経済・経済学に関するメモ。

要因

新保生二
バブル経済は、日本銀行が過剰なマネーサプライの「拡大」を招いたことで生じ、さらにその崩壊とそれ以後の景気後退の長期化も日本銀行の過剰なマネーサプライの「縮小」で生じていると、新保氏は批判することになる(『第三の開国を目指す日本経済』(東洋経済新報社、1994年)(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、171頁)。
田中秀臣
一九八〇年代、日本国内の経済に対する楽観的な見方が、株価や不動産価格などの高騰を招き、実体経済と乖離したバブルの膨張を生み出した(飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子 『「30万人都市」が日本を救う! 〔中国版「ブラックマンデー」と日本経済〕』 藤原書店、2015年、17頁)。
日本経済新聞社
この金融・財政両面からの刺激策がバブルの主因のひとつと指摘される(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、31頁)。
松原聡
バブル景気が発生したきっかけは、80年代半ばに起こっていた不況に対応するために、日本銀行が金利を引き下げる政策をとったことでした(松原聡編著 『日本の経済のしくみ (図解雑学)』 ナツメ社、2008年、28頁)。
滝田洋一
プラザ合意後の金融緩和の呪縛がバブル経済を招いた。最近、刊行されているバブル解雇本も、そうした記述を自明のこととしている。その事実に間違いはないが、もうひとつ「不都合な真実」を加えなければならない。日本の金融政策はどうしても米国の政策の後追いになる傾向があるという点だ(滝田洋一 『今そこにあるバブル』 日本経済新聞出版、2017年、141頁)。
三菱総合研究所
安定成長とバブル期を分けたのは八五年九月のプラザ合意だった。(中略)その後の八七年のルーブル合意まで一〇〇円以上の急速な円高が進行。このショックを和らげ、内需主導型の経済成長を促すために政府は公共投資拡大など積極財政をとった一方、日銀は公定歩合を段階的に二・五%まで引き下げるなど長期的にわたって金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大がもたらされた一方、株価、地価などへの行き過ぎた投機を許し、バブル発生につながったといわれる(三菱総合研究所編著 『最新キーワードでわかる!日本経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2008年、60頁)。
中野剛志
当時、アメリカの貿易赤字の拡大が問題になっていました。アメリカは貿易不均衡を是正するため、日本に内需の拡大を強く要求しました。日本はアメリカに屈する形で、内需拡大のため公共投資を増額したのです。さらにまずいことに、景気拡大が続くなかで、金利を引き上げるべきところ、一九八七年一〇年一九日にアメリカで金融危機(「ブラック・マンデー」)が起きたため、日銀は低金利を維持せざるを得なくなりました(中野剛志 『レジーム・チェンジ-恐慌を突破する逆転の発想』 NHK出版〈NHK出版新書〉、2012年、160-161頁)。
日本経済新聞社
五回の利下げを実施した後の一九八八年度補正予算で、蔵相・宮沢は公共事業拡大に踏み切る(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、50頁)。
山崎元
日本の株・土地のバブルの背景には、87年のブラックマンデーの後に世界景気を支えるために日銀が行った金融緩和があった。金融が緩和され、低金利で資金が借りられるようになると、株や土地に対して買い手の実力以上の買い需要が発生しやすくなる(山崎元 『エコノミック恋愛術』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、123頁)。
山崎元
日本の株バブルでは「利回り保証」(違法だったのだが)が大きな役割を果たしたし、土地バブルでは土地は値下がりしないという「土地神話」が重要だった(山崎元 『エコノミック恋愛術』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、124頁)。
日本経済新聞社
日銀の金融政策は主に卸売物価、消費者物価を基準に考えるものだという伝統的な考え方が支配的で、地価は土地対策で対処すべきだというのが日銀の立場だった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、53頁)。
田中秀臣
また80年代後半には原油価格が下落し、それが経済の条件の改善に寄与しました。しかし、この原油価格の下落などの要因を日本の企業や政策を行う人たちは日本経済の潜在能力が向上したと誤って理解しました。人々は潜在能力以上に経済を過大評価してしまい、このことが「バブル」発生の下地を作りました。やがて空前の土地ブームを巻き起こし、日本はバブル時代へと突入していきました(田中秀臣 『日本経済復活が引き起こすAKB48の終焉』 主婦の友社、2013年、44頁)。
日本銀行
「日本銀行調査月報」(一九九二年九月)はバブルの原因について「土地担保価値の増大」を挙げ、「多くの金融機関が業務拡大を目指したことにより、こうした歯止めが働かず、M2+CDの伸び率を例外的に高めた」と述べています(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、151頁)。
国土庁
不動産業界で伝説となっているリポートがある。一九八五年五月に国土庁が公表した「首都改造計画」だ。(中略)「東京のオフィスは二〇〇〇年までに合計五千ヘクタール、超高層ビルにして二百五十棟分必要となる」--(当時のオフィス供給量は年間130ヘクタール)(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、56-57頁)。
日本経済新聞社
「リポートが本当に言いたかったのは地価高騰を防ぐための方策だった」。(中略)国土庁リポートに不動産会社やゼネコンなどは一斉に飛びついた。「オフィス供給は国策になった。都心部の用地を確保せよ」(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、57頁)。
日本経済新聞社
バブルの一因ともなったリポートを出した国土庁から、金融界の大整理の決断を迫られる再生委へ……(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、62頁)。

展開

日本経済新聞社
八五年度から九〇年度の五年間で日本の金融機関の資金量は九〇%も増大、貸出先の開拓に四苦八苦していた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、80頁)。
日本経済新聞社
エクイティファイナンス(新株発行を伴う増資)の隆盛は大企業の銀行離れを加速し、銀行は行き場のない資金をだぶついていた。しかも、金利の自由化の影響で従来の取引では満足な利ザヤは見込めない(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、75-76頁)。
日本経済新聞社
都銀の収益を支えてきた製造業向けの貸し出しは八七年末に初めて二割を割った(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、85頁)。
日本経済新聞社
企業は設備投資を積極化していたが、その資金は銀行の長期融資に依存せず、エクイティファイナンスでまかなっていた。勢い、金融機関の融資は不動産に向かった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、80頁)。
日本経済新聞社
株式市場でも、八七年二月、日本電信電話(NTT)が上場、株価は二カ月には売り出し価格の三倍の三百十八万円の高値をつけた。企業も個人も財テクというマネーゲームに無防備にに入り込んでいくきっかけとなった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、52頁)。
田中秀臣
国土交通省のデータから公示価格の推移を見ると、三大都市圏における地価は一九八六年から上昇率を高め、一九八七年には東京都の商業地で対前年比八〇%近い、突出した高騰を見せています(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、154頁)。
アラン・グリーンスパン
「日本の株価は高すぎるのではないか」八八年秋。日本銀行を訪れたアメリカ連邦準備理事会(FRB)議長のグリーンスパンは、総裁の澄田智ら幹部に何度も問い掛けた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、135頁)。

経済への影響

小泉祐一郎
日経平均で見た株価は1986年頃から急上昇しはじめ、1989年12月末には38,915円の最高値を記録しました。この株価上昇は、1985年9月の12,598円と比べて約3倍、つまり上昇率では約200%アップだったということです。株価の上昇にやや遅れて上昇した地価も、1985年と比べて1990年には約4倍になっていました(小泉祐一郎 『図解経済学者バトルロワイヤル』 ナツメ社、2011年、148頁)。
岩崎日出俊
平成バブルの頃、今となっては信じられない話だが、日経平均株価指数のPERは60を優に超えていた(岩崎日出俊 『気弱な人が成功する株式投資』 祥伝社〈祥伝社新書〉、2014年、97頁)。
森永卓郎
バブルがはじける前の日本株のPERは、一〇〇倍、二〇〇倍というレベルでしたが、これでもアメリカからは「高すぎる」とさんざん批判されました(森永卓郎 『日本経済50の大疑問』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、89頁)。
三橋貴明
86年から90年までの5年間(すなわち日本のバブル経済期)、日本の国内一般企業(非金融法人企業)は、年平均142兆円のペースで金融負債を増やしている。(中略)86年からの5年間、日本の家計は年平均で約25兆円のペースで金融負債を増やしている(三橋貴明 『民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由』 アスコム、2009年、146頁)。
三橋貴明
バブル絶頂期の1990年に636兆円のマイナスだった非金融法人企業の純資産(と言いますか「純負債」)が、2008年12月末にはマイナス322.9兆円へと「増えて」しまったのです(純負債が減ってしまったわけです)(三橋貴明 『高校生でもわかる日本経済のすごさ』 彩図社、2009年、51-52頁)。
日本経済新聞社
八六年から八九年にかけて発生したキャピタル・ゲインは資産価格の上昇により、計算上、千四百五十二兆円に及んだ(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、5頁)。
日本経済新聞社
八九年に家計が得た土地と・株式のキャピタルゲインは二百六十兆円という計算になる(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、72頁)。
岩田規久男
バブル景気の頃は、中小企業の売上高経常利益率は大企業を上回っていました(岩田規久男 『景気ってなんだろう』 筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2008年、96頁)。
松原聡
このとき景気の過熱した日本がインフレにならなかったのは、円高の影響で値段の安い輸入製品が多く日本に入ってきたためです(松原聡 『日本の経済 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!)』 ナツメ社、2000年、98頁)。
日本経済新聞社
バブル期には、あふれるおカネは土地ばかりでなく、株式にも流れ込み、果ては貴金属や絵画まで買い上げられたから、その過程でヤクザに付け入れられた企業や銀行は多いんだ(日本経済新聞社編著 『いやでもわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2003年、51頁)。

地価の高騰

岩田規久男
日本全体の土地の価格総額は、九〇年末には、八五年末の二・四倍に達しました(岩田規久男 『景気ってなんだろう』 筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2008年、114頁)。
竹中平蔵
バブルのピーク時、日本全体の地価の合計はアメリカの四倍になりました(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、85頁)。
岩田規久男
東京圏では、八七年と八八年の住宅地の価格はそれぞれ二二%と六九%と高騰し、両年の商業地の価格はそれぞれ四八%と六一%にも達しました。大阪圏のブームは東京圏よりも一年から二年程度遅れたため、住宅地価格は八九年と九〇年にそれぞれ三三%と五六%と高騰する一方、商業地価格は八八年から九〇年にかけて三〇%台から四〇%の上昇が三年連続で続きました(岩田規久男 『景気ってなんだろう』 筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2008年、38-39頁)。
岩田規久男
戦後、九〇年代初めにバブルが崩壊するまでは、地価は永遠に上がり続けるという土地神話が信じられていた。実際に、土地神話は単なる神話ではなく、戦後一貫して地価は石油危機の一時期を除いてバブル崩壊までは下がることはなかった(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、93頁)。
岩田規久男
八〇年代半ばから九〇年代初めにかけて、非製造業の中でも特に、不動産、建設、ノンバンクへの貸出が大きく拡大したのは、次の理由による。八〇年代初めには、東京の国際金融都市への期待が高まり、外資系金融機関の支店開設なども増加し、事務所が大幅に不足すると予想された(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、111頁)。
岩田規久男
八〇年代半ば以降のバブル期に、銀行は土地神話を信じきって土地担保融資を拡大した(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、93頁)。
日本開発銀行
「東京は世界の金融センターになる」と日本開発銀行がリポートで指摘したのもこのころだ(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、52頁)。
日本経済新聞社
大蔵省、日銀、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「東京デルタ地帯」と呼ばれ、外資系を中心にオフィスビル需要が一気に高まると見られていた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、52頁)。
日本経済新聞社
大蔵省、日銀、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれ、企業の垂涎の的となった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、150頁)。
日本経済新聞社
八六年の都心の地価の上昇率は七割にも達した。地価が全国的には落ち着いているなかで、明らかに「異常値」を示していた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、52頁)。
日本経済新聞社
マンションブームに火を付けたのが八六年秋に販売された東京・新宿区の再開発住宅「西戸山タワーホームズ」だ(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、68-69頁)。
日本経済新聞社
半年後の八七年四月には、東京・江東区に今も業界の逸話として残るマンションが登場した。三井不動産販売などが売り出した「スカイシティ南砂」。二百五十九戸の分譲に対し、三万八千五百人が応募した(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、69頁)。
日本経済新聞社
「このままでは地価の上昇をあおる結果を招いてしまいます」。国土庁土地局次長の藤原良一は自民党や運輸省などを回り、旧国鉄用地の払い下げを当面見合わせることに了解を取り付けた。(中略)しかし、都心の一等地が多い旧国鉄用地の入札が行われるたびに値段はつり上がり、周辺地の地価上昇に波及した(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、152頁)。

地上げ

岩田規久男
この地上げに際しては、土地をなかなか売ろうとしない地主を忍耐強く説得し、時には脅したりして土地を売る気にさせることが必要になる。銀行はこうした交渉に伴う仕事に巻き込まれるのを嫌って、自らは直接投資せずに系列ノンバンクに融資させようとした(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、120頁)。
日本経済新聞社
都内では暴力団も絡んだ地上げ業者による土地所有者への嫌がらせが横行し、追い立てを狙った放火も相次いだ(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、148頁)。
日本経済新聞社
東京・原宿。目抜き通りに面する一角に「セントラルアパート」と呼ばれたビルがあった。八〇年代後半、大規模な地上げの舞台となった土地だ(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、78頁)。

住宅の高騰

日本経済新聞社
東京圏のマンション価格はサラリーマンの平均年収の八・九倍に達し、地価上昇を歓迎する声は小さくなる(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、154頁)。
日本経済新聞社
地価高騰でサラリーマンのマイホームの夢が遠のく一方、相続税の負担が急激に重くなる社会問題も生まれた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、148頁)。

バブル三業種

岩田規久男
バブル期にはどの企業も借金を増やしましたが、とりわけ大きかったのは非製造業でした。なかでも建設業、不動産業、ノンバンク、サービス業、金融保険、卸・小売業などです(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、53頁)。
岩田規久男
非製造業のなかでも、建設業、不動産業、ノンバンク(右で述べた分類では、その他のサービス業に含まれます)は一九八〇年代後半のバブル期には、バブル三業種と呼ばれ、借金がそのほかの業種にくらべて、いちじるしく大きく増えた業種です(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、54-55頁)。

リゾート地開発

岩田規久男
バブル期の円高の中で、建設、不動産、ホテル業界などは、「これからはレジャーを楽しむ生活大国だ」という掛け声の下に、リゾート地やゴルフ場を次々に開発したが、バブルが崩壊してみると、高級リゾートホテルには客が集まらず、ゴルフの会員権も売れなくなってしまった(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、119頁)。

メセナ活動

小峰隆夫
バブル期には、企業が文化、技術、スポーツ振興に資金を提供する例、いわゆる「メセナ活動」が多く見られました。しかし、企業経営が厳しくなるとたちまち下火となりました(小峰隆夫 『ビジュアル 日本経済の基本』 日本経済新聞社・第4版〈日経文庫ビジュアル〉、2010年、56頁)。

高級消費

伊藤修
消費も、ベンツや日産の大型車シーマの人気に代表される高級消費ブームを内包して盛り上がった(伊藤修 『日本の経済-歴史・現状・論点』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年、123頁)。
日本経済新聞社
八八年一月に日産自動車が発売した五百万円を超す高級車「シーマ」は大ヒットを記録した。(中略)日銀の支店長会議では、日本の豊かさを表す例として「シーマ現象」と名付けられた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、70頁)。

問題

翁邦雄
バブル期にその問題意識が大きくならなかったのは「土地神話によるところが大きいのではないか」と日銀金融研究所長の翁は語る(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、289頁)。
日本経済新聞社
やがて土地を持つ者と持たざる者の間に不公平感を生み、負の側面が社会のゆがみとなって目立つようになる(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、147頁)。

バブルと経済政策

翁邦雄
日銀金融研究所長の翁邦雄らも「資産価格バブルと金融政策--一九八〇年代後半の日本とその教訓」という題のリポートを個人名で公表した。そこには「資産価格の上昇は、金融政策運営上の警戒信号としては十分に活用されなかった」「マネーサプライの高い伸びも軽視された」といった反省のくだりが盛り込まれている(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、282頁)。
飯田泰之
バブルの高資産価格を日銀の低金利政策と結びつけて説明し、「バブル=日銀責任」論を展開する論者は多く、確かにもっともな部分もありますが、日銀の低金利政策だけで説明できる部分はそれほど大きくはありません。将来の東京の経済的位置づけを過剰に評価しすぎていたこと……これがバブルを生み、また過剰評価とわかった時点で崩壊を迎えたのです(早稲田公務員セミナー・笠崎泰之 『3時間でわかる経済学入門 (Wの入門シリーズ)』 早稲田経営出版、2000年、72頁)。
増渕稔
二〇〇〇年六月一日、日銀理事の増渕稔は大阪大学での講演でバブルに言及した。「金融が緩和された時期は過去にいくらでもあるが、その度にバブルが発生したわけではない」と述べ、「金融緩和がバブルの主犯」という見方に反論しつつも、反省の弁を口にした。「金融政策の運営の観点から一つの問題となりうるのは、一九八八年から八九年にかけての時期における対応であった、と言うことはできるかもしれない」「利上げが遅れ、低金利が永続するという誤った期待を生み、バブルを膨らませた可能性がある」(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、281-282頁)
西村吉正
つまり民活、規制緩和、自由化が結果的に金融活動を異常に活性化させた原因になったのかもしれない(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、250頁)
西村吉正
護送船団方式がよくなかったということも含めて、市場原理がもっと浸透するようにするとかいうことだ(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、252頁)
西村吉正
バブル崩壊の初期の段階までは、日本の間接金融やメーンバンクシステムは、日本経済全体の保険の役割をするという意識があったと思う(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、255頁)。

バブル崩壊

要因

西村吉正
資産価格の高騰で国民の間に格差ができてしまった。例えば年収の五倍で家が持てなくなった。だからバブル潰しというか、正常化するのが最大の課題だというのが、当時の多くの人たちの認識だった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、247頁)。
日本経済新聞社
バブルが行き過ぎたとの批判が高まったのを受けて、日銀が金融を引き締め、政府が不動産への融資規制を強化した。その結果、九〇年に株式の、九一年には不動産バブルが崩壊した(日本経済新聞社編著 『いやでもわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2003年、51頁)。
日本経済新聞社
八九年五月からわずか一年三カ月の間に五回の利上げに踏み切り、二・五%だった公定歩合は六%台に乗った(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、114頁)。
田中秀臣
一九九〇年のマネーサプライ増加率は一一・七%に低下、さらに一九九一年には三・六%、一九九二年には〇・六%と、ほとんど増加しなくなってしまいました(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、153頁)。
田中秀臣
日銀がバブル潰しのための金融引き締め政策をやり、その結果1991年にバブルが崩壊したからです(田中秀臣・上念司 『震災恐慌!〜経済無策で恐慌がくる!』 宝島社、2011年、55頁)。
田中秀臣
日銀が金融を引き締めたから、市場から株や不動産を買うための資金が一気になくなって、それで株価と不動産価格が暴落したというのが、バブル崩壊の真実です(田中秀臣・上念司 『震災恐慌!〜経済無策で恐慌がくる!』 宝島社、2011年、92頁)。
田中秀臣
一九八九年の消費者物価指数上昇率は、総務省の統計によると二・三%となっていますが、消費税の影響による物価上昇分を除いた実質的な物価上昇率は、前年と同様、一%以下であったと見られます(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、152頁)。
高橋洋一
バブル時代は、実は、一般の財・サービスの価格の上昇率、つまりインフレ率は高くなかった。その一方、当時のバブルは株式・土地の資産市場だけで価格が上昇した。カネが資産市場にだけ流れ込んだので、資金規正で潰すべきで金融政策での対応は必要なかったわけだ(田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、165頁)。

展開

高尾義一、日本経済新聞社
「このままでは戦後最大級の不況になる」。九二年春、高尾は「日経公社債情報」で悲観的な経済見通しを公表し、政府に追加景気対策を求めた。この見通しがきっかけに株価が急落、「高尾ショック」と呼ばれた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、273頁)。
岩田規久男
九〇年の株式バブル崩壊によって、景気拡大の力も弱まり、景気はついに九一年二月にピークを打ち、以後、急速に悪化します(岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、75頁)。
岩田規久男
九〇年に入ると、株価バブルは崩壊し始め、日本の株式価値総額は九三年末には、株価バブルのピークの年の八九年末の五九%にまで減少しました(岩田規久男 『景気ってなんだろう』 筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、2008年、117頁)。
日本経済新聞社
東証の上場株式の時価総額は八九年末の六百十一兆円から二百六十九兆円と半分以下に縮小し、株価問題が経済の先行き不安として国民全体に波及しかねない情勢となっていた(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、141頁)。
田中秀臣
全国の地価の推移はそれにやや遅れ、上昇率のピークは一九八八年、その後は上昇率は鈍っていたものの、地価が下落に転じるのは一九九二年に入ってからでした。よく一九九三年には全国商業地平均で前年比一〇%以上の値下がりを記録しています(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、154頁)。

経済への影響

日本経済新聞社
二〇〇二年版の『経済財政白書』によれば、一九九〇年にバブルが崩壊してからというもの、二〇〇〇年までに日本経済全体で株式と土地を合わせて千百五十八兆円の値下がり損(キャピタル・ロス)が生じた。日本の国内総生産(GDP)は約五百兆円だから、二年余りのGDPに相当する金額が消えてなくなった勘定となる。値下がり損の内訳をみると、土地が七百三十七兆円、株式が四百十四兆円となる。家計、企業(金融機関を除く一般の事業法人)、金融機関に分けてみると、もっとも値下がり損の大きかったのは家計で合計四百三十七兆円。その多くは土地である。次いで企業の合計三百五十七兆円であり、やはり土地による損失がやや多い。金融機関は合計二百三十一兆円の損失となっている(日本経済新聞社編著 『いやでもわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2003年、54-55頁)。
地価・住宅価格の下落
三橋貴明
1980年代末に日本で荒れ狂った不動産バブルの場合、価格上昇の原資は基本的には国内のマネーだけであった(三橋貴明 『本当はヤバくない日本経済 破綻を望む面妖な人々』 幻冬舎、2009年、110頁)。
日本経済新聞社
総量規制で銀行の不動産向け融資が沈静化し、地価は大幅に下がり始めバブルは崩壊した(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、196頁)。
三和総合研究所
一九九八年末時点で日本全体の不動産の価値は二七九七兆円に及ぶ。(中略)ちなみに住宅や宅地の価値は、一六一四兆円と不動産全体の約六割を占める(三和総合研究所編著 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、206頁)。
三和総合研究所
九八年末の土地資産総額はピーク比で七四九兆円、株式資産総額は同じくピーク比で五七四兆円も減少している(三和総合研究所編著 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、27頁)。
三橋貴明
80年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上も暴落したのであるから、その影響は甚大である(三橋貴明 『民主党政権で日本経済が危ない!本当の理由』 アスコム、2009年、42頁)。
岩田規久男
日本全体の土地資産額は、一九九〇年から二〇〇二年の一二年間で、一〇〇〇兆円も減少しました(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、28頁)。
岡部直明
バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株だけで約1400兆円といわれています(岡部直明 『ベーシック日本経済入門』 日本経済新聞社・第4版〈日経文庫〉、2009年、43頁)。
竹中平蔵
バブルが崩壊して日本の地価が下がりましたが、これもグローバリゼーションの一環であると考えることができます。(中略)日本の地価が下がってきたことは、グローバリゼーションとそのなかで出てきた制度の競争、「要素価格均等化の命題」の流れに沿っているという見方もできます(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、220頁)。
不良債権の拡大
日本経済新聞社
公的資金枠は六十兆円に膨らむ。さらに、九九年十二月には枠を七十兆円に積み増すことが決まった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、36頁)。
岩田規久男
バブル崩壊後、全国銀行は不良債権の処分に努めてきたが、その処分による損失の累計額は、二〇〇二年度に八一兆五〇〇〇億円に達した(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、107頁)。
岩田規久男
一九九二年度から二〇〇二年度末までで、不良債権の処理にともなって銀行がこうむった損失の累計額は、九四兆円にのぼります(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、30頁)。
池田信夫
100兆円(全銀行の不良債権の純損失の総額)という恐るべき規模にはならなかったはずだ(池田信夫 『希望を捨てる勇気-停滞と成長の経済学』 ダイヤモンド社、2009年、122頁)。
三橋貴明
日本のバブル崩壊で発生した不良債権はおよそ200兆円と言われている(三橋貴明 『経済ニュースが10倍よくわかる「新」日本経済入門』 アスコム〈アスコムBOOKS〉、2010年、158頁)。
日本興業銀行
バブルの後始末としての不良債権処理は九七年には終了していたこと、現在の不良債権の多くは九七年以降の景気後退過程で発生したものであることは、不良債権の実態を企業サイドから分析した調査研究からも裏づけられる(野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、108頁)
田中秀臣
バブル期に銀行が貸し出していた総額より、現時点での不良債権処理額のほうが上回っています。つまり、現在の不良債権は、もはやバブルは関係なく、その後のデフレによって発生したといえます(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編著 『エコノミスト・ミシュラン』 太田出版、2003年、29頁)。
大手金融機関の破綻
松原聡
そんな日本の金融機関の弱点があらわになったのは、バブル崩壊後でした。ひとつは「日本の金融システムは不透明で、不公正」というイメージを国内のみならず海外にも植え付けてしまった、相次ぐ金融不祥事の発覚です。証券会社の大口投資家への損失補填(顧客が株の売買で損した分を証券会社が穴埋めすること)や一部の顧客に不正に行っていた利益供与、大和銀行NY支店のトレーダーによる巨額損失を大蔵省ぐるみで隠していた事件など、金融機関の反社会的な行為が明るみに出ました(松原聡 『日本の経済 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!)』 ナツメ社、2000年、116頁)。
貸し渋り・貸し剥がし
竹中平蔵
銀行貸出残高のGDPに対する比率は、一九八〇年代初頭までは約七〇%で一定していました。その比率が、八〇年代半ば以降に急上昇しました。銀行は安易に貸し出しを行い、また企業も安易に借り入れたのです。まさにバブルへの道を歩んだわけです。そして、バブルのピークである九〇年には対GDP比で一〇七%にまで上昇しています(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、51頁)。
竹中平蔵
もちろん、銀行の貸し出し態度と借り手側の事情の変化の両方に問題があるが、金利を見る限り銀行が貸し渋りをしたというより借りる側が減った、資金需要が減ったと解釈すべきである(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、128頁)。
日本銀行
日銀短観によると、銀行の貸し渋りは1997年半ば頃から98年にかけて観測されるが、93年から96年と99年から2000年にかけては観察されない(岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、57頁)。
野口旭
金融機関の大型倒産が続いた97年、98年には、貸し渋りは明らかにあった。いわゆる金融システム危機の時代ですね。90年代で明らかな貸し渋りがあったのは、この97年、98年だけであったというのが、専門家のあいだの定説です(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編著 『エコノミスト・ミシュラン』 太田出版、2003年、28頁)。
松原聡
98年の1年間では約760件の貸し渋り倒産が起きました(松原聡 『日本の経済 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!)』 ナツメ社、2000年、132頁)。
雇用の抑制
竹中平蔵
日本の労働分配率は、一九九〇年ごろには六〇%程度の水準だった。しかし、バブル崩壊以降上昇を続け、最近では約七〇%に達している(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、150頁)。
竹中平蔵
売り上げが下がっても賃金が下げられないために、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、106頁)。
竹中平蔵
バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように大きな努力をしてきたことを意味していよう。しかし、労働分配率の上昇は、資本分配率の低下にほかならない(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、151頁)。

バブル崩壊後の経済政策

野口旭、田中秀臣
それでは、その日本の長期停滞の真の原因とは何か。それは、バブル崩壊後の資産デフレに端を発する、マクロ的な総供給に対する総需要の恒常的な不足である(野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、4頁)。
松原聡
バブル崩壊後の不況に対応するため、じつに計百数十兆円もの公共事業費が投じられたにもかかわらず、景気浮揚は果たせませんでした(松原聡編著 『日本の経済のしくみ (図解雑学)』 ナツメ社、2008年、156頁)。
松原聡
バブルが崩壊し不況に陥ったときも、政府は従来同様に公共事業が中心の景気対策を実施しました。(中略)産業構造の中心がITなどにシフトしていた時期に、道路に資金をつぎ込んでも効果は期待できません。従来型の景気対策が効果をもたらさないまま、日本は不況から抜け出せずにいました(松原聡編著 『日本の経済のしくみ (図解雑学)』 ナツメ社、2008年、178頁)。
松原聡
バブル崩壊後にも従来と同じように公共事業に多額の予算が投じられました。しかし、その程度では縮小してしまった需要を埋め合わせることはできません。また、日本銀行は金利を引き下げ、企業への資金貸出を活性化させようとしましたが、金融機関も企業も体力が弱まっていたために、貸出は増えませんでした(松原聡編著 『日本の経済のしくみ (図解雑学)』 ナツメ社、2008年、30頁)。
経済企画庁
当時の『経済白書』(一九九一年度版と一九九二年)も、株価や地価の暴落が景気に及ぼす効果は小さいと分析しています(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、144頁)。
アラン・グリーンスパン
アメリカが金融危機から脱した後の九二年、来日したグリーンスパン議長はこう語っている。「資産価格の変動は金融システムに大きな影響をもたらす。対策は早ければ早いほどよい」(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、117頁)。
高尾義一
早い段階から資産価格の激変に警鐘を鳴らしたエコノミストの高尾義一は「資産価格が上がる時も下がる時も状況変化を読み誤り、政策が後出に回った」と指摘する(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、117頁)。
竹中平蔵
とりわけ九二-九四年の三年間、現実の成長率は〇%台であったにもかかわらず、政府見通しは二%半ばから三%半ばという極めて高い値を掲げ続けていた。この当時、政府は明らかにバブル崩壊(資産デフレ)の負の影響を過小評価していたのである(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、159頁)。
田中秀臣
バブル崩壊以降の日銀は金融を引き締め続けたんです(田中秀臣・上念司 『震災恐慌!〜経済無策で恐慌がくる!』 宝島社、2011年、55頁)。
原田泰
現実に採用された政策は、物価下落をくい止める一般的な金融緩和でもなく、銀行救済のための公的資金投入でもなく、株価の買い支えや土地の買い上げ、地価を引き下げるために導入された地価税を九八年に税率ゼロとすることなどだった(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、321頁)。
内田勝晴
しかも銀行の救済をするため、当時の大蔵省は預金金利を下げ、銀行の儲け(業務利益。貸出金利から預金金利を引いたもの)を大きくさせてやった。これによる預金者からの銀行への所得移転は、毎年二・四兆円になるという試算があるので、一九九四年からの二〇〇〇年までの六年間では一四・四兆円にもなる。預金者の得るべかりし金利分を銀行に強制的に「寄付」させたわけだが、銀行はその「寄付」を不良債権を減らすことに回さず、ほとんど自分たちで山分けしてしまった。そのため、銀行救済に新たに膨大な公的資金を投入することになってしまった(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、90-91頁)。
原田泰
三つの疑問がある。第一の疑問は経済学によらず常識によるものだ。公的資金を投入することへの世論の反発が本当にあったのだろうか。(中略)第二は、公的資金を投入すれば、一〇年を失わずにすんだのだろうかという疑問である。(中略)第三の疑問は、世論の反発を避けてある程度は金融機関を救いたいなら、一般的な金融緩和というもっと簡単な方法があるのになぜそれをしなかったかということである(日本経済新聞社編著 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、319-320頁)。

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