ふ、と目が覚めた。
 さんざ愛し合って、ぐったりと消耗したはずなのに、こんな中途半端な時間に目が覚めてしまった。
 どうしてだろう? 何か、気にかかることでも、あっただろうか? 
 春希はベッドの上に起き直ると、首をひねった。そして、昏々と眠るかずさを起こさないように、ゆっくりと床を離れ、バスローブを肩にひっかけただけで、デスクに向かった。
 ひょっとしたら――
 春希はふと思い当って、ノートパソコンを立ち上げ、メールをチェックした。案の定、アメリカの橋本健二からのメールが届いていた。いつも通り、〆切にはまだ間がある段階で、きっちり第一稿を届けてくれていた。

「いろいろとご苦労をおかけしましたが、ついに最終回です。最終回ということで、少し羽目を外したものになっておりますが、まずはご検討ください。」

 型通りのメッセージの後には、ベタうちのテキストで本文が入っていた。春希はさっそく読み始めた――。

「ピアノという近代 最終回 ピアノ――未完のプロジェクト

 さて、この最終回の表題には、良識ある読者のみなさんから「何を大仰な」とのお叱りを頂戴するかもしれません。それは自分でも重々承知の上ですが、しかしながらそれを言うならそもそもこの連載全体の表題が何とも大仰にも「ピアノという近代」なのですから、今更つつましく振る舞っても遅いでしょう。それに連載中でも折に触れて申しあげたとおり、この連載全体はユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』の私なりの変奏として構想されたものです。そうである以上、いささか不遜ではありますが、その締め括りをハーバーマスのかの著名なエッセイ「近代――未完のプロジェクト」の本歌取りとしてみたところで、ばちは当たらないでしょう。

 本連載で見てきました通り、またわが国の西原稔氏のそれを含めて、多大な先行業績が明らかにしてきたとおり、ピアノの歴史はまた同時に、西洋近代音楽の歴史――18世紀〜19世紀の「クラシック」のみならず20世紀以降の「現代音楽」、更にジャズ、ロックを含めたポピュラー・ミュージックを含めて――そのものである、と言えます。これは何も私自身がピアニストであるという身贔屓、ピアノ帝国主義(だけ)からくる妄言というわけではありません。ピアノは確かに西洋音楽の歴史の中で新参者であり、その豊かな広がりのすべてをそれひとつで覆いきれるものでは到底ありませんが、他面、新参者であるがゆえに西洋音楽における「近代」を体現してもいます。
 何よりもピアノは産業革命の産物です。厳密に言えばその誕生は18世紀初め、クリストフォリのアルピ・チェンバロにさかのぼるとはいえ、今日われわれが考える意味でのピアノ、すなわちピアノフォルテの確立と急速な発展は産業革命とともに開始されたのであり、その技術的な発展は楽曲、作曲思想や演奏技法そのものの発展と不可分に結びついていたことは、本連載中でもベートーベンやリストに触れつつ、つとに強調してきたとおりです。
 またピアノは、近代市民社会の発展とともにありました。それまでのほとんどの楽器と同じく動力源こそ人力ですが、それでもピアノは他の多くの楽器とは異なり、道具というよりも機械です。機械としての楽器というなら、オルガンも既にそうであったかもしれません。しかし仮にオルガンの基本型、あるいは理想像をパイプオルガンに求めるのであれば、その典型的な居場所は教会でありまた宮廷(宮廷礼拝堂)であり、ハーバーマス流にいえば「代表的具現」「具現的公共性」の楽器です。それに対してピアノの場所は、音楽家の仕事場、コンサートホール、そして市民の一般家庭にまで広がります。つまりそれは音楽家(作曲家、演奏家)にとっては固定資本設備であり、一般市民にとっては耐久消費財でした。それは教養ある市民の私有財産であることをその基本形としていたのであり、その意味で「市民的公共性」の楽器でした。あるいは「ピアノこそは資本主義の楽器である。」そう言っても間違いではありません。

 だが私はそれ以上の意味において「ピアノこそは(ハーバーマスが言った意味での)市民的公共性の楽器である。」と言いたいと思います。すなわち、19世紀末〜20世紀初めの彼の言う「公共性の構造転換」前、大衆社会の到来以前の「古典的近代」の理念、実際にはまだ「画に描いた餅」以上のものではなく、実現する前に「構造転換」によって押し流されてしまった「未完のプロジェクト」としての「近代」を体現するものとして、ピアノを位置付けたいからです。

 ピアノは既に見ました通り、近代市民社会の、近代資本主義の楽器です。しかしながら近代市民社会が、実際には平等な市民たちからなる社会ではなく、エリート、支配階級たる資本家と無産階級たる労働者とに分かたれた格差社会でした。また資本家企業の典型も、その初期においては家族・親族のネットワークに支えられ、旧支配層たる貴族の信用をも受けており、その確立期においては株式会社であり、「自由な個人の経済活動」などはたぶんに神話に近いものがありました。「構造転換」以後のみならずそれ以前から、つまりはそもそもの初めから、近代資本主義、近代市民社会の主役は「自由な個人」であるよりは「(家なり組織なりの)団体」であったのかもしれません。
 そのように見たとき、近代市民社会に相応しい音楽のモデルとなるのは、交響曲でありオーケストラである、ということになります。むろんそのような観点から音楽史を通覧することも十分に可能です。多種多様な楽器がそれぞれのパートを受け持ち(分業し)、一人の指揮者のリーダーシップのもとに複雑な楽曲を奏でる、というそのありようは良くも悪くも資本主義を(そしてある程度は社会主義計画経済をも)体現しています。
 しかしながらその一方で、その集団演奏の対象たる交響曲をはじめとする楽曲の作曲者の方は、相変わらず、というよりむしろ、この市民革命を経た世界においてこそなお一層、独立独歩の個人、それも宮廷やその他パトロンに雇われた職人ではなく、市民として自立した芸術家たる音楽家であるのが当然と見なされ続けました。そしてこの19世紀において、そうした作曲者たちはほぼ例外なく同時に自らピアノ奏者であり、ピアノは彼らにとって作曲のまたとない道具であると同時に、人前で演奏するための楽器でもあったのです。
 そのように特権的な楽器として、この時代の新しいピアノが成立したのには無論理由があります。それはもちろんその性能、旋律と和音を同時に奏でるのみならず、チェンバロの弱点を超えて、音の強弱や響き方も、タッチやぺダリングによって演奏中に自在に調整できる万能楽器、野平一郎氏が万能編曲者たるリストを評しつつ言ったように「19世紀のシンセサイザー」でした。しかしながらピアノがこの時代において、ほとんど音楽そのものを象徴するアイコンとなりえた理由は、そうした実際的な機能面においてだけのことではありません。より重要なポイントは、ピアノはそのように万能であるにもかかわらず、他の楽器同様、たった一人の奏者しか必要とはしなかった、ということです。
 ピアノは最初の本格的な資本主義的機械であった(固定資本財でありかつ耐久消費財でもあった)と同時に、しかし産業革命の主役となった動力機械とは異なり、あくまで人力で動くもの、そしてそれ以上に、原則的にはたった一人の操作者=奏者によって操作される=弾かれるものでした。それは近代資本主義的機械でありながら、同時に、古典的な道具と同様、あくまでも一人の人間によって操作されるものでした。マルクスが『資本論』で描いたような、あるいはチャップリンの『モダン・タイムス』風な、人間を圧伏して自らの論理の下に服従せしめるのではなく、あくまでも人間の支配下に置かれ、人間の身体の延長として、その能力を拡張せしめる機械としてイメージすることが、可能だったのです。
 イメージとしては20世紀の自家用車、あるいは初期の木と布でできた単発機や複葉機(「レッド・バロン」リヒトホーフェン、あるいはリンドバーグやサン=テグジュペリ、そしてお好みなら『紅の豚』のポルコ=ロッソといった神話化された空の英雄たちのそれ)に比定することができるでしょう。実態よりも神話的なイメージを重視するなら、フィクションの世界では、それこそ日本のロボットアニメにおける、乗り物としての巨大ロボットのことを想起していただいても構いません。そのように、あくまでも個人が操る、個人のための楽器として、にもかかわらず他のほとんどの楽器とは異なり、個人よりも大きく重く力強い存在としてピアノは確立したのです。(むろんここでもオルガン、ことにパイプオルガンは例外をなします。市民社会の楽器たるピアノの時代到来以降、教会の楽器、そして国家の楽器たるパイプオルガンの神話性と宗教性、そして政治性はいっそ強化されたとさえ言えそうですが、ここでは深入りできません。)

 上に示しましたような、特権的な楽器としてのピアノのアウラは、ハーバーマスの言う「公共性の構造転換」以降も薄れてはいません。
 皆さんもご承知の通り、20世紀以降、西洋芸術音楽は、明らかに変容を迎えます。大衆娯楽としてのポピュラー・ミュージックと芸術音楽の分断、更に芸術音楽の世界においても、ある程度広い聴衆を得られる、コンサート・レパートリーとして定着する楽曲は、バロックから20世紀初頭までのいわゆる「クラシック」、前期近代のそれに限定され、同時代の作曲者たちのつくる芸術音楽は、「現代音楽」という奇妙な箱に閉じ込められて、悪い意味でアカデミズム化する。しかしそうした巨大な変動の中、音楽それ自体の同一性さえが解体していった中でも、ピアノの「特権性」ともいうべきものは、その断片化したそれぞれの音楽ディシプリンの中で、それぞれの仕方でしかしはっきりと維持されているように見えます。もちろん細かいことを言えば、ジャズにおいてはどちらかといえば管楽器が、またロックやフォークにおいては弦楽器(ギター、エレキギター)がそれぞれヘゲモニーを握っており、ピアノはいずれにしてもどちらかといえばバイプレーヤーの位置に置かれがちですが、それでも我々は多くの優れたソリストを、ジャズにおいてもまたフォーク、ロックにおいても容易に見つけだすことができます。
 しかしながらそうした神話的なアウラも、20世紀末ともなると、いよいよ薄れつつあるように思われます。何よりこの20世紀末から21世紀初めという我々の現在は、音楽ビジネスシーンを支配し、大衆とともにある、良くも悪くも「現在」、同時代の音楽であったはずのジャズやロック、フォークといったスタンダードなポピュラー・ミュージックにおいても、急速な「クラシック」化が進行しつつあることでも極めて興味深い時代です。作曲者と演奏者がしばしば同一であり、楽曲と演奏がともに個性の表出であるというそのスタイルにおいては、「クラシック」の演奏者よりもむしろ「クラシック」の時代の音楽家たちに近い存在であったはずのポピュラー・ミュージックにおいても、演奏者たちの興味が急激にスタンダードな「古典」の再演へと引き寄せられ、あるいはノイズやサンプリングという形で、旧来的な意味での「作家性」や「個性」への関心は明らかに変質解体しつつあります。
 「クラシック」演奏も、そして「現代音楽」もまた、そのような時代の空気とは無縁ではいられません。

 「ピアノの変容」というときに私が意識しているのは、まず、少なくとも古典的なピアノという機械は、技術的には完成の極に達し、世界的にも画一化している、ということです。――どこのコンサートホールに行っても、スタインウェイかベーゼンドルファーのどちらかがありますし、数少ない後発メーカーも、果たして既存の路線の上でのより一層の洗練を目指すにとどまるのか、あるいはまったくの新たな地平を切り開くことを目指すのか、といえば、なかなか難しいところがあると思います。
 そしてまた、優れた先達たる野平氏も指摘していますように、同時代の(いわゆる「現代音楽」の)作曲家たちもまた、かつてに比べるとピアノへの関心を薄めているように見える――新しい地平を切り開くにふさわしい楽器として、ピアノが遇されなくなってきつつある、という傾向もまた、無視できるものではありません。
 しかしながらそれ以上に私にとって気になるのは、良かれ悪しかれ、「個人の身体の延長」としてのピアノ、という展望に、ある種の限界が来つつあるのではないか、ということです。

 ピアノはあくまでも個人が支配する機械である、と先に述べました。しかしながら本当にピアノは、あくまでも人間に、個人に従属する、忠実なしもべにとどまっているのでしょうか? ピアノが『モダン・タイムス』の工場のように、演奏者を逆に支配している、などということはあり得ないのでしょうか? 
 少しでもピアノを正式に習った覚えのある方でしたら、わたしの言いたいことはお分かりと思います。どのような楽器でも程度の差はあれそうですが、しかしピアノという楽器はとりわけ、それを「道具」として意のままに使いこなすためには、尋常ならざる修練を長期間にわたって繰り返し積むことが必要です。それは言うまでもなく一種の身体改造であり、ピアノを人間の身体の延長とするというよりは、むしろ人間の方を演奏者という名の、ピアノというより大きな機械の部品へと成形していく過程である、とさえ言えるでしょう。プロフェッショナルのピアニストは、プロフェッショナルのアスリート同様、いずれもある種のサイボーグであり、その代償を大なり小なり、その身体に刻み込まれています。有名な、シューマンの指の損傷のエピソードには、今日疑問符が付きつけられていますが、そうした伝説が生まれるに足るだけの歴史的真実があったことは疑いをいれません。障害、とは言わないまでも、常人とは異なる特殊な身体の使い方、特殊な感覚のシステムを、訓練によって刻み込まれているのです。
 そのように考えると、人間がピアノの主人、ピアノが個人の下僕、というイメージは修正せねばならないかもしれません。百歩譲っても、ピアノをそのような「道具」として使いこなせる人間は、特殊な訓練を受けた、つまりは膨大な資本が投じられたエリートなのであり、例外的な存在にすぎません。あるいは逆に見ればピアノという技術の方が、一部の人間を自らに相応しく作り変え、間接的に従属させているのだ、というべきなのかもしれません。
 「ピアノの方が人間を支配している」とは言っても、もちろんそれは文字通りの意味ではなく、それこそ「人間を含め生物は遺伝子の乗り物である」というドーキンズのフレーズと同様、比喩にしかすぎません。しかしどういう種類の比喩かが問題です。ドーキンスはまさしくこの比喩を、敢えて真面目に受け取ることによって、生命という現象、進化というプロセスの本質について、極めて啓発的なヴィジョンを我々に提供してくれました。その意味で私も、この比喩を真面目に受け取ってみましょう。

 19世紀はピアノに限らず弦楽器や声楽などを含めて、超人、ヴィルトゥオーソの神話の成立の時代であったわけですが、既にその時代において、人間の限界を超えた音楽、人間には演奏不可能な音楽への夢が胚胎し、形をとっていたことは本連載でもたとえばアルカンに言及したときに論じました。そして、録音技術の普及とともに「時代のあだ花」として一時は消滅しかかった自動ピアノをはじめとする「自動演奏機械」に、ヒンデミットなど少なからぬ作曲家たちが興味を示し、そのための楽曲をものしていたこともまた、既に触れたとおりです。
 これに加えて私たちは、今日の急速なAI(人工知能)の発展のことも考慮に入れねばなりません。いわゆる機械学習技術の急速な発展の下で、与えられたプログラムとしての楽曲を自動的に演奏するのみならず、与えられた主題や曲想のデータベースを基に、自ら新しい楽曲を、誰にも指示されずに出力する「自動作曲機械」の誕生に、今まさに私たちは立ち合っています。
 ドーキンス風に――それこそ彼の「ミーム」論風に考えれば、わたしたちの音楽は、とりわけ統一的な記譜システムとともに作曲と演奏が明確に分離して以降の音楽ではなおさら、少なくとも演奏ではなく作曲の水準に注目すれば、様々なミームの集積として捉えることが容易にできます。様々な音、様々な主題、様々なモチーフが「ミーム」として漂い、それらのミームのより複雑な組み合わせとして、具体的な楽曲が出来上がる、という風にイメージすることは容易です。しかし遺伝子(ジーン)の世界とは異なり、ミームの組み合わせは全くランダムになされるのではなく、人間=作曲者の創意工夫がそこに介在します。とはいえ人間の創造力は決して万能ではなく、楽曲の創作はあくまでも既存の材料の新たな組み合わせの域を超えることは(絶無ではないにせよ)めったになく、またその成功も最初から約束されているのではなく、実際に演奏され、それがどの程度受け入れられるかを通じて、事後的に判定されるしかありません。
 古典的な音楽――西洋芸術音楽や現代のポピュラー・ミュージックだけではなく、今日までのほとんどの音楽――の世界では、言うまでもなく、実際に音楽ミームを組み合わせる=作曲する主体も、またその曲を実際に演奏する主体もまた、生身の人間でした。とは言え演奏の実際において、人々は自らの身体能力を直接に鍛えるにとどまらず、能力を部分的に拡張する様々な手段――楽器を開発していきましたし、作曲においても、場当たりの直観にとどまらず、理論的な体系――楽理を編み出し、それに則って楽曲を作っていきました。しかしながら、技術としての楽器の発展、理論としての楽理の発展が、具体的なハードウェアとしての生身の人間の扱いうる限界に到達したら、どうなるでしょうか? 
 今日の状況がまさにそれにあたる、とは言いません。しかし我々音楽家は、そのような未来をも展望したうえで、それへの準備をしておく必要があるのではないか。私はそう考えます。
 では、もう少し具体的にお話ししていきましょう――」

と、そこまで夢中になって読み進めたとき、
「こーらー。」
後ろから急にのしかかってきたのは、もちろんかずさである。よろけそうになって春希は、
「お、おおおい、ちょっとちょっと……!」
とあわてたが、意に介さずかずさは、春希におぶさる形で首っ玉にかじりつき、肩ごしにモニタをのぞきこみながら、頬にキスしてきた。
「お前ずいぶん集中してたんだな、あたしが起きたのに全然気が付かなかったのか?」
「あ、ああ、全然……わ、悪い――。」
と謝る春希に、しかしかずさはいっこう頓着せず、軽くわらった。
「フン! ――なーにも謝るようなことないって。……しかし、ま、橋本さんもずいぶん、思い切ったこと書くな……。」
 少し眉根をひそめたかずさに、思わず春希は聞き返した。
「思い切ってる――のか? 演奏家として、何かまずいことでも、書いてるのか?」
 春希の言葉に、かずさはまた笑った。
「いや、別に、そういう意味じゃ、どうってことないさ。音楽学者として見れば、まあ変わってる――かもしれないが、それでも変なこと言ってるわけじゃないし、演奏家や作曲家でも、ここまで理屈っぽくて筆が立つ人は、そんなに多くはないけど、いないわけじゃない。ただ――」
「ただ、なんだ?」
「あたしの印象じゃ、それでも、あくまでも橋本さんは演奏家で、学者として、物書きとしては、どちらかというと控えめ、抑制的で、そんな自分をさらけ出すことはなかったと思うんだ。いやそもそも演奏家としても、さらけ出すような自分、ってもの自体、否定してかかってたという感じがするし。――でも、ここでは……。」
「「さらけ出すような自分なんてものはない」という自分の考えを、はっきりさらけ出してる?」
「――そんなとこかな。」
 春希の反問にかずさはそう答え、それからつと春希から離れて、バスローブを羽織ってベッドに腰掛けて春希を見つめ、
「――よかったな、春希。橋本さん、この仕事、本気でやってくれてたんだ。」
といってにっこりと笑った。

===
参考文献
西原稔『ピアノの誕生【増補版】』青弓社
野平一郎『作曲家から見たピアノ進化論』音楽之友社





作者から転載依頼
Reproduce from http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&ca...
http://www.mai-net.net/

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最後、音楽に於ける2045年問題?に、話が飛んでるように感じます。
 って、之、書ける作者さんに、脱帽。

0
Posted by のむら。 2016年06月16日(木) 22:53:29 返信

更新お疲れ様です。
前回とは180度違う話ですね、個人的には内容は半分も理解出来ていないというのが正直な所です。
でも今回の話の方が良かったですね。かずさもいつかこんな本を出すのでしょうか?でも書くのは春希かな?
次回も楽しみにしています。

0
Posted by tune 2015年06月29日(月) 22:43:04 返信

友近のファミリービジネス論を書いたりはしません。多分。

0
Posted by 作者 2015年06月29日(月) 19:12:42 返信

前回とは反対方向に暴走しました。
橋本健二の学位論文はもっと堅い、ピアノ技術の発展とベートーヴェンやリストらの楽曲との関係についての、音楽学だけではなく技術史の知見をと取り入れた、もっと地味な論文です。たぶん。
これは一般向けの歴史書の、最後に付け足したほら話です。

0
Posted by 作者 2015年06月29日(月) 19:11:24 返信

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