心地いい日差しが部屋に差し込む。時刻はちょうど正午前で、冬だからこそ感じられる日差しの有難味。差し込む陽光が部屋の中を照らし出す。整えられた調度品。見るだけで高級感が溢れている部屋、であるのだがベッドは部屋の調度品と比して簡素でベッドの周辺には無粋な音を奏でる電子機器が鎮座している。
 そのベッドの上には一時の母とは思えぬ美貌と若さ、目を奪われる泣き黒子といった特徴的な女性が陣取っている。その簡素なベッドには不釣り合いな程に未だ活力に満ちている女性だった。

 陽光差し込む時間を慈しむかのように慈母の如き表情を浮かべている女性だけがいる空間。その世界と外を隔てる扉に突然、来客を告げる音が鳴り響く。

「母さん。おはよう。見舞いにきたよ」
「おはようって、もうお昼時でしょ。まさか、今起きたとか言わないでしょうね?」
「さすがにそんな生活送ってないよ。まぁ、少し寝坊したのは確かだけど、この後もちゃんと練習に行くよ」
「それならいいんだけどね。で、その手にあるのは」
「お土産だよ。気の利いてない、ね」

 曜子の指摘にあるようにかずさの手にはいくつかの林檎。瑞々しく、スーパーで売っている様な妙なテカリはない。完全無農薬の完熟林檎。市販品にはない甘みが特徴の小木曽家から頂いたモノだ。

「ほんと、気の利いてない娘だこと。フルーツよりも他にあるでしょ。プリンとかケーキとか。色々」
「だからだよ。知ってるぞ、甘い物全般的に控えるように言われてるんだろ。フルーツがOKなのもきちんと聞いてるから」
「貴方に漏らした気はないんだけど」
「春希に聞いた」
「そう。彼に話したのは失敗だったか」
「話したんじゃなくて、聞きだされたんだろ。それぐらい分かるよ」
「あの相手を気遣った強引さってある意味で罪よね」

 二人して誰よりも他人を思いながらずかずかと踏み込んでくる愛しい馬鹿を乏しめる。そこに嫌悪はなく、揺るぎ無い信頼だけがあった。

「それじゃ、剥くからちょっと待っててって、母さん。何でナイフ奪ってるんだよ」
「貴方ねぇ。ピアノ以外は何も出来ないのに刃物を持とうとなんてしなくていいのよ」

 気合集中で林檎に向かって逆手にナイフを握っているかずさの姿を見て慌ててナイフを奪い取る曜子。懸命な判断だ。どうすれば逆手に握ったナイフで林檎の皮をむくというのか。
 呆れた顔でナイフを奪い取る曜子。ただ、内心はめちゃくちゃ喜んでいたりする。普段は決してしない刃物を扱う行為。それを自分の為にしてくれる。そんな事はかずさを産んでから初めての経験で。だから嬉しくて、同時に刃物もろくに扱えない娘の不甲斐無さを嘆いていた。
 ナイフを奪われたかずさは心なしか頬を膨らませて、憤慨を表している。その姿が見た目に反して幼くて、曜子は娘に対する愛しさを更に募らせていた。

「なんだよ。せっかくやろうとしたのに」
「出来もしないのにやらないの。かずさの指はかけがえのない物なんだから」
「母親の、うん、母さんの看病も出来ない指ならいらないよ」
「全く、困った娘だ事」

 ころころと呆れている口調なのに、満面の笑みを浮かべていては説得力もないというのに、曜子は笑みを抑えられなかった。
 可愛い娘が自分の為に頑張ろうとしたのならば、親としてこちらも威厳を見せねばなるまいと奮起をして、ナイフを構える。そして、そのままナイフを林檎へと向け、さっくりと芯まで刃が入った。

「……………………」
「てへっ、ちょっと失敗しちゃった♪」
「母さん、アタシがやった方が」
「何よ、今まで一度も包丁も握った事がない癖に」
「握ったことぐらいあるよ!」
「何度ぐらい?」
「二回ぐらい?」
「…………はぁ、本当に情けないわね」
「そういう母さんこそ、何回ぐらいだよ」
「私は貴方と違って何度も触ってるわよ。そうねぇ、二十回ぐらい?」
「……………………なぁ、それって」
「食べる分ぐらいはきちんと剥くわよ」

 それから十数分の格闘の末、見事に芯だけになった林檎がテーブルの上に転がっていた。それより更に数分、結局あきらめて皮と二人が称する身を食べる事となった。

「甘くないわね」
「あっ、それは私も思った。でも、雪菜も春希も十分甘いって言うんだよ。食べてると練乳欲しくなるな」
「そうね。はちみつでもいいけど」

 二人揃って甘くない甘くないという林檎ではあるが糖度17という平均的な林檎と比べて格段と甘い一級品である。だが、この二人にはそれでも甘さが足りないようだ。超甘党にして、甘味だけで生きていけるんじゃないかと周囲から邪推されている親子だけあって味覚は狂っていた。

「うん? ていう事はこれ雪菜さんからの贈り物?」
「に、なるな。昨日、帰りに渡されてさ。まぁ、ありがいと言えばありがたいからいいけど」
「そう、ってあの二人結婚間近じゃなかった? いいの家に押しかけたりして」
「押しかけてるというよりも、押しかけさせられてるというか」

 言葉を濁すかずさにあぁ、と微妙に曜子は納得した。

「お世話になってる訳ね」
「あいつら、ひどいんだぞ。ちゃんと三食食べてるのに外食は少なめにとか、デザートも食べすぎないようにとか注意して、でその日にきちんと確認を取りやがるんだ。野菜大目に取れとか、当分摂取過多とか、バランスを考えろとか。それが十回を超えた当たりから雪菜が家に来て料理するとか言い出してさ。さすがにそこまでさせるわけにはいかないだろ? だから断ったんだけど、どういう解釈をしたんだか春希の家で三人そろって食べればいいじゃないってなったんだよ。なんでこうなったんだ」

 ぶちぶちと文句を口にしているかずさだが、言葉ほど不満がないのか目じりが下がっている。
 一年前のあの日にこれからも三人でいる事を約束したが、実質は二人の付属として一人がいるだけで、何時蔑ろにされるか分からない状況だった。結婚の約束もしたのに、それでも三人でいようとしてくれる二人に対してかずさの感謝は、尽きない。

「それで、お世話になってる訳だ。週に何日ぐらいお世話になってるの?」
「三日ぐらい?」
「本当の所を言いなさい」
「…………………………………………多い時は五日」
「本当に、この娘は」

 先に外食に行ったとか、外食の内容を誤魔化したりすれば二人の愛の巣に入る必要はないというのに、馬鹿正直というかなんというか。そんな感想を抱きながら曜子はまた溜息をついた。

「まぁ、でもさ。嬉しいよ。なんだかんだ言って雪菜はデザート大目に作ってくれるし、私の奴は甘目だしさ。春希も遅くなったら甘い物買ってくれるし。雪菜よりも多く」

 惚気にも似た言葉に曜子は冷や汗をかいた。正直、今のかずさは北原家に飼われているといっても過言ではない状況だ。しかも、本人にその意識がない所が深刻だ。
 だが、正直そうなっちゃった方がいいんじゃないかとも思えるのが不思議だ。あの二人ならばかずさを最大限に甘やかしつつ大切にしてくれることがまぶたに浮かぶ。

「かずさ、いっその事、北原さん家で飼われちゃえば? ご飯の心配いらないし、色々と面倒見て暮れるし。ご主人様に際限なく甘えられるし」
「春希には雪菜がいるだろ、雪菜が」
「あら、ご飯を用意してくれるのは雪菜さんなんだから、飼い主は春希君よりも雪菜さんじゃないの?」
「……………………ぷい」

 むくれた顔が、その風貌に反して可愛らしいと思える。だが、同時に今の言葉に酷く心配になった。

「ねぇ、かずさ。さっきはそういったけど無理、しなくていいからね」
「何がだよ」
「貴女が一年程度で忘れられるはずがないなんて事は分かってるから」

 あれから一年。かずさが異性としての春希を求める事を諦めてから一年が過ぎた。それ以来、講演も幾度か開いていて、パーティにも出かけている。だが、そこでもかずさは言い寄る男共を袖にしている。酷い時は蹴り上げて。未だに肌に触れる事を許す異性は春希しかいない事を曜子は知っている。
 触れ合う事も、見つめ合う事もできずに五年間も想いを募らせてきたかずさが、諦めたとはいえ、胸の内にある慕情が易々と消えるとは思っていない。

 何よりも諦める事と思慕が消える事は必ずしも同率ではないのだから。

「講演でのピアノを聞いても分かるもの。貴方は諦めて尚、想いを寄せているって」
「母さん」
「距離を置くのも一つの手段だし、なんならまた日本から出てもいい。ついて行ってあげるから」

 何時にない優しい口調で曜子は無茶を口にする。白血病に犯された身としては無茶でしかないが、たった一人の愛娘の為を思えば、最後の願いは諦められる。猶予はまだあるのだから余計に、かずさが国外を望むのならその通りにしてもいいと思う。
 想像してみるといい。愛した相手が、大好きな親友と共に幸せな家庭を築こうとしているのを真横で見ている。時によって家に呼ばれてその親密さを見せつけられる。普通ならばその光景に嫌悪を覚えるか、憎悪を滾らせる。ずっと直視しているなんて誰だって耐えきれない。曜子とて、もし、もしかずさの立場であれば恥も外聞も関係なく逃避を選択する。
 春希が愛情を雪菜に囁く度に、選択が違えば自分であったはずなのにと嫉みが生まれ、雪菜が幸福そうな笑みを浮かべる度に妬みに変じてもおかしくはない。

 幸福な家庭を見る度に心が千々に乱れてもおかしくはないのに。

「いかないよ。日本にいる。母さんの最後の願いなんだ。叶えてあげたいよ。私は親不孝者になんかなりたくないから」
「…………かずさ…………」

 今でも覚えている。一年前のあの最高のステージの直前に言われた、産んでくれてありがとう、という親として最高の言葉を貰ったあの日の事を。
 掛け値なしに嬉しい言葉だ。だが、それを理由に苦しんでほしくはない。

「雪菜で良かったよ。きっと私を春希が選んでたら全部を奪ってた。春希の周りにいる人達も、日本という居場所すらも、さ。アイツをアイツのままで幸せに出来る雪菜が相手で良かった。これはどうしようもない本音だよ。私の最高の友達が、私が一番愛した男を幸せにするんだ。苦しくはある。泣きたくなる日がない訳じゃない。けれど、けれど、さ。やっぱり嬉しいんだよ」
「かずさ…………でも、次の恋は始められそうにないんでしょ」
「ごめんだね。何より春希以外に私を求めてくれるような男なんか絶対にいない。何度無視しても、何度罵倒しても諦めずに私を求めてくれる男なんて春希以外にいないさ」

 諦めとは違う、苦みを知りながらも尚慕情を募らせる女の表情。こんなにも思っているのに報われない想いなど、苦しくて仕方がないはずなのに、かずさは朗々と語る。

「それに、さ。春希は雪菜を選んだけど、私が嫌いになったわけじゃない。今でも、うん、今でも私の事を好きでいてくれている。この前のパーティで男に腰触られたっていったらすっごいムスっとした表情してたんだよ。あの時は嬉しかったなぁ」
「あの、ねぇ」
「母さん。春希は雪菜を選んだけど私も同時に思っていてくれる。雪菜を裏切って体の関係を持つことなんて絶対に出来ないけど、傍にいられる。幸せだよ。私は愛して愛されている男の傍にいられて、大切で大好きな親友の傍にいられて。この一年で実感してるよ、何度も」
「かずさ」
「私が愛した男は親友のになったけどさ。いいんだよ、それでも。愛は必ずしも勝たなくていい。愛していて愛してくれる男と、何よりも大事で、誰よりも大好きな親友が幸せになる光景を傍で見ているだけでいいさ。私はその幸せを噛み締めて、生きていくよ。だから、ありがとう。あの二人と出会わせてくれて」

 微笑みを浮かべたまま凛然とかずさは胸の内を言葉にする。
この一年で何度も歯を噛み締めただろうか。何度もがき苦しんだだろうか。何度涙を流したのだろうか。それは曜子も分からない。だが、そうなっていた事は確かだ。
 それでも、かずさは慈母の様に笑みを浮かべながら宣言する。幸せの中でずっと生きていけると。

「参ったな」
「どうしたんだ?」
「なんでないわよ――――――――――――――――――――――――何度も親をうれし泣きさせるんじゃないわよ、このバカ娘」

 娘の意外な成長に、娘の愛の深さに、娘を愛してくれる二人の人達に、完敗していた。
 一年前までは幼子と変わらない恋愛観だったのに、何時の間にか曜子では到底追いつけない境地にたどり着いている。もう少し手のかかる娘だと思っていたのに。少し寂しくて、嬉しくて。
 そして、ピアニストとしての成長ぶりに完敗した。
 傷を受けながらも尚も深い愛情。周囲の人を祝福できる心の内の大きさと尽きぬ事のない優しい心。感情を迸らせて演じるかずさの演奏がどれ程凄い事になるのか想像すら出来ない。ただ、想像できるのは春希と雪菜のいる公演ではきっと一年前を上回る音が奏でられる事ぐらい。


 ただ、一つだけ不安があった。
 もしも、もしもの話で。春希が酷い泥酔をして、理性が焼き切れた状態でかずさに迫ったとしたら娘は拒めるのだろうか。そこに春希の愛がなくても、体だけ求めらてもかずさは拒めるのだろうか。
 無理だろうと思う。喜んで差し出してしまうだろう。かずさは決して強い人間ではないから。

 その時は三人でいる事は難しいだろう。六年前の悲劇がまた繰り返されるのか、曜子は気が気ではなかった。

「考えても仕方ないか」
「何がだよ」

 会話が通じない事に不満があるのか童女のように頬を膨らませるかずさにぷっと噴出して、何でもないと手をヒラヒラと振る。
 
 その時はその時だ。そうなったら老い先短い身ではあるが、体を張ればいいだけだ。
何より何度も傷つけ合いながらも修復してきたあの三人の絆が簡単には崩れない事を信じている。また傷つけ合い、涙を流し、苦しみのた打ち回っても、もう一度、きっと絆を取り戻せると、信じている。

「冬が、来るわね」
「ん、あぁ。White Albumの季節だな」
「えぇ」

 空模様も風も冬支度を済んでいる。されど、White Albumはもはや開かれない。刻むべき悲哀も、悲嘆も、慟哭もないから。

 唯々、当たり前の冬が、訪れるだけ。

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