かずさT後の話です


ウィーン 冬馬かずさ宅


「日本からの手紙? 母さんから?」
「曜子さん『経由』で」
 かずさの問いに春希はそう答えつつ、かずさの前で封筒を開けた。
 『経由』を強調したのは、それが曜子が内容確認済みとのことを強調するためだ。
 かずさも春希も日本には関わらないように活動している。連絡先も公開していないので、友人やマスコミからの知らせは基本的に春希たちの元に届かない。
 ただ、一度だけ例外があった。曜子が雪菜からのビデオレターを自分たちのところに送ってきたのだ。
 内容は雪菜が元気であることやちょっとした近況だけのものであったが、そんな便りでもかずさの表情を暗くするには十分であった。
 春希は曜子に「もう仕事以外の便りは送らないで欲しい」とキツく言っておいた。さすがに同じ事を繰り返して来ないだろう。
 日本からの便りにせよ、仕事に関するものだろう。春希のその予想は半分当たりで半分外れだった。
 封筒の中にはさらに封筒があり、その瀟洒な封筒には随分ご無沙汰な差出人の名前が書いてあった。
「国際交流協会・オーストリア日本文化交流センター、早坂…親志?…」



ウィーン王宮 舞踏会場


 七色の光を放つシャンデリアの下にはおとぎの国から持ち出してきたような豪奢な舞踏会場があった。会場に集う老若男女もまた、会場の豪華さに相応しい、卑しからぬ身分の人々だった。

 そんな中、かずさは借り物だが美しいロングドレスに身を包んでご満悦であった。
「いやあ、楽な仕事だな。日本人ファンの夫婦にニコニコして挨拶して、ちょっとおしゃべりするだけで終わり。それで、あとはこんだけ豪華な舞踏会で春希とシャンパンとダンスを好きなだけ楽しんでいられるんだしな」
「まあ、そうだな…」

 ウィーンと言えば音楽の都、というのが一般的に誰もが思い浮かべるイメージだろう。もう少しウィーンを知る者なら思い浮かべるイメージはもう一つある。それは「舞踏会の都」だ。

 元より、ウィーンの成熟した音楽文化は成熟した宮廷文化にその源を有するものである。そして、ウィーンの都では今も世界で最も華やかな舞踏会の数々が開かれている。
 本来社交界の催しである舞踏会だが、今日ではちょっとした紹介があれば、今回春希たちが相手にするような一介の日本人観光客でも参加することができる。

 とは言え、けしてその敷居が低いわけではない。
 ウィーンの王宮で開かれる舞踏会に足を踏み入れる為に必要なものはたったの4つ。
 しつらえの良い正装、簡単な礼儀作法、左回りのウィンナーワルツ、そしてちょっとした紹介だけだ。
 しかしこの「ちょっとした紹介」は、日本人が簡単に手に入れられるものではない。それはウィーンでクラシック音楽家として活動しているかずさについても同じであった。
 もっとも、前の3つを揃えられる位の裕福さと意欲のある者なら「ちょっとした紹介」など、すぐ手の届く範囲内のものなのかも知れないが。

「ま、こんな役得に預かれるのはかずさのおかげさ。ありがとう、かずさ」
「ふふん、どういたしまして、だ。しかし、すごいなあ。たまにはこんな華やかな場所でおめかしして羽根をのばすのも悪くないな」
「ああ、そうだな」
 春希はそんな笑顔を見せたかずさを見て満足げに微笑んだ。
 悩んだが来て良かった。
 かずさを喜んでくれそうだった。それだけが今日この場に来る決意をした唯一の理由であった。

 親志に会う理由などなかった。
 ましてや、「あの男」になど。

「今日相手する宮川夫妻ってどんな人たちなんだ?
 ちょっと会っておしゃべりしたいだけでこんな金かかるお膳立てまでしてくれるんだからかなりのお大尽さんなんだろうけど…。
 春希は知ってる人なんだろ?」
 かずさは春希に聞いてきたが、春希は言葉を濁し適当に答えた。
「ああ…ま、大した知り合いではないよ。どっかの電鉄の傘下で遊園地を経営してる社長さんで、ちょっとした名士だな。奥さんについては幼少のころヴァイオリンをかじっててクラシックが趣味と聞いている」
「ふうん。ま、今でも日本にあたしを覚えてくれているファンがいるもんなんだな。2年前に2回だけコンサートしたきりなのに」
「ちゃんと耳のあるファンは覚えているさ」
「ま、そんな上客さんなら失礼のないようにしておかなきゃな」
「…頼むよ、かずさ」
「? ああ…」

 かずさは春希の口調に何か後ろ暗いものを感じた。実のところ、春希にとってはこの「宮川夫妻」、いや「宮川氏」は二度と会いたくなかった男なのだ。

 10年以上会っていない。今更どの面下げて自分に会いたいなどと言ってきたのだろうか。話しかけたら思い切り他人のフリをして応対してやろう。『やあ、『宮川』さんですね、『はじめまして』。『北原』春希と申します。早坂くんからお話伺っています。『宮川』さんのような高名な方とお近づきになれて光栄です…』そんな挨拶文テンプレートまで用意していた。

 しかし…

 会場の向こうから親志と共に現れたその男を一目見たときにそんな挨拶文は砕けて春希の頭の中から雲散霧消してしまっていた。

 10数年ぶりに会うその男はすっかり自分の記憶にあるものとは変わってしまっていた。
 頭髪は半分以上白くなり、顔の諸処に刻まれたしわは長年の苦労を感じさせた。唇は風化しひび割れつつある岩のようで、頬は強い向かい風にさらされたように削りおとされていた。その眼は苦難を乗り越えてきた者だけが持つ揺るぎない光を放っていた。
 そこには「どこにでもいる父親」の姿も「失踪した前経営者に代わり遊園地を一つ立て直した成功者」の姿もなく、一人の老けた優男がいるだけだった。
 そんな変貌ぶりを見せつつも、自分に注がれる眼差しの優しさだけは変わっていなかった。
 春希の唇から、春希自身この男に対しけして二度と口にする事はないと思っていた言葉がこぼれ落ちた。

「親父…」

 10数年前に春希と母を捨てた男。
 かずさも春希の一言で悟ってしまった。そして、今日会うのが父親だということを春希が隠していた理由も。
「は、春希? お父さん?…なのか?」
「あ…ああっ」
 春希も自身のもらした言葉に青ざめた。かずさにも隠して「関わりたくない知人」扱いしてこの父親を適当に追い払う目論見はたちまち崩れ去ってしまった。

 そこで、うろたえる春希をフォローするように割り込んで来たのは宮川氏の隣にいた親志だった。7年経っても変わらない気安さだった。
「よう。春希、ひさしぶり」
「…ああ。親志、ひさしぶり」
 春希はやや落ち着きを取り戻して答えた。

「ん〜。積もる話はあるけどまあ、俺との話は後にするか。先に宮川夫妻を紹介しておくよ。こちら、岡山桃太郎パークの専務の宮川さんとその奥さん」
 動揺する春希に触れずに距離を置いて接してくれる親志の気遣いがありがたかった。
「どうも、お久しぶりです。…北原、春希です。こちらの冬馬かずさのマネージャーをしております」
「…冬馬かずさです」
 かずさもやや動揺しつつ、頭を下げる。
「どうも、岡山桃太郎パークの宮川季次です。こちらは妻の啓子です」
 春希の父もとおり一辺の挨拶から始めた。この場にいる他の人物に配慮してのことだろう。

 そして、事情を知るあるいは今事情を知った者の配慮が動き始めた。
「あらあら、冬馬かずささん。お会いできて光栄です。わたくし、宮川啓子です。
 日本での公演を聴いて以来の大ファンなんですよ。今はこのウィーンの地で頑張っていらっしゃるんですってねぇ。もう、わたし。お会いできて感動してますわ」
「あ、どうも」
 かずさがこのおしゃべりな中年女性の勢いにたじたじになっているのをフォローしたのは春希ではなく親志だった。
「冬馬はん。このオバちゃん日本立つ前から『かずささんに会いたい』ってうるさくてかなわんかったんや。ちょっと向こうで座ってゆっくり話したってくれへんか?」
 親志は小粋にそう、かずさに言った。

 かずさはちらりと春希を見た。春希の目は先ほどからずっと父親に釘付けであった。
 父親の目もまた春希をじっと見ていた。
 ああ、そうか。かずさは気づいた。この宮川夫人もかずさと話すことが目的ではない。この宮川夫妻がウィーンに来た目的は…
「そうですね。では奥さん。ちょっと向こうへ…」
 全てを悟ったかずさは春希と父親を2人にすべく会場の隅へと去り、親志も席を外した。

 2人きりになると、父親はおもむろに春希に語りかけた。
「すまないな。どうしても会いたかったんだ。おまえに」
「おれは何があっても二度と会いたくなかったよ」
「…済まなかった、と今でも思っている。…恨んでいるか?」
「いや…」
 恨んでいるか否か、で言えば恨んでいるだろう。母を捨て、自分を捨て、他の女のもとへ逃げた父に対する憎悪の炎は10年経とうと消えはしない。
 しかし、父に対する憧憬の念も消えていなかった事に今日気づかされた。
 そしてなにより、どうして自分のような男が父のような男を責める事ができるだろう。…雪菜を捨て、母にも何ひとつ告げず日本を去った自分が…。

「こっちは親父がいなくてもうまくやってた。金ももらってた。文句はない」
 やっとそれだけ言い返した。それに対する父親の悔恨の言葉もまた春希の胸をえぐった。
「お前たちなら大丈夫だということを言い訳にしてすまなかった。お前は私にはもったいないくらいの立派な子だった。なのに、私という男はお前がそんな私無しでやっていける子だということをいいことに…母さんもお前さえいればと…」
「もう、やめてくれ!」

 父親の驚いた顔にハッとした春希は声を荒げてしまったことを恥じて自嘲的に取り繕った。
「…そんなこと言われたら、もっと情けない悪い子にしとけばよかったとか思っちまうじゃねえか」
「すまない…しかし、お前が立派に成長してくれて嬉しいよ…苦労、しているようだな」

 苦労? この俺が?
 もちろん、春希のこの2年の苦労は並大抵のものではなかった。
 たったひとりのピアニストのマネージャーとはいっても、クラシック音楽についてはまるで無知な上に英語しか話せない自分が、営業から付き人まで全部こなさなくてはならない。
 ジョバンニ国際コンクールに入賞したくらいのピアニストもウィーンでは珍しくない。さらにこれが東洋人となるとさらに苦しく、中国人や韓国人ピアニストとのパイの奪い合いになる。

 さんざん引っ張り回されたあげく「こないだ中国人のコンサートやったばかりだからしばらくはいい」と言われるということも珍しくなかった。難解なドイツ語をやっと聞き取ったら春希の専門知識の無さを痛烈に皮肉っていただけだったということもザラだった。そんな出来事の一端でも口にしようとするだけで舌がヒりつく思いのすることばかりだった。
 それでもかれこれ2年でようやく軌道に乗って、遠くから仕事の話も来てくれるようになった。誰かに「苦労しましたね」と聞かれたらそのとおりとしか答えようがない。

 しかし、この父親に言われるほどではなかった。この10余年での父の変わりように比べれば、春希は父親の10分の1程度しか白髪もシワも増えてはいなかった。あのひび割れきった唇から出た『苦労』の言葉の重みには答えようがなかった。
「親父こそ、スキャンダル塗れの実家に帰って苦労したみたいだな」
「ああ…しかし、お前たちにかけた苦労に比べれば…」
 そう言いかけた父親を春希は遮る。
「俺は好きでやってるからいいんだよ。親父だって新しい奥さんとうまくやってるみたいじゃないか」
「…まあな」

 春希は父親との話を早く切り上げたかった。それはこの父親が不快というわけでなく、父の境遇が春希自身のそれとダブり過ぎ、突き放してもすり寄っても、どちらも春希自身の心に塩を擦り込むような痛みを伴ったからだ。
 だから、一番効果的な手段で父親の方から退くように仕向けた。自分ならそこを突かれたら退くしかないようなやり方で。
「俺なんかにかまってていいのか? 新しい奥さんの方が大切なんだろ?」

 そう言われた父親は顔を悲痛にしかめ、絞り出すように言った。
「…一つだけ頼みがある」
「………」
 春希はこの父親からはもう何も受け取る気も関わる気も無かったので沈黙した。しかし、父親が続けて口にした事までは黙殺しきれなかった。
「母さんと、話してやって欲しい」
「…っ!」

 春希は目の前が暗くなる気持ちを堪えた。『母さんを見捨てたお前にだけは言われたくない』そんな言葉はのど元にすら届かず、黒く苦い濁流となって春希の肺から体中に逆流し、春希の血液を凍りつかせて目の奥を灼いた。
 父親は表情を落とした春希を気遣いつつ声をかける。
「母さんは、春希が自分に何も言わずに出て行ったのは自分のせいだと自分を責めている。春希の気持ちもわかる。しかし、母さんが憎いのでなければ、せめて話だけでもしてあげてやれないか?」
「………」

 視界が暗くなる。指先までしびれが走る。汗が冷たい。唇から胃の奥までがカラカラに乾く。父親を怒りにまかせて怒鳴りつけることができればどんなにか楽だったろう。しかし、口からは言葉を出すことはおろか息すらできない。
 そんな春希を見る父もまたつらそうであった。返事もできず、目を逸らして無言を貫く春希にこれ以上迫ることは、一度断絶してしまっていた父親にはできないことだった。
「考えておいてくれ…裏に母さんの連絡先がある」
 父親はそう言ってテーブルの上に名刺を置いた。

「あ、親父…」
 春希はやっと一言絞り出した。
「母さんは…元気だったかい?」

 父はその一言を聞き、少し困ったように春希を見た。
 春希は自分の過ちに気づき、口の中にたちまち黒く焼け焦げた味が広がる思いがした。先の一言を舌に乗せた事を死ぬほど後悔した。
 母が体を壊したからといって会いに行けるのか? 白血病の曜子さんすら置き去りにしてここウィーンにいるというのに。
 逆にもし元気だったら、それを会いに行かない自分自身への言い訳にでもするつもりか?
 そんな矛盾を孕んだ問いを、よりによってこの男の前で口にしてしまった。
 この男にだけは聞いてはならない問いを春希は口にしてしまった。
「母さんは…少し落ち込んではいるが、健康的な問題はない」
「そうか…連絡するかどうかは考えておくよ」
 そう言って春希は後ろを向いてしまった。

 話を打ち切られた父親はしばらく立ち尽くしていたが、春希の心中を察すると一言だけ残して去った。
「春希が元気だったということと、春希が『母さんは元気か』と聞いた事だけは伝えさせてもらうよ。それでは、またな」
 これが親子の最後の会話となった。

 宮川氏が春希のもとから去ると、それを見届けた親志が春希のそばに戻ってきた。
「すまへんな。お客さんからの頼みやったんでね」
「いや…」
「ほんま悪いなあ。いきなり友達面してウィーンまで押しかけてきてもうて」
「いや、すまない…気を使ってもらって」
「なんのなんの。そっちもいろいろ大変みたいやし、お邪魔せんとことは思ってたんやけどな」

 春希は親志の気遣いがありがたかった。親志は自分がウィーンでかずさのマネージャーをしている事情を聞いてこない。事情を知らなければ聞いてこないはずがない状況であるのに。
 ということは、事情を知っていて敢えて触れないでいてくれる。武也や雪菜のことも…

「親志の方も頑張っているようだな。公務員になってるなんて思いもしなかった」
「公務員ちゃうちゃう。団体職員。ま、似たよなモンやけど。外務省さまさまさまやし」
「しかも、文化交流とかって親志に似合ってないなぁ」
「うっさいわ。ほっとけ。ホンマはもう少し陽気な国担当の所に行きたかったんやけどなぁ。何がかなしゅうてヨーロッパくんだりまで来てこんな説教くさい男に再会しなきゃならんねん」
「ははは…」
「しっかし、お前はなんちゅうか…変わったのう」
「はは。老けたかい?」
「おう。オジンみたいやで」
「自慢の男の年輪さ」
 そう。春希にとってはかずさと刻んだこの2年が人生で最も濃密でかつ誇らしい2年であった。
「まあ、元気みたいで何よりやで」
「ああ。親志も元気していたようだな」
 話をしている春希の顔には、かずさ以外の前ではしばらく見せることのなかった笑顔がこぼれていた。

 かずさ以外と日本語で話すのも久しぶりだ。春希はしばらく親志と懐かしい思い出話に花を咲かせた。口喧嘩ばかりの高三の一学期、峰城祭に向けての日々、そして…
 親志はちゃんと、こちらが触れて欲しくない話には触れず、しかし、こちらの話の糸口だけは残しておいてくれた。
 だから、春希は親志を信頼して、敢えてその話の糸口を掴んだ。触れずにはおけない、その話の糸口を…
「なあ。武也や雪菜はどうしてるだろうなあ?」

 親志はにこやかな態度を崩さず答えてくれた。
「武也は元気にやっとるよ。春からは北海道転勤とか言うとったな。なんや、企画の方でバリバリこき使われとるみたいやで。商売繁盛で結構な話やな。
 雪菜ちゃんも元気やのう。面白い肩書きやわ。なんや? ナイツレコード広報部なんちゃら兼…、ああ長すぎてかなわんわ。余分にあるし、やるわ」
 親志は雪菜の名刺をテーブルの上に置いた。

 春希は父親の名刺の隣に置かれた名刺を目を見開いて見つめ、やがて、ほっとした顔をした。それを見た親志はそっと一言、付け足した。
「そういや、雪菜ちゃん。『ウィーン来て会えたら会いたい』言うとったよ」
「…くっ」
「………」

 親志はたちまち表情を歪ませた春希を見て、黙ったまま少々気の毒そうな顔をした。
 しかし、これはあくまで春希の問題だった。親志は春希の立場を十分理解した上で春希の興味の投げかけに対して応えたにすぎない。
 親志は春希の苦悩を黙って見守った。

 春希は父親と雪菜の名刺を凝視し、しばし逡巡していた。
 両親に繋がる糸。雪菜に繋がる糸。なんの因果の繋がりかそのもつれ切れかけた糸の両端が再び春希の手の中に舞い戻ってきた。

 親友であった武也、恋人であった雪菜を裏切って今のような境遇にある春希に、昔と変わらないように接してくれる親志の存在はありがたかった。ウィーンで浮き雲のような暮らしをしている自分たちへの心遣いも嬉しかった。だが…

 春希はテーブルの上の父親と雪菜の名刺を掴むと青ざめた顔で4つに裂いた。

 親志はそんな春希の所業を見ても表情を変えなかった。ただ、青ざめた顔のまま黙りこくっている春希に気の毒そうに、
「あらら。変わったな、春希。仕方ないよな」
と、言っただけだった。

 春希は少しずつ呼吸を落ち着かせた。
 そうだ。仕方ない。
 もつれ、切れかけた糸を少しずつほどいて紡ぎ直せば、いつか昔に自分を囲んでいたような人の輪を取り戻せるかも知れない。
 しかし、そうして輪を取り戻した時、隣にいるのはかずさでないかもしれない。もう、昔に結論付けたとおりだ。
 昔のように…そんな未練を断ち切るために取った行動とは言え、春希の手の震えはなかなか治まりはしなかった。

「ま、手ぶらも寂しいやろから代わりに俺の名刺渡しとくわ」
 親志は自分の名刺を差し出した。
「あ、ああ…」
 春希も自分の名刺を差し出す。そんな社会人にお決まりの動作をとって始めて、春希の手の震えは治まった。

「ま、ここでこうやって再会できたのも何かの縁や。縁は天下の廻りモンやし、お呼びでないお客さん連れてきてもうたお詫びと言っちゃあなんやけど、ちょいと一緒にそこらへん廻ろうや」
「そこらへん?」
「ああ、観光協会のお偉いさんに、新聞屋さんに、外交官の若いあんちゃん。いろいろ面白い人おるよ。奥さんと一緒にどや?」
 ああ、そういうことか。

 春希は本当に親志はありがたいやつだと思った。慣れない異国での営業に四苦八苦している自分の境遇を察してくれている。日本を飛び出し、全て抱え込んだ自分の荷を少しでも軽くしてくれようとしているのだろう。
 だけどな、親志。わかってくれ。一番大切なひとを守るために、あの日まで自分を支え囲んでくれた全部の人を裏切ってしまった自分のような男には、そんな好意を受け取る資格はないんだよ。
 そんな、何の見返りもない好意はもう…恐ろしくて受け取ることはできないんだ。
「…すまない。遠慮…させてくれ…」

「…会っておくべきやと思うけどな。営業的には」
 親志の言うことは至極正論だ。3000円のコンサートに来てくれる客100人を掴むよりも6万円のディナー付き演奏会に来てくれるような上客一人を掴むほうが難しくかつ金になる。親志の申し出を断るのは営業人としては失格だろう。
 何よりここは舞踏会。社交の場、人脈の宝庫なのだから。
 しかし…
「いいんだ。おれは」
「そうか。じゃ、わいも仕事あるし。またな」
 親志はそう言ってすんなり引き下がると、派手な化粧をした女上司のところへ去ってしまった。
 これが結局、親志との最後になってしまった。

 中年の女上司は私用から戻った親志に文句を言った。
「もう。遅いわよ早坂君。舞踏会なんてエスコート男いなけりゃ女は何もできないんだから。冬馬かずささんとの話は終わったのよね? とっとと行くわよ」
「へいへい。ボス」
 親志は女上司と共に人の輪の中へと消えていった。

 親志が去ったのを見てかずさも春希のもとに戻ってきた。
「なあ? いいのか? さっきの、お父さんなんだろ?」
「ああ。もういいさ」
「まったく。春希は親不孝者だな。こんな場であんな不粋なマネはよせ」
 かずさはそう言ってテーブルの上の千切れた名刺をポケットに突っ込んだ。

 春希は笑顔をつくるとかずさに向き直った。
「そうだな。せっかくの舞踏会だ。踊るか」
「ふん…」
 かずさは素っ気なく振る舞いつつ、その春希の一言を待ってましたとばかりに手を伸ばし、わずかに顔を赤らめた。
 春希はかずさの手を取ると、付け焼き刃のぎこちないウィンナーワルツのステップに踏み出した。

「ヘタクソ。リズムに乗れてない」
「悪いな。合わせてくれ」
「お前が合わせろ」
 かみ合っていないようで誰にも離すことも割り込むこともできない2人だけのウィンナーワルツが荘厳なウィーン王宮の片隅をゆっくりとささやかに、いつまでも彩っていた。



日本 都内の某居酒屋


 武也と親志は男2人、サシで飲んでいた。
「なんだって! 雪菜ちゃんの名刺その場で破りやがったって? それでお前、何か言ってやらなかったのかよ!?」
 ジョッキを挙げて憤る武也を柳に風と流し串カツを平らげつつ、親志は答えた。
「ん? 『しかたないな』ってゆったよ」
「くっ…まったく、俺なら…」
「『武也なら』どうこうしたやろ? そんなしがらみない俺やから春希も会ってくれたし、雪菜ちゃんも頼めたんやない?」
「…お前は何のために行ったんだよ」
「春希は元気やと解ったし、こっちも元気やと伝えられた。それだけでよかったんちゃう? 『keep in touch』な仲に戻りたいゆうんは押し付けやし、高望みやわ」
「………」
 武也は黙ってジョッキを煽った。

 親志はくちゃくちゃイカ天を噛みながら続けた。
「今のあの2人に必要なのは支えでも許しでもなく、時間経つことちゃう? そう思わへん? 『忘れてあげる親切』ってのもあると思うよ」
「もういい。わかった」
 武也は諦めたように空ジョッキを置いた。

「俺にとってはお前らの方が心配やわ。武也、来月から北海道やろ?」
「わかったわかった」
 武也が煩そうな顔になるのを見て親志はからかうような口調に転じた。
「期待しとるで。北海道寄ったときはウマいもんとすすきの案内頼むわ」
「ああ。来たときは思いっきり、日付替わっても帰さねえくらい大歓迎してやるよ」
「ほな、よろしゅう頼むわ」
「ああ」

 そんな約束を交わして、武也と親志は店の前で別れた。
 前に会ったのは高校卒業の時。もう互いに社会人なので次は何ヶ月後、何年後に会えるかわからない仲だ。
 しかし、携帯一つでも繋がっていれば昨日も会った友人であるかのように話ができる。
「便利な世の中だよな…」
 武也は携帯を眺めつつつぶやいた。

 しかし、そんな繋がりすら拒んでしまった男には何がしてやれるだろうか?
「これぐらいか」
 ぴっ
《消去しますか?》《はい》
 武也は、もう2年ほど前に繋がらなくなったアドレス情報を削除した。

このページへのコメント

寂しくも尊い、春希たちらしいSSでした。
かずさTのその後としては雪菜や武也とあっさり和解する展開よりも、頑としてその縁を断ち切る、こういう綺麗で寂しい展開の方が合っていると思います。
また中庸で適度にドライという親志のキャラも良かったです。こういう男友達の方が個人的には好感が持てます。

ただ欲を言うならばかずさが北原かずさとして春希父と話す場面も見てみたかったですね。

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Posted by N 2014年07月10日(木) 23:46:10 返信

> RCL/i8QS0氏
どうも。この父親のコンセプトはそのまんまかずさT春希の鑑で設定しました

> SP氏
ええ、実はかずさの目当てはタダ酒で…ってさすがにたまにおめかしして春希と出かけるのをそこまで面倒くさがるほどかずさも引きこもり係数高くないと思いました。かずさの乙女度を少しは信じてあげましょうよ

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Posted by sharpbeard 2014年04月05日(土) 21:36:40 返信

うーん、序盤にパーティを楽しむかずさの態度がちょっと違和感あるかなぁ? そういうの面倒がりそうですが

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Posted by SP 2014年04月05日(土) 12:24:53 返信

なるほどこういう父ちゃんもありか、と思いました。

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Posted by RCL/i8QS0 2014年04月05日(土) 00:02:55 返信

まさしく親志の人物像を固める為にこの短編を書きました。必要なら道化も狂言回しもするが、肩は入れても情は入れないある意味滑稽で中庸でドライな立場がIC以来ご無沙汰なエセ関西人たる親志の立ち位置かなと。
そんな親志の立ち位置なんで、綺麗だけどちょっと寂しい結末を提示しました。
小春や雪菜のようなバイタリティあるキャラに思いっきり感情振り回させて活躍させたら別の結末あるでしょうが、私としてはかずさTの悲哀の良さを甘く塗りつぶすのはまっぴらなので小春や雪菜は全く出しませんでした。
SS書いておいてこんなこと言うのもなんですが、かずさTのその後は丸戸先生が秋に出すらしいミニアフター期待してます

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Posted by sharpbeard 2014年04月03日(木) 23:29:05 返信

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