最終更新: arahito_tajima 2014年12月27日(土) 16:55:51履歴
少しでも古代日本の剣や鏡に記された銘について調べられたことがある方なら、そういった銘が結構テキトーに読まれていることをご存じでしょう。
今回、稲荷山古墳鉄剣銘のうち、「獲加多支鹵」銘について読み方の一例を示します。
この「獲加多支鹵」は、通常「ワカタケル」と読まれています。
この読み方は日本書紀を元にしているのですが、既に日本書紀はかなり信憑性が失われているのです。
日本書紀の編纂が開始されたのがほぼ681年。完成が720年。記述としては697年の文武天皇即位までとなっています。
その記述の信憑性なのですが、663年の白村江の戦いですら微妙に外国の史料と異なり、607年の遣隋使のあたりから全く話が合わなくなっています。聖徳太子不存在説などがしぶとく生き残っているのもこのあたりが原因です。
かつては日本書紀が至上のものであったため日本の学者は無理矢理日本書紀に辻褄を合わせようと様々な説を提唱していましたが、考古学的な資料と突き合わせるとどうしても外国の史料や日本書紀以外の史料に軍配が上がるようになってきました。
まして、稲荷山古墳鉄剣の時代は471年か531年と、日本書紀の信憑性が欠片もない時代の話です。
今回、この稲荷山古墳鉄剣に記された「獲加多支鹵」銘を、日本書紀以外の資料を用いて読み解いていきましょう。
実は、いきなり「獲(鉄剣上ではこの字に「くさかんむり」はない)」の字が難しいのです。
「獲」は万葉仮名の中に入っていない。
万葉仮名で「ワ」は和、倭、輪などが使われています。
万葉集の中で「獲」の字は出てきません。後世に付けられた万葉集の注釈である左注に「とる」と言う意味で使われているだけです。
では、一体どうして「獲」を「ワ」と読んだのか。
説得力のある資料は見つかりませんでした。
ただ、「獲」は呉音では「ワ」、漢音では「クワク」と読まれているので、時代的に「ワ」と読んでも問題はありません。
で、ここで私は気付いたのですが、実は「獲」の字の次の字は必ず「カ」行なのです。
稲荷山古墳鉄剣では、「獲居(ケ)」、「獲加(カ)」にしか用いられていません。
そして、本来この「獲」の音は呉音でwak-なのです。
つまり、この「獲」という字は、ただの「ワ」ではなく、「カ」行の文字と用いられることで促音便化、つまり「獲加」だと「ワッカ」と読まれていた可能性が高い。
なお、他の研究者の中にはwak-を単純に「ワク」と読み、促音便化せずに「獲加」の「ワクカ」案を提案されている方もいることも付け加えておきます。ただ、「ワク」にしてしまうと1字2音なので、鉄剣の人名は1字1音で記されていることから私は促音便説を提唱するものです。
次の「加」「多」は万葉集でも「カ」「タ」であり、異論は少ない。この二つの漢字とカタカナを見て貰えば分かるとおり、「カ」は「加」から、「タ」は「多」から派生した文字です。
で、次に疑義の対象になるのが「支」です。
万葉集ではこの文字は「ケ」とは読みません。そもそも稲荷山古墳鉄剣銘では「ケ」は「居」が用いられていて、こちらは万葉集でも「ケ」と読まれています。
万葉集的には「支」は甲類の「キ」「ギ」となります。呉音でも漢音でも変化無く「シ」と読まれています。
あと、『梁書』『隋書』に「一支国」という記載があり、これが現在の「壱岐島(イキノシマ)」であろうことからも「支」は「キ」と読むべきでしょう。
なお、研究者の中には古代支那の一部で「支」を「ケ」っぽい音で読んでいたこともあるとして「ケ」説を押される方もいますが、
1.その説の根拠となるまともな資料が存在しない。
2.鉄剣では「居」が「ケ」に使われている。
3.その後の日本国内での使用例で「キ」「ギ」「シ」以外に用いられていない。
ことから私は「キ」と読むことにしました。
ラストの「鹵」は二重に難しい。
この字が「鹵」ではなくて「歯」ではないかという説があるのです。
ただ、鉄剣銘の写真を見る限り「歯」の可能性はまずありません。以下に写真へのリンクを張っておくので各自確認してください。
鉄剣銘の写真(行田市教育委員会)(リンク切れになりませんように……)
この「鹵」ですが、金文時代から存在する由緒正しい文字で、「塩」の元になった字です。具体的に言うと「塩」の右側中央にある「口」の部分が本来は「鹵」なのです。このように実は「塩」はかなり変遷を遂げた文字なのです。
で、この文字が呉音で「ル」、漢音で「ロ」なのが悩ましい。
万葉集では訓音化して「かた」と読まれているので参考にはなりません。
「獲」を呉音で読んだ関係上、呉音の「ル」説を押しておきます。
そうすると今度は「支」を呉音の「シ」で読まないのはなぜか、という話になるのですが、これはまあ後世の日本では「キ」と読まれていたことと、鉄剣では「シ」は「斯」が使われているから、というのが私の持論です。
というわけで、日本書紀以外の資料を用いて「獲加多支鹵」を読み解いた場合場合、現段階では
「ワッカタキル(wakkatakilu)」
が最も原音に近いのではないかと考えられます。
なお、この項については異論が噴出するでしょうから、コメント欄はオープンにしておきました。
特に、
1.「支」を「ケ」と読んでいる資料。
2.471年〜531年あたりで「鹵」を「ル」と読んでいたのか「ロ」と読んでいたのか分かるような資料。
があれば大歓迎です。
今回、稲荷山古墳鉄剣銘のうち、「獲加多支鹵」銘について読み方の一例を示します。
この「獲加多支鹵」は、通常「ワカタケル」と読まれています。
この読み方は日本書紀を元にしているのですが、既に日本書紀はかなり信憑性が失われているのです。
日本書紀の編纂が開始されたのがほぼ681年。完成が720年。記述としては697年の文武天皇即位までとなっています。
その記述の信憑性なのですが、663年の白村江の戦いですら微妙に外国の史料と異なり、607年の遣隋使のあたりから全く話が合わなくなっています。聖徳太子不存在説などがしぶとく生き残っているのもこのあたりが原因です。
かつては日本書紀が至上のものであったため日本の学者は無理矢理日本書紀に辻褄を合わせようと様々な説を提唱していましたが、考古学的な資料と突き合わせるとどうしても外国の史料や日本書紀以外の史料に軍配が上がるようになってきました。
まして、稲荷山古墳鉄剣の時代は471年か531年と、日本書紀の信憑性が欠片もない時代の話です。
今回、この稲荷山古墳鉄剣に記された「獲加多支鹵」銘を、日本書紀以外の資料を用いて読み解いていきましょう。
実は、いきなり「獲(鉄剣上ではこの字に「くさかんむり」はない)」の字が難しいのです。
「獲」は万葉仮名の中に入っていない。
万葉仮名で「ワ」は和、倭、輪などが使われています。
万葉集の中で「獲」の字は出てきません。後世に付けられた万葉集の注釈である左注に「とる」と言う意味で使われているだけです。
では、一体どうして「獲」を「ワ」と読んだのか。
説得力のある資料は見つかりませんでした。
ただ、「獲」は呉音では「ワ」、漢音では「クワク」と読まれているので、時代的に「ワ」と読んでも問題はありません。
で、ここで私は気付いたのですが、実は「獲」の字の次の字は必ず「カ」行なのです。
稲荷山古墳鉄剣では、「獲居(ケ)」、「獲加(カ)」にしか用いられていません。
そして、本来この「獲」の音は呉音でwak-なのです。
つまり、この「獲」という字は、ただの「ワ」ではなく、「カ」行の文字と用いられることで促音便化、つまり「獲加」だと「ワッカ」と読まれていた可能性が高い。
なお、他の研究者の中にはwak-を単純に「ワク」と読み、促音便化せずに「獲加」の「ワクカ」案を提案されている方もいることも付け加えておきます。ただ、「ワク」にしてしまうと1字2音なので、鉄剣の人名は1字1音で記されていることから私は促音便説を提唱するものです。
次の「加」「多」は万葉集でも「カ」「タ」であり、異論は少ない。この二つの漢字とカタカナを見て貰えば分かるとおり、「カ」は「加」から、「タ」は「多」から派生した文字です。
で、次に疑義の対象になるのが「支」です。
万葉集ではこの文字は「ケ」とは読みません。そもそも稲荷山古墳鉄剣銘では「ケ」は「居」が用いられていて、こちらは万葉集でも「ケ」と読まれています。
万葉集的には「支」は甲類の「キ」「ギ」となります。呉音でも漢音でも変化無く「シ」と読まれています。
あと、『梁書』『隋書』に「一支国」という記載があり、これが現在の「壱岐島(イキノシマ)」であろうことからも「支」は「キ」と読むべきでしょう。
なお、研究者の中には古代支那の一部で「支」を「ケ」っぽい音で読んでいたこともあるとして「ケ」説を押される方もいますが、
1.その説の根拠となるまともな資料が存在しない。
2.鉄剣では「居」が「ケ」に使われている。
3.その後の日本国内での使用例で「キ」「ギ」「シ」以外に用いられていない。
ことから私は「キ」と読むことにしました。
ラストの「鹵」は二重に難しい。
この字が「鹵」ではなくて「歯」ではないかという説があるのです。
ただ、鉄剣銘の写真を見る限り「歯」の可能性はまずありません。以下に写真へのリンクを張っておくので各自確認してください。
鉄剣銘の写真(行田市教育委員会)(リンク切れになりませんように……)
この「鹵」ですが、金文時代から存在する由緒正しい文字で、「塩」の元になった字です。具体的に言うと「塩」の右側中央にある「口」の部分が本来は「鹵」なのです。このように実は「塩」はかなり変遷を遂げた文字なのです。
で、この文字が呉音で「ル」、漢音で「ロ」なのが悩ましい。
万葉集では訓音化して「かた」と読まれているので参考にはなりません。
「獲」を呉音で読んだ関係上、呉音の「ル」説を押しておきます。
そうすると今度は「支」を呉音の「シ」で読まないのはなぜか、という話になるのですが、これはまあ後世の日本では「キ」と読まれていたことと、鉄剣では「シ」は「斯」が使われているから、というのが私の持論です。
というわけで、日本書紀以外の資料を用いて「獲加多支鹵」を読み解いた場合場合、現段階では
「ワッカタキル(wakkatakilu)」
が最も原音に近いのではないかと考えられます。
なお、この項については異論が噴出するでしょうから、コメント欄はオープンにしておきました。
特に、
1.「支」を「ケ」と読んでいる資料。
2.471年〜531年あたりで「鹵」を「ル」と読んでいたのか「ロ」と読んでいたのか分かるような資料。
があれば大歓迎です。
この項目を見に来られる方が多いので、稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌が発見された経緯に関してWikipediaに書かれていない話を中心に少し書いておきます。
この鉄剣が発掘されたのは、1968年。埼玉県行田市にある稲荷山古墳から見つかりました。
発見当時は何の変哲もない錆びた鉄剣だったのですが、1978年、保護処理のため奈良県生駒市にある元興寺文化財研究所の文化財保存処理センター(現:保存科学センター)に送られます。
このとき、X線による検査が行われたことで「辛亥年」等の金象嵌115文字の銘文が発見されたのです。
つまり、斎藤忠氏を中心とした発掘から10年経過して初めて金象嵌の存在が明らかになったことになります。
このX線検査も保存処理に必須のものではなく、赤錆の除去中にたまたま金色の斑点が見つかったことからかけられたもので、セレンディピティといいますか、当時の担当者としては大金星だったでしょう。
なお、その後の研究で鉄剣の地金は中国大陸製、鍛冶は日本国内という推定がなされています。
この鉄剣が発掘されたのは、1968年。埼玉県行田市にある稲荷山古墳から見つかりました。
発見当時は何の変哲もない錆びた鉄剣だったのですが、1978年、保護処理のため奈良県生駒市にある元興寺文化財研究所の文化財保存処理センター(現:保存科学センター)に送られます。
このとき、X線による検査が行われたことで「辛亥年」等の金象嵌115文字の銘文が発見されたのです。
つまり、斎藤忠氏を中心とした発掘から10年経過して初めて金象嵌の存在が明らかになったことになります。
このX線検査も保存処理に必須のものではなく、赤錆の除去中にたまたま金色の斑点が見つかったことからかけられたもので、セレンディピティといいますか、当時の担当者としては大金星だったでしょう。
なお、その後の研究で鉄剣の地金は中国大陸製、鍛冶は日本国内という推定がなされています。
当時の報告書では「ワカタケ(キ)ル(ロ)」となっています。やはり「支」と「鹵」の読みに関しては異説が多かったのでしょう。「支」の読みに関しては最近「キ」とみなす傾向が強くなっていますが、「鹵」に関しては証拠が無く未だに解明されていません。
稲荷山古墳出土鉄剣の話をすると必ずついてくるのがこの江田船山古墳出土銀錯銘大刀の話です。
江田船山古墳は熊本県玉名郡和水町にあります。1873年(明治6年)から発掘され、豊富な出土品で知られています。
この出土品の中で最も有名なのが75字の銘文が刻まれた銀錯銘大刀です。
この銘文の中に
獲□□□鹵大王
という表現があり、「獲」を「蝮(たじひ)」、「鹵」を「歯」と読んで日本書紀に記された
多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)
もしくは古事記に記された
水歯別命(みずはわけのみこと)
と長きに渡って推定されていたのですが、上述の稲荷山古墳出土鉄剣の文字が発見されたことからワカタケルだ、と話が180度変わってしまったわけです。
このとおり、長期間に渡って推定されていた通説がたったひとつの発見によりひっくりかえされてしまうのが銘文解釈の世界です。これひとつ見てもいかにテキトーな世界か分かると思います。
「鹵」を「歯」と無理矢理読むというのも、日本書紀や古事記に描かれたミズハワケノミコトに比定せんがための強弁だったわけです。
江田船山古墳は熊本県玉名郡和水町にあります。1873年(明治6年)から発掘され、豊富な出土品で知られています。
この出土品の中で最も有名なのが75字の銘文が刻まれた銀錯銘大刀です。
この銘文の中に
獲□□□鹵大王
という表現があり、「獲」を「蝮(たじひ)」、「鹵」を「歯」と読んで日本書紀に記された
多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)
もしくは古事記に記された
水歯別命(みずはわけのみこと)
と長きに渡って推定されていたのですが、上述の稲荷山古墳出土鉄剣の文字が発見されたことからワカタケルだ、と話が180度変わってしまったわけです。
このとおり、長期間に渡って推定されていた通説がたったひとつの発見によりひっくりかえされてしまうのが銘文解釈の世界です。これひとつ見てもいかにテキトーな世界か分かると思います。
「鹵」を「歯」と無理矢理読むというのも、日本書紀や古事記に描かれたミズハワケノミコトに比定せんがための強弁だったわけです。
このページへのコメント
この鉄剣銘文の文字使いは、日本語系統の言語にあてたとすれば、南北朝期の中国詩文に残る音価とは異なるものでしょう。
日本書紀百済上表文や三国史記に現れる半島系の漢字の音価に類似するものと思われます。
わずかな史料であり、様々な未確定要素があるため、断言できることは少ないでしょう。
獲加多支鹵大王はロマンがありますね。
獲加=倭国(ワコク、ヤマト)
多支鹵=タケル
でしょうか?
お聞きしたいのですが、この文字は、そもそも中国や百済とは、類似してないのでしょうか?中国では、古くから、地域によってすべて文字が違いますので、参考になるものはありませんでしょうか?よろしくお願いいたします。
追加ですが、この銘文は日本書紀百済系文書と関係が深いです。
百済系文書及び関連する推古朝遺文では、イとエの甲類の判別ができていない可能性があります。
即ちキとケ甲類の区別が付いていない可能性があります。
またウとオ甲類の区別も甘いです。
従って、キル、ケル、キロ、ケロの判別はこの漢字の使用者(おそらく百済系渡来人)には付いていなかった可能性があります。
万葉仮名には、呉音漢音系より古いタイプのものがありますので、調べてみてください。
そうすればこの鉄剣銘文の全体が理解できると思います。
子音終わりの文字に、同じ子音で始まる漢字を付けるのは、万葉集でも記紀でも普通に使われる方法で、連合仮名と言います。
勿論促音の表現ではありません。
そもそも隋唐の漢字音で、入声と呼ばれる終わりの子音の発音は非常に弱いものです。
略音仮名と言って無視されることもあるぐらいです。