一杯だけのワインとともに、軽くよもやま話を交えながら、その夜もヒアリングは1時間だけで切り上げて、「おやすみなさい」の挨拶とともに春希は曜子の部屋を後にした。そして夫婦の寝室に「ただいま」の声とともに戻ってみると、そこにはかずさの気配がない。
「――? かずさ?」
 音こそしないが、寝室付のシャワールームかも、と念のために明かりをつけてのぞいてみたが、誰もいない。ウォークインクローゼットの中をあらためても、いない。
「――かずさ……どこだ?」
 いぶかしんでベッドサイドのナイトテーブルを見ると、紙片の上に乱暴な筆跡で「スタジオにいる」とだけ残されていた。
 ――やれやれ、と頭を振って、春希は寝室を出た。

 途中キッチンによって、ワインの残りの入ったボトルと、グラスを二つ持って、春希は地下のスタジオに下りて行った。親子の帰国後、何回かにわたって改造が施され、防音壁や録音機材含めて、以前にもまして個人所有のものとしては破格の設備となった冬馬邸のスタジオ――音源のいくつかは実際、ここで収録されている――のブースの中、かずさがひとりスタインウェイの前で憮然としていた。ブースのドアに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。
「よう――練習か?」
と声をかけると、かずさは
「――遅いぞ。」
と拗ねたように言った。

「寝室で、本でも読んでるか、なんか聞いとけ、って言ったじゃないか。」
「――ネタが尽きた……言ってるだろう? ノッてるときのあたしは、一度聞いたもの、一度読んだものは、しばらくずーっと頭の中に置いとけるんだ。今うちには新しい音源もないし、読みたい本もない。子どもたちの手前、ゲームもしたくない。――となれば暇つぶしなんて、結局これしかないだろう?」
 ――やれやれ、相変わらず、ろくでもない天才だな。
「とか言って、今来たときには、ただ座り込んでぶすっとしてるだけで、ろくに弾いちゃいなかったようだが?」
とからかいつつ、春希はグラスにワインを充たして、かずさに手渡した。
「――ひと休み、してただけだ。」
 グラスを受け取ってひと口飲んでから、かずさは愚痴った。
「――せっかく、おまえが早く帰ってきて、みんなでご飯食べる日だって、こうだもんな……休みの日にも、おまえときたら、一日中掃除と洗濯してるか、子どもたちと出かけるか、それとも原稿書いてるか、だもんな……ちっとはあたしと遊んでくれたって、いいじゃないか……。」
「――すまない。」
「――バカ、そこで謝るな……そこは「おまえもちっとは手伝え」とか逆ギレするところだろ? ――わかってるって……あたし言ってみれば「後添い」だもん。「夫婦水入らず」なんて、無理な話だ……。子どものことも、家のことも、そんなこと全部承知で、おまえのところに嫁入りしたんだもんな……。まあはたから見たら、まるでおまえが婿入りしたみたいにみえるだろうけど。」
と、旧姓・冬馬、現・北原かずさ(ただし芸名は旧姓のまま)はぼやいた。
「――おまえにしちゃ、ずいぶん頑張ってる、ってことくらい、俺にもわかってるよ。感謝してる。何もかも。――ただな、おまえが子どもたちを連れて美術館だの、コンサートに行くときのことなんだがな……もうちょっとこう、甘いおやつを、控えてもらえないかな……。何よりあの子たちの歯が心配で……。」
「――仕方ないだろう! あたしが食べるのを前に、あの子たちにだけ我慢させろっていうのか? そんなひどいこと、できるわけないじゃないか!」
「――つまりそれはだな、おまえも健康のために、いろいろ控えてほしい、ってことなんだが……。」
「くどいぞおまえ。――それとも何か、あたしが肥ってる、とでもいうのか?」
「――いや……それは……。」
「確かめてみるか?」
 急にかずさの表情が艶を帯びた。一息で空けたグラスをピアノの上に置いて、立ち上がり、春希に寄り添う。
「――ここで、か?」
「――一度、声を殺さず、我慢せずに、してみたかったんだ……。ここなら……。」

 その夜かずさは、立ったまま、着衣のままで後ろから貫かれて、こころゆくまで、声を限りに歌った。

 翌日春希は定時で退社した。さすがに上級管理職ともなれば、雑用はすべて部下に押しつけられて、開き直れば気楽なものだった。その開き直りがなかなかできない貧乏性が、自分の性分ではあったが。
 と言ってもすぐには帰宅せず、そのあとは御宿のカフェで杉浦小春と待ち合わせて、軽く会食しつつ打ち合わせを行った。
 案件のひとつは、瀬之内晶=和泉千晶の著作を巡るあれこれの綱引き。既発表の戯曲集の方は鴻出版で出す運びとなった(春希としても、自分がモデルとなった作品の出版を手掛けるのは、やはり面映ゆかった)が、千晶は「「原作料」代わりだよ」と書下ろしの処女小説の開桜社からの出版を口約束した。基本はこのラインで行くことで大体の合意は三者間でとれたが、細かい詰めはまだいろいろと残っていた。小説の方はいつできあがるという保証もないので、春希としてはせめて写真集でも出せないかと千晶を何度となく口説いていたが、なかなか色よい返事はなかった。だとしたら、せめて鴻出版に、小春に出し抜かれる愚だけは避けねばならない……。このあたりの牽制も、今日のテーマだった。
「――まあ、あの方、なかなかガードが固いですからねえ……。その件は、これくらいにしておきましょうよ。」
と小春は、アイリッシュコーヒーのグラスを開けて、春希を見やった。
「ぼちぼち、次の案件に参りましょう。――どんな塩梅です、最近?」
 ここからは、気鋭の編集者対作家見習いの対決である。
「――ずーっと続けているのは、冬馬曜子についての、過去にさかのぼっての資料収集。これについてはご本人と事務所の全面協力が得られるから、資料自体を集めるのはさほど難しいことじゃない。問題は、それをちゃんと読み込むこと。それからさすがに難しいのが、プライバシーにかかわること。――曜子さん自身はあけっぴろげな人だけど、記録が残ってるわけじゃないし、ご本人の記憶と証言が頼りだし。それに、内容だって、何分、相手のあることだし、わかっても書いていいものになるかどうか――俺としても、たとえばかずさの父親の話なんか、聞きたいのか聞きたくないのか、自分でもよくわからない……。」
 春希はとりあえず、飾らずに自分の現状を報告した。
「――それで、モデル小説を書きたいんですか? それとも、ノンフィクション、きちんとした評伝を書きたいんですか?」
「――どちらかというと、後者だ。それで、橋本健二さんの資料も、今から系統的に集めている……まあ、橋本さんはこれからの人だから、当分先のことだけど。」
「――どうして、冬馬曜子さんなんです? かずささんのお母様だから? 家族になったから?」
「――本当は、かずさの話を書きたいんだ。というか、書かなきゃならない、と思っている。それは同時に、俺自身の話にもなるはずだから。だけど、かずさのことを書くためには、どうしても、曜子さんのことも理解しておかなければならない。――そうして、一緒に暮らすようになって、話を聞くともなしに聞いていたら……あの人は優れた芸術家であるだけじゃなくて、何というか、あの人自身の人生が、何とも劇的で、一個の作品のように見えてきて……だけどあの人はただ必死に生きているだけで、自分で自分の人生をそうやってまとめたりはしないだろうから――誰か周りの、他の人間が、記録を取っておかなければ、って……。」
「――かずささんについても、記録は必要だ、って思いますか?」
「――わからない。芸術家としては、まだまだこれからだし。伸びしろはまだあるから、今の時点で「歴史に残る」どうこうを言うべきじゃないし。それに――やっぱり、自分の身内だから、最愛の伴侶だから、どうしても客観視しきれないところはあるし。逆に、フィクションにしないと、うまく書けないかもしれない。――でも、いずれにせよ、かずさが真に偉大なピアニストになるにせよならないにせよ、俺は死ぬまであいつのそばにいて、ちゃんと記録は取る。それを、誰がどう使うかは、別として……。」
(――さらっととんでもないこと言ったわねこの男……。)
 内心の動揺をおくびにも出さず、小春は続けた。
「でも、橋本健二さんについては?」
「――あの人は、すでにかずさより一段高いところにいるんじゃないか、って思う。そんな、偉そうなことを言えるほどの耳は、俺は本当は持っていないけど……、かずさのあの人へのほれ込み具合は半端ないし、それにあの人は、音楽家であると同時に、音楽の歴史学者でもあるから。今年中に、俺の手掛けたあの人の処女作が出るから、読んでください。――あんなに美しいピアノを弾くのに、あんなに突き放した目でピアノという歴史的出来事を見つめ、記述する――俺としては、そういう二つの顔を持った存在に、すごく惹かれてやまない。」
 感嘆とともにそう述懐した春希に、小春は
「――こよなく愛した女性を、なお愛しつつ、その一方で容赦なく冷酷な目で切り刻み、批評的に描き出す……それは、できませんか?」
と切り込んだ。ちょっと意地悪な気持ちだったことは否定できないが、これは聞いておかねばならなかった。
「前の習作二本のことを言ってるんだよね、わかってる。――でもあれは、君も指摘してくれたような甘さが残ってるし、何より和泉――瀬之内晶にもっと上手に料理されちゃったからなあ……。」
「――そうでも、ないですよ。」
 小春は、ポツリと言った。
「――? いや、そんなはずは……。」
「あの人のお芝居は、甘酸っぱすぎます。先輩のもともとの原稿は、もっとドロドロしていて、いやらしい。エッチです。特に、雪菜さんの描写なんか、すごいですよね。――あっ、これ、ほめてるんですよ?」
「……。」
 春希は顔を赤らめて、頭をかいた。
「評伝を書かれることに、反対はしません。冬馬曜子さんの伝記も、また、何十年後になるかはわかりませんが、橋本健二さんの伝記も、いいものができそうな気はします。ただ、そういうノンフィクションには、私の見た限りでの先輩の書き手としての魅力の一つである、エロティックな部分が、あんまり生かされないかなあ、って。」
「――そんなに、エロかった? 俺の書いたもの。」
「――変な風に、エロいです。」
 断言する小春に、春希は
「うーん。」
と唸って黙り込んだ。
「正直言いますとね、先輩が今までに『アンサンブル』なんかに書かれたかずささんの記事、私に言わせれば、あれだけでも十分、エロティックです。他の女についてあんなもの書いて、よく、奥様の雪菜さんが許されたな、と思うくらいです。――そのうえで雪菜さんのことも、あんな風に書いて……あれを雪菜さんが存命中に書かれたら、いったいどんなことに……。」
「――そ、そんなことできるわけがないじゃないか! ってともかく、雪菜が生きていたらそもそも、あんなもの書こうって気にならないよ……。」
「まあ、その辺はいいですよ。――でも、私の見たところ、書き手としての先輩の魅力のひとつは、エッチなところにあります。そこのところは、大事にしていただきたいですね。――別に「ポルノを書け」って言ってるわけじゃ、ないですけど。」
 小春は意地悪く笑った。
「だから、やっぱり、いつかは、かずささんの、そして雪菜さんの話を、きちんと書かなくちゃいけないんですよ。」

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 あれえ案外引っ張るなあ。困ったなあ。





作者から転載依頼
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このページへのコメント

惰性で、この完成度。
すばらしい。

0
Posted by のむら。 2016年11月06日(日) 04:16:34 返信

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