駅の冷たいコンクリートに落下していき、いつしか、どこかへ飛ばされていった。
───
─────
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橋上に残された大蜘蛛は───────
グレゴール・ザムザは、うすれゆく意識の中、ほとんど半狂乱で自分の状況をつかみ直そうとしていた。それは冷静に彼が「そうしよう」と思い立ったと言うよりも、彼自身が正気を保つためには、もはやそうせざるを得なかっただけだった。
もはや、あの男を彼の力でもって直接に弑する事はできなくなった。あの男はもう二度と、彼の元へは近づかないという確信があったし、仮にそうであったとして、街中へと虫を放つ訳にはいかなかった。その残酷な思いやりは、今や人の形など微塵も残してはいない彼のうちに、僅かながらにでもあった、人間的な理性(ロゴス)だったのだろうか。
グレゴールは宵闇の中で、無数に生まれ続ける大小さまざまな毒蟲────それらは既に、彼が陸地に出るのを食い止めているとはいえ、橋上のほとんどを占拠しているように思えた────に囲まれ、身体を回る猛毒とにその身を侵され続けながら、それでも、彼にできる「使命」を果たそうともがいていた。
最大の問題は─────彼のうちに未だにひそんでいる”何か”であった。「ヨルムンガンド」など彼は知らないし、よしんば知っていたとしても、それがもたらす意味などは彼にとって、相当理解も及ばぬ次元の話であった。
その身のうちにあふれ出る力の過剰はひとまずのところ落ち着いたように見えるが、それでもこのおぞましい客人は、決してふたたび暴れ出すようなことがあってはならない。
それをはっきりと説明できるだけの理屈をグレゴールは持っていなかったが、それでもその点においてだけは明確な事実だと言いきることのできる何かが、グレゴールのうちには感覚としてあった。
どちらにせよ、グレゴールは確信にも近い決意を、この身の中に潜むなにかに対して抱いていたのである。
──────「こいつは、いなくならなければならない」。
それが、グレゴールの出した結論であった。
しかし、その対象がグレゴールの内部にひそんでいる以上、つきつめていけば最終的に行き着く先は、彼にとっては残酷な現実に他ならなかったはずだった。
しかし、彼は不思議と、その結論をはっきりと認識した上で、ごく自然なものとして、彼自身で受け入れてしまっていた。
｢…あｱ｣
｢…おﾚはこｺでも､死なﾅｹればなﾗないﾝﾀﾞな｣
グレゴールにとってその確信は─────まさにいつかの辛気くさい人生と、まるで同じものを辿っているように思えた。
その記憶の中で眠っていた、彼の妹に思える声の、冷酷な言葉が脳裏でこだまする。
誰からも必要とされなくなり、ただ孤独に死んでいくだけの自分。グレゴールはまるきり同じ道をゆく自身の運命を、そこに重ねあわせていた。
しかし、彼にとっての「かつて」のそれは、彼がそれまで食わせてやっていた、少なくとも彼にとっては、最も大切なものであるはずの存在によって排斥されるという、あまりにもみじめな最期であったのだ。
グレゴールは自分自身で、奇妙な事ではあるが、「これ以上に辛気くさい事もない」というある種の自負にも似た確信をすら、その酸鼻をきわめる人生に対して抱いていたのである。
対して今は、こうなった元凶がわかっている。こうなった理由もわかっている(もっとも彼には、理解などできなかったが)。そして、自分がいなくならなければならない理由もあれば、自分がいなくなって未練のある場所でもない。
だからこそ、自分が死ぬという最期は、行き着く先は同じでも、彼がかつて辿った道程よりもいくらか以上の認めやすさをもって、それを確認できるように思えたのである。
よって、彼の「使命」とは──────
「彼を殺す誰かを探す」ことであった。
そこらの人間ではだめだと理解していながらも、彼は「誰でもいい」と─────ある種切実な思いをもって、その行動を開始した。
蟲といえど、知能のないものばかりではない。本能のほかに余分な思考能力を有する、ごくわずかな数の発達した種───蛇や蛙などの者たちに、彼の”言伝”をさせる事だった。
元より人であった彼でさえ、虫となってしまってはろくに人とは意思疎通もできないのだ。ましてや虫の言葉など、どうして、どこかの誰かに伝わることがあるだろう？グレゴールはひそかに自嘲する。
だがそれでも、彼にとってこの作業は、どうしてもやらねばならぬ価値をもっていた。
グレゴールの感覚の中に今なおひそむ巨大な何者かは、彼に対してそれほどまでの切迫した動機をもたらしていたのだ。
いかなる手を使っても、たとえそれが無意味でも、彼は、この中に潜む何かは─────この世から一刻も早く、取り除かれなければならない。
それを何としても伝える。そのことだけが、現在の彼にできる、ただひとつの使命であったからだ。
彼の言葉を得た蟲たちだけが、橋を越えることを許されて、深く入り組んだ街へと飛び出していく。
それらはただ、誰にとっても不快な虫けらの呻き声にすぎないのか、それとも───────
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小汚く薄暗い、ある街角のはずれ。特段好きこのんで立ち入るような何かがあるわけでもない、街路同士をかろうじて繋いでいるような通路。
発展した街にはつきものといえるこの余分なスペースには、今まさに死にそうに痙攣しているちっぽけな虫けらの姿があった。
ぎいぎいと腹を向けて寝転がり、不快に雑音を発するそれは、誰かがたまたま通りがかったとしても、通常ならば避けられるだけか、あるいは踏み潰されてそこで終わるはずの命であったはずだった。
だがその虫の上には、今まさに、ひとつの人影が静かに重なり続けていた。
深く紅色のにじんだ、古びた汚い布が巻かれた杖をつき、雑音だけを発する虫の前でじっとそこにとどまっている人影の主は、これまたひどく傷んだ布の衣服を身に纏い、頭から目元までをすっぽりと覆ってしまっていた。
何を思っているのか、そのただならぬ雰囲気の男は、虫の前で静かに立ち続けていた。まるで司祭の説教に熱心に耳をかたむける信者のように、男は、その虫から発せられる雑音を、奇妙なことだが、あえてその耳に入れているようにさえ感じられる。
やがてぎいいと一際不快な音を出して、寝転がる毒虫が最後の息を吐き出すとともに、そう遠くもなかった死がそこへ訪れた。
それまで静かに立っているだけだった男は、ふとしたように顔を上げる。ほとんどボロ布のようなローブのへりから、真っ黒く無感動な瞳が唐突にあらわれて、死に絶えた蟲のなきがらばかりを、そこに映していた。
「──────ああ、そうかい」
「…あいつが来るなら…それでもいいさ」
やがて男は何を思ったか、中空に十字を切る。それは───ほとんど信じがたいことだが───、男はこの蟲に対して、弔いの意思を示したということだった。
その蟲の最期の騒音に、何か感じ入るものがあったのだ、とでも言わんばかりに。
それきり男は、このつまらない路地裏から脱出するために、蟲の死骸など意にも介さぬ様子で、ふらふらとどこかへ歩き去っていってしまった。
やがて男は閑静な路地を出て、人通りなどとうに無くなってしまった、わずかに灯のともる公園にたどり着いていた。
その辺りのベンチにどっかりと腰をつき、ふうとため息をつく。静まり返った見通しのよい広場をなんとなしに眺めてから、男はふと、天を仰いでみた。
街灯もほとんどなく、また街明かりも今やまばらなこの街では、夜空の星がよくまたたいているのがわかる。ぼろ切れのような布から露出した男の黒い瞳に映る天には、星々が幾千の光となってその中に散りばめられている。
彼は宙空に輝く北極星を眺めながら、ふと、しみじみとしたようにつぶやいた。
「…俺もこの空も、どれだけ経っても、どこに行こうと変わりやしねえな…」
「…�犹笋呂修諒�を見るが、それは今ではない／私はその方を仰ぎ見るが、近くからではない�瓠弔�」
「…次の八芒星は…この空に登るのかねえ…」
感傷にひたったような、呆れたような、どちらとも言えないくたびれ果てた声があたりに響いた。
男のその黒い眼には、いかなる感情が秘められているのかは測りようもなかったが、彼はまるで枯れ木のようにそこにとどまり、しばらく星を見上げ続けていた。
静寂に男が同化して、いくらかの時が経った頃であった。
ふいに広場の停滞した平穏を切り裂いて、何かが地面に降り立ったような、軽やかな衝撃音がこだました。
続けて砂を踏みしめる音がそのまま、男に向けて近付いてくる。それでもなお星を眺め続けていた彼は、やがて頃合いを見計らって、その足音がある程度の近さまで来るのと同時に、そちらの方へと顔を向けた。
彼の目の前にいたのは、全体的に赤色が目立つ女性であった。その表情の中には少しばかりの疲労と、今まさに沸々と湧き上がっているらしき少しばかりのいらだちとが同居しているのが、一目に見てもわかった。
その姿は男にとっては、ひどく見慣れたものであった。目元を隠したまま、にこりと口元に笑みを浮かべる。…が、それは形だけのものだ。
それが男にとっての歓迎ではなく、「帰れ」というサインである事のあらわれであることは、女性にとってもわかっていたらしい。
だからこそ彼女はその仕草を見るや、男の座るベンチから一定の距離を置いた位置で立ち止まり、かねてから用意していた用件を告げた。
「�爛罐瀬篆有瓠�ここに居たのね…探したわよ」
「…そういうお前は�猯擬蹐雖瓩犬磴覆い�、うるさい方の。相変わらず、”黄金伝説ごっこ”は捗ってるのか？」
ユダヤ人と呼ばれた男はまた、竜狩りと彼が呼んだ女性の言葉へと、情感や気力の特にこもっていない、それでいて淡々と皮肉っぽい口調で返す。
この手の類のやりとりは彼らの間で過去にも何回か行われたらしく、それゆえに彼女はひどく辟易したといったように、呆れつついった。
「…捗ってたら、いちいちアンタの所になんて来ないわよ。また新しい厄介ごとがどんどん増えてるんだから！もういい加減に折れたらどうなの？」
そうしたように、赤髪の女性が急かすように促す旨を伝えるが、しかし男は涼しい様子で、どこか力のない笑いと共に答える。
「はは、それもそうだ。」
「だが、お前が俺をめざとく見つけるのもこれで六度目だ。”あいにく”の先は、言わなくても分かるだろ？」
その返答は───女性にとって予想通りのものではあったのだが───今はいくらか癇に障ったらしく、ついにしびれを切らした風に、彼女は男へと非難の言葉を浴びせかける。
「…ほんっっっと強情ね！どうせここも、アンタの望む終末とは違うものになるわよ。この街のどこに、最後の審判が来ると思うわけ！？」
「それで俺が「”イエス”」と引き下がるとでも？悪いが、これでも我慢には自信がある方なんでね。何しろこの街は原罪まみれだ。もう少し待ってりゃ、ひょっこりあいつが現れないことも無きにしもあらずだろ」
なおのこと動じることなく、考えを変える気など微塵も見せる様子もない男に対して、やはり彼女は呆れたように眉をひそめる。
やがて彼女は、わざとらしく深い嘆息をもらした。男を何らかの目的のためにせき立てようという試みが、またしても失敗しそうである事を悟ったらしい。
心を落ち着けるように公園のそこらを歩き回る。彼女の語調は先ほどよりも強いものでこそなかったが、それでもその口から出ていた言葉はやはり、愚痴に類する男への文句には違いなかった。
「…それは何千年後の話なのかしらね？…まったく、変な�狠懃甅瓩泙能个襪掘△海辰舛和臺僂世辰童世Δ里法帖�
ここで初めて、男が隠された視線の裏で眉をぴくりと動かす。彼女の言葉の一部には、何らかの彼の興味を示す事柄が含まれていたらしい。
すかさず男は、先ほどまでよりも少しばかり楽しげで、浮かれたような口調でもって彼女に問いかけた。
「…へえ。あの蜘蛛を見つけたのか」
「アンタも見たの？…まるで何が何だか分からないし、竜の気配はするし…不気味ったらありゃしないわ」
この街に突如として現れた巨大な毒虫のニュースは、既にちょっとした一大事としてほうぼうで取り沙汰されている問題であった。
彼女はそれを実際にその目で見て来たらしかったが、まるで理解不能であると言った調子で首をかしげつつ、ざりざりと地面の砂を足で蹴り弄っている。
…そして男の中でその事実は、ある種タイミングのいいものだった。彼はにやりと口角を上げれば、隠していた目の片方を明らかにして、女性へ向けて告げた。
「…ああ、それなら…」
「しつこいお前に免じて、”耳より情報”ぐらいならくれてやるよ。俺は加勢しないがな──────」
「…？何か知ってるの？」
「ああ。もっとも、お前がしばらく俺にちょっかいを出さない事が条件だが」
「………アンタねえ！」
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─────────
─────────────
「テンッテッテテンッテテツテンテテン！！１！！１！１！！１１！(爆散)
立川志の輔が落語をやるときの出囃子だ。ただのためしてガッテンおじさんだと思っている蒙昧無知な神性はそこに座ってみどりの窓口でも聞くがいい
さて今週のガッテンはこちら！(ﾊﾞｧﾝ!!)「神性は546Lのバンテリンを摂取すると死に至る」では早速ナンクルナイサー君でためしてみよう。死んだ。ガッテンして頂けたかなナルガクルガ君？鳴門海峡君…？し…死んでる…
見ての通り頭部を破壊するだけで通常のバンテリンのなんと890倍のスピードで死に至ることが判明した。体験してもらった神性たちにもスゥーっと効いて…これは…ありがたい…バンテリンで今日から君も神殺しだ！！１１１！ｶﾞｯﾃﾝｶﾞｯﾃﾝｶﾞｯﾃﾝﾍｪ〜ﾍｪ〜ﾍｪ〜ﾍｪ〜ﾃﾘﾝﾃﾘｰﾝ」
「やめろタイタス！！そのボタンは消火栓だ！」
どんよりとした空の下、辺りは身を包む夜に覆われていた。
大小さまざま、計画的に並べられた無機質な摩天楼の織りなす影が闇を形作るさなか、大都市の煌々たるネオン・サインは、厚い暗雲に隠れた月の代わりに私達を照らし出している。
バンテリンも凍るような奇妙な冷たい夜風が街の静寂のなかを吹き抜ければ、異質な名状しがたい断末魔がけおーっ…と響き渡り、私の耳元をくすぐっていく。
きな臭い事ばかり起こるものだ。私は倒れ臥す黄色く泡立った水溜りを念入りに焼却したのち飛び六方で「目をさませ！」何をするのかねマロングラッセ君！！１１１！「目をさませ！！(ﾊﾞｼｨﾊﾞｼｨ」
「…ハッ！俺は何を！？」
夜の闇に満ちた街の一角で、三人の男たちがちょっとした騒ぎを起こしていた。
────とはいえ、彼らの周囲はすでに廃墟と見紛うほどの静寂におおわれており、その三人を除いて人の気配は全く存在していない。
それどころか、夜風に揺らぐ木々と散り落ちた葉のほかには、そこには動くものすら存在してはいなかった。実質のところ、彼らだけがその静けさのなかでぽつねんと言葉を発して行動する、異質なことがらとなっていたのである。
灯の消え果てた無機質なビルが、さながら墓標のごとく立ち並ぶ。無辜なる民を供物とし、おそるべき怪異が跋扈する、此処はまさしく、墓場の街と成り果てている。
それゆえに、この場にいる彼らの行動、ひいては存在そのものをとっても、それは非常にこの場にとって似つかわしくなく、奇異なものとして、その周囲だけを浮き彫りにしているようだった。
その騒ぎの中心であった、奇妙な髪型をした白髪の男────あまたの傷やただならぬ汚れに痛んだ白コートを纏うその男は、近くの知り合いらしき男性の小突きによってようやく、どう取っても支離滅裂としかいいようのない発言をやめた。
ついその前までわずかばかり離れた所にいたらしき、一匹の猫を抱いた金髪の男性が、騒ぎを察知して白コートの男の方へと戻っていく。
彼はいたって平静を保ちながら、親近感を多分に含んだ、それでいて若干の呆れをもった調子で口をひらいた。
「…少し目を離せばこれか！どうやらキミに”憑いた”…いや、”憑かされた”かな？ともかく、相当にたちの悪い幻霊のようだね…」
「げ…カーターさん…」
白髪の男は、彼の言葉に対してばつが悪そうに肩をすくめる。どうやらこの騒ぎは、彼らにとって二度や三度ではないらしい。
隣の男性も、彼が現れた瞬間から、わずかとはいえ姿勢を正す。それは彼らの間の、ある程度の上下関係を示すものだった。
「まあ、酔っ払いだと思えばいいだろう。正気に戻るには、もう少しかかりそうだがね…」
またも、呆れた風な落ち着いた声があたりに響き、その場の皆に神妙な面持ちをさせる。
しかしながら、不可思議なことに…その言葉は、この場にいる三人の誰の声とも異なる声色のものだった。
「さあ、君達もあまり我々…いや、私と共にいるべきではない。何に巻き込まれるかわからないからな。そろそろ調査協力はここまでにしないか、ウォーカー？」
引き続き、その声が言葉を続ける。その声の主は────金髪の男の抱く、一匹の黒猫から発せられているように思えた。
否。その黒猫こそが、まさにこの言葉を発しているのだ。何の因果か、いかなる奇跡が起こしたものだろうか？いずれにせよこの事は、泥濘の新宿だからこそ起き得る、おどろくべき超越的現象のひとつにほかならなかった。
「そうだな。悪いがタイタス君、マリニー君。私達は、ここでおいとまさせて貰おうか。…元々、私は事件に巻き込まれやすいんだ。解決の分は、君たちに任せてもいいだろう？」
「そうですね。手掛かりとしては十分ですし…首謀者に、また一歩近づきましたかね？…とにかくありがとうございます、カーターさん」
「流石ですよ！俺たちだけじゃあ、どうしても見落としも出ちまいますからね」
金髪の男の言葉に、彼ら二人も同調する。彼らは何の不思議もなく黒猫の言葉を聞き届け、会話を続けているのだ。もはやこの様な現象など、彼らにとっては”当たり前”の事実でしかないのだろう。
「…それはだいたい、君に原因があるんじゃないか、タイタス？」
「何を言うかねまりもっこり君！１！１１！！！探偵兼歌舞伎役者兼別格の私を貶めようとはいい度胸だなマントヒ「うるさい！！(ﾊﾞｼｨ」……ハッ！俺は何を！？」
白髪の男をもう一人が茶化すと、白髪の男は突然顔を真っ赤にする。またもいざこざが起きようとした、その瞬間であった。
タイタスと呼ばれた男の足元に、不意に、奇妙なものを踏んだような、不快な感触が襲った。
「うお！？なんか踏んだ！？」
奇怪な感覚に正気を取り戻し、タイタスはさっと離れて振り返る。
見れば暗闇の中に一匹の、かなり巨大なカエルが、人ひとりに踏まれたにもかかわらず、ピンピンとした調子でそこに佇んでいた。
カエルはただ、ゲコゲコと鳴き始める。
「こいつは…カエル！？で…でかいぞ！」
「こんな街中に…？日本は変わった環境なんだな…」
「！タイタス！マリニー君も！そこから離れたまえ！早く！」
金髪の男…カーターと呼ばれた男性が何かを察知し、彼ら二人に警告を発する。
二人は慣れた様子で、遅れることなくすぐさま、その場から警告どおりに離れていた。
カーターは続ける。
「見ろ、あの体表を…わずかだが、あれは猛毒だ。」
「本当だ！暗がりで気付かなかった…！」
見ればカエルの外皮は、暗がりゆえによく見えないものの、毒々しい色で彩られている。
ソレは鳴き声を上げて、まだそこに立っているだけだ。皆が固唾を飲んだ次の瞬間、タイタスの声で、あたりに悲鳴が響きわたった。
「うわああ！！俺のおニューの靴が！！」
しゅうしゅうとかすかな音を立てる、カエルを踏んだ方のタイタスの靴底は、見るも無残に溶けかけていた。
それは何より、その猛毒の凄まじさを示すもの。彼ら一行は、未だゲコゲコと甲高い鳴き声を出すカエルに対して一層、警戒色を強める。
「靴だけでなく、足まで持って行かれずに幸いだったと思いたまえ、タイタス。それよりも、このカエルの毒性…」
「ああ、こいつぁ───新しい災害系サーヴァントと見るべきか…！？」
「いや、それにしてはおかしいよ。大群じゃあない…」
あれこれと推論を飛ばす一行の最中。カーターの肩に乗った黒猫はただ一匹、カエルの姿を硬直して、唖然として見据えるばかりだった。
こういった場面で口を出してこない様子と、またその黒猫自身の異様な姿にふと違和感を覚えた彼は、黒猫に向かって話しかける。
「どうしたんだい、オスカー」
「…違う」
黒猫…オスカーはただ一言を、カエルに対して絞り出し…そして、真実を告げるために、言葉を続けた。
「この者……”喋っている”───────」
「「「…は？」」」
───────
──────────
──────────────
────────────────────────────
──────────────────────────────────────────
きっと───────
きっとこの魔境の少なくない者が、彼の言葉を受け取るのだろう。
誰がそれを解せるかはわからない。誰がそれを汲み取るかはわからない。
だが、彼の真意を理解し、その懇願を成就させようと考える者たちが居たならば…
彼らは、遅かれ早かれ、ただひとつの残酷な真実へとたどり着く。
｢…ｱぁ｣
“彼”は───────────この怪物は────────────
｢…やｯﾄ､来てｸﾚたのｶ｣
─────────滅ぼされなければならない。
亜種特異点
A.D.1999 悪性隔絶魔境 泥新宿”異章”
DRAGONS AWAKEN──────BRANCHED-『気がかりな夢』
TITUS CROW SAGA VII
LA UMANA COMMEDIA
FIRST REBELLION
FINAL DUTY:”VICTORY”
FALLEN BELIEF
LAST JUDGEMENT
THE END IN FIVE
DEUS EX MACHINA
分岐条件:
1.”ダンテ・アリギエーリ”生存状態で”タイタス・クロウ”ではなく”泥新宿のランサー(2)”に同行
2.”ロスト”真名未開放(“泥新宿のライダー”未接近)状態
3.”トーキョークーロン”既探索状態(クリアの必要なし)
4.上記条件を満たした状態で一定日数経過
→上記シナリオ出現。「”ヨルムンガンド”が召喚された」事実が確定する。同時にラストボスとして”アンゴルモア”召喚確定
[TIPS]
泥新宿”異章”は首謀者が”泥新宿のアークエネミー”を召喚、これを撃破する「FORETOLD TOWN 1999」ルート(通称:メインストーリー)クリア後に現れるルート群です。
一週目には存在しなかった選択肢(ヒント付き)やSUPPORTサーヴァントの選択、クエストなどをクリアする事によってシナリオが分岐。一週目で活躍の場がない、あるいは姿を見せなかったサーヴァントの活躍を見ることができます。
分岐は上記以外にも多数の隠しストーリーが存在します。貴方の選択によって、まだ見ぬ泥新宿の姿を開拓しましょう。
どこまでも続くように思える、風のない、地平とも知れない場所。
ひとりの男が、この孤独で静寂に満ちた、冷たく、どうしようもなく寂しいどこかを歩いていた。
それは生気のない、どこか苛立った風のくたびれた男だった。
男はその身体を引きずり、何のためでもなく、どこに行くでもなく、ひたすらに暗闇の中で、ゆっくりと手足を動かし続けていた。
「ここはどこだ？」そんな疑問が男の頭の中に浮かんだが、数歩進んですぐに脳裏から消えていった。
どうしようもない暗がりの中で、男は不思議と孤独や恐怖などは感じていなかった。あるいは、それを不思議と感じてさえいなかったかもしれない。
男が動かし、その身体をどうにか前へと進ませているのは、いつもの二本の足と二本の手。
ふたつの瞳でそれをぼんやりと眺めていると、男の心の隅にはふと、思いあたる何かがあった。
「これは、本当におれなのか？」
どこか遠い昔か、すぐ昨日かの過去には、男の歩みはここまで軽くはなかったはずだ。
そんな曖昧な疑念が消え去ってしまうよりも早く、男は自分に問いかけた。「待てよ」
「…おれとはなんだ？」
その思考さえも、空虚な歩みを進めるうちに、男はいつしか忘れ去ってしまった。
──────
────
───
男がこのだだっ広い暗闇を歩いて、どれだけの時間が経っただろうか。
浮き出ては泡のように消えていく思索を何度も何度もくり返しながら、男はまだ、道なき場所をひたすらに歩んでいた。
男はずっと、そこをさまよっていたのだ。なんとなく始めた事を、なんとなく終わらせられないままに。
終始つきまとう気だるさはあったが、疲れを感じるという事はなかった。むしろ重い足取りの割に、どこか心地よい、懐かしい軽さを感じる肉体は、その作業を苦でなくしていた。
ここがどこかという疑問は、男にはもう浮かばなくなっていた。ただ自分はここにいるものなのだという、根拠のない、奇妙な納得が、男に不思議な安心感すら与えていたのだ。
長い長い、安寧に満ちた孤独。そんな夢現のような安堵の中、永劫に続くと思われた歩みのさなかであった。
今まで自分の手と足とばかりをぼんやり眺めていたうつむいた両目が、ふと、男の進む前方へと向けられた。
「…あれは？」
男の目の先には、果たして今まで見た事のない奇妙な点が輝いているように見えた。
漠然とした変化のない暗闇の中で、突然にして現れたその存在に、男はすっかり目を奪われ、いつかその手足を動かすことを忘れていた。
「…あの、光は…」
ほどなくその輝きは強まり、点が円に、円が波となって広がり、模糊たる空間を照らしていく。
暗闇になれた瞳には強烈な光に、男は思わず、目をつぶって───────
──────やがては男もまた、広がる光に飲まれていった。
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─
ある夜、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目覚めたとき、自分の身体が不自然な重みに満たされている事を発見した。
目覚めてすぐに、寝ぼけた眼には鮮烈すぎる無数の光が目に入り、彼は思わず、目をつむろうとする。
しかし何故か、それはできなかった。彼は結局のところ、そのまぶしすぎる光を目に入れ続けなければならなかったのである。
何度かいまいましそうに辺りを見回した後、彼は周りがどこかを確かめようとする。
それは自分の部屋、朝起きて見るよく見知った壁に囲まれた、まともな部屋などではなかった。
彼はまず、冷たい風を感じた。次に聞こえたのはやわらかな海の潮騒。そして先ほどから見える灯りは、空の星々ではなく、そのさらに下に輝いているらしいことを見つけた。
彼の眼前には例えるなら、漆黒の積み木を並べ、その中にまたぎらぎらと光る七色の星を散りばめたような光景が、あたり一面に広がっていたのである。
見たこともない明らかに異質な風景に対して、グレゴールは何故か、それが”街”であると無意識のうちに理解していた。
そして自分の立っている場所はおそらく、巨大な鉄橋の上であろうという事まで。
「おれはどうしたのだろう？」
十分睡眠をとっていたはずだったというのに眠気がおさまらず、それだけでない妙な具合の悪さが彼の肉体を襲っていた。
次に自分の身体を見ようとしたが、頭がうまく動かない事に気がついた。彼は深いため息と共に、ここらあたりの地形を────すなわち、ここが海上である事を────思い出し、水面に自分を映そうと考え、橋の端までゆっくりと歩いて行こうとした。
そこでかすかな異変を感じ、彼ははっと目覚めたように、その巨大すぎる身体を震わせる。
彼の足は二本ではなかった。人間のものでもなかった。
グレゴール・ザムザは、自分が橋の上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。
あのか細い何本もの足。あの盛り上がった茶色の腹。光る甲殻のようなおぞましい背中に、いくつもの目のついた怪物の姿。確認こそできないが、彼は感覚でそれを憶えていた。
かつて遠い日の、いつかの自身のみじめな姿を、彼は自分自身で発見したのである。
「ああ、そうだったか」
グレゴールは─────その時は意外にも、その事実を冷静に受け止め、自らの姿を、あのみにくいぶざまな自らの姿を、深い記憶の中から掘り起こした。
そういえば、そんな事もあったと。あの、つまらないあの人生には、そんな悪夢もあったはずだと───────
──────
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─────────────────
�狃�けて！どうか助けて！��
�爐泙織哀譽粥璽襪�！��
�爛哀譽粥璽襪里箸海蹐悗い�せて！あいつはわたしのかわいそうな息子なのだから！��
�爐�父さん、お母さん��
�爐發Δ海譴泙任世錙�こんな怪物の前で兄さんの名前なんかいいたくはないわ��
�爐△い弔�われわれのことをわかってくれたら��
�爐世�、こんなふうじゃあねえ��
�爐△い弔呂い覆�ならなければならないのよ��
�爐△い弔�グレゴールだなんてことが、どうしてありうるのでしょう��
�爐箸Δ箸Θ；；；；，海譴如���
�爐舛腓辰箸瓦蕕鵑覆気い茵�すっかりのびてしまっていますよ！��
�犹爐鵑世痢���
�爐海譴猫�
�狄斥佑亡脅佞任�る��
─────────────────
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──────グレゴールの頭についたいくつもの眼が、ふと翳ったように見えた。
彼は深いため息らしき音を出して、いらだったように顎のはさみを鳴らす。
「…”ちがう”。ここはちがう」
その心のうちで密かに揺らぐ感情の異変はその実、困惑や、あるいは恐慌といった類のものではなかった。
「おれは、あれでおしまいなんだ。」
彼は、今引きずり出したばかりのその記憶のすべて───あの辛気くさい、下らない人生のフラッシュバック。それだけが自分にとっての全てであり、そこで自分は終わったのだ───ということを、無意識のうちに理解していた。
その心中でのみ下されたあいまいな確信だけが、漠然と彼の意識をいらだちへと誘っていた。何故ならば、これが神のいたずらであれ何であれ、彼があの暗闇から引きずり出されたのは紛れもなく、彼にとっては何ら価値のない、”気がかりな夢”でしかないのだから。
「ともかくこんなところに意味もなくとどまっていないことだ」
グレゴールは自分に言い聞かせ、その巨大な身体をどうにか動かそうとした。
が、彼の重い体重と、まったく別々に動くたくさんの小さな脚は、その作業を非常な重労働としてグレゴールに強いる。
いくらかの時間をかけてどうにか、橋の向こうへと自分の身体を向けることには成功した彼は、一息入れようとばかりに腹の穴から不気味な呼吸音を響かせる。
そして目の前に鎮座する、穴のあいた、まぶしく輝く高い橋塔をくぐろうとして、ゆっくりとその脚を用いて這っていこうとした。
だがその行動もまた、先ほど以上にグレゴールにとって大変に骨を折るものであった。か細い脚は彼の重すぎる身体を動かすには、あまりに心もとなかったのである。
「ああ」グレゴールは思った。
「おれにこんな夢を見せて、神様ってやつは何がしたいんだ？」
心の中でついた悪態がふと、彼の口らしき穴から、小さな甲高い雑音とともに漏らされた。
そのかすかな訴えかけは誰に届くこともなく、空の中にこだまして消え去り、やがては散っていったはずだった。
だが────グレゴール自身は暗がりでまったく気付かなかったし、そのことを予期していなかったのだが────そのすてばちな悪態に対して、返事をする人間がそこにいたのである。
『────察しがいいものだ。今はただの幻霊とは言え、君の姿は毒虫のままの様だな』
グレゴールは非常な驚きとともに、その甲殻をぴくりと震わせる。たくさんの瞳を凝らして見やると目の前には、今の彼と比べればごく小さな、ふたつの人影がそこにはあった。
奥の方で何も言わずジッと立っている方の男の風貌は、彼にとってはあまりに見慣れないものだった。
褐色の肌に燃えるような色の瞳、この世のものとは思えない異相。野生的な雰囲気を宿すこの男は、あるいは彼にとって、今の自身の姿よりも恐ろしいものであったかもしれない。
対して手前で彼に話しかけた男は、彼にしてみれば奥の男よりずっとまともに見えた。見慣れない顔つきではあったが、その程度なら彼の仕事柄、出張旅行の先で少しは見た事もあるものだった。
老けぎみの顔と髪色に反して、その背筋はぴんと伸ばされている。使い古された黒コートを羽織ったその人物は次に、奥の異邦の男の方をふり返って、面白みのない調子とともに口をひらいた。
『ウェンディゴ、彼はそこに居るな？』
ウェンディゴとだけ呼ばれたその奇怪な風貌の男は、一瞬の逡巡ののち、不機嫌そうにただこくりと頷くだけだった。
手前の男はその動作をただ一瞥したのち、ふたたびグレゴールの方に目を向ける。
『…原典からして、ろくにそこから動けないのだろうから、心配は要るまいか。』
『なあ、『変身』の主人公────グレゴール・ザムザ。』
「なぜおれの名前を？」グレゴールは思った。彼の少なくともまともだった時代の生活は旅の多い人生だったから、どこかで忘れてしまった知人もいるかもしれなかった。
当惑し、思いをめぐらせようとするグレゴールをよそに、目の前の男は淡々と冷ややかに、抑揚も変化もほとんどない口調でいった。
『『変身(ディー・フェアヴァントルング)』。君の唯一の宝具といえるモノだ。尤も、実態は君の意思など関与しない。制御不能の、通常ならどうしようもない宝具だ』
『…だが、私にはそれが必要なんだよ。毒虫なら何でも成り得る、君の力がね』
ここまで一方的にまくしたてられたのでは、もはやグレゴールに、話をかみ砕こうとする気力も薄れていった。
彼は男の話を無視してか細い足で動こうとする作業を再開しようとしたが、確かに彼の身体は、いくらの時間をかけても目の前の男を追い越せるようには思えなかった。
結果的にグレゴールは黙ってそこにとどまり、男の話を否応にも耳孔に入れざるを得なかったのである。
すっかり手持ち無沙汰となってしまったグレゴールは、ふと思いあたった事があり、男が次に何かいうより前に、彼の質問をわり込ませてやろうと思った。
「おれをここに連れてきたのはおまえか？」
人間にとって非常に不快に響くぴいぴいいう音をその言葉の中に混じらせながら、彼はなんとか人間の言葉として聞こえるよう気を払い、ごく短いその文句を口にした。
男はそれに対して一瞬口ごもってから、不気味な薄ら笑いを浮かべて、馴れ馴れしい調子で彼に話しかけた。
『いや、はや────実に察しがいい。話が早くて助かるものだ』
その言葉はグレゴールにとって、逆に理解しがたい物ではあったが…目の前の男がどのような存在であるかを理解し、すっかり腹を立ててしまうには十分な挑発だった。
「夢の主人だと、くだらない！おれは、あれでしまいなんだ。」
憤怒の声はしかしもう、人語としての均整を失い、単なる化け物の呼吸音にしかならなかった。
のろのろとおぼつかなげではあるが、彼は確かに目の前の男へ向けて攻撃の構えをみせ、ふしゅうといった奇怪な吐息の音をあたりに響かせる。
男はそんなグレゴールの感情の変化を感じとったらしかったが、そんな事は意にも介さぬ風にせせら笑うのをやめない。
だがその笑みもすぐあと、何かを思い出したかのように、数瞬ののちにふと消え去ってしまう。そうした男の、ある種不気味とも思える大きな機敏に、グレゴールは思わずぎょっとすくんでしまった。
『…どの道、君には誰も近付けないようにしなくてはならないからな。霊基の確立は可及的速やかに済ませておこう』
『君にはまず”可能性”を与える。君の創造者(フランツ・カフカ)がそうしたように』
その言葉と共に、奥に立っている異邦の男の顔が微かに、しかし確かに不快そうに形を変えたのが見えた。
グレゴールはだんだんと、この手前の男の方に得も言われぬ脅威を感じるようになってきていた。
何のために自分を連れてきたのかも、何のために自分の前に立っているのかも。この男はおしゃべりな割に、すべてがわからないことが不気味だった。
『…素に銀と鉄 礎に石と契約の大公…』
『…降り立つ風には壁を 四方の門は閉じ…』
男はグレゴールが思索をめぐらしているその隙に、彼へと向けていつの間にかその腕をつき出し、いよいよもって意味の取れない文句をつぶやき始めた。
『…満たせ 満たせ 満たせ…』
『…繰り返す都度に五度 ただ満たされる刻を破却する…』
彼はそれを見て、もういい加減に男が”不気味なやつだ”とはっきり感じとっていた。
どうしようかとすっかり立ち往生してしまったグレゴールなど意にも介さず、男は言葉を続けていく。
『…抑止の輪より来たれ 天秤の守り手よ』
彼がそのたくさんの脚をもって後退を考え始めたとき、不意に、グレゴールの身体にはっきりとした異変がもたらされた。
それはやがて男が、その意味不明な文句を言うのをやめたのとほぼ同時の事であり、またそれと共に、彼の足元が淡く、青色に光り輝いているらしいことを察知した直後のできごとであった。
一斉に身体全体へと、むずがゆく、不快な感覚がほとばしる。彼はその異様なおぞましさに思わず、声にならぬ声を出してしまっていた。
「ぁ…ああ」
それは、紛れも無い”現実”であった。
「ぁぁあああァアア、ぁああアァあああァァアあああァああアァああああ！！！！」
海風をつんざいて、するどい雑音混じりの、想像を絶する苦痛にゆがんだ彼の叫び声が辺り一面に響き渡ると同時に、グレゴールの────今まで手前の男には見えていなかった────肉体が明滅するように、実に不確定な様子で姿をあらわしはじめた。
蜘蛛かと思えばむかで、むかでかと思えばごきぶり、ごきぶりかと思えば蛇へと変わっていく。
手前の男は、異常に変わりゆく彼の苦しみようを見ても、冷ややかにそれを眺めているだけ。
グレゴールはその最中、奥に佇んでいた男がまさに、苦虫をかみつぶしたように歯を食いしばり、いかにも不愉快といった具合でその顔を歪めているのが見えた。
彼の人生のうちでもおよそ経験のない凄惨な苦痛を味わうグレゴールの前で、コートを着た男は淡白に───彼にはとても聞こえなかったが───言葉を発した。
『悪いが、君に幻霊を付与させてもらった。先ほどよりずっと、霊基がはっきりしたな』
『「蠱毒」と言っても、君は知らないだろうな。オカルトの界隈ではそれなりに有名なのだがね…』
相も変わらず目の前の男は、彼にとってはわけのわからない事を口走っている。グレゴールはその頃、身もだえるような苦痛に身を任せてめちゃくちゃに暴れることで、その男をどうにかして害してやろうと苦慮していた。
だがその試みも、身の危険を感じたらしき男の重苦しく響いた声によって、すっかりと阻まれてしまった。
『…令呪を以って命ずる。さらに重ねて命ずる。』
『”そこから動くな”』
『”�狠懃甅瓩砲覆譟鼻�
グレゴールは、その男の右腕が赤く不気味な光を放った瞬間、自分の肉体が何か硬く丈夫なひもか何かで縛られているような感覚におちいった。異常な変身はおさまったものの、彼の肉体はすっかりそこに接着されてしまったように動かなくなってしまっていた。
彼は結局のところ、身を走る激痛に身もだえることすら出来ず、彼は異様に巨大な、毒蜘蛛の姿でその場にとどまる事を余儀なくされたのである。
グレゴールは血走った瞳で男をにらみつけ、その動向を監視するより他に出来ることはなかった。
『蠱毒。何百種もの毒虫を争わせ、最後に残った一匹をもって呪術の使い魔とする儀式の概念。…もっとも、魔術の儀式などとしてはアンティークもいいところだが─────』
『その儀式が君の『変身』の宝具と合わさる事で、君の肉体内では無数の毒虫たちによる、永遠に終わらない君自身の主導権争いが行われているのだ』
『さて、私は今、君を仮に”蜘蛛”と規定したわけだが────』
『────そうすると、何が起こると思う？』
異様な感覚に声をあげようとする間もなく、彼は自分の身体がおぞましい何かに変革していく事を認識した。
元よりその身体は人のものでなかったとしても、それ以上におそるべき何かが、この怪物の身に起ころうとしている事をすぐに気づいたのである。
だが彼にはもはや、それをどうにかできるだけの力はなかった。彼の腹がごぼりと音を立てて、体内から何かが、彼の意に反して出て行こうとするような感覚に襲われた。
『───主導権争いに破れた残りの蟲達は、君の身体から這い出てくる。』
『君という存在に変身できなかった蠱毒の蟲たちは、君でない存在として自立するのだ』
男の言葉とほぼ同時に、幾多の小さな何かが、彼の身体から這って出ていくのを彼は感じた。
またひどい痛みと共に、明らかに異様な体液が、彼の肉体から染み出してくるのも、グレゴールははっきりとした苦痛という形でそれを認めていた。
そのどす黒い体液の一滴が橋へと滴ったとき、何かが焼けるような音と、ひどいにおいの煙と共に、その地面へ小さな穴を開けた。
『君の体内はもうおそらく、めちゃくちゃだ。無限に君は蠱毒を成す蟲達に変身しようとするし、その蟲達はさらに互いに命を貪りあい、君という存在を奪い合う。』
『君でないものは這い出てきて、死んだものは毒となって君自身と周囲を蝕む』
『そうだな。今の君の宝具は、名付けるなら─────』
『『致命の循環(ディー・フェアヴァントルング)』か』
そうして男はまた、彼に向けてふたたび近付いていった。グレゴールにとってそれはもはや、自分にとってろくでもない害をもたらす事ぐらいはわかっていた。
『…霊基も安定した。では、仕上げと行こう…』
それでも彼が、もう何もできないことはその場の誰にも明らかだった。彼は苦痛にひどくその瞳を曇らせながら、男の動きを注意ぶかく観察するより他になかった。
その時初めて、先ほどウェンディゴと呼ばれていた奥の男が、辛抱たまらないと言うように、切羽つまった怒声を上げた。
『おい、まだ続けようってのかよ！！』
しかし男は彼のほうへ歩みよったままで、相も変わらない冷ややかな目とともに、異相の男へと声を返した。
『まだだ。むしろここからだ。私が彼をわざわざ呼んだ理由はこれだ』
『…新宿特異点の外周を成す蛇だけでは、この特異点の破滅を世界へ伝播させるに至らない。元々、そういうふうに私はここを作ったのだからな』
異邦の男へと語る口調が、だんだんと熱を帯びていく。何か悪いものに取り憑かれているかのような異様な雰囲気とともに、男は言葉を続けた。
『ならばそれに変わる、いや、それを脱皮させ羽ばたかせる、世界を包む神たる蛇こそが、私には必要なのだ。だが、�爐△讚瓩呂修里泙泙任牢�べない。彼の、”変身”の力を使うことを除いてはな！�爐△讚瓩鯒北任泙任砲海寮い亡�ぶ、私が思いつく限り、これこそがなしうる最善の方法だからだ！！』
まるでそれが、自分の命にかかわるといった風な、ある種すっかり気が狂ってしまったような一転して強い語調で、男はひと息でまくし立てる。
そのあまりの語気の勢いに、異相の男は一瞬口をつぐんでしまった。
『…アンタもたまには、燃料を使うんだな？』と、少しあざ笑ったような調子で男に対してひとこと言ったのち、すぐに───表情は同じようだったが、その瞳のうちにわずかな翳りを見せて───グレゴールをただ黙って、眺めているのみだった。
ウェンディゴなる男のそうした様子を確認したのち、男はふたたびグレゴールの方を向いて、元の淡々とした調子で言った。
『さて。…君にもうひとつ、可能性を追加する。特級の”毒虫”だ。リヒャルト・ワーグナーぐらい知っているだろう？君はドイツ人だったよな？「ニーベルングの指環」第４節だ』
確かにそんな劇作家の名前には、聞き覚えがあった。
妹を音楽学校に行かせてやっていたものだから、そんな単語を家の中で小耳に挟むことも二度や三度ではなかったかもしれない。
ただ、彼自身は小さく狭い家の中で寄り集まって過ごしていたものだから、実際に劇などを興する余裕などまるでなかった。そのために、男の提示した質問に対する答えを見つける事は─────そもそもグレゴールには、それに答えようなどという意思はなかったものの────できなかった。
『何だ、解らないのか？…仕方のない、これだから教養のない人間は困る。…おっと、今は君は虫だったな』
『ラグナロク。世界終末神話──────ワーグナー流に言えば、"ゲッテルデメルング"というやつさ。君の時代(フランツ・カフカ)より成立は前だったかな？』
『神々の黄昏───────実に終末には、ふさわしい幕引きだと思わないかね？』
男はトレンチコートの懐からいくつかの非常に古びた、なにやら総じて蛇をかたどったような異質な形状の骨董品を取り出して、彼の目の前に並べていく。
彼にはそれが何かなどわからなかったし、それを聞く気力も一切わいては来なかった。
それらがおそらく並べ終わったように見えたとき、グレゴールの前に並んだそれらのおびただしい量は、ちょっとした骨董品店を彷彿とさせる様相だった。
整頓された沢山の古びた紙切れに、あるいはその逆に、妙にきれいに見える装丁の本や、蛇のように見えるかざりつけ、まじないに使うと思しき奇妙な形の小物まで、多種多様な奇怪な品々が揃えられていた。
きれいに並べられたそれらを満足げに見渡したのち、男はグレゴールに向けて、わずかな声をかけた。
『…君には、その一助となってもらう』
『終末とともに、世界を包む蛇に』
彼自身は幻霊であり、それ故に、現界に際して細部にわたって十分な知識を得ている訳でもない。
また生前には男の言う通り、十全といえる教養もなかった彼にとっては、その蛇とやらが自分に何を起こすかなど知れたものではない。
『さあ、はじめるとしよう』
だがそれでも、彼は動きもしない身体を必死に動かそうともがいて、男の行動を止める事を無意識的に求めていた。
“それは危険だ”という、ある種の本能に駆り立てられたかのように。
しかしそれは結果的に全て、まったくむだな骨折りに終わった。そのある意味では非常にみじめな一連の努力を前にして、ウェンディゴなる男が明らかに、グレゴールから目をそらすのが見えた。
彼は最初から最後までなすすべのない状況のまま、ふたたび男の発した、わけのわからない呪文を聞き入れるよりほかになかったのである。
気のせいだろうか。今度は男の言葉が一語一句ごとに、彼にとって確かな重みをもって聞こえてくるように思えた。
──────素に銀と鉄 礎に石と契約の大公
──────降り立つ風には壁を 四方の門は閉じ 王国に至る三叉路は循環せよ
男の言葉と共に、グレゴールの這いつくばっている地面がぼうと怪しい光を発するのが見えた。
彼は今ここで初めて気が付いたのだが、その灯はどうやら、彼の乗った鉄橋の上に描かれた複雑な紋様に沿って浮かんでいるらしかった。
明らかに作為的な一連の行為に対して、グレゴールは改めて目の前の男に対して恐怖にも近い不気味さへの忌避を抱きつつ、どうにもならない事に対する投げやりなあきらめから、すっかり全身の力を無気力に抜いてしまっていた。
──────閉じよ 閉じよ 閉じよ 閉じよ 閉じよ
──────繰り返す都度に五度 ただ満たされる刻を破却する
グレゴールはふと、ちらりと男の方を見てみた。そこでグレゴールがひどく動揺を受けたのは、その男がいままでの仏頂面とはまるで異なった表情を見せていたからにほかならなかった。
男は笑っていた。それも、ひどく子供っぽく無邪気で、妙ちきりんな奸計や悪意などは微塵のかけらも感じられない様子とともに。だからこそそれは余計に、その男の異様な気色の悪さを明るみに出していたのだ。
まるでまったくもってあなたに敵意などありませんよ、といった風な、いかにも人なつっこい感じのその笑みは、その男が今まさに何をグレゴールにしているのかという問題を考えるまでもなく、彼にとってはまるで理解のできない、奇異で、異次元的なできごととしてさえ、グレゴールには感じられたのである。
──────告げる
──────汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に
──────�狢腓い覆觴忰瓩隆鵑詈佞暴召ぁ，海琉奸，海陵�に従うならば応えよ
ここで彼は───それまでも十分そうだったのだが────明らかな異変が、彼の身、それどころか彼の周囲一帯に起こりつつあるのを認識していた。
堅固な外骨格におおわれた筋肉が緊張し、体温が急激に下がっていくのを自分の肉体に感じながら、グレゴールは、そのおそるべき予感に背中の甲殻をふるわせていた。
それはまさに、自分ができるわずかで矮小な、ちっぽけな想像など遥かに超えるような出来ごとを示唆するような悪寒そのもので、グレゴールはただその「何か」が起こるであろう時をおびえ、地べたをなめて待つ事しかできなかったのである。
──────誓いを此処に 我は常世全ての善と成る者 我は常世全ての悪を知る者
──────然れど 汝は人に非ざる御身が故に
──────汝 災禍を常世に齎す者 我はその破局を臨む者──────
「やめ─────ロ─────」
その制止は自分自身から発せられたものだと、グレゴールはしばらくの間気がつかなかった。
グレゴールを今まさに襲う身もすくむような寒気と、彼の身体をしばり付けている目に見えないひもとが彼の動きを阻止していたにもかかわらず────
グレゴールは無意識のなかで、この悲痛にひびきわたる、嘆願するような意味合いの音を、いつのまにか発声していたのである。
それはほぼ、本能のようなものであった。異形の化け物となってなおまともな思考力を保っていたグレゴールであったが、このときはただ完全に、彼の動物的な本能にまかせてその音声を口にしていたのだと、彼は自分自身で悟った。
それが意味するところは、これから起ころうとする事は少なからず、彼にとって、少なくとも彼がかつてそうであった生物にとって、最悪の結果をもたらすものであろう事を、彼はその意せずして出てきた言葉に気づくとともに、同時に認めてしまったのである。
──────汝 三大の言霊を纏う七天───────
…だが、男の言葉は、それで止まるはずはなかった。
男は今まさに、グレゴールのおそれていた予感を的中させるべく、相も変わらない、むしろ半ば恍惚さすら浮かべたようなおぞましい笑みを浮かべた表情で、全身から汗を吹き出しながら、血の混じる声と共に、力強く最後のひとことを言ってしまった。
──────抑止の輪より来たれ 天秤の守り手よ──────！！
骨董品が突風とともに吹き飛ばされ、夜闇に舞っていくのが見えた。
足元の紋様が鮮烈に光を放つと同時に、夜の冷たい海風の全てが、自分の方に集まってくるように思えた、その瞬間であった。
「───────────ァ」
グレゴールにとって、あるいはあらゆる”人間”にとって、もしくはこの世すべての生きとし生けるものにとって────おぞましく不愉快きわまりない、おそるべき何かが、彼の肉体内をめちゃくちゃにのたうち回るような幻覚が、グレゴールの意識の中に飛び込んできた。
────しかし、それは幻覚などではない。その事実をすぐさま認めたのは、他ならぬグレゴール自身だった。まさに彼の肉体内には、まったく彼にとって想像を絶するような、ひどく彼の身に余る過剰すぎる力をもった、理解できない這いうねる何者かが、彼の全てを脅かしていくかのように侵略していくのを、彼は鮮烈な感覚として理解してしまったのである。
同時に彼の肉体のこわばりが解けて、おびただしい過剰な力に促進されたかのように、グレゴール自身の身体がみるみるうちに肥大化していくのがわかった。
数秒もしないうちに彼は、その鉄橋の巨大な橋塔と同じぐらいの高さとなり、その大きすぎる腹は橋の幅を越して、橋を完全にふさいでしまうような巨大さにまで変化してしまっていた。
しかしグレゴールの意識はもはや、そこには向いてはいなかった。彼にとっては、その明らかな変化というよりも、それをもたらした、彼の中で今まさにうごめいている「何か」こそが真に恐怖すべき、そして注視すべきものなのであって、そしてそれ以外の事はもう、彼にとってはささいな問題に過ぎなかったのだ。
もはや彼の叫び声などが上がるよりも前に、グレゴールはこの一瞬のうちに、およそ今起こったことのうちで分かるべきことは、すべて認識してしまっていた。
それはただ、�猝楹个瓩討呂覆蕕覆い發里�、自分の中で目覚めようとしている�瓩箸いΑ�漠然としたぼやけた言葉でしか片付けることのできない事柄であった。
それでもその、曖昧ながらも確かな形を持って彼へと接近してくるまさに名状しがたい悪寒は、およそ絶望にみちみちた実感として、現在のグレゴールの前に無慈悲にも突きつけられていたのである。
「ァ───────ァアああああァアアああああああああ！！！ッッァアアぁああああアァァァァアアアアアああああああアアアァァァアアアアア！！！！！！」
グレゴールの、もはや化け物のほえ声としてしか認識できないような、しかしひどく悲痛な響きをもった叫び声が、海面を揺るがすように轟き─────それと呼応するように、どこか遠くで、異なるけたたましい咆哮が海に、街全体にこだました。
想像を絶するおぞましい感覚に襲われる中でどこからか聞こえてきたその轟音は、恐ろしいことに、今のグレゴールにとってはある種のなつかしさ、ある種の親近感をもって受け入れられるように思え、彼の恐慌を幾分かやわらげるのを手助けしているように感じられたのだ。
そして、それが今まさに自分の中で這い回っている「何者か」に関係することがらである事を、彼はなにゆえか把握し────そして同時に、把握できてしまった事そのものを恐怖していた。
『ハハ─────ハハハハハハハッ、ハッハッハハハハハハハハ─────！！』
グレゴールにはもう、男などを見ている余裕はなかったが、今のその男の様子を見ていたのならば、きっとぞっとするような思いを抱いていた事だろう。
男はいよいよ気が狂ってしまったような勢いでもって、目の前の肥大化するグレゴールを前にしてなお、ばか笑いを上げていたのだから。
『聞こえたか、あの”大いなる蛇”の呼応が！！私の召喚は成功したのだ！！！…ハ────ハハハハハハハッ、ハハハハハハハ───！！』
先程のグレゴールのものではない咆哮はまさに、この新宿特異点を囲む”蛇”のもの。
まさに「ウロボロス」として眼前の男が召喚を成功させたそれが、彼の身に降り注いだ異変とともに吠えた。それはすなわち─────
グレゴールの身を這い回っているものはまさに、その「世界蛇」に類する”何か”である事の何よりの証左であり、結果的に、男の当初の目的が達成されてしまった事をも同時に示す事でもあったのだ。
『おお、おお！！この力の氾濫を見ろ！！破滅だ！！まさにこの世界を終焉へと導き、すべてを潰滅するにふさわしい引き金だ！！』
男の熱っぽい演説とは裏腹に、ずっと何も言わないでいた褐色肌の異相の男は、ただ黙って、きわめて不愉快そうに、屈辱的な表情で、変わり果てたグレゴールを見ているだけだった。
その男の、かたく食いしばった歯でもって噛み締めていた下唇からはすでに鮮血が流れ出しているのを気にも留めずに、ウェンディゴなる男はただ、眼前のグレゴールの様子を、血走った目でその瞳に焼き付けていた。
『ここにて眠るは世界蛇！！”大地の杖”にして”人界の蛇”！！かの世界蛇の原典にして、終焉とともに目覚めるもの！！』
『────────即ち！！『途切れた永劫(ヨルムンガンド)』で或る！！！───ハハハハハ、アッハハハハハハハ…！！！！』
男が何かに憑かれたように笑っている途中でグレゴールは、同時に彼の身体から這い出てくるものたちにも異変が訪れたことを察知した。
今まではただ小さな虫けらばかりが漏れ出していたばかりであったが、彼の肉体の巨大化とともに、それらも合わせて大きくなっていくのが感覚としてわかったのだ。
グレゴールは、気分が悪くなるほどに莫大な力が、体内の「何か」からもたらされるのをはっきりと感じていた。
それによる影響を受けたのだろう。先程から、彼の腹から漏れ出てくるどす黒な体液は滝のようになって海まで流れ出ていくし、どんどんと蟲達が溢れかえるようにして、彼の腹部から這い出していくのがわかった。
その中でも羽を持った類の種が、人ほどの大きさをもってぶんぶんと彼の頭のまわりを飛び回るのを彼は認め、その一匹が彼の頭の上に止まった。
「邪魔だ」いらだたしげに、崩落しそうな意識の中でグレゴールがかすかにそう思考すると、彼は微動だにしていなかったにもかかわらず、あたりを飛び回っていた虫たちが、彼の身体から離れていく。それを見たグレゴールは、はっとしたように意識を現実へと引き戻した。
ある程度は彼らを操れるのではないか。そんな予測が、グレゴールの中に浮かび上がった。それは現在の彼にとって特筆すべき発見に他ならず、そしてその予測はおそらく確実なものであろうと、彼は推測した。
それを理解したグレゴールがいかなる行動に出るかという問題は、深く考えるまでもない事であろう────────
────────…いち早く周辺の異変に気がついたのは、ウェンディゴなる男であった。
まず男は、あたりに出現し始めた蟲達までもが異様に巨大化している、という事を認めたのち、同時にそれらが、奇妙な統率のもとに動いているらしいことを発見した。
もっともそれらは一元的な「どこかへ向かう」だとか「何かをする」といった、蟲の域こそ出ない動作ではあったものの、群をなすわけでもない互いに別種の蟲達が、異様な連携をもって行動している事は、元より野生に近い環境にあったウェンディゴにとって、非常に不可思議なものに映っていた。
そして真なる問題は、蟲達の行動の”目的”であった。それらは明らかに、ウェンディゴの前で未だに笑っている男─────彼の「マスター」たる男を害するために、その場所へと、徐々に密集していくように思えたのである。
大量の羽虫達はどれも人ほどの大きさを持っており、そして皆々が、程度の違いはあれど、凶悪な牙や毒針を保有している事は、少しばかり見ただけでも確認できる。人ひとりなどがそれらに襲われようものなら、決して生存への希望など望めないであろう事は、誰の目にも明白な事実であった。
そのような恐るべき異形の羽虫たちは、もうそのすぐ近くまで、男をとり囲むようにして集まってきていた。そこで初めてウェンディゴは、蟲たちがそのおのおのの武器をもって、まだかれらなど眼中にないといった具合で恍惚にひたるその男を、今まさに、かれらの記念すべき最初の贄としようとしている事に気がついたのである。
それを知ったウェンディゴは一瞬その場から駆け出しかけたが、しかし何か思い留まったように立ち止まってしまった。
そして拳をかたく握り、目の前の男を睨みつける。彼が立ちすくんでいたごく数秒間のうちにどれほどの、いかなる思考がその脳裏をかすめていったかは定かではなかったが─────
ともかくウェンディゴは結局、男が毒虫にたかられ、食い荒らされようとするまさに直前、その身をさっとおどらせ、男のもとへ駆け出していた。
『─────しっかりしやがれ、テメェ！！』
ウェンディゴが怒号を放つとともに、その身にかすかな冷気を感じたグレゴールは、次の瞬間、驚きと共にその目をみはった。
男のまわりに密集して、今まさにその毒牙をかけようとしていた羽虫たちが全て、一瞬のうちに、見えない不可思議な何かによって両断されていたのを視認したのだ。
彼らの体内を巡っていたどす黒な猛毒の体液でさえ、飛び散るまもなく凍りついて地に落ち、砕け散ってしまうまでを目の当たりにしたグレゴールはたしかに仰天していたが、それはしかし、その不可思議な現象を目の当たりにした事自体への驚きではなかった。
なぜなら、彼はその現象がもたらされた理由をいつのまにか、何者かの手によって、その脳裏に刻みつけられていたためであった。
眼前のウェンディゴなる男のように、人ならざる力をもって、人のような存在に仕える者たちの事を、すでに彼は知っていた。彼の仰天の理由は単に、その男が”それ”であったということに対するものであった。
グレゴールはいまいましげに顎のはさみを鳴らして、かれらの総称を────彼のような、もはや人ではない者たちの名をつぶやいた。
「……�爛機次張凜．鵐鉢瓠帖�！」
それをよそに、ウェンディゴなる男はすぐさまコートの男へと駆け寄っていって、その身体を抱きかかえてから、その紅の瞳でもってグレゴールを一瞥したのち、ただひとことを伝えた。
『…悪いね、旦那』
『俺はまだ、消えたくないんでな』
その言葉を発すればすぐさま、ウェンディゴは空を見上げた。周囲の、グレゴールから産まれて出てくる蟲が時とともに数を増していき、また、そのすべてがウェンディゴと男への明確な殺意を持ちながら彼らに接近しつつあることを確認しながらも、ウェンディゴはその膝をぐっと折り曲げた。
『────『風に乗りて歩む者(イタクァ)』ッ！！』
ウェンディゴが声と共に膝を伸ばして飛び上がれば、男を抱きかかえたその身体は、どのような理由かたちまち鳥のように浮上し、宙へと浮かび上がっていってしまった。
追いまわしてくる蟲たちを振りはらいながら、異様な冷たい風と共に、彼らは既に広範囲に汚染され、刺激臭を放ちつつある東京湾上へと飛び立っていった。
風にまぎれて、男はいくらか正気をとり戻したらしかった。だんだんと離れていくグレゴールの姿を眺めて、男は、ウェンディゴの腕の中で呟くように独りごちた。
『────さて。外周を成すウロボロスの召喚に続けて、かの終末の蛇、ヨルムンガンド。余す所のカードは、あと一枚か───』
『───その時までは眠りたまえよ、大地の杖。かの■■■■■■が来たるまで。グレゴール・ザムザに、ウロボロスに変わって、安穏なる午睡から目覚めるまでに』
未だに男の命を狙おうとする羽虫たちがやっきになって彼らを付けねらってくるのを、先程蟲達を両断した不可視の風の刃をもって撃ち落としながら、ウェンディゴはあざけるような調子で、男のつぶやきに呼応するように言い放った。
『カッ！ようやくオーバーヒートが終わったのかよ、ええ、『首謀者』さん？そのカードに殺されかけといて、よくも偉そうに言えたもんだぜ』
『首謀者』と呼びかけられたその男は、しかし────その挑発に対しても、涼しげな様子で返答してみせた。
『…無論、君を同行させたのはこのためだ。私はおそらく、かのヨルムンガンドなどさえも喚んでしまえたならば、喜びのあまり正気は保てまいと推測したからな。…実際のところは、君の見た通りだったがね』
『私が居なくなって困るのは、君だからな。そうだろう？まあ、令呪でも事前に使っておけば確実だっただろうが────』
男の言葉に、ウェンディゴは眉をひそめる。彼はこの男の、どこまでも突拍子のない、それでいて抜け目のない────有り体に言って”食えない”その性質が嫌いであった。
『……ケッ。…俺は空の逃げ道ってわけかよ。てっきりあの、趣味の悪いショーを見せるためだけだと思ってたぜ？』
ウェンディゴのその言葉は、いつものように軽薄な口調ではあったが、それを語る表情は心の底から不愉快だ、といったふうに歪められていた。
街を見据えるその紅い瞳には、微細で、しかし確かな翳りが差し込んでいるように思えた。ウェンディゴはそうしたやり取りの間、男には気取られぬよう、背後に座している巨大な蜘蛛─────グレゴールの姿を、ちらりと振り返った。
『そんな非合理的なことはしない事ぐらい、君はもう分かっていると思っていたが』
『────どうだか。俺にしてみりゃ、このイカれた街そのものが、この世の何より非合理的だと思うがねえ？』
互いに口の減らないやり取りを繰り返しつつ、やがては蟲の追っ手も消えたところで、彼らは陸へと辿り着いた。ウェンディゴは高度を急激に上げて、街に大量にそびえ立つ摩天楼の、そのうちの一つの屋上に着陸する。
そして地へと足を付けたトレンチコートの男────かの一件の「首謀者」は、何事もなかったかのように、礼すらせぬまま、忙しなさそうにウェンディゴへと背を向けてしまった。
『…さて。私は今しばらく、魔力の貯蓄に戻る。君は引き続いて、かの蛇の”秘密”を知る者を追いたまえ』
そのぶっきらぼうな様子にはウェンディゴも流石に頭にきたらしかった。彼はわざとらしく、その背中に向かって声を上げてみせる。
『おいおい、働きづめかよ？命を助けてやったんだ、何か礼の一つでもよこせよ』
ウェンディゴに声をかけられても、男は声をかけようともしないまま、背中を見せるのをやめずに立ち去っていく。
その瞬間、男の右腕が赤く妖しい光を発するのが見えた。ウェンディゴはその閃光と共に、全身の消耗がすっかりもとに戻り、肉体に力がみなぎってくるのを感じながら、男が何をしたのかをも同時に理解し、その背中に向けて、ちっと舌打ちをした。
『…いくらでも増える多角令呪だからって、ずいぶん雑に使いやがる…』
結局その後、男はウェンディゴなど意にも介さずにどこかへ消えてしまった。
彼にとってはウェンディゴがその通りに動く事などは、見越した上での行動なのだろう。また、実際そうする他にはすべき事もないウェンディゴにとっては、何か自分のことを見透かされているような疑念が生まれ、余計に腹立たしい心持ちにさせられたのである。
『…”黙って従え”、ってわけか』
『まったく、どこまでも食えねえ野郎だ。アイツとは、やっぱり合わねえな』
屋上の柵から、海の方を見てみる。遥か向こうには、黒く蛇行する螺旋の世界蛇の姿が見える。
そして海の上には、つい先ほどまでは何事もなかった───今では巨大かつ奇怪な化け物を照らし出すだけのものとなった───長い橋がかかっていた。
『(…あれは確か、レインボーブリッジとか言ったか)』
もはやその意味を成さなくなってしまったその構造物と、その原因たる大蜘蛛の姿を眺めて、ウェンディゴは舌打ちをしたのち、その燃えるような瞳をまっすぐそちらに向けて、どこか哀れむような感傷をもって、他の誰にも聞こえる事のない悪態を、ひそかについた。
『─────俺もアンタも、このクソったれな街じゃあ、本当にままならねえモンだな？』
『……なあ、蜘蛛の旦那よ……』
…────しばらくの間、彼はそこにとどまっていたが、やがては海を背に向けて、今度は大地に広がる摩天楼へと向き直っていく。
彼は、彼の追うべき者を追う。”何のために”など、もう考えるのはやめた。柵を越えて空へと身を投げ出せば、鉄の巨塔の間を縫って、いつしか彼は、闇の中へと消えていくのだろう。
ここは狂った街。妄想も幻想も夢も羨望も憎悪も憧憬も嫉妬も後悔も、此処では全てが混ざり合い、矛盾しながら同居している。
消えゆくはずだったものたちが形を成して、現実と化して表出する、秩序の忘れ去られた混沌たる世界。
故にこそ、人はここをこう呼ぶのだ。
溷濁たる泥濘の街─────────�狹タ圭畢瓩函�
────────────
──────────
───────
─────
同じほどの時間であった。黒く巨大な、蛇行する何かがごうごうとうなりを上げて回転するその目と鼻との先には、その凶暴に走り回るものとはうってかわって、小ぎれいな駅のホームが別世界のような静寂とともにたたずんでいた。
今やこの街においてはすっかり利用価値を失ってしまった、よって人っ子ひとりいない、海の見えるがらんどうとしたこの小さな施設に設置されたベンチの上に、ひとりの少女が座っていた。
彼女の前方にはすぐ、宵闇の向こうに、グレゴールのいる橋が見えていた。見ごたえのあるイルミネーションが今や、奇怪としか思えない毒虫がそこに鎮座しているのを照らしだすだけの装置となってしまっているさまは、そのようないたいけな少女にとってはすぐさまに目をそらしたくなるような、おぞましい光景にはちがいなかった。
だが、その少女においては、それは異なる事実であった。そうした異様な光景を前方にのぞみながらも、その視線そのものは手元に落としつつ、彼女は白い指でしきりに、手にした本のページをめくり続けていた。
「────さて、どうしましょうか。」
「…爆音、騒音、迷惑行為はこの街の常、とはいえ────」
「この列車が”汽笛”なんて、滅多にない事ですもの。…それにしても、あんなに大それているなんて」
ため息と共に漏らされたかのような独り言とともに、不愉快そうに橋上の毒虫の方を見やったのち、彼女はホームよりは数段低い位置にある地上の様子をちらと見る。
海を隔てた埋立地であるこちら側には、一本の橋のみが繋いでいる。この街の主要な脅威である者たちはあまりやってこない。そのおかげか、未だにまともに生きながらえていて、その辺をほっつき歩いている人間の姿も、橋向こうよりはずっと多い様子であった。
だとしてもある種異様な程、彼らには持つべき危機感というものが欠如しているように思えた。
あの橋に鎮座する毒虫グレゴールの姿は明らかに彼らにも見えているはずだというのに、そこらあたりをさまよう人々はのんきな様子で、橋の異常さに誰一人として、目を向ける事さえしていなかったのである。
少女はそんな街の様子を見ながら、傍に置いてあった香水の瓶を手でいじっていた。
（…この辺りの生存者の方々には、とりあえず”忘れて”いただきましたが…）
（あんなに大きいと、またすぐ気付かれてしまうでしょうね。…この辺りは比較的安全だから、お客も多かったと言うのに…）
「…また避難者が増えますわね、あれは。」
彼女はまた、手に持っている書籍らしきものに目を落とす。ただでさえ古むした装丁は今や度重なる読書によって痛みきっており、その題名さえも読み取る事は難しい。さらにそのすぐ下にあるはずの作者名の欄は、まるで意図的に消されているようにも見えるほど、格段にひどく擦り切れていた。
ページの端という端は損傷しており、紙自体も経年劣化からか褐色に焼けている。古本という度を越してボロボロな紙の束に記された、イタリア語と思しき均整の取れた文字列にそって、その赤い瞳をせわしなく動かしながら、少女はひとり思案にふけるようにして、言葉をはき出した。
「…まあ、当分は放っておきましょうか。あの虫が何なのかはわかりましたし。」
「あんなに大声で話しているのだから────”盗み聞き”くらい、あの方々も許して下さいますわよね？」
彼女はそう呟くと、手に持った古本から視線をはずして、海向こうに見える毒虫の姿をまじまじと眺めていた。
（…『あんなもの』と合体した、あのかわいそうな虫さんの事までは分かりませんでしたけれど）
（もっとも、私の知る限り、”虫”と言ったら────）
彼女はふと、その脇の紙袋の中に雑に積まれている、少なくとも彼女の読んでいるものよりはずっと保存状態のいい何冊かの古本に目をやる。
その一番上にあったものをふと手にとって、橋の上の毒虫の上にかざしてみた。
『Die Verwandlung』と題された古びた一冊。
その表紙に描かれている、悲痛に顔をおおった男性と、向こうの毒虫の姿とを交互に、特段に感情のこもらぬ瞳で見やったのち、ふと我に返ったように彼女は頭を横にふって、古本を紙袋の中に戻して立ち上がった。
「…どうでもいい事ですね。”彼”が何であれ、今となってはアレは別物みたいですし──────」
紙袋を片手に持った彼女は、先程まで読んでいたボロボロな本を閉じる。古い紙の匂いがあたりに立ち上るとともに、少女は目を細めて、橋の上の、これっぽっちも動かない蜘蛛をにらんで言った。
「────『世界蛇(ヨルムンガンド)』だなんて、どうかしていますわ。…また、住処を変えないといけないのでしょうか…」
少女はあきれた風な調子でそれだけ言ってから、さっとふり返って、読んでいた傷ものの古本を、大事そうにも、まるで危険物を扱っているかのようにも見える慎重さでもって小脇に抱えつつ、先程からうるさく回転し続ける巨大な何かに接近していく。
通常の人間ならば近寄る事すら憚られると考えられるこの危険な回転体に、少女はそのまま臆することなく、その質量のおそるべき速度から生まれる強風にブロンドの髪を揺らしながら、さも当然といったように身体をそこへと突き出していく。
そして気付いた時には、少女の姿はもう既にそこにはなく─────もとの静寂ばかりが、この場所に残されていたのである。
走行によって生み出された突風のせいだろうか。少女がこの回転体に触れるより前に、何かが古本の頁の隙間から舞っていった。もはや今やそれだけが、この駅において唯一目立って動いているものであった。
『Commedia』───そう書かれた、何処かのページから千切れたその紙片が、音も立てずにひらひらと、静かな寂しさにみちた駅の冷たいコンクリートに落下していき、いつしか、どこかへ飛ばされていった。
───
─────
──────────
────────────
橋上に残された大蜘蛛は───────
グレゴール・ザムザは、うすれゆく意識の中、ほとんど半狂乱で自分の状況をつかみ直そうとしていた。それは冷静に彼が「そうしよう」と思い立ったと言うよりも、彼自身が正気を保つためには、もはやそうせざるを得なかっただけだった。
もはや、あの男を彼の力でもって直接に弑する事はできなくなった。あの男はもう二度と、彼の元へは近づかないという確信があったし、仮にそうであったとして、街中へと虫を放つ訳にはいかなかった。その残酷な思いやりは、今や人の形など微塵も残してはいない彼のうちに、僅かながらにでもあった、人間的な理性(ロゴス)だったのだろうか。
グレゴールは宵闇の中で、無数に生まれ続ける大小さまざまな毒蟲────それらは既に、彼が陸地に出るのを食い止めているとはいえ、橋上のほとんどを占拠しているように思えた────に囲まれ、身体を回る猛毒とにその身を侵され続けながら、それでも、彼にできる「使命」を果たそうともがいていた。
最大の問題は─────彼のうちに未だにひそんでいる”何か”であった。「ヨルムンガンド」など彼は知らないし、よしんば知っていたとしても、それがもたらす意味などは彼にとって、相当理解も及ばぬ次元の話であった。
その身のうちにあふれ出る力の過剰はひとまずのところ落ち着いたように見えるが、それでもこのおぞましい客人は、決してふたたび暴れ出すようなことがあってはならない。
それをはっきりと説明できるだけの理屈をグレゴールは持っていなかったが、それでもその点においてだけは明確な事実だと言いきることのできる何かが、グレゴールのうちには感覚としてあった。
どちらにせよ、グレゴールは確信にも近い決意を、この身の中に潜むなにかに対して抱いていたのである。
──────「こいつは、いなくならなければならない」。
それが、グレゴールの出した結論であった。
しかし、その対象がグレゴールの内部にひそんでいる以上、つきつめていけば最終的に行き着く先は、彼にとっては残酷な現実に他ならなかったはずだった。
しかし、彼は不思議と、その結論をはっきりと認識した上で、ごく自然なものとして、彼自身で受け入れてしまっていた。
｢…あｱ｣
｢…おﾚはこｺでも､死なﾅｹればなﾗないﾝﾀﾞな｣
グレゴールにとってその確信は─────まさにいつかの辛気くさい人生と、まるで同じものを辿っているように思えた。
その記憶の中で眠っていた、彼の妹に思える声の、冷酷な言葉が脳裏でこだまする。
誰からも必要とされなくなり、ただ孤独に死んでいくだけの自分。グレゴールはまるきり同じ道をゆく自身の運命を、そこに重ねあわせていた。
しかし、彼にとっての「かつて」のそれは、彼がそれまで食わせてやっていた、少なくとも彼にとっては、最も大切なものであるはずの存在によって排斥されるという、あまりにもみじめな最期であったのだ。
グレゴールは自分自身で、奇妙な事ではあるが、「これ以上に辛気くさい事もない」というある種の自負にも似た確信をすら、その酸鼻をきわめる人生に対して抱いていたのである。
対して今は、こうなった元凶がわかっている。こうなった理由もわかっている(もっとも彼には、理解などできなかったが)。そして、自分がいなくならなければならない理由もあれば、自分がいなくなって未練のある場所でもない。
だからこそ、自分が死ぬという最期は、行き着く先は同じでも、彼がかつて辿った道程よりもいくらか以上の認めやすさをもって、それを確認できるように思えたのである。
よって、彼の「使命」とは──────
「彼を殺す誰かを探す」ことであった。
そこらの人間ではだめだと理解していながらも、彼は「誰でもいい」と─────ある種切実な思いをもって、その行動を開始した。
蟲といえど、知能のないものばかりではない。本能のほかに余分な思考能力を有する、ごくわずかな数の発達した種───蛇や蛙などの者たちに、彼の”言伝”をさせる事だった。
元より人であった彼でさえ、虫となってしまってはろくに人とは意思疎通もできないのだ。ましてや虫の言葉など、どうして、どこかの誰かに伝わることがあるだろう？グレゴールはひそかに自嘲する。
だがそれでも、彼にとってこの作業は、どうしてもやらねばならぬ価値をもっていた。
グレゴールの感覚の中に今なおひそむ巨大な何者かは、彼に対してそれほどまでの切迫した動機をもたらしていたのだ。
いかなる手を使っても、たとえそれが無意味でも、彼は、この中に潜む何かは─────この世から一刻も早く、取り除かれなければならない。
それを何としても伝える。そのことだけが、現在の彼にできる、ただひとつの使命であったからだ。
彼の言葉を得た蟲たちだけが、橋を越えることを許されて、深く入り組んだ街へと飛び出していく。
それらはただ、誰にとっても不快な虫けらの呻き声にすぎないのか、それとも───────
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小汚く薄暗い、ある街角のはずれ。特段好きこのんで立ち入るような何かがあるわけでもない、街路同士をかろうじて繋いでいるような通路。
発展した街にはつきものといえるこの余分なスペースには、今まさに死にそうに痙攣しているちっぽけな虫けらの姿があった。
ぎいぎいと腹を向けて寝転がり、不快に雑音を発するそれは、誰かがたまたま通りがかったとしても、通常ならば避けられるだけか、あるいは踏み潰されてそこで終わるはずの命であったはずだった。
だがその虫の上には、今まさに、ひとつの人影が静かに重なり続けていた。
深く紅色のにじんだ、古びた汚い布が巻かれた杖をつき、雑音だけを発する虫の前でじっとそこにとどまっている人影の主は、これまたひどく傷んだ布の衣服を身に纏い、頭から目元までをすっぽりと覆ってしまっていた。
何を思っているのか、そのただならぬ雰囲気の男は、虫の前で静かに立ち続けていた。まるで司祭の説教に熱心に耳をかたむける信者のように、男は、その虫から発せられる雑音を、奇妙なことだが、あえてその耳に入れているようにさえ感じられる。
やがてぎいいと一際不快な音を出して、寝転がる毒虫が最後の息を吐き出すとともに、そう遠くもなかった死がそこへ訪れた。
それまで静かに立っているだけだった男は、ふとしたように顔を上げる。ほとんどボロ布のようなローブのへりから、真っ黒く無感動な瞳が唐突にあらわれて、死に絶えた蟲のなきがらばかりを、そこに映していた。
「──────ああ、そうかい」
「…あいつが来るなら…それでもいいさ」
やがて男は何を思ったか、中空に十字を切る。それは───ほとんど信じがたいことだが───、男はこの蟲に対して、弔いの意思を示したということだった。
その蟲の最期の騒音に、何か感じ入るものがあったのだ、とでも言わんばかりに。
それきり男は、このつまらない路地裏から脱出するために、蟲の死骸など意にも介さぬ様子で、ふらふらとどこかへ歩き去っていってしまった。
やがて男は閑静な路地を出て、人通りなどとうに無くなってしまった、わずかに灯のともる公園にたどり着いていた。
その辺りのベンチにどっかりと腰をつき、ふうとため息をつく。静まり返った見通しのよい広場をなんとなしに眺めてから、男はふと、天を仰いでみた。
街灯もほとんどなく、また街明かりも今やまばらなこの街では、夜空の星がよくまたたいているのがわかる。ぼろ切れのような布から露出した男の黒い瞳に映る天には、星々が幾千の光となってその中に散りばめられている。
彼は宙空に輝く北極星を眺めながら、ふと、しみじみとしたようにつぶやいた。
「…俺もこの空も、どれだけ経っても、どこに行こうと変わりやしねえな…」
「…�犹笋呂修諒�を見るが、それは今ではない／私はその方を仰ぎ見るが、近くからではない�瓠弔�」
「…次の八芒星は…この空に登るのかねえ…」
感傷にひたったような、呆れたような、どちらとも言えないくたびれ果てた声があたりに響いた。
男のその黒い眼には、いかなる感情が秘められているのかは測りようもなかったが、彼はまるで枯れ木のようにそこにとどまり、しばらく星を見上げ続けていた。
静寂に男が同化して、いくらかの時が経った頃であった。
ふいに広場の停滞した平穏を切り裂いて、何かが地面に降り立ったような、軽やかな衝撃音がこだました。
続けて砂を踏みしめる音がそのまま、男に向けて近付いてくる。それでもなお星を眺め続けていた彼は、やがて頃合いを見計らって、その足音がある程度の近さまで来るのと同時に、そちらの方へと顔を向けた。
彼の目の前にいたのは、全体的に赤色が目立つ女性であった。その表情の中には少しばかりの疲労と、今まさに沸々と湧き上がっているらしき少しばかりのいらだちとが同居しているのが、一目に見てもわかった。
その姿は男にとっては、ひどく見慣れたものであった。目元を隠したまま、にこりと口元に笑みを浮かべる。…が、それは形だけのものだ。
それが男にとっての歓迎ではなく、「帰れ」というサインである事のあらわれであることは、女性にとってもわかっていたらしい。
だからこそ彼女はその仕草を見るや、男の座るベンチから一定の距離を置いた位置で立ち止まり、かねてから用意していた用件を告げた。
「�爛罐瀬篆有瓠�ここに居たのね…探したわよ」
「…そういうお前は�猯擬蹐雖瓩犬磴覆い�、うるさい方の。相変わらず、”黄金伝説ごっこ”は捗ってるのか？」
ユダヤ人と呼ばれた男はまた、竜狩りと彼が呼んだ女性の言葉へと、情感や気力の特にこもっていない、それでいて淡々と皮肉っぽい口調で返す。
この手の類のやりとりは彼らの間で過去にも何回か行われたらしく、それゆえに彼女はひどく辟易したといったように、呆れつついった。
「…捗ってたら、いちいちアンタの所になんて来ないわよ。また新しい厄介ごとがどんどん増えてるんだから！もういい加減に折れたらどうなの？」
そうしたように、赤髪の女性が急かすように促す旨を伝えるが、しかし男は涼しい様子で、どこか力のない笑いと共に答える。
「はは、それもそうだ。」
「だが、お前が俺をめざとく見つけるのもこれで六度目だ。”あいにく”の先は、言わなくても分かるだろ？」
その返答は───女性にとって予想通りのものではあったのだが───今はいくらか癇に障ったらしく、ついにしびれを切らした風に、彼女は男へと非難の言葉を浴びせかける。
「…ほんっっっと強情ね！どうせここも、アンタの望む終末とは違うものになるわよ。この街のどこに、最後の審判が来ると思うわけ！？」
「それで俺が「”イエス”」と引き下がるとでも？悪いが、これでも我慢には自信がある方なんでね。何しろこの街は原罪まみれだ。もう少し待ってりゃ、ひょっこりあいつが現れないことも無きにしもあらずだろ」
なおのこと動じることなく、考えを変える気など微塵も見せる様子もない男に対して、やはり彼女は呆れたように眉をひそめる。
やがて彼女は、わざとらしく深い嘆息をもらした。男を何らかの目的のためにせき立てようという試みが、またしても失敗しそうである事を悟ったらしい。
心を落ち着けるように公園のそこらを歩き回る。彼女の語調は先ほどよりも強いものでこそなかったが、それでもその口から出ていた言葉はやはり、愚痴に類する男への文句には違いなかった。
「…それは何千年後の話なのかしらね？…まったく、変な�狠懃甅瓩泙能个襪掘△海辰舛和臺僂世辰童世Δ里法帖�
ここで初めて、男が隠された視線の裏で眉をぴくりと動かす。彼女の言葉の一部には、何らかの彼の興味を示す事柄が含まれていたらしい。
すかさず男は、先ほどまでよりも少しばかり楽しげで、浮かれたような口調でもって彼女に問いかけた。
「…へえ。あの蜘蛛を見つけたのか」
「アンタも見たの？…まるで何が何だか分からないし、竜の気配はするし…不気味ったらありゃしないわ」
この街に突如として現れた巨大な毒虫のニュースは、既にちょっとした一大事としてほうぼうで取り沙汰されている問題であった。
彼女はそれを実際にその目で見て来たらしかったが、まるで理解不能であると言った調子で首をかしげつつ、ざりざりと地面の砂を足で蹴り弄っている。
…そして男の中でその事実は、ある種タイミングのいいものだった。彼はにやりと口角を上げれば、隠していた目の片方を明らかにして、女性へ向けて告げた。
「…ああ、それなら…」
「しつこいお前に免じて、”耳より情報”ぐらいならくれてやるよ。俺は加勢しないがな──────」
「…？何か知ってるの？」
「ああ。もっとも、お前がしばらく俺にちょっかいを出さない事が条件だが」
「………アンタねえ！」
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「テンッテッテテンッテテツテンテテン！！１！！１！１！！１１！(爆散)
立川志の輔が落語をやるときの出囃子だ。ただのためしてガッテンおじさんだと思っている蒙昧無知な神性はそこに座ってみどりの窓口でも聞くがいい
さて今週のガッテンはこちら！(ﾊﾞｧﾝ!!)「神性は546Lのバンテリンを摂取すると死に至る」では早速ナンクルナイサー君でためしてみよう。死んだ。ガッテンして頂けたかなナルガクルガ君？鳴門海峡君…？し…死んでる…
見ての通り頭部を破壊するだけで通常のバンテリンのなんと890倍のスピードで死に至ることが判明した。体験してもらった神性たちにもスゥーっと効いて…これは…ありがたい…バンテリンで今日から君も神殺しだ！！１１１！ｶﾞｯﾃﾝｶﾞｯﾃﾝｶﾞｯﾃﾝﾍｪ〜ﾍｪ〜ﾍｪ〜ﾍｪ〜ﾃﾘﾝﾃﾘｰﾝ」
「やめろタイタス！！そのボタンは消火栓だ！」
どんよりとした空の下、辺りは身を包む夜に覆われていた。
大小さまざま、計画的に並べられた無機質な摩天楼の織りなす影が闇を形作るさなか、大都市の煌々たるネオン・サインは、厚い暗雲に隠れた月の代わりに私達を照らし出している。
バンテリンも凍るような奇妙な冷たい夜風が街の静寂のなかを吹き抜ければ、異質な名状しがたい断末魔がけおーっ…と響き渡り、私の耳元をくすぐっていく。
きな臭い事ばかり起こるものだ。私は倒れ臥す黄色く泡立った水溜りを念入りに焼却したのち飛び六方で「目をさませ！」何をするのかねマロングラッセ君！！１１１！「目をさませ！！(ﾊﾞｼｨﾊﾞｼｨ」
「…ハッ！俺は何を！？」
夜の闇に満ちた街の一角で、三人の男たちがちょっとした騒ぎを起こしていた。
────とはいえ、彼らの周囲はすでに廃墟と見紛うほどの静寂におおわれており、その三人を除いて人の気配は全く存在していない。
それどころか、夜風に揺らぐ木々と散り落ちた葉のほかには、そこには動くものすら存在してはいなかった。実質のところ、彼らだけがその静けさのなかでぽつねんと言葉を発して行動する、異質なことがらとなっていたのである。
灯の消え果てた無機質なビルが、さながら墓標のごとく立ち並ぶ。無辜なる民を供物とし、おそるべき怪異が跋扈する、此処はまさしく、墓場の街と成り果てている。
それゆえに、この場にいる彼らの行動、ひいては存在そのものをとっても、それは非常にこの場にとって似つかわしくなく、奇異なものとして、その周囲だけを浮き彫りにしているようだった。
その騒ぎの中心であった、奇妙な髪型をした白髪の男────あまたの傷やただならぬ汚れに痛んだ白コートを纏うその男は、近くの知り合いらしき男性の小突きによってようやく、どう取っても支離滅裂としかいいようのない発言をやめた。
ついその前までわずかばかり離れた所にいたらしき、一匹の猫を抱いた金髪の男性が、騒ぎを察知して白コートの男の方へと戻っていく。
彼はいたって平静を保ちながら、親近感を多分に含んだ、それでいて若干の呆れをもった調子で口をひらいた。
「…少し目を離せばこれか！どうやらキミに”憑いた”…いや、”憑かされた”かな？ともかく、相当にたちの悪い幻霊のようだね…」
「げ…カーターさん…」
白髪の男は、彼の言葉に対してばつが悪そうに肩をすくめる。どうやらこの騒ぎは、彼らにとって二度や三度ではないらしい。
隣の男性も、彼が現れた瞬間から、わずかとはいえ姿勢を正す。それは彼らの間の、ある程度の上下関係を示すものだった。
「まあ、酔っ払いだと思えばいいだろう。正気に戻るには、もう少しかかりそうだがね…」
またも、呆れた風な落ち着いた声があたりに響き、その場の皆に神妙な面持ちをさせる。
しかしながら、不可思議なことに…その言葉は、この場にいる三人の誰の声とも異なる声色のものだった。
「さあ、君達もあまり我々…いや、私と共にいるべきではない。何に巻き込まれるかわからないからな。そろそろ調査協力はここまでにしないか、ウォーカー？」
引き続き、その声が言葉を続ける。その声の主は────金髪の男の抱く、一匹の黒猫から発せられているように思えた。
否。その黒猫こそが、まさにこの言葉を発しているのだ。何の因果か、いかなる奇跡が起こしたものだろうか？いずれにせよこの事は、泥濘の新宿だからこそ起き得る、おどろくべき超越的現象のひとつにほかならなかった。
「そうだな。悪いがタイタス君、マリニー君。私達は、ここでおいとまさせて貰おうか。…元々、私は事件に巻き込まれやすいんだ。解決の分は、君たちに任せてもいいだろう？」
「そうですね。手掛かりとしては十分ですし…首謀者に、また一歩近づきましたかね？…とにかくありがとうございます、カーターさん」
「流石ですよ！俺たちだけじゃあ、どうしても見落としも出ちまいますからね」
金髪の男の言葉に、彼ら二人も同調する。彼らは何の不思議もなく黒猫の言葉を聞き届け、会話を続けているのだ。もはやこの様な現象など、彼らにとっては”当たり前”の事実でしかないのだろう。
「…それはだいたい、君に原因があるんじゃないか、タイタス？」
「何を言うかねまりもっこり君！１！１１！！！探偵兼歌舞伎役者兼別格の私を貶めようとはいい度胸だなマントヒ「うるさい！！(ﾊﾞｼｨ」……ハッ！俺は何を！？」
白髪の男をもう一人が茶化すと、白髪の男は突然顔を真っ赤にする。またもいざこざが起きようとした、その瞬間であった。
タイタスと呼ばれた男の足元に、不意に、奇妙なものを踏んだような、不快な感触が襲った。
「うお！？なんか踏んだ！？」
奇怪な感覚に正気を取り戻し、タイタスはさっと離れて振り返る。
見れば暗闇の中に一匹の、かなり巨大なカエルが、人ひとりに踏まれたにもかかわらず、ピンピンとした調子でそこに佇んでいた。
カエルはただ、ゲコゲコと鳴き始める。
「こいつは…カエル！？で…でかいぞ！」
「こんな街中に…？日本は変わった環境なんだな…」
「！タイタス！マリニー君も！そこから離れたまえ！早く！」
金髪の男…カーターと呼ばれた男性が何かを察知し、彼ら二人に警告を発する。
二人は慣れた様子で、遅れることなくすぐさま、その場から警告どおりに離れていた。
カーターは続ける。
「見ろ、あの体表を…わずかだが、あれは猛毒だ。」
「本当だ！暗がりで気付かなかった…！」
見ればカエルの外皮は、暗がりゆえによく見えないものの、毒々しい色で彩られている。
ソレは鳴き声を上げて、まだそこに立っているだけだ。皆が固唾を飲んだ次の瞬間、タイタスの声で、あたりに悲鳴が響きわたった。
「うわああ！！俺のおニューの靴が！！」
しゅうしゅうとかすかな音を立てる、カエルを踏んだ方のタイタスの靴底は、見るも無残に溶けかけていた。
それは何より、その猛毒の凄まじさを示すもの。彼ら一行は、未だゲコゲコと甲高い鳴き声を出すカエルに対して一層、警戒色を強める。
「靴だけでなく、足まで持って行かれずに幸いだったと思いたまえ、タイタス。それよりも、このカエルの毒性…」
「ああ、こいつぁ───新しい災害系サーヴァントと見るべきか…！？」
「いや、それにしてはおかしいよ。大群じゃあない…」
あれこれと推論を飛ばす一行の最中。カーターの肩に乗った黒猫はただ一匹、カエルの姿を硬直して、唖然として見据えるばかりだった。
こういった場面で口を出してこない様子と、またその黒猫自身の異様な姿にふと違和感を覚えた彼は、黒猫に向かって話しかける。
「どうしたんだい、オスカー」
「…違う」
黒猫…オスカーはただ一言を、カエルに対して絞り出し…そして、真実を告げるために、言葉を続けた。
「この者……”喋っている”───────」
「「「…は？」」」
───────
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きっと───────
きっとこの魔境の少なくない者が、彼の言葉を受け取るのだろう。
誰がそれを解せるかはわからない。誰がそれを汲み取るかはわからない。
だが、彼の真意を理解し、その懇願を成就させようと考える者たちが居たならば…
彼らは、遅かれ早かれ、ただひとつの残酷な真実へとたどり着く。
｢…ｱぁ｣
“彼”は───────────この怪物は────────────
｢…やｯﾄ､来てｸﾚたのｶ｣
─────────滅ぼされなければならない。
亜種特異点
A.D.1999 悪性隔絶魔境 泥新宿”異章”
DRAGONS AWAKEN──────BRANCHED-『気がかりな夢』
TITUS CROW SAGA VII
LA UMANA COMMEDIA
FIRST REBELLION
FINAL DUTY:”VICTORY”
FALLEN BELIEF
LAST JUDGEMENT
THE END IN FIVE
DEUS EX MACHINA
分岐条件:
1.”ダンテ・アリギエーリ”生存状態で”タイタス・クロウ”ではなく”泥新宿のランサー(2)”に同行
2.”ロスト”真名未開放(“泥新宿のライダー”未接近)状態
3.”トーキョークーロン”既探索状態(クリアの必要なし)
4.上記条件を満たした状態で一定日数経過
→上記シナリオ出現。「”ヨルムンガンド”が召喚された」事実が確定する。同時にラストボスとして”アンゴルモア”召喚確定
[TIPS]
泥新宿”異章”は首謀者が”泥新宿のアークエネミー”を召喚、これを撃破する「FORETOLD TOWN 1999」ルート(通称:メインストーリー)クリア後に現れるルート群です。
一週目には存在しなかった選択肢(ヒント付き)やSUPPORTサーヴァントの選択、クエストなどをクリアする事によってシナリオが分岐。一週目で活躍の場がない、あるいは姿を見せなかったサーヴァントの活躍を見ることができます。
分岐は上記以外にも多数の隠しストーリーが存在します。貴方の選択によって、まだ見ぬ泥新宿の姿を開拓しましょう。
要約:
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