第15話







11-1 春希 大学 2/6 日曜日 昼



ヴァレンタインコンサートまで、あと一週間と迫った日曜日。
大学の定期試験もあと数日で終わる。
それなのに、俺ときたら、これから初のヴォーカルとの顔合わせを予定していた。
千晶がようやく会わせてくれると連絡が来たのが今日の朝。
俺の方のギターの腕も心配ではあったが、ヴォーカルの方も気がかりではあった。
今心配がないものといえば、かずさのピアノしかない。
しかも録音だから、風邪をひく心配もないだろう。
静まり返ったサークル棟を歩み進める。さすがにのんきなサークル活動に情熱を
注ぎ込んでいる連中であっても、試験期間ともあって、誰もいない。
今いるのは、試験そっちのけでギターに情熱を燃やす俺と
試験にはどうにか顔を見せている千晶。それにヴォーカルの子くらいだろう。
目の前には、プレートに劇団ウァトス書かれた扉がある。
千晶が指定した部屋はここであってるはずだった。
千晶とこの劇団との関係は知らされてはいないけど、今日この部屋を使う許可は
おりていることだけは確認済み。
詳しいことは、これから会うヴォーカルの子についてと一緒に聞けばいいか。
それとも、ヴォーカルの子がこの劇団に所属しているのだろうか?
ともかく部屋に入ればわかるか。
俺はやや強めにドアをノックし、千晶の返事を待った。

千晶「さすが春希。約束の時間のちょうど10分前。
   約束の時間を10分遅く教えておいてもよかったね」

扉の中から顔を出した千晶は、とんでもない挨拶とともに現れる。

春希「お前は俺を信頼しすぎ。もし俺が時間に遅れてきたらどうするんだよ」

千晶「そのときは、そのときでしょ。私が10分待てばいいだけじゃない」

春希「そういうことをいいたんじゃなくてだな」

千晶「今日はお説教はなしね。早く歌とギターをあわせたいし」

春希「時間も限られてるしな。って、ヴォーカルは、まだ来ていないのか?」

狭い部屋を見渡しても、千晶一人しかいない。
千晶は、にひひっと意地悪そうな笑みを浮かべながら俺を見つめてくる。
なにがそんなにおかしいのかわからないけど、早くあわせたいっていったのは
お前の方じゃないのか。

千晶「目の前にいるでしょ」

春希「目の前って・・・・・」

千晶が指差し、俺が指差した先には、千晶一人しかいない。
つまり、そういうことなんだろう。
俺に会わせたいヴォーカルとは、和泉千晶その人だったわけだ。

千晶「そっ。私が歌うの」

春希「あぁ・・・・・そうか。なんか、すべて納得できたというか」

千晶が話を持って来た時から胡散臭いとは思ってはいたけど、
千晶が全て仕組んでいたのかもしれない。

春希「全部話してくれないか? ここの劇団についても全部」

俺が千晶の瞳を覗き込むと、ついっと視線をそらし、パイプ椅子を勧めてくる。
俺に座れってことか。俺が荷物を置いて、椅子に腰をかけると、目の前の席には
千晶が座る。そして、テーブルに筋を突いて、じっと俺を見つめてくる。

千晶「全て話しても大丈夫?」

春希「大丈夫って? 話を聞いてみたいとわからないだろ」

千晶「そうなんだけどぉ・・・・、まっ、いっか」

春希「なんだよ」

ネコのようにコロコロ表情が変わるやつ。とらえどころがないってわかっていたけど、
今目の前にいる千晶ほどわからない存在は出会ったことがなかった。
踏み込めば、ただではいられない。なぜかそう確信できる。
漠然とした感覚を、明確なビジョンにするためにも、今踏み込むべきなのだろう。

千晶「なにから話せばいいのかなぁ・・・・・・・」

春希「全部聞いてやるから、話しやすいところから話せよ。
   わからないとことがあったら、そのつど俺が質問していくから」

千晶「OK、OK、じゃあ始めるね。
   まずは出身高校だけど、春希に教えたのは嘘」

春希「は? いきなりとんでもない告白だな」

千晶「一応春希と同じく、峰城大付属高校出身なんだけど、
   春希は私の事知らないみたいだよね」

春希「一学年でもそれなりに人数いるし、全部が全部知ってるわけでもないからな」

千晶「そこんところは別にいいよ。ただ、学園祭のとき、
   私もそれなりに注目されてたんだけどね」

春希「それはすまん! ライブ当日の朝まで練習だったし、
   学園祭当日もバタバタしてた」

俺が悪いことをしているわけではないが、なぜが手を合わせて誤ってしまう。
千晶の方も全く気にしていなく、むしろ、事実をたんたんと述べていってる感じさえする。

千晶「私は演劇部で主演やってて、自分でいうのもなんだけど、高評価だったと思う。
   それでも春希達のライブに観客の興奮を全部もっていかれたけどさ」

春希「へぇ、千晶が出てた劇か。見てみたかったな」

千晶「演劇はこれからも続けるし、そのうち見る機会もあると思うよ。
   春希がみたいと思うなら」

春希「今度やるときは教えてくれよ。見に行くからさ」

千晶「それはありがたいんだけど、今度の公演延期になっちゃって、当分は白紙かな」

春希「え? どうして?」

千晶「まあ、さ・・・・・・・。それをこれから話すんだけどね」

思いつめるように俺を見つめる千晶の瞳には、さまざまな感情が入り乱れていた。

千晶「はぁ・・・・・・、たぶん怒られるんだろうなぁ」

深くて軽いため息を吐くと、いつもの千晶がそこにはいた。
体を机に投げ出し、ぐたーっと這いつくばる。くるっと顔だけ上をあげ、
俺を見つめる瞳には、悪戯がばれた子供そのものだった。
ほんと、お前じゃなくて、俺の方がため息を突きたくなるよ。

千晶「春希達がやったライブからヒントを得てさ、そこから脚本書いたんだ。
   でもさぁ、肝心なところでわからなくなっちゃって、
   もう、どうしたらいいんだってところよ。
   座長なんか泣きながら公演延期の手続き始めちゃったけど、
   まあ、それは仕方ないよね。座長の仕事だし」

軽く言ってのけるけど、脚本を書く労力と時間は、相当なもののはず。
俺も作詞経験がある。書きたいイメージがあっても、それを形にするのは難しい。
たとえ自分がイメージした内容を形にできたとしても、それを100%相手が
理解することなどありえない。俺は、そこまでのレベルを目指したわけでもないし、
目指すほどの実力も経験もなかった。それでも、大変だった記憶が残っている。
もちろん俺の作詞と千晶の脚本を比べるだなんて
おこがましい。なにせ大学の劇団で採用されるわけだし。
千晶の知られざる才能に関心してしまった。
もしかして、大学の授業がさぼりがちなのって、劇団のほうが忙しいからか?

春希「座長さんも災難だな」

千晶「別に同情しなくたっていいって。こういう後始末をする為に存在してるんだから。
   でね、座長の話はもうよくて、脚本煮詰まっちゃって困ったなぁって思ってたら
   ヴァレンタインライブの話が出てさ。これだって思ったわけ。
   春希と小木曽雪菜・・さん、は、峰城大にいるでしょ。
   でも小木曽・・さんは、ちょっと駄目かなって思ったから、
   春希にオファーを出したんだ」

これで全部か? 全て話して晴れ晴れしたって顔してるけど、
これくらいだったら別に怒るようなこともない。

春希「そんな事情があったのなら、最初から全部話してくれればよかったのに」

千晶「ほんと?」

がばっと起き上がり、元気一杯の笑顔を見せる。
目がらんらんと輝き、なにかよからぬことを考えていそう・・・・・だが。
なんか俺、まずいこと言ったかも。
今度は俺の方が机に突っ伏しそうだ。

春希「俺の方に時間があったらだけどな」

千晶「でも、今もギターの練習してくれてるんだし、きっとやってくれていたはずだよ。
   それが春希だし」

春希「どうだかな」

あまりに信用されすぎて、なんだかこそばゆい。
思わず視線を外しそうになったが、千晶がにたぁっていたずらネコっぽい笑みを
浮かべるものだから、意地になって目を背けるのをやめてしまった。

千晶「それでも春希なら、きっとしてくれたよ」

今度はしおらしく言葉を発する千晶に、俺の方が追い付いていけない。
どれも千晶なんだろうけど、こんなに感情が豊かだったのか?

千晶「ヴァレンタインコンサートはさ、初心に帰ってみようって思ったんだ。
   やっぱ一番最初の学園祭ライブの感動をもう一度生で味わえば
   なにか掴めるはずだし」

春希「ふぅ〜ん、・・・・・そっか。だったら、俺に何ができるかわからないけど
   協力させてもらうよ。こっちもこっちで事情があるし、お互い様ってことで」

千晶「そう? そういってくれると助かる」

春希「じゃあ、時間も残り少ないし、練習しようか。
   俺はまだ千晶の歌、聞いたことないしな」

千晶「大丈夫だって。だいぶいい感じに仕上げられてきたから。
   ほんと冬馬かずさ様様だよ」

春希「かずさが?」

千晶「この前見せてくれた演奏で、びびっときちゃった感じ。
   もう電流が流れる感じで頭ん中に感情が流れ込んできて、
   あの時本当はパニックになりそうだったんだから。
   ほんと、まじやばすぎるでしょ、あの子・・・・・・・・。
   どれだけ春希を独占したがってるんだって。
   あんなの聞いちゃった他の女なんか、泣き崩れちゃうんじゃないの。
   ううん。私がもう少し春希に本気出してたら、廃人になってたかも」

千晶は自分に言い聞かせるように話すものだから、半分以上は聞きとれなかった。
しかも、千晶の真剣な顔つきが、俺に聞きかえすことをためらわす。
これが芸術家ってやつなのかもな。いったんスイッチ入ってしまうと
周りが見えなくなるっていうか。

千晶「さてと、私の美声を聴いて驚くなよ」

春希「はい、はい。俺のギターはもう少しだから、お手柔らかに頼むな」

すっと立ち上がり、千晶が息を整える。
狭い室内の空気を震わせ、俺に感動を直接叩きこむ。
手が届く距離にいる千晶からは、全ての息遣いが読みとれる。
激しくもあり、切なくもある歌声に、雪菜とは違った衝撃が駆け巡った。
それは、聴いたことはないはずなのに、懐かしくもあり、温かいぬくもり。
俺が長年求めていた何かが、そこにはある気がした。













11-2 春希 ヴァレンタインコンサート 2/14 月曜日




暗闇から現れた彼女に、俺は心を奪われる。
ステージ中央のマイクスタンドの前にいる長い黒髪の女性は、
艶やかな髪をなびかせ振りかえる。
肩にかかった黒髪を軽く払いのけて、少し心配そうに俺を見つめた。
懐かしい峰城大付属高校の制服。首元には、リボンではなく男子生徒のネクタイ。
きりっと俺を睨みつける瞳に、おもわず吸いこまれそうになる。
ふらっと足が彼女の元へと歩み出しそうになるが、天井から降り注ぐスポットライトが
ステージの上だと認識させ、俺を思いとどめた。
なんで、かずさが?
まばゆい光の中にいる彼女を見つめ続けると、ようやく目の焦点があってくる。
かずさ?・・・・・ではなく、千晶か?
暗闇から突然スポットライトの強烈な光のせいで視界がぼやけていたが、
はっきりと見ることができるようになった今なら、千晶であると断言できる。
あれはカツラか。衣装はステージの上まで内緒だっていってたけど、
とんだサプライズを用意してくれたものだ。
それと、かずさの真似をしているのなら、そのにやけっつらはやめろ。
俺の中のかずさのイメージに傷がつくだろ。
俺に想像通りのサプライズがおみまいできて喜んでいるようだけど、
歌がメインだからな。
俺が睨みつけると、千晶は顔をひきしめて、軽くうなずく。
客席と向き合った千晶は、後ろからでもわかるくらい安心感が感じられた。

観客席からの話声が聞こえなくなる。
会場内が静まり返ったタイミングですかさずピアノの演奏がスタートされた。
俺は、かずさの演奏に遅れまいとリズムに合わせる。
きっとうまくいく。だって、俺以上にギターがうまい奴は山ほどいる。
しかし、この曲に限っては、誰よりもかずさの演奏に合わせられるって胸を張って言える。
だって、かずさが俺を導いてくれるから。

ピアノの音色にギターの音色が混ざり合う。
そして、千晶の歌声が合わさり、俺達の演奏が完成する。
それは、俺が思い描いた『届かない恋』ではない。
だって、俺の想いを届けたい相手が歌ってるのだから。
かずさに俺の恋心を届けたいのに、なんでかずさ本人が歌ってるんだ?

千晶らしいいたずらに、俺も最初聴いたときはしっくりこなかった。
もちろんかずさが『届かない恋』を歌っているところなんて、一度も聴いたことはない。
だけれど、千晶の歌声を聴いた瞬間に、かずさだってわかってしまった。
俺は、その時やっと千晶が怒られるのを覚悟して、全てを話そうとした意味を察した。
でも、千晶のやつ、全部話すとか言っておきながら、一番肝心なところを話してないよな。
たぶん、お前が作ってる脚本って、俺達のこと題材に書いてるんじゃないか?
直接聞きだしてはないけれど、きっとそうだって思ってしまう。
だって、こんなにもかずさに近い千晶がそこに出来上がっているのだから。

しかし、残念だけど、千晶は千晶だと思うぞ。
いくらまねようとしても、かずさにはなれない。
かずさはかずさだからって、言ってしまえばそれまでだけど、
それだけじゃないんだ。
かずさは、きっと届かない恋に気が付きやしない。
自分に好意が向けられているだなんて思いもしないんだよ。

だけど・・・・・・・・、
届かないんだったら、直接届けにいくしかないよな。
な、そうだろ千晶。
いつまでも立ち止まってなんかいられない。
時間は有限なんだから。
だから、俺は行くよ。
前に進むって決めたんだ。
千晶、ありがとう。






ピアノの最後の音色が響き渡る。
音色の余韻が消え去っても、観客の熱気は冷めやまない。
それは、舞台にいる俺達二人も同じで、息を乱していても興奮は静まらない。
千晶が観客に向かって大きく手を振ると、静かだった観客席が一気に騒ぎだす。
ひとつひとつの言葉は聞きとれはしないが、おおむね良好な反応のようだ。
それはそうだよな。俺のギターはともかく、かずさのピアノと
千晶の歌声は十分すぎるほどの合格点だろうし。
むしろ、かずさと千晶だけでもよかった気もする。

千晶が一通り観客への挨拶を終えると、舞台袖に向かって何か合図を送る。
すると照明が落ち、ホールは闇に包まれる。

俺はこんな演出聞いてないぞ。アンコールはあるかもって思いはしてたけれど
これから何が起きるんだ?

突然観客席が沸きたつ。光が俺の後ろに浮かび上がる。
俺は光の方へ振りかえると、そこには、スクリーンに映し出されたかずさがいた。
これは、千晶にも見せたかずさの映像。
あの時は、純粋にかずさの演奏だけを観客に聴いてもらいたくて
映像はNGにした。
だけど、条件付きでOKもだしている。
それは、観客がかずさの演奏そのものが聴きたいって思えたら映像を出していいって。
ま、千晶にしてやられたな。
最初の演奏はかずさの映像なしで、純粋にかずさのピアノだけで観客を盛り上げて
感動を植え付けたんだから。
でも、勝手にDVDを持ち出したことは、あとで説教だ。
千晶がカレーを食べているときに、ちょっと寝てしまった。
きっとその時にこっそりコピーされてたな。
それと、DVDとCDは確実に回収して、コピーがあるんならそれも回収だ。
悪いけど千晶。俺も独占欲が強いんでね。

正面を振りかえり、ピアノに合わせて演奏を始める。
俺の方にもお情け程度に照明があたる。
最初の演奏の時よりは弱い光だけれど、しょうがないか。
だって、主役はかずさなんだから。
それにしても千晶のやつ・・・・・・・と、千晶がいるはずの
舞台中央を見ると、マイクスタンドごと消え去っている。
俺は、初めて千晶にDVDを見せた時のことを思い出してしまった。


千晶「前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて確信した。
   だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。
   だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならない。
   ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえいらないかもしれない・・・・・・」


まさしく有言実行だな。自分の想い描いたことを真っ直ぐと実行するところが
お前らしくて、羨ましくもある。
観客も喜んでいるみたいだし、いっか。
俺は脇役らしく、かずさのエスコートをやらせてもらいますよ。
俺は、かずさの音色に身を任せ、誰よりもかずさの音色に酔いしれていった。
たくさんの観客がいるはずなのに、みんなが俺達の曲を聴いているはずなのに
俺には観客なんて見えやしない。
俺の目に映っているのはかずさだけ。
もちろんスクリーンに背を向けているから、スクリーン上のかずさを見てるわけでもない。
だけど、俺にはかずさが見えている。
かずさならきっと小生意気な態度で呆れた目をして俺を見つめてくる。
だけれど、誰よりも信頼できるパートナー。一生隣を歩いていくって誓った生涯の伴侶。
今は会うことができないけれど、きっと俺達は再会できる。
だって、こんなにも息があった演奏ができるんだぜ。
きっとかずさは、まだまだ練習が足りないって文句を言ってくるんだろうけど、
いいよ、何時間でも、何日でも、何年だろうと、かずさが納得するまで
一緒に練習してやるよ。
だって、俺達の未来には、一緒に過ごしていく時間が待ってるんだからさ。





コンサートの熱気が冷めやまぬ中、俺は観客席の間を突き進む。
皆かずさの音色に心を奪われ、俺のことなど眼中にない。
それも当然だ。なにせ初めて曜子さんにDVDを見せられた時から感じていたことだ。
ときたま友人たちが手を振ったり、声をかけてくる程度で、かずさのオマケの俺など
誰も見向きなどしない。
そんな中、俺に熱い視線を向けている瞳を見つける。それは、必然であり、
舞台の上からもひしひしと感じていた視線である。
彼女の隣には、武也と依緒がわきを固めていた。
再会した時に何を言おうか何度も考えていたのに、その全てのセリフが手のひらから
こぼれ落ちる。何も言わず、何もしない俺に、雪菜は笑顔を曇らす。
唇を軽く噛み締め、悲しそうに手を振る。

俺は、雪菜と友達になる為に武也に雪菜を連れてきてもらった。
それなのに、泣かせてどうする。
なにやってんだよ、俺。
せっかくさっきまでは少しはかっこよくきめていたのに、ステージから降りた瞬間に
駄目男に逆戻りか?
違うだろ!

春希「雪菜!」

俺は、両手で大きく手を振る。力いっぱい、俺の気持ちが届くように。
俺の必死すぎる行動に、雪菜は驚き、笑みを取り戻す。
やっぱり、雪菜には笑顔が似合う。下を向いている雪菜なんて、似合わない。

春希「また明日、大学でな」

会場は、人で溢れ、俺の声が雪菜に届いているかなんて、わからない。
隣にいる奴の声ですら、うすぼやけて、聞き取れないほどだった。
だけれど、俺には雪菜の返事が聞こえる。
きっと雪菜なら、こういったはずだってわかるから。
俺は、雪菜が小さく手を振るのを確認すると、俺を待っている彼女の元へと急いだ。
何度も雪菜の返事をかみしめながら。




会場の外は既に暗く、会場内の熱気も及ばない。
舞台で沸騰した体も北風を浴びるたびに体温を奪い去っていく。
会場から少し離れた街灯の下に、柔らかな光を浴びる麻理さんを発見する。
わずかしか離れていない距離であっても、すぐさまゼロにすべく駆け始める。
俺が駆け寄ってくるのに気がつく麻理さんは、頬笑みと共に俺を迎え入れた。

春希「お待たせしました」

麻理「走らなくても、よかったのに」

春希「会場の出入り口からですから、ほんのちょっとですよ」

麻理「そんなわずかな距離でさえも走ったっていうことは、
   そんなに早く私に会いたかったってことか?」

冗談でも、照れ隠しでもない。素の風岡麻理がそこにはいた。
だから、俺は、正直に答えなければならない。
それが、俺を大切にしてくれている麻理さんへの精一杯のお返しだから。

春希「はい。早く会いたかったです」

麻理「そうか」

俺を見つめる瞳には、陰りはなかった。

春希「俺は、諦めませんから。麻理さんと、上司と部下の関係だけではなく、
   それ以上の関係、築いてみせますから」

麻理「うん・・・・」

春希「俺は、かずさを愛しています。でも、俺の身勝手かもしれないけど、
   麻理さんとは・・・・・、麻理さんとは、
   生涯付き合っていけるパートナーになりたいです。
   麻理さんの隣で肩を並べられる、誰よりも信頼してもらえるパートナーに」

麻理「身勝手なやつだな」

春希「すみません」

麻理「いいわ」

春希「えっ?」

麻理「だから、パートナーになってやるっていってるんだ」

春希「本当ですか」

麻理「嘘なんか、言うわけないだろ」

春希「ありがとうございます」

麻理「だけど、今すぐってわけには、いかないかな。
   ・・・・・・だって私は、北原春希を愛しているから」

春希「・・・・・麻理・・・・さん」

麻理「そう身構えないでよ。クリスマスからのほんのわずかな時間だったけど、
   幸せだったよ。苦しい時もあったし、それも後悔はしていない。
   だって、最高に幸せだったんだから。だから、この幸せな時間は、
   誰にも否定させない。北原にだって、否定なんてさせないんだから」

麻理さんの強気が剥がれ落ちていく。強い意志で塗り固められた瞳は、
涙で洗い落とされ、今、目の前にいるのは、
純粋な瞳でまっすぐ俺を見つめる麻理さんのみ。




麻理「心配しなくてもいい。

   きっと、北原と正面を向いて付き合っていけるようになる。

   でも、それまでの間だけでいいから、

   ちょっとの間だけでもいいから、

   冬馬さんの邪魔なんかしないから、

   私が一人で立っていられるようになるまで、

   そのときまで、

   隣にいて・・・・・、春希」




無邪気でいられる時間なんて限られていた。人は成長し、そして、現状を把握する。
そっと未来を見つめ、自分を顧みる。
自分の立ち位置を確認しないで、人を好きになんてなれない。
身勝手に好きになってしまえば、
自分たちだけでなく、俺達を大切に思ってくれる人たちさえも苦しめてしまう。
無邪気な目で俺を見つめていた麻理さんは、ずっと先の未来を見つめていた。
そこになにがあるかなんて、俺にはわからない。
だけど、その未来に、俺が隣にいる為の努力くらいしたっていいだろ。

春希「隣にいます。麻理さんが必要ないっていっても、ずっと隣にいさせてください」

麻理「ありがとう。・・・・あと、今日で最後だから」

俺にそっと近づくと、俺の両肩に手をかけ、俺の頬に軽くキスをする。
ほんの一瞬。麻理さんから伝わってくる温かさは、唇が離れた瞬間に
夜の冷気が奪い去る。
まるで幻でも見ていたかのような感覚であったが、
頬を染める麻理さんが、現実だって証明する。

麻理「それと、これヴァレンタインのチョコ。
   手造りではなくて買ったもので悪いんだけど」

オレンジ色の小さな紙袋を差し出してくる。
いくら夜であっても、オレンジ色の紙袋は目立つ。
しかも、ヴァレンタイン。意識しないでいる方が難しい。
光沢があるオレンジの紙袋は、目立つ色の割には落ち着いた雰囲気を形作っている。
それが妙に麻理さんに似合っていて、麻理さんの為にある紙袋とさえ思えてくる。
さすがにそれは言いすぎだってわかってるけど、絵になるほど目に焼き付いてしまう。

春希「かまいませんよ。誰がくれたのかが、一番重要ですから」

麻理「そういってくれると助かる。でも、味は保証する。
   このチョコレートは、私が一番好きなものなのよ」

ガレー。そう紙袋には印刷されていた。たしか麻理さんの部屋にもあった気がする。
中身はなかったけれども、紙袋が散乱していたような・・・・・・・。
今ここで麻理さんの名誉の為にも、不名誉な室内を思う返すのはやめておこう。
なによりも、麻理さんとは、過去よりも未来を見つめていきたいし。

春希「大切に食べますね」

麻理「ふふっ・・・・・。大切に食べたまえ」

春希「ホワイトデーは、たぶん編集部も忙しい時期ですし、
   会いに行くのは難しそうですね」

麻理「いつでもいいわよ。でも・・・・・・・・」

言葉を詰まらせ、俺を見つめる。瞳は揺らめき、ためらいを感じられた。
なにをためらってるなんて明らかだ。だって、俺も同じ気持ちだから。

春希「ホワイトデーは無理でも、きっとNYまで直接渡しに行きますから、
   待っててください」

俺の言葉で麻理さんの瞳に力がよみがえる。
肩から力が抜け落ち、そっと俺に寄り添ってきた。

麻理「うん、待ってる。来年のヴァレンタイン前日までに来てくれればいいから。
   それまで気長に待つとする」

春希「俺はそこまで気長に待てないので、もっと早く行ってしまいますよ」

麻理「なら、なるべく早く来てくれることを願っているわ。
   さて、もう行くかな。
   また今度ね、北原」

春希「はい。NYに行きますから、待っててください」

麻理「じゃあ」

春希「はい」

麻理さんは、一度も振り返りもせず去っていく。まっすぐ前だけをみて、突き進む。
それでいいんだ。未来をしっかり見据えていれば、きっと再び再会できる。
それに、今振りかえられたら、泣き顔を麻理さんに見られてしまう。
こんな情けなく、涙もろい俺なんか見られたら、幻滅しないまでも、
俺のことが気がかりでNYにいけないんじゃないかって、身勝手な妄想もしてしまう。

口づけを確かめようと、手を頬にあてても、なにも痕跡は残ってない。
ほんのわずかだけれど、たった今、そこに麻理さんがいたっていう証拠の残り香を
肺に満たし、麻理さんの残像を思い出す。
俺は、今日この日を忘れない。
数年後、今日という日を思い出す為にも、前に進もうと決意する。













曜子「どうだった?」

ソファーに腰掛け、今さっき帰宅したかずさを出迎える。
曜子は、かずさの様子をみて、かずさの返答を聞く前だというのに
満足そうな笑みを浮かべていた。

かずさ「よかったよ」

曜子「そう」

かずさ「あたしが鍛えたんだ。当たり前だろ」

今日はちょっと饒舌になってるのかな? 
それなら、一緒にワインでも・・・・・・・。
って、この子にはワインよりもピアノかもね。
曜子は読みかけの本を閉じ、一度はキッチンにワインとグラスを取りに
向かおうとしたが、再びソファーに身を沈める。
そして、挑発的な顔つきで、かずさに問う。

曜子「決心できたの?」

かずさ「あたし、コンクールに出るよ」

そう宣言するかずさの目には、陰りは一つもなかった。









第15話 & 『心の永住者 cc編』 終劇
『心の永住者 〜coda編』 & 第16話に続く
















































『〜coda編』




NY  マンハッタン島の、とある一室




麻理「北原、まだ準備に時間がかかる?」

毎朝、今の時間帯のこの部屋の住人達は忙しい。
慌ただしく動き回り、身支度を整える。
だからといって、雑に行うことはない。ひとつひとつ確実に丁寧に進めていく。
それがここの住民達の性格をよくあらわしていた。

春希「お弁当もできましたし、あとは閉じまりだけです」

麻理「そうか。なら、私が見ておくわ」

朝の微笑ましくもあり、慌ただしいいつもの一コマ。
これから始まる開桜社NY支部での仕事は、日本以上に忙しい。
そうであっても、健康に気遣ってお弁当を作るあたり、北原春希も成長していた。

春希「もう行けます。閉じまりは大丈夫でしたか?」

麻理「大丈夫よ。さて、行きましょうか」

春希「はい」

俺は二人分のお弁当と仕事道具が入った鞄を手に、俺達が暮らす部屋をあとにした。
静かになった二人の部屋は、深夜になるまで静かなままだろう。
慌ただしく突き進む足音が、扉の向こうでこだましていた。





次週、『〜coda編』スタート

このページへのコメント

麻理さんといえば佐和子さんなのですが、『〜coda』に入り、だいぶ登場人物に偏りがでてきそうです。
一番の危惧は、かずさですかね。
メインヒロインなのにcc編では冷遇されていた気がしてなりません。

0
Posted by 黒猫 2014年09月23日(火) 02:39:04 返信

私も、麻理さんが好きです。
あの人の乙女心は一体何なんでしょうね…。超胸キュンですわ。
これは、かずさの強烈なライバルになりますね。
楽しみにお待ちしています。

0
Posted by ushigara_neko 2014年09月15日(月) 19:43:03 返信

毎回感想を下さり、ありがとうございます。
著丸戸書き下ろしについては、ミニアフターに絡んでくるのかなと探りを入れつつも、
ほのぼのしていて楽しかったです。
とらのあな特典SSは、短いなぁということと、雪菜ファン荒れるなくらいですかね。
本編については、ごめんなさい。内容よりも、編集部の意向や著者の好みなど、
裏事情の方が気がかりで、ちょっと著者がかわいそうな気もしています。
どうせなら、最初からルートを公表したり、3ルートまたは2ルート書いたほうが
著者ものびのび書けたのかなと思ったりもしています。
内容については、どっちつかずでもったいないって感じです。(好みは偏ってるみたいですが)
終わり方は、そんなものかな程度で、特に感想はもたなかったです。

0
Posted by 黒猫 2014年09月15日(月) 18:42:20 返信

作者さんの試みは面白いですねえ、確かにヒロインが2人とも同じだと原作をちょっと変える程度になる可能性がありますし、読む側も先が予測し易いですね。今までのssには無いタイプの話なので期待してます。個人的には風岡麻里は冬馬かずさの次に好きなキャラですので次回からのcoda編は展開によっては原作のそれよりもハラハラしてしまうかも、仮に麻里さんと結ばれても雪菜よりは全然許せてしまうかなあ。
文庫本は読まれましたか?ネットでは終わり方には賛否両論ありましたが、作者さんの感想はいかがでしょうか?

0
Posted by tune 2014年09月15日(月) 18:18:41 返信

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