経済・経済学に関するメモ。

原因

内田勝晴
金本位制復帰=金解禁は昭和五年(一九三〇年)一月十二日に実施された。しかし皮肉にも、前年(一九二九年)十月二十四日、ニューヨークの株式市場が前例のない大暴落に見舞われた。これから一九三三年まで四年以上も続く世界恐慌が始まったのだ。アメリカの生産力は激減し、失業者があふれ、賃金が引き下げられ、貿易も大幅にダウンした。日本にとっては対米輸出の中心だった生糸輸出が激減したので、外貨獲得は大きく落ち込んだ。これがわが国の昭和恐慌の引き金を引いた。しかも昭和五年(一九三〇年)一〇月の米価暴落が農村を不況の谷に突き落とした(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、162-163頁)。
田中秀臣
昭和恐慌のそもそもの発端は、第一次世界大戦による大戦バブルの崩壊でした。そこで銀行の抱えた不良債権が金融システム危機を招き、いったんは収束したものの、その後、金本位制復帰を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥ってしまうのです(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、110頁)。

メディアの反応

岩田規久男
当時、最大の発行部数を誇っていた『大阪毎日新聞』は「下る・下る物価 好いお正月ができるとほくそえむサラリーマン」という見出しで、金本位制復帰によって生ずるデフレを大歓迎しています(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、173頁)。
大阪時事新報、大阪朝日新聞
・解禁直後の財界:金融 平穏無事(大阪時事新報 1930年1月12日) ・歳入見積もりを弁じ『緊縮予算』を説く:金解禁後の財界は至極良好:解散を前に蔵相の財政演説(大阪朝日新聞 1930年1月22日)(上念司 『デフレと円高の何が「悪」か』 光文社〈光文社新書〉、2010年、180頁)
中外商業新報、大阪朝日新聞
・金解禁で産業界は高率操短時代:各種産業に広く行わるる驚くべき操短の一瞥(中外商業新報 1930年2月17-19日) ・一般物価に比し米価は甚しく下落:金解禁以来、大変動を来した物価に対する米価率(大阪朝日新聞 1930年2月20日)(上念司 『デフレと円高の何が「悪」か』 光文社〈光文社新書〉、2010年、180頁)
田中秀臣、安達誠司
当時の代表的なメディアであった新聞や総合雑誌では、「不景気を徹底せしめよ」と勇ましいスローガンがとびだしてもいた(田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、173頁)。

国民経済への影響

岡田靖、安達誠司、岩田規久男
1930年から31年11月までの昭和恐慌期には、年間平均実質経済成長率は0.7%、同消費者物価下落率は10.8%に達し、株価と地価はそれぞれ29%と21%も下落した(岩田規久男編著 『昭和恐慌の研究』 東洋経済新報社、2004年、170頁)。
岡田靖、安達誠司、岩田規久男
中でも価格下落が激烈だったのは農産物で、1930年の下落率は34%に達し、繭の価格は半分になり、農村の生活は破壊されてしまったのである(岩田規久男編著 『昭和恐慌の研究』 東洋経済新報社、2004年、169頁)。
内田勝晴
物価は一年あまりで五割から六割も暴落。中小企業の倒産が相次ぎ、大企業も大幅な人員整理を余儀なくされた。失業者の激増は激しい労働争議を引き起こし、街は騒然とした空気に包まれた(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、163頁)。
内田勝晴
生糸の輸出激減と米の凶作による農村の疲弊は激しく、とくに東北・北海道地域では娘の身売りが続出した。また、昼食の弁当を学校に持ってこられない欠食児童も出るほどだった(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、163頁)。

識者の見解

河上肇
河上肇は、デフレを放置してもそんなに大きい問題ではないという考え方で、本質は資本主義経済の限界にあるので、デフレを脱却しても、資本主義経済の宿命的な限界は解消されない、という論陣です。(田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、288頁)。

高橋財政

内田勝晴
高橋蔵相は昭和恐慌の頂点で積極財政を展開した。翌一九三二年十一月から、赤字国債の日本銀行引き受けが開始された。つまり日銀券を増発させ、それで国債を買わせたのだ。こうして調達した資金を、高橋蔵相は農村救済のための公共土木事業に注入したが、軍事費も膨張した(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、201頁)。
内田勝晴
(一般会計の歳入に占める国債・借入金の割合は、高橋財政になってから、それ以前の八%弱から一挙に三〇%を超えた。この割合は、その後も膨張の一途をたどり、一九三七年には四七%、三九年は五八%、四三年は六五%、四五年は七三%になった。また、歳出に占める軍事費の割合は一九三一年は三一%、三三年は三九%、三五年は四七%、四三年はピークの六七%になった(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、201頁)。
内田勝晴
高橋蔵相の赤字財政によって景気がよくなり、国内がインフレになってきたので、高橋蔵相は景気を冷やす政策に転換した。膨張を続ける軍事費もカットしたが、そのため軍部の怒りを買い、一九三六年二月二十六日、暗殺された(二・二六事件)(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、202頁)。
内田勝晴
国債の日銀引き受けという、起死回生の妙手を編み出した高橋財政は、世界に先駆けて日本を世界恐慌から脱出させた。その意味で、高橋財政はケインズ改革を先取りしていたといえるだろう。自由放任政策の欠点を指摘し、政府の積極的経済加入を理論的に明らかにしたケインズ理論が世の中に発表されたのは、一九三六年になってからだ(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、209頁)。
内田勝晴
高橋是清が編み出した「国債の日銀引き受け」という手法は、戦後、禁止された。国家が安易に発行しておカネを手に入れると、軍事費に使ったりしてろくなことはないというのだ(内田勝晴 『家康くんの経済学入門-おカネと貯蓄の神秘をさぐる』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2001年、206頁)。

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