「北原。お前が取るべき道は大きく分けて三つあると、私は思う」
「三つ、ですか?」
 
 カップの中に砂糖をひとさじ分だけ入れてから、麻理が柔らかい口調でそう言った。コーヒーではブラックを好む彼女だが、常に無糖で通している訳ではない。
 気楽に喋りたい時や舌を軽くしたい時など砂糖やミルクを入れる事もある。
 今回が正にそうだ。
 対面に春希を据えての談笑の時間――今二人がいるのは開桜社の程近くにある喫茶店の中だ。
 春希の経過報告を受ける為に相談という体を取っての一席。喋る内容から考えればアルコールを摂取しながら語りたいくらいだったのだが、今が休憩時間中ではそうもいかない。
 夜まで待ってバーや居酒屋に繰りだす案も考えたが、色々タイミングというものもある。終業が遅くなるであろう麻理に合わさせるのは酷だと考えたのだ。
 これが以前なら“北原、今晩ちょっと付き合え”と強引に誘っていたかもしれないが、今の彼には待っている人がいる。
 
「ああ。一つ目は冬馬かずさをウィーンへと送り出す道。三年……いや、二年だったか、この場合お前は、その期間日本で彼女の帰りを待つことになる。二つ目はこのまま二人で日本に残る道。一番無難な選択肢だと思うけれど、冬馬曜子の意向には沿えなくなるな。そして最後は――」
 
 三つ目の選択肢を披露する段に入ってから麻理が一旦言葉を切った。それからトン、と視線でテーブルを叩くように目線を落としてから目の前にあるコーヒーカップへと指を伸ばしていく。
 カチャリと陶器が擦れ合う小さな音がして、彼女はカップの縁に触れる程度に軽く唇をつけた。
 そういう仕草で“間”を取って――
 
「――お前が冬馬かずさと一緒にウィーンへと赴く道だよ」
 
 何故二人がこういった会話を交わすに至ったかといえば、少しだけ時間を遡ることになる。
 
 
 
「お疲れさま、北原。ほら、これは私のおごりだ」
「ありがとうございます、麻理さん」
 
 社内に幾つかある休憩スペース。
 麻理が壁際に設置された自販機の中からカフェオレを選び出しボタンをプッシュする。それから出てきた缶を手に取り、近くに並べられている長椅子に座っていた春希に手渡した。
 
「しかし、こうして二人きりで話すのも久しぶりじゃないか。もしかしてあの“夜”以来か?」
「その後で電話で話しましたよ。ほら、麻理さんから俺に掛けてくれて――」
「面と向かって話すのが、だ。……電話だとなにか味気ない感じがするんだ」
 
 ゆっくりと春希の隣に腰を下ろしながら麻理が首を傾けた。女性らしい柔らかい仕草に合わせ、革張りのクッションが軋む音がする。
 微かに届いてくる良い香りが春希の目線を彷徨わせて――その視線が麻理の手の中にあった栄養ドリンクに注がれた。
 一息入れる為の休憩なのに、何だかそれが“彼女らしい”な、と春希の頬が緩む。
 
「悪かったな、今までかまってやれなくて」
「そんなっ、麻理さんが謝るようなことじゃないですよ」
「なんだ北原? お前、私にかまって欲しくなかったのか?」
「え?」
「私はかまってやりたかったぞ。ただお前の方が私を避けてたみたいだったからな。これでも気を使ったんだ」
「俺が麻理さんを避けるなんて……絶対にないです。確かにこっちにバイトに来る回数が減ったのは事実ですけど、それだって――」
「おいおい、慌てるな北原。今のは……そう、ただの冗談だ」
「あっ……」
 
 麻理の軽口に気づかず、思わず熱くなってしまったことに春希が赤面する。そんな彼の反応が面白かったのか、麻理がクスクスと声を立てて笑い始めた。
 
「やっぱり面白いな、北原は。一緒にいて飽きることがない」
「……これでも俺、一生懸命真面目に生きてるつもりなんですけど……」
「それは私が一番良く知っている。言い方を変えれば魅力があるというべきか」
「魅力なんて、俺、よくつまんない奴だって言われるんですよ?」 
「まあ人によってはそう揶揄する人間もいるだろうが、それはお前のことを良く知らないが故に吐ける言葉だよ。確かに真面目が過ぎてセンスに欠けるところもあるが、そういう人間の方が私は好みだ」
「麻理さん……」 
 
 優秀な人間だが、融通が利かず面白みに欠ける。春希と接した人は少なからずそう彼を断ずるが、深く接すれば接するほどその評価が覆ることが多い。
 麻理もそうした人物の一人だ。
 その彼女だが、当初の予定通り年明け一週間ほどで日本に戻ってきていた。
 しかしその頃の春希はかずさと一緒に住み始めていた時期であり、グッディーズのバイトの忙しさも手伝って、開桜社に顔を出す回数がめっきり減ってしまっていた。
 勿論、二人は担当部署が同じなので出勤すれば顔も合わせるし、土産話や雑談なども交わしている。だが何れの時にも周囲には二人以外の人物がいたのだ。
 部外者――とは些か口が悪いが、曜子のコンサートが大成功したおかげもあって、未だ“冬馬”の名前に内外問わず関心が集まっている。
 故に春希がおいそれとかずさの名前を口にすることは出来なかったし、事情をある程度理解している麻理も追求しようとはしなかった。
 ただ、お互い相手の目端や仕草から経過を気にしていることは伝わっていて、二人きりになった今、そういう話題に進むのは自然な成り行きと言えるだろう。
 
「……で、どうなんだ? 冬馬かずさとは会えたのか? 行ったんだろ、ニューイヤーコンサート」
 
 麻理が一番気になっていた事実を問い質す。
 年明け後に再会した春希を見ればある程度の察しはついてしまうが、それでもやはり直接に聞かないことには落ち着かない。 
 
「はい。大晦日にあいつと再会して……おかげさまで今は一緒に住んでます」
「い、一緒にって、北原の部屋でか?」
「年が明けてからずっと一緒なんです。あいつと俺」
「……ど、同棲」
「はい?」
「いや、何でもない。けれどそうか。うまくいったんだな。良かったじゃないか北原。……本当に、良かった」
 
 春希の報告を受けて、一瞬だけ針で刺したような痛みが麻理の胸の奥に拡がっていった。
 でもかずさのことを話す春希の表情を見て――まるで憑き物が落ちたように幸せそうな彼の表情を受けて、麻理は春希にとって一番幸福な道を選ぶ手助けが出来たことに安堵した。
 
「聞かせてくれるか? お前と冬馬かずさのこと。あの後で何があったのか」
「もちろんです。麻理さんにはずっと聞いて欲しいって思ってましたから」
 
 こうして春希は大晦日から今日に至るまでのことを麻理に話していった。
 
 ――コンサートの直前までかずさに会うか迷っていたこと。
 ――なのに一度再会してしまえば、もう自分の感情を止められなかったこと。
 
 かずさが好きで、愛していて、一緒に居られる今がどんなに幸せなのかを尊敬する恩師に伝えていく。
 そして先日冬馬曜子に“お願い”された件についても正直に話していた。
 
「……全く、どれだけ惚気る気だ北原? 私に相手がいないことを知っていて煽っているのか? 聞いているこっちが恥ずかしくなってくるぞ」
「そんなつもりじゃ……すみません」
「謝るな。今のも、その、冗談なんだ。けれど冬馬曜子の件だけは早急に答えを出す必要があるんじゃないか?」
「そう、ですね」
「何かお前なりの考えはあるのか?」
「それは……」
「個人的な事情に深く突っ込みすぎかなとも思う。お前からしてみれば煩く思うかもしれない。けどどうしても看過できなくてな。……なんでだろう? 気になってしまうんだ」
「……麻理さん」
「お前がこれ以上詮索しないで欲しいというなら大人しく引っ込むよ。でも年長者として何かしらのアドバイスは出来るんじゃないかって……これは自惚れすぎかな?」
「俺、煩くなんて思いません。それどころか誰かに相談したいって思ってて、麻理さんになら……」
 
 言い淀む春希の姿を見て、彼が迷っているのだと麻理は推察する。直前の惚気話を聞かされた身からすれば、彼としても簡単に答えの出せる問題ではないのも理解できた。
 迷っているなら道を示してやりたいと真摯に思う。
 彼が部下だから。麻理が直属の上司だから。
 ――いや、そういう感情を抜きにしても春希の力になってやりたいと麻理は考えていた。
 彼女の言葉を借りれば“気になって”しまうから。
 
「……」
 
 少し考え込んでから、麻理が辺りに視線を走らせる。
 仕事の関係で決まった時間に休憩が取れないことも(例えば今がそう)あるので、辺りに人影はまばらだが、それでも皆無という訳ではない。
 ここが休憩スペースという都合上いつ誰かがこの場にやってくるかもわからない。
 そういうことを考慮して麻理は
 
「北原。少し場所を変えようか」
 
 そう提案して、春希を外に連れ出したのだ。
 
 
 
「今、私が言った三つの選択肢はあくまでお前が冬馬かずさを中心にすると考えた上での話だ。でもそう間違ってはいないんじゃないか?」
「……ですね」 

 曜子から話を聞かされてから彼が悩まなかった日はない。麻理が提案した選択肢は、当然春希も考えたことのある道だった。でも誰かに改めて言葉にされると、袋小路に陥っていた思考が拡がっていくような感覚を覚えることがある。
 相談の妙というべきか。
 同じ答えに至るにしても、誰かの意見というのは助けになるのだ。
 
「けどな、こうして案を披露した私が言うのもなんだが、最後に言った選択肢は個人的には勧められない」
「……俺がかずさとウィーンへ行くって……」
「そうだ。それ以外の道がないという状況であれば一考する価値はあるが、現状では失うものの方が多すぎると私は思う」
 
 手にしていたカップをソーサに戻し、麻理が対面の春希を見据える。
 
「仮にだけど、北原がその道を選んだとしよう。――なら、現在通っている大学はどうするつもりなんだ?」
「それは……かずさと一緒に行くなら辞めることになると思います。曜子さんの追加公演が終わるまでがタイムリミットですから」
「休学するという手もあると思うけど?」
「どれくらいの期間日本を離れることになるのか分かりませんし、少なくとも年単位で離れるのは確実です。もしかしたら当分戻って来ないかもしれません」
 
 かずさとウィーンへ行くということは、全てを彼女に合わせるということになる。
 即ち、ピアニスト冬馬かずさと共に日本を離れるのだ。彼女の活躍次第ではウィーンでの生活が基盤となってしまうだろうことは想像に難くない。
 
「当分は戻ってこれない、か。なら友人とも離れることになるな」
「……仕方ない、ですよね」
「仕事はどうする? つても無しに海外へ行って一から勤め上げるのは中々に厳しいよ。たぶん北原が想像しているよりずっとね」
「最初は苦労するでしょうけど、何とかやっていく自信はあります。何よりかずさが傍にいてくれるなら頑張れますよ、俺」
「まぁ、私も北原なら何とかするんだろうなとは思うよ。でもこのまま日本にいるより苦労するのは確実だ。今まで積み上げてきたものが無為になる……とまでは言わないが、また一から研鑽する必要に迫られるんだぞ」
「……覚悟の上です」
「言葉や習慣、常識だって国が違えば変わってくる。向こうで冬馬曜子オフィスに就職するという手もあるけれど、これは最後に取るべき手段じゃないか?」
「なら、麻理さんはどうすればいいと思いますか? どうするのが最善だって――」
「お前は――北原はこのまま日本に残るべきだ」
「っ!」
「それが二人にとって一番幸せになる道なんじゃないかって、そう感じるんだよ」
 
 麻理にはっきりとそう言われ、春希が息を呑んだ。
 言葉を返そうとしても、結局は押し黙ることしか出来ない。
 
「……っ」 
 
 かずさと一緒にいるにはどうすればいいか。
 彼なりにその道を何度も何度も模索して、思考して、悩み尽くして、それでも答えが出なくて。だけど本当はうっすらとだけど理解はしていた。
 ピアニストとしての彼女を尊重し、そして自分も傍に居られる方法は一つしかないんじゃないかって。
 もしかしたら彼は背中を押して貰いたかったのかもしれない。お前なら大丈夫だよと、ぽんと叩いて欲しかったのかもしれない。
 けれど麻理は春希の背中を押すどころか、彼の手を掴んで引き留めてしまった。
 
「あれから私なりに冬馬かずさのことは調べてみた。CDも買ってみたし、欧州での実績もネットで見たよ。――凄いじゃないか、彼女。向こうで期待されているのも頷ける」
「……」
「冬馬曜子の娘というブランド力だけじゃなく、実力で今の地位を勝ち取ったんだ。相当に努力したんだろうな。ピアニストとして素晴らしい実績だ。それだけに冬馬曜子の言った“今が一番大切な時期”だって言うのも分かるんだ」
「俺だって、分かってますよ。俺なんかがあいつの隣に立つなんておこがましいくらい凄い奴なんだって。でも俺、それでもかずさのことが好きで、一緒に……」
「勘違いするな北原。私はただ彼女がピアニストとして上を目指すならウィーンに行くべきだと言ってるんだ」
「でも……」
 
 歯の根が震えてしまって二の句が継げない。
 やっとの思いで搾り出した声音は震えて掠れてしまっていた。
 だって今麻理が言ったことを総合すれば、春希とかずさは再び離れることになってしまう。
 麻理が言った選択肢の二番目――二人で日本に残るのではなく、春希がかずさを見送るという一つ目の選択肢に繋がってしまうからだ。
 
「離れるのは辛いか、北原?」
「辛い、ですよ。三年離れてて、もう二度と会えないと思ってたけど……再会して、やっと一緒になれたのに……また離れるなんて……」
「気持ちは分かる。けどな――実質一年じゃないか」
「……え?」
「それくらいなら耐えられるんじゃないか?」
 
 麻理の放った言葉の意味が分からないと春希が目をしばたたかせる。
 冬馬曜子はかずさが日本を拠点に活動するには早くても二年はかかると言ったはずだ。
 どう考えても麻理が言った一年という言葉に繋がらない。だが麻理はそんな春希の不安を払拭するように明るい笑顔でこう言った。
 
「――会いに行けばいいじゃないか、ウィーンへ」
「っ!?」 
「今のお前は学生だ。何度も長期休みがあるだろう? なんなら週末を利用してもいい」
「で、でも、もうすぐ俺四年生ですよ? 就職活動とか色々あるし――」
「何を言ってる? お前はここに就職するんだろ? なぁに北原の成績なら問題ない。私が太鼓判を押してやる」
「そんな簡単に――」
「あのな北原。私がなんのために人事と繋がりを持ってると思っているんだ? それにお前には実績がある。大学での成績も優秀。面接をすっぽかすとかしなければ大丈夫だよ」
「……っ」
 
 開桜社への就職。それは春希の元からの願いでもあった。何より麻理の下でもっと学びたい、一緒に働きたいという欲求は日に日に強まっている。
 かずさと再会しなければ、迷わずそうしていただろう。
 
「さすがに就職した後ではそうそう自由は利かないが、電話も出来ればメールも出来る。半年勤めれば有給を使ってもいい」
「……そんな、新人がおいそれと有給なんて使えるんですか?」
「当然の権利だ。私が受理する」
「麻理さん……」
 
 実質一年――かずさがウィーンへ行っても春希が会いにいけばいいと麻理は言っているのだ。
 二度と会わないと誓った三年前の別れと違って、今回は会いにいけるし、連絡も取れる。
 実際には渡航費用の問題などもあるが、かずさに会えるとなれば彼は何とか捻出するだろうし、実際にそういう事情になればかずさが(というより曜子が)負担する確率は高い。
 
 ――ギター君がウィーンまで会いにくる? 別にいいんじゃない。なんならチケットくらいこっちで用意するし。どうせあなたの部屋に泊まるんでしょ、かずさ?
 
 くらい平気で言いそうである。
 
「幸いお前は一人暮らしだ。融通の利く立場じゃないか。こういう時こそ最大限利用するべきだ」
「……かずさが嫌がるかもしれません。俺と離れるのは……嫌だって……」
「そこは北原の努力次第だろう。彼氏なら彼女の説得くらいやってのけるべきだ」
「無茶、言いますね」
「これでもお前の上司だからな。でも出来ないと思ったことは振らないよ。それは北原もよく知ってるだろう?」
「……はい」 

 麻理と話すことによって、凝り固まっていた何かが崩れていくのを春希は感じていた。
 それも悪い気分じゃない。清々しいとまではいかないが、身体が軽くなったような気さえしてくる。
 まだ何も解決してはいないが、文字通り道を示されたような感覚に感謝を覚える。
 
「――私も会ってみたいな」
「え?」
「会ってみたいと言ったんだ。冬馬かずさに。北原から話を通してくれないか? あ、心配しなくてもプライベートでってことで」 

 麻理からの唐突な申し出に春希の思考が混乱する。
 全く想定していなかったからだ。
 だから彼にしては珍しく脊髄反射的に思ったことをそのまま口にしてしまった。
 
「だ、駄目ですよっ!」
「どうしてだ?」
「かずさが麻理さんに会ったら、きっと失礼なことをするに決まってます。だから駄目です」
「……? 冬馬かずさとは初対面のはずだけど、どうしてそう思う?」
「その……俺がかずさと居る時に麻理さんの話ばかりするって怒られて。それであいつ麻理さんに悪感情持ってるんですよ」
「なんだそれ!?」 

 春希のとんでも理論展開に麻理があははと吹き出してしまう。
 
「お前、一体私のことをどんな風に話したんだ?」
「至って普通……のはずです。ただ話しの流れの中で麻理さんの名前が出て、それについてかずさが怒って、俺が麻理さんを庇って、それでまたかずさが怒って――」
「それだけか?」
「……後は、かずさと麻理さんが似てるかもって言いました」 
「いや、それは私でも怒るぞ。どうして素直に謝らない?」
「謝りましたよっ。でもあいつそれ以降、麻理さんの名前に凄く反応するようになって……だから会うと嫌な思いさせるかもって」
 
 一部の人間以外には攻撃的に接してしまうことのあるかずさだ。春希が傍にいれば大丈夫だろうが、万一麻理に失礼があっては申し訳が立たない。
 そんな思いからの拒絶だったのだが、麻理は楽しそうに目を輝かせている。 
 
「北原。それを聞いてますます彼女に興味が沸いてきたぞ」
「麻理さん!?」 
「それになんとなく冬馬かずさとは意気投合できるような気がするんだ」
「それ、本気で言ってます?」
「勿論だ。私と冬馬かずさの二人でお前を責め立ててやるからな。今から楽しみにしておけ。フフ」
「……っ」
 
 かずさと麻理に挟まれて責め立てられる。
 想像するだけでも恐ろしい光景を脳裏に浮かべてしまい、春希はぶるっと身体を震わせた。
 もしかしなくともこの二人を会わせてはいけないんじゃないか。
 そう強く心の中で思い描きながら。
 
 
 
 
『――ごめん、春希。今日はちょっと遅くなるんだ。ああ、母さんに食事に誘われてな。だから夕飯はいらない。……うん、うん。心配するな。帰りはタクシーを拾うから。じゃあ、また後で』
 
 ――ピッ。
 
 携帯の通話を終了してから、かずさがほうっと大きく息を吐いた。その漏らした吐息が靄となって目の前を真っ白に染め上げる。
 その靄はやがて空へと上っていき、夜の闇の中へと同化していった。
 
「雪、降ったりしないかな?」 
 
 夜空を見上げ一人ごちる。
 春希への連絡を終えた彼女にもうやることは残っていない。後はこの場で当初の予定通り待ち人を迎えるだけなのだ。とはいっても待ち合わせをしている訳ではない。
 一方的にかずさが待っているだけである。
 
「……寒っ」
 
 現在彼女が立っているのは住宅街の路上である。
 壁を背にして立っているために風に煽られることはないが、日没後の寒さまで和らげる効果はない。コートを着込んでいても真冬の寒さは堪えるものだ。
 それでも今日ばかりは暖かい部屋へ逃げ帰る訳にはいかない。
 
「……」
 
 彼女の目線の先にあるのは一軒の家屋。かずさはその家の住人を出迎える為に物陰に潜んでいる。
 外出先から戻ってくるのか。それとも家の中から出てくるのか。
 それはわからない。
 非効率極まりない方法だが、今のかずさには他に方法が思いつかなかったのだ。
 まるで刑事の張り込みのようだが、こうまでして待っているのは冬馬曜子ではない。
 
「ごめんな、春希。でもどうしても会っておきたいんだ」
 
 彼女と会ってどうするかなんて決めていない。それでも会って、話をしたかった。
 かずさは襟を正し、目線をその家の表札へと持っていく。そこには“小木曽”という名前が刻まれていた。
 
 

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