最終更新:ID:+Yi2QX66zQ 2019年08月26日(月) 23:39:17履歴
「さあ、描こうじゃないっスか。真実の愛のすがたをね」
【出典】史実
【クラス】キャスター(自称:ラプリゼンターレ(表現者))
【真名】サンドロ・ボッティチェリ
【異名・別名・表記揺れ】アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ
【性別】男性
【身長・体重】174cm・59kg
【肌色】白 【髪色】薄茶色 【瞳色】薄黄色
【外見・容姿】薄茶色の髪を持つ、人当たりの良さそうな優男。常に筆と鉛筆、小さな木版(またはスケッチブック)を持ち歩いている。
【地域】イタリア、フィレンツェ
【年代】中世ヨーロッパ
【属性】中立・善
【ステータス】筋力:E 耐久:D 敏捷:E 魔力:C 幸運:C 宝具:B
【クラス】キャスター(自称:ラプリゼンターレ(表現者))
【真名】サンドロ・ボッティチェリ
【異名・別名・表記揺れ】アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ
【性別】男性
【身長・体重】174cm・59kg
【肌色】白 【髪色】薄茶色 【瞳色】薄黄色
【外見・容姿】薄茶色の髪を持つ、人当たりの良さそうな優男。常に筆と鉛筆、小さな木版(またはスケッチブック)を持ち歩いている。
【地域】イタリア、フィレンツェ
【年代】中世ヨーロッパ
【属性】中立・善
【ステータス】筋力:E 耐久:D 敏捷:E 魔力:C 幸運:C 宝具:B
魔術師として自らに有利な陣地「工房」を作る能力。
彼にとって「工房」とはまさしく画房、アトリエであり、彼にとっては世界のあらゆる場所がキャンバスとなり得る。
故に、彼はこのスキルを持たない。持つ必要がないのだ。
彼にとって「工房」とはまさしく画房、アトリエであり、彼にとっては世界のあらゆる場所がキャンバスとなり得る。
故に、彼はこのスキルを持たない。持つ必要がないのだ。
魔術的な道具を作成する技能。
彼が完成させた絵画は、飾った空間に対してそのモチーフおよび意図に関する一定の効能がある。
安らぎをテーマとしていれば癒しをその場にもたらし、愛をテーマとしていれば融和的な雰囲気が醸成される。
彼が完成させた絵画は、飾った空間に対してそのモチーフおよび意図に関する一定の効能がある。
安らぎをテーマとしていれば癒しをその場にもたらし、愛をテーマとしていれば融和的な雰囲気が醸成される。
自分にとって「未知なる物」「理解の及ばない物」を認識した際、恐怖でなく興味を覚えてしまう気質。あるいはそれは、本能の破綻であろうか。
ランクが高いほど精神的に安定と言えるが、同時にそれは、また異なる狂気へと近付く。
ルネサンス。中世ヨーロッパにおける「異常」…即ち、古代ギリシアにおける神話や文化を復興させようという試み。
それは一方で斬新なる回帰であり、一方で古の禁忌。唯一の神ならぬ、他の神を描写しようとする試みであった。
故にこそ彼らは駆られ、情熱の下に作品を生み出していったのだろう。
ランクが高いほど精神的に安定と言えるが、同時にそれは、また異なる狂気へと近付く。
ルネサンス。中世ヨーロッパにおける「異常」…即ち、古代ギリシアにおける神話や文化を復興させようという試み。
それは一方で斬新なる回帰であり、一方で古の禁忌。唯一の神ならぬ、他の神を描写しようとする試みであった。
故にこそ彼らは駆られ、情熱の下に作品を生み出していったのだろう。
新プラトン主義哲学者の友人を多く持ち、プラトン・アカデミーにも出入りしていたボッティチェリは、その考え方に対して完全な理解を示し、そして共鳴していた。その思想は、彼の作品の中にも強く現れている。
彼の作品の中にたびたび見出されるのは、宗教的、あるいはキリスト教世界観の中で再解釈された異教神話の姿であり、そして新プラトン主義者たちが掲げた、”精神的愛”の象徴である。
精神的愛(プラトニック・ラブ)の支持者、信奉者である彼は、魅了効果に対して高レベルでの耐性を持つ。
彼の作品の中にたびたび見出されるのは、宗教的、あるいはキリスト教世界観の中で再解釈された異教神話の姿であり、そして新プラトン主義者たちが掲げた、”精神的愛”の象徴である。
精神的愛(プラトニック・ラブ)の支持者、信奉者である彼は、魅了効果に対して高レベルでの耐性を持つ。
絵の描画を高速化するスキル。彼の場合、特に素描(デッサン)の速度に秀でる。
パトロンであったメディチ家から『神曲』の挿絵を描くよう依頼された際、数ヶ月で実に三百点以上のそれを仕上げたと言われている。
彼はこのスキルを以って、後述の宝具発動を有利なものとしている。
パトロンであったメディチ家から『神曲』の挿絵を描くよう依頼された際、数ヶ月で実に三百点以上のそれを仕上げたと言われている。
彼はこのスキルを以って、後述の宝具発動を有利なものとしている。
ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:-遠近法を代表としてさまざまな画法が編み出されたルネサンス期において、画期的な手法とされたのがこの「異時同図法」である。
複数の同一人物を同一の絵画の中に描き出し、「時間流」を一枚の画の中に再現する事を可能とした画法。
日本の巻物などでも出てくる絵画技法だが、世界基準ではこの画法はまさしく革命的な、一枚の絵画の中に映像のようなストーリー性を生み出すことに成功したのである。
彼はこの画法の先駆者的存在であっただけでなく、さらにこれを発展させ、若い自分、今の自分、老いた未来の自分を同時に画の中に描き出し、時間の流れを細やかに表現するという芸当をもやってのけた。
この技術は後の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチも参考として用いたが、彼でさえもこの画法を上手く活用する事は出来なかったという。
宝具と化したこの画法は、世界そのものをキャンバスと見立てる事によって、およそ時間、空間的制約を無視した「彼自身」の行動を可能にした。
その真髄とは、同一空間内にもう一人の自分を描き出す事で、同一時間に複数の行動を並行して行う「自己複製」である。
複製された自己の記憶および認識、経験は、全個体で共有されている。すなわち、複製の一人…たとえそれらを生み出した本体が死んだとしても、「サンドロ・ボッティチェリ」という存在の死には至らない。
直接戦闘能力は殆ど皆無であるが、彼はこの宝具によって、完全消滅が非常に困難となる自己防衛手段を手に入れている。
ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1〜100 最大捕捉:100人彼の画家としてのスタンスや手法が、宝具として昇華されたもの。宙空に書き出す絵画をもって一つの世界を創出する、固有結界に似て非なる”世界を描く”宝具。
彼が描く絵の中に含んだ寓意や物語の世界には、”実際に起こっている光景”として錯覚させる認識を歪める効果が内包されており、総じて「よく出来たトリックアート」とでも呼ぶべき代物となっている。
彼の作風は写実性よりも叙述性、物語性を重視しているため、長くそれを錯覚していればいるほど絵画世界にのめり込み、認識を戻しにくくなってしまう。
異時同図法を用いて巧みに描写される「絵画の文脈」のうちに、人は囚われてゆく。そしていつしか万象は、絵画に如かざる物となるのだ。
『寓意世界:春』
主流な説としては、冬で停滞していた世界が、春となって新たに急成長するさまを表しているだとか、あるいは彼の支持する新プラトン主義の観念に則った、「愛」をテーマとして表しているなどの解釈がある。
彼の描く絵画世界『春』は、まさしくその二点をポイントとして描かれる。
萌える緑の草木に、美しく愛を語るギリシアの神たちを空間内に生き生きと描き出す。その場にあたたかな風が吹いているかのような錯覚を身にまとえば、その心は新たな展望と、生まれ膨れ上がる希望の予感におどり、人はみな、熱に浮かされたように愛を語り始めるだろう。
この世界は見た者に春の訪れを思わせるあたたかな気心を持たせ、惚けたような心地よい平和、柔らかな愛のムードをその場にもたらすものである。
主に戦意を喪失させる、交渉を有利にするなどの効果がある。「良いところまで行っているのになかなか一歩を踏み出せない」男女をくっつけるには最適の宝具と言える。
『寓意世界:愛の頂』
雄大な海と礼賛するギリシアの神たちを描き、次にその中心に“愛”の極致…ローマ神話におけるヴィーナス、あるいはギリシャ神話のアプロディーテーを描き出す。
その姿に充てられた者は、”真なる美しさ”をこそ心のうちに思い出す。いずれ己が心のうちに隠した真なる想いを自らのうちに発見し、己を恥じ、全てをつまびらかにしてしまおうとする。
この世界は真に美しい物に触れる事で、あるべき愛の姿を思い出し、自分自身の本心に従う気持ちを呼び起こさせるものである。ツンデレ殺し。尋問などにも使える。
ただしこのヴィーナス(アプロディーテー)は象徴性に重きを置いているため、個人的に因縁がある英霊などは「なんか違う」と違和感が生まれ、効き目が悪くなる可能性がある。
『挿画世界:神曲・地獄圏環』
現存する「地獄」の絵画は作中の描写にきわめて忠実に描かれており、『神曲』の挿画としておよそ最も著名な物となっている。
ダンテとウェルギリウスが下っていった道程に従い、緻密な地獄の光景を宙空に描き出していく。
巻き込まれた者は第一層、第二層と徐々に下っていくにつれて、自らがかつて犯した罪に対する恥を感じ、それが重ければ重いほど自責の念に駆られていく。
道中では自分がかつて犯したことのある罪に応じた地獄に突き落とされ、しばし罰を受けたのちまた進む。無論それらは錯覚、幻痛にすぎないが、重罪を犯した者は、同じく重い自責がそれに気付くことを困難にする。
そして、最後まで「これは絵である」と気付かぬままに最下層コキュートスに至った場合、地獄の冷気によって魂までもが凍りつき、やがて死に至る。
彼はこの地獄の風景をふくめた、『神曲』の挿絵の作成に命をかけていた。他の仕事がおろそかになり、生活に貧窮するほどだったという。
『挿画世界:神曲・煉獄道程』
煉獄における「見どころ」とは、いかに人が悩み、かつ天国に向かって歩みを進めているのかを見届けること。さらにはめでたく天国入りが決まり、愛する者に出逢う時の祝いの瞬間を楽しむこと。
ボッティチェリがこの世界においてこだわりを込めて描くのもその二点である。
錯覚を起こした者は、「煉獄(プルガトリオ)」を案内するウェルギリウスの絵に着いて行き、絵画の煉獄を登っていく事となる。
この絵画世界に取り込まれた者は、「その人物の最も愛する人間が煉獄の頂上で待っている」という認識歪曲が引き起こされ、彼/彼女に逢いに行く為に登る、という動機付けがなされる。
そのため、一部のサーヴァント…愛する人を持ち、特にその対象を失った者に対しては特に効力を発揮するだろう。逆に生涯において、誰一人として愛する事がなかったような者には効果が薄い。
さらに登るにつれて「浄罪」の錯覚と共に心地よい感覚が身を走り、さらに上へと登ろうとさせる。それゆえに、人を囚えるこの宝具との適正は非常に高い。
登れば登るほどこの世界から抜け出す事は困難になり、また自らの罪に苦悩しつつも、その贖罪のために登るが故に、”途中でやめる”という意志も希薄化する。
そして頂点へと辿り着いた時、巻き込まれた者にとってそれぞれ異なる「最愛の人」が、笑顔と共に天界から手を差し伸べている姿の幻覚に直面する。
その時点で、これが彼の術中である事に気付けぬままその手を握れば、対象の魂は現世を離れ”昇天”し、現実においても死に至る事となる。
しかし、恐れる事はない。それはまさに、愛する者の導きなのだから。
『挿画世界:神曲・至高天界』
天界へと至り、
これは他の挿画世界よりも大掛かりであり、空を覆うほどの純白の薔薇を、異時同図法によって増やした分身によって分担して描きあげる必要がある。
そのため発動に時間が掛かり、無対策では阻止されるのが関の山。しかしひとたびそれを描く事が叶えば、白の薔薇、神の愛たる光は辺り一面の世界に遍き、人は世界の真実を垣間見る。
周辺一帯を「天界化」し、そこにおけるキリスト教世界を基盤とする信仰者以外の一切の行動を不可能とする(正確には存在状態が辺獄(リンボ)に送られた扱いとなるため、そこから動くことが出来ない。)
たとえ信者であっても、今までに犯した罪の重さに応じただけの枷が手足に嵌められ、やはり普通に動くことはできない。
この「天界」において尋常の行動を許されるのは、聖人と称されるような類の敬虔な信仰者でなければまず不可能であろう。
しかしそれは、所詮は「果てに待つ真実」のレプリカに過ぎない。事実「イデア」へと至った彼の宝具に比せば、その効力はまさしく、悖るべき矮小なものである。
上記に示した絵画世界の数々は単に、「生前に描き上げたモチーフ」に過ぎない。新たなモチーフを発見し、彼の中にインスピレーションが生まれたのなら、それも新たな宝具として追加されていくだろう。
故に彼は、自ら「表現者(ラプリゼンターレ)」と自称する。芸術に、表現に終わりなどないのだと示すように。
水につけなくても水彩画が描け、思っただけで色が変わる、挙げ句の果てに宙空に絵が描ける万能絵筆。画家の象徴として形を成したものであるためこのような機能が備わっているが、彼自身にも原理はよく分かっていない。
イタリア・ルネサンス盛期の芸術家。前期ルネサンスで最も成功した画家と言われており、メディチ家の後押しを受けていたフィレンツェ派を代表する人物。
その優美な曲線を描き出すさまをもって「線の詩人」とも呼ばれ、一躍フィレンツェに名をとどろかせていたという。
「呼ばれもしない宴会に顔を出しては、悪ふざけを用意して場を賑わせる愉快な男だった」という記録が残っているように、人当たりがよい陽気な性格。また、食いしん坊であったという逸話もある。
フィリッポ・リッピに師事したのちフィレンツェきっての大アトリエ、ヴェロッキオ工房での活動をはじめた彼は、かのレオナルド・ダ・ヴィンチなどの人物とも交流し、また、彼らの作品に影響を与えたとされる。
ルネサンス期の流行の御多分にもれず古典の神々を好み、その多くを絵画の中に残している。キリスト教的な寓意を十分に残しながらも古き神々を描写しており、その多くの解釈は今でも議論の対象となってやまない。
彼の作品は異教的、かつ官能的なモチーフを多分に含んでおり、それゆえルネサンスの全盛期を伝える画家として、現在では非常に有名なものとなっている。
彼は上述したように、古代的思想であるプラトンの考えを新たにキリスト教価値観の元にまとめた、新プラトン主義の理解者でもあった。
15世紀に再び流行した新プラトン主義が、古代思想とキリスト教世界観を繋いだのは、まさしく”愛”。世界をとりまく、純粋な精神的愛(プラトニック・ラブ)を通してこそ、人は神の領域へと近付くことができるのだと説いたのである。
従来の神学的な考えでは、愛とは神から与えられるものであり、人間は与えられたものを返す…という”矢印の往復”であった。
しかし新プラトン主義において、愛とは次のように説明される。
“愛とは天上と人間界とを巡り、世界全体に繋がっている普遍的な”円環”の輪であり、その「愛のイデア」を理解する事で、人は世界と同一化し、より神の階梯に近づけるのである”。
この「愛のイデア」とは、あくなき理想美を求める美的な創作活動によって追求することができるとされている。彼はそれを好み、愛し、見、自らの創作の糧とすることで、真なる理想の愛を探し続けているのだ。
その愛の結末が悲劇であれ喜劇であれ、彼の心には美しく、愛すべきものとして映り、彼の創作意欲をこの上なく掻き立てることであろう。
もっとも哲学的目的のためと称して人の色恋沙汰を見物しようという事自体には、芸術家特有の困った部分も見受けられる。
『神曲』の挿絵を描いた人物としても有名であり、特に『地獄篇』の挿絵、彩色された地獄の地図は特に完成度、知名度ともに高い。
それは彼を保護していたメディチ家の依頼で描かれたものであったが、百点近くにのぼるこの素描の数々は、並々ならぬ情熱をそそがれた、臨場感にみちた物語性、リアリティをもって描かれている。
そんなボッティチェリではあるが、晩年は保護者であるメディチ家のロレンツォ・デ・メディチが反対派に糾弾されたことにより、生活の軸となるパトロンの力が弱まったことで次第に生活に困るようになる。
その後の作品には精彩さが欠けていき、それまでの評価が失墜していったボッティチェリは1501年までに、創作活動をやめてしまう。
そしてほどない1510年、とてもかつて栄華を誇った画家とは思えないほどに衰弱した、変わり果てた姿で、彼はこの世を去っていった。
その後などは長らくヨーロッパで忘れ去られていたが、19世紀になってようやく彼と、彼の作品は見出されたのである。
彼は、新たな生ではさらなる愛のイデアのありようを探し求めると同時に、とりあえず金銭的に不自由しない生活を望む。
召喚後にそれが送れれば実質的に聖杯の望みはなく、サーヴァントとしての肉体で飢えと無縁な以上は、実質彼の望みは、愛のイデアを求める他には存在しないと言っていいだろう。
イメージカラー:薄茶
特技:デッサン
好きなもの:精神的愛、『神曲』、異教の神々、お金、食事
嫌いなもの:ひもじさ、肉体的愛
天敵:金欠
願い:この世で最も美しい愛と出会う
【一人称】僕 【二人称】アナタ、キミ、先生(ヴェロッキオ、フィリッポ・リッピ、ダンテ・アリギエーリなど) 【三人称】彼/彼女
その優美な曲線を描き出すさまをもって「線の詩人」とも呼ばれ、一躍フィレンツェに名をとどろかせていたという。
「呼ばれもしない宴会に顔を出しては、悪ふざけを用意して場を賑わせる愉快な男だった」という記録が残っているように、人当たりがよい陽気な性格。また、食いしん坊であったという逸話もある。
フィリッポ・リッピに師事したのちフィレンツェきっての大アトリエ、ヴェロッキオ工房での活動をはじめた彼は、かのレオナルド・ダ・ヴィンチなどの人物とも交流し、また、彼らの作品に影響を与えたとされる。
ルネサンス期の流行の御多分にもれず古典の神々を好み、その多くを絵画の中に残している。キリスト教的な寓意を十分に残しながらも古き神々を描写しており、その多くの解釈は今でも議論の対象となってやまない。
彼の作品は異教的、かつ官能的なモチーフを多分に含んでおり、それゆえルネサンスの全盛期を伝える画家として、現在では非常に有名なものとなっている。
彼は上述したように、古代的思想であるプラトンの考えを新たにキリスト教価値観の元にまとめた、新プラトン主義の理解者でもあった。
15世紀に再び流行した新プラトン主義が、古代思想とキリスト教世界観を繋いだのは、まさしく”愛”。世界をとりまく、純粋な精神的愛(プラトニック・ラブ)を通してこそ、人は神の領域へと近付くことができるのだと説いたのである。
従来の神学的な考えでは、愛とは神から与えられるものであり、人間は与えられたものを返す…という”矢印の往復”であった。
しかし新プラトン主義において、愛とは次のように説明される。
“愛とは天上と人間界とを巡り、世界全体に繋がっている普遍的な”円環”の輪であり、その「愛のイデア」を理解する事で、人は世界と同一化し、より神の階梯に近づけるのである”。
この「愛のイデア」とは、あくなき理想美を求める美的な創作活動によって追求することができるとされている。彼はそれを好み、愛し、見、自らの創作の糧とすることで、真なる理想の愛を探し続けているのだ。
その愛の結末が悲劇であれ喜劇であれ、彼の心には美しく、愛すべきものとして映り、彼の創作意欲をこの上なく掻き立てることであろう。
もっとも哲学的目的のためと称して人の色恋沙汰を見物しようという事自体には、芸術家特有の困った部分も見受けられる。
『神曲』の挿絵を描いた人物としても有名であり、特に『地獄篇』の挿絵、彩色された地獄の地図は特に完成度、知名度ともに高い。
それは彼を保護していたメディチ家の依頼で描かれたものであったが、百点近くにのぼるこの素描の数々は、並々ならぬ情熱をそそがれた、臨場感にみちた物語性、リアリティをもって描かれている。
そんなボッティチェリではあるが、晩年は保護者であるメディチ家のロレンツォ・デ・メディチが反対派に糾弾されたことにより、生活の軸となるパトロンの力が弱まったことで次第に生活に困るようになる。
その後の作品には精彩さが欠けていき、それまでの評価が失墜していったボッティチェリは1501年までに、創作活動をやめてしまう。
そしてほどない1510年、とてもかつて栄華を誇った画家とは思えないほどに衰弱した、変わり果てた姿で、彼はこの世を去っていった。
その後などは長らくヨーロッパで忘れ去られていたが、19世紀になってようやく彼と、彼の作品は見出されたのである。
彼は、新たな生ではさらなる愛のイデアのありようを探し求めると同時に、とりあえず金銭的に不自由しない生活を望む。
召喚後にそれが送れれば実質的に聖杯の望みはなく、サーヴァントとしての肉体で飢えと無縁な以上は、実質彼の望みは、愛のイデアを求める他には存在しないと言っていいだろう。
イメージカラー:薄茶
特技:デッサン
好きなもの:精神的愛、『神曲』、異教の神々、お金、食事
嫌いなもの:ひもじさ、肉体的愛
天敵:金欠
願い:この世で最も美しい愛と出会う
【一人称】僕 【二人称】アナタ、キミ、先生(ヴェロッキオ、フィリッポ・リッピ、ダンテ・アリギエーリなど) 【三人称】彼/彼女
・恋愛関係
「いい…」
ボッティチェリは何であろうと、誰から誰に対するものであろうと、どれほどこじれた関係であろうと、純粋な精神的愛であればその恋そのものをこよなく愛し、見届けようとする。
チャンスさえあれば、彼ら彼女らの様子をキャンバスに収め、彼の”愛のイデア”探究のための新たな創作の種とすることを望んでいる。
…高尚なことを言っているようだが、人様の恋路を陰ながら見守ってはその様子をスケッチする様は十分変質者と言って差し支えない。
これこそが、彼の”芸術家的”な側面と呼べるだろう。
またその”見物”に際しては、ある程度切羽詰まったものでない限りマスターからの命令以上に優先する節がある点についても扱いづらい点と言える。
・ギリシャ神話の登場人物
「おお…これは…!!」
生前はギリシャ文化に傾倒し、それらを絵に描き残してきた彼はだからこそ、憧れた神話に名を連ねる者達を前にすれば、畏敬と憧憬の念を覚えずにはいられないだろう。
・レオナルド・ダ・ヴィンチ
「おお、レオナルド君が居るんですか!?…ヴェロッキオ先生の工房以来っスねえ。昔から凄い子だったんスけど……ところで、この美人さんはどちら様?」
彼は生前のダ・ヴィンチを知る、数少ない人物のひとりでもある。
ダ・ヴィンチはヴェロッキオ工房においては彼より7歳下の後輩であり、当時は天才肌の美少年であったダ・ヴィンチを可愛がっていたのだが、内向的だった当時のダ・ヴィンチは、そんな陽気な人柄に対して苦手な感情を示していた…とされる記録が残っている。
「それにしても、自分を改造なんてよくやりますよ。ねえ?元からあの子はかなりの美形だったと思うけど…そういう所も変わってないな」
・ゴッホ、ゴーギャン等印象派画家
「うへェー!何スかこれ!!これが絵!?なるほど確かに、印象的っスけど……後世じゃこういうのが流行りなんスか…?!」
ルネサンス期における主流の絵画と、後に印象派と呼ばれる画家達が描いた絵画の方向性はそもそもが大きく異なる。
古典主義的な絵画はギリシア・ローマ世界を理想とし、それに基づいた強い宗教的テーマを基にして描かれている。画法も筆跡を残さずなめらかな曲線を描く事が目指され、その点においてボッティチェリは「線の詩人」と呼ばれたように、まさに卓越した技術を持っていた。
一方で彼等の絵は宗教性がなく、また画法も点描などに代表されるように、筆跡をあえて残すなど、明らかに異質なものとなっている。
その意味でボッティチェリは、彼等の描くような絵が後世において理解され、彼等が英霊として顕現している事実には驚きを隠せずにいる。
その絵に関しては全く理解できていないが、そこはルネサンス期の芸術家。「異常探求」スキルの影響か、彼の当然とする芸術スタイルに深い問いを投げかけるかのような彼らの姿勢には非常に強い興味を感じてもいるようだ。
そのため、彼らの美術には非常にがっついて反応する。
「何でひまわりばっかり描いてるんスか!?このモチーフにはどんな意味があるんスか!?凄い描画スタイルっスね!!これはどちら様の影響なんスか?!自分!!???スゴイ!!スゴイっスよアナタたち!!!」
・ダンテ・アリギエーリ
ルネサンスと一口に言っても、その期間は200年以上にわたる。
ボッティチェリは同じルネサンス期の表現者とはいえ、ダンテは1265年生まれ、ボッティチェリは1445年にならなければ生まれてこない。実に180年近く前の人物なのである。
彼の思想である新プラトン主義の観念からみて、『神曲』の描写とは非常に純粋な、模範的、理想的な『精神的愛(プラトニック・ラブ)』のありようとして、彼の目に映っていたに違いないだろう。
中世フィレンツェの住民ならば誰しもが知る旅人の姿を前に、感激をあらわにする。
作者の方のダンテ。ともすれば小説中のダンテ以上に敬愛しているが、どことなく…というか、かなりよそよそしい。
それは深い尊敬から来る恐縮もあろうが、ダンテが直接、復讐者としての姿である事に対しての遠慮でもあるのだろうか。
その人間性には納得に加えて若干の落胆、そしてそれ以上の興味と好奇心を同時に抱く。その深い憎悪が、いかにしてあの愛と復讐、そしてゆるしの傑作を生み出したらしめたのだろう?と。
よそよそしいながら、やはり尊敬の念とそうした思いのため、色々とついて回っては若干うざがられる。
「その由来が何であれ…アナタの書き綴った愛は、まさに精神世界の最上位に位置するもの。『神曲』はその点で紛れもなく、神の領域に位置する作品です!個人的に、特にすばらしいと思うのは『煉獄篇』のですね……」
プラトン的に言うと「愛の囚人」のダンテ。接触はほどほどに抑える。
しかしながら、その心に抱く純粋愛そのものは良く、尊ぶべきものだと思っている。あと新作書いてください。
「…あそこから立ち直って下されば、すばらしい方になると思うんスけどねえ。…まあ、僕が口を挟める立場じゃあないんスけど」
[サンドロ・ボッティチェリ]ダンテ・アリギエーリ(水着)の同人中傷力を100%アップする
彼のサークル参加によって視覚的効果を得た同人誌はわかりやすく誹謗中傷がなされており、(ダンテの)スカッと&サワヤカ度が100%アップ。当然クレームの量も100%アップする。
彼は販売中は奥に隠れているので責任は問われない。万が一先生に責任をなすりつけられてもサバフェス中は宝具で複数体の自分をファンネルに島回りをしているため死なない。僕の異時同図法と先生の自己保存でクソサークル度10000%アップだ。永遠に出禁になれ
「神曲」行間から生まれた存在。作家の方でもなければ登場人物の方でもない。当然ボッティチェリはうろたえる。誰だい?マストダイ?
知らない神曲の物語に関してはしかし、並々ならぬ興味を同時に示すだろう。
・ベアトリーチェ
「アナタも英霊に…ご機嫌よう、ベアトリーチェさん。自分、ボッティチェリと言う者ですが…いやはや、生でお目にかかれるとは……是非、素描(デッサン)のモデルになって頂けませんか?」
初対面の反応。『神曲』読者として、彼女の存在を見逃すことはできなかった。
彼女が史実の…もとい、『神曲』中の彼女とは別物の存在だという事には気付かず接する。
と言うよりも何より、「『神曲』は素晴らしいものだ」という価値観のために、登場させられた事自体を恨んでいるという可能性がそもそも頭にない。
所詮はいち読者でしかないボッティチェリには、当事者の事情を深く知る由もなかった。彼もまた被害者といえよう。
「いやあ、それにしても僕の想像していたより何十倍、何千倍もお美しい…先生のお気持ちもよくわかります。ああ、いやいや…失礼しました!僕としたことが…他意はないっスよ。だってアナタには、ダンテさんという素敵なお相手がいらっしゃるのですものね!HAHAHAHA!……ウ゛ッ!?(記憶喪失)」
余談だが、レーテ川はプラトンのイデア論にも関係がある。
-[拳]
「これはこれは…ベアトリーチェさん!アナタまで英霊になっていたとは…ブシツケですが、どうか素描(デッサン)のモデルになって頂けませんか?すぐ終わりますよ!いやあ、それにしても(上記セリフと同じ)」
彼…というよりも、『神曲』読者が知る方の”永遠の淑女”。
彼の言及できる領域ではないものの、ダンテ(術)との幸せを密かに願っている。
「ニンジェル?勿論知ってますとも!フィレンツェの表現者として知らずにいることは出来ないっスよね!僕もあの伝説の行間補完版はロレンツォさんから譲り受けた記憶があるんですが…アレ?これ本当に僕の記憶?」
「いい…」
ボッティチェリは何であろうと、誰から誰に対するものであろうと、どれほどこじれた関係であろうと、純粋な精神的愛であればその恋そのものをこよなく愛し、見届けようとする。
チャンスさえあれば、彼ら彼女らの様子をキャンバスに収め、彼の”愛のイデア”探究のための新たな創作の種とすることを望んでいる。
…高尚なことを言っているようだが、人様の恋路を陰ながら見守ってはその様子をスケッチする様は十分変質者と言って差し支えない。
これこそが、彼の”芸術家的”な側面と呼べるだろう。
またその”見物”に際しては、ある程度切羽詰まったものでない限りマスターからの命令以上に優先する節がある点についても扱いづらい点と言える。
・ギリシャ神話の登場人物
「おお…これは…!!」
生前はギリシャ文化に傾倒し、それらを絵に描き残してきた彼はだからこそ、憧れた神話に名を連ねる者達を前にすれば、畏敬と憧憬の念を覚えずにはいられないだろう。
・レオナルド・ダ・ヴィンチ
「おお、レオナルド君が居るんですか!?…ヴェロッキオ先生の工房以来っスねえ。昔から凄い子だったんスけど……ところで、この美人さんはどちら様?」
彼は生前のダ・ヴィンチを知る、数少ない人物のひとりでもある。
ダ・ヴィンチはヴェロッキオ工房においては彼より7歳下の後輩であり、当時は天才肌の美少年であったダ・ヴィンチを可愛がっていたのだが、内向的だった当時のダ・ヴィンチは、そんな陽気な人柄に対して苦手な感情を示していた…とされる記録が残っている。
「それにしても、自分を改造なんてよくやりますよ。ねえ?元からあの子はかなりの美形だったと思うけど…そういう所も変わってないな」
・ゴッホ、ゴーギャン等印象派画家
「うへェー!何スかこれ!!これが絵!?なるほど確かに、印象的っスけど……後世じゃこういうのが流行りなんスか…?!」
ルネサンス期における主流の絵画と、後に印象派と呼ばれる画家達が描いた絵画の方向性はそもそもが大きく異なる。
古典主義的な絵画はギリシア・ローマ世界を理想とし、それに基づいた強い宗教的テーマを基にして描かれている。画法も筆跡を残さずなめらかな曲線を描く事が目指され、その点においてボッティチェリは「線の詩人」と呼ばれたように、まさに卓越した技術を持っていた。
一方で彼等の絵は宗教性がなく、また画法も点描などに代表されるように、筆跡をあえて残すなど、明らかに異質なものとなっている。
その意味でボッティチェリは、彼等の描くような絵が後世において理解され、彼等が英霊として顕現している事実には驚きを隠せずにいる。
その絵に関しては全く理解できていないが、そこはルネサンス期の芸術家。「異常探求」スキルの影響か、彼の当然とする芸術スタイルに深い問いを投げかけるかのような彼らの姿勢には非常に強い興味を感じてもいるようだ。
そのため、彼らの美術には非常にがっついて反応する。
「何でひまわりばっかり描いてるんスか!?このモチーフにはどんな意味があるんスか!?凄い描画スタイルっスね!!これはどちら様の影響なんスか?!自分!!???スゴイ!!スゴイっスよアナタたち!!!」
・ダンテ・アリギエーリ
ルネサンスと一口に言っても、その期間は200年以上にわたる。
ボッティチェリは同じルネサンス期の表現者とはいえ、ダンテは1265年生まれ、ボッティチェリは1445年にならなければ生まれてこない。実に180年近く前の人物なのである。
彼の思想である新プラトン主義の観念からみて、『神曲』の描写とは非常に純粋な、模範的、理想的な『精神的愛(プラトニック・ラブ)』のありようとして、彼の目に映っていたに違いないだろう。
- [術]
中世フィレンツェの住民ならば誰しもが知る旅人の姿を前に、感激をあらわにする。
- [讐]
作者の方のダンテ。ともすれば小説中のダンテ以上に敬愛しているが、どことなく…というか、かなりよそよそしい。
それは深い尊敬から来る恐縮もあろうが、ダンテが直接、復讐者としての姿である事に対しての遠慮でもあるのだろうか。
その人間性には納得に加えて若干の落胆、そしてそれ以上の興味と好奇心を同時に抱く。その深い憎悪が、いかにしてあの愛と復讐、そしてゆるしの傑作を生み出したらしめたのだろう?と。
よそよそしいながら、やはり尊敬の念とそうした思いのため、色々とついて回っては若干うざがられる。
「その由来が何であれ…アナタの書き綴った愛は、まさに精神世界の最上位に位置するもの。『神曲』はその点で紛れもなく、神の領域に位置する作品です!個人的に、特にすばらしいと思うのは『煉獄篇』のですね……」
- [オルタ]
プラトン的に言うと「愛の囚人」のダンテ。接触はほどほどに抑える。
しかしながら、その心に抱く純粋愛そのものは良く、尊ぶべきものだと思っている。あと新作書いてください。
「…あそこから立ち直って下されば、すばらしい方になると思うんスけどねえ。…まあ、僕が口を挟める立場じゃあないんスけど」
- [水着]
[サンドロ・ボッティチェリ]ダンテ・アリギエーリ(水着)の同人中傷力を100%アップする
彼のサークル参加によって視覚的効果を得た同人誌はわかりやすく誹謗中傷がなされており、(ダンテの)スカッと&サワヤカ度が100%アップ。当然クレームの量も100%アップする。
彼は販売中は奥に隠れているので責任は問われない。万が一先生に責任をなすりつけられてもサバフェス中は宝具で複数体の自分をファンネルに島回りをしているため死なない。僕の異時同図法と先生の自己保存でクソサークル度10000%アップだ。永遠に出禁になれ
- [剣]
「神曲」行間から生まれた存在。作家の方でもなければ登場人物の方でもない。当然ボッティチェリはうろたえる。誰だい?マストダイ?
知らない神曲の物語に関してはしかし、並々ならぬ興味を同時に示すだろう。
・ベアトリーチェ
「アナタも英霊に…ご機嫌よう、ベアトリーチェさん。自分、ボッティチェリと言う者ですが…いやはや、生でお目にかかれるとは……是非、素描(デッサン)のモデルになって頂けませんか?」
初対面の反応。『神曲』読者として、彼女の存在を見逃すことはできなかった。
彼女が史実の…もとい、『神曲』中の彼女とは別物の存在だという事には気付かず接する。
と言うよりも何より、「『神曲』は素晴らしいものだ」という価値観のために、登場させられた事自体を恨んでいるという可能性がそもそも頭にない。
所詮はいち読者でしかないボッティチェリには、当事者の事情を深く知る由もなかった。彼もまた被害者といえよう。
「いやあ、それにしても僕の想像していたより何十倍、何千倍もお美しい…先生のお気持ちもよくわかります。ああ、いやいや…失礼しました!僕としたことが…他意はないっスよ。だってアナタには、ダンテさんという素敵なお相手がいらっしゃるのですものね!HAHAHAHA!……ウ゛ッ!?(記憶喪失)」
余談だが、レーテ川はプラトンのイデア論にも関係がある。
-[拳]
「これはこれは…ベアトリーチェさん!アナタまで英霊になっていたとは…ブシツケですが、どうか素描(デッサン)のモデルになって頂けませんか?すぐ終わりますよ!いやあ、それにしても(上記セリフと同じ)」
彼…というよりも、『神曲』読者が知る方の”永遠の淑女”。
彼の言及できる領域ではないものの、ダンテ(術)との幸せを密かに願っている。
「ニンジェル?勿論知ってますとも!フィレンツェの表現者として知らずにいることは出来ないっスよね!僕もあの伝説の行間補完版はロレンツォさんから譲り受けた記憶があるんですが…アレ?これ本当に僕の記憶?」
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