(承前)

「かずさ。」
 明日からまた定例の、そして今年最後の検査入院という晩の食卓を親子二人で囲んでいると、曜子がいきなり口を開いた。
「何だい、母さん?」
 かずさは何の気なしに聞き返した。
「――あなた、大丈夫? 無理してない?」
「――? あ、ああ。年末年始が忙しいのはいつものことじゃないか。仕方ないよ。もちろん、今年は北原のうちのこともあるけど、その分仕事の方だってちょっとセーブしたし、トータルじゃいつもとそんなには変わらないよ。平気平気。」
 あっさり応えたかずさに、しかし曜子は
「――私が言ってるのは、そんなことじゃないわ。」
と畳み掛けた。
「――うちのこと、ちょっとおろそかになってるかな? その辺、気を付けてるつもりなんだけど……といっても皆さんにお願いしてるだけだけどね。何か気づいたことがあるの? なら、何でも言ってよ。」
 あくまで平静を装うかずさに、曜子はかぶりを振った。
「――私が気にしてるのは、そんなことじゃないわ……。かずさ。あなた、そんなに北原さんに――ギター君のうちに深入りして、つらくないの?」
「――。」
 さすがにかずさも、黙り込んだ。

「あの時ね。あなたが日本に残って、私と一緒にいてくれる、って言ってくれたとき。「産んでくれてありがとう」って言ってくれた時。私は本当にうれしかった。報われたと思った。でもね、少しだけ不安も残ったの。」
 劇甘のハーブティーを啜りながら、曜子は続けた。
「私はあの時、ギター君に頼んだわ。「あの子を受け入れるか、きっちり振ってあげるか、どちらかにして」と。そしてきっちり振られたあなたは、追加公演を立派にやり遂げた。だからその意味でも、あなたが「日本に残る」と言ったときには驚いた。音楽的環境の問題以上に、ギター君と、彼女の――雪菜さんの側にいることにあなたが耐えられるなんて、思えなかったし、そんな無理をする必要もないと思った。」
「……。」
「――それでもあなたは、あれからずっと日本に、私のそば、そしてあの二人のそばに居続けた。そして驚くべきことに、結構楽しそうだった。ウィーンの時のことが信じられないくらい、友だちもできたし、ピアノ以外、音楽以外のことにも少しは関心を示すようになった。何より、あなたは子どものふり――弱い女のふりをしなくなった。」
「弱い女、の、ふり?」
 かずさは問い返した。
「――そう。元来あなたには、人並み外れたエネルギーが、気力、体力、知性がある。そうでなければ、世界のレベルでピアノで、音楽で勝負することなんかできない。そしてそれだけの力がある人間は、たとえピアノを封じられても、それどころか音楽の道を絶たれても、その力をよそに転用して、そこそこの成果を上げることができる――たとえ一流にはなれなくとも、何とかご飯を食べていく程度のことはできる。――本当は今のあなたにも、わかっているでしょう? 「自分にはピアノしかない」とか、「刃物を使う料理なんてピアニストにはもってのほか」なんて、単なる「嘘も方便」――有り余る力をたったひとつのこと――ピアノ――に集中して、高みに上るためのエクスキューズでしかない、ってこと。」
「――まあね……クルマは好きだよ。でも料理はやっぱりダメだ。刃物は使えても、味見ができない。それに「刃物を使うな」って言ったのは母さんだろ。」
と突っ込んだかずさをあっさり無視して曜子は続けた。
「――それでもあなたは、ウィーンにいたころは、ピアノ以外はあきれるほどなーんにもしなかった。まあ、私が何も言わなかったにしても、よ。「自分にはピアノしかない」と言い訳して、ほかの一切に目をつぶった。――でも「ピアノしかない、ピアノしかできないから、ほかは何もしない」なんてのは嘘だった。「ほかのことは何もしたくない、する気がない」というのが本当。そもそもその前、ギター君に会う前のあなたは、ピアノも含めて「何もしたくない、する気がない」状態だったんだから。違う?」
「――そう、だな。さすが、あたしの母親だ……。」
「嫌味は甘受するわ。そういう状況をわかってて放っておいたダメ母だから。――それにしても、元来何でもできるあなたが、そんな状態になったのは、何でかしら?」
「……。」
「――それはつまるところ「甘え」だけど、単なる「甘え」よりもうちょっと深刻な、いわば救難信号。一見、受け身の、消極的な態度に見えるけど、実はそれなりに積極的な、「悲鳴」みたいなものだったんじゃないか……まったく後知恵でしかないけど、今はそう思ってるわ。そしてその「甘え」という救難信号は、私にだけではなく、ギター君にも向けられた。その「悲鳴」が、救難信号があまりに強烈だったから、あんなに素敵なひとがそばにいたギター君も、ついふらふらと迷ってしまった――。」
 淡々と厳しい言葉を連ねる曜子に、しかしかずさは穏やかに、
「――らしくないな。」
と返した。
「――え?」
「ずっとあたしを甘やかしてきた、母さんらしくない、ってこと。どうしてそんなに、真剣なんだ?」
「――今が結構深刻な事態だ、って思ってるからよ。……それより、話の腰を折らないで。ここまではまだ伏線でしかないんだから。
 ――日本に残ったあなたは「甘える」ことをやめた。それはむしろあなたが、自分本来の姿に帰り始めたことを意味したのかもしれない。自分を振った男と、自分の男を奪った女と、それでも友だちで居続けることができたのは、無理して強くなったというより、もともとそれくらいの強さが、あなたにはあったということなのかもしれない。――そんな風に考えて、自分を納得させたこともあったわ。
 ――でもね。人間って複雑なものだから、それはそれで本当だとしても、真実のすべてであるはずもない。あなたの「弱さ」が、ひとを自分に都合よく操るための擬態でしかない、なんていうつもりはないわ。「強さ」も「弱さ」も同じように真実だったと思う。だから、あなたはあの二人のそばにいて、とても楽しい思いをして、たくさんの幸せを分けてもらったのも本当なら、日々絶え間なく傷つけられたのも本当だったと思う。」
「もちろん、母さんの言ってることは間違ってないよ。――でも、それが「人生」ってやつだろう? ――あたしももう三十路だしさ、それくらいの諦めはついてるよ。」
「もちろん、それだけのことならいいわ。でも、その奇妙で哀しい、しかし美しい三角関係の一角は、永久に欠けてしまった――雪菜さんが、いなくなってしまった……ねえ、かずさ、あなた、いったいどうしたいの?」
「……。」
「雪菜さんはいなくなってしまった。そしてギター君――北原さんは男やもめ。もう喪も明けたわよね。そしてあなたは、いま一番、彼の近くにいる女性だわ。彼のお嬢ちゃんたちも、あなたのことを気に入っている。だから、あなたたちが結ばれることは、とても自然なこと。周囲の人間は、みんなそう思っている――私も含めてね。でも、少なくとも私は、同時にそのことがあなたたちを苦しめ、縛っていることもわかっているわ。」
「……。」
「あなた、ただ彼のそばにいたい、彼の役に立ちたい、子どもたちのことも愛してあげたい――ってだけじゃあ、もちろんないわよね? 彼のことがほしいんでしょう? 彼の心も身体も、自分のものにしたい、自分の身も心も彼にささげたいんでしょう? だけど、そうしたいのに、できない。」
「……。」
「以前は、雪菜さんがいたから、彼はあなたのものにならなかった。彼女から、彼を奪うことができなかった。そして今は逆に、雪菜さんがいないから、彼を奪うことができない――奪う相手がいないから。」
「――何、だって?」
 かずさは母をにらんだ。曜子はふっ、とため息をついた。
「死んでしまった相手と勝負することはできないから。そのうえ、今のあなたがあるのはその死んでしまった雪菜さんのおかげでもあるから。雪菜さんなしの北原さん、春希君、のことを、あなたもまた考えることがほとんどできなくなってしまったから。春希君と一緒にいることが、同時に、今はもういないはずの雪菜さんと一緒にいることに、あなたの中でなってしまっているから。――だからあなたは、彼と一緒にいたいし、現にほかの誰よりも彼のそばにいるのに、彼の胸に飛び込むことができない――。
 そんなしんどい思いをするくらいだったら、いっそのこと、逃げても……距離を置いてもいいのよ? 最初にあなたが、ウィーンに逃げてきたように。」
「……。」
「――いい大人相手に、余計なことを言い過ぎたかしらね……忘れてちょうだい。」
 自嘲する曜子に、かずさは優しく微笑んだ。
「……いいよ、母さん。おかしな話で、ついこないだもほかのおせっかいなバカに、似たようなことを言われたよ。――あたしたちを見てれば、誰でも同じようなことを思い付いちゃうんだろう。仕方ないよ。」
「誰でも思いつくような、つまらない話、だと?」
「そういうこと。――なあ、母さん。
 たしかにあたしは、ちょっと無理をしてるんだろう。虚勢を張って、痩せ我慢してるんだろう。それは、認めるよ。――でも、逃げないよ。ウィーンに逃げたって、ろくなことにならなかったんだから、もう逃げない。それに……。」
「――それに?」
「虚勢を張って痩せ我慢してるのは、あたしだけじゃないから。それがわかってるから、もう少し頑張れるよ。」






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