ブダペスト国際空港に着いた友近浩樹は、ほっと一息ついた。
実は、海外に来るのは初めてだった。
大学を卒業して、なんとか希望の中堅商社に入社できた。
在学中に将来の目標を定め、そのために必要な知識を習得するのはもちろんのこと、より攻撃的に、自分の武器となる知識も貪欲に習得した。
世界を飛び回る商社マンを目指した彼は、特に東ヨーロッパに狙いを定め、ドイツ語、ロシア語を仕事で使えるぐらいまでマスターしていた。
だから、この突然の代役のチャンスが巡ってきたのも、ある意味彼の努力の賜物だったと言えよう。新入社員には異例の単独海外出張。
とりあえず今日のところはこのまま一度ハンガリー支社に顔を出した後でホテルに向かうだけだ。
時間に余裕があるからゆっくりできる。友近は適当なベンチに座って一息ついた。
そしていつものリラックスタイム。お気に入りの音楽を聴こう。
荷物の中からミュージックプレーヤーを探していると、前のベンチに座っている母娘の会話が聞こえてきた。
「日本語…こんな所で珍しいな。見たところ金持ちの奥様とお嬢様かな」
お嬢様の綺麗な黒髪のロングヘアーに少し心奪われながら、音楽を聴く準備をする。
お気に入りの音楽といっても有名なミュージシャンの曲なんかじゃない。
それどころか素人の演奏だ。
彼が大学3年の年のバレンタインコンサートで演奏された曲。ギターとボーカルだけの面白みの無い音楽。
イベントの裏方をやったことで偶然手に入れることが出来て、それ以来、何度も、いや何百回も聴いた。聴くと気分が落ち着いた。

目を閉じてスイッチを入れる。演奏が始まる。いつ聴いてもホント素人演奏なギター。そしてあの歌声…

ふと何か違和感を感じた。目を開けると前のベンチに座っていたお嬢様がこっちをじっと見ている。
食い入るような視線。そんな表現がぴったりだと思った。その顔立ちのあまりの美しさに自分が見られている事を忘れてしまっていた。
「それ…」
そのお嬢様の言葉でやっと我に返ることができた。
「それを譲って貰えないか?」
「え??」
一瞬何のことか分からず、上着やズボンのポケットを探ったりしていると、
「違う、あんたが今聴いている…」
「お待たせー、あと10分ぐらいで迎えに来てくれるって」
いつの間にか席をはずしていたらしい母親が帰ってきた。
「今日はもう特に予定無いからゆっくりできるわよ。でもあんまりハメをはずし過ぎないでね」
「母さんと一緒にするなよ。あたしは別に何も…」
お嬢様は母親を見るといたずらを見つかった子供のようにさっと前を向いて座りなおして言った。
その後、何か母親に文句を言っていたが、横の母親を見て話しながら、視線はちらちらとこちらを気にしているようだった。
「なあに〜、かずさったら。もしかして後ろの男性に興味があるの?」
「そ…そんなんじゃない!!」
『かずさ』と呼ばれたそのお嬢様はぷいっと正面を向くとそのまま身動き一つしなくなった。
『まぁ、俺には縁の無い世界の住人だな』
もし、この相手が、お金持ちのお嬢様などではなく、外見も身なりも普通だったとしたら、もう少し話を聞いたかも。
そう考えた瞬間、友近は自分の考えを嫌悪した。人を外見や資産で差別しているようで。
落ち着こう、そう思ってまた『あの曲』を聴く。視線を前に移すと母親はまたどこかへ行っているようだったが
さっきまであれほどこちらを気にしていた当の本人は相変わらす身動きひとつしていない。
『やっぱり単なる気まぐれか』
さっきまで自分が嫌悪していたありえない妄想が急におかしくなった。
美人のお嬢様と知り合いになり、支社の同僚や先輩に自慢する。帰国して本社に帰っても事あるごとに彼女と一緒に写った写真を見せびらかす。
「はは…は…っ」あまりにありえなさ過ぎて笑えてきた。どんだけ夢見てるんだよ俺。
「さて…と、そろそろ行くか」
ベンチから立ち上がり、出口に向かう。もう会うことも無いだろう夢の中の知り合いの横を素通りして。
「あ…」
聞こえてきた声に立ち止まってしまった。声のほうに振り向いた。
!……なんなんだよ、そのそのすがるような目は!遠慮がちに伸ばしかけた左手は!ベンチから立ち上がりかけたような少し浮かせた腰は!
まるで捨て犬が去っていくご主人様に追いすがろうかどうしようか迷っているようなその態度は!!
そのくせ俺と目が合うと何事も無かったように座りなおして無視するって、俺をからかってるのか?
もうこれ以上俺の気持ちを振り回さないでくれ!そんな気持ちだった。
「来週末までここの支社にいる。その後帰国するから、用があるならそれまでに連絡をくれ」
ぶっきらぼうに名刺を差し出す。当然、受け取ろうとしないから膝のうえにぽんと放り出すように投げて渡した。
どうせ連絡なんか来ない。ただ、自分が納得したいがための行為。引かれる後ろ髪を断ち切る言い訳。


支社に着いて、一通り挨拶を済ませ、翌日からの業務内容を確認し、一息ついた時、
「友近さん、お客様です」
自分よりも数年先輩であろうその女性社員のあまりに丁寧な対応に戸惑いながらも、案内されるままついて行く。
「え?」
目の前に応接室の扉があった。ここって支社長や重役が特別な来客で使っている場所のはず…
「今度紹介してくださいね」
意味不明な言葉を残し、彼女は去って行った。
そういえば、客って誰なんだろう?そんなことを考えながらドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します…あ…」
今の今まですっかり忘れていた。あまりにもありえないと思っていたから。
目の前の黒髪の美女は深々と頭を下げてから
「空港では済まなかった。母さんに何か言われそうであんな態度をとってしまった。別に大した用事という訳でも…ないんだが…」
そう言いながら、その視線は友近の目ではなくからだのあちこちを彷徨うように動いていた。
「あぁ…これ、別に大したものじゃないですよ。入っているのも一般には知られていないというか素人の演奏だし…」
「分かってる」
その断定的な言葉に少し違和感を感じた。彼女にこれがどんな曲だったか分かったはずが無い。
もとより大音量で聴いていたわけでもないし、あの距離なら分かったとしてもなにか音楽かな?ぐらいのはず。
こちらのあからさまな不信感が通じてしまったのか、
「い…いや…日本の…音楽は暫く聴いてないから…その…あの時急に…聴きたく……なっ…て…」
「ぷっ…」
「な…何がおかしい…!」
「い…いや、失礼。なんかイメージと違うっていうか、かわいいっていうか」
「…!!」
怒ったと思ったらこんどは真っ赤になって俯いた。第一印象とはずいぶん違ってるな。
「すみません、別にからかってるわけじゃないんですけど。あと、これ大切なものだから譲るわけには…」
「あ…いや、それは、あの時は焦っていたからで…一度聴くだけでいいんだ」
「それなら別に構いませんよ。ここで良ければ今すぐでも」
「…!あ、済まない…」
こちらが言い終わるのが待ちきれないといったほどのすばやさで手のものを奪ったあと彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいんですよ、気にしなくて。でもホントに期待しないで下さいよ。
なにしろ大学のゼミ仲間が約2年前の学内のバレンタインコンサートで演奏したやつなんですから」
「ああ… 2年前か…」
彼女は暫くそれを持ったまま見つめると、軽く目を閉じ、ゆっくりとイヤホンを付け、
そこで急に焦ったように目を開けPLAYボタンを探し、見つけると安心したようにそれを押し、また目を閉じた。
その表情を見て、友近は美しいと思った。神々しいとさえ感じた。
演奏が始まってすぐにその表情に笑みが表れた。
「へたくそな…ギターだな…」
それは友近も同感だった。
「いい声…だな…」
これも同感だった。
「届かない…よな…」
歌詞のことだろうか、と思っていたら、聴き始めより少し上を向いていた彼女の目から一筋、涙が流れるのが見えた。

5分、いや、10分は経っただろうか。もとより1曲しか入れていないし、リピートにもしていないから、もうとっくに終わっているはず。
その黒髪の美少女は曲が終わっても身動き一つせず、友近もまた、そんな彼女に見とれるように身動きできないでいた。
「…はぁ〜…」
深く息を吐いた後彼女は目を開けた。そしてこちらを見た。涙で少し潤んだ目を隠そうともせず。
「ありがとう、とても嬉しかった。感謝してる。じゃぁ、あたしはこれで…」
名残惜しそうに、借りたものをこちらへ差し出した。
「出来ればその音源を分けて貰いたいんだが…」
「それは…出来ません。これは、コンサートの主催者から知り合いを通じて貰ったもので、権利とか絡んでくるんで複製は…」
「堅物なんだな…そんなこと言うやつはあいつぐらいだと思ってたんだが…あ…だったら買い取らせてくれ。いくらでも出すから」
その言葉には、ちょっとカチンときた。
「そういう考え方しか出来ないんですか?あなたは何気なく言ったかもしれないけど、金額の問題じゃない。
それに、このプレーヤーは俺にとって大切な想い出の…」
思わず怒鳴ってしまいそうになった。多分、今自分はものすごい表情をしているだろう。
「だからそれはできない」
それだけ言うのが精一杯だった。
もちろん、彼女がなんでも金で解決しようとする人種だなんて思っていなかった。
短い時間でもこうして会って、話して、分かっていた。多分、不器用なんだなって。
「それなら、俺が帰国するまで…とは言えませんが、暫くはお貸しすることは出来ますよ。もちろんお金なんて要りませんから」
「それじゃ、あたしの気が済まない……   
       じゃぁ、提案があるんだが」

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