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ほぼ実話 6/20(日) 03:01:39 No.20100620030139 削除

あと、2,3回以内には、大学の頃の話は書き終えようと思います。



余程明るいところでじっくり見ない限り、ピアスの穴は分からないものなのでしょう。
その頃の私は、何も知らずに、西脇にさんざんかき回された直後の妻の性器を舐めていましたが、一度も変だななどとも思いませんでした。

ただ、味や匂いが微妙に変わったということには気が付いていました。
セックスをする頻度が減ったせいで、前戯も長くなったし彼女のあそこも興奮しやすくなって、味が変わったのかな、などと思ったのです。
見当違いもいいところです。
それは、これから行われる私とのセックスに期待して彼女の性器が分泌した液ではなかったのです。
何時間もの浮気のセックスで搾り出され、他の男の巨根にへばりつき泡だった、淫らな汁と、そして精液が混じった味だったのです。
妻の浮気相手、そして私の同期の男の精液の匂いだったのです。

しかし、当然、自分の精液を舐めたこともない私にその味が何なのかが分かるはずもありません。
匂いにしても、発情したメスの蒸れた匂いに混じると、そう言われなければ分かるものではないのです。
童貞上がりの経験のほとんど無い私に、自分の恋人が、浮気の経験があるとはいえ、中出し精液を滴らせたまま私とセックスをするなどということは、完全に想像を超えたものでした。
一度として疑った事すら有りませんでした。

妻は、中出しされた精液の味がどんなものなのか、私が知ることがないように、私が自分で射精した後のあそこは舐めさせないようにした、と言います。
私が自分の中出しを舐めて「精液の味」がこういうものなのだと知ってしまったら、いつも私に舐めさせる自分の性器が精液で汚れていることがばれてしまうからです。

繰り返すうちに、次第に、妻自身が自分で驚くほどそのような変態的な行為に興奮することを知っていったと言います。
初めは、西脇の部屋を出たあとで、私とホテルに入る前にトイレで中に残った精子を掻き出したり拭き取ったりするようにしていましたが、次第にそんなことさえ、しないようになっていったと言います。
部屋さえ暗くすれば、どんな状態でも大丈夫だったから・・と。

確かに、妻はその頃、剃毛したままの陰部を恥ずかしいと言い、真っ暗な中で行為を始めるのが常でした。
いきなり私に舐めさせることはしませんでしたが、シャワーは浴びませんでした。
長いキスをして、指で触り合い、濃厚なフェラをしてくれ・・・
そうしていると、すっかり発情し濡れそぼった、妻の性器には不信感は抱きませんでした。
卑猥な匂いも長くなった前戯のせいだと思っていました。

「エッチな味する?」

「する・・」

「きたなくないの?」

「だって美歩もしてくれるから」

お互いシャワーを浴びないままの肉体を舐め、貪り合うのは、「そのこと」があった後からでした。
かえって、それ故か、シャワーを浴びずにすることが、二人のセックスの進歩のように感じていました。
一皮むけた私たちは、卑猥な「大人のセックス」をすることが出来るようになったのだ、というつもりでした。
シャワーを浴びる前の女性のあそこの味や匂いなのだと思っていました。
愛する彼女が、私への欲情で濡らしたあそこを舐めさせたいのだろう、一種の愛情表現なのだろうと思っていました。


西脇との浮気までは大体週に1回はホテルに行っていましたが、その後は頻度がかなり減っていました。

その頃の私は、それは、浮気をしたことなどで妻も心が傷付いているせいだ、という風に解釈していました。
傷付き、以前より気楽にはセックスをしなくなったような恋人が、まさか、いまだに浮気相手の男のセフレにされて、毎回必ず汚された肉体のまま私とセックスさせられているなどとは想像もしませんでした。

しかし、真実は正反対でした。
二日と間を開けることなく、ほぼ毎日のように、西脇とセックスを繰り返していたのです。
同時に私と毎日顔を合わせて、頻回にデートしていても、ほとんどいつも性器は西脇の鍵で閉じられたまま管理されていたのです。
西脇の気まぐれで、私にその「おこぼれ」を与えようと云うときだけ、セックスが許されていたのです。
妻の心と肉体をいじめ抜き、口も性器も肛門も精子まみれにしたあとで、ピアスを切り、直接私とのデートに向かわせたのです。

普段は、私たち二人ともが、あの男によって子供のような股間にされたまま、子供のような清純なデートをしていました。
そしてゼミや授業の後も、デートの後も、サークルの後も、妻は西脇の部屋に行ったのです。
沙季ちゃんなどの友達と会う、アルバイトや習い事に行く、と言いながら。
傷付いた心を癒すのに必要なのだろうと思っていたそれらの時間は、すべて西脇との生々しいセックスに費やされていたのです。

私と別れた後に西脇の部屋に行き、小さな南京錠を外してもらい、思う存分に膣奥まで太いモノをねじ込まれる快感はどうしても忘れられないと言います。
私との時間はすべて西脇とのセックスの前戯のようなものだったのです。

時には1時間にも及ぶフェラチオをさせられ、アナルも使われたといいます。
次第に、焦らされた後では、アナルセックスさえも、自分から求めたといいます。
西脇の気分次第で錠をはずしてもらい、翌日の授業に起きられないほど犯されたといいます。
初めてされたときから5,6ヶ月の間は、新しく手に入れた獲物に対する西脇の性欲は凄まじく、生理の間も含め、ほぼ毎日西脇の精液が妻の肉体のどこかに注がれたそうです。
私は、数少ないセックスの機会に良いところを見せようと禁欲してみたり、募る欲求不満に耐えられず、虚しくオナニーを繰り返すばかりであったその間に、です。


皮肉なことに、その頃すでに浮気された事に倒錯した禁断の興奮を感じていた私のズリネタは、妻が西脇にされた一夜のセックスの様子でした。
浮気のセックスについて詳しいことは何も聞けないままでいましたが、その分、想像力だけがたくましく膨らみました。
合宿の風呂などで見たことのある西脇の凶器のような大きな一物が、自分の恋人の性器に突き刺さり彼女をよがり狂わせている情景を想像しては、オナニーをしていました。
自慰を終えると、毎回、賢者の鬱が始まりました。
その時コンドームを使ったのだろうかと、気にしてみたり、実はあの巨根は彼女の膣には挿入できなかったのではないか、フェラチオをしただけで彼女が浮気をしちゃったと言っているのではないか・・・などと、儚い希望を抱いたりしていたのです。
しかし、実際はそんなウブな私の想像を遥かに超える卑猥な性行為が、現在進行形で昼夜を問わず繰り返されていたのです。


浮気の事件が私たちに持ちあがる前は、妻は経験の少ない私をちょっとからかうような所もある、あっけらかんとしたセックスでしたが、その事件の後のセックスは私にとってはかなり濃厚な激しいものになっていっていました。
先ほど書いたようにシャワーを浴びずにするようになりました。
(私は気を遣って出来るだけデートの直前にシャワーを浴びていたのに、彼女は完全に反対のことをしていたのです。)
フェラチオなどは、ペニスだけでなく睾丸までも口の中に入れてグチャグチャと音を立ててしてくれました。口の中に射精することも許されるようになりました。
新しいレパートリーが加わる度に彼女は「今度の、気持ち良かった?」などと訊いてくれるのです。
何の抵抗もなくシックスナインもするようになりました。
1時間以上にもわたり私の顔全体がベトベトになるほどクンニをするようになりました。

口には出さないものの、それらの変化が、浮気のあとに起こったものであることは、お互い分かっていました。
私からするとそれは、浮気のおわびにという気持ちが込められているような気がしていました。
正直に浮気を告白したことで、セックスで、より多くをお互いにさらけ出せるような関係になっていると勘違いしていました。


彼女は私と会う前だけではなく、私とセックスした後も、必ずその足でそのまま西脇のマンションに帰ることを要求されていました。
私とのセックスに満たされず、欲求不満のままオナニーをすることも禁じるためです。
時には西脇の部屋に行くとすぐに、リングだけでなく錠前も付けられ火照ったままの肉体を焦らされることもあり、それを怖れて、私と別れた直後にデパートのトイレで指をねじ込んでオナニーすることもあったそうです。

しかし、私とのセックスの後に彼女をすぐに戻らせるのは、彼女を焦らし禁欲させることだけが理由ではありませんでした。
彼女が私とのセックスのあとは普段以上に性欲が高まり乱れることを、西脇は見抜いていたのです。
彼女もそのことを何度も西脇に指摘されるにつれて、次第に正直に認めるようになっていったそうです。

私という恋人がいる事を、肉体で思い出させることは浮気への罪悪感を煽りました。
そういう意味では妻は堕ちきってはいなかったのです。
しかし罪悪感は彼らのセックスを刺激するスパイス程度のものだったのでしょう。

そして、私を辱めること自体への興奮も妻の持つ性欲の一側面です。
恋人である私のペニスやセックスに自分が満たされないことを確認するのが好きだったと言います。
もしかするとそれは自分の浮気への言い訳になるからだったのかも知れない、とも言っていました。
しかし何より直接的に、彼女を愛し彼女に執着する私という恋人が、性的には、浮気相手のセックスフレンドに比べて無力であること・・・その悲劇が彼女を興奮させるのです。
浮気相手の指図で、股間を無毛にされ、恋人とのセックスの回数を月にたった1回ほどに制限されている弱い私が、好きだったのです。
浮気セックスの汁を滴らせたままの彼女の性器を、彼女の求めるままにいつまでも舐め続ける従順な私に興奮したのでした。
その弱い人間が西脇の半分にも満たない小さなペニスを勃起させて必死になっている姿に彼女は欲情したのです。
しかしその欲情は私では解消することが出来ないのです。
私がどんなに頑張ってピストンを繰り返しても、西脇のペニスの半分の太さもなく、西脇の半分の深さも突くことが出来ずにいて、自分の肉体の欲情が満たされないこと自体に、欲情していたのです。
このジレンマのせいで彼女は私とのセックスのあとは西脇のセックスに激しく乱れました。

ラブラブな恋人とのセックスのあとで、逆に余計に欲求不満を高まらせた女を抱くというのはどんな感じなのだろうと、純粋に憧れます。
「彼氏とは全然違う」と叫びながら、絶頂を繰り返す女のあそこの締め付けはどんな味わいでしょうか。
恋人が決して届くことのない、膣の奥深くまで挿入し、子宮を打ち付け、オスとしての強さの違いを、弱いオスを見た直後のメスにまざまざと感じさせるのは、どんな気分なのでしょうか。

私には分かりません。
しかし、それが、西脇が「直後の」妻にこだわった理由の一つなのでしょう。


それならば何故、西脇は月にたった1回しか私とのセックスを許さなかったのか、疑問に思い聞いたことがあります。
答えは、シンプルなものでした。
「私とさせてもらったあなたが、大学で、何となく嬉しそうな顔をしているのが西脇君は嫌いだったのよ。
私だけでなくて、たーくんのことも、いたぶるのが好きだったのよ」
と言います。

同時に、セックスを完全に禁じて私が耐えられず、また訝り、二人を別れさせるのも面白くないと思ったのでしょう。
公然の恋人だった私たちが結婚することを楽しみにしていたのかも知れません。
10年以上経った今となって、結婚した後で、こんな過去の話を聞かされ苦しむ私をも想像していたのかも知れません。



思い出すと、ホテルに誘って断られることも、頻繁でした。
次第に私から誘うことも躊躇われるようになっていったのですが。
生理、そんな気分じゃないの、危ない日だから・・・その理由はその時は様々でしたが、実際はただひとつ、浮気相手に性器にピアスリングをはめられ南京錠をぶら下げていたからなのです。

ぶら下げていたというのが比喩的でないこともあったそうです。
パンツを穿けば南京錠もパンツが支えてくれますが、パンツを穿かせて貰えずスカートで、文字通り「ぶら下げたまま」、授業に出たり、私とデートしたことも、しばしばあったそうです。
彼女とのセックスが減り慢性的に欲求不満だった私は、彼女のスカートに浮き出るパンティーのラインなども実によく見ていました。
今日は普通の、今日はTバックだな・・させてくれないのかな・・・そんなことを考えていました。
しかし、妻が言うには、その頃Tバックはほとんど穿かなかったそうです。
私がパンティーのラインがないと思った日の妻は、ノーパンのまま錠前を「ぶら下げて」いたのです。
両側の小陰唇にそれぞれピアスリングが掛けられ、それらをその小さな南京錠がつないで、スカートの下で揺れていたのです。
場合によってはその錠には、西脇の精液が滴っていたのです・・・私の隣で、爽やかな笑顔をふりまいたり、冷たい不機嫌で私を心配させたりしながら。

そんなことを繰り返していればピアスの穴は大きくなります。
それが私に分からないように、2ヶ月に一回、部位を変えて、新しい穴を開けられたそうです。
今見てももちろん孔は分かりません。
しかし、初めて彼女のあそこを見た頃の整った形状のラビアでないことは確かです。

クリスマス、誕生日、バレンタイン、付き合い始めて何年目という記念日など、あらゆる大事な日も、「着けたまま」だったと言います。
大事な日に生理になりやすい、と2人で笑っていました。
しかし笑っていたのは西脇でした。

聞けば聞くほどすべてです。
沖縄旅行の時は、初めて南京錠をされてから1週間も経っていませんでした。
その年のクリスマスは鎌倉のホテルでした。
その時も。
せっかく予約で取ったホテルで抱き合いながら眠るだけの私たちでした。
私は勃起を収めることも出来ず欲求不満に悶え、妻も欲求不満と背徳の興奮で南京錠を濡らしていたのです。
フェラチオだけさせるなどと言うことは私からは言い出せるような関係ではありませんでした。
しかし、事情を知ってしまうと、フェラチオぐらいしてくれてもよかったと、今更ながらに憤ります。
彼女も、フェラチオをしてあげてもよかったんだけどと言います。
だけど、自分は舐めさせることも出来ないのにエッチな気分になっちゃうとあそこが辛いの分かっていたから、と言います。

翌年のバレンタインでは銀座の有名チョコレート店などを沢山一緒に歩きましたがその時もです。

私の誕生日に恵比寿でデートでしたが、その時も。
4年生の6月の大会の試合で彼女が個人戦で優勝したときも。

毎日されていたのですから当然なのですが、
思い出すことの出来るその頃の思い出の中の妻は、いつも、性器を西脇に管理され調教されていたのです。


4年生の夏のサークルの海旅行も下着や水着の下は「着けたまま」でした。
その時は夜明け前まで続いた宴会のあと、早朝に待ち合わせて、旅館の離れの宴会場の脇のトイレで中出しをされたそうです。

今、自宅のリビングには何枚かの写真が飾ってあります。
その中の1枚は、その夏の海旅行の時のものです。
私と妻が一緒にいるところを下級生が撮ってくれたものです。
旅館の玄関の脇の大きな石に2人で腰掛けています。
一泊が終わり出発する前です。
妻は白いタイトスカートにブルーのタンクトップです。
風呂に行く振りをして部屋を抜け出して西脇にトイレで犯された時のままの服だったと言います。
このブルーのタンクトップをずり上げられ、こぼれ出た乳房をトイレの壁に押し付けられながら揉みしだかれていたのです。
その白いタイトスカートはまくり上げられて、バックから挿入されたのです。
強い陽射しに2人とも眩しそうですが良い笑顔です。
とても数時間前に浮気相手に中出しをされて、再び性器に錠もかけられているようには思えません。
しかし、パンツは穿いていたけれど、間違いなくこの時も錠をされていた事を憶えていると言います。
とても気に入っていた二人の写真までもが西脇の精液で汚されていたことを知ったときは激しく憤りました。

その告白の後、「そこに置いておくのが耐えられなければ、どこかに仕舞っても、捨てても、いいわ」、と妻は言いました。
しかし、結局はそのままにしました。
その頃の思い出の写真、思い出の服、プレゼント・・すべてが、西脇のセックスにまみれ、絡め取られていた妻との間の事なのです。
西脇に関わったもの、すべてを否定し取り去ってしまえば、いったいどれほどの物が我が家か失われるのか・・・
大学時代の思い出なんか何も残らなくたって良いと言えばいいのです。
しかし、すべての写真、服、物、を捨て去ったとしても、その不在は、存在と同じように、その事実を私に何度も思い出させることでしょう。
また、物をいくら消し去っても無駄のようにも思えます。
今でも変わらず、彼女が好んで私に舐めさせるその性器が、人生の一時期において、あの男が好きなように巨根をねじ込み精液を注ぎ続けたのだという認識・記憶は、眠っている間を除き、一瞬たりとも私の脳裏を離れないからです。

同時に、よく考えると、そういう事を少し許せる自分に気付くのです。
今はこの写真を見るだけで、興奮がこみ上げてきます。
むしろ、彼女が、その写真の中の、犯された後の自分と何も知らないでいる私が一緒にいる姿を、私に見せつけ続けては興奮を感じること自体に私が欲情するのです。

またそれは、私からの緩やかな復讐のつもりでもあります。
10年20年30年・・まだいませんが子供が生まれ成長してゆく中で、または、彼女が老いを感じる頃、なお、それがそこにあることにどう感じるのか・・
彼女は自分の人生の汚点と感じるのでしょうか。
これまでの長い間、無神経に、または、意識してもなお、その写真を身近に置き続けることの出来た彼女の精神は、びくともせずにそんな記憶さえも良い思い出にしてしまうのでしょうか。
・・・分かりません。


ちなみに・・
その服も妻は今もまだ持っています。
夏になると妻はその白いタイトスカートとブルーのタンクトップをたまに着ます。
その服を着たまま、私を跪かせて、あそこを舐めさせられることもありました。


さて、そんな調教を受けて私とは比較にならない濃厚なセックスの虜にされていながら、どうして私としたいと思ったのか?
客観的に考えると、理解できませんが、それはそれで興奮して実際楽しんでいたようです。

簡単に言えば、半分は悲劇のヒロインのような気持ちだったそうです。
悪い男に脅され恋人とのセックスを禁じられているかわいそうな自分・・・
ときおり許されるセックスで、哀れな私にせめてもの償いに肉体的な快感を与えるために奉仕するけなげな女の子の自分、という役回りに興奮していたのです。

そして残りの半分は・・・これが真に妻の倒錯した部分なのですが・・・私に対するサディスティックな性的興奮です。
寝取られた恋人が浮気相手の巨根の奴隷にされているのも露知らず、陰毛までも奪われた私の惨めさに欲情していたと言います。
私が、減らされたセックスのためにひ弱なペニス勃起させ、睾丸に精液を溜め込んでいることに、秘かに喜びを感じていました。
ようやく彼女の肉体にありついた私に、西脇の精液や汗で汚れた肉体を舐めさせるのは、西脇とのセックスとは違う快感を彼女にもたらしていたのです。
浮気相手の精液を滴らせ無惨にゆるめられたままの性器に、私が必死でむしゃぶりつき、子供のようなペニスを出し入れをしている事に、妻は興奮したのです。

妻の強すぎる性欲や巨根願望は、それ自体、私にとってある種の苦痛ですが、同時に、ある種の喜びでもあります。
しかし、それとは別にこのように私に向けられる、強いサディズムや攻撃性は、二人の間で了解された後、今現在に至るまで私をひどく苦しめることになっています。

こう書くと少しまどろっこしいのですが。
簡単に言えば、彼女は自分の肉体で強い男と浮気をすること自体に快感を感じるのですが、それと同時に、その浮気を私に認識させ、私に惨めな思いをさせること、他の男に受けた屈辱をそのまま今度は自分で私に与えることで、さらに強い快感を感じるのです。
私に対して嫉妬を煽って苦しめる、禁欲を強いる、限界を超えて焦らす、屈辱的な体位を取らせる・・・
そして今では、普通の夫婦ではあり得ないような、もっと激しい事もします。

もったいぶるわけではないのですが、徐々に書いてゆきます。
妻と私の関係が変わっていった過程は、その時その時の、他にはどうにもならないような、必然性があったように感じるのです。
それを、理解してもらいたいし、自分で書きながら納得したいのです。
自分と妻の持つ変態的な嗜好への言い訳なのですが、言い訳は言い訳として筋の通ったものでありたいのです。

しかし彼女の性欲の高まり方次第では、それは私が苦痛なほどに、激しく・・・執拗です。
たぶん、それは彼女が過去に受けた暴力的なセックスの快感や屈辱のトラウマによるものなのだろうと思います。
彼女が西脇にされたことを、なぞって消してゆくように、痛みや屈辱を彼女は私に与えて、少しずつ解消してゆくかのようです。

それは、そんな彼女と別れられない私の性癖の責任でもあるのですが・・・。



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