最終更新: nevadakagemiya 2024年03月17日(日) 18:47:55履歴
午前4時58分。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
やけに眩しいと思い寝ぼけ眼を擦ると、カーテンの隙間から陽の光がわたしの顔を照らしていた。昨晩開けて寝た窓から僅かに風が吹き込んで、濃い赤褐色のカーテンを揺らしていた。こういう表現をすると爽やかそうな雰囲気があるけれど、実際には浴びたくもない生温い熱風だ。
7月の太陽は朝焼けの中でも構うものかという勢いで照りつけてきて、部屋の中をじっとりと蒸し暑く暖めていた。
早起きなアブラゼミが自分の方が早起きなのだと言わんばかりに元気に鳴き声を上げ、ジリジリという鳴き声がまるで窓からわたしを焼き焦がすオノマトペのようにすら聞こえる。
寝る前にスイッチを入れた扇風機は首を振りながら穏やかな風を送り続けているが、そんなものは焼け石に水だった。
「…………あっづ」
ここまでの暑さになるとブランケット一枚でも既に暑い。引き剥が素ようにそれを捲って転がり落ちるようにベッドから降りると、蒸し暑さから肌に貼り付くパジャマも一緒に脱ぎ捨てる。寝汗はじっとりとわたしの体を包み込んでいて、胸骨のあたりを汗が流れるのを感じた。
上半身は下着にキャミソールだけという格好で、ブランケットとパジャマを抱えて部屋を出る。
古い洋室のドアは、ただそれだけの動作で悲鳴を上げた。
階段の欄干にブランケットを干すと、そのまま洗面所へ直行する。1990年代製らしいおんぼろの洗濯機にパジャマを投げ込むと、振り返って背後の洗面台の蛇口を捻った。
顔を洗おうと手を差し入れて、うえっとなる。水の蛇口だけ捻った筈なのに、出てきた水であるはずの液体はお風呂のように暖かい。
しばらく待っても殆ど温度が変わらないので、仕方なくそのまま顔を洗う。さっき触れた時から少しマシになった程度の水は、けれどもありがたいことに気化熱でわたしの暑さを少し奪ってくれた。
タオルでごしごしと顔を洗って鏡を見ると、いつものわたしの顔がお出迎えする。別段可愛い顔だとは思わないけれど、卑下するほどおかしな顔でもないと思う。とにかく人に見せられないような寝癖や眉なんかではないことを確認してから、顔を拭いたタオルも洗濯機に投げ込んだ。
歯ブラシの隣に立っている化粧水のボトルから適量を手に取ると、ぴしゃりと顔に両手を当てる。目覚まし代わりの一撃だ。こちらも割とぬるいが仕方ない。お化粧のことは正直よく分からないわたしだけれど、流石にスキンケアくらいはする。顔立ち自体に自慢はないけれど、肌があまりかさつくことがないのはこの日課のおかげなのだと思うと少し嬉しい。
我が家では洗面所の扉を開けるとすぐにキッチンとなっている。冷蔵庫から卵二個とハム数枚、野菜室からほうれん草一琶、戸棚から食版二枚を取り出すと、わたしは朝食の準備を始めた。
ものの数十分でハムエッグとほうれん草の炒め物ができあがる。手際の良さには我ながら自信がある。
用意するのは二人分。1つをちゃちゃっと片づけた後に、もう1つをお盆へ乗せた。
一人はわたしの分で……もう1つはお父さんの分。
離れにあるお父さんの工房の、重苦しいドアをノックする。
「お父さん? 朝ご飯、出来たよ」
上の部屋は扇風機をつけても焼け石に水で暑苦しいのに、この工房へ至る廊下はいつもひんやりとしていた。わたしたちの家系の魔術属性は「地」だから、地下のようになるような何らかの魔術か何かがかかっているのかもしれない。けれど、そんなことは魔術師としてはまだ見習い程度のわたしには分からない。
……そもそも、わたしは魔術師になどなりたくはないのだが。
ありがたくその涼しさを堪能しながらしばらくすると、お父さんが扉を開いた。
「……日陽か」
相も変わらず長い髪はぼさぼさの埃だらけで何かの動物かのように盛り上がっており、痩せこけた顔にははっきり分かるほどの隈がある。瞳は沼の奥のように澱んでいて輝きらしきものはまるでない。赤茶色のローブには土とも血塊とも判別の付かない塊が転々と貼り付き、先ほどまで何かの魔術の準備を行っていたことを伺わせた。
「それ以外の誰だっていうの? もう朝。儀式の準備が大変なのは分かるけど」
ぼんやりと突っ立ったままの胸に、ハムエッグとロールパンのお皿の乗せられたお盆を押しつける。
「……わたしも、学校あるからさ」
ここ数日のお父さんは特におかしい。元から陰気で口数少ない人だったけれど、それでもわたしに魔術を教えるときには笑顔をこぼしてくれることもあった。ともすれば実年齢の45歳よりも数十歳は年上に見えるほど老け込んでいる父親だけれど、その力のない笑顔を見せられては本当は魔術を習いたくないなどと言えるはずもなく、こうしてずるずると魔術師見習いを続けているというのに。
ここ数日、特に何故か手袋を外さなくなった辺りの時期から、纏うオーラが殊更陰気なものに変わってしまった。以前は食事くらいは居間で取っていたのに、今は完全に工房に籠もりきりだ。
「……すまない」
お父さんはただ無言でお盆を受け取ると、それを部屋の中程にあるローテーブルへ置きに行った。その拍子に、ちらりと部屋の中の様子が見える。
恐らくは魔力的な加工をした泥で描かれた、巨大な魔法円が1つ。その隣に、もう一つ小さな魔法円がある。
いかにも召喚術でも行いそうな雰囲気だが、生まれてこの方お父さんが何か使い魔のようなものを使役していたのを見た記憶がない。
わたしたち鞠瀬の家の魔術はお父さん曰く独特で、一族に遺伝する体質を利用した魔術らしい。既にある程度魔術刻印を移してもらっているけれど、教わっている魔術は基本的には魔力の放出や固定といった基礎的なものの発展のイメージが強かった。
お父さんが部屋の入り口に戻ってくる。基本的に、お父さんの許可がなければわたしは工房へ出入り禁止だ。
「……後で、食べる」
そう答えるお父さんの表情は読めない。悲しんでいるようにも見えるし、緊張しているようにも見える。どちらにせよ、ポジティブな感情ではないのは明らかだった。
「その様子だと、昨晩も徹夜したでしょ」
「ああ」
会話が途切れる。
父と娘の筈なのに、わたしたちの間に落ちるのはばつの悪い沈黙だけだ。
ぐらつく心がわたしを部屋から飛び出させようとするのを、必死に押さえつける。
「……じゃあ、わたし学校行くね」
そう言ってわたしは踵を返した。これ以上の沈黙には、心の中にいる誰かが耐えられる気がしなかった。
そのまま廊下を走り去ろうと踏み出そうとしたその時だった。
「日陽」
お父さんに、呼び止められる。
「私は……今晩から、長い……儀式に入る。食事は自分で用意するから、朝飯の用意も今回が最後で大丈夫だ」
「……お父さん?」
「むしろ、数週間……いや、数ヶ月かもしないが……。儀式が終わり、私がお前に言いにいくまではこの離れには近づくな。金庫と口座の金は自由に使っていい。お前はここを別の家だと思って、私のことは忘れて過ごせ」
そう言うわたしの父親の姿は酷く陰気で、その上、まるでわたしを遠ざけるように聞こえた。その目は全てを諦めたようにすら見えて、その視線の暗さに溺れそうになる。
なんだか耐え難い感情が胸の奥からわき上がる。それは怒りに似ていたけれど、この感情に熱さは、ない。
燃え上がるように今すぐにもわたしの胸から吹き出してしまいそうな感情なのに、どうしてもわたしの身体の中で澱んで口に出すことができない。
風邪を引いて寝込んでいるときに、吐き気がするのに胃の中に吐くものがなくて吐くことすらできないような感覚。ただひたすらに気持ち悪い。
「わかった」
その吐き気を仕方がないので飲み込んで、代わりのように口にした言葉は、自分でも驚くほどに冷え切っていた。
「じゃあ、わたし、行くから」
わたしはそう言って、工房から踵を返した。
背後からお父さんの視線を感じたけれど、振り返りたいとは思わなかった。
ただ、忘れたかった。
制服に着替えてローファーを履き、いつもの指定のスクールバッグを肩に提げる。
午前6時、とてもそんな時間だとは思えないほどの夏の日差しと蝉の鳴き声に包まれて、わたしはお父さんとの会話で冷め切った心臓に蓋をする。
雪花の登校時間は8時30分。指定の時間まではまだ2時間以上もあるが、わたしは普段からこれぐらいの時間から登校するようにしていた。
学級委員長としての責任感もあるけれど、単純に朝教室の扉を開けたときに誰もいない開放感が好きなのもあった。必ずしも毎日一番になるわけではないのだが。
通りがかる人たちに挨拶をしてゆく。柴犬を散歩させている老人、自転車に乗るスーツの男の人。たまに部活の朝練でもあるのか、同じ制服を着た女の子とも挨拶する。
その全員の名前を把握しているわけではないけれど、それなりに顔は広い方だと思う。
「日陽ちゃん! 今日も早いねえ! クリームパン買っていくかい!?」
そうわたしに声をかけたのは高畑さん。通学路にある高畑ベーカリーのご主人で、外国好きの気のいいおっちゃんだ。
彼はいつもどこからか外国人を見つけてきて、アルバイトとして雇っている。ネパール人の時もあったし、クロアチア人の時もあった。やっと日本人を雇ったのかと思ったらパクさんという韓国人だったこともある。
今も、彼の隣にはどこかエキゾチックな容貌を備えた若い女性がいた。わたしと目線を合わせると小さく会釈してくる。分かりやすいくらいにアラブ系の人だ。
「おっ、そうだ、紹介しなきゃな! 新しいアルバイトのサマルさん! ベーカリー初のイラン人!」
「……初めまして」
サマルさんの日本語は思った以上に流暢で、わたしは少し驚いた。日本語お上手ですね、と話しかけると、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。
そんなわたしたちに割り込むように、高畑さんが手を挙げる。
「それでいるかい? クリームパン」
「今日はお弁当作ったので遠慮します、すみません」
「いいっていいって! ありがたいことに雪花の子たちで経営には困ってないからな。おっと、お客だ」
振り返ると、髪を染めた青年が、いらいらした様子で道に面した棚の前に並んでいる。
「それじゃあ、いきますね」
「おう、道に気をつけてな!」
ベーカリーから離れて歩き出す。高畑のおっちゃんの明るさのおかげか、少し学校へ向かう足取りが軽くなった。
しかし、それにしても暑い。
制服の下にキャミソールを着てきたことを後悔する。
過去に一度、制服の下をブラだけで登校したとき、体育の着替えで友人から「ブラ透けるの気にしないの?」と問われたことがある。正直なところ透けていてもそんなに気にしないのだけれど、単純にだらしないと思われるのが嫌なのでそれからは着るようにしていた。ちなみにそれを指摘したみなみは、次の日はキャミソールを着ていなかった。
というわけでどんなに暑い日でも一枚は下に着るようにしていたのだが、今日の暑さには流石に後悔してしまう。割と熱さに強い方だと自負しているが、それでもじんわりと額に汗が滲んでくる。
この時間でこの気温だと、昼過ぎには尋常ではない暑さになりそうだと思うと、少しうんざりしてきた。
すれ違う人たちも、タオルを手にしていたりしきりにペットボトルを煽っている人が目立ってくる。
だからこそ、その少女は一人目立っていた。
「近衛、さん?」
近衛李奈さん。
わたしの隣のクラスの生徒なのは知っているが、それ以上の知識はない。学校の制度で何かの特待生扱いらしく、登校してくること自体が珍しいと、彼女と同じクラスの生徒が言っていた。わたしも通学路で見かけたのは初めてだ。腰にまで届きそうな長い髪を纏めることもなく、涼しげに歩いてくる。
そんな彼女は、そのままわたしの声に気づく様子もなくわたしを追い越していった。なぜ彼女がそんなに目立っていたかというと、あまりにも今の気温に似合わない服装をしていたからだった。
夏服とはいえ、この季節に屋外でサマーニットにデニールの大きいタイツというのはあまりにも暑苦しい。さらには白いコートのような長い外套すら羽織っている。それなのに彼女は、額に汗一つかくことなく長い髪を靡かせていた。
「近衛さん! おはよう!」
やや大きめな声で声をかけて、やっと近衛さんがわたしの方へ振り向く。
「えっと、私、かしら」
どうやら涼しい顔というより、心ここにあらずという感じだったようだ。眉毛がハの字に下がっている。表情が上手く読めないけれど、どうやら困惑しているらしい。
けれど、わたしの方もわたしの方もそんな重要な用事で声をかけたわけではないので、そんな風に驚かれてしまうと返答に困ってしまう。おはよう、と話しかけておはよう、と返されて終わて終わるような、そんな普通の会話を想定していただけに、どう返したものか思案する。
「いやいやー、今日は一段と暑いね」
とりあえず当たり障りのないことを言ってみた。そうね、とだけ返ってくるが、近衛さんはまだ怪訝な顔をしている。
「んーっと、心当たりないかな。3組の近衛李奈さんだよね。わたし4組の鞠瀬。鞠瀬日陽」
名乗った直後に、近衛さんの足が止まった。
「……まり、せ?」
「うん、鞠瀬」
なんだろう。わたしの名字、そんなに変だったかな。お父さんが言うにはわたしの先祖はイタリアの魔術家系で、マリセーという名前だったらしい。とはいえもう日本に帰化して6世代は重ねていることもあり、お父さんもわたしもがっつり日本人顔だ。鼻も低いし、肌なんて少し浅黒くて気になってるくらいだ。外国の血の名残といえば、少し髪の色が薄いくらいか。
そんなわたしの顔を、近衛さんがじろじろと見てくる。
先ほどと対して変わらない困惑の表情……いや、少し悲しそう?
全く分からないわけではないけれど、なんというか鉄面皮で内心が読みづらい子だ。
なんだか、申し訳なさそうにも見えた。
……しかし、なんというか美人な子だな、と思う。それこそ外国の血でも入っているのだろうか、彫りが深くて鼻が高い。眼鏡の下の瞳は怜悧で、こちとら勉強を頑張っているのに「顔が馬鹿っぽい」と言われがちなわたしからすると羨ましい限りだ。
「そう、あなたが鞠瀬さんなのね」
そんな近衛さんはしばらくの思案の後、結局話を続けるのをやめたのか、すたすたと歩き出した。真夏の生温い風が彼女の髪をふわりと浮かべる。本来は浴びたくもない温度の風なのに、その涼しげな佇まいによって爽やかな風であるようにすら感じる。その様子がなんだか風鈴みたいで、見ているだけで涼しげになるけれど。
同時に、わたしを遠ざけようとするような雰囲気も感じる。
本当のところは、分からない。結局のところ雰囲気というのは相手の感情ではなくわたしの憶測だし、単に暑い中話しかけられて鬱陶しがられただけなのかもしれなかった。
近衛さんが歩く度に、ふわりふわりと長い髪が揺れる。
そんな近衛さんの背中を見ながら歩いているうちに、わたしは学校へ到着してしまうのだった。
教室へ入ると、クラスメイトの小中ゆかりが既に登校していた。
運動部でも朝練のあるソフト部の裕美や吹奏楽部のひなた辺りがわたしより先に登校していることは珍しくないけれど、時に遅刻をすることも珍しくないような、割と不真面目組の小中がこの時間にいるのは初めて見た。
「おはよー。小中がこんな時間にいるの珍しいじゃない」
とりあえず鞄を自分の机に置きながら、そう話しかける。教室のエアコンはまだ動いていなくて、若干息苦しい。
「そういう鞠瀬はその言だといつもこの時間登校って感じ? さっすが委員長」
高い位置で結ばれた小中のポニーテールが揺れる。彼女も胸元のボタンを2つほど開けて制服を扇いでいて、やはりあんなに涼しげな近衛さんは少し変だと思い直す。
「いやー、なんか早く目が醒めちゃってさ。家にいるのもなんだか嫌で学校来ちゃった」
「お家の方が涼しいと思うけど。なんか家族と折り合い悪いとかなら相談乗るよ?」
「ナイナイ! むしろ最近一段とパパが構ってくるようになって鬱陶しい位よ。たださ……って何やってんの鞠瀬」
小中がわざとらしいくらいに体を引いてわたしの行動に反応した。
「何って……朝の掃除だけど」
掃除ロッカーから箒をくるくると回しながら取り出しつつ答える。別になんということもない、朝の日課だ。
「え、鞠瀬あんた、それ毎朝やってんの?」
「うん。なんか変?」
「変じゃないけど……真面目だなぁって」
まあ真面目な生徒である自覚はある。でもわたしはその方がいいと思ってやっていることなので、おかしなことだとは思わない。
誰だって選択肢が与えられたのなら自分が正しいと思う選択肢を選ぶと思うし、事実わたしはその道を選んで生きてきた。
何より、わたしが小さな頃に死んじゃったお母さんに恥じない人間になりたいと、わたしはずっとそう考えながら毎日を過ごしている。
そこまで考えて、魔術師としての修行のことを思い出す。
あれは――実質的には、選択肢はなかった。
本当の夢を言って、お父さんを傷つけたくなかったから。
だから、あの選択は、わたしの正しい道で間違いない……筈だ。
「……鞠瀬?」
小中の一言で、物思いから醒める。
「鞠瀬の方こそどうかした?」
「朝ちょっとお父さんとギスっちゃったからそのせいかな」
答えづらいので、とりあえずはぐらかすように答える。
「何?家庭に問題あるのは鞠瀬の方だったってオチ?」
「そんな深刻なのじゃないよ」
……そう、深刻じゃない。
お父さんの儀式が終われば、きっとまたあの顔が戻ってくる。
だから、わたしは待つだけだ。
「それよりも、結局小中は何で早く来たのよ」
「あっ、露骨に話逸らした。まぁいいけどさー」
とりあえず教壇の掃き掃除から始めながら、小中の話に耳を傾ける。
「うちさ、所上にあんのよ。でさ……最近あの辺物騒じゃん」
所上町はわたしの家やこの学校がある古堀の隣の地域で、やや新興寄りの住宅街だ。古堀がその名前の通り古くからこの円沢市に住んでいる家が多い一方で、所上は近年引っ越してきた家やアパートが多い。同じ住宅街でも古く大きな家の多い古堀と計画的に建てられた画一的な民家の多い所上は、適当に撮った写真を並べても一目で区別が付くほど雰囲気が違う。
基本的には、陰気で道も入り組んでいる古堀よりも道が広く若い人の多い所上の方が治安はよいはずなのだが。
「あぁ、例の連続行方不明事件。また新しいの起きたの?」
「そう! それも今度はウチのある区画でさぁ! もう怖くて仕方ないのよ!」
小中が半分は茶化すように、けれどももう半分は泣きそうな雰囲気で言った。
「パパは学校が終わったら寄り道せずに帰ってきなさいって言うんだけど、むしろウチの方が危ないような気もしちゃってさぁ! どうしよう鞠瀬ぇ!」
そうは言われても、わたしにできることは高が知れている。それでも出来そうなことといえば……、
「夜の見回りでもしよっか、わたし」
「へ?」
いや、聞き返されてもわたしにできることといったらその程度だろう。
警察でもないのだから大規模な走査線を張ることもできないし、犯人像に心当たりがあるわけでもないから狙われそうな家に山を張るようなことだってできない。
そもそもわたしは少し魔術の素養があるだけで、ただの一介の女子高生でしかない。
そんなわたしにやれることといったら、せいぜい見回りくらいしかない。
多少の危険が伴うのは事実だけれど、それがわたしの精一杯なのだと思う。小中には申し訳ないけれど。
と、そこまで考えたところでわたしはわざわざ席を立ってきた小中に小突かれた。
「いやいや、ホント鞠瀬は真面目だなぁ。そりゃ誰かになんとかはして欲しいけどさー」
小中は笑いながら言う。
「流石にクラスメイトに危ないことをしろとは言えないって。忘れて忘れて」
そう言う小中の顔は砕けた口調に反して真面目で、さらにどこか焦っているようにすら感じられた。
「うーん、まぁそれならいいけど……」
「マジだからね! マジでやらなくていいから!」
そういう小中の顔はやけに必死で、わたしは思わず小さく吹き出してしまった。
「分かったって。わたしだって犯人に何かされたらやだし。ただわたしもその事件のことは気になってたからさ。被害に遭ってる人はもちろん、小中みたいに街に住んでる人の心配も生んでる事件だし、わたしもできることがあったらしたいなって思ってただけだから」
それは包み隠すことないわたしの気持ちだ。誰かを困らせるような相手は許せないし、みんなには幸せに毎日を送ってほしい。周りの人が幸せそうに過ごしていないと、わたしの方も幸せにはなってはいけない、そんな気がするのだ。
わたしがもし何かで死ぬとしたら、それは誰かのために命を懸けた結果にしたい。
だって、お母さんがそうだったから。
「ああ、鞠瀬ってあれだね。真面目ちゃんというか」
小中が困惑したように笑う。
「正義に生きてる、って感じよね」
そんな小中の台詞にそうかなぁ、そんな立派なもんじゃないよ、と返して、彼女との会話は終わった。
小中とは、普段はそこまで多くは話さない。
だからなのか、結局朝の掃除を終えるときになっても、彼女の台詞はわたしの胸の奥の中でつかえたように残って、いつまでも消えなかった。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
やけに眩しいと思い寝ぼけ眼を擦ると、カーテンの隙間から陽の光がわたしの顔を照らしていた。昨晩開けて寝た窓から僅かに風が吹き込んで、濃い赤褐色のカーテンを揺らしていた。こういう表現をすると爽やかそうな雰囲気があるけれど、実際には浴びたくもない生温い熱風だ。
7月の太陽は朝焼けの中でも構うものかという勢いで照りつけてきて、部屋の中をじっとりと蒸し暑く暖めていた。
早起きなアブラゼミが自分の方が早起きなのだと言わんばかりに元気に鳴き声を上げ、ジリジリという鳴き声がまるで窓からわたしを焼き焦がすオノマトペのようにすら聞こえる。
寝る前にスイッチを入れた扇風機は首を振りながら穏やかな風を送り続けているが、そんなものは焼け石に水だった。
「…………あっづ」
ここまでの暑さになるとブランケット一枚でも既に暑い。引き剥が素ようにそれを捲って転がり落ちるようにベッドから降りると、蒸し暑さから肌に貼り付くパジャマも一緒に脱ぎ捨てる。寝汗はじっとりとわたしの体を包み込んでいて、胸骨のあたりを汗が流れるのを感じた。
上半身は下着にキャミソールだけという格好で、ブランケットとパジャマを抱えて部屋を出る。
古い洋室のドアは、ただそれだけの動作で悲鳴を上げた。
階段の欄干にブランケットを干すと、そのまま洗面所へ直行する。1990年代製らしいおんぼろの洗濯機にパジャマを投げ込むと、振り返って背後の洗面台の蛇口を捻った。
顔を洗おうと手を差し入れて、うえっとなる。水の蛇口だけ捻った筈なのに、出てきた水であるはずの液体はお風呂のように暖かい。
しばらく待っても殆ど温度が変わらないので、仕方なくそのまま顔を洗う。さっき触れた時から少しマシになった程度の水は、けれどもありがたいことに気化熱でわたしの暑さを少し奪ってくれた。
タオルでごしごしと顔を洗って鏡を見ると、いつものわたしの顔がお出迎えする。別段可愛い顔だとは思わないけれど、卑下するほどおかしな顔でもないと思う。とにかく人に見せられないような寝癖や眉なんかではないことを確認してから、顔を拭いたタオルも洗濯機に投げ込んだ。
歯ブラシの隣に立っている化粧水のボトルから適量を手に取ると、ぴしゃりと顔に両手を当てる。目覚まし代わりの一撃だ。こちらも割とぬるいが仕方ない。お化粧のことは正直よく分からないわたしだけれど、流石にスキンケアくらいはする。顔立ち自体に自慢はないけれど、肌があまりかさつくことがないのはこの日課のおかげなのだと思うと少し嬉しい。
我が家では洗面所の扉を開けるとすぐにキッチンとなっている。冷蔵庫から卵二個とハム数枚、野菜室からほうれん草一琶、戸棚から食版二枚を取り出すと、わたしは朝食の準備を始めた。
ものの数十分でハムエッグとほうれん草の炒め物ができあがる。手際の良さには我ながら自信がある。
用意するのは二人分。1つをちゃちゃっと片づけた後に、もう1つをお盆へ乗せた。
一人はわたしの分で……もう1つはお父さんの分。
離れにあるお父さんの工房の、重苦しいドアをノックする。
「お父さん? 朝ご飯、出来たよ」
上の部屋は扇風機をつけても焼け石に水で暑苦しいのに、この工房へ至る廊下はいつもひんやりとしていた。わたしたちの家系の魔術属性は「地」だから、地下のようになるような何らかの魔術か何かがかかっているのかもしれない。けれど、そんなことは魔術師としてはまだ見習い程度のわたしには分からない。
……そもそも、わたしは魔術師になどなりたくはないのだが。
ありがたくその涼しさを堪能しながらしばらくすると、お父さんが扉を開いた。
「……日陽か」
相も変わらず長い髪はぼさぼさの埃だらけで何かの動物かのように盛り上がっており、痩せこけた顔にははっきり分かるほどの隈がある。瞳は沼の奥のように澱んでいて輝きらしきものはまるでない。赤茶色のローブには土とも血塊とも判別の付かない塊が転々と貼り付き、先ほどまで何かの魔術の準備を行っていたことを伺わせた。
「それ以外の誰だっていうの? もう朝。儀式の準備が大変なのは分かるけど」
ぼんやりと突っ立ったままの胸に、ハムエッグとロールパンのお皿の乗せられたお盆を押しつける。
「……わたしも、学校あるからさ」
ここ数日のお父さんは特におかしい。元から陰気で口数少ない人だったけれど、それでもわたしに魔術を教えるときには笑顔をこぼしてくれることもあった。ともすれば実年齢の45歳よりも数十歳は年上に見えるほど老け込んでいる父親だけれど、その力のない笑顔を見せられては本当は魔術を習いたくないなどと言えるはずもなく、こうしてずるずると魔術師見習いを続けているというのに。
ここ数日、特に何故か手袋を外さなくなった辺りの時期から、纏うオーラが殊更陰気なものに変わってしまった。以前は食事くらいは居間で取っていたのに、今は完全に工房に籠もりきりだ。
「……すまない」
お父さんはただ無言でお盆を受け取ると、それを部屋の中程にあるローテーブルへ置きに行った。その拍子に、ちらりと部屋の中の様子が見える。
恐らくは魔力的な加工をした泥で描かれた、巨大な魔法円が1つ。その隣に、もう一つ小さな魔法円がある。
いかにも召喚術でも行いそうな雰囲気だが、生まれてこの方お父さんが何か使い魔のようなものを使役していたのを見た記憶がない。
わたしたち鞠瀬の家の魔術はお父さん曰く独特で、一族に遺伝する体質を利用した魔術らしい。既にある程度魔術刻印を移してもらっているけれど、教わっている魔術は基本的には魔力の放出や固定といった基礎的なものの発展のイメージが強かった。
お父さんが部屋の入り口に戻ってくる。基本的に、お父さんの許可がなければわたしは工房へ出入り禁止だ。
「……後で、食べる」
そう答えるお父さんの表情は読めない。悲しんでいるようにも見えるし、緊張しているようにも見える。どちらにせよ、ポジティブな感情ではないのは明らかだった。
「その様子だと、昨晩も徹夜したでしょ」
「ああ」
会話が途切れる。
父と娘の筈なのに、わたしたちの間に落ちるのはばつの悪い沈黙だけだ。
ぐらつく心がわたしを部屋から飛び出させようとするのを、必死に押さえつける。
「……じゃあ、わたし学校行くね」
そう言ってわたしは踵を返した。これ以上の沈黙には、心の中にいる誰かが耐えられる気がしなかった。
そのまま廊下を走り去ろうと踏み出そうとしたその時だった。
「日陽」
お父さんに、呼び止められる。
「私は……今晩から、長い……儀式に入る。食事は自分で用意するから、朝飯の用意も今回が最後で大丈夫だ」
「……お父さん?」
「むしろ、数週間……いや、数ヶ月かもしないが……。儀式が終わり、私がお前に言いにいくまではこの離れには近づくな。金庫と口座の金は自由に使っていい。お前はここを別の家だと思って、私のことは忘れて過ごせ」
そう言うわたしの父親の姿は酷く陰気で、その上、まるでわたしを遠ざけるように聞こえた。その目は全てを諦めたようにすら見えて、その視線の暗さに溺れそうになる。
なんだか耐え難い感情が胸の奥からわき上がる。それは怒りに似ていたけれど、この感情に熱さは、ない。
燃え上がるように今すぐにもわたしの胸から吹き出してしまいそうな感情なのに、どうしてもわたしの身体の中で澱んで口に出すことができない。
風邪を引いて寝込んでいるときに、吐き気がするのに胃の中に吐くものがなくて吐くことすらできないような感覚。ただひたすらに気持ち悪い。
「わかった」
その吐き気を仕方がないので飲み込んで、代わりのように口にした言葉は、自分でも驚くほどに冷え切っていた。
「じゃあ、わたし、行くから」
わたしはそう言って、工房から踵を返した。
背後からお父さんの視線を感じたけれど、振り返りたいとは思わなかった。
ただ、忘れたかった。
制服に着替えてローファーを履き、いつもの指定のスクールバッグを肩に提げる。
午前6時、とてもそんな時間だとは思えないほどの夏の日差しと蝉の鳴き声に包まれて、わたしはお父さんとの会話で冷め切った心臓に蓋をする。
雪花の登校時間は8時30分。指定の時間まではまだ2時間以上もあるが、わたしは普段からこれぐらいの時間から登校するようにしていた。
学級委員長としての責任感もあるけれど、単純に朝教室の扉を開けたときに誰もいない開放感が好きなのもあった。必ずしも毎日一番になるわけではないのだが。
通りがかる人たちに挨拶をしてゆく。柴犬を散歩させている老人、自転車に乗るスーツの男の人。たまに部活の朝練でもあるのか、同じ制服を着た女の子とも挨拶する。
その全員の名前を把握しているわけではないけれど、それなりに顔は広い方だと思う。
「日陽ちゃん! 今日も早いねえ! クリームパン買っていくかい!?」
そうわたしに声をかけたのは高畑さん。通学路にある高畑ベーカリーのご主人で、外国好きの気のいいおっちゃんだ。
彼はいつもどこからか外国人を見つけてきて、アルバイトとして雇っている。ネパール人の時もあったし、クロアチア人の時もあった。やっと日本人を雇ったのかと思ったらパクさんという韓国人だったこともある。
今も、彼の隣にはどこかエキゾチックな容貌を備えた若い女性がいた。わたしと目線を合わせると小さく会釈してくる。分かりやすいくらいにアラブ系の人だ。
「おっ、そうだ、紹介しなきゃな! 新しいアルバイトのサマルさん! ベーカリー初のイラン人!」
「……初めまして」
サマルさんの日本語は思った以上に流暢で、わたしは少し驚いた。日本語お上手ですね、と話しかけると、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。
そんなわたしたちに割り込むように、高畑さんが手を挙げる。
「それでいるかい? クリームパン」
「今日はお弁当作ったので遠慮します、すみません」
「いいっていいって! ありがたいことに雪花の子たちで経営には困ってないからな。おっと、お客だ」
振り返ると、髪を染めた青年が、いらいらした様子で道に面した棚の前に並んでいる。
「それじゃあ、いきますね」
「おう、道に気をつけてな!」
ベーカリーから離れて歩き出す。高畑のおっちゃんの明るさのおかげか、少し学校へ向かう足取りが軽くなった。
しかし、それにしても暑い。
制服の下にキャミソールを着てきたことを後悔する。
過去に一度、制服の下をブラだけで登校したとき、体育の着替えで友人から「ブラ透けるの気にしないの?」と問われたことがある。正直なところ透けていてもそんなに気にしないのだけれど、単純にだらしないと思われるのが嫌なのでそれからは着るようにしていた。ちなみにそれを指摘したみなみは、次の日はキャミソールを着ていなかった。
というわけでどんなに暑い日でも一枚は下に着るようにしていたのだが、今日の暑さには流石に後悔してしまう。割と熱さに強い方だと自負しているが、それでもじんわりと額に汗が滲んでくる。
この時間でこの気温だと、昼過ぎには尋常ではない暑さになりそうだと思うと、少しうんざりしてきた。
すれ違う人たちも、タオルを手にしていたりしきりにペットボトルを煽っている人が目立ってくる。
だからこそ、その少女は一人目立っていた。
「近衛、さん?」
近衛李奈さん。
わたしの隣のクラスの生徒なのは知っているが、それ以上の知識はない。学校の制度で何かの特待生扱いらしく、登校してくること自体が珍しいと、彼女と同じクラスの生徒が言っていた。わたしも通学路で見かけたのは初めてだ。腰にまで届きそうな長い髪を纏めることもなく、涼しげに歩いてくる。
そんな彼女は、そのままわたしの声に気づく様子もなくわたしを追い越していった。なぜ彼女がそんなに目立っていたかというと、あまりにも今の気温に似合わない服装をしていたからだった。
夏服とはいえ、この季節に屋外でサマーニットにデニールの大きいタイツというのはあまりにも暑苦しい。さらには白いコートのような長い外套すら羽織っている。それなのに彼女は、額に汗一つかくことなく長い髪を靡かせていた。
「近衛さん! おはよう!」
やや大きめな声で声をかけて、やっと近衛さんがわたしの方へ振り向く。
「えっと、私、かしら」
どうやら涼しい顔というより、心ここにあらずという感じだったようだ。眉毛がハの字に下がっている。表情が上手く読めないけれど、どうやら困惑しているらしい。
けれど、わたしの方もわたしの方もそんな重要な用事で声をかけたわけではないので、そんな風に驚かれてしまうと返答に困ってしまう。おはよう、と話しかけておはよう、と返されて終わて終わるような、そんな普通の会話を想定していただけに、どう返したものか思案する。
「いやいやー、今日は一段と暑いね」
とりあえず当たり障りのないことを言ってみた。そうね、とだけ返ってくるが、近衛さんはまだ怪訝な顔をしている。
「んーっと、心当たりないかな。3組の近衛李奈さんだよね。わたし4組の鞠瀬。鞠瀬日陽」
名乗った直後に、近衛さんの足が止まった。
「……まり、せ?」
「うん、鞠瀬」
なんだろう。わたしの名字、そんなに変だったかな。お父さんが言うにはわたしの先祖はイタリアの魔術家系で、マリセーという名前だったらしい。とはいえもう日本に帰化して6世代は重ねていることもあり、お父さんもわたしもがっつり日本人顔だ。鼻も低いし、肌なんて少し浅黒くて気になってるくらいだ。外国の血の名残といえば、少し髪の色が薄いくらいか。
そんなわたしの顔を、近衛さんがじろじろと見てくる。
先ほどと対して変わらない困惑の表情……いや、少し悲しそう?
全く分からないわけではないけれど、なんというか鉄面皮で内心が読みづらい子だ。
なんだか、申し訳なさそうにも見えた。
……しかし、なんというか美人な子だな、と思う。それこそ外国の血でも入っているのだろうか、彫りが深くて鼻が高い。眼鏡の下の瞳は怜悧で、こちとら勉強を頑張っているのに「顔が馬鹿っぽい」と言われがちなわたしからすると羨ましい限りだ。
「そう、あなたが鞠瀬さんなのね」
そんな近衛さんはしばらくの思案の後、結局話を続けるのをやめたのか、すたすたと歩き出した。真夏の生温い風が彼女の髪をふわりと浮かべる。本来は浴びたくもない温度の風なのに、その涼しげな佇まいによって爽やかな風であるようにすら感じる。その様子がなんだか風鈴みたいで、見ているだけで涼しげになるけれど。
同時に、わたしを遠ざけようとするような雰囲気も感じる。
本当のところは、分からない。結局のところ雰囲気というのは相手の感情ではなくわたしの憶測だし、単に暑い中話しかけられて鬱陶しがられただけなのかもしれなかった。
近衛さんが歩く度に、ふわりふわりと長い髪が揺れる。
そんな近衛さんの背中を見ながら歩いているうちに、わたしは学校へ到着してしまうのだった。
教室へ入ると、クラスメイトの小中ゆかりが既に登校していた。
運動部でも朝練のあるソフト部の裕美や吹奏楽部のひなた辺りがわたしより先に登校していることは珍しくないけれど、時に遅刻をすることも珍しくないような、割と不真面目組の小中がこの時間にいるのは初めて見た。
「おはよー。小中がこんな時間にいるの珍しいじゃない」
とりあえず鞄を自分の机に置きながら、そう話しかける。教室のエアコンはまだ動いていなくて、若干息苦しい。
「そういう鞠瀬はその言だといつもこの時間登校って感じ? さっすが委員長」
高い位置で結ばれた小中のポニーテールが揺れる。彼女も胸元のボタンを2つほど開けて制服を扇いでいて、やはりあんなに涼しげな近衛さんは少し変だと思い直す。
「いやー、なんか早く目が醒めちゃってさ。家にいるのもなんだか嫌で学校来ちゃった」
「お家の方が涼しいと思うけど。なんか家族と折り合い悪いとかなら相談乗るよ?」
「ナイナイ! むしろ最近一段とパパが構ってくるようになって鬱陶しい位よ。たださ……って何やってんの鞠瀬」
小中がわざとらしいくらいに体を引いてわたしの行動に反応した。
「何って……朝の掃除だけど」
掃除ロッカーから箒をくるくると回しながら取り出しつつ答える。別になんということもない、朝の日課だ。
「え、鞠瀬あんた、それ毎朝やってんの?」
「うん。なんか変?」
「変じゃないけど……真面目だなぁって」
まあ真面目な生徒である自覚はある。でもわたしはその方がいいと思ってやっていることなので、おかしなことだとは思わない。
誰だって選択肢が与えられたのなら自分が正しいと思う選択肢を選ぶと思うし、事実わたしはその道を選んで生きてきた。
何より、わたしが小さな頃に死んじゃったお母さんに恥じない人間になりたいと、わたしはずっとそう考えながら毎日を過ごしている。
そこまで考えて、魔術師としての修行のことを思い出す。
あれは――実質的には、選択肢はなかった。
本当の夢を言って、お父さんを傷つけたくなかったから。
だから、あの選択は、わたしの正しい道で間違いない……筈だ。
「……鞠瀬?」
小中の一言で、物思いから醒める。
「鞠瀬の方こそどうかした?」
「朝ちょっとお父さんとギスっちゃったからそのせいかな」
答えづらいので、とりあえずはぐらかすように答える。
「何?家庭に問題あるのは鞠瀬の方だったってオチ?」
「そんな深刻なのじゃないよ」
……そう、深刻じゃない。
お父さんの儀式が終われば、きっとまたあの顔が戻ってくる。
だから、わたしは待つだけだ。
「それよりも、結局小中は何で早く来たのよ」
「あっ、露骨に話逸らした。まぁいいけどさー」
とりあえず教壇の掃き掃除から始めながら、小中の話に耳を傾ける。
「うちさ、所上にあんのよ。でさ……最近あの辺物騒じゃん」
所上町はわたしの家やこの学校がある古堀の隣の地域で、やや新興寄りの住宅街だ。古堀がその名前の通り古くからこの円沢市に住んでいる家が多い一方で、所上は近年引っ越してきた家やアパートが多い。同じ住宅街でも古く大きな家の多い古堀と計画的に建てられた画一的な民家の多い所上は、適当に撮った写真を並べても一目で区別が付くほど雰囲気が違う。
基本的には、陰気で道も入り組んでいる古堀よりも道が広く若い人の多い所上の方が治安はよいはずなのだが。
「あぁ、例の連続行方不明事件。また新しいの起きたの?」
「そう! それも今度はウチのある区画でさぁ! もう怖くて仕方ないのよ!」
小中が半分は茶化すように、けれどももう半分は泣きそうな雰囲気で言った。
「パパは学校が終わったら寄り道せずに帰ってきなさいって言うんだけど、むしろウチの方が危ないような気もしちゃってさぁ! どうしよう鞠瀬ぇ!」
そうは言われても、わたしにできることは高が知れている。それでも出来そうなことといえば……、
「夜の見回りでもしよっか、わたし」
「へ?」
いや、聞き返されてもわたしにできることといったらその程度だろう。
警察でもないのだから大規模な走査線を張ることもできないし、犯人像に心当たりがあるわけでもないから狙われそうな家に山を張るようなことだってできない。
そもそもわたしは少し魔術の素養があるだけで、ただの一介の女子高生でしかない。
そんなわたしにやれることといったら、せいぜい見回りくらいしかない。
多少の危険が伴うのは事実だけれど、それがわたしの精一杯なのだと思う。小中には申し訳ないけれど。
と、そこまで考えたところでわたしはわざわざ席を立ってきた小中に小突かれた。
「いやいや、ホント鞠瀬は真面目だなぁ。そりゃ誰かになんとかはして欲しいけどさー」
小中は笑いながら言う。
「流石にクラスメイトに危ないことをしろとは言えないって。忘れて忘れて」
そう言う小中の顔は砕けた口調に反して真面目で、さらにどこか焦っているようにすら感じられた。
「うーん、まぁそれならいいけど……」
「マジだからね! マジでやらなくていいから!」
そういう小中の顔はやけに必死で、わたしは思わず小さく吹き出してしまった。
「分かったって。わたしだって犯人に何かされたらやだし。ただわたしもその事件のことは気になってたからさ。被害に遭ってる人はもちろん、小中みたいに街に住んでる人の心配も生んでる事件だし、わたしもできることがあったらしたいなって思ってただけだから」
それは包み隠すことないわたしの気持ちだ。誰かを困らせるような相手は許せないし、みんなには幸せに毎日を送ってほしい。周りの人が幸せそうに過ごしていないと、わたしの方も幸せにはなってはいけない、そんな気がするのだ。
わたしがもし何かで死ぬとしたら、それは誰かのために命を懸けた結果にしたい。
だって、お母さんがそうだったから。
「ああ、鞠瀬ってあれだね。真面目ちゃんというか」
小中が困惑したように笑う。
「正義に生きてる、って感じよね」
そんな小中の台詞にそうかなぁ、そんな立派なもんじゃないよ、と返して、彼女との会話は終わった。
小中とは、普段はそこまで多くは話さない。
だからなのか、結局朝の掃除を終えるときになっても、彼女の台詞はわたしの胸の奥の中でつかえたように残って、いつまでも消えなかった。
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