カサコソという気配を感じて、かずさはまどろみから覚めた。軽く目を射たきつい朝日の光に、思わずもう一度布団をかぶって、そこで、自分が今いる場所を思い出した。そして、今、自分がなにも身に着けていないことも。
「あ、悪い、起こしちゃったか?」
 春希の声が上から降ってきた。もぐりこんだ布団からそうっと顔を出すと、身支度をほぼ終えた春希と目が合ってしまった。
「――おはよう、かずさ。」
「……う――おはよう……春希。」
 屈託なく笑う春希の顔を、かずさは何だかまともに見れなかった。
(あのプロポーズ? の時からずっとこっちのペースだったのに、昨夜はすっかり手玉に取られちまった……悔しい。)
 気恥ずかしさやら何やらでなかなか布団から出られずにいるかずさだったが、春希は何を誤解したのか、急に心配そうな顔になり、
「――大丈夫か……? 昨夜はちょっと大変だったろうしな――しんどいんなら、もっと寝てていいんだぞ? 何だったら、ここに隠れててもいい。子どもたちには、おまえのことは黙っておくし――無理に起きなくてもいい。」
といろいろ気遣ってきたので、かずさは逆にカチンと来て、
「馬鹿にするな! あいにくあたしは、雪菜ほど低血圧じゃないんだ。ちゃんと起きられる!」
と布団を跳ね上げて飛び起きた……その途端に、またあわててうずくまる羽目になった。
「わかったわかった、とりあえず服を着よう――な?」
「う――それじゃ、頼みがある……ひょっとして雪菜の下着、とか、ちょっとでも、残ってないか?」
 うつむいたままたずねるかずさに、春希はため息をついた。
「――悪い、寝間着の類なら、子供らへの形見という意味も込めて、少し残してあるんだが、あいにく下着の類は……。」
「……。わかったよ。あたし着替えるから、おまえは、子どもたちの世話して来い。」
 ――つーか着替える時だけでも出てってくれ。悔しいし恥ずかしいから。
「あ、ああ、わかった……朝食、パンだけど、いいか?」
「――頼む。」
 春希が寝室を出て行ったので、ようやくかずさは上体を上げ、ほうっと息をついてあたりを、そして自分の身体をまじまじと見つめた。
「――あいつ、こんなにあちこち、キスマークつけやがって……そろそろ夏場だってのに……。」
 うれしげにぼやくかずさはもちろん、自分が春希の肩口につけた噛み傷のことも、背中に無数につけた掻き傷のことも、とりあえず忘れていた。

 とりあえず散らかった昨日のパジャマを片付け、仕方ないので汚れがましだった方の下着(昨日一日はいていた奴の方が、風呂上りにはき替えた方よりもまだましだったというのはいったい何なのか?)を緊急避難的に身に着けて、あとは一応きれいに畳んでおいた昨日の服を着込んだかずさが、寝室を出て洗面所に向かう(本当ならこのままひと風呂浴びたいところだが、せめてそれは子どもたちを送り出してからでないと……しかしとりあえず、トイレで下半身をひと拭きしておかねばならない)と、そこには一足先に春華と雪音が顔を洗っている最中だった。タオルを取り合ってなにやら言い争っている姉妹に、一声かけようとしたかずさだったが、急に胸がいっぱいになり、言葉に詰まってしまった。
 ――きっと慣れてしまえば、日常となってしまえば、生活の一部となってしまえば、ただただ邪魔で鬱陶しいばかりだろうこの情景の、なんと美しく、幸福なことか……! 
 そんなかずさに気づいた子どもたちは、最初一瞬けげんな顔をして、それからわっとばかりに飛びついてきた。
「かずちゃん! いたの?」
「かずさおばちゃん、おとまりしてたの?」
 かずさはしゃがみこんで二人を抱きしめ、
「そうだよ――おばちゃん昨日は遅くなってくたびれてたから、おとうさんにおとまりさせてもらったんだ。おばちゃんの母さんは、昨夜は病院におとまりだったしね。二人には黙っててごめんな。びっくりしたろう?」
と説明した。すると春華が、
「じゃあ、今晩はどうするの? 今日ってさ、おとうさんお仕事で遅くなって、ごはんはおばあちゃんで、おむかえはかずさおばちゃんだよね?」
といったので、かずさもふと考え込んだ。
「――んー、どうしよっかなー、かあさん帰ってくるの明日だしな――。」
「おとまりしてよ! 今夜もおとまりしようよ! いっしょにねようよ!」
 雪音が騒いだ。
 ――春希の意見も聞かなければならないが、まあ、それもよいかもしれない……が、今は――。
「うん、悪いけど、とりあえずおばちゃん、トイレに行かせてくれないかな?」
 ――でないとまた、身体の中から、春希のものがこぼれ出してきてしまう。

 ウォシュレットにビデがついていて、本当によかった。

 今晩また泊まるか泊まらないかはさておいて、子どもたちと春希を送り出して後はひとりでゆっくり、というわけにはさすがにいかない。かずさも春希たちが出たその直後に、さっとシャワーを浴び、春希に頼まれたとおり、汗やら体液やらなにやらでぐしょぐしょ(なにやら血のようなものまでもついていた――本来ならそこだけでも軽く手洗いするべきなのだが、かずさにそこまで気が回るはずもない)になったダブルベッドのシーツ(と自分のパジャマと下着)を全自動洗濯乾燥機に放り込んでスイッチを入れてから、北原家をあとにした。
 今日は何かと忙しい日で、いつものように自宅のスタジオで朝から夕方まで練習していればよい、というわけではなかった。午後いちには御宿の事務所で取材が一件はいるから、自主練は3時間ほどで切り上げねばならない。開桜社『アンサンブル』はほとんど冬馬かずさ御用達メディアだったが、かといって他社の取材をまったく受けないわけにも行かない。今日の相手は老舗の硬派雑誌『芸術音楽』だ。おまけにその後は曜子を見舞って、高柳先生のお話も聞かねばならない。となるとまた、子どもたちのおむかえは時間との戦いになる。
「道が混まないといいけどな……。」

「今日の取材、よかったですよー、かずささん!」
 冬馬オフィスの応接スペース。『芸術音楽』のライターが引き上げた後で、コーヒーのお替りを出しながら美代子がにこにこと言った。
「そうかな? あたしとしては、いつも通りのつもりだったけど……むしろ向こうが、ずいぶんフレンドリーで、気を使ってくれてなかったか? 何だか気味悪いくらいに……。」
「そんなことないです。北原さんの――開桜社さん以外の取材で、かずささんがこんなにリラックスして愛想いいなんて、初めてですよ! 驚きました。」
「――だから、特別愛想よくしたつもりは、ないんだけど……?」
 かずさはちょっと当惑した。
 『芸術音楽』は病膏肓の域に達したクラシックマニア向けのマイナーな雑誌で、辛口で衒学的なレコード評・コンサート評で定評がある。隔月刊だから、ソロリサイタルからもう1か月になろうかという今頃取材に来ても、何とかなるということなんだろうか。『アンサンブル』のペースに比べればのんびりしたものだ。しかしながらゆっくり作っている分、掲載された原稿の質は総じて高い。が、演奏家にしてみれば、あんまり愉快ではない記事ばかりだ。
「だいたいあの雑誌がさ、ちょっとくらい愛想良くしたところで、提灯記事書いてくれるわけないじゃん。あたし、あそことは相性悪いんだよ。今回だって「もともと俗受け狙いで軽薄なプログラムを、サプライズ変更で更に軽薄にしたうえ、アンコールではシンガーソングライター気取り」とか言ってせせら笑うに決まってるさ。――ま、そう書かれたって仕方がないこと、あたしはしたんだし。批判は甘んじて受けるよ。」
 ライターの手土産のスイーツをパクつきつつ、かずさはわざと乱暴に吐き捨てたが、美代子はにこにこしながら、
「その割にはかずささん、今とっても楽しそうな顔してますよ? ――今どころか、取材中からずーっと。相手の方にも、その気持ちが伝わったんですよ、きっと。ちゃんとした、いい記事になります。」
「ならいいけどね――まあ、言いたいことは言ったから、ちゃんと。」
「――それが大事なんですよ。上っ面の「愛想」なんか、どうでもいいんです。――さ、そろそろ病院に行かないと。社長がお待ちかねですよ?」
「はあい。」

「かあさん、はいるよ?」
「――どうぞ、開いてるわよ……って、あら、かずさ?」
 ベッドの上で新聞をめくっていた曜子は、はいってきたかずさを見ると目を細めた。
「何だか、今日は、ずいぶん――。」
「なんだいかあさんまで。今日はみんな、なんだか変だぞ?」
 かずさは花瓶の花を取り換えながら笑った。
「――みんな、ね……そりゃ、これだけはっきりしてれば、誰だってわかるわよね――。」
「何がだよ。――それよりかあさん、昨日春希に、なんか変なこと吹き込んでないか? ――ってだけじゃなくてさ、マダムにも、前々からなんか頼みごとしてただろ?」
 花を活け終えたかずさは、曜子に向き直った。
「変な気をつかわなくていいよ、かあさん。――でも、ありがとうな。」
 その言葉に曜子は目を丸くした。
「――やっぱり、なにか、あったわね。――まあいいわ。私は今日もこっちに泊まりだし。あなたは、ゆっくり、羽を伸ばしてなさいな……北原さんのうちで。」
「――っ! かあさん!」
「これまでは、つんとお高い感じがあなたの魅力だったんだけどね――「〈親子のための〉コンサート」だって、ギャップ萌えで売ってたようなところもあるし。でも、今のちょっと柔らかくなった感じも、それはそれでいいかもね。それに、よく見ると、色っぽさも増してるし。うん、悪くないわ。」
「……かあさん。からかってるだろ。」
「からかってるけど、うそはついてないわ。――すごく、きれいになったわよ、あなた。」
 そこへ高柳名誉教授が入ってきた。
「おやおやかずさちゃん、今日は一段と……って、本当にきれいになったな? 何かあったのかい?」
「……。」
 ――顔から火が出る思いだった。

「――ってわけでさ。何だか今日一日、きまり悪い思いの連続だったよ! ――そっちは、どうだったんだ?」
 深夜の北原家のリビングで、甘口のワインをついだグラスをゆらしながら、かずさはたずねた。そう、結局今夜も、泊まることにしたのだ。そして久しぶりに子どもたちに絵本を読んで寝かしつけた後、かずさはひとりで、春希の帰りを待っていたのだった。
「――いや……特になにも――いつも通りだったが?」
 キッチンで軽いつまみを作りながら、春希は当惑して応えた。
「――あたし、そんなに、浮かれてたのかな? 浮わついてたのかな……色ボケてたのかな? ――うっわー、恥ずかし……。」
 少し酔いが回った眼で、かずさはひとりごちた。
「俺には、よく、わからないな……おまえは、いつだってきれいで、色っぽかったし。」
「うっわーっ陳腐。――ダメだ、やっぱりおまえ、センスないわ。」
「言ってろ。――でも、「愛想良い」って言われた、ってのは、面白いな。猫のかぶり方、覚えたのか? なら、俺の前でも少しは、猫かぶってくれないかね?」
「――やあなこった。」
 かずさは春希に向かって「いーっ」としてみせた。
「やれやれ。」
 肩をすくめて春希は、つまみの皿と自分のワイングラスを手にキッチンから出てきて、かずさの隣りに座った。途端にかずさは横に倒れ、春希に身体を預けた。春希は腕を回し、しっかりと支えた。
「――こんなんじゃ、かあさんが帰ってきても、うちに帰りたくなくなっちゃうな……。」
 ポツリ、とかずさが洩らした。
「それじゃあ、できるだけ早く、結婚しようか……。遅くとも麻理さん、橋本さんが日本にいるうちに……簡単に、身内だけでなら、何とかなるだろ……。」
「――そうだな……。とりあえず、早いとこ、引っ越してきてくれ。そしたら、寂しくない……。」
「――うん。」
 ――何とも間抜けな会話のあと、かずさが上を向いてキスをねだると、春希は何も言わずに応えた。長いキスが終わると、かずさはほうっ、と息をついてから、春希の膝へと倒れこみ、股座に顔をうずめてもぞもぞやりだした。
「――こーら、おまえ、なにやってんだ?」
「うるさい――昨日の続きだ。」
「――続き?」
「――雪菜には、してもらったんだろ?」
「……うう――それは、まあ……で、でも、おまえさ――。」
 気が付くとかずさの両手は、春希のズボンのベルトをいじって、はずそうとしていた。
「――雪菜は、こわがった――びびってたか?」
「――うー……いや――最初からびっくりするほど積極的だった……。」
「――おまえ、故人の、しかも最愛の妻のプライバシーをなんだと思ってんだ。ろくでもない奴だな。」
「って、聞いてきたのはおまえだろ! ――ってこらやめろ! 俺まだシャワー浴びてないだろ! せめてそれからに……。」
「うるさい。これは罰だ。お仕置きだ。おとなしくなめられてろ。」
(かずさあ、悪乗りが過ぎるよー。)
とかずさの脳裏ではいつもの雪菜の声がしたが、知らんぷりをした。
 ――と、ようやくかずさは春希の怒張したペニスを、パンツの中から引っ張り出すことに成功した。しばし呆然と見つめていたが、おもむろに両手でそれを握り、おずおずと口づけた。
「――臭い。」
「だから言ったろう、せめてシャワーの後でって……。」
「――臭い。」
 壊れたレコーダーのように繰り返すと、かずさは春希のペニスに愛おしげに頬ずりして、今一度
「臭いよ。」
とうっとりと悪態をついて、正面からくわえ込み、最初はおずおずと、しかしやがてリズミカルにしゃぶり始めた。
 あきらめたのか春希は、しばしかずさのなすがままに任せていたが、結局意を決して無理やりに立ち上がり、
「きゃっ! ――こ、こら、動くな……!」
と怒るかずさを抱き上げて、半ばまでおろされたパンツに往生しながら、どうにか寝室までたどり着いた。そしてそのまま、かずさをベッドの上に乱暴に放り出した。
「何するんだ!」
 噛みつくかずさに、春希はにやりと笑い、
「――よくも調子に乗って好き放題やってくれたな。こっちこそお仕置きだ。」
と言いつつ、服を脱いで裸になると、かずさにのしかかり、乱暴にパジャマと下着をはぎ取った。そんな春希をかずさはまっすぐ目をそらさずに見つめ続けていた。
 いよいよ二人とも素裸になり、春希はかずさを押さえつけて、その眼をのぞきこんだ。かずさは挑むように言った。
「どうするつもりだ。」
「言うまでもないだろ。」
「前戯も、なしでか?」
「必要、なのか?」
 かずさは首を横に振って、さっと両手を広げ、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「――来て……。」
 春希はそのまま、覆いかぶさっていった。

「うう――。まんまとのせられちまった……。」
「ふふん。今日はずいぶん、乱暴にしてくれたな?」
「――そ、それはお前が挑発するから……って、そういう問題じゃないな、ごめん。」
「――? 何で謝る?」
「って、「乱暴」だったから……。」
「乱暴だったけど、ちっともいやじゃなかったぞ? 素敵だった。――それに、あたしがイニシャチブ取れて、ちょっと気分良かったし、な?」
「……言ってろ。」
 ため息をつく春希に、かずさは言った。
「――なあ……たった二度目――いや三度目か――で生意気言うようだけど、あたし、セックスって、特別な儀式か、お祭りみたいなもんだと思ってたけど――いや、そういうセックスもあるみたいだけど――毎日の食事のようなものでも、あるんだな。」
「――んー。そうかもな。」
「――ふふっ、味音痴のあたしが言っても、説得力ないけどな……。でも、子どもたちのおかげで、前よりずっと、食事が楽しくなったよ、あたし。」
「――うん。」
「それに、目先の変わったものを毎度毎度食べても、すぐ飽きちゃう。地味でもちゃんとした食べ物を、好きな人と一緒に食べるのが、一番なんだな。」
「――そこまで言うなら、もうちょっと甘いものを控えろ。」
「そこは譲れんな。ピアニストってのは、めちゃくちゃカロリーを消費するんだ。将棋指しとアスリートを足したようなもんだ。おまけにこれからは、もう一つ、余計な運動が加わりそうだし……な。」
 かずさはいたずらっぽく笑って、春希の胸に指を這わせた。
「明日は、おまえたちは、休みなんだろう……? ――あたしは、いつも通りに弾くけどさ。」
「――この、食いしん坊め。腹八分目が、健康の基だぞ?」
と春希は苦笑いしながら、かずさを抱き寄せ、再びその身体をまさぐり始めた。





作者から転載依頼
Reproduce from http://goo.gl/Z1536
http://www.mai-net.net/

このページへのコメント

fnm8Wb Muchos Gracias for your blog post.Really thank you! Much obliged.

0
Posted by awesome things! 2014年01月22日(水) 01:36:41 返信

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

SSまとめ

フリーエリア

このwikiのRSSフィード:
This wiki's RSS Feed

どなたでも編集できます