大晦日のコンサートに向かったら 第六話

春希のベッドの中、幸せな時間がかずさの中で流れていた。

夢か現実か疑ってしまいそうな時間、しかしその疑いをかずさの腕の中で眠る春希の重みが消す。

春希がいる、三年前、二度と会えないだろうと思った春希が自分の腕の中で眠っている。

春希に恋い焦がれながらも決して触れ合うことはない、そんな虚ろだった心が幸せで満たされるにつれ、少しずつ今の状況を確認する余裕がかずさの中にうまれた。

「(――母さんのコンサート、一曲しか聴けなかったな)」

かずさは曜子の事を、母親としては微妙だが、ピアニストとしては心から尊敬していた。その尊敬するピアニストのコンサートを途中で出て行ってしまったことに、少し罪悪感を覚えていた。

そんな気持ちがかずさに生まれるほど、三年間で二人の距離は縮まっていた。

「(――謝るべきかな。でも春希を隣の席なんかにしたのは母さんだし。そういえば、着替え…)」

かずさは空港で会った女性、美代子を思い出す。社長の娘とはいえ、初対面の自分のために着替えの用意を嫌な顔一つせずしに行ってくれた人。

「(――美代子さん、心配してそうだよな)」

かずさはぽんぽんと眠っている春希の背を優しく叩いた。

「春希、春希」
「…どうした?」
「ちょっとトイレ行きたいんだけど」
「…そういう時は、お花摘みに行くって…」
「知ってるけど、ウィーンに行ってる間に忘れたんだ!」
春希の久しぶりの説教に顔がほころぶ。春希は名残惜しそうに、ゆっくりとかずさの体から離れた。

「すぐ…戻ってこいよ」
「女のトイレの時間なんて気にするな!」
「ごめん…」
「あとそうだ春希、このマンションの名前何て言うんだ?」
「――コンフォート南末次」
「分かった」

かずさはトイレに入ると、ポケットの中の携帯を取り出した、画面のデジタル時計は午前2時30分と表示していた。

「余裕で起きてるな」

Trrrr Trrrr

「――あら、かずさ。ほら美代ちゃん、かずさよかずさ、ね? だから言ったでしょう、大丈夫だって」

「(やっぱり美代子さんに心配かけちゃったか…)」

「それでかずさ、あなた今どこにいるの? あたしのピアノを聴かずにどこに行ったのかしら?」

昨夜、コンサート会場。一曲目が終わり、会場を割れんばかりの拍手が包んでいた。

曜子は観客席に向かい礼をしながら、最前列をそっと見た。

そこには母親に拍手もせずに、泣きながら隣の男の手を握っているかずさと、かずさと周囲の様子を伺いながら狼狽している春希の姿があった。

曜子は娘かずさのあまりの乙女っぷりに呆れながら楽屋に戻った。

二曲目が始まる。再び客席に目を向けると、そこに二人の姿は無かった。

――曜子は微笑みながら観客席に礼をした。それはピアニストとしてではなく、かずさの母親としての微笑みだった。

「――え、えっと、コンフォート南末次ってマンション」
「あんたわざとはぐらかしたわね、そのマンションに住んでるのは誰? 今日あんたのあえぎ声を聞いたのは誰なのよ?」
「知ってるのに聞くな! それとあんたの想像しているような事を今日はしていない!」
「今日は、ね。今日は…」
「あ…」
「やっぱり着替えが必要になりそうじゃない、そのために電話してきたんでしょう」
「そ、そうだよ」
「明日、っていうか今日ね、今日の10時くらいにその辺通るから。そのときに渡してあげるわ」
「分かった。それと…美代子さんに心配かけてごめんって伝えて」
「おっけー」

「なぁ母さん」
「なぁに?」
「まだ母さんにお礼は言えない、何も…解決してないから」
「あはははは! 『何も…解決してない』? そんな深刻そうな事言える声色じゃないわよぉ! 色惚けたあなたのピアノの音にそっくり!」
「――くっ!」
かずさは乱暴に携帯を切りトイレを出ると、ベッドへと戻っていった。

ベッドの中にかずさが戻ると、先ほどと同じように春希はかずさの背中に腕を絡め、かずさの胸に顔を埋めてきた。

「電話か? 何かお前の怒鳴り声が聞こえてきたけど…」

「あ、ああ聞こえちゃったか、そうだ電話だよ」

「もしかして彼氏とケンカ中なのか? それでいま俺とこうして…」

「だから彼氏なんていないって言ってるだろ」

「しつこいか?」

「しつこいね」

「俺の事、嫌いになったか?」

「この程度のしつこさで嫌いになれていたら、あたしは三年間あんな辛い想いをせずにすんだ。母親に、男のところにいるから着替え持ってきて、なんて恥ずかしい連絡をしなくてすんだ」

「――え?」

「少しの間、一緒にいてやるよ。お前が…そしてあたしも…お互いが答えを見つけられるまで…」

「…ありがとう、かずさ」

「おやすみ、春希。それとハッピーニューイヤー」

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