経済・経済学に関するメモ。

飯田泰之
産業政策とは、政府や官僚が次に日本を引っぱる産業部門(=リーディングセクター)を見つけだし、その産業を補助金などの優遇措置によって保護することで、育てていこうという政策のことだよ((飯田泰之 『世界一わかりやすい 経済の教室』 中経出版〈中経の文庫〉、2013年、50頁)。
岩田規久男
産業政策とは、「政府が特定の産業に属する企業の行動に介入したり、企業に補助金を与えたりして、当該産業を保護したり、育成したりする政策」をいいます。この定義では、政策の対象とする産業は何でもよいことになります。しかし、「戦後日本の産業政策は高度成長の実現に寄与した」と主張する人々が念頭においている産業政策は、右のような広い意味での産業政策ではなく、旧通産省(現在の経済産業省)による製造業に対する産業政策であると考えられます。実際に、「産業政策とは通産省が行う政策である」という名(迷?)定義があります(岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、145頁)。
田中秀臣
「産業政策」は「産業政策」とはっきりいわれることはなく、いろいろな名称で登場するのでよく中身を吟味する必要があります(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、176頁)。

産業政策の理論的基盤

村上泰亮
この「産業政策」は、村上によれば、「『費用逓減傾向』が見込める産業について、その成長可能性を維持し高める直接的政策手段」である。いままでの議論の延長でいけば、村上の考えた産業政策は構造問題に対処する社会的調整の手法であり、この産業政策を担うのは効率的な官僚組織となる。産業政策の具体的なものとして、保護貿易政策、補助金政策、各種経済計画、価格規制などを村上はあげた(田中秀臣 『経済政策を歴史に学ぶ』 ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書〉、2006年、127頁)。
村上泰亮
産業化の手法である産業政策は国家経済を主導する産業を見出すことが重要になってくる。その機会を見出すのは「官僚組織」の責務である、と村上は説いた(田中秀臣 『経済政策を歴史に学ぶ』 ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書〉、2006年、131頁)。
若田部昌澄
理論的には、政府主導で産業をつくりだすということがまったく効果がないともいえないんです(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編著 『エコノミスト・ミシュラン』 太田出版、2003年、62頁)。

反論

竹中平蔵
アメリカの経済学には産業というコンセプトはないんです。(中略)産業(インダストリー)と名のついた役所はアメリカにはないです(佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、152頁)。
高橋洋一
いまや先進国ではこの産業政策というのはほとんど行われていません。当然です。政府が特定の産業に肩入れをすることは明らかな不公平だからです。それよりも予算配分はあくまで公正中立にし、産業界のことは市場のメカニズムに任せる、というのが先進国の常識です(高橋洋一 『日本の大問題が面白いほど解ける本 シンプル・ロジカルに考える』 光文社〈光文社新書〉、2010年、40頁)。
ウォルター・ブロック
政府の提供する補助金の多くが、消費者のニーズにこたえられないため市場からの退出に促された企業を救済するために使われたことは、これまでの歴史が示すとおりである(ウォルター・ブロック 『不道徳な経済学: 転売屋は社会に役立つ』 橘玲訳、早川書房〈ハヤカワ文庫NF〉、2020年、287頁)。
みずほ総合研究所
いわゆる衰退産業が退場する際の「痛み」を緩和させるための施策は必要な場合があるが、それを保護し「延命」させるための施策は、結果、全体としての国際競争力をそぐことになる(みずほ総合研究所編著 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、188頁)。
岩田規久男
政府は税や補助金を用いて、特別な投資や消費を促進したり、いかなる産業も促進しないことが基本的な産業政策の哲学である(岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、137頁)。
竹中平蔵
育てるといっても、政府がそうした産業を直接育てるということではなく、その産業が育つ環境をつくることが重要な役割になります。具体的には、まず競争を促進すること。さらに、それを支える人材を育てるための教育制度を整えることも、従来に増して必要になります(竹中平蔵 『あしたの経済学』 幻冬舎、2003年、203-204頁)。

成長産業の選別

岩田規久男
日本には、戦後、政府の産業政策がうまくいったので、高度成長が実現したという考えが根強く存在します(岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、144頁)。
安達誠司
政府が恣意的に有望産業を指定する段階で利権が発生する誘因が存在し、かえって経済厚生を悪化させる懸念がある(いわゆる「レントシーキング」)(田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、130頁)。

日本

伊藤修
はっきりした政府の産業育成としては、まず明治の殖産興業政策と官業払下げがある。その後も八幡製作所のような一部の重工業の国営や政府管理がおこなわれた(伊藤修 『日本の経済-歴史・現状・論点』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年、17頁)。
チャーマーズ・ジョンソン
優秀な官僚による産業政策にせいで戦後の日本は経済発展が可能になった(田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、66頁)
西川潤
一九五〇年代の日本の鉄鋼や自動車産業は政府の手厚い保護によって、今日の世界的な産業へと成長した(日本経済新聞社編著 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、111頁)。
三輪芳朗、J・マーク・ラムザイヤー
狭義の産業政策については、高度経済成長に寄与したとする考えが「通念」になっていますが、三輪芳朗、J・マーク・ラムザイヤー『産業政策論の誤解』(東洋経済新報社)は、この「『通念』は、明確な証拠に基づかないという意味で根拠のない見方であり、観察事実と整合的ではないという意味で誤りである」(九頁)と断定しています(岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、152頁)。
猪木武徳
自動車産業の集約化や鉄鋼業の設備投資調整が実現しなかったように、官庁の指導に対し、業界が従わなかった例もかなり多く存在するからである(日本経済新聞社編著 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、240頁)。
岩田規久男
トヨタも、キヤノンも、ソニーも、ホンダも、松下電器も、産業政策のお陰で成功を収めたわけではありません。国際競争の中で鍛えられて今日を勝ち取っている企業ばかりです(岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、156頁)。
田中秀臣
むしろ政府が巨大な需要を埋めるだけの新産業創出に成功したという実例を、少なくとも戦後の日本の歴史に求めることは不可能に近い(田中秀臣 『経済論戦の読み方』 講談社〈講談社新書〉、2004年、111頁)。
田中秀臣
いわゆる傾斜生産方式や、日本の産業政策的なものは、実証的にみれば、実際には衰退産業に対する補助金政策として行われていた。典型的には農業ですが。それ以外には、あまり有効ではなかった(麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、110頁)。
岩田規久男
戦後の日本は経済復興のため、優秀な霞が関の官僚による裁量的経済運営を行い、立派に先進国の仲間入りを果たした。このことから、日本経済が先進国にキャッチアップするまでは、この官僚資本主義ともいうべき、官僚による裁量的経済運営は効率的だったといわれることがある。しかし、それは戦後の日本経済を語るときに使われる「枕詞」のようなもので、証明された事実ではない。むしろ、財閥の解体や貿易・資本の自由化といった、市場を競争的に維持する政策の方が、戦後日本の高度経済成長に大きく寄与したのではないだろうか(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、1頁)。
伊藤修
基軸産業、あるいは主導的役割を果たした産業(leading industry)は、むしろ自主的に発展した(伊藤修 『日本の経済-歴史・現状・論点』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年、18頁)。
岩田規久男
逆に、「全国総合開発計画」のような、市場メカニズムに逆らって「国土の均衡のある発展」を目指して、公共投資を地方にばらまく政策や、首都圏から工場や大学を追い出す工場等制限法、非効率な零細小売業を保護する大型店舗出店規制法、金融・証券業の競争を制限する護送船団行政などの産業保護政策は、「アダム・スミスの法則」の成立を妨げることによって、経済成長を鈍化させる要因になったと考えられる(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、2頁)。
野口旭、田中秀臣
日本の旧通産省による、かつての産業構造政策(=産業構造高度化政策)のような政策は、単にそうした市場の資源配分機能を歪めるだけにすぎない(野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、194頁)
竹中平蔵
1950(昭和25)年に川崎製鉄は千葉に日本初の鉄鋼一貫製鉄所を建設することを計画した。しかし当初、通産省(経済産業省)は川鉄の一貫製鉄工場建設に反対した。なぜなら、一気に供給が増え、需給バランスが崩れることが憂慮されたからである。日銀も、当時の外貨不足を理由に、大きな設備投資はさらなる外貨不足を招くと考えて反対した。そのとき賛成に回ったのは、大手町にあった日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)の常務取締役・中山素平らを中心とする銀行家たちだった。彼らは、一貫製鉄所がなければ日本経済の発展はないとして、川崎製鉄への融資に踏み切った。1953(昭和28)年には工場が完成し、これが一つの契機になって鉄鋼業が急速に伸び、日本経済は高度成長に突入することになったのである(竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、158-159頁)。
竹中平蔵
日本には10社以上の自動車メーカーがありますが、かつて通産省(現・経済産業省)は、これでは多すぎるからもっと集約して3社ぐらいにしたらどうか、アメリカだってビッグ3じゃないか、っていった時期がありました。でも、結果は違ったんです。10社以上の会社で激烈な競争をしたから、日本の自動車産業は強くなったんです。それとは対照的に、競争がなく、政府が強い規制をかけて、丸抱えで「護送船団」だといわれたような産業は競争力がつかなかったんです。その典型は銀行です。、銀行は競争をしなかったから、競争していた自動車産業とのあいだで圧倒的な格差がついてしまっているんです(竹中平蔵 『竹中平蔵の特別授業-きょうからあなたは「経済担当補佐官」』 集英社インターナショナル、2005年、57頁)。
竹中平蔵
通産省は石油ショックの前に、日本の自動車会社九社体制を三社ぐらいにしようとしたんですよ。(中略)もっと付加価値の高い大型車を作れとというふうに行政指導しようとしたんです。ところが業界は、自分たちは小型車を作ることによって独自性を保ってきたのであり、九社が競争しているからこそ日本の会社はこんなに強くなったんだと、ことごとく反発した。結果的にはこれが正しかったわけですね。その後、石油ショックが起こり、小型車が爆発的に売れたという神風が吹くわけですけれども(佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、368頁)。
野口旭
特振法成立に邁進した通産官僚たちの努力は、表面的な崇高さとは裏腹に、的外れきわまりないものでした。それは基本的に、保護主義的かつ統制経済的な思考様式に基づいて、自由な貿易や資本の取引を何とか抑制しようとするような、きわめて非経済学的試みだったといえます。通産官僚たちの奮闘にもかかわらず、特振法は結局、さまざまな理由から廃案となります。そのことは、その後の日本経済にとって、不幸どころかむしろ幸いだったといえるでしょう。特振法は、当時の日本の自動車産業の欧米のそれと比較した「弱さ」の原因は、乱立する弱小メーカーによる「過当競争」にあるという考えの上に立って、自動車メーカーの集約化や新規参入の制限などによる自動車産業の「再編成」を構想していました。もしそのような政策が実現されていたならば、日本の自動車産業のその後の隆盛はおそらくあり得なかったでしょう(野口旭 『グローバル経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2007年、58-59頁)。

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