小木曽家での、春華の小学校入学祝(と春希とかずさの婚約報告)から1週間後の金曜日。またしてもあの、御宿のホールで、冬馬かずさのひさびさの――親友、北原雪菜の急死以来初めての、満を持してのソロリサイタルが開かれた。

 開幕直前。
 満員の客席の中、かずさの配慮で、北原親子3人の席は最前列の更にど真ん中。既に春華と雪音は、よそいきに身を包み、それぞれ大きな花束を大切に抱え込んで父、春希とともに着席していた。
「雪音、いい子にしておとなしく聞いてるんだよ!」
と春華がお姉さん風を吹かせて言うと、
「わかってるよおねえちゃん! あたしはおねえちゃんとちがって、かずちゃんにピアノをならってるんだから!」
と雪音がやりかえした。
「なまいき、言わないの!」
「ほらほら、いい加減にしなさい、二人とも。」
 ――正直なところ、春希は気が気ではなかった。そもそもしっかりしてきたとはいえ春華はまだ小学1年生、本格的にピアノを始めたばかりの雪音に至っては保育園の年中さんである。本来ならば、家族室もあるホールであるから、そちらの方をとってもらうべきだったかもしれない。しかし
「おばちゃんと、約束したんだろう? コンサートの間、静かにしてるって。眠くなったら、寝ちゃって構わないけど、おしゃべりとか、どたばたするのはだめだって。」
 そう、二人は春希を差し置いて、かずさに直談判して、この最前列のシートを手に入れたのだ。「絶対におとなしくしてるから」と指切りして。
「だいじょうぶだよー。だいたいこんないちばんまえの席で、大きな音のピアノで、ねちゃったりできないよー。」
と雪音がとりすました顔で言った。
「――だから心配なんだけどな……。それから、二人ともおトイレはちゃんと行ったよな? 曲と曲の間は、出入りできないからな?」
「おとうさん、だいじょうぶだよ、わかってるよ。全部ちゃんとかずさおばちゃんから聞いてるから。――ほら、ブザー、なったよ?」
と春華が言うとおり、開幕を告げるブザーが響き、場内が暗くなった。ほの明るい舞台中央にはスタインウェイが1台、でんと構えるのみ。と、そこに、舞台袖から、黒いシックなドレスに身を包んだ、かずさの長身が現れた。大きな拍手がわきあがった。もちろん春希も、子どもたちも精いっぱいの拍手を送った。と、雪音が
「かずちゃーん!」
と声を張り上げ、周囲に軽いどよめきと、笑い声が起こった。春華が
「こらっ! 雪音!」
と叱りつけた。と、舞台の上のかずさも当然気づいて一瞬立ち止まり、正面に向き直った。そして、わざとしかつめらしい顔で雪音の方に向かい、右手の人差し指を唇に当てて
「――!」
と大げさに、茶目っ気たっぷりにポーズしてみせた。一瞬、一段と大きな笑いが客席を満たし、一気に場の雰囲気は和らいだ――春希を除いて。
(――ああ……無事に終わってくれ……。)
 しかし、そんな春希の気持ちなど知らぬげに、笑いも静まらぬうちにかずさはさっさとピアノへとたどり着いて、再び客席へと向き直り、聴衆に微笑んで一礼した。再び、大きな拍手が起こった。二人の子どもたちも、わくわくして舞台の上のピアノを、かずさを見つめていた。
 礼をしたのち、かずさは着席した。そして、客席のざわめきが収まるのを待ってから、背筋を伸ばして鍵盤へと向かい合い、一呼吸おいてからおもむろに弾きはじめた。

 今日の演目は、非常に保守的というか、一般受けのしやすいもので、まず出だしにショパンの練習曲、シューベルトの小品をおいて、メインはリスト編曲のベートーヴェン「田園」が予定されていた。
 まずは美しく、なじみやすい旋律が危なげなく流れ、とりあえずは子どもたちもおとなしく聞き入っていた。しかし春希は内心緊張が解けなかった。今は小品だからよいが、耳触りがよく聞きやすいとはいえ長尺、全5楽章にわたる「田園」を小さな二人が果たしておとなしく聞き続けられるものだろうか。ベートーヴェンの交響曲のピアノアレンジを全楽章休みなしに一気に弾くのみならず、その前後にも難曲を配しても屁でもない、人並み外れたかずさのスタミナに、幼い子どもたちを本当に付きあわせられるのか……。
 ――とにかく、休憩時間にちゃんとトイレに行かせ、小腹がすくようならデザートくらいは好きに食べさせておかねばなるまい。腹がくちくなって眠くなったら、かえって好都合だ……かずさには失礼ながら、はじめのうち春希はそんなことばかり考えていたので、気付かなかった。
 ――かずさの演奏が、以前から――そう、つい先だっての「親子のためのコンサート」の時に比べて、確実に変化していたことに。

 聴衆の中にいた少なからぬ同業者はもちろん、熱心なファンはすでに気づきつつあった。その熱心なファンの中には、瀬之内晶=和泉千晶も混じっていた。
(――おい、これ……何なの? いったい何があったの? どうしてこんなに、あふれてくるんだよ?)
 春希に頼んでこっそり手に入れておいた後方座席で一人、千晶は固唾をのんで演奏に聞き入っていた。
(――これは――祈りっていうより――「歌」だよ文字通り。「歓喜の歌」じゃないか? 抑えがたい喜びが、自然に歌になってこぼれてくる……何なんだこれ?)
 さすがに鋭敏な千晶の耳は、何が起こったかをほとんど誤りなく聞き取っていた。しかし、休憩時間後の展開は、その彼女の度肝をも抜くものであった。

 3曲弾いてからの休憩時間。ロビーのカフェで子どもたちにねだられるまま、大きめのアイスクリームを買ってやり、自分はエスプレッソを2杯飲んで気合を入れていた春希に、
「やあ、北原さん。」
と声をかけてきたのは、橋本健二だった。見ればその傍らに寄り添う女性は、驚くまいことか柳原朋だった。
「こんにちは、橋本さん――で、柳原さん、こんなところで、いったい何を?」
 春希はわざと冷たい声で言ったが、朋は堪えた風もなくケラケラ笑って、
「えー、いやだなあ、人聞きの悪い。あたしも冬馬さんのファンの端くれですし、この間からは仕事仲間でもあるんですよ? 当然、チケットだっていただいてますよー。やっほー、春ちゃん、雪ちゃん。ひさしぶりねー。」
「――いや、それはいいから。俺が聞きたいのは、どうして橋本さんと一緒なのか、ってことなんだけど。」
 すると橋本健二は
「いえ、仕事仲間ですから、せっかくだからご一緒しようかと思いまして、ね。」
といたずらっぽく笑い、朋も
「わたしも雪菜から例の司会を引き継いだ以上、責任ってものがありますからね。橋本さんにいろいろ教えていただいて、勉強してるんですよ……。」
と笑った。
「柳原さんは随分熱心な勉強家ですよ。北原さんに勝るとも劣らない――大したものです。」
「――いえ、それはいいんですけど、橋本さん、気を付けてくださいよ? わかってます? この人、芸能スポーツ欄、いえゴシップ欄の常連ですからね? くれぐれも、巻き込まれないでくださいよ……。」
「いやだなあ北原さん、わたしをなんだと思ってるんです?」
「柳原さん、この人は、かずさと並ぶ日本クラシック界の宝なんだから、くれぐれも、軽はずみなことは――。」
と朋に説教しようとする春希だったが、と、そこに橋本は
「――ところで北原さん、ようやく、踏ん切りをつけられたんですね。おめでとうございます。」
と爆弾を落とした。
「――っ! だ、誰に聞いたんです? 曜子さんにですか? それとも、まさか、かずさ本人から……。」
とあわてる春希に、橋本は初めて見せるいたずらっぽい顔でにやりとした。
「――おや、図星でしたか……。まあ、聞く人が聞けばまるわかりですよ。かずささんはとりわけ、感情が、気持ちがピアノに出る人ですから。ここ十年でうまくなって、精神的に不調になったり不安定になっても、それで演奏そのものが乱れたり質が落ちたりすることはなくなりましたけど、悲しいときは悲しげな、うれしいときはあからさまに楽しげな演奏になってしまう。こればっかりはどうにもなりません。――となれば、これは、語るに落ちるということかな、と……とりあえず、大変失礼かとは存じますが、カマをかけさせていただきました。」
「――まあ、やっとですか! よかった、本当によかったわあ! これは飯塚さんたちにも早く知らせないと!」
と朋は携帯を取り出してメールを打ち始めた。
「――あーいや、ちょっと待ってくれ。武也と依緒には、俺の口から言うから、勘弁してくれ――。」
「――えー? そうですかー? しかたないなあー?」
と朋は口を尖らした。と、そこに後ろから、
「おいおい春希、黙っといて欲しいんなら、口止め料ってもんがいるんじゃないの?」
と声をかけてきたのは、和泉千晶だった。
「――っと、和泉……。」
「――あら、瀬之内晶、さん?」
 ブルーのシックなドレスに身を包んだ千晶は、にっこりとほほ笑んで
「やっぱりそういうことか。おめでとう、春希。で、プロポーズしたのは、どっちからなんだい?」
「……。」
 ――そんなに、誰が聞いても明らかなほどに、かずさの演奏は色ボケてたのか?

 四面楚歌の状況から春希は「子どもたちのトイレ」を口実にほうほうのていで抜け出した。二人がトイレを済ませるのと、休憩時間終了を知らせるブザーが鳴るのと、ほぼ同時だった。
 再び暗くなった会場が静かになったところをみはからって、かずさが現れた。驚いたことに、今度は目の覚めるように華やかな、カーマインのドレスに着替えての登場だった。会場が軽くどよめいた。しかしそのどよめきも、かずさの演奏開始後のそれに比べれば、ささやかなものだった。
 ――そう、本来あってはならないことなのだが、休憩後の演奏再開直後に、聴衆は意表を突かれてどよめいてしまった。演目が予告なしに変更されていたのだ。
 かずさの指から流れ出した旋律は、間違えようがなかった。それは当初予定されていた「田園」第1楽章の、あの穏やかで軽やかな出だしではなかった。リスト編曲のベートーヴェン交響曲には変わりないが、第6番「田園」ではなく、第9番「合唱」第1楽章の、あの殴りつけるような導入だった。
「――マジに、「歓喜の歌」かよ……。なんてベタな……。」
 気おされて千晶はつぶやいた。
 ――そしてようやく、鈍い春希にも、何が起こっているのかがわかりつつあった。傍らの子どもたちも、あっけにとられて舞台の上のかずさを見つめていた。
「――かずちゃん、わらってる……。」
 小さくつぶやいたのは雪音だった。
 ――さて「笑ってる」と言ってよいものかどうか。少なくともかずさの口はいま真一文字に結ばれ、笑みなど浮かべてはいない。しかし、眼はどうだ。
 上半身をリズミカルに揺らして演奏するかずさの眼は、もちろん一心に鍵盤を見つめていたが、確かにその眼は、楽しげな光を放っていた。
 ――畳み掛けるような演奏の果て、興奮が最高潮に達した第4楽章では、ついに見間違いようもなく、かずさは歓喜の笑みとともに、踊るように鍵盤をたたいていた。そして、客席の雪音と春華も立ち上がり、まるで指揮者のように両腕をテンポよく振り回していた。

 ――そして演奏が終わると、しばしの沈黙の後、耳をつんざかんばかりの喝采がホールを揺るがした。かずさは着席したまま、しばし肩を落とし、眼をつぶっていたが、ようやく立ち上がって聴衆へと一礼し、花のように笑った。
 客席のそちらこちらから花束を持って押し寄せる気配を察して、春希は子どもたちを促した。急いで花束をもって舞台に駆け寄った春華と雪音は、最前列が幸いして、真っ先にかずさのもとにたどり着くことができた。
「かずちゃん!」
「かずさおばちゃん!」
 花束を差し出した二人にかずさは笑顔で応えると、ぐいと身を乗り出し、両腕を差し伸べて花束を受け取る――かと思いきや、えいやっ、と二人を身体ごと引っこ抜いて舞台の上へと抱き上げ、そのままぐい、っと抱きしめて舞台の上でくるくると回った。
「――何だよ、柄にもない……。」
とぼやきながら春希は、それでも立ち上がって精一杯の拍手を送り続けていた。

 ――花束の山を抱えて、子どもたちとともに舞台袖へと引っ込んだかずさに、春希は一瞬逡巡した。子どもたちも一緒に行った以上、自分もとりあえず楽屋へと行くべきか――と考えたのである。しかしながら鳴り止まぬ拍手にすぐさまかずさが戻ってきたので、春希も席を立つ機を逸してしまった。
 アンコール、1曲目は春希には聞き覚えがあった。橋本健二が作曲した習作的な小品である。緻密な計算に支えられ、乾いたユーモアをたたえた無調音楽に、興奮していた聴衆の熱が、ゆっくりとさまされていくのが春希にもわかった。燃料を投じるのではなく、余韻を残しつつ落ち着かせる――悪くないアンコールだ、と春希は思った。
 しかしかずさはそこで引っ込まずに、2曲目に突入した。
「――?」
 少なくとも春希は初めて聞く曲だった。どちらかというとポップス、それもバラード調の曲が、静かに流れた。――と、いきなり、穏やかで透明な声、声量はそれほどでもないが、しっかりと落ち着いた女声――コントラルト――がホールをゆっくり満たした。また一瞬のどよめきが客席を走り、春希も思わず立ち上がりそうになった。
「――!」
 間違いようもない。「春の雪」を、ほかならぬかずさが、自分の肉声で弾き語っていた。
 ――プログラム本体が祝祭的な「讃歌」だったとすれば、このアンコールはまぎれもなく静謐な「祈り」だった。
(――ああ……雪菜――聞こえるか? 聞いてくれているか? ――おそくなったけど、やっと、おまえのためのエレジーが、できたようだ……。)
 春希の頬を涙が一筋だけ、流れた。

 春希が楽屋裏、演者控室にたどり着くと、そこにはみんながいた。――みんな? そう、かずさと、春華、雪音はもちろん、曜子と、付添ってくれたのであろう高柳教授。冬馬オフィスの工藤美代子。ナイツレコードでの雪菜の後任の「冬馬番」、澤口さんも来ていた。そして、橋本健二と柳原朋。
 子どもたちを膝に乗せたままのかずさが、噛みつくように
「遅いぞ!」
と毒づいて、それから晴れやかに笑った。春希は泣き笑いで、
「――おまえさあ、何やってんだよ……サプライズで演目丸々変えちゃうわ、アンコールでポップスを弾き語りするわ……まるっきりデタラメじゃないか――ウケりゃいいってもんじゃないんだぞ――!」
と説教で返した。
「――それが、おまえの感想か? デタラメやったあたしを、わざわざしかりつけに来たのか?」
「音楽家としてのおまえを、しかりつける資格なんか、俺にあるわけないじゃないか。俺に言えることは、たった一つだ――ありがとう。素晴らしい演奏だった。そして、素晴らしい曲だった。まさか、おまえ自身が歌ってくれるなんて……。」
「――あれはその、何だ、なんていうか、「仮歌」――にすぎないさ。これからボーカルを探さなきゃいけないし、おまえにはギターの特訓に入ってもらわなきゃならん。その辺は、何もかもこれからだ。」
と、かずさは、少し照れたように言った。
「「仮歌」とは言ってもね。」
と曜子が割って入った。
「今日のステージは、きっちり音声も映像も、とっておいたわ。もう少し検討するけど、おそらくブルーレイで出すことになると思う――アンコールも含めてね。どう、澤口さん?」
「先生がそうおっしゃる以上、私どもに異論のあろうはずはありません。お客様の反応も上々でしたし、素晴らしいライブビデオができると思います。――まあ、ボーナストラックに、「春の雪」の本番が間に合うかどうかは、これから検討させていただかねばなりませんが……。」
「――いや、それは勘弁してください……俺の出番は、あくまで音だけってことで……顔出しは……。」
「あいにくおまえの腕じゃあ、ビジュアルがあった方がごまかしがきく、ってレベルなんだがな。」
 そこに、真剣な面持ちで、朋が割って入った。
「――あの……私なんかじゃ、力不足だ、ってことは重々承知しています。でも、もしお差し支えなければ、雪菜の歌に――「春の雪」のボーカルに、挑戦させていただけないでしょうか?」
「――それは願ってもないことです。こちらこそ、よろしくお願いします。春希、澤口さん、どうだい?」
「俺としては、異論などないよ。」
「――んー、そうですね、一応、うちの方でも少し有望な若手ボーカリストを当たって、簡単にオーディションなどしてみようかと思っていたのですが、かずささんと北原さんがそうおっしゃるなら……。」
「――それでしたら、オーディションしてください。わたしも、エントリーします。」
 ひどく真剣な顔で、朋は言った。






作者から転載依頼
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このページへのコメント

完結までもう少しといった感じですね。頑張ってください。

0
Posted by アンドロイド 2012年07月16日(月) 07:18:34 返信

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