個人的な備忘録。事実と妄想は峻別していきたい。

御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)

 御湯殿上日記の説明については手を抜いてWikipediaへのリンクを張っておきます。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/御湯殿上日記

 この『おゆどののうえのにっき(以下、おゆどの)』が重要なのは、人名がひらがなで書かれているので通常漢字だけで書かれているため読み方のわからないこの当時の人名をどう読んでいたかが分かるところであり、欠点は人名がひらがなで書かれていることから同じ読み方の人物の判別がつかないところです。

 この史料は『暦道賀茂家断絶の事』の中でもよく用いられていますが、賀茂在昌研究の特に後半戦で重要になってきます。
 この大量の漢字かな交じり文から「あきまさ」という文字をスキャンしていくわけなのですが、手作業、目作業なので強烈に効率が悪い。いずれ『おゆどの』も全文が電子化されるでしょうから、そのときはこんな苦労をしなくて済むようになるでしょう。

天正八年正月二十四日

 「あきまさ御みかため」
とあり、このころから朝廷に用いられていたことが分かります。

天正八年二月十七日

 「かんろしよりおんようのかみあきまさちけやうの事に文申されていたさるる」
 「かんろし」とは甘露寺、この時代の甘露寺家の当主、甘露寺経元のことです。「おんようのかみ」とは陰陽頭のことで、この時点で「あきまさ」という人物が陰陽頭であることが分かります。「ちけやう」というのは知行のことで、山科にあった勘解由小路家の領地のことと思われます。戦国時代という背景もあってこの領地はよく他の武将に強奪されていたのです。何度も繰り返しますが勘解由小路家の所領については末柄豊氏の研究が詳しいです。

天正八年十二月二十二日

 「あきまさあけかなの御こよみ」

天正十四年五月三十日

 「(前略)あきまさけふのまわけの御こよみまいり候へとも。ちきやうもちかい。きやうしよりも御れうしもいたし候はぬとて。まわけの御こよみの下くはんけふはしんしやう申候はす候。ことしはしめてまいり候はす候。」
 ここらへんから古文書など読んだことのないので苦しくなってきます。まず、「あきまさけふのまわけの御こよみまいり候へとも。」の区切りが分かりません。
「あきまさ/けふの/まわけの/御こよみ/まいり候へとも。」
 かと思ったのですが、「まわけの」という言葉の意味が分からない。「まうけの」なら準備したということなのですが。
 次の「ちきやうもちかい。」ですが「知行も違い」という意味か。
 「きやうしよりも御れうしもいたし候はぬとて。」ですが、この「御れうし」は「御料紙」、つまり(上質な)紙のことだとすると、「きやうし」とは経師、すなわち暦の外装を担当する職人だと思われます。つまり、「経師からも表装できていないといって」という意味になります。
 この「経師」というのは暦の外装を担当する職人だったのですが、この頃では暦そのものを作成する人々の意味にもなっています。
 なお、もっと後の時代では暦の版を刷る元締めのことを「大経師」と呼んでいます。

天正十四年六月一日

 「きのふのまわけの御こよみまつしんしやう申候へと申され候へのよし。かんろしおほせられて。きのふまいり候御こよみにて候へともけふまいる。ちきやうちかいて御ほうこうもなり候ましきよし申入候事にて候へとも。まつ御こよみをはしんしやう候へとおほせられてしんしやう申也」
 ここには「あきまさ」という言葉は出てこないのですが、五月三十日の続きであるので記しました。五月三十日にもあったが「しんしやう」とは「進上」のことで、現代風に言うと「献上」になります。
 どうやら「ちきやうちかい」のせいで暦を献上しなかったようですが、とりあえず献上しろと言って献上させたようです。

天正十七年十二月四日

 「あきまさより御こゆみ御二つ、御はつけまいる。かんろしよりひろうあり」

天正十八年十二月六日

 「あきまさ御こよみ。御はつけしん上申。かんろしひろうあり。めてたく。わかきみの御きたう七日するするとおこない申て」

 気になったのが暦の献上日です。天正十七年と十八年は十二月に献上しているようですが、なぜ天正十四年は五月末なのか。一年分であれば十二月が妥当だと思うのですが。
 あと、ここでいう「御はつけ」とは「八卦」のことと思われますが、どのようなものかは全く分かりません。当時の暦には様々な占いや日取りが入っていたのですが、それとは別に記述されているところを見るとどうやら別物のようです。

文禄四年正月三日

 「あきまさに御ちきやうのことおほせいたさるる」
 ことここに至ってやっと「ちきょう」のケリがついたようです。天正八年(1580)からすると文禄四年(1595)まで実に15年かかっています。

文禄四年正月九日

 「御みかためあきまさまいる。はんしやうてんにより御たいめんはなし。きよいをいたかれてきてう所へまいりて。御みかためしまいらする」

 二つの点において重要な記述で、まず「あきまさ」が「はんしやうてん(半昇殿)」だということ。もう一つは当時の「御みかため(身固)」のやり方が分かるということです。「あきまさ」が半昇殿なので天皇との対面はなく、「きよい」つまり撫物である「浄衣」を「きてう所」、宮中の祈祷所に持ち込んで身固の儀式をしていたことが分かります。

文禄四年四月十五日

 「あきまさ御かくの御ひとりの事おほせいたさるる」

慶長五年正月二十一日

 「あきまさ御みかためにまいる」
 なんと在昌が死んでいるはずの慶長四年以降に「あきまさ」という陰陽師が身固に来ています。
 しかしながら我々は在昌の父在富とその養子在高で同じような状況を見ています。つまり「あきとみちこ」から「あきとみ」呼ばわりされていたことを知っています。
 この件についてはもっと後の項目で述べたいと思います。

 さあ、これで在昌研究の第一級史料である「御湯殿上日記」が終わりました。
 それでは、「おゆどの」と同じく在昌の名前が頻出するケース、天正十年改暦問題を見ていきます。




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