６．５　旧友への電話　／　2015年３月８日

　その夜、春希は眠れない夜を過ごした。恐らくは、かずさもそうだっただろう。
　翌日、春希は朝から一人で、シュテファン・プラッツのオフィスへ来ていた。
　雪菜がウィーンに来る。
　ビデオ・レターを見てから、自分達に会いにくるかもしれない、と思っていた。
　春希は、雪菜と会う前に、あの傷に関して、知っておきたかった。だから、数時間悩んだ末、久しぶりに、二年前まで親友だと思っていた男に、連絡を取ることにした。
　今は12時。日本時間は、午後8時のはず。仕事は終わっているだろうか。記憶していた番号は、変っていないだろうか。
　「飯塚武也さんの電話ですか」
　「そうです」
　「北原春希、です」
　「……よう、久しぶりだな、親友」
　「俺なんかのことを、まだ、そう呼んでくれるのか」
　「ああ。お前が違うと言わないならな」
　「恩に着る」
　「雪菜ちゃんに言ってくれ。俺はお前達を許しているわけじゃない。だが、雪菜ちゃんがお前達のことを未だに親友と呼ぶ以上、俺達が個人の怒りに拘ることは、意味がないからな」
　〝雪菜が、俺達のことを親友と呼んでくれている？〟
　「元気にしてたか？」武也が訊く。
　「怪我や病気はない」
　「それは良かった」
　「武也はどうなんだ」
　「俺は元気だぜ。ビデオ・レターに声が入ってただろう？」
　「そうだったな。依緒も、元気そうだったな」
　「依緒か。たぶん、元気だと思うよ」
　「何だよ。その言い方」
　「俺たちは、昔ほどつるんじゃいないからな」
　「…………」〝何かあったのだろうか？〟
　「ところで、お前が電話してきたってことは、雪菜ちゃんのCDを聴いたってことで良いんだよな」
　「ああ。そうだ。
　それに、昨日、曜子さんが、こっちに来たんだ。雪菜もやって来たみたいで、午後四時、今から四時間後には、雪菜と俺達、会うことになってるんだ。
　だから、その、武也は、俺が何を聴きたくて、お前に連絡をとったのか、分かっているんだろう」
　「恐らくはな」
　「教えてくれ」
　「何をだ」
　「その……」
　「何を知りたいのか、はっきりお前の口から聴くまで、俺は何も言わない」
　「雪菜の背中の傷のこと、だ」
　「ああ、あの傷な……」
　「どうして付いたんだ」
　「何故、そんなことを知りたいんだ」
　「俺に、関係があることなんだろう？
　あのピンナップは、雪菜から俺に向けてのメッセージなんだろう？」
　「そうだな」
　「教えてくれ。俺は、俺のしたことを、すべて知りたいんだ」
　「辛くなるぞ」
　「それでも、知らずに雪菜と会うことはできない」
　「……ふっ」
　「何がおかしい？」
　「おかしいさ。
　なあ、春希、お前は本当に愛する冬馬と二人で生きるために、雪菜ちゃんを捨て、俺たちを捨て、そこまで行ったんだろう？
　今更、何故、雪菜ちゃんに真剣に会う必要がある？
　必要ないだろ？」
　「武也……」
　「冬馬だけ見ていけば、良いんじゃないのか。適当に会って、当たり障りのない昔話だけして、追い返せば良いんじゃないのか」
　「かずさが、言ったんだ。俺達の愛は間違いない。ただ、一時も頭から離れない雪菜のことを、二人の目の前に置かずに過ごしてきたのは、間違っていた、と」
　「……ふ～ん」
　「真剣に取り合わないのなら、もういい」
　「待てよ……、俺の考えていた理由と違うな、と思ってな。俺はてっきり、お前が雪菜ちゃんへの後ろめたい気持ちから、理由を知りたくてかけてきたとばかり思ってたわ」
　「俺については、その気持ちがないわけじゃない。
　でも、かずさにとっては、ビデオ・レターや、あのCDによって、雪菜への気持ちが、申し訳ないという気持ちより、雪菜が俺達にメッセージを送っていることや、雪菜の音楽によって、自分の音楽について、心が動かされているようなんだ。だから、雪菜を求めている、というか」
　「そうか……、冬馬の方が俺より一枚上手か」
　「それは、どういう意味だ？」
　「いや、雪菜ちゃんが言った通りだなと思ってな」
　「ますます分からないぞ」
　「まあ、良いじゃないか。
　そうだな……。じゃあ、話そうか。雪菜ちゃんの背中の傷跡について。
　春希、お前、二年前の2月29日、有海で雪菜ちゃんに会っただろう？」
　「ああ」最後に会った日だ。
　「何か様子がおかしくなかったか」
　「…………」
　〝様子ならおかしかったに決まってる。顔面蒼白で、体調が悪そうな自分のことよりも、俺を気遣って、俺をかずさの元に帰そうとして……〟
　「その前の日に、雪菜ちゃん、事故に遭ってたらしい」
　「事故……、前の日……。かずさと、雪菜が、二人であった日。何故、だ。何故、そんなことに……」
　「お前との別れ話が原因であることは確かだろう」
　「じゃあ……、まさか雪菜は」〝自ら？〟
　「恐らく、今お前の考えているような話じゃない。
　彼女は自分で死を選ぶような、弱い人間じゃない。
　逆に、自分で、自分の弱さを直視できる程、強かったから、春希や冬馬でなく自分に強く責任を求めすぎたから、少し混乱して、無意識に車道にフラフラ出てドスン、だそうだ。
　どうだ。そんな気配、なかったか？」
　「……分からなかった」
　「雪菜ちゃんが、隠したからな。お前らに教えたら、冬馬が動揺するから。そうしたら、初回の評価が芳しくなくて、二回目で挽回を図った冬馬の凱旋コンサートがブチ壊しになるだろう？
　だから、逃げ回ってたんだよ。誰にも知られたくなかったから」
　「…………」
　「今でも、冬馬に伝えるつもりはないと思うぞ」
　「その方がありがたい」
　〝そんなことを知ったら、かずさは、また抱え込んでしまう〟
　「それでお前と別れた後、有海で倒れた。家族が見つけて、救急車で搬送されて。退院まで一か月以上かかったよ」
　「…………」
　〝俺達のせいで、ひょっしたら、取り返しのできない結果になるところだったのか？
　俺達は、雪菜を失ってしまうところだったのか？〟
　春希の背中に、冷たい鉛のような恐怖がのし掛かった。
　急激に胃がキリキリと痛み出し、額に冷や汗が滲んだ。
　「…………」
　「春希、おい、春希」
　「……ああ、すまない」
　「だから、辛くなるぞ、と言ったんだ」
　「……そんなに酷い怪我だったのか」
　「酷かったな。まあ、車にぶつかってあの程度なら、良かった、と、言わなきゃならないかもしれんがな」
　「……後遺症は？」
　「聞いてない。なかった、と思う」
　「そうか……」春希は本気でほっとした。
　「安心したか？」
　「安心はした。だが、あの時、気づいてやれなったことが、情けなくて仕方ない。雪菜に申し訳なくて……」
　「何を言ってるんだお前は……。お前は、雪菜ちゃんを捨てたんだ。
　お前には、情けなさで自分を責める権利なんか無い。
　雪菜ちゃんについて、何か思う権利は、お前にはない」
　「…………」
　春希は黙っていた。武也の言うことが、正しいからだ。だが……。
　「確かに、そんな権利はない。それでも、俺が雪菜のことを、心配するぐらいは、許してもらえないか」
　「…………」
　「だめ、か」
　「ふっ。お前は変らないなあ……。一旦、友人に対して心配が芽生えれば、絶対に放っておけなくなる。のめり込んだら、一直線に手助けしようとする」
　「武也……」
　「まあ、良いんじゃないか。心配するぐらいは、な」
　「すまない」
　「謝るな。その必要はない。……言い過ぎた。
　それに、あの傷について、雪菜ちゃんに詫びを入れる必要はない」
　「だが、かずさが雪菜に尋ねたら」
　「その時には、雪菜ちゃんが上手く濁して説明すると思うから、お前から言う必要はない」
　「分かった」
　「ただ、お前の中で考えてやってくれないか。あの傷を自分達の責任だと、心の重荷に感じるなら、雪菜ちゃんのために、何かできることはないかと。
　愛情は、冬馬にしか捧げられないだろう。今更、そんな所でお前の気持ちが揺れてもらっては、もう既に、周囲の俺達だって困る。だから、愛情以外の何かで、お前が雪菜ちゃんに返せるものがないか」
　「愛情以外の何か？」
　「考えてみてくれ」
　「分かった」
　「なあ、春希。日本に、帰って来るのか？」
　「分からない……」
　「もしも、帰ってくるなら、少なくとも俺と雪菜ちゃんは、お前達を傷つけることはしないと約束する。そして、少なくともビデオ・レターに入っていた人間の中には、あからさまにお前達に敵意を示す人はいないだろうと思う」
　「そう、なのか？」
　「ああ。だが、覚悟して帰ってこい。
　そして、冬馬が傷つかないように気をつけてやれ。
　あいつ、つっぱってるだけで、周りが思ってるより、実は小心者だろ」
　「ああ、分かってる」
　「ところでな、俺は今、実は残業中でな」
　「わ、悪い」
　「いや、連絡があると思っていたから、別に良いんだ。あいにくタイミングが悪くてすまない。またかけてくれ」
　「分かった。そうさせてもらうよ。今日はありがとう」
　「またな、親友」
　切れた電話を、耳に当てながら、春希は思った。
　〝武也は、雪菜から聞いていたに違いない。俺から電話があるだろうと。
　そして、背中の傷について、訊くだろうと。
　そして……。
　ひょっとして、全て、雪菜は計画して、話を進めているんじゃないか？
　そして、恐らくその想像は間違っていないだろう〟
　だが、CDを聴き、あの傷を見てしまった以上、春希には、ここ二年間のように、雪菜と対峙せずに生きることは、できないと思えた。

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