大晦日のコンサートに向かったら 第四話

12月31日 19時30分 コンサート会場

春希はスーツを着てコンサート会場の最前列の席に座っていた。開演まで30分、席はもう九割以上が埋まっていた。チケットは完売していたから、始まる頃には満席になるだろう。

――今から1時間半前

春希は会場に18時には着いていた、開演まで2時間の余裕がある。麻理の話していた通り、アンサンブルの名前を出すと曜子の楽屋に挨拶に向かうことを許された。

「――ふぅ」

深呼吸を一つして、春希は曜子の楽屋のドアをノックした。

「――はーい、どなた」

これからコンサートだというのに、非常にリラックスした声がドア越しに聞こえてきた。三年前、冬馬邸でインターフォンを通して会話した時のことを思い出す。

「アンサンブルでかずささんの記事を書かせていただきました、開桜社の北原と申します。このたびは高価なチケットをありがとうございました」

楽屋の中からドタバタという音が聞こえ、荒い足音が扉に近づいてきた。

「あ、あぶない。転びそうになっちゃった」
ドアが開き、赤いドレスを乱しながら曜子が顔を出した。楽屋の中、椅子が一脚倒れていた。

「お、お久しぶりです。曜子さん、大丈夫ですか?」

「ああ大丈夫大丈夫、あなたの名前を聞いて驚いちゃった。けどやっぱりね、やっぱりあの記事は…久しぶりね。ギター君」

曜子は外れそうになっていたドレスの肩紐を直しながら、呼吸を整え春希の顔を見た。娘が愛した男の顔を。娘が忘れられない男の顔を。

かずさをネタにして少しこのギター君をちゃかそうかと曜子は思った。

しかし春希の目の下にできたクマ、すこしこけた頬を見て、そんな気分は消え失せた。

「――あなた、顔色…」

「あの、かずさ…さんは今日会場に来るんですか?」

曜子の言葉を遮り、春希はかずさの居場所を尋ねた。

普段の春希だったら年長者に配慮して『ああ大丈夫です、お先どうぞ』などと言って譲れるのだが。今の春希にそんな心の余裕はなかった。

「…ええ、来るわよ。開演ぎりぎりにならないと席に着かないと思うけど、会場の中を探して…みたら?」

曜子は春希のチケットの隣の席がかずさだという事を言えなかった。

今の春希の質問で、春希の体調不良の原因にかずさが含まれている事を感じ取った。

少し触っただけで倒れてしまいそうな春希の様子に『隣の席はかずさ』という刺激を与えることが怖くなった。

「そうですか、かずさは来るんですね。本当に、よかった…」

目にうっすら涙を浮かべながらうれしそうな顔をする春希、三年前はかけらも感じられなかった危うい雰囲気を漂わせる春希の姿に、言葉を失う曜子。

Trrrrr Trrrr

沈黙を破るように、楽屋の中から曜子の携帯の着信音が聞こえてきた。

「――あら」

「あっどうぞ、俺、席の方に行きます。今日は本当にありがとうございます」

春希は手で乱暴に涙を拭い、曜子に一礼すると観客席の方へ歩いて行った。

三年前と比べて小さく見える背中を見送ると、曜子は楽屋のドアを閉め、携帯の通話ボタンを押した。

「社長、工藤です。今かずささんと…」

電話の相手は美代子だった。成田空港でかずさを見つける事ができたらしい。

「(さて、これからどうするか…
明らかに病んでいたギター君、そしてその原因は私の娘のかずさ。
アンサンブルの記事を読んで、彼がかずさに未練たらったらなのは私が妬いちゃうぐらいに伝わってきた。
一見かずさのスキャンダラスな過去と自堕落な性格を大衆の目をひくために書いているけれど、文章全体で捉えると。『自分はかずさの過去も不真面目な性格も全て知っている。マスコミによって脚色されていない本当の冬馬かずさを知っている。
かずさの良いところ悪いところ全てを知った上でなお、かずさを応援せずにはいられない。
かずさの活躍を祝福せずにはいられない。
かずさを愛さずにはいられない』

って感じかしらね。あれはもう記事ではなくて、ラブレターの類いよ。

でも彼のま〜じめな性格からして、自分がラブレターを書いたなんて気がついてなさそうね。
本当は会いたくてしょうがない相手にようやく会えるってのに、あの憔悴した様子ってことは…

おそらく彼は今の自分の状況を変えるためにここに来た。かずさと彼の、三年前から止まってしまっている時計の針を動かすためにここに来た。

あの様子じゃあ、針を動かすと言うより、時計そのものを壊しに来たって感じね。
そして壊さなければいけないと思ったのは、自分がまだかずさを好きでいること気がついた。いや、気がつかされたのかな、あの記事を読んだ。かずさと彼の関係を知る誰かさんに…
でもねぇギター君。時計は壊れないわ。かずさはそれを全く望んでないのよ……そして私もね)」

「――社長? どうしたんですか? 社長?」

「ああごめんなさいね、美代ちゃん。コンサート前で緊張しちゃって…。あはは、本当よ。それよりかずさはどんな荷物で来ているの?」


曜子はかずさが一泊分の荷物しか持ってきていないと聞かされると、美代子に一週間分の着替えを準備するよう指示を出し、電話を切った。

先ほど倒してしまった椅子を立て直し、ふぅとため息をつきながら座った。

曜子はついさっき、「刺激になるから」と春希に隣の席がかずさだということを告げなかった自分が情けなくなった。

どうせなら、もっと徹底的に春希を弱らせておけば良かった。

そしてかずさに、その弱さにつけ込ませればよかった。

弱さにつけ込み、自分無しでは生きられない男にしてしまえばいい。

曜子は目の前にあるチャンスを逃すような生き方はしてこなかった。

娘かずさにそのことの大切さを教える機会はなかったけれど、これを機にそのことを学んで欲しい。

「(彼を自分無しで生きられなくすることに罪悪感を感じなくていいのよ、かずさ。
だってあなたも、彼を想わずには演奏できない、生きられない体になっているのだから。
これでおあいこ。
これからはずっと、おあいこ)」
「あは、あははははは…良かった…良かったわね、かずさ…」

曜子は楽屋の鏡を見ながら笑った。

彼が決定的な結論を出すには時間がかかるだろう。

かずさは一週間以上日本に滞在することになるかもしれない。

でもいくら時間がかかってもいい。彼の心をかずさのものにできるのならば。

「神様…お願いします。私はもうピアノが弾けなくなってもいい、だから娘を…かずさを、一人にしないで」

それは曜子が初めて神に娘の事で祈りを捧げた瞬間。

娘が毎日10時間以上、遠い故郷に残した一人の男を想いながらピアノを弾いてきた姿を見続けてきた母親の心からの願いだった。

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