雪菜Trueアフター「月への恋」第四十四話「眺めの良い部屋(8)」


ニューヨーク サイ氏のホテル


「ただいま〜」
 ホテルに来たメフリにサイ氏は聞いた。
「お帰り。冬馬かずさとの一日はどうだった?」
「いや、よかったよ。スタインウェイホールで一緒に演奏したけど最高だったよ。さすがサイさんの眼鏡にかかった人だね。
 ショッピングも楽しかったよ。ただ…」
「ただ?」
「ピアノ以外はあの冬馬曜子の子とは思えないほど普通の子だったよ。昔惚れた男というのも普通の男だったしさ。ピアノ留学してる間に他の子に取られちゃうとか、恋の終わりまで普通の子だったね」
「ははは、何を観察していたんだか。しかし、それは意外だな…」
 サイ氏は苦笑しつつも少し意外そうに言った。
「あんな情熱的なピアノを弾く子が普通の恋で終わるなんて、僕には想像できないけどね」



8/27(木)朝 小木曽宅


「春希君!? こんな朝早くから訪ねに来てくれたの?」
 雪菜は朝早く訪ねてきた訪問客に驚いた。
「ごめん。雪菜。通勤前の忙しい時に」
 そう謝る春希の顔や身なりには疲れが少し見え隠れしており、空港から直接来たことが伺えた。
「ありがとう! 春希君。あまり時間はないけど、あがって」

「これ、お土産。ちょっと陳腐かも知れないけど…」
「わあ…ありがとう…」
 雪菜は春希の土産のスノードームを愛おしそうに胸に抱く。

「そういえば、かずさはどうだったの?」
 雪菜の質問に春希は少したどたどしく答えた。
「えっと、元気だった。向こうで音楽家の友達に会ってた。あと、ショッピングを手伝わされて大変だった。帰りは同じ便だったんだけど…」
 春希の歯切れの悪さに、雪菜の表情が曇る。
 春希も恐る恐るだった。何せ「麻理さんからキスされたこと」をかずさがメール等で既に告げ口しているかも知れないと思うと気が気でない。しかし、麻理のことを話さないわけにはいかない。
「かずさを向こうで見つけてくれた人がいて…昔からすごく世話になった人なんだけれど、その人がかずさの隣の席まで押さえてくれて、それで…」

 明らかに春希は動揺していた。
 雪菜は春希の態度からすぐ一つの可能性に思い当たった。
「ひょっとして…キス…とか、されちゃった?」
「!」
 やはり雪菜には見抜かれていた。春希は平身低頭謝った。
「ゴメン! 油断していた!」
「どこ!」
「空港の別れ際で、いや、そうじゃなく、ここ…」
 春希は頬を指で指し、目を閉じて雪菜の審判を待った。

 雪菜は、しばし春希を睨みつけていたが、やがて表情を和らげ言った。
「うん。許す」
「どうも…今後気をつけます…」
 春希はホッと胸をなで下ろした。
 少し考えればわかったことだが、この和解は重大な誤解をはらんでおり、ちっともよろしくなかった。

「ニューヨークはどうだったの?」
 態度が和らいだ雪菜の質問に春希は安心しつつ答え始めた。
「空港についたら、さっきの人、元上司で向こうでデスクやってる風岡麻理さんっていうんだけど…その人が待ってて…」
 それから春希は、スタインウェイホールのこと、メフリというトルコ人チェリストのこと、ショッピングのことなどを語った。

 そして、最後に空港での事を話した時、雪菜の態度が一変した。
「!? …今、春希君なんて言った?」
「え? だから、さっきも謝ったように、油断してて。
 ほら、普段そういう事する人じゃないから…」
 雪菜の豹変に不意を突かれた春希に怒りを帯びた言葉がぶつけられた。
「か、かずさじゃなかったの!? 誰!? その麻理さんって人」
 しまった。
 ミスを悟った春希の脳裏にバイトの頃言われた麻理の言葉がこだました。
『5W1Hを明確にして喋るよう心掛けろよ』

 それでも春希は気を取り直して、できるだけ質問に正確に答えようとした。
「えっと、麻理さんという人は、ニューヨークの支社でデスクやってる人で…」
「それは聞いたよ! どんな人かって聞いているの!」
 キレた雪菜に怯んだ春希はさらにミスをした。必要だったのは「正確な答え」ではなく「適切な答え」だったはずなのだ。
「まだ若いのにものすごく優秀で、しかも厳しくて…
 ついでに、カッコよくて颯爽としてて…」
 春希が答え終わらないうちにスノードームの中に雪が吹き荒れた。
 激しく上下に動くスノードームの外ではそれ以上に激しい雪嵐が吹き荒れたが。

 騒ぎに飛び起きてきた孝宏があわてて雪菜を止めるまで、この季節はずれの雪嵐は吹き続けた。

 そのスノードームは今も雪菜の部屋の片隅に飾られている。
 よく見ると、一部大きなキズがあり、塗料が剥げた部分がある。



開桜グラフ編集部


 編集部に入ってきた春希を浜田は笑顔で迎えた。
「おお、北原! ニューヨーク出張はなかなか成果あったみたいだな…どした? 頭なんて押さえて。時差ボケか?」
「いえ、ちょっと…そういえば、鈴木さんは火曜日の角下通運の取材、問題なかったですか?」
「ああ。鈴木ならそこにいるよ…しかし、北原。お前ってば見かけによらずアツい奴だったんだな」
「?」

 アツい奴? 何のことだ?
 春希の疑問は編集部の隅で寸劇を披露している鈴木女史が答えてくれた。

 鈴木女史はノリノリで『北原・友近・雪菜の愛の三角劇場』の上演中であった。
「その時、雪菜さんは叫んだァ。
『やめて! わたしのために争わないで!』
 しかし! 友近君は北原君に言う!
『何も言わず転部してまで彼女を遠ざけたお前に彼氏を名乗る資格はないッ! 地獄に落ちろッ! 北原!』
 北原君も返す!
『雪菜に触れていいのは俺だけだ! お前では格不足だッ! その汚い手をどけろォ!』
 唸る北原君の右ストレート!」

「だああっ! やめて下さい! 鈴木さんっ!」
「え? なんで? ホントのことでしょ? 友近君殴ったの」
「…だいたいなんで杉浦までいる? フィオリーレ編集部は別フロアだろ」
「だって、こんな先輩のエピソード初耳です! 北原先輩って、見かけによらず熱血漢だったんですね…」
「………」

 二の句も告げない春希をよそに鈴木女史の創作劇は続けられる。
「北原君に敗れ、失意の友近君にさらなる悲劇が襲う…それは母の病!
 絶望の暗闇の中でもがき苦しむ友近に救いの手をさしのべたのは、な、ナントォ! かつての恋敵、北原春希だった!
『北原! 何しに来た! 惨めな俺を嗤いに来たか!?』
 しかし、北原君は言った。
『何を言う。友よ。俺達は同じ女性を愛した者同士だろう…』
 ああ! 美しきは男の友情哉ァ!」
「…鈴木さん…いったい友近から何をどう聞いたんですか…」

「ぐすっ。同じヒトを愛してしまったライバル同士でも友情は成立しうるんですね…」
 目を潤ませて聞き入る小春に、春希は何も言うことができず大きなため息をつくのみだった。

「ところで、ニューヨークでかずささんはどうだったんですか?」
 寸劇の後、春希は小春にそう聞かれた。
「…? どうも何も、友達のトルコ人チェリストやヴァイオリニストと協演したり、ショッピングしたり、楽しんでたよ」
「…そうですか。うまくいったみたいですね。良かった…」
「? 良かったって?」
「何でもないです。こっちの話です」
「??」

「いやあ、北原君。昔の親友に会えなくて残念だったね。
 友近君から伝言預かっているよ。
『雪菜さんと婚約おめでとう。
 祝福するけど、結婚式には呼んでくれるな。
 雪菜さんを泣かせたりしたら一族伝来の効果てきめんな呪いをかけるからそのつもりで』だって。
 く〜。友近君もシブイね〜」
「………」

 と、そこで春希は改めて鈴木女史に聞いた。
「運送会社の取材の方はどうなったんですか?」
「運搬も取材も何事もなく終了。今、原稿は京都にいる社長さんにチェックもらってるところだよ」
「? 曜子さんが京都に?」
「? そうだけど。最終公演でしょ?」

 どういうことだ? 白血病でツアー中の同行も取りやめていた曜子がなぜ京都に? かずさがニューヨークに行っていたことで何か曜子が出張らなければならない問題が生じたのか?
 心配する春希の元に、ちょうど冬馬曜子オフィスから電話がかかってきた。

 電話を受け取り、話の内容を聞いた春希の顔色はみるみる青ざめていった。
 春希は受話器を置くと、浜田に言った。
「大事な話があります…アンサンブルの吉松編集長はまだ東京にいらっしゃいますよね? すみませんが、こちらにお呼びしてください…
 それと…おれ、浜田さんやみんなに隠していたことがあります…」



京都コンサートホール 練習室


 かずさの師、ベレンガリア・吉松は仏頂面でかずさの到着を今か今かと待ちわびていた。
 そんな彼女の隣で冬馬曜子は肩身の狭い思いをしていた。何せ、ツアー中の自分の娘が自主練をすっぽかしてアメリカに行っていたのである。いくらレッスンは今日の夕方からの約束だったとはいえ、師匠の機嫌の良かろうはずがない。

 曜子がヒヤヒヤしながら待っていると、ようやくかずさが現れた。
「あ、先生。遅くなってごめん」
 大して反省の色を見せていないかずさの様子に曜子はほぞを噛む。かずさの代わりに謝ろうとする曜子を制し、ベレンガリアは冷たい声でかずさに聞いた。
「言われたことはちゃんとやってきたのかしら?」
 それを聞いて曜子は顔を青くした。何か自主練の課題を与えられていたのだろうが、この娘がやってきているはずかない。

 しかし、かずさはそれを意にも介さず、鞄の中をゴソゴソ何やら探しているようだ。
「ちょっとかずさ。何やってるの? 先生に謝りなさい!」
 かずさはそんな曜子を無視して箱を一つ取り出すと師の前に置いた。
 そして言った。
「はい、先生。頼まれていたお土産」

「『頼まれていたお土産』!?」
 ベレンガリアは呆気にとられる曜子を後目にその箱を手に取るとホクホク顔で言った。
「きゃーっ! この香水、ニューヨークの店舗限定なのよね。ありがとう、かずさ」
「どうも。先生の言うとおりだったよ。サイさんはいい人だった」
「でしょ? あの気のいいオジサンがそんな事で怒るはずないもの。どうせ、途中のどこかでこじれてただけよ」

 事情を飲み込んだ曜子が憎々しげに言う。
「あんたら…グルだったわけね」
「グルなんて人聞きの悪い。聞かなかったヨーコが悪いんでしょ。ね、かずさ」
「いや、わたしも黙って行って『少しは』悪いと思っているよ。あと、これ。ファイサルのサインももらってきた。あのヴァイオリニスト、母さんのファンだったから」
 そう言ってかずさは、母親と師に色紙を渡した。
「…ありがと」
「きゃーっ! いや、『スモーキング・ファイサル』ちゃんにはひょっとしたら会うかもとは思ったけど、まさかホントに会えるとはねぇ…これは大もうけだわ」

 曜子は呆れ果てた顔をして言った。
「もういいわ。それより先生、指示をして」
「ええ、いいわ。
 では、かずさ。予定を早めて今から練習開始するわ。何せ、今からアンコール曲を変えなくちゃならないからね」
「え? どういうこと? 母さんの指示?」
 曜子は答えず、ピアノの前に腰掛けた。



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