経済・経済学に関するメモ。

野口旭
日本では、1990年代を失われた10年と呼ぶ(野口旭 『「経済のしくみ」がすんなりわかる講座』 ナツメ社、2003年、156頁)。
竹中平蔵
失われた10年 バブル経済が崩壊した後の、1991年頃から2003年頃までの不況の時代をいう((竹中平蔵 『ニュースがもっと面白くなる!竹中教授の経済教室』 中経出版、2012年、89頁)。

語源

野口旭
もともとは1980年代のメキシコ経済の不振をあらわした言葉(野口旭 『「経済のしくみ」がすんなりわかる講座』 ナツメ社、2003年、156頁)。

原因

野口旭
その理由として、3つの仮説があります。1つ目は、日本の構造問題説です。(中略)日本の構造に問題があるからこれを改革しなくてはいけないという考え方です。構造改革ををしようといっている人たちの多くは、この説をとっています。2つ目は、先送り原因説です。(中略)これは、次ページ以降で説明している銀行の不良債権処理を徹底的に実行しないでどんどん先送りしているから、景気がよくならないという説です。(中略)3つ目は、経済政策失敗説です。(中略)経済政策の失敗が不景気から脱却できない理由という説です(野口旭 『「経済のしくみ」がすんなりわかる講座』 ナツメ社、2003年、156-157頁)。
田中秀臣
しかし金融引き締め政策への転換や、湾岸戦争にともなう国際石油価格の急速な上昇によって、日本経済はその後、長期の不況に陥った(飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子 『「30万人都市」が日本を救う! 〔中国版「ブラックマンデー」と日本経済〕』 藤原書店、2015年、18頁)。
岩田規久男
九二年から〇二年までの長期経済停滞の原因については、右に述べたような「デフレ説」ではなく、日本経済の構造改革の遅れが原因であるという「構造説」をとるエコノミストのほうが多数派です(岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、80頁)。
林文夫、エドワード・プレスコット
生産性上昇率の低下と法的規制による労働時間の短縮によって、一九九〇年代の日本の不況が説明できるという一橋大学の林文夫教授とアリゾナ州立大学のエドワード・プレスコット教授による論文が経済学の世界では大きな影響をもってきた(大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、145頁)。
池田信夫
これに対して構造改革派の代表は、林文夫だろう。彼はプレスコットと書いた論文で、日本の「失われた10年」の原因は全要素生産性の低下によって潜在成長率が低下したためだと結論した。(中略)この結論には多くの批判があり、のちに行われた同様の実証研究では、狭義の(技術進歩という意味での)生産性は大きく低下していなかいという結果が出ている(池田信夫 『希望を捨てる勇気-停滞と成長の経済学』 ダイヤモンド社、2009年、132頁)。
池田信夫
日本経済の長期停滞が続いている大きな原因は、1980年代に起こった第三次産業革命(情報革命)に乗り遅れたことだ(池田信夫 『希望を捨てる勇気-停滞と成長の経済学』 ダイヤモンド社、2009年、181頁)。

経済失策

ベン・バーナンキ
バーナンキはすでに2000年の段階で、日本の長期停滞の原因を一言でこう言い切っている。「きわめてお粗末な日本銀行の金融政策にある」(田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、98頁)。
FRB
FRBは2002年に、「デフレを防ぐ」という論文を出しているんだけど、これは日本がなぜ1997年以降デフレに陥ってしまったかを克明に研究しているものなんです。(中略)そしてこのFRBの論文で語られているのは、この猛烈な円高が起こっているにもかかわらず、日銀はその円高を放置したと。すなわち、金融引き締めスタンスを変えなかったと。それが、当時から現在まで続く日本経済の長い停滞の引き金を引いたと、そうFRBのエコノミストたちは断言しているんです(田中秀臣・上念司 『震災恐慌!〜経済無策で恐慌がくる!』 宝島社、2011年、61-62頁)。
中野剛志
八〇年代後半、好景気でインフレを懸念しなければならなかったにもここわらず、公共投資を拡大し、金利も引き下げたため、資産バブルを引き起こしました。そして、九〇年代後半以降は、今度は不景気でデフレを懸念しなければならないというのに、公共投資を減額し続け、金融緩和も不十分でした。(中略) 日本が長期の不況に陥ったのは、ケインズ主義が無効だからではなく、ケインズ主義とは逆のことを二度もやったからだったのです。これでは、「失われた二〇年」となっても何ら不思議ではありません。日本の凋落は、結局のところ、経済運営の根本的なミスの連続によるものだったのです(中野剛志 『レジーム・チェンジ-恐慌を突破する逆転の発想』 NHK出版〈NHK出版新書〉、2012年、161-162頁)。
中野剛志
日本は、一九九〇年代後半のデフレの時に、公共事業を削減し続けてデフレを長期化させただけでなく、八〇年代後半のインフレの時には、公共投資を増やしてバブルを引き起こした(中野剛志 『レジーム・チェンジ-恐慌を突破する逆転の発想』 NHK出版〈NHK出版新書〉、2012年、159頁)。
田中秀臣
一九九〇年代後半の中でも、橋本龍太郎政権による消費税率の引き上げや公共投資の削減など、財政政策面での引き締めが行われた一九九七年からは、日本経済の失調が本格化していきます。(中略)一九九〇年代の日本経済の一〇年にも及ぶ低迷に対して、マクロ経済政策を担う大蔵省(現・財務省)と日本銀行は協調してこれの解消に努める政策を行うべきであったことは当然です。しかし、この両政策当事者の政策協調は、一九九〇年代後半以降、明らかに機能していませんでした。一九九六-九八年の橋本龍太郎政権では、緊縮財政とゼロ金利政策が同時に採用されています。その後の森喜朗政権では逆に、景気対策のために財政の拡大を続けながら、ゼロ金利政策が解除されています(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、157-158頁)。
デフレ化
ジョセフ・E・スティグリッツ
日本経済の長期低迷について、スティグリッツは、「潜在成長力を大きく下回る状態がこれほど長期化している点が最大の問題」と述べ、デフレの弊害を指摘しています(田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、96頁)。
野口旭、田中秀臣
それでは、その日本の長期停滞の真の原因とは何か。それは、バブル崩壊後の資産デフレに端を発する、マクロ的な総供給に対する総需要の恒常的な不足である(野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、4頁)。
岩田規久男
バブル崩壊後の日本経済の特徴は、長期にわたる穏やかな物価の下落という、普通のデフレと激しい資産デフレとが続いていることにある(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、214頁)。

労働分配率

原田泰
以上の分析からわかることは「失われた十年」は労働投入と資本投入の低下によって引き起こされたということであり、TFPは本来の失われた十年の期間(1994-2003年)にわずかだが上昇した(原田泰 『コンパクト日本経済論(コンパクト経済学ライブラリ)』 新世社、2009年、38頁)。
原田泰
「失われた十年」とその脱却の要因として資本と労働投入が重要な役割を果たしている。TFPがなの変動したかわからないが、労働投入の変動については実質賃金の上昇という原因がわかっている。(中略)日本経済の停滞は、労働投入が減少したことによって引き起こされたのであり、TFPと資本の上昇によって説明される労働生産性が低下したことによるものではない(原田泰 『コンパクト日本経済論(コンパクト経済学ライブラリ)』 新世社、2009年、44頁)。
竹中平蔵
日本の労働分配率は、一九九〇年ごろには六〇%程度の水準だった。しかし、バブル崩壊以降上昇を続け、最近では約七〇%に達している(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、150頁)。
竹中平蔵
売り上げが下がっても賃金が下げられないために、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、106頁)。
竹中平蔵
バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように大きな努力をしてきたことを意味していよう。しかし、労働分配率の上昇は、資本分配率の低下にほかならない(竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、151頁)。
竹中平蔵
この一〇年間、企業がかなり痛みをかぶり、労働者に分配してきたということです(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、44頁)。
原田泰、江川暁夫
原田泰と江川暁夫では、九〇年代の経済停滞における実質賃金の上昇が、雇用を減少させたとする。そのメカニズムとは、(1)九〇年代を通じたデフレ効果、(2)週四〇時間制の導入による時間当たりの賃金の上昇効果、という二つの効果が相乗して、実質賃金の大幅な上昇を招くとする(田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、133-134頁)。
田中秀臣
九七年以降、名目賃金の下方硬直性が非常に加速度的に緩んできた。下方硬直性の緩んでいるということはすなわち名目賃金の切り下げがおこなわれているということである。名目賃金の下方硬直性の緩みというものが、長期停滞が生み出した雇用システムの「痛み」である(田中秀臣 『最後の『冬ソナ』論』 太田出版、2005年、161頁)。

経済への影響

岩田規久男
バブル崩壊後の景気低迷は、バランス・シート不況という特徴を持っている(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、223頁)。
三和総合研究所
一九九八年末時点で日本全体の不動産の価値は二七九七兆円に及ぶ。(中略)ちなみに住宅や宅地の価値は、一六一四兆円と不動産全体の約六割を占める(三和総合研究所編著 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、206頁)。
三和総合研究所
九八年末の土地資産総額はピーク比で七四九兆円、株式資産総額は同じくピーク比で五七四兆円減少している(三和総合研究所編著 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、27頁)。

金融システムの危機

岩田規久男
一九九一年以降二〇〇三年度までに倒産した銀行は、一八一行に達しましたが、そのなかでもっとも多いのは信用組合で、四三組にのぼります。一九九二年度から二〇〇二年度までに預金保険機構が救済金融機関に援助した資金額の総額は、二五兆円に達します(岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、32頁)。

対策についての論争

田中秀臣
実は21世紀の初めに、日本の長期停滞は構造的要因が原因か、あるいは循環的要因が原因かをめぐって、経済学者・エコノミストたちのあいだで論争があった。構造的要因説の主張者は、竹中平蔵氏、中谷巌氏、池尾和人氏、林文夫氏ら。対して循環的要因説は、岩田規久男氏、原田泰氏、浜田宏一氏らである(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、91頁)。
田中秀臣
構造的要因は先に述べたように、日本的経営の弊害やグローバル化への産業調整の不適合などを指す。対して循環的要因とは、経済全体の購買力(総需要)の変動に基づくものである。構造的要因は、また総供給やサプライサイドとも表現されている。つまりは、日本経済の長期低迷は、総需要側に原因があるのか、総供給側に原因があるのかをめぐる、重要な論点になる(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、91-92頁)。
日本経済新聞社
経済低迷が続く日本では、事あるごとに景気対策か構造改革かという議論が戦わされてきた。経済を押し上げるためには、財政・金融政策をフルに動員しなければならないという考え方と、むしろ経済の構造を変えていくことで体質を強化しなければ経済はよくならないという考え方である(日本経済新聞社編著 『いやでもわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2003年、137頁)。
みずほ総合研究所
こうした構造問題重視の立場からは、一時的な需要追加をもたらす景気対策には効果が期待できず、規制緩和や公的企業の民営化といった制度改革、すなわち構造改革を通じて生産性を高めることが重要だと主張されている。もう一つの見方は、日本経済の需要サイドの問題を重視する立場である。具体的には、バブル崩壊後の資産価格の下落を起点とする、恒常的な需要不足が長期低迷の主因とする考え方である。こうした需要不足を不況の主因とする立場からは、不況脱却策として財政・金融面からのマクロ経済安定化政策の役割が強調される(みずほ総合研究所編著 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、17頁)。
竹中平蔵
なぜ、不況の平成になってしまったのか。それはまさに過大な債務の償却を先送りし、長期間にわたって持ち続けていたからです。九〇年代を、日本の「失われた一〇年」と呼ぶ人がいますが、経済成長つまり景気の回復に阻害した大きな要因は、まさにこのような債務を引きずってきたことにあります(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、37頁)。
森永卓郎
九六年ごろには、首都圏の商業地の地価はバブルが始まった八六年ごろの水準に戻っています。ですから、本来、ここでバブルの調整は終わったはずなのです。(中略)九六年以降に発生している不良債権は、基本的に不動産価格の下落と景気低迷による経営悪化によって発生している。つまり、いまだに新たに発生している不良債権の原因は、デフレの深化によるものなのです(森永卓郎 『日本経済50の大疑問』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、42頁)。
野口旭
九〇年代以降に日本経済が低迷したのは、構造問題によるものではなく、基本的に総需要の不足によるものです(野口旭 『ゼロからわかる経済の基礎』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、189頁)。
野口旭
不況=総需要不足が十年以上も続いている状態というのは、歴史上にもほとんど例がないことです。とはいえ、その「長さ」だけを根拠にして、問題は需要側にではなく供給側にあると主張することはできません。(中略)日本の十年にもわたる低成長は、基本的には総需要の不足によって生じたということは、その間に失業率は一貫して上昇し、物価は下落しつづけてきたという事実から明白です(野口旭 『ゼロからわかる経済の基礎』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、80頁)。
野口旭、田中秀臣
「日本経済の低成長は需要不足ではなく構造問題から生じた」と主張することは「日本経済にデフレ・ギャップは存在してしない」と主張するに等しい。さらにそれは、「五%という現実の失業率はすべて構造的失業率である」と主張するのに等しい。これらの主張が根拠を持つためには、少なくとも物価は一定に保たれていなければならないはずであるが、現実の日本経済に生じていたのは、歴史的にも稀な持続的物価下落である(野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、68頁)。
ミルトン・フリードマン
フリードマンは日本の「平成大停滞」でも、積極的な金融緩和政策の適用をかなり早い段階から提唱していたが、それもこのような思想的背景に基づいていた(田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、131頁)。
ミルトン・フリードマン
減税と歳出削減を通じて『小さな政府』にする。金融システムの立て直しを進める一方で、日本銀行が通貨供給量を急速に増やすことが欠かせない。(中略)日銀がお札をもっと刷り、通貨供給量の平均伸び率を五-七%程度まで引き上げることが景気回復の決め手となる。九〇年から今日までの日本の状況は、一九二九年から三三年まで通貨供給を約三分の一減らして大恐慌となったアメリカと似ている(中略)財政政策で景気テコ入れを図るケインズ主義の手法は誤りだ(森永卓郎 『日銀不況-停滞の真因はデフレ政策だ』 東洋経済新報社、2001年、46-47頁)。
日本銀行
日銀短観によると、銀行の貸し渋りは1997年半ば頃から98年にかけて観測されるが、93年から96年と99年から2000年にかけては観察されない(岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、57頁)。
野口旭
金融機関の大型倒産が続いた97年、98年には、貸し渋りは明らかにあった。いわゆる金融システム危機の時代ですね。90年代で明らかな貸し渋りがあったのは、この97年、98年だけであったというのが、専門家のあいだの定説です(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編 『エコノミスト・ミシュラン』 太田出版、2003年、28頁)。
田中秀臣
その論争の結果は、日本の長期停滞は構造的要因が問題にあるにせよ、それは循環的要因に比べれば二次的な役割しか果たしていない、というものだった。端的に長期停滞は総需要不足の持続にあり、適切な金融政策と財政政策が行わなれれば早期に脱出可能であるというものであった(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、92-93頁)。
田中秀臣
実際に1990年代初期から今日まで、「不況」「停滞」といわれる期間では、総需要不足、高い失業率、物価下落の「三拍子」がそろい踏みをしている。もし仮に構造要因説が正しいとするならば、そもそも総需要不足が観察されることはない(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、93頁)。
みずほ総合研究所
供給サイドの論者が指摘するように、生産性の高い企業や産業分野が、資源の供給不足によって成長が不可能になっている状態であれば、“遊休資源”としての失業は存在しないはずである。もう一つの理由は、前述の通リ九〇年代を通じて物価下落が続いていることである。仮に、経済が需要不足ではなく供給の制約に直面しているのであれば、物価は下落せず上昇するはずである。(中略)九〇年代を通して経済本来の成長力を大きく抑制し、その結果として需要不足を恒常化させている最大の要因は、一般物価と資産価格の持続的な下落、すなわちデフレと資産デフレの進行であると考えることができる(みずほ総合研究所編著 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、18-19頁)。

経済成長率に関する分析

竹中平蔵
この一〇年間に関して日本経済は大不況だといいますが、これは数字のうえでは必ずしも正当化されません。なぜならば、この一〇年間の年平均経済成長率は一・二%です。平均成長率一・二%ということは、日本人の平均的な所得は一〇年前の所得と比べて「一・〇一二の一〇乗」倍になったということです。つまり、私たちの生活水準は、一〇年間で一三%程度高くなっているのです(竹中平蔵 『あしたの経済学』 幻冬舎、2003年、29-30頁)。
飯田泰之
1990年代以降、ほとんどの先進国は平均すると2%以上の実質経済成長率、4%程度の名目成長率を達成している(飯田泰之 『世界一わかりやすい 経済の教室』 中経出版〈中経の文庫〉、2013年、172頁)。
岩田規久男
バブル崩壊後の平均的な実質経済成長率八〇年代の約四%から、九二年以降は約一%へと四4分の一に低下してしまった。(中略)それ以前の一〇年間に比べて大きく悪化しており、他の主要国と比べても大きく劣っている(岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、214頁)。
日本経済新聞社
この十年で、本来通りの成長があれば、得られたであろう一〇〇兆円を失ったとの試算もある(佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、377頁)。

失われた20年

統計

岩田規久男
92年から2009年までの18年間を92年に景気後退に陥る前までの11年間と比べると、平均実質成長率は4.5%から0.7%と84%低下、平均名目成長率は6.2%から0.1%へと99%低下、GDP(国内総生産)の物価であるGDPデフレーターは1.7%からマイナス0.7%(デフレであることを示す)へと139%もの低下である(岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、12頁)。
池田信夫
2009年の日本の実質GDPは、図表4-3のように1991年の水準を100とすると、約120だ。これはアメリカの160ばかりか、欧州の140に比べても大幅に低い。つまり日本のGDPは、ここ20年で実現可能な水準に比べて20%以上低下したと推定される(池田信夫 『希望を捨てる勇気-停滞と成長の経済学』 ダイヤモンド社、2009年、89頁)。
日本経済新聞社
日本経済の規模を示す国内総生産(GDP)の名目値は、2002年から12年まで4%減ったが、実質では8%増えた。給料や売上高は増えず、景気が悪いと感じていた人が多かったが、実は日本全体では豊かになっていたことになる。ただ、名目値がマイナスだと経済が成長している実感が得にくい(日本経済新聞社編著 『思わず誰かに話したくなる経済の不思議-エコノ探偵団』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、147-148頁)。

経済への影響

田中秀臣
「失われた20年」と言われる1990年代初めから2012年頃までの日本の長期停滞は、デフレ(物価の継続的な下落)を伴っていた。人々の所得が減ってしまい、日々の暮らしも困難になる人や就職、進学などで苦労を味わう若者も多かった(田中秀臣 『脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている』 PHP研究所〈PHP新書〉、2021年、59頁)。
田中秀臣
また我々は過去20年もの大停滞によって、経済的にも大きなダメージを負い、経済格差、年収の伸び悩み、貧困家庭の増加などを経験してきた(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、8頁)。
田中秀臣
日本が長期停滞のあいだは名目GDPが上がりませんから、見かけの労働生産性は低くなった(高橋洋一・田中秀臣 『日本経済再起動』 かや書房、2020年、174頁)。
田中秀臣
不況になると日本では自殺者が激増します。90年代の実証では、不況期に30%くらい自殺者が増え、そのまま高止まりしてしまったのが、日本の失われた20年です(高橋洋一・田中秀臣 『日本経済再起動』 かや書房、2020年、148頁)。

原因

田中秀臣
失われた20年には、民間主導のイノベーションがあまりなく、労働生産性が低かったというものです。サプライサイドに問題があったから、失われた20年になったという考え方ですが、非常に疑問です。むしろ、総需要が不足することによって、サプライサイドの問題が解決しなかったと見るほうが自然です(高橋洋一・田中秀臣 『日本経済再起動』 かや書房、2020年、170頁)。
田中秀臣
不況期には人的資本が蓄積されていきませんから、それによって労働生産性が下がってしまうことがあります。日本の労働生産性が低いことを失われた20年の原因と見る人は少なくありませんが、現実のGDPを上げる政策がしっかりしていなかったから、見かけ上の労働生産性が低く算出されたわけです(高橋洋一・田中秀臣 『日本経済再起動』 かや書房、2020年、171頁)。
新保生二
バブル経済は、日本銀行が過剰なマネーサプライの「拡大」を招いたことで生じ、さらにその崩壊とそれ以後の景気後退の長期化も日本銀行の過剰なマネーサプライの「縮小」で生じていると、新保氏は批判することになる(『第三の開国を目指す日本経済』(東洋経済新報社、1994年)(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、171頁)。
新保生二
バブル崩壊が、21世紀に入ってからも続く長期停滞の原因も日本銀行が名目成長率の安定化を図れなかったこと、言い換えると人々の期待をうまくコントロールできなかったことにある、と新保氏は亡くなる直前まで主張し続けた(『日本経済の失敗』 日本経済新聞社、2001年、『デフレの罠をうち破れ』 中央公論新社、2003年など)(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、171-172頁)。
田中秀臣
日本銀行はバブルの再発を防ぐために、安倍政権が誕生していわゆる「アベノミクス」を採用するまで、事実上の金融引き締め政策を採用し続けた。それは不況の長期化を招き、日本は二十数年も停滞した(飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子 『「30万人都市」が日本を救う! 〔中国版「ブラックマンデー」と日本経済〕』 藤原書店、2015年、20頁)。
田中秀臣
しかし日本が長期停滞に陥っているのは、先ほども説明したが、日本銀行がデフレ・レジームを採用していたからだ(飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子 『「30万人都市」が日本を救う! 〔中国版「ブラックマンデー」と日本経済〕』 藤原書店、2015年、33頁)。
田中秀臣
この金融政策の緊縮スタンスと財政政策も緊縮スタンスの両者が、日本の失われた20年をもたらしたと言える(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、19頁)。
田中秀臣
日本の1990年代初頭からの「失われた20年」は、金融政策の失敗が原因であった。さらに、これに財政政策との協調の失敗が重しとなっている。経済が停滞していても、消費税は恒久的にこの不調きわまる経済の重しとなっていた(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、83頁)。
田中秀臣
日本でも1997年の消費増税のショックは大きく、その後の長期停滞の引き金になっている。そして自殺者など多くの生命を犠牲にした(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、50-51頁)。
田中秀臣
日本でも長期停滞の間、失業率と自殺者は密接に関係していた。政府と日本銀行が不況を放置していると、失業率が下がらない。社会的な居場所をなくした人たちが、失望ゆえに自死を遂げてしまう。実際に「失われた20年」の間に、政府と日銀の緊縮政策で、失われた人命は数万人に及ぶだろう(田中秀臣 『脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている』 PHP研究所〈PHP新書〉、2021年、5-6頁)。
田中秀臣
この時代の日本銀行は、常に積極的な金融緩和を回避し、財務省は消費増税や財政再建を優先してきた。その結果、雇用は崩壊し、新しい産業の芽は十分に育たず、、将来への希望はごく一部の経済的勝者を怨嗟する声に置き換わった(田中秀臣 『脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている』 PHP研究所〈PHP新書〉、2021年、26頁)。
伊東光晴
日本のデフレを伴った長期停滞は日本銀行の政策スタンスとは関係がなく、労働人口減少によるものである(田中秀臣 『増税亡者を名指しで糺す!』 悟空出版、2018年、220頁)。

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